
[写真・画像] 武蔵 柏の城(むさし かしわのしろ)
所在地/地図 埼玉県志木市館字城山(志木市立第三小学校)
形態 平城
別名 志木館
文化財指定 なし
城主 大石氏
歴 史
築城年代は定かではない。大石氏の城で文明年間(1469年〜1487年)には大石信濃守顕重、天正年間(1573年〜1592年)には大石越後守直久が居たという。大石直久は小田原北条氏に従い、天正9年(1581年)には駿河国獅子浜城の城代であった。
小田原北条氏が滅亡したのちは、関東に入封した徳川家康の家臣福山月斎が入ったという。
説 明
柏の城は現在の志木市立第三小学校一帯に築かれていた。 遺構はほとんどなく、南のマンションのほうに「柏の城大堀跡」の案内があり看板がたっているが、現状は舗装された歩道のようである。 最終訪問日2019年11月
「城郭放浪記 日本の古城を歩く」より
新座郡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
新座郡(にいくらぐん)は、埼玉県、東京都(武蔵国)にあった郡。新羅郡。
1 郡域
●埼玉県
・和光市(全域)
・
朝霞市(全域)
・新座市(全域)
・
志木市(本町一 - 六丁目、柏町一 - 六丁目、幸町一 - 四丁目、館一・二丁目)
・
戸田市(重瀬)
●東京都
・練馬区(東大泉一 - 七丁目を除く
大泉地区)
・西東京市(
旧保谷市域。ひばりが丘(一部を除く)、ひばりが丘北、住吉町、栄町、北町、下保谷、東町、中町、泉町、保谷町、富士町、東伏見、柳沢、新町)
2 歴史
旧仮名遣いでの読みはにひくら。はじめ新羅郡(しらぎぐん、しらぎのこおり)として設けられ、字を新座郡(しらぎぐん、しらぎのこおり)と改めてから、その字に引きずられてにいくらの読みが正式となったと考えられる。時代によっては志楽・志楽木・志羅木(しらぎ)、志木(しき)、新倉(にいくら)などとも表記し、にいざと読まれたこともある。
古墳時代の遺跡として、根岸台古墳群(一夜塚古墳、柊塚古墳)、内間木古墳群、吹上横穴墓群などがある。
天平宝字2年(758年)8月24日に、朝廷は帰化新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の空いた場所に移した。これが新羅郡の始まりという[1][2]。これより前、武蔵国には持統天皇元年(687年)と4年(690年)にも新羅人が移されていた[3]。
宝亀11年(780年)には新羅郡の人沙良真熊らに広岡造の姓を賜った[4]。この後いつ改称されたかは不明だが、平安時代の『延喜式』には「新座郡」と記録されており、『和名類聚抄』では新座と書いて「にひくら」と読ませるようになった。その郷は志木郷と余戸で、ごく小さな郡であった。
郡衙跡については、『新編武蔵風土記稿』に午傍山が新羅王居跡と記されている[5]が時代が合わず、須恵器が出土した和光市の花の木遺跡が有力視されている。また新編武蔵風土記稿には「新倉郡」(にいくら)と呼ばれるようになり、さらに「新座郡」(にいざ)になったとある[6]。
明治時代の郡役所は北足立郡の浦和町に共同で置かれていた。1896年(明治29年)3月29日、郡制施行により全域が北足立郡に編入されて消滅した。
2.1 近世以前の沿革
・天平宝字2年(758年)8月24日 - 新羅の僧尼男女を武蔵国に移して新羅郡を置く。
・宝亀11年(780年)5月11日 - 新羅郡の人沙良真熊ら2人に広岡造の姓を賜った
2.2 近代以降の沿革
・「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。幕府領は松村忠四郎支配所が管轄。(1町1宿23村)
・幕府領-12村-上内間木村、下内間木村、上新倉村、台村、根岸村、岡村、溝沼村、下保谷村[7]、上保谷村、上保谷新田、膝折村、橋戸村
・幕府領・旗本領-4村-宮戸村、浜崎村、田島村、下新倉村
・幕府領・伊賀者給地-1村-白子村
・藩領・上野高崎藩-1町1宿3村-菅沢村、大和田町[8]、北野村、野火止村、志木宿
・幕府領・出羽長瀞藩[9]-2村-小榑村、片山村
・その他・寺社領-1村-西堀村
・明治4年
・ 7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が高崎県、龍崎県となる。
・11月14日(1871年12月25日) - 第1次府県統合により、全域が入間県の管轄となる。
・1873年(明治6年)6月15日 - 入間県が群馬県(第1期)と合併して熊谷県となる。
・1874年(明治7年)9月 - 引又村および舘村が合併し志木宿となる。
