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2021年12月19日

「いるま野市」成立?

「いるま野市」成立? いるま野農業協同組合
 いるま野農業協同組合(いるまののうぎょうきょうどうくみあい)は、埼玉県川越市に本店を置く農業協同組合。通称は「いるま野農協」、愛称は「JAいるま野」。
[写真・画像] 市町村別 一覧
1 概要
・1996年4月1日 - 川越市、霞ヶ関、入間東部、入間市、狭山市、坂戸市、鶴ヶ島、毛呂山町、越生町、埼玉日高、飯能市の11農協が合併し、発足。
・2001年4月1日 - 所沢市農協と合併

2 本店 埼玉県川越市今成に置かれている。
3 支店
・川越市
芳野支店 古谷支店 南古谷支店 高階支店 福原支店 日東支店
大田支店 名細支店 山田支店 田面沢支店(川越地域統括支店)
川越支店 霞ヶ関支店 的場支店
・ふじみ野市
福岡支店 大井支店(東部地域統括支店) 大井西部支店
・三芳町 三芳支店
・富士見市 鶴瀬支店 南畑支店 水谷支店 みずほ台支店
・入間市 東金子支店(入間地域統括支店) 宮寺支店 藤沢支店
豊岡支店 金子支店 西武支店
・狭山市
狭山支店(狭山地域統括支店) 柏原支店 水富支店
入曽支店 堀兼支店
・坂戸市 宮町支店 坂戸支店(北部地域統括支店) 入西支店
・鶴ヶ島市 鶴ヶ島支店
・毛呂山町 毛呂山支店
・越生町 越生支店
・飯能市 飯能支店(西部地域統括支店) 吾野支店 名栗原市場支店
本町支店 加治支店
・日高市 日高支店 高萩支店 高麗支店
・所沢市 柳瀬支店 松井支店 富岡支店 山口支店 吾妻支店
小手指支店(所沢地域統括支店) 三ヶ島支店 狭山ヶ丘支店

4 直売所
あぐれっしゅ川越 あぐれっしゅふじみ野
入間農産物直売所 入間川農産物直売所
あぐれっしゅげんき村 坂戸農産物直売所
入西農産物直売所 鶴ヶ島農産物直売センター
毛呂山農産物直売所 越生農産物直売所
飯能農産物直売所 加治共同利用センター直売所
あぐれっしゅ日高中央 高萩南農産物直売所
松井農産物直売所 山口農産物直売所
小手指農産物直売所 狭山ヶ丘農産物直売所
農産物直売所「とことこ市」

5 営農センター
川越営農センター 東部営農センター
所沢営農センター 狭山営農センター
西部営農センター 入間営農センター 北部営農センター

6 関連会社等
ふくはら幼稚園(平成21年4月1日からは法人化により独立)
株式会社いるま野サービス (全額出資子会社。葬儀・保険・ガソリンスタンドなど)
8 外部リンク
・JAいるま野
・株式会社いるま野サービス
最終更新 2021年3月14日 (日) 09:45 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


入間郡
 入間郡(いるまぐん)は、埼玉県(武蔵国)の郡。
人口84,335人、面積89.79km²、人口密度939人/km²。(2021年11月1日、推計人口)
 以下の3町を含む。
三芳町(みよしまち) 毛呂山町(もろやままち) 越生町(おごせまち)

1 郡域
 上記の3町以外では、現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。高麗郡から編入された地域は当該項目を参照。
川越市、所沢市、飯能市、狭山市、入間市、富士見市、坂戸市、鶴ヶ島市、日高市、ふじみ野市、東京都瑞穂町の北東部 

 以下の地域は隣接する郡から当郡に編入されている。
・比企郡 → 入間郡 : 川越市大字中老袋、鹿飼、上老袋、東本宿、下老袋および芳野台一 - 三丁目の一部(旧植木村)
・秩父郡 → 入間郡 : 飯能市大字坂石、坂石町分、南、南川、北川、高山、坂元(旧吾野村)、上名栗、下名栗(旧名栗村)

 以下の地域は当郡から隣接する郡に編入されている。
・入間郡 → 北足立郡 : 志木市大字宗岡および上宗岡一 - 五丁目、中宗岡一 - 五丁目、下宗岡一 - 四丁目(旧宗岡村)、富士見市大字水子、針ヶ谷および針ヶ谷一・二丁目、水谷一・二丁目、水谷東一 - 三丁目、東みずほ台一 - 四丁目、西みずほ台一 - 三丁目、榎町(旧水谷村)
・入間郡 → 西多摩郡 : 東京都瑞穂町大字二本木の第二区・第三区・第四区の全域と第十区の一部、および狭山台を除く地区(旧元狭山村)

