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2021年01月25日

『動力近代化計画』

『動力近代化計画』 [写真・画像] 国鉄キハ81形
大阪交通科学博物館において静態保存されているキハ81 2
作成: 2006年7月27日

動力近代化計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

動力近代化計画(どうりょくきんだいかけいかく)は、日本国有鉄道(国鉄)の保有する鉄道車両の動力を近代化する計画。具体的にはエネルギー効率が低く燃料費がかさむ上、大量の煙のために安全性や快適性に問題がある蒸気機関車を計画的に廃止・淘汰する(動力源の近代化)とともに、旅客車については原則として電車もしくは気動車に置き換える(動力方式の近代化)という内容。国鉄内部に設置された動力近代化調査委員会が1959年(昭和34年)6月20日に答申し、翌1960年(昭和35年)から実行に移された。また、鉄道関係者からは蒸気機関車の淘汰によって不快な煙から解放されることを意味する無煙化という表現もされた。

1 計画当時の状況
 明治時代から昭和初期にかけて建設された国鉄の路線は、ほとんどが蒸気運転であった。電化計画は明治時代より模索されており1919年には、主要幹線や勾配区間、水力発電を生かせる箇所などの大規模な電化計画が閣議決定されるなど、近代化と蒸気機関車の撤廃に積極的であった。[1][2]。しかし、関東大震災と昭和恐慌により予算が降りず、戦時下に突入すると電化に当時の陸軍幹部の根強い反対意見があり(変電所が被害を受けると列車が走れなくなる)、当初の構想に反して戦後においても1958年(昭和33年)の全営業キロ約2万 kmに対し、電化されていたのは2,237 kmに過ぎず、非電化区間の動力車は蒸気機関車が4,514両、ディーゼル機関車が118両、ディーゼルカーが1,486両であり、蒸気機関車が非電化区間の主力であった[3]。蒸気機関車の熱効率は約5 %で、1950年代のデータで電気機関車が約30 %、ディーゼル機関車が約20 %とそれらと比較すると著しく低い[4]。そのため運転に際し大量の石炭を消費し、単位走行キロ当たりの燃料費が高い。また走行距離に応じて給炭と給水が必要になるほか、石炭の燃えかすを排出する必要があるため長距離運転には不向きであり、これらにより1日当たりの走行距離も低く設定せざるを得ないため、所要機関車数が多くなる。これらはいずれも鉄道経営にとって大きなマイナス要因となる。下表でもディーゼル機関車の車両単価は蒸気機関車より高いが、燃費や必要車両数を考慮すると経営面ではディーゼル機関車が有利となる。更に大量の煤煙を発生するため、安全性や快適性において他の動力車に比べて大きく劣っていた。

・長大トンネルでは、トンネル内にこもったばい煙を適切に排除しないと酸欠状態になる。例えば、急勾配で出力が必要な篠ノ井線の冠着トンネルでは、特殊な排煙装置が装着されていたが、それでも運転関係者の窒息死事故が発生したことがある。
・窒息に至らなくてもばい煙は不快であり、トンネル内では真夏でも窓を閉め切る必要があった。当時の列車には一等車・食堂車などを除いて冷房はなかった。
・大量のすすによる汚染の問題

●DD51形ディーゼル機関車とC61形蒸気機関車の燃費と走行距離の比較(電化前の東北本線のデータ)[5]
 形式 DD51形 C61形
・走行km当たりの燃料使用量 3.5 17.4
・燃料単価(円) 13 5.7
・燃費(円/km) 46 99
・1日当たりの走行距離 357 284
・車両価格(万円) 6,300 3,300

2 計画の概要
 当時、イギリスやオーストラリア、アメリカなど発展先進国(第二次世界大戦の戦勝国)は蒸気機関車の淘汰を推進していた。日本でも国鉄の財政改善と安全性や快適性の向上を目的に、既存の電化路線に加えて15年計画で主要幹線5,000キロを電化し、残余はディーゼル化をし、蒸気運転を廃止する、電化は交流を原則とする計画であった。国会では20年計画案も持たれたが、先進諸外国と比較して遅すぎるという意見が多かったため、15年計画とされた。また、電化、ディーゼル化ともに旅客運行は機関車牽引ではなく動力分散方式主体になったが、諸外国からの批判も多かった[注 1]。予定された投資額は4,865億円だが、蒸気運転を継続した場合にも取替え改修費に3,640億円かかるため増加分は1,125億円となるが、上記のように無煙化により大幅な経費削減(年間310億円)が見込まれるため経営改善に大きく寄与すると想定された(金額は全て当時の価格[6])。
 計画の策定時期には下記の諸条件が計画の内容に反映された。

・ 当時フランスなどで進展していた交流電化に倣って、国鉄内部でも1953年(昭和28年)から交流電化調査委員会が設置され、1955年(昭和30年)の仙山線で交流電化の実験成功に続き1957年(昭和32年)から同線の実用電化が始まっていた[7]。
・電車化においては、カルダン継ぎ手を採用した新性能電車101系は試用中であったが、1950年(昭和25年)に登場した80系湘南型電車による東海道線での運用実績、特に終着駅での折り返しの容易さによる運用効率向上と運転速度の向上があった[8]。
・ディーゼルカーにおいては、液体型変速機を採用したキハ45000系気動車が1953年から量産され、特定線区の無煙化に貢献していた。

