
名神高速道路
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名神高速道路(めいしんこうそくどうろ、MEISHIN EXPRESSWAY)は、愛知県小牧市の小牧インターチェンジ (IC) を起点とし、岐阜県、滋賀県、京都府、大阪府を経由し兵庫県西宮市の西宮ICへ至る、高速道路(高速自動車国道)である。通称名神高速(めいしんこうそく、MEISHIN EXPWY)、名神(めいしん)、新名神高速道路と特に区別する場合には旧名神・現名神など。なお、小牧IC - 吹田ジャンクション (JCT) 間はアジアハイウェイ1号線「AH1」にも指定されている。
高速道路ナンバリングにおける路線番号は東名高速道路ともに「E1」が割り振られている[1]。
[写真・画像] 天王山トンネル 上り線右ルート入口 (天王山トンネル入口 大阪側)作成: 2012年7月19日
路線延長 189.5 km
開通年 1963年 - 1965年
起点 愛知県小牧市(小牧IC)
主な
経由都市 一宮市、大垣市、米原市、大津市
京都市、高槻市、吹田市、尼崎市
終点 兵庫県西宮市(西宮IC)
1 概要
東名高速道路・新東名高速道路・中央自動車道・伊勢湾岸自動車道・新名神高速道路・東名阪自動車道・名阪国道・西名阪自動車道とともに、東京・名古屋・大阪を結ぶ日本の大動脈の一つである。路線はほぼ中山道に沿って建設されている。
小牧ICで東名高速道路(東名)と直結し、かつ車線変更・合流・分岐が不要な形での直通が可能な構造で、ICの番号やキロポストも東京ICからの通しとなっているため、実質的には東名と合わせて一つの高速道路と見なして「東名神」(とうめいしん)と呼ばれることもある。
栗東IC - 尼崎IC (71.7 km) は、1963年(昭和38年)7月16日に日本初の都市間高速道路として開通した区間である[2]。1965年(昭和40年)7月1日の小牧IC - 一宮IC開通により、全線開通となった。日本道路公団が管理したのち、2005年(平成17年)10月1日から八日市ICを境に、東側を中日本高速道路(NEXCO中日本)が、西側を西日本高速道路(NEXCO西日本)が管理している。
1.1 道路名・路線名
名神高速道路は小牧IC - 西宮ICの道路名(通称)である[3]。高速自動車国道法に基づく正式な路線名は、東京都から神奈川県、山梨県、長野県、岐阜県、愛知県、滋賀県、京都府、大阪府を経て兵庫県に至る路線として指定された中央自動車道西宮線(東京都杉並区 - 兵庫県西宮市)であり、名神高速道路はその中の一部区間にあたる[3]。
高速自動車国道で「高速道路」という呼称を使用しているのは、東名・名神と新東名・新名神のみである。これは、これらの道路の計画・建設が進められる過程で、「自動車道」という呼称が用いられ始められる頃には、すでに広く民間において「高速道路」という通称が使用され一般的に定着していたため、例外的に採用されたものである[4][注釈 1]。
1.3 新名神高速道路との関係
並行する新名神高速道路(新名神)は、名神とは異なり、四日市JCT- 草津JCTを東海道ルートに沿う。
新名神のうち、亀山JCT - 草津田上ICが2008年(平成20年)2月23日に部分開通した。豊田JCT - 草津JCTで伊勢湾岸道 - 東名阪道 - 新名神と経由すると、従来の東名・名神経由より34 km・約20分の短縮になる。
名神の関ヶ原IC付近では、長い勾配や悪天候(冬季の降雪など)により渋滞や事故が多発していた。また、名神八日市IC - 大垣IC間は雪の降り方が強くチェーン規制になることがあり、愛知県豊田以東と滋賀県草津以西とを移動する約8割の車が新名神経由へシフトした[6]。東名・名神経由の東京・名古屋 - 京阪神の高速バス(「ドリーム号」など)も、新名神への転換が顕著になっている。
このため、名神では一宮IC・米原JCT近辺の渋滞は減少する一方で、東名阪道では四日市IC - 亀山JCTの渋滞が悪化していたが、2019年(平成31年)3月17日に新四日市JCT - 亀山西JCTが開通したため、この区間の渋滞は解消された[7]。新名神は現在、未開通の全区間(大津JCT - 城陽JCT、八幡京田辺JCT - 高槻JCT)が建設中である。
3 歴史
3.1 計画・施工
戦後日本の道路整備促進の流れは、実業家でのちに参議院議員となった田中清一らによって主導された国土開発縦貫自動車道構想であったが、これに平行する動きとして、建設省もまた戦前の自動車国道構想を下敷きに、東京 - 神戸間高速道路計画の着手に乗り出していた[12]。
1953年(昭和28年)ごろ、田中主導の国土開発縦貫自動車道構想を基とする中央道ルートの東京 - 名古屋間高速道路計画が具体化しはじめたことから、建設省は東海道ルートを前提とした「東京神戸間有料道路計画書」を公表して対抗した[13]。これ以後、建設ルートを巡って「東海道か中央道か」という論争が、次第に激しくなったため[14]、日本国政府は当面実施すべき区間を名古屋 - 神戸間に限定し、その計画を有料道路とするとともに、借款を世界銀行に求めることにした[12]。
1956年(昭和31年)、世界銀行が名神高速道路の実現可能性調査のために、ラルフ・J・ワトキンスを団長とする調査団を派遣して提出された調査報告書である『ワトキンス・レポート』には、名神高速道路の建設を是とした上で、建設費の一部に世界銀行が貸付を行うことを肯定し、日本国政府に対しては、道路行政の改革を勧告したほか、道路予算を3倍増とすることを提言する内容が書かれていた[12]。世界銀行からの借入金は、当時としては借入期間が長期で安定していて低金利であった[15]。