2 古代から近世まで
 7世紀ごろに武蔵国の郡として成立。交通路として古代の官道東山道武蔵路の枝道「入間路」が整備されていたほか、入間川及びその支流の水運も使用していた模様である。『万葉集』巻14東歌(あずまうた)・3778番に「伊利麻治能 於保屋我波良能 伊波為都良 此可婆奴流奴流 和尓奈多要曽称」(入間道の 於保屋が原の いはゐつら 引かばぬるぬる 吾にな絶えそね)がある。現在「入間」は「いるま」と読むが、古くは「いりま」と発音していたことが知られる。郡衙は現在の川越市にあったものと見られ、同市大字的場字地蔵堂の霞ヶ関遺跡が郡衙跡であろうと考えられている[2](所沢市・坂戸市内の別の遺跡を郡衙跡に比定する説もある。またこれらの遺跡は古代の駅家跡であると見る意見もある)。716年、朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗の遺民1799人を武蔵国に移し高麗郡を設置。この際に入間郡域の西側の一部を高麗郡域に当てたものと見られる。高麗郡は律令制下では小郡に分類され、二郷のみであったものの、中世以降高麗郡域が東側に拡大し、江戸時代には入間川が入間郡と高麗郡の境界となっていた。また758年、朝廷は帰化新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の空いた場所に移した。その場所が後に新羅郡、更に新座郡となる。同郡の郡域は入間郡の東辺の一部を割いて設けたものと見られ、郡内は志木郷と余戸のみの小郡であった。833年、多摩郡との境に悲田処が設けられた。中世以降、「入間路」は鎌倉街道上道の本道となった。

2.1 古地名
 和名類聚抄に6郷および郡家郷と余戸郷が記されている。比定は日本歴史地名大系による[3]。
・麻羽(あさは)
坂戸市浅羽を遺名地とし、その一帯に比定されている。
・大家(おほやけ)
不詳。坂戸市森戸にかつてあった大在家村を遺名地とする説(風土記稿)があり、それによって明治期に大家村と命名されている。ほかにふじみ野市から富士見市にかけてに比定する説、越生町大谷との関連を見る説がある。
・郡家
郡衙所在地と考えられるが不詳。川越市久下戸を遺名地とする説、狭山市入間川(かつては単に入間村と呼んでいたとされる)を郡衙所在地と推定する説(風土記稿)がある。
・高階(たかしな)
不詳。越生町・毛呂山町の一帯に比定する説、所沢市山口に比定する説、川越市高島を遺称地とする説がある。なお高階村(現・川越市)は高階郷の地とする伝承により明治期に命名されたもの。
・安刀
不詳。所沢市北野・久米の一帯に比定する説、川越市上戸・霞ヶ関の一帯に比定する説、坂戸市粟生田・上吉田・赤尾の一帯に比定する説がある。東秩父村安戸を遺名地とする説もあるが、比企郡を挟んで距離があり難がある。
・山田(やまた)
川越市山田から大仙波にかけての一帯に比定されている。川越市山田は直接的な遺名地ではなく、中世の山田荘にちなんだ明治期の命名である。
・廣瀬(ひろせ)
狭山市上広瀬および下広瀬を遺名地とし、狭山市から飯能市にかけてに比定されている。近世には高麗郡に位置している。
・余戸
不詳。坂戸市横沼・小沼・赤尾の一帯に比定する説、狭山市の一部とする説がある。