 日本の鉄道は山岳路線が多いことに加えて地盤が比較的軟弱で、機関車方式で高速化、輸送力強化を図るためには大きな軸重を支える軌道の強化に多大な資金が必要とされ、また曲線通過性能および登坂能力が劣る(機関車が空転すると立ち往生する)という問題があった。プッシュプル方式も、折返しは電車並に手際よく行なえても曲線通過の際の安全性に問題があるとの理由で採用されなかった。従って、動力分散方式の方が編成単位で5 %程度製造コストが割高になるものの、加減速性能が優れるために表定速度が10 %程度速くなるほか、機関車の付け替えおよび機回しが不要になるために運用効率が優れている(結果として運行コストが削減できる)ため、電化、ディーゼル化ともに動力分散方式が有利とされた(動力分散と高速鉄道も参照)。この方針に基づいて動力方式の近代化も併せて実施されることになった。

3 計画の進展
 この方針に沿って電化およびディーゼル化が進められ、当初計画どおり15年後の1975年(昭和50年)度をもって、国鉄の営業用車両から蒸気機関車は、すべて引退することになった。蒸気運転による定期列車の運行は1975年12月で終了、構内の入換用に残った蒸気機関車も1976年3月ですべて仕業を退いた。蒸気機関車の全廃は早い方が経営への効果は大きいことから、1967年の国鉄常務会では予定を繰り上げて昭和48年度末(1974年3月)での全廃が定められたが、国鉄の財政難による車輌製造の遅延等により、その後の計画の見直しで結果的には当初の予定どおりの無煙化達成となった[9]。
 国鉄向けの蒸気機関車の新製は、1949年(昭和24年)のE10形を最後に中止された。また電化やディーゼル化の進展は幹線から行われたため、地方の路線では大正生まれの8620形などが老朽化の問題を抱えながらも使い続けられることになった。その間にも8620形の後継機としてC63形の構想や計画もあったものの、設計図を作成した段階で計画そのものが中止された。この問題を解決するために、幹線で働き場所のなくなった大型蒸気機関車の軸重を軽減して地方路線に投入できるようにする改造が行われ、C59形の改造でC60形が誕生するなどした。しかしながら、大型の蒸気機関車は石炭の消費量が大きい(燃費が悪い)という問題があってあまり歓迎されず、こうした改造は少数に終わって、大型で新しい蒸気機関車よりも小型の古い蒸気機関車が最後まで働き続ける結果となった。

3.1 計画開始時の問題点
 1955年(昭和30年)に実施された仙山線での交流電化試験が予想以上に好調だったため、1957年(昭和32年)から始まった北陸本線の電化計画は急遽交流方式へ変更された。1960年(昭和35年)から始まった動力近代化計画では、電化は交流方式を原則とするが、直流との境界は適正に定めると明記された。交流電化は実用化検討中に開始されたため、技術的には不十分な点も多く、1957年の北陸本線の交流電化のED70形では初期故障が多発し、1959年の東北本線黒磯-福島間の交流電化のED71形でも運転の安定化までにかなりの期間を要した[10]。交流用車両において必要とされる整流器の本命とされたシリコン整流器が本格的に採用されたのは1961年に製造を開始したEF70形から[注 2]で、動力近代化計画策定時点ではまだ存在していなかった。
 またディーゼル機関車についても当時の本線用主力機は電気式のDF50形が中心であったが、蒸気機関車D51よりも非力であるため強力な後継機が必要であった。本命となったDD51形の登場は1962年(昭和37年)であり、このため、本計画では電化区間と非電化区間、直流区間と交流区間を適正に設定するために必要なコスト計算の根拠があいまいであったとされる。その影響もあってか、1961年(昭和36年)から1964年(昭和39年)に電化された山陽本線(倉敷 - 下関間)では全区間直流方式とされた[11]。

4 計画の推移
 幹線および亜幹線区間の電化は、全体的にはほぼ予定どおり進行した。直流電車はカルダン継ぎ手を採用した101系に続き、1958年には151系特急電車「こだま」が実用化され、その後は直流電化区間の電車化が進展した。交流区間は1961年に北陸本線用に生産されたEF70形がシリコン整流器を搭載して量産され、続いて交流機の標準型とされるED75形が大量生産された。その後これらの機関車に搭載されたシリコン整流器を電車に搭載した交流電車や交直両用電車が中距離電車から特急電車まで大量に生産された。ディーゼルカーは液体変速機搭載の一般型に続き、特急用キハ80系気動車が1960年に、急行用のキハ58系気動車が1961年に登場し、非電化区間の気動車化に大きく貢献した。機関車では本線用のDD51形が1962年に登場して貨物列車や客車の牽引を蒸気機関車から引継ぎ、中型機として1966年にDE10形が誕生して支線区間の無煙化推進に当たった。蒸気機関車が最後まで残った閑散ローカル線用には1971年にDD16形を製作して無煙化を完成させた。
 ただし、当初計画されていた交流電化区間の電車化および非電化区間の完全気動車化は資金面、運用面(当時は鉄道による郵便荷物輸送が行なわれていた[注 3])の問題および組合側の反対(入れ替えおよび機回しに係わる職員が不要になる)により、国鉄時代は実現されなかった[注 4]。これらの問題によって無煙化直後に50系客車など当初の方針と矛盾するような車輛を新造することを余儀なくされ続けた。

