
国鉄DF50形ディーゼル機関車
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DF50形ディーゼル機関車(DF50がたディーゼルきかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)のディーゼル機関車の一形式である。
[写真・画像] 寝台特急「紀伊」 新宮駅へ回送中 新宮 - 三輪崎間 1979年
基本情報
運用者 日本国有鉄道
製造所 新三菱重工業・汽車製造・日本車輌製造・川崎車輌・東京芝浦電気・日立製作所[1]
製造年 1957年(昭和32年) - 1963年(昭和38年)
製造数 138両[2]
引退 1983年
主要諸元
軸配置 B-B-B[3]
軌間 1,067 mm (狭軌)
全長 16,400 mm[4]
全幅 2,932 mm[5]
全高 3,987 mm[6]
機関車重量
冬85.1 t / 夏81.2 t(基本番台)
冬84.5 t / 夏80.6 t(500番台)
台車
DT102(両端台車)
DT103(中間台車)
動力伝達方式 電気式
機関
直列8気筒直噴式 8LDA25A(基本番台)
V型12気筒予燃焼室式 V6V 22/30mA(500番台)
機関出力
1,060 PS/800 rpm/125,600 cc(基本番台・連続定格)[7]
1,200 PS/900 rpm /136,778 cc(500番台・連続定格)[8]
主電動機 直流直巻電動機 MT48
主電動機出力
100 kW 225 V 520 A(基本番台・連続定格)[9]
110 kW 250 V 520 A(500番台・連続定格)[10]
駆動方式 吊り掛け駆動
歯車比 4.235 (72:17)
制動装置 EL14A空気ブレーキ
設計最高速度 90 km/h
出力
600 kW(基本番台)[11]
660 kW(500番台)[12]
1 開発の背景と構造
非電化亜幹線の無煙化のため、1957年(昭和32年)に先行試作車が製造され、以後1963年(昭和38年)まで増備されたディーゼル機関車である。国鉄で初めて本格的に量産されたディーゼル機関車であった。
開発当時は液体変速機の製造技術が未熟で、動力伝達方式には1953年(昭和28年)製造初年のDD50形同様、ディーゼルエンジン直結の発電機で発電した直流電力で主電動機を駆動する電気式が採用された。重連総括制御可能な点もDD50形と同様であったが、非力さから重連運転常用を前提に片運転台で製造されたDD50形と違い、本形式は亜幹線で一応単機運用ができることを主眼に設計され、両運転台となった。
車体は普通鋼製の箱型車体で、貫通扉を有するやや後傾した妻面をもつ、同時期に製造されたED70形交流電気機関車と似た形状であった。
線路等級の低い乙・丙線での使用を考慮し、軸重を14 t以下に抑えるため6動軸とし、さらに国鉄車両としては初めてB-B-B型軸配置を採用し、中間台車の横方向へのずれを許容して曲線通過時のレール横圧の軽減を図った[注 1]。このB-B-B型軸配置 は以後設計の日本の6動軸機関車の標準となった[注 2]。DD50形が暖房用蒸気発生装置をもたず、冬季の旅客列車牽引時に暖房車を必要として不便であったため[注 3]、本形式は暖房用のボイラー(蒸気発生装置)を搭載した。なお、1 - 7号機は量産試作車で、前面形状、中間台車中心位置、機器配置などが量産型とは若干異なっていた。
エンジンは、当時の新三菱重工がスイスのズルツァー社と技術提携して製造した直列8気筒直噴式の三菱神戸ズルツァー 8LDA25A(連続定格1,060馬力、1時間定格1,200馬力)を搭載した基本番台と、川崎重工と日立製作所がそれぞれ西ドイツ(当時)のMAN社と技術提携して製造したV型12気筒予燃焼室式の川崎 MAN V6V 22/30mA、あるいは日立 MAN V6V 22/30mA(ともに連続定格1,200馬力、1時間定格1,400馬力)のいずれかを搭載した500番台とがあった[10] [14]。0番台に搭載された三菱神戸スルザー8LDA25Aは、DD50形に搭載された三菱神戸ズルツァー 8LDA25の過給機の一部を改造して高過給とし、燃料噴射ポンプ・プランジャ・ノズル・ピストンなどの変更を行って[15]2割弱の出力増強を実現したものであった。