3 近代以降
3.1 近代以降の沿革
・「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。●は村内に寺社領が、○は寺社除地(領主から年貢免除の特権を与えられた土地)が存在。幕府領は松村忠四郎支配所、江川太郎左衛門支配所(韮山代官所)、木村飛騨守支配所が管轄。下記のほか、川越城下17町(江戸町、鍛冶町、上松江町、川越、喜多町、行伝寺門前町、堺町、志義町、志多町、高沢町、多賀町、本町、南町、宮ノ下、妙養寺門前町、養寿院門前町、蓮馨寺門前町)が存在したが、川越町1町として数える。(2町256村)
■幕末の知行
・慶応4年
 ・6月29日(1868年8月17日) – 韮山代官所が韮山県となる。
 ・7月10日(1868年8月27日) - 旧幕府代官の松村長為(忠四郎)が武蔵知県事に就任。
 ・8月8日(1868年9月23日) - 武蔵知県事が松村長為から古賀定雄(一平)に交代。
  ・以上の変更により、幕府領・旗本領のうち、堂山村および上谷ヶ貫村の一部(旧松村支配所管轄分)が前橋藩、北永井村・南永井村・上富村・亀ヶ谷村・本郷村・坂ノ下村・城村・加佐志村・三ツ木村(現狭山市)・氷川村・堀之内村(現所沢市山口)・打越村・川角村・平山村・馬場村・堀込村・南入曽村・岩崎村・上山口村・新堀村・川辺村・大鐘村・勝楽寺村・山城村・柏原新田・大袋村・入間川村・上藤沢村・下藤沢村・北入曽村・町谷村・菩提木村・今泉村・駒林村・藤倉村・増形村・下奥富村・下河原村および宿谷村の一部(旧木下氏知行分)が武蔵知県事、その他が韮山県の管轄となる。
 ・久留里藩の領地替えにともない、葛貫村が武蔵知県事、上野村が韮山県の管轄となる。
 ・川越藩領のうち、増形村・下奥富村が武蔵知県事の管轄となる。
・明治初年 - 堀之内村(現所沢市堀之内)が三ヶ島堀内村に改称。
・明治2年
 ・1月13日(1869年2月23日) - 武蔵知県事・古賀定雄の管轄区域に品川県を設置。
  ・ 4月 – 当郡内の品川県の管轄地域が韮山県に移管。
明治4年
7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が川越県、前橋県、古河県、佐倉県となる。
11月14日(1871年12月25日) - 第1次府県統合により、全域が入間県の管轄となる。
・1873年(明治6年)
 ・6月15日 - 入間県が群馬県(第1期)と合併して熊谷県となる。
 ・寺井宿・寺井松郷・寺井伊佐沼が合併して寺井村となる。(2町254村)
・1874年(明治7年)(2町251村)
 ・神谷新田・平塚新田・堀金新田が合併して神米金村となる。
 ・杉下村が松郷に編入。
・1875年(明治8年)(2町231村)
 ・小ヶ谷戸村・坊村・荻原村・中野村・大森村・矢寺村・宮寺新田・宮野新田および二本木村のうち旧旗本坂部氏知行が合併して宮寺村となる。
 ・氷川村・堀之内村(現所沢市山口)・打越村・岩崎村・町谷村・菩提木村が合併して山口村となる。
 ・平山村・馬場村・堀込村が合併して岩井村となる。
 ・四日市場村が高麗郡四日市場新田を編入。
 ・萱方新田が上浅羽村に、勘六新田が駒寺野新田に、大在家村が森戸村に、新堀村(現所沢市)・川辺村・大鐘村が上山口村に、多和目村のうち旧寺社領が高麗郡田波目村にそれぞれ編入。
・1876年(明治9年)
 ・8月21日 - 第2次府県統合により、熊谷県が武蔵国の管轄地域を埼玉県に合併して群馬県(第2期)に改称。当郡域は埼玉県の管轄となる。
 ・上浅羽村・下浅羽村が合併して浅羽村となる。(2町230村)
・1879年(明治12年)(2町231村)
 ・3月17日 - 郡区町村編制法の埼玉県での施行により、行政区画としての入間郡が発足。郡役所は川越町(川越城跡、現在の川越市役所付近)に設置され、高麗郡とともに管轄。
 ・それにともない、2ヶ所ずつ存在した和田村、三ツ木村、大久保村、大塚村がそれぞれ東和田村(現坂戸市)、西和田村(現越生町)、東三ツ木村(現狭山市)、西三ツ木村(現入間市)、東大久保村(現富士見市)、西大久保村(現毛呂山町)、南大塚村(現川越市)、北大塚村(現坂戸市)に改称。
 ・峰村が北峰村、峯村が南峯村にそれぞれ改称。
 ・北多摩郡日比田村の所属郡が当郡に変更。
1880年(明治13年) - 大岱村の所属郡が北多摩郡に変更され、郡より離脱。(2町230村)
・1881年(明治14年) - 所沢村が所沢町に改称。(3町229村)
・1885年(明治18年) - 高畠村が府川村に編入。(3町228村)

