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2021年01月11日

『国鉄10系客車』

『国鉄10系客車』 国鉄10系客車

[写真・画像]
(上)オシ17 2055(碓氷峠鉄道文化むらで保存。貫通路はオヤ17形への改造時に塞がれた)
(下)オシ17 2055 食堂室内

 国鉄10系客車(こくてつ10けいきゃくしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1955年に開発・試作し、その後量産した軽量構造の客車である。

1 概要
 10系客車は、1950年代に軽量化設計で世界をリードしていたスイス連邦鉄道(スイス国鉄)の軽量客車(Leichtstahlwagen)の影響を強く受けて設計・開発された。[1]
 既成概念を脱却した革新的な設計の導入により、 車両に比べて格段の軽量化[2]を実現し、輸送力増強や車両性能の向上に著しい効果を上げた。また外装面でも、大型の窓を備えるなどスイス流の軽快かつ明朗なスタイルが導入され、国鉄車両のデザインに新風を吹き込んだ。電車・気動車を含むその後の国鉄車両のほとんどは、この10系客車を基本にした軽量構造を採用しており、後続の旅客車両設計に大きな影響を与えた形式と言える。その一方で、車体や台車こそ近代的になったとはいえ、自動空気ブレーキや車軸駆動式の発電装置、並形自動連結器、蒸気暖房など旧来のものを踏襲した部分も多く、車両運用上も1両単位で在来他形式との混結を前提としていた。

1.1 車体軽量化
 従来の鉄道車両の構造では、土台となる「台枠」に強度の相当部分を負担させたのに対し、10系では台枠中央部全長を貫通していた中梁を省略し、台枠側梁、構体、屋根、側板、妻板、そして波型鋼板(キーストン・プレート)の床を組んだ車体全体で衝撃を分散負担する「セミ・モノコック構造(準張殻構造)」を採用した[3]。
 モノコック構造は、元来、重量制限の特に厳しい航空機のために考案されたものであり[4]、戦後の航空技術開発禁止に伴う技術者の移籍により、その理論および設計ノウハウが鉄道車両開発にも移転され、日本の鉄道車両でも実現可能となったものである。
 梁や柱は、重い形鋼の加工品から、薄い鋼板のプレス一体成型品[5]に置き換えられて軽量化と工数の低減が図られ、また溶接の最適化やひずみ除去技術の進歩等によって側板厚の削減(2.3mm→1.6mm)が実現[6]するなど、車体の大幅な軽量化が可能となった。

1.2 台車軽量化
 車体構体に次ぐ重量部品である台車についても、第二次世界大戦後盛んになった高速電車用台車の研究開発成果を受けて、重い形鋼や一体鋳鋼に代えて、プレスした鋼板部材を溶接して組み立てることで重量の大幅な軽減を実現した、軽量構造の軸バネ式台車(TR50形またはTR200形)が採用された。
 だが当時は中長距離輸送の殆どを国鉄が担っていたため、乗客の激しい混雑が当たり前であったこともあり、三等座席車は乗車率200 %での使用も考慮され、枕ばねは軽い車重に不釣り合いな硬いものとされた。「すし詰め」の可能性がある以上、混雑度の低い欧州の鉄道車両のような柔らかいばねを採用することができなかったのである。逆にダンパーは歩留まりや耐久性ばかりが重視され、減衰力は完全に不足していた。これにより、従来形客車では見られない短周期の上下動が常時発生する結果となった。
 高速走行性能については、120 km/hでの速度試験にも耐えたものの、量産時には高速性能よりも混雑時での使用(安全率)に主眼を置いたため、試作車よりもばね定数が上げられ、より硬いセッティングとされたことで、問題をさらに悪化させている。

1.3 その他の軽量化
 その他にも、従来は砲金や鋳鋼が当たり前であった内装金具の軽金属部品への置き換えや、アルミサッシの採用、それにプラスチック等の合成樹脂材料の多用などによって、新素材を活用した総合的な軽量化が施されている。この結果、内装から木材をほとんど廃した「全金属車体」となった。