国費ではなく、借入金によって建設して返済するシステムは、道路公団方式による有料道路建設の端緒となった[15]。
名神高速道路の設計計画は、当初はアメリカのターンパイク(有料道路)やインターステイツ・ハイウェイ(州際道路)の基準を手本に、日本独自で進められたが、アウトバーンの設計技師も務めたクサヘル・ドルシュを名神高速道路の設計技師として迎え、日本道路公団内ではドルシュの教えに従って、設計手法が大きく変わっていった[16]。
世界銀行が派遣し、設計コンサルタントとして来日したドルシュの提言は、高速道路の線形設計では、周囲の地形に調和するようにクロソイド曲線を採用したり[注釈 5][17]、それまで設計済みであったインターチェンジ計画を大規模な様式にするなど、それまで高速道路設計の経験が無かった日本の手法を大きく変えさせた[18]。
建設省は、1957年(昭和32年)10月に国土開発縦貫自動車道建設法の規定に基づき、小牧 - 西宮間について、日本道路公団に対して施工命令を出し、名神高速道路の建設は始められた[19]。この着工によって、日本の高速道路はスタートを切ることになった。
当時、舗装はコンクリート舗装が一般的であったが、コンクリート舗装とアスファルト舗装とで、経済性・耐久性・快適性などを比較検討を行い、名神高速道路ではアスファルト舗装が導入されることになった[20]。
土工では本格的に機械化施工を導入し、施工規定に加えて初めて性能規定も定めた[20]。また、盛土の横断勾配[注釈 6]は試行錯誤を経て、機械による転圧が可能な1:1.8とし、現在でも標準の横断勾配となっている[20]。
トンネルの施工では、従来は木製の支保工が用いられていたが、地質が悪く大きな地圧が作用する梶原トンネル・天王山トンネルでは、日本で初めてH形鋼の支保が導入された[20]。アーチ支保の導入により、大型機械が導入可能となり、安全性と効率性が大幅に向上した[20]。
そのほか様々な技術が、名神高速道路の建設によって生まれ、進化を遂げながら現在に繋がる[20]。
9 脚注
9.1 注釈
[注釈 1]^ よって「名神自動車道」や「東名道」、逆に他の高速道路を「中国高速道路」や「東北高速」などと呼ぶのは誤りである。
[注釈 5]^ トンネル掘削を避けて等高線に沿った線形とした「今須カーブ」は、他の箇所に比べて急な半径280 mとなって事故が多発したことから、1978年(昭和53年)に緩やかな線形の「今須トンネル」によって付け替えられ、廃道となった。
9.2 出典
[1]^ “高速道路ナンバリング一覧”. 国土交通省. 2020年11月20日閲覧。
[2]^ 浅井建爾 2001, pp. 56-57.
[3]^ 浅井建爾 2001, p. 62.
[4]^ 国土交通省道路局 道の相談室 - ウェイバックマシン(2009年12月9日アーカイブ分)
[6]^ “新名神高速道路(亀山ジャンクション〜草津田上インターチェンジ間)開通後半年間の交通状況と整備効果” (プレスリリース), 西日本高速道路株式会社, (2008年9月19日)
[7]^ “新四日市-亀山西が開通 新名神、東名阪の渋滞解消”. 日本経済新聞 (2019年3月17日). 2019年3月18日閲覧。
[12]^ 武部健一 2015, pp. 189–191.
[13]^ 武部健一 2015, p. 190.
[14]^ 武部健一 2015, p. 183.
[15]^ 竹國一也 2014, p. 10.
[16]^ 武部健一 2015, p. 195.
[17]^ “かつて名神高速にあった「魔のカーブ」とは 事故多発で一部が廃道になっていた名神”. 乗りものニュース (2020年4月3日). 2020年4月3日閲覧。
[18]^ 武部健一 2015, pp. 193–194.
[19]^ 武部健一 2015, p. 199.
[20]^ 竹國一也 2014, p. 11.
最終更新 2021年1月29日 (金) 14:29 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
≪くだめぎ?≫
1953年(昭和28年)ごろから動き出した"高速道"建設への動きは、
1963年(昭和38年)7月に「名神高速道路」として開通・運用し出した。
国鉄としても
1959年11月から、正式にコンテナ専用列車「たから号」として汐留 - 梅田に走り出した。一般国道も戦後整備し出したので、大拠点間の長距離輸送には手を付けた格好に見えるし、今でも適切な対処である。
だだ、
1960年(昭和35年)から製造・使用した15t積み二軸有蓋貨車『ワム80000』を製造したことは、完全に失敗だった。"最高運転速度75km/h"で1968年10月1日ダイヤ改正で速度向上したが、1964年をピークに国鉄貨物の輸送量は輸送限界に達し、1984年2月1日国鉄ダイヤ改正で「ヤード集結型輸送」を廃止しなければ成らない事態に陥った。小規模貨物駅同士を結ぶ輸送が無くなったのである。現代では当たり前の『荷物がいつごろ届く』という予定がほぼ掴めず、到着間際にやっとわかる程度の致命的な欠陥を抱えていたのである。中間の大拠点間の長距離輸送だけでなく、大拠点から小規模貨物駅の間もスピードアップ・定時輸送して「完全見積もり」体制すべきだった。
物流システム事業と産業車両機器事業を主力事業の「トヨタL&F」豊田自動織機が、例えば日通から鉄道貨物物流システムを受ければ、と思うのは私の現在病か・・。