3.2 町村制以降の沿革
・1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、以下の町村が発足。(4町46村)
■町村制施行時の4町46村
・1891年(明治24年)
 ・5月1日 - 吾妻組合村(荒幡村・北秋津村・久米村)が合併して吾妻村が発足。(4町44村)
 ・8月14日 - 入間川村が町制施行し入間川町となる。(5町43村)
 ・8月20日 - 滝野入村が山根村に改称。
・1896年(明治29年)
 ・4月1日 - 入間郡・高麗郡および比企郡の一部の区域をもって、改めて入間郡が発足。下記の町村が本郡の所属となる。(6町58村)
 ・旧高麗郡(1町14村) - 名細村、鶴ヶ島村、高萩村、高麗川村、高麗村、東吾野村、霞ヶ関村、柏原村、水富村、元加治村、加治村、精明村、飯能町、原市場村、南高麗村
 ・旧比企郡(1村) - 植木村
 ・8月1日 - 郡制を施行。
 ・12月10日 - 坂戸村が町制施行して坂戸町となる。(7町57村)
・1902年(明治35年)6月1日 - 山口組合村(山口村・上山口村・勝楽寺村)が合併し、改めて山口村が発足。(7町55村)
・1921年(大正10年)7月1日 - 秩父郡名栗村・吾野村(ともに現飯能市)の所属郡が当郡に変更。(7町57村)
・1922年(大正11年)12月1日 - 川越町・仙波村が合併して川越市となり、郡より離脱。(6町56村)
・1923年(大正12年)4月1日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。
・1926年(大正15年)7月1日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。
・1938年(昭和13年)5月1日 - 植木村が芳野村・古谷村に分割編入。(6町55村)
・1939年(昭和14年)
 ・4月1日 - 山根村の一部(大字葛貫の一部)が高麗川村に、残部が毛呂村に編入。毛呂村は同日改称・町制施行して毛呂山町となる。(7町53村)
 ・12月1日 - 田面沢村が川越市に編入。(7町52村)
・1943年(昭和18年)
 ・4月1日(7町43村)
  ・所沢町・松井村・富岡村・小手指村・吾妻村・山口村が合併し、改めて所沢町が発足。
  ・飯能町・精明村・元加治村・加治村・南高麗村が合併し、改めて飯能町が発足。
 ・11月3日 - 大田村・日東村が合併して大東村が発足。(7町42村)
・1944年(昭和19年)2月11日 - 宗岡村・水谷村が北足立郡志木町および内間木村の一部(荒川西岸部)と合併して北足立郡志紀町が発足し、郡より離脱[8]。(7町40村)
・1950年(昭和25年)11月3日 - 所沢町が市制施行して所沢市となり、郡より離脱。(6町40村)
・1954年(昭和29年)
 ・1月1日 - 飯能町が市制施行して飯能市となり、郡より離脱。(5町40村)
 ・4月1日 - 東金子村が飯能市の一部(旧元加治村の大字野田、仏子)を編入のうえ町制施行、即日改称して西武町となる。(6町39村)
 ・7月1日(5町30村)
  ・入間川町・奥富村・入間村・堀兼村・柏原村・水富村が合併して狭山市が発足し、郡より離脱。
  ・坂戸町・勝呂村・三芳野村・入西村・大家村が合併し、改めて坂戸町が発足。
・1955年(昭和30年)
 ・2月11日(6町27村)
  ・越生町・梅園村が合併し、改めて越生町が発足。
  ・高麗川村・高麗村が合併して日高町が発足。
 ・4月1日(6町15村)
  ・芳野村・山田村・古谷村・南古谷村・高階村・福原村・大東村・名細村・霞ヶ関村が川越市に編入。
  ・柳瀬村・三ヶ島村が所沢市に編入。
  ・毛呂山町・川角村が合併し、改めて毛呂山町が発足。
・1956年(昭和31年)
 ・9月20日 - 高萩村が日高町に編入。(6町14村)
 ・9月30日(6町7村)
  ・東吾野村・原市場村・吾野村が飯能市に編入。
  ・豊岡町・藤沢村・宮寺村・金子村・西武町の一部(旧東金子村の大字小谷田、新久)が合併して武蔵町が発足。
  ・鶴瀬村・南畑村が北足立郡水谷村と合併して富士見村が発足。
・1958年(昭和33年)
  ・10月14日 - 元狭山村の一部(大字二本木の一部及び狭山台)が武蔵町に編入。
  ・10月15日 - 元狭山村の残部(大字二本木の一部及び大字駒形富士山、高根、富士山栗原新田)が東京都西多摩郡瑞穂町に編入され、郡から離脱。(6町6村)
・1960年(昭和35年)11月3日 - 福岡村が町制施行して福岡町となる。(7町5村)
・1964年(昭和39年)4月1日 - 富士見村が町制施行して富士見町となる。(8町4村)
・1966年(昭和41年)
 ・4月1日 - 鶴ヶ島村が町制施行して鶴ヶ島町となる。(9町3村)
 ・11月1日 - 武蔵町が入間町と改称した[9]上で即日市制施行[10]して入間市となり、郡より離脱。(8町3村)
 ・11月3日 - 大井村が町制施行して大井町となる。(9町2村)
・1967年(昭和42年)4月1日 - 西武町が入間市に編入。(8町2村)
・1970年(昭和45年)11月3日 - 三芳村が町制施行して三芳町となる。(9町1村)
・1972年(昭和47年)
 ・4月9日 - 福岡町が改称、即日市制施行して上福岡市となり、郡より離脱。(8町1村)
 ・4月10日 - 富士見町が市制施行して富士見市となり、郡より離脱。(7町1村)
・1976年(昭和51年)9月1日 - 坂戸町が市制施行して坂戸市となり、郡より離脱。(6町1村)
・1991年(平成3年)
 ・9月1日 - 鶴ヶ島町が市制施行して鶴ヶ島市となり、郡より離脱。(5町1村)
 ・10月1日 - 日高町が市制施行して日高市となり、郡より離脱。(4町1村)
・2005年(平成17年)
 ・1月1日 - 名栗村が飯能市に編入。(4町)
 ・10月1日 - 大井町が上福岡市と合併してふじみ野市が発足し、郡より離脱。(3町)