●車両在籍数推移[12]
 年度 1955年 1960年 1965年 1970年 1975年 1980年
・蒸気機関車 4,897 3,974 3,164 1,601 15 5
・電気機関車 522 794 1,369 1,818 2,051 1,856
・ディーゼル機関車 6 245 582 1,447 2,204 2,109
・客車 11,330 11,412 10,362 8,711 6,725 6,176
・電車 2,969 4,534 9,084 12,481 16,502 17,696
・ディーゼルカー 785 2,227 4,595 5,371 5,326 5,038
・貨車 105,843 118,729 142,258 149,485 120,597 99,562

 その後、直流区間との直通運転の関係で製造コストが割高な交直流電車が普及したため、交流電化の経済性に大きな疑問が持たれた。そのため、北陸本線富山以東及び鹿児島本線荒木以南の電化時には見直しが検討されたが、運転取扱いが至難であることと直流切替への改修費が莫大であることを理由に結局交流方式のままとされた経緯がある[13]。しかし、その後の山陽新幹線博多開業及び東北新幹線開業によりJR発足以降も交直両用方式を必要としているのは、長距離の旅客列車に関しては特急ひたちと特急サンダーバード、特急しらさぎ、特急いなほ系統と数少なくなっている。ただし、貨物列車においてはこの限りではない。
 国鉄時代の交流専用電車は711系や781系等数少なかったが、JR発足以降は複数の会社に乗り入れる列車が削減されたことから、新開発された交流専用車の方が交直両用車より圧倒的に上回っている。一方、貨物列車を牽引する電気機関車においては、逆に国鉄時代は交流専用機が多数を占めたが、民営化後は複数の旅客鉄道会社に乗り入れる列車が増えたことからほとんどが交直両用車の製造となり、交流専用機の製造は北海道新幹線の開通に伴う海峡線の架線電圧昇圧への対応用であるEH800型の20両のみである。
 電化計画路線のうち長崎本線や佐世保線、日豊本線南宮崎 - 鹿児島間、千歳線、室蘭本線沼ノ端 - 室蘭間は1975年(昭和50年)の動力近代化計画終了時に電化が実現しなかったが、1980年(昭和55年)までに順次電化された。また函館本線函館 - 五稜郭間はJR発足後津軽海峡線の一部として1988年(昭和63年)3月に電化された。
 21世紀に入ってからも電化は続き、筑豊本線黒崎 - 桂川間も篠栗線と共に2001年(平成13年)10月6日に電化された。また、電化計画路線にあげられている宗谷本線の旭川 - 永山間のうち、旭川 - 北旭川間(移転した旭川運転所構内)については車両基地への電車の回送列車のみであるものの、2003年(平成15年)3月に電化された。函館本線の五稜郭 - 新函館北斗間は、2016年(平成28年)3月の北海道新幹線(新青森 - 新函館北斗間)開業時にあわせて電化された。
 しかし、電化計画路線にありながら函館本線新函館北斗 - 長万部間と室蘭本線東室蘭 - 長万部間および沼ノ端 - 岩見沢間、筑豊本線の通称:若松線の電化は現在でも実現していない。これはエネルギー革命に伴って石炭の輸送量が減少したことと関係している。その反面、水戸線、御殿場線、外房線、内房線[注 5]、桜井線等、計画になかったが、電化が実現した線区も存在する。
 なお、高山本線は地元の陳情により、本計画直前の1958年(昭和33年)にディーゼル化が推進され、1980年(昭和55年)には全線の電化工事も起工されたが、国鉄の経営悪化により1985年(昭和60年)頃に中断し、キハ85系をはじめとする気動車による高速化を実施した。