1.4 構造
 寝台車・特別二等車・食堂車では、板材をプレスした柱を用いて途中で曲げ、車体幅を2.9 mに広げて裾を2.8 mに絞った車両限界一杯の車体断面を導入して居住性を改善した[7]。この方式も、以後多くの車両に採用された。車体上部の雨どい付近の最大幅は2.95 mである。これ以外の車種では側構の裾絞りはなく、車体幅2.8 m、車体最大幅2.86 mとなっている。また寝台車のうち、旧形車の台枠再利用のオハネ17は車体長19.5 mであるが、新製車は車体長20 m(連結面間20.5 m)を国鉄で初めて採用し、後の特急形電車などに受け継がれた。
 スハ43系に引き続き、完全切妻形車体であるが、ウィンドウ・シル/ヘッダーはなくなっている。また寝台車通路側には下降窓を採用した。三等座席車の便・洗面所は、出入台より外の車端に設けられ、客室から離すことで臭気を防止した。

1.5 冷房・緩急車化改造
 本系列は、当初はオロネ10以外非冷房であり、その後の冷房化(ナハ・ナハフを除く)により自重が増して重量記号が変更されたこと、また寝台車の多くは緩急車に改造されたことで、多くの形式が一括して改造・改形式されている。

1.6 運用経緯
1.6.1 全盛期
 10系客車は1955年から1965年まで製造され、座席車・寝台車をはじめとして多数の派生形式が生まれた。
 ただし、動力近代化計画によって昼行客車列車を将来廃止する方針を表明したため、座席車の製造は1959年で中止されて両数も300両あまりに留まった。
 初期には、二等座席車と食堂車が特急「つばめ」・「はと」に導入されたほか、新設の「かもめ」には二・三等座席車が、「はつかり」には二等座席車と食堂車がそれぞれ導入された。その後も急行列車を中心とする優等列車に多数導入され、気動車導入が最優先とされ新製配置が実施されなかった四国を除く、全国の主要路線で幅広く導入された。
 特に信越本線には、牽引定数が換算36両 (=360t) と非常に厳しい制約のあるアプト式区間(碓氷峠)での輸送力増強を目的に重点配備され「在来車3両分の牽引定数で4両連結できる」軽量設計の強みを最大限に発揮し、同線の輸送力強化に大きく貢献した。
 一方、戦前以来の復活となった三等寝台車は、利用者から大いに歓迎され、引き続き大量に増備された。
 一部車両には、遊休化していた車両を改造したものも存在する。食堂車であるオシ17形は、占領軍からの返還や特急の電車化で余剰となった展望車など、3軸ボギー台車を履いた旧型優等客車の台枠流用による改造車として製造された。また、寝台利用者の増加に応えるため、スハ32系二重屋根車など古い二等車や三等車の台枠と台車を流用したオハネ17形(のちのスハネ16形)が多数製造され、高度経済成長期の輸送力確保に大きな成果を上げている[8]。

1.6.2 欠陥の露呈
 しかし、極度に軽量化に徹しすぎたために短所も生じた。軽量車体に見合わないセッティングの台車ばねによる振動・動揺の大きさはその最たるものである。また断熱・保温が構体内に吹付けられたアスベストのみに依存し、窓も大型であるため、内装に木材を多用し窓も小さい従来型客車と比較して保温性が悪かった。
 さらに1970年代以降、薄い鋼板を採用したことによる外板の状態の劣化や、寝台車における一段下降窓[9]が裏目に出て車体下部の腐食が急速に進行[10]、製造から10年あまりで老朽化が目立つようになった。国鉄の労使紛争により保守環境が悪化したことも、状態の悪化に拍車をかけた。
 1971年10月、山陽本線を走行していた急行「雲仙」の座席指定車として使用されていたナハ10形の洗面台から出火し、火元の車両を含む3両が焼失する事故が発生した。この時は屋外での火災だったが、逃げ遅れた乗客1名が煙に巻かれて窒息死した。しかし、この時点では車両に対しての火災対策は、洗面所くず物入れの金属化など軽微なものにとどまった。
 1972年11月、北陸トンネル火災事故が発生し、死者30名の大惨事となった。当初、出火原因が10系食堂車オシ17形の石炭レンジにあったとされたため、事故後、当時急行列車用として残存していたオシ17形はただちに営業運転から外された[11]が、検死の結果、全員の死因が一酸化炭素中毒による中毒死であることが判明し、前年の事故とともに、可燃性かつ有毒ガス発生の危険がある合成樹脂材を10系客車の内装材に多用していることによる防災面での不備が問題視された。
 国鉄では、狩勝実験線での走行試験を含め、実車を使用した火災試験を数度に渡り実施し、現状の内装では火災が広がる可能性が高いこと、また火災対策を実施した車両の、防火性の高さが確認されたため、合成樹脂材からアルミ化粧板への取替えなどの難燃化工事が実施されたものの、急行列車の特急格上げおよび電車・気動車化、さらには新幹線の延伸による急行列車自体の廃止などによってスハ43系客車に余剰が発生したことから、老朽車については未施工のまま廃車された。