5 脚注
[1]^ 現在の志木市周辺の一時的な変更は反映していない。
[2]^ 加藤恭朗「入間郡家を推定する-6世紀・7世紀から8世紀初頭の遺跡の動向をもとに」(古代の入間を考える会 2008, pp. 39–60)
[3]^ 『埼玉県の地名』平凡社〈日本歴史地名大系〉、1993年。ISBN 4-582-49011-5。
[4]^ 記載は山口堀ノ内村。
[5]^ a b c d e f g 「旧高旧領取調帳」には宮寺村1村として記載。
[6]^ 記載は山口町谷村。
[7]^ a b 「旧高旧領取調帳」には記載なし。
[8]^ 1948年(昭和23年)4月1日に志紀町が廃止されて宗岡村・水谷村が再置されたが、再置後の両村は北足立郡の所属となった。
[9]^ 町の名称変更(昭和41年10月28日自治省告示第156号) 入間市例規集。
[10]^ 町を市とする処分(昭和41年10月28日自治省告示第157号) 入間市例規集。
6 参考文献
・『角川日本地名大辞典』11 埼玉県、「角川日本地名大辞典」編纂委員会、角川書店、1980年7月1日。ISBN 4040011104。
・旧高旧領取調帳データベース
・古代の入間を考える会 『論叢 古代武蔵國入間郡家-多角的視点からの考察』 古代の入間を考える会、2008年。
最終更新 2021年9月22日 (水) 23:44 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
以上ここまで、
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


・郡の中心でなかったのに郡名を市町村名にしたケース
 埼玉県入間市は入間郡でしたが、その中心は川越市です。
・・最後は松平氏8万石の城下町だったところです。
郡制施行で高麗郡を統合し、プロ野球の西武ライオンズの本拠地がある所沢市、
お茶で有名な狭山市と、飯能市、富士見市、坂戸市、鶴ヶ島市、日高市、ふじみ野市を郡域に含んでいました。
昭和の大合併で発足した"武蔵町"が市制施行し、のちに"西武町"を編入した入間市は旧高麗郡にまたがり、入間郡を代表する存在ではありません。両町の名称は令制国名が由来でさらに安易なものでしたから、消えたのもしかたないところです。

・日本初の市にも消えたものがある。
 1889(明治22)年の市政・町村制施行で最初に告示された市は36ありました。・・
 このうち、市名が残っていないのは"赤間関市"です。赤間関の語源は「ワカメ」とも「赤い岩」ともいわれています。「赤馬関」と書かれることもあり、略して「馬関 ばかん」ということもあり、幕末史では馬関として登場することが多いです。・・
 赤間関市は1902(明治35)年に下関市に改称されました。理由は定かではありませんが、時代感覚にそぐわなかったのだと思います。3文字というのは2文字より不便です。
以上、「消えた市町村名の謎」八幡和郎 イーストプレス 2017年7月20日発行


≪くだめぎ?≫
 「入間市」は"入間郡を代表する存在ではありません。"と、バッサリとやっているが。この地域は「狭山茶」の主要産地である。
 JA農協はお茶とその他の作物では組織は違うが、"入間野"地域が先立ちとなってJA農協広域合併を推進したと想像するが。
 よって、"入間野"地域が『入間市』という名称を成立させた、と考えるのが流れと思う。
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Posted at 2021/12/19 07:46:36

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