4.1 客車列車の廃止および淘汰
 動力近代化計画のもう一つの柱である客車列車の電車化・気動車化は無煙化が終了した1976年(昭和51年)の時点で、優等列車に関しては(静粛性等の点で客車が優位とされた)夜行を除いてほぼ完了していた[注 6]ものの、前記のとおり普通列車には地方線区を中心に多くが残存し、その状態がしばらく継続した。しかし、客車普通列車の存続理由の一つであった郵便荷物輸送の衰退、地方線区で機関車を共用する機会のあったヤード集結形貨物の全廃(1984年2月1日国鉄ダイヤ改正)、長編成低頻度から短編成高頻度への運行形態の転換、および新幹線開業によって余剰となった急行形電車・気動車などの優等列車用車両の転用により、昭和57年11月15日ダイヤ改正より機動性に勝る分散動力車両への置き換えが段階的に進められた。1986年11月1日国鉄ダイヤ改正で荷物輸送(郵便郵送は改正の1か月前に終了)が一部の例外を除いて終了したこと、国鉄分割民営化に際して客車の置き換えに反対する組合員の多くがJR旅客鉄道会社に採用されなかったこと、機関車は旅客鉄道会社と日本貨物鉄道が個別に保有する形になったこと[注 7]でその動きが加速した。2002年に津軽海峡線の快速「海峡」の廃止により、昼間の定期列車から客車は完全に撤退した。以降は夜行の優等列車のみに客車の定期運行が残ったが、利用者の航空機・高速バスなどへの移行による利用の低迷やさらなる新幹線の開業に伴って夜行列車の削減が進んだ結果、2016年3月に急行「はまなす」の廃止によって、JRの定期列車から客車の運行が消滅した。さらにJR東海においては機関車牽引の列車そのものが事業用列車も含めて全廃され、完全に動力分散方式に移行している。
 計画において目指された旅客列車動力方式の近代化は、開始から56年をかけて実現したことになる。

5 脚注
5.1 注釈
[注 1]^ 実際、上記諸外国においては今日においても機関車牽引やプッシュプル方式などの動力集中方式が主流である。
[注 2]^ 1960年製造のEF30形もシリコン整流器であるが、関門トンネル連絡用の特殊設計で交流では全出力を発揮しないものであり、整流器の容量が小さい
[注 3]^ 荷物・郵便輸送においては、大都市部ではこれらの車両のみで編成される専用列車が多かったが、地方部では専用列車を運行するほどの需要がないため旅客列車に荷物車・郵便車を混結していた。これらの車両はそのまま幹線系の荷物列車に連結して継送するため直通運用を行う線区の郵便・荷物輸送は客車で行う必要があった。
[注 4]^ 動力の種類によって動力車操縦者の免許、整備資格、配置区(主に一般形と急行形の気動車は機関区に、電車は電車区に配置される)が異なる。動力方式の切り替えや新形車の導入のたび、合理化(職場や人員の整理)を推進したい本社や各鉄道管理局と、それによって雇用が脅かされるとする労働組合が対立し、折衝に多大な時間と労力を要するようになっていた。
[注 5]^ 内房線、外房線の電化は、需要の他に鹿野山測地観測所の地磁気観測に影響があることから、この時点では直流電化は不可能とされていた。
[注 6]^ 1975年3月10日国鉄ダイヤ改正の時点で、定期の昼行優等列車で客車を使用していたのは、函館本線の急行「ニセコ」1往復のみであった。
[注 7]^ 民営化後の旅客鉄道会社が営業列車運行用に製造した機関車は、JR東日本によるEF510形15両と、JR九州がななつ星in九州のために製造したDF200形1両のみである。

5.2 出典
[1]^ 「日本の電車物語 旧性能電車編 創業時から初期高性能電車まで」pp62.65
[2]^ 「日本の鉄道史セミナーpp98.99
[3]^ 『日本の鉄道史セミナー』 171頁。
[4]^ 『鉄道車両を知りつくす』 川辺謙一 学習研究社 76頁。
[5]^ 『日本の鉄道史セミナー』 177頁。
[6]^ 『日本の鉄道史セミナー』 172頁。
[7]^ 『日本の国鉄』 168頁。
[8]^ 『日本の国鉄』 169頁。
[9]^ 浅原信彦「国鉄蒸気機関車略史」『Rail Magagine』2015年5月号(No.380)、ネコ・パブリッシング
[10]^ 『日本の鉄道史セミナー』 168頁。
[11]^ 石原米彦「山陽・鹿児島本線の電化方式について」『交通技術』第13巻第10号、交通協力会、1958年。
[12]^ 『日本の鉄道史セミナー』 179頁。

6 参考文献
・『鉄道ジャーナル』1996年11月号
・久保田博『日本の鉄道史セミナー』グランプリ出版、2005年
・原田勝正『日本の国鉄』岩波書店<岩波新書>、1984年

7 関連項目
・交流電化
・SLブーム
・日本の鉄道史
・ヨンサントオ
・鉄道の電化
最終更新 2020年12月29日 (火) 12:55 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