1.6.3 晩年
 座席車については、冷房装置付きの12系や14系座席車の急行列車への使用が進んだ1970年代中盤には急行列車運用から撤退し、オロ11形など西日本地区の電気暖房のない車両を中心に廃車が進められた。残された車両は、もっぱら普通列車を中心に使用されたが、客車の根本的近代化を図った50系客車に追われる形となり、中央線飯田橋駅の中央快速線横の車両基地にオユ10、ナハフ11、オシ17、オロ11 22、オハ35とともに長期間使用されず放置され、当時、貨物専用駅として飯田橋駅のホーム南側にあった飯田町駅で引込線専用に使用されていたDD51に入れ替えされていた。1985年3月14日国鉄ダイヤ改正で、全車が営業車としての現役を退いている。
 一方寝台車については、1975年3月の山陽新幹線全通によるダイヤ改正での急行列車の廃止や特急への格上げにより、電気暖房がなく転属の困難な西日本地区所属車から廃車が開始された。さらに翌1976年からは、格下げされた20系客車によって置き換えられたが、電気暖房の必要な列車については適当な代替車もないことから、結局東北新幹線・上越新幹線の大宮暫定開業に伴う1982年11月15日国鉄ダイヤ改正まで急行列車に使用され[12]、普通列車の寝台車として使用された車両も、山陰本線夜行「山陰」運用を最後に上記の1985年3月14日国鉄ダイヤ改正で完全に運用を退いた。

その後は、ナハフ11形2両のみ(2021・2022)事業用車代用(控車)として東日本旅客鉄道の尾久客車区に車籍を残していたが、これらも1995年11月1日をもって除籍され、日本の営業路線上から完全に姿を消した。

2 形式各説
※2000番台の番号は電気暖房付の車両に付される番号

2.3 食堂車
・オシ17形 - 食堂車 1956年 (1 - 25, 2051 - 2055)
 車幅拡大により、日本の食堂車で全テーブル4人がけ・定員40名とした初めての形式。その後の国鉄食堂車の基本構造を確立し、電車・気動車の食堂車にも大きな影響を与えた。従前の食堂車は片側のテーブルが2人がけで、最大定員30名であった[21]。
 日米講和条約の発効に伴い占領軍から順次返還されつつあった展望車や食堂車など、戦前製3軸ボギー式客車の台枠を流用し、長野、高砂の両工場で車体を新製した。
 4人がけ実現のため車両限界いっぱい (2,950mm) まで最大幅を広げ、裾を絞った車体断面で、当初より床下搭載のディーゼル発電機を電源とする冷房装置を搭載した。[22]
 厨房内については、マシ36形→カシ36形で試みられた電気レンジの失敗から、完全電化は時期尚早と判断され、マシ35形以前と同様の「石炭レンジ」[23]を搭載し、冷蔵庫も旧来の氷冷却式であった[24]。
 台車は、この形式にのみ採用された新造の近畿車輛製シュリーレン式(円筒案内式)台車[25][26]であるTR53形を装着するが、唯一10については、TR53形を基本として近畿車輌で試作された空気ばね式のTR57形を装着して竣工し、来日したタイ国皇太子の乗用列車に連結された。
 新製当初は、東海道本線の特急列車「つばめ」「はと」、そしてそれらに続いて東北本線・常磐線に新設された特急「はつかり」に導入されたが、1960年にこれらが電車・気動車化されたあとは全車急行列車用に転じ、増備車を含め、老朽化した戦前製3軸ボギー式食堂車の淘汰に充てられた。しかし1960年代後半には東海道新幹線の開業に伴う夜行急行の廃止、あるいは夜行急行の特急格上げに伴う20系客車への置き換えにより余剰車が出始め、1972年3月には東京 - 西鹿児島間の最長距離急行「桜島」からも連結が中止された。さらに同年11月には、本形式中の1両、2018が北陸トンネル火災事故の出火元となった[27]ことから、事故後は直ちに全車の使用が停止され、2両が教習車オヤ17形に改造された他は、すべて廃車された[28]。オヤ17形に改造されたうちの1両、2055が塗装と表記類のみ復元され、碓氷峠鉄道文化むらで保存されている。因みに鉄道模型のKATOは北陸トンネル火災事故の当該車両であるオシ17 2018をNゲージ製品化したことがある。

