
「学芸大学駅」
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[写真・画像] 碑文谷駅(1932年)
東横線碑文谷駅
東京府荏原郡碑衾町役場 『市郡合併紀年 碑衾町誌』 1932年
学芸大学駅(がくげいだいがくえき)は、東京都目黒区鷹番三丁目にある、東急電鉄東横線の駅である[1]。駅番号はTY05。
駅名の由来となった東京学芸大学は1964年に小金井市へ移転しているが、東京学芸大学附属高等学校は当駅を最寄り駅として現存している[4]。
■駅名・周辺地名
開業時の駅名「碑文谷」(ひもんや)は現在の目黒区南部一帯の広域名称[3]。荏原郡碑文谷村が1888年(明治21年)に衾村(ふすまむら。現在の目黒区環七通り以南)と合併して碑衾村(ひぶすまむら。1927年に町制を施行して碑衾町)となった際に大字となっていた。駅は碑衾村大字碑文谷字鷹番に設置されたので、大字を駅名として採用した。なお、字の「鷹番」は現在の駅所在地名となっている。
「碑文谷」の由来には諸説あるが、一説には鎌倉街道端にあった碑文を刻んだ石(碑文谷八幡宮に現存)に因むとされている[3]。「鷹番」は江戸幕府が設置した目黒鷹場の鷹番屋敷が置かれていたことに因んでいる。
周辺の目黒区側には、五本木や三谷(さんや)、唐が崎(からがさき)(三谷と唐が崎は住居表示からは消滅)、そして世田谷区側には下馬、さらに野沢がある。
1936年(昭和11年)、それまで赤坂区青山北町(当時)にあった東京府青山師範学校の世田谷下馬町への移転・誘致に東京横浜電鉄が成功、その最寄り駅として「青山師範駅」に改称された。以後、同校の改称に伴って駅名も「第一師範駅」、さらに「学芸大学駅」へと変更された。東京学芸大学は1964年(昭和39年)に小金井市に移転した。
学芸大学移転後、大学受験生から「紛らわしい」という苦情が出るようになった[20]。その後、1999年(平成11年)6月には、翌年の2000年(平成12年)の東横線複々線化および東急目蒲線の営団地下鉄南北線・都営地下鉄三田線乗り入れに伴う線名変更等に伴い、路線図を大幅に刷新することから、駅名変更についても検討されることとなった[20]。周辺住民を対象にアンケートを取り、3分の2以上の賛成が得られれば改名を実施することになっていたが、過半数が反対との結果となり、見送ることとなった[21]。
■脚注
・出典
[1]^ “学芸大学駅|各駅情報”. 東急電鉄. 2015年1月11日閲覧。
[3]^ 東急の駅、p.45。
[4]^ “学芸大学駅|沿線・駅周辺ガイド”. 東急電鉄. 2015年1月11日閲覧。
[20]^ “駅名どうしよう? 東急東横線の都立大学駅・学芸大学駅”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 東京面(朝刊). (1999年6月10日)
[21]^ “「学芸大学・都立大学」駅名存続へ”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 35(朝刊・東京). (1999年7月2日)
最終更新 2022年12月19日 (月) 05:10 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
碑衾町
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碑衾町(ひぶすままち)は、東京府荏原郡にかつて存在した町である。現在の目黒区の南部に位置していた。町名の由来は碑文谷と衾。おおむね東急東横線の沿線にあたる。
碑衾町 ひぶすままち
廃止日 1932年10月1日
廃止理由 編入合併 目黒町、碑衾町→東京市目黒区
現在の自治体 目黒区
廃止時点のデータ
国 日本、地方 関東地方、都道府県 東京府、郡 荏原郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
総人口 40,972人(1930年10月1日)
隣接自治体 目黒町、荏原町、馬込町、池上町、駒沢町、玉川村
碑衾町役場
所在地 東京府荏原郡碑衾町
座標 北緯35度37分10秒 東経139度41分26秒
1.沿革
・1889年(明治22年)5月1日 - 町村制の施行に伴い、碑文谷村の全域と衾村の一部(残部は玉川村に編入)が合併して碑衾村が発足。
・1923年(大正12年) - 関東大震災により東京市方面からの移住者が急増する[1]。
・1927年(昭和2年)4月1日 - 碑衾村が町制施行して碑衾町となる。
・1931年(昭和6年)4月1日 - 碑衾が難読であることを理由に、町名を公募で決めた「朝日町」に改名する予定であった[3]が、東京市への編入が現実味を帯びてきたため、立ち消えとなっている。
・1932年(昭和7年)6月16日 - 大字衾の一部から大字自由ヶ丘が成立。
・1932年(昭和7年)9月10日 - 大字碑文谷の一部から大字鷹番、三谷、本郷が成立。
・1932年(昭和7年)10月1日 - 荏原郡全域が東京市に編入。碑衾町の区域は目黒区となる。
2.交通
2-1.鉄道
・東京横浜電鉄(現東京急行電鉄)
東横線:碑文谷駅 - 府立高等駅 - 自由ヶ丘駅
・目黒蒲田電鉄(現東京急行電鉄)
大井町線:中丸山駅
2-2.道路
いずれも現在の呼称。
目黒通り
駒沢通り
3.名所・旧跡
八雲氷川神社
碑文谷八幡宮
熊野神社
円融寺
4.現在の地名
大岡山、柿の木坂、自由が丘、洗足、平町、鷹番、中根、原町、東が丘、碑文谷、緑が丘、南、目黒本町、八雲、中央町一丁目(いずれも大体の範囲)
5.教育機関
東京高等工業学校(1924年4月移転)[7]→東京工業大学(1929年4月昇格)
府立高等学校(1932年4月移転)[8]
洗足高等女学校
碑衾町青年訓練所
八雲青年訓練所
碑商業実務学校
八雲商業実務学校
碑実務女学校
八雲実務女学校
碑尋常高等小学校
八雲尋常高等小学校
大岡山尋常小学校
向原尋常小学校
自由ヶ丘学園尋常小学校
6.注釈
[1]^ 『市郡合併紀年 碑衾町誌』 143-145頁
[2]^ 『市郡合併紀年 碑衾町誌』 155頁
[3]^ 目黒区誕生 2 幻の朝日町
[4]^ 『大日本篤農家名鑑』280頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年8月29日閲覧。
[5]^ a b 『日本紳士録 第36版』東京クの部284頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年8月22日閲覧。
[6]^ a b 『日本紳士録 第34版』東京コの部295頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年8月22日閲覧。
[7