鉄道車両の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋
11 動力分散と高速鉄道
 一方、蒸気機関車を単純に電気機関車・ディーゼル機関車に置き換えるのではない、別の無煙化の道が日本で実施された。日本では、軟弱な地盤の関係もあり線路の制限軸重が厳しく、重量のある機関車を高速走行させることは難しかった。このため、編成全体に動力を配置した動力分散方式を用いた電車・気動車方式を中心として発展させていく方針が採られた。コスト面では動力集中方式に劣ると見込まれたが、運用効率がよいことでカバーできると考えられた。
 1950年から、東京 - 沼津間に80系が投入され、湘南電車として運転を開始した。それまで短距離の通勤・通学目的の列車に限定されていた電車が、初めて客車列車を置き換える目的で投入され、120 km以上の長距離を客車列車並みの長大編成で運転されるようになった。車内の設備も客車と遜色がない設備が用意された。
 1958年には151系が投入され、東京 - 大阪の電車特急「こだま」として運用を開始した。大戦前のイタリアでETR200型が長距離特急用に開発されていたことに次ぐものである。これにより長距離の優等列車でも電車が積極的に用いられることになった。
 気動車の面でも開発が進められ、1961年にはキハ81系が投入され、上野 - 青森間に「はつかり」として運転を開始した。これにより、気動車もまた長距離優等列車として用いられるようになった。
 こうした動力分散方式の車両開発のひとつの到達点として、1964年に東海道新幹線が世界最初の高速鉄道として開業した。東海道新幹線は、全電動車方式の0系を用いている。200 km/hを超える最高速度での営業運転やその列車本数の多さ、在来線と完全に独立したシステムなど多くの点で世界で初めてで特徴的なものであった。
 日本における高速鉄道の成功は、航空機と自動車に押されて鉄道が斜陽化しつつあったヨーロッパに大きな影響を与え、まずフランスで高速化の取り組みが始まり、当初は在来線の列車の200km/h走行から始まって、1981年には新幹線よりも最高速度の速いTGVが開業した。しかしTGVでは動力集中方式が採られ、日本の動力分散方式まではヨーロッパに波及しなかった。1991年にはドイツでICEが運転を開始している。
 当初は電車に直流電動機を使用していたため、保守に手間が掛かることがヨーロッパで動力分散方式が嫌われた大きな理由となっていた。しかし1990年代に入りVVVFインバータ制御が実用化されると電車に交流電動機が用いられるようになり、保守の手間はあまり問題とならなくなった。また回生ブレーキの技術が用いられるようになると、さらに動力分散方式が有利となり、ドイツでは2000年にICE 3が電車方式で開発された。動力集中方式に拘っていたフランスでも動力分散方式のAGVが開発されるなど、次第に動力分散方式が普及する傾向になっている。

13 参考文献
・久保田 博『鉄道工学ハンドブック』グランプリ出版、1995年、初版(日本語)。ISBN 4-87687-163-9。
・伊原 一夫『鉄道車両メカニズム図鑑』グランプリ出版、1987年、初版(日本語)。ISBN 4-906189-64-4。
・『最新 電気鉄道工学』電気学会電気鉄道における教育調査専門委員会、コロナ社、2000年、初版(日本語)。ISBN 4-339-00723-4。
・江崎 昭『輸送の安全からみた鉄道史』グランプリ出版、1998年、初版(日本語)。ISBN 4-87687-195-7。
・齋藤 晃『蒸気機関車200年史』NTT出版、2007年、初版(日本語)。ISBN 978-4-7571-4151-3。
・齋藤 晃『蒸気機関車の興亡』NTT出版、1996年、初版(日本語)。ISBN 4-87188-416-3。
・『鉄道電化と電気鉄道のあゆみ 創立30周年記念』鉄道電化協会、鉄道電化協会、1978年、初版(日本語)。
・青木 栄一『鉄道の地理学 鉄道の成り立ちが分かる事典』WAVE出版、2008年、初版(日本語)。ISBN 978-4-87290-376-8。
・ヴォルフガング・シヴェルブシュ『鉄道旅行の歴史 19世紀における空間と時間の工業化』加藤二郎訳、法政大学出版局、1988年、初版(日本語)。ISBN 4-588-27641-7。
最終更新 2020年4月15日 (水) 00:10 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