・ オシ16形 - 食堂車 1962年 (1 - 3, 2004 - 2006)
 夜行急行の寝台設置・解体中における、乗客の待避場所とするために製造された、テーブル席とカウンター席を併設したサロン室付きビュフェ車[29]。冷房付。オシ17形と同様に長野・高砂工場の手になる戦前製客車からの台枠流用・車体新製車であるが、こちらの台車はオハネ17と同様に、改造種車にかかわらず、一般仕様車である1 - 3は乗り心地の改善のために種車のTR23形をスハ43形に装備し、捻出したTR47形に交換。TR23形との振替が行われたスハ43形はオハ47形に形式を変更している。電気暖房装備車である2004 - 2006は種車のTR23形を流用した。電気暖房車は車重がややかさみ、TR47を装備すると車重が「オ」級から「ス」級に上がって、列車牽引定数の点で好ましくなかったためである[19]。車体新製時から冷房付であったため、台車がTR47形に統一されることはなかった。 加熱調理器具は石炭コンロに代えて電気コンロと電子レンジが採用され、その電源として冷房用とは別に、床下にディーゼル発電機を1セット追加搭載した。だが、それでも発電容量の制約から電子レンジと電気コンロの同時使用はできなかった。この形式も急行列車の特急格上げが進んだことから、1972年3月のダイヤ改正で運用がなくなり、1973年2月までに全車廃車された
[30]。なお当時は「サロンカー」とも称されていた。