エンジン音はメーカー別に特徴があり、気筒数が少ない中速機関のズルツァー型は焼玉エンジンのような「ポンポンポンポン」というリズミカルな音、同じく中速機関ながら気筒数が多く、ズルツァー型よりやや高速な機関を搭載するMAN型は「ドドドドド」と連続した低音である。MAN型の中には、キハ181系のようなターボ音を発するものがあった。
出力制御はDD50形で採用されていた、空気圧による遠隔制御方式[16]で、主機関の調速機や、主発電機の励磁機の界磁調整器を空気圧でコントロールし、機関回転数・発生電圧を制御する。運転台の主幹制御器は、電気的な要素はなく一種の可変空気調圧器に類する構成[16]で、制御空気圧の昇降を直接行い、電気的な制御は行わない[16]。近代化動力車では電磁弁を用いる遠隔制御が一般的であるが、1950年代中期の技術では、ディーゼル動力車の燃料噴射量を電磁弁で制御する場合、電磁弁の数をむやみに増やせず、電磁弁相互をリンク連結して連関動作を構成するなどの手法を用いても、細かい制御段数を得ることが難しかった。従って多段階のノッチが求められる大形機関車には必ずしも電磁弁制御方式は有利でなかった。アメリカ合衆国で一時、電気式ディーゼル機関車メーカーの一角を占めたウェスティングハウス・エレクトリックやフェアバンクス・モースでも空気圧式出力制御を用いており、DD50形、DF50形の出力制御もこの当時の流儀を踏襲したものであった[17]。
機関車の出力制御は19段のノッチによるエンジンの回転数制御で行い、これによって発電電圧を上げ下げして主電動機の回転数を制御した。ただ、出力制御操作が空気圧による無段階的なものであることから、このノッチは出力を決める刻み段としての意味合い程度であり、主幹制御器で中間ノッチを使用することも可能である[16]。重連時の次位機関車の制御もこの制御空気圧で直接行う方式であり、このため車端部には総括制御用空気ホースが設けられている[16]。他に車端部にはジャンパ連結器もあるが、これは低圧回路接続用である。
主発電機もDD50形で採用された「差動界磁付励磁機式発電機」が用いられた。これによって、主電動機に負荷がかかって回路電流が増大すると、自動的に発電機の界磁が弱まり、発電電圧が低下して、定出力特性が得られた。またエンジン自体への負荷増大もエンジンガバナーで感知し、発電機の他励界磁の回路に抵抗を加えて界磁を弱め、発電電圧を下げる方法もとられた[18][19]。なお、主発電機は出力は700 kW (450 V 1,560 A) 、500番台では780 kW (500 V 1,560 A) であった[10]。
主電動機は吊り掛け駆動方式・出力100 kW(500番台では110 kW)の直流直巻電動機(MT48形)6基装備で、2台永久直列3回路であった。主電動機の直並列組合せ制御については、直並列の回路切替え(「渡り」)時の主機関の負荷変動が過大となることから、本形式では採用されていない[16]。全界磁での連続定格速度が17.5 km/h(500番台では19.5 km/h)[20]と極めて低速であったが、全軸駆動の6動軸で粘着力では有利であったことから、重量列車の引き出しは可能で、また50 %と30 %の弱界磁制御もできたため、軽負荷であれば90 km/hでの高速運転も可能であった。
2 製造と運用
0番台が新三菱重工業・汽車製造・日本車輌製造で65両、500番台が川崎車輌・東京芝浦電気・日立製作所で73両、計138両が製造された。
本線での客貨運用が可能な最初の実用的ディーゼル機関車で、北海道を除く[注 4]日本各地の非電化亜幹線と一部非電化幹線で特急列車から貨物列車まで幅広く運用された。特にトンネルの多い路線では、蒸気機関車の煤煙から解放される無煙化の効果が大きかった。なお、旧線時代の奥羽本線の矢立峠越えの区間(秋田・青森県境)などの急勾配区間では、補機として使用されたケースも多かった。
しかし本形式は日本のディーゼル機関車としては過渡期の存在であり、幹線の主力機関車として運用するにはエンジン出力が低すぎるという根本的弱点を抱えていた。主電動機の広範な弱界磁制御により、限られたエンジン出力を低速から高速までの広い速度領域で有効に使い、全車軸を駆動軸として動輪上重量を大きくとり、勾配でも空転を起こさずに登坂できたが、出力不足(基本番台の電動機出力は600 kWであり、1950年代に製造された72系電車とほぼ同じだった)ゆえ、著しい速度低下をきたし、D51形蒸気機関車の代替にはならなかった[22]。当時の機関車の性能について1965(昭和40)年度実績の比較表を示す[23]。