鉄道の電化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋

鉄道の電化(てつどうのでんか)とは、鉄道の動力を電気にすることである。
4.2 日本
 電気軌道では、路面電車系統では1895年(明治28年)に京都市で京都電気鉄道が開通しているが、一般の鉄道では甲武鉄道(現在のJR中央本線)が1904年(明治37年)に飯田町 - 中野間を電化したのが始まりである。当時の電化には、600V(京都電気鉄道などのように500Vの所も一部存在)の直流饋電が採用されていた[1](というより用いないといけなかった[注釈 17])。甲武鉄道は1906年(明治39年)に国有化され国有鉄道初の電化区間となった。以降、大正期は山手線など東京都市圏での通勤電車の走行を目的に実施され、昭和初期には城東線(現在の大阪環状線)など大阪都市圏でも実施された。
 一方私鉄では蒸気機関車運行だった南海鉄道(後の南海電鉄)が1907(明治40)年から電化を始め、1911年(明治44年)には60㎞以上の区間の電化を完成させるなど国有鉄道より長大な電化区間が誕生し、この時期国有鉄道にもなかった総括制御付きのボギー車(電2形、1909年)や、貫通扉や便所のある電車(電3・電附1形、1911年)導入など、この当時は私鉄の方が電化に関しては先進的な面が強かった[30]。
 もっとも国鉄側も手をこまねいていたわけではなく、1912(明治45)年に煤煙問題に悩まされていた碓氷峠を電化し、初の電気機関車の導入、1914(大正3)年には、京浜線(現在の京浜東北線)の電車運転開始に際し輸送量増加に伴う電圧降下防止に昇圧されることになり、当時の技術などを考慮した結果それまでの600Vから1200V(ちょうど2倍の電圧なので電動機の直列並列を切り替えれば従来の600V区間との直通もできた)が使用され、その後技術向上もあってさらに電圧をあげられるようになり、1922年(大正11年)に出された東海道本線の全線1500V電化の計画[注釈 18]に先立って試験を行い、その結果を私鉄にも公開した所、同年の大阪鉄道が私鉄で初めて1500V直流電源を採用(河内長野-布忍間)し、東海道線電化以後開業の私鉄は基本的に1500Vを採用するようになり、国鉄も京浜線・中央線・山手線を1931年(昭和6年)までに1500Vに昇圧した[31]。
 時系列的に少し戻るが、昇圧のきっかけとなった東海道本線電化計画は試験機関車が来る前[注釈 19]から丹那トンネルの開通まで見越して(実際の開通は1934年)東京から国府津まで1500V直流で電化(1925年)したが、その後は東海道線の電化は一時考えないで大阪付近の輸送量が多い地域の電化や清水トンネル・仙山線といった長大トンネル付近の電化を優先的に行い、手間取っていた丹那トンネルの工事完了後は再び東海道線電化も考えられたが戦争が起こり電化工事は戦後まで持ち越されている[32]。 (これら以外では関門トンネル(1941年(昭和16年))、外地の朝鮮総督府鉄道京元本線の福渓 - 高山間(1944年(昭和19年)なども電化)
 こうした限られた部位のみの電化は当時の軍部が国有鉄道を建設・運営する鉄道院・鉄道省に対し、戦時に変電所を攻撃されると運転不能になることを理由に、基本的には非電化とすることを主張していたと言われているが[注釈 20]、国鉄の技師であった朝倉希一によると電化の遅れについては軍隊の話は一切出ず「イギリスから輸入した電気機関車のトラブルとそれに伴う高コストが電化を遅らせた」としている[注釈 12]
 なお、一から路線を作る予定だった「弾丸列車計画」(後に東海道新幹線として帰結する)でも東京-静岡・名古屋-姫路の2か所のみを直流3000Vで電化し、ここ以外は当面非電化による蒸気機関車牽引予定で[33]、そのために大型の蒸気機関車の設計がいくつか行われていた[34]。
 この時期は私鉄でも電化工事が進み、1927年には小田原急行鉄道で82km、そして1929年・1930年には関東の東武鉄道と関西の参宮急行電鉄で立て続けに、130kmを超す当時としては異例の長距離電車が運行され[注釈 21]、目黒蒲田電鉄・宮城電気鉄道・富山電気鉄道など当初より電気軌道の利便性を兼ね備えた電気鉄道の開業が相次いだ。 (外地も含めると金剛山電気鉄道の鉄原 - 内金剛なども長大電化区間になる)
 こうした大手の私鉄と異なり中小私鉄では戦前は電化ではなく内燃動車で効率を上げたところも多かったが、太平洋戦争の影響でガソリンなどは配給制(闇市場でも高騰)になったため内燃動車に頼れなくなり、蒸気機関車が復帰を始めるも、戦争末期から石炭も品質が低下し数量確保さえ困難な時代[注釈 22]に成ったため、石炭産地の北海道と九州以外の非電化私鉄は燃料の確保に支障をきたすようになった。
 これに反し電気事業の進歩は著しく発電力は戦前以上に進んだため、中小私鉄でさえ多少の投資をしてでも電化した方が採算が合うと電化に踏み切ったところが多かった。
(特に昭和21年から26年(1946 - 1951年)は電化の件数が多く、1946年1月の近江鉄道八日市線から、1951年12月の長岡鉄道(後の越後交通長岡線)の大半まで、(既存電化区間有無にかかわらず)一部分の電化や軌道・貨物線も含めると24社[注釈 23]もあり、大半は十数km程度の電化だったが、大井川鉄道39.5km、長岡鉄道31.6km(翌年残り2kmも電化)と30km以上も一度に電化している鉄道も存在している[注釈 24]。)
 しかし、その後はドッジ・ラインによる金融引締めが始まり電化工事の資金繰りが困難になった事、さらに燃料事情が好転、石油類の安定供給ならびに気動車の普及に伴い、非電化路線の電化事例は1954年(昭和29年)の三岐鉄道を最後に、約20社程度に留まった[注釈 25][注釈 26]。
 国鉄でも組織内部のみならず参画院方面からも鉄道電化が要望されることとなり、十河信二が国鉄総裁の時、3000kmの順次電化計画のため電化委員会が設けられ、蒸気運転の状態において電気と蒸気の経済比較の結果、直流1500Vでも十分電化運転が有利で、交流なら(地上設備を減らせるので)なお有利となった[注釈 27]、1950年代以降、多くの路線が電化されていき、東海道本線については1956年(昭和31年)11月19日、米原 - 京都間を最後に、支線を除く全線の電化が完了した。これを記念し、1964年(昭和39年)に鉄道電化協会がこの日(11月19日)を「鉄道電化の日」に制定した(→日本の鉄道史・1956年11月19日国鉄ダイヤ改正も参照)。
 また、直流饋電は多くの地上設備が必要でありコスト高となるため、電化が遅れていた東北、北陸、九州、北海道の電化を今後進めることも見越して、1954(昭和29)年から仙山線で商用周波数による交流電化の試験が開始され、1957年には同じく交流電化試験を行った北陸本線と共に、仙台 - 作並間 (50 Hz) と、田村 - 敦賀間 (60 Hz) での営業運転がはじまる[1]など実用化され、その後北海道・関東の太平洋側と東北・北陸(新潟周辺除外)・九州などに広がった[注釈 28]。戦後の電化は東海道本線を皮切りに、山陰地方を除く本州と九州で進められて行ったが、一方で北海道と四国の電化区間は短区間に留まった。特に四国では国鉄時代は国鉄分割民営化直前に本四備讃線開業に合わせて香川県内の一部区間で実施されたに過ぎない。 分割民営化後も引き続き電化区間の延長が実施されているが、内燃動車の性能向上により必ずしも電化の必要はなくなっている。2018年現在、JRの在来線は北海道、東北、北陸、九州を中心に交流2万V(海峡線は交流2万5千V)饋電が行われているほかは直流1500V饋電、新幹線はすべて交流2万5千Vである[1]。