2.4 郵便車
2.5 荷物車
2.6 職用車
2.7 試験車
2.8 救援車
3 保存車両
4 タイ国鉄への新車輸出車両

5 脚注
[1]^ スイス連邦鉄道の軽量客車は、1937年に試作車が製造され、1939年より量産が開始された。なお日本で10系客車の試作が開始された1955年の段階で、スイスでは既に1,000両を超える軽量客車が就役していた。
[2]^ 三等座席車の場合、ナハ10形900番台が自重23.0tで、量産車でも23.8tに収まった。それ以前の標準型であったスハ43形の自重が33.5tであるから、これと比較して約30%減、換算両数にして約1両減という驚異的な軽量化が実現した。折戸式の客用扉や寝台車通路側の下降窓は、設計陣が欧州視察の際に強く影響された箇所で、是非とも日本で実現したかったものといわれているが、欧州と比較して設計の経験が浅かったため、前者は破損頻発により量産時に見送りとなり、また後者は、雨水や鉄粉の進入を許し、車体腐食を早めることとなった
[3]^ ただし、在来型客車から台枠を流用して製造されたオハネ17形、オシ17形、オシ16形は、完全新造軽量客車同様の上部車体を持つが、床部分の強度は在来型の中梁を持つ台枠に依存するため、波型鋼板床板は採用せず、中梁ありの台枠上に木材床板を張る在来工法を踏襲、その上から化粧床材を張っている。
[4]^ これを可能とするワグナーの張力場ウエブ理論などの重要な基礎理論は、日本でも航空界には早くから伝えられ、1930年代から航空機設計に広く用いられたが、航空技術を鉄道車両の軽量化に転用・応用しようと考える鉄道関係者は、戦前の日本にはほぼ皆無であった。軽量化技術が最も進んでいた気動車設計ですら、基本的な構想においては、台枠のみで強度を負担する従来の設計から一歩も踏み出しておらず、各部材のスリム化・薄板採用によって軽量化実現と強度・寿命の減少をトレードするレベルに留まった。
[5]^ さらなる軽量化のため、強度上不要な部分に軽め穴が開けられていた。これもスイス国鉄向け軽量客車で先行して採用されていた技術の一つである。
[6]^ もっとも、軽量化に対する要求が厳しかった気動車では1.6mm厚側板が戦前より標準的に用いられていたので、それを援用したともいえる。
[7]^ 『鉄道ピクトリアル』No.670、13頁。
[8]^ 台枠等流用車は完全新造の軽量客車に比して重量はかさむものの、国鉄工場での製作による労働力活用と既存部材流用で、メーカーへの新車発注よりも初期コストを抑えながら車両増備ができるメリットがあった。
[9]^ 水抜き穴が不十分で、溜まった水が抜けきらず腐食を招いた。
[10]^ 工場で検査のためジャッキアップしたところ、車体が崩れ落ちかけたこともあったという。
[11]^ 調査の結果、出火原因が喫煙室の暖房装置の過熱による火災であったことが判明したが、食堂車が再び連結されることはなく、オシ17形はそのまま営業運転に復帰せずに、事故に伴う保全命令が出された1両と事業用車に転用された2両を除いて廃車となった。
[12]^ 北海道地区では、置き換え用の14系客車の耐寒化改造工事が完了する1983年夏まで使用された。
[19]^ 電気暖房車は追加した電気暖房関連の機器で重量が1t程度増加する。軽量客車とはいうものの郵便車や食堂車、非冷房のオハネ17は重量等級の上限値ギリギリで製作されていたため、これらでは運転上の制限を避けるため荷重制限やあえて乗り心地の劣る軽めの台車の存置などの配慮があった。逆に言えば冷房化や郵便車への電気暖房の設置は重量等級の引き上げが避けられない代わり実際の重量増加分はひとつ上の重量等級の上限値からはかなり余裕が出来たため、台車種類の制約や荷重制限といった運転扱い上の配慮の必要もなくなった。
[21]^ 導入当初は、厨房で皿が必要数並べられないなど、従来の定員での調理作業に慣れた従業員には混乱があったという。
[22]^ それまでの食堂車に用いられた客車用冷房装置はいずれも、直接または間接的に車軸動力を用いたものであった。
[23]^ 「故障の心配がない」として選ばれた石炭レンジであるが、本形式(急行「雲仙」)に乗務した宇都宮照信は著書の中で、上り「雲仙」の朝食営業準備は時間的に瀬野八の上り勾配にかかってしまい、登攀中は速度が下がるため煙突の通風が悪くなり石炭の着火が難しかったこと、すすによる燃焼不良のため(非電化区間の駅停車中とはいうものの)営業中の列車屋根に登り急遽煙突掃除をしたことがあったと記している。無論このようなトラブル対応は電化区間では一切できない。
[24]^ 電気レンジの搭載(厨房完全電化)は20系のナシ20形で実現した。
[25]^ シュリーレン式は本家スイス国鉄のLeichtstahlwagen用台車で標準的に採用されていた軸箱支持機構であり、それゆえ本形式は日本の国鉄が製造した軽量客車のうち、台枠を除けばオリジナルの構造に最も忠実な仕様となった。
[26]^ なお当初は台車も種車のTR73形3軸ボギー台車を流用しようという案もあったが、重量や床下スペース占有の点で難があり、ボギーセンターを変更して2軸ボギー化されている。なお3軸ボギーのままでの形式はスシ58と決められていた。
[27]^ 事故に際し、車籍上は台枠流用元の客車製造年である「1928年製」と報じられたことから、実態を理解していない一般層からは「製造後40年以上を経過した老朽車で安全対策を欠いた結果の問題」として批判されたが、車両の実質は製造後15年程度相当であり、むしろオシ17へ改造された際に装備されたビニール素材等の燃焼時安全性不備や、電気配線が実際の経年に比して早期に劣化したことが問題であった。
[28]^ 事故車の2018は、事故の裁判で証拠物件となり、裁判終結後の1981年まで車籍があった。また2051は、除籍後に裁判用の参考資料として、1981年頃まで金沢運転所に留置されていた。この他、同時期まで2016が、龍ヶ森駅(現・安比高原駅)構内にあったヒュッテとして使用されていた。
[29]^ ただし、車両標記は他形式同様「食堂」である。
[30]^ 一部は新幹線36形食堂車の開発に際してのアコモデーションの参考として1975年頃まで尾久客車区に留置されていた。