・1875年(明治8年)4月8日 野寺村、中沢村、十二天村、下中沢村、下片山村、石神村、原ケ谷戸村、辻村、掘ノ内村、栗原村が合併し、片山村となる。
・1876年(明治9年)8月21日 - 第2次府県統合により、熊谷県が武蔵国の管轄地域を埼玉県に合併して群馬県(第2期)に改称。当郡域は埼玉県の管轄となる。
・1879年(明治12年)3月17日 - 郡区町村編制法の埼玉県での施行により、行政区画としての新座郡が発足。北足立郡浦和宿に設置された北足立郡役所の管轄となる。
・1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、以下の町村が成立。(2町7村)
・志木町(志木宿が単独町制。現志木市)
・大和田町 ← 大和田町、野火止村、北野村、菅沢村、西堀村(現新座市)
・膝折村 ← 膝折村、溝沼村、岡村、台村、根岸村(現朝霞市)
・片山村(片山村が単独村制。現新座市)
・内間木村 ← 上内間木村、浜崎村、田島村、宮戸村(現朝霞市)、下内間木村(現朝霞市・戸田市)
・新倉村(上新倉村が単独村制。現和光市・東京都練馬区)
・白子村 ← 白子村、下新倉村(現和光市)
・保谷村 ← 下保谷村、上保谷村、上保谷新田(現東京都西東京市)
・榑橋村 ← 小榑村、橋戸村(現東京都練馬区)
・1891年(明治24年)6月15日 - 榑橋村および新倉村の一部(長久保)が東京府北豊島郡石神井村の一部(旧上土支田村)と合併して東京府北豊島郡大泉村が発足。郡より離脱。(2町6村)
・1896年(明治29年)4月1日 - 北足立郡・新座郡の区域をもって、改めて北足立郡が発足。同日新座郡廃止。
4 脚注
[1]^ 『続日本紀』巻第36、天平宝字2年8月癸亥条。
[2]^ 今尾恵介『『地図から消えた地名』』東京堂出版、2008年12月30日、60頁。ISBN 978-4-490-20645-6。
[3]^ 『日本書紀』巻第30、持統天皇元年4月癸卯(10日)条、4年2月壬申(25日)条。
[4]^ 『続日本紀』巻第36、宝亀11年5月甲戌(11日)条。
[5]^ 『新編武蔵風土記稿』巻ノ133新座郡ノ5.上新倉村 古蹟 新羅王居跡、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763996/68。
[6]^ 『新編武蔵風土記稿』巻ノ133新座郡ノ1.総説、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763996/5。
[7]^ 記載は「下保谷村・同新田共」。
[8]^ 記載は「大和田村」。
[9]^ 同藩が武蔵国を所領に加えたのは大網への藩庁移転後とする資料もある。「角川日本地名大辞典」では米津氏領となっている。
5 参考文献
・『角川日本地名大辞典』11 埼玉県、「角川日本地名大辞典」編纂委員会、角川書店、1980年7月1日。ISBN 4040011104。
・ 旧高旧領取調帳データベース
・小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守『日本書紀』3(新編日本古典文学全集4)、小学館、1998年。
・青木和夫、笹山晴生、稲岡耕二、白藤禮幸・校注『続日本紀』三(新日本古典文学大系14)、岩波書店、1992年。
・青木和夫、笹山晴生、稲岡耕二、白藤禮幸・校注『続日本紀』五(新日本古典文学大系16)、岩波書店、1995年。
・林陸朗・校注訓訳『完訳注釈続日本紀』第3分冊、現代思潮社、1986年。
最終更新 2021年9月6日 (月) 08:28 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
≪くだめぎ?≫
ただ今連載している舞台は、練馬区大泉地区から志木市までの旧新座郡(にいくらぐん)である。荒川西岸であり、東岸の"さいたま市"側と雰囲気が違うと、地方のモノには思う。国鉄時代から新幹線・東北線・高崎線・埼京線の存在からか。決して東武東上線・西武池袋線・新宿線も小さくないはずなのに。
東京都練馬区の飛地、「西大泉町」のすぐ近くには「関越自動車道」大泉ICの大幹線があるのに、東京都・埼玉県の地価差があるのはある意味でも驚きである・・。都営大江戸線の延伸が期待される住宅密集地であることはわかるが・・。
志木市役所がある、柳瀬川が西側の境で、北西側は入間地区(旧入間郡)。JR武蔵野線の新座駅・新座貨物(タ)西側から東京都清瀬市で直ぐに埼玉県所沢市に至る。新座市と東久留米市で入り組んでいる境で東京埼玉の都県境でもある。
「多摩地区」が埼玉県に食い込んでいる、と言うべきか。