6 脚注
6.1 注釈
[注釈 12]^ 原文「東海道線電化の一部として東京-国府津間の電化のために一括してイギリスに注文した機関車の品質が悪く、安全運転さえできなかった。(中略)多くの改造の結果使用に耐える状態になったが、電化論者の主張は完全に裏切られ、電化は高価であることを事実上に示した。これが国鉄の電化の実施を遅らせた大きな原因となった。」((朝倉1979-11)p.104)
[注釈 17]^ 当時の「電気事業取締規則及び電気鉄道電機取締規則」で電気鉄道は直流電圧600V以下という制限があり、これ以上の高電圧が使えなかった。
[注釈 18]^ 「東海道線全線を大正17年までに電化する」というような計画が出され閣議決定、東京-国府津の東海道本線と、国府津-熱海の熱海線がまず電化されることになっていた。((福原2007)p.62)
[注釈 19]^ なお、電気機関車無しでも電気動力運行を始めるつもりだった証拠として、すでに国産技術が確立した電車で100㎞近い長距離に対応できるようにしたデハ43200形が計画だけではなく実際に製造されている。(ただしデハ43200形は関東大震災による被災復旧に回され、実際にこの目的には使用されないまま終わっている。)
((福原2007)p.62-63「1-13 木製電車の最後を飾った伝説の名車」)。
[注釈 20]^ 東海道全線即時電化論者の内田信也は鉄道大臣時代に東海道本線の電化を目論み、東久邇宮稔彦王に陸軍を押さえるよう頼んだが、押さえることはできなかった。『喜安健次郎を語る』1959年、34-36頁
[注釈 21]^ なお、戦前日本で最長の距離を走る電車列車は1912年(昭和12年)より豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鉄道をまたがって運行された豊橋-辰野間の196㎞。
(ただし、伊那電気鉄道は他と架線電圧が異なり1200Vなので、戦後の1955年に昇圧を行い電動車も直通可能になるまでは付随車だけ乗り越しで電動車は天竜峡駅で交代。)
同区間は戦中の1943年(昭和18年)に国有化されて飯田線になっているので、国鉄でも戦後80系電車に更新されるまではここが最長の「電車列車の運行区間」であった。
((福原2007)p.108「戦前期の最長距離電車運転」)
[注釈 22]^ 『交通年鑑』昭和25年版161 - 163ページによると、昭和22年時点の石炭の質は戦争の影響がほぼない昭和11年と比較して熱量が「6450kcal/kgから5350kcal/kg」、完全燃焼前にボイラーから出て熱量の損失になる粉炭率が「37-38%から70%」に悪化。そしてここまで低質になったにもかかわらず価格はインフレもあり282倍に高騰した。
[注釈 23]^ 電化順に近江鉄道・富山地方鉄道・淡路交通・福井鉄道・栃尾鉄道・大和鉄道・弘南鉄道・三重交通・土佐電気鉄道・下津井鉄道・大井川鉄道・北陸鉄道・流山鉄道・小坂製錬小坂線・秋田中央交通・遠州鉄道・住友別子鉱山鉄道・伊予鉄道・東濃鉄道・栗原鉄道・相模鉄道・十和田鉄道・松尾鉱業鉄道・長岡鉄道。 なお、相模鉄道が大手私鉄扱いになったのは1990年からで当時は含まれない。
[注釈 24]^ どちらも水力発電所が盛んな地域の鉄道である。
[注釈 25]^ ドッジライン自体は昭和24年から開始だが上記のデータは電化工事完了日時なのでずれがある。(『交通年鑑』昭和27年度版、交通新聞社、p.350・351)
[注釈 26]^ なお、茨城県ではそれとは別に石岡市柿岡にある気象庁地磁気観測所での地磁気観測への影響回避のため直流電化ができないから非電化が多く残っている。
[注釈 27]^ なお、これにかかわった朝倉希一によると、この時には「蒸機・電機共に機関車を新造する」という前提で計算したため、厳密には現状の機関車を使用できる蒸気運転はもう少し低コストに見積もるべきで、1921年にミルウォーキー鉄道に調査に行った際「電化で不要になった蒸気機関車を全部下取りに出すから電気機関車購入のコスト(同鉄道では全電化費の半分)は実質半分ですむ」というそこまで中古の機関車が高く売れるのか怪しい情報を聞かされたのを思い出したほか、電化の進展が速くなると蒸気機関車の他地域の転用ができなくなるのでそこまで楽観視するべきかどうかと指摘した所、部外の委員がこの調査でよいと言われて承認することにしたという。((朝倉1979-5)p.118)
[注釈 28]^ なお、既存直流区間も「(地上設備を減らせる)3000Vに昇圧させるべきではないか」という案が1975年頃から出たが、わが国で多い電車方式では(イタリアに3000Vで電車使用例があるので不可能ではないものの)高電圧の絶縁が厳しくなること、改造する車両数と電力設備が莫大なことから見送られた。((持永2012)p.32)