6 参考文献
・広田尚敬 写真『国鉄車両形式集8 栄光の国鉄車両哀惜のエピローグ 客車・貨車』(山と溪谷社、2007年) ISBN 978-4-635-06828-4
・『鉄道ピクトリアル アーカイブス セレクション 10 国鉄客車開発記 1950』(電気車研究会、2006年)
・林 正造「軽量3等車ナハ10形の概要」(初出:『鉄道ピクトリアル』1955年12月号 No.53) pp.84 - 88
・星 晃「3等寝台車の復活」(初出:『鉄道ピクトリアル』1956年5月号 No.58) pp.89 - 94
・電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1999年6月号 No.670 特集:国鉄形(10系)軽量客車・座席車編
・電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1999年4月号 No.667 特集:国鉄形(10系)軽量客車・寝台車編
・電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2017年2月号別冊:国鉄型車両の記録 10系軽量客車
・中村光司「ナロハネ10形式の或る物語」
・星野俊也「10系寝台車の形式を見る」、「10系寝台車の冷房改造」
・イカロス出版『季刊 j train』2007 Autumn Vol.27 特集:寝台急行・急行荷物列車 pp.39 - 49
・西橋雅之・石橋一郎『荷物車・郵便車の世界 昭和50年代のマニ・オユの記録』(クリエイティブ・モア、2003年)
・桜井貴夫「10系軽量客車 保存車について」
・交友社『鉄道ファン』1999年1月号 No.453 pp.113 - 115
・曾小川久和「新型車両性能試験車と測定装置」
・電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1970年9月号 No.241 pp.30 - 32
・小西正一「強度振動試験車スヤ112001」
・電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1970年9月号 No.241 pp.33 - 35
・交友社『鉄道ファン』1980年7月号 No.231 特集:国鉄の事業用車2

7 外部リンク
・10系客車-http://www.jnrsite.net/PC/10k/htm/10k_frm.htm
・東海道に新威力(昭和30年12月14日) - 日本映画新社・朝日ニュース昭和映像ブログ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋
最終更新 2020年11月27日 (金) 11:23 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


旧型客車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 旧型客車(きゅうがたきゃくしゃ)とは、日本国有鉄道(国鉄)の客車のうち、10系以前に製作された客車の便宜的な呼称である。旧形客車とも表記する。略して旧客。在来形客車・一般形客車とも呼ばれ、その呼び方から一般形に分類されることもあるが、正式な意味で分類されるものではない
最終更新 2019年9月30日 (月) 02:25 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

≪くだめぎ?≫
 「国鉄20系客車」はこの"10系軽量客車"を元に開発された「ブルートレイン」である。10系客車自体は1両単位で在来他形式との混結を前提としていた。よって、旧型客車・在来形客車・一般形客車・一般形とも分類される客車だ。
 さて、食堂車として「電気レンジ」本格的に採用は"完全電化"20系客車からであり、「石炭レンジ」・旧来の氷冷却式冷蔵庫など旧型客車を色濃く残していた。
 1969年(昭和44年)から急行用車両12系客車が製造されたが、もし同一の電源用機関に搭載にして完全電化が叶えられば、火災事故は抑えられたかもしれない。もちろん、そうなれば新製車並に改装されていただろうし、事実上12系客車の一員の電源車になっただろう。12系は臨時列車用のモノクラス編成な訳だし。
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Posted at 2021/01/11 15:24:00

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