代表形式 機関車全重量 (t) 最大馬力 (HP) 最高速度 均こう速度 動力費(円/km)
・(旅客・蒸気)C62 145 1620 100 54 120
・(旅客・直流電気)EF65 96 3460 110 78 47
・(旅客・ディーゼル)DF50 81 1200 90 38 67
・(貨物・蒸気)D51 126 1280 85 20 230
・(貨物・電気)EF15 102 2650 75 40 90
・(貨物・ディーゼル)DD51 84 2200 95 24 136
(速度に単位がないのは原文ママ、蒸気機関車の「全重量」はテンダーを含む。)
均こう速度は旅客と貨物で条件が異なり、旅客が450トン、貨物が1,000トンを引いて10/1000(10 ‰)の上り勾配を走る際の最高速度。
動力費は均こう速度の条件で1 kmの距離を走るに要する金額。
また、客貨兼用の設計だったことから平坦区間でも加速性能は低く、C57形蒸気機関車程度に留まった。しかし当時の技術では、軸重14 tの電気式ディーゼル機関車に、これ以上の出力のエンジンを搭載することは不可能であった[24]。
このように牽引性能が不十分であったことに加え、エンジンに外国メーカーのライセンス品を使用せざるを得なかったため調達コストが高く、動力近代化のための大量増備に適した機関車とはなれず、技術提携で製作された部分は図面もない[25]ため故障が非常に多く[26]、後続の液体式 ディーゼル機関車DD51形の登場までのつなぎ役に留まった。
1962年(昭和37年)には1,000馬力級エンジン2基を搭載した純国産の幹線用ディーゼル機関車DD51形が登場したため、本形式の製造はその翌年の1963年限りで終了し、その後は主要幹線から順次DD51形が導入され、本形式は比較的軽負荷な運用の多い亜幹線に転用された。昭和50年代に入ると電化の進展もあって多くが廃車となった。
その中で日豊本線では、北部からの電化進展に伴って運用域は年々狭まったものの「富士」や「彗星」などの寝台特急運用で1979年(昭和54年)の全線電化直前まで非電化区間の牽引を務めた。最後まで残った寝台特急運用は、紀勢本線の寝台特急「紀伊」の牽引であった。しかし、同年6月には上り列車のみDD51形に置き換えられ、下り4003列車の亀山 - 紀伊勝浦間およびその回送である回4003列車の紀伊勝浦 - 新宮間についても亀山機関区配置機の運行終了直前の1980年(昭和55年)2月にDD51形に置き換えられた。
最後まで主力車として残った四国でも、1981年(昭和56年)10月に定期旅客運用を離脱し、同時にMAN型の500番台が全廃された。1983年(昭和58年)9月には貨物運用も終了した。同月25日に運転された、臨時急行列車「サヨナラDF50土佐路号」をDF50 1+DF50 65の重連で牽引したのを最後に運用を終了。1985年(昭和60年)1月21日付で、最終貨物列車を牽引したDF50 34が廃車されたのを最後に、3両の保存機を除いて完全に消滅した。
3 事故廃車
・10号機:1964年(昭和39年)6月25日・紀勢本線 多気発九鬼行き135列車牽引中に大曽根浦 - 九鬼間の土砂崩れにより崖下へ転落、炎上により廃車。[27]
・35号機:1977年(昭和52年)12月26日付で老朽廃車されているが、実際は事故後そのまま復旧されずに廃車されたようである。
・39号機:1969年(昭和44年)1月24日・紀勢本線 名古屋発天王寺行き921列車を牽引中に紀伊日置駅付近で脱線、7 m下の水田に転覆し廃車。[28]
・45号機:1972年(昭和47年)7月5日・土讃本線繁藤駅で土砂崩れ(地すべり)に巻き込まれ川へ転落し廃車。車両は現地解体。車体の一部はその後も穴内川に埋没した状態で残されている[注 5]。[29]
・569号機:1978年(昭和53年)3月22日・予讃本線 高松発松山行き下り普通列車を牽引中、高瀬 - 比地大間の踏切でクレーン車と衝突し助士席側を破損する。本形式の置き換えが進んでいたこともあり廃車。
なお、1962年11月29日の羽越本線列車衝突事故で前頭部が粉砕されて炎上し、転覆した548号機はまだ車齢が若かったため土崎工場で修復された。その後米子機関区に転属し、1977年に廃車されるまで山陰本線で運用された[30]。
5 脚注
5.1 注釈
[注 1]^ 日本以外の国ではイタリアの電気機関車が同じ理由で1940年のE636形からB-B-B配置が基本になっている[13]。
[注 2]^ 信越本線 碓氷峠越え用のEF62は軽量化のためC-C軸配置を採用したが、唯一の例外である。
[注 3]^ そのため晩年は専ら北陸本線米原 - 田村の交直接続区間での貨物列車牽引に使用された。
[注 4]^ 寒冷地対策を施した33号機が1959年2月3 - 13日に北海道・夕張、追分地区で寒冷地対策試験を施行した[21]。
[注 5]^ 同機のナンバーと製造銘板は、現地解体時に取り外され、JR四国多度津工場PRルームに保管されている(工場公開時などに見学可能)
5.2 出典
[1]^ 沖田祐作 編『機関車表 国鉄編II 電気機関車・内燃機関車の部』(ネコ・パブリッシング RailMagazine 2008年10月号 (No.301) 付録CD-ROM)
[2]^ 服部朗宏「DF50型機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.25 2018年
[3]^ 野本浩「DF50型機関車開発の背景と効果」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.13 2018年
[4]^ 服部朗宏「DF50型機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.24 2018年
[5]^ 服部朗宏「DF50型機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.24 2018年
[6]^ 服部朗宏「DF50型機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.24 2018年
[7]^ 服部朗宏「DF50型機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.25 2018年
[8]^ 服部朗宏「DF50型機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.25 2018年
[9]^ 服部朗宏「DF50型機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.25 2018年
[10]^衣笠敦雄「ディーゼル車両の歩みとDF50の誕生」『鉄道ピクトリアル』31巻6号 p.12 1981年
[11]^服部朗宏「DF50型機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.25 2018年
[12]^服部朗宏「DF50型機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.25 2018年
[13]^フランコ・タネル『ヴィジュアル歴史図鑑 世界の鉄道』黒田眞知・田中敦・岩田斎肇訳 株式会社河出書房新社 2014年 ISBN 978-4-309-22609-5 p.229
[14]^岩成政和「戦後ディーゼル機関車発達史の論点、争点、疑問点」『鉄道ピクトリアル』64巻7号 pp.50 - 52 2014年
[15]^野元秀昭「戦後の電気式ディーゼル機関車」『鉄道ピクトリアル』31巻6号 p.47 1981年
[16]^寺内良和 「鉄道車両系列シリーズ (13) DF50型ディーセル機関車」『鉄道ジャーナル』1979年12月号 (No.154) pp.79 - 86
[17]^竹村伸一(日立製作所)「最近のディーゼル電気機関車制御方式について」『日立評論』別冊第20号(日立評論社)1957年11月 pp.29 - 37
[18]^衣笠敦雄「ディーゼル車両の歩みとDF50の誕生」『鉄道ピクトリアル』31巻6号 p.13 1981年
[19]^野元秀昭「戦後の電気式ディーゼル機関車」『鉄道ピクトリアル』31巻6号 p.48 1981年
[20]^石井幸孝『DD51物語』p.191 JTBパブリッシング 2004年
[21]^交通技術14巻8号増刊(通巻162号)鉄道技術の進展1958-1959 pp.3, 33 - 34 1959
[22]^石井幸孝『DD51物語』p.102 JTBパブリッシング 2004年
[23]^安田朋正・小椋康夫「機関車と電車」、『原色現代科学大事典 10-機械』、代表・窪田雅男・菊池誠、学研、昭和44年第3版、p.140 表2
[24]^石井幸孝『DD51物語』p.103 JTBパブリッシング 2004年
[25]^http://www.jrea.or.jp/jrea/data/1961/JREA_1961-5.pdf#page=29
[26]^http://www.jrea.or.jp/jrea/data/1963/JREA_1963-3.pdf#page=20
[27]^服部朗宏「DF50型機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.38 2018年
[28]^服部朗宏「DF50型機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.38 2018年
[29]^服部朗宏「DF50型機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.38 2018年
[30]^資料:『レールガイ』1977年11月号
6 関連項目
・JR貨物DF200形ディーゼル機関車 - 1992年(平成4年)から量産が開始された電気式ディーゼル機関車
最終更新 2021年2月13日 (土) 07:05 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
国鉄DF40形ディーゼル機関車
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DF40形は、かつて日本国有鉄道(国鉄)で試用された電気式ディーゼル機関車である。
1 製造の背景
国鉄がディーゼル機関車の開発を模索していたころ、国内の車両メーカーは国鉄および海外への売り込みをはかるべく、独自の機関車を設計・試作した。これらの機関車は、合計9形式が国鉄に借り入れられ、40代、のちに90代の形式を与えられて試用された。一部の形式は国鉄が正式に購入した。 それらの試作機関車のうち、本線用として製造されたのが、本形式である。
1955年に神戸の川崎車輌兵庫工場で1両が製造された。
本形式はのちにDF91形(2代)と改称されるが、それ以前にも同じDF91形を名乗る機関車が存在した。
2 車体
車体は箱形で全体的に丸みを帯びており、円形の側窓が特徴的である。屋根上の明かり取り窓も円形である。落成当初は、前面は非貫通式2枚窓構成[1]であったが、1964年にDF50形との重連総括制御が可能なように改造されてジャンパ栓が追加設置され、さらに翌年貫通式に改造されてDF50形に準じた前面形状とされている。
登場当時の車体色は水色に裾部が橙(黄色に近い)の帯、のち同じ塗り分けで茶色と白の帯(スカートは黄色と黒のいわゆるゼブラ模様)、そして朱色とグレーのツートンカラー(正面は金太郎塗り分け。貫通式となった直後もほぼ同様)を経てDF50形と同様の塗装とされた。
3 主要機器
エンジンは川崎車輛がドイツのMAN社との技術提携によりライセンス供与を受けて製作したV6V22/30形(V形12気筒、バンク角45°、シリンダ内径220mm、行程300mm、連続定格出力1,200馬力/900rpm)である。このエンジンはMAN社が第二次世界大戦後船舶用として量産していたVV22ディーゼルエンジンシリーズの1機種で、機種・使用条件によるが1,200馬力~1,900馬力程度の出力が可能な設計であった。
同系の川崎/MAN V6V22/30ATLは1960年代に計画・建造された海洋観測艦あかしをはじめとする何隻かの川崎造船所/川崎重工業製海上自衛隊向け補助艦艇に、16気筒構成に拡張した川崎/MAN V8V22/30mALは青函連絡船の津軽丸 (2代)をはじめとする津軽丸型の初期3隻などにそれぞれ搭載され、また日立製作所とMAN社の提携によって製作されたV6V22/30ATLはコンゴ国鉄向けDELに搭載して輸出されるなど、この系列の機関は1950年代後半から1960年代にかけて船舶・鉄道向けとして日本で多くの製作実績を残している。また、後述するように本形式での運用実績から川崎と日立が製作したV6V22/30mAがDF50形500番台に採用され、同番台は73両が量産されている。
動力伝達方式は電気式を採用した。主発電機としては川崎車輌自社製のK4-730A[2]を1基搭載し、全車軸にK4-1453Aと称する同じく川崎製の吊り掛け式主電動機[3]を装架する。
制御は先行するDD50形等と同様、エンジン回転数の調速と一段弱め界磁制御によって行う方式で、竣工当初は重連総括制御非対応であった。
台車は、鋳鋼製台車枠を備える3軸ボギー台車を2組装備し、軸配置はC-Cである。動輪直径は1,000mm。
軸箱支持機構は通常のペデスタルを用いる軸ばね式で、第1(4)・第2(5)軸および第2(5)・第3(6)軸間にそれぞれ設けられた揺れ枕を線路方向に長い重ね板ばねで連結・支持し、この上部に側受を置いて車体の荷重を支える構造であった。[4]
この3動軸構成の台車は通常の2動軸構成の台車を3組備えるのと比較して軽量化が可能であったが、その反面、曲線通過時に中間軸が線路側面に与える横圧が大きいという問題があった。
本形式ではこの点が試験運用開始後に問題となり、土讃線を管轄する四国鉄道管理局(当時)がディーゼル機関車の運行を大々的に宣伝していたにもかかわらず直ちにメーカー返送・改修を余儀なくされ[5]、さらには運用線区である土讃線へのタイプレート設置などの軌道強化が必要となった[6]。
本形式でのこうした横圧過大の問題露呈を踏まえ、川崎車輌にとってライバルであった新三菱重工業が開発したDF50形では軸配置B-B-Bとし、さらに中間台車にTリンク装置と呼ばれる特別な吊りリンク機構を採用することでC-C配置の台車で発生しやすい横圧過大の問題を回避し、制式採用を勝ち取っている。
また、本形式試験運用時の手痛い教訓は、本形式と同様にC-C軸配置を採用したが中間軸について厳重な横圧低減対策を施したDF93形や、軸重の制約などから3動軸台車を一方に装着したがA-A-A配置として各軸の遊動を可能とすることで側圧低減を図ったDE10・DE11・DE15・DE50形など、本形式以後に日本国内で設計された3動軸台車を備えるディーゼル機関車で中間軸の横圧過大に特に留意した設計が行われる契機ともなった。
4 運用
1955年12月に川崎車輌兵庫工場で製番14[7]として落成したが、この時点では無番号で濃い青を基調に車体裾部に黄帯を巻いた姿であった。
翌1956年度より国鉄が借り入れ、最高力行速度が75km/hであったことから当時の試作機関車形式で最高速度85km/h以下の車両に割り当てられていた40番台の形式称号が付与され、DF40 1と命名された。
借り入れ開始後は手すりの追加など運用上必要な手直しを実施の上で1956年4月に高松機関区へ配置され、土讃本線にて各種試験に供された。この際の試験の結果、前述のとおり一度川崎車輌へ戻されて改良工事が実施されている。1956年10月に高松機関区へ再配置され、同年11月のダイヤ改定では準急「南風」上り列車の牽引を受け持つなど土讃線の旅客列車[8]、貨物列車に使用された。
1957年3月には新製配置されたDF50 1・2と入れ替わりに再度川崎車輌へ返送され、警笛の交換や元空気溜めの増設など修繕と改造工事をうけ、同年6月に四国へ戻され、翌1958年3月には高知機関区へ転属となった。この時期には性能を安定的に発揮可能であったとされる。
この間、1958年4月からは本形式と同系のV6V22/30mA(連続定格出力1,200馬力)を搭載するDF50形500番台が川崎車輌と日立製作所、それに東芝の3社によって量産開始され、スルザー8LDA25Aエンジンを搭載する0番台車と並行して1963年までに73両が生産されている。
これにより試作車としての役割を果たし終えた本形式であったが、1958年8月に国鉄が購入、1961年10月の称号改正でDF91形と改称された。
その後は四国に多数配属されたDF50形と共通運用され、1963年7月に朱色4号を基調として窓周りをねずみ色1号として、さらに前面はいわゆる金太郎塗りとした二色塗り分けに車体塗装が変更され、1964年2月には重連総括制御化改造を施工されてDF50形との重連運用が可能となった。
もっともこの時点では車体前面が非貫通構造であったため、重連運用時の乗務員移動の便を図る必要から1965年10月にDF50形と類似の貫通扉を妻面中央に設置した運転台構造へ改造された。さらにこの直後には塗装が通常のDF50形と共通のデザインに変更された。
本形式は元々DF50形500番台と同系列機関搭載で保守部品の調達が比較的容易であり、しかも軸配置こそ異なるもの性能はほぼ共通でダイヤ上限定運用とする必要がほとんどなかった[9]こともあって長らく高知機関区配置として土讃線で暖房用蒸気発生装置を必要としない貨物列車運用を中心に使用され、結果として1950年代から1960年代にかけて国鉄で試用された車輌メーカー製試作ディーゼル機関車群の中ではもっとも長く営業運転に使用された形式となった。
なお、前面貫通化改造後、時期は不詳であるが当時の四国に配置されていた気動車・ディーゼル機関車で広範に施工されていた踏切事故対策としての前面強化改造工事を施工されている。
1975年2月28日に廃車となり、その後多度津工場で解体処分されている[10]。
5 主要諸元
・全長:15.4m
・全幅:2.7m
・全高:3.75m
・運転整備重量:75t
・機関:川崎重工業V6V22/30形ディーゼル機関1基
・軸配置:C-C
・連続定格出力:1200PS/900rpm
・動力伝達方式:電気式
・主発電機:K4-730A
・主発電機出力:730kw/900rpm
・主電動機:K4-1453A
・出力:108kw/500rpm
・連続定格引張力:10800kg/21.4km/h
・最大運転速度:75km/h
6 脚注
[1]^ 窓周りの構造はEH10形電気機関車に類似する、上部が後退し車体内側に落ち窪んだ形状となっていた。
[2]^ 端子電圧480V時連続定格出力730kW、1,520A、900rpm。
[3]^ 端子電圧480V時連続定格出力108kw、252A、500rpm。
[4]^ 当初の構造は、ヨーロッパの標準軌車両では一般的な、車体荷重を全て側受で負担する構造であり、枕梁を大幅に軽量化可能なためほぼ同時期の東急5000系電車や国鉄10系客車などでも類似の設計が広く用いられていた。
[5]^ これに伴いディーゼル機関車運行の公約を守る必要に迫られた四国鉄道管理局は、急遽敦賀第一機関区からDD50形4号機を借り入れて優等列車中心に運用している。
[6]^ 横圧過大の原因は、調査の結果車体の重量をすべて台車の側受で支持していて摺動面の抵抗が大きく、曲線通過時に台車の旋回が円滑に行えなかったためであったことが判明した。そのため、本形式は一旦川崎車輌に戻されて台車の改造工事を受けている。改造後は曲線通過時に線路側面に与える横圧は著しく低下し、当時の土讃線で主力であったD51形蒸気機関車以下の範囲に収まるように改善された。
[7]^ これは川崎車輌の内燃機関車としての通算製番である。同社では、前身である川崎造船所時代から蒸気機関車や電気機関車など車種毎に異なった製番を割り当てていた。
[8]^ ただし暖房用蒸気発生装置を搭載していないため、冬季の旅客列車運用時には暖房車の連結が必須であった。冬季の「南風」牽引時にマヌ34形暖房車を連結していたことが記録されている。
[9]^ もっとも、1両だけの少数形式であったため乗務機会が少なく、しかも台車構造の制約からブレーキシリンダーの数が1両で8基と少なく、12基のブレーキシリンダーを備えるDF50形と比較してブレーキの効きが悪いため、乗務員からは敬遠されがちであったとされる。また、同じくブレーキ性能の問題から重量列車への充当には配慮が必要とされるなど、運用面にも若干の制約があったといわれる(出典:レイルロード 車輌アルバム5「国鉄DF40・90」)。
[10]^ 同機のナンバーと製造銘板(川崎14号)は、解体時取り外され、多度津工場で保存された。国鉄時代の工場開放時に展示されたこともあったが、現在は詳細不明。
最終更新 2019年9月6日 (金) 09:55 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
≪くだめぎ?≫
国鉄時代の量産型電気式ディーゼル機関車である。ただ、500番台で1,200 PSはSL置き換え性能には成らず、しかし138両製造された。当時の輸送状況・使用状況で事故廃車・老朽不良で意外と"自然消滅"もあるが、でも
「DD50形」の様に機関車余り・有休余剰もある車両数だ。現在なら"エンジン換装""動力モーター交換"もあるのかな・・。