6.2 出典
[1]^ 宮本昌幸著、『鉄道の科学』、講談社、2006年6月20日初版第1刷発行、ISBN 4062575205
[30]^ (福原2007)p.48-49「1-7 ボギー車の連結運転と阪和間の運転(南海電1~3形)」
[31]^ (福原2007)p.65-66「1-14 架線電圧の変異と黎明期の電灯電力供給事業」
[32]^ (朝倉1979-5)p.117
[33]^ (齋藤・杉田2007)p.39
[34]^ (齋藤・杉田2007)p.32-37

7 参考文献
岩・沙克二・菅建彦『鉄道の百科事典』鉄道の百科事典編集委員会、丸善出版株式会社、2012年、p.1-58、第1章「鉄道学入門」1.1「鉄道の起源と発展史」。ISBN 978-4-621-08462-5。
フ・ランコ・タネル『ヴィジュアル歴史図鑑 世界の鉄道』黒田眞知・田中敦・岩田斎肇訳、株式会社河出書房新社、2014年。ISBN 978-4-309-22609-5。
福・原俊一『日本の電車物語 旧性能電車編 創業時から初期高性能電車まで』JTBパブリッシング、2007年。ISBN 978-4-533-06867-6。
持・永芳文・他『鉄道技術140年のあゆみ』持永芳文・宮本昌幸、株式会社コロナ社、2012年、p.23-188、第2章「電気鉄道と電力供給の変遷」第3章「鉄道車両の変遷」。ISBN 978-4-339-00832-6。
デ・イビット・ロス『世界鉄道百科事典』小池滋・和久田康雄訳、悠書館。ISBN 978-4-903487-03-8。
齋・藤晃・杉田肇『幻の国鉄車両』岡田秀樹、JTBパブリッシング、p.30-37「幻の広軌新幹線(弾丸列車)計画に登場する蒸気機関車」(齋藤)・38-43「幻の大陸連絡広軌新幹線(弾丸列車)の電気機関車」(杉田)。ISBN 978-4-533-06906-2。
朝・倉希一「技術随筆 汽車の今昔5「6.鉄道の電化」」『鉄道ファン』第19巻第5号(通巻217号、雑誌06459-5)、株式会社交友社、1979年5月1日、 112-118頁。
朝・倉希一「技術随筆 汽車の今昔11「11.広軌改築論、12.蒸気機関車を送る」」『鉄道ファン』第19巻第11号(通巻223号、雑誌06459-11)、株式会社交友社、1979年11月1日、 p.102-105。
大・塚和之「ジーメンスの電気機関車第1号」『鉄道ファン』第19巻第11号(通巻223号、雑誌06459-11)、株式会社交友社、1979年11月1日、 78-86頁。
最終更新 2021年1月11日 (月) 16:08 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 「東京・大阪間を結ぶ高速旅客列車にガソリンカーをあてる構想もあった」ことから、戦前から動力分散化が始まっていた、と言えるかもしれない。"ガソリンカー"から「ディーゼルカー」に変わるのは以後の歴史の通り。
 戦争末期から石炭不足になり、1949年(昭和24年)のE10形を最後に国鉄向けの蒸気機関車の新製は行われていない。以後は既存の蒸機を改造しただけである。私鉄に至っては大手私鉄は初期から電車運転、戦後一時期に地方私鉄は電化ブームになった。
 1953年から『国鉄キハ10系気動車』(キハ45000系)が量産されて、これでスタートして既存の電化路線に加えて15年計画で主要幹線5,000キロを電化し、残余はディーゼル化をし、蒸気運転を廃止する(1975年昭和50年)とゴール地点が決められた様なモノ(1960年(昭和35年)から実行)。私はスケジュール的に無理な「ディーゼル機関車・ディーゼルカー」の開発が、新幹線開発と同時に行われたことが"国鉄赤字"の一つだと今でも思う。
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Posted at 2021/01/25 16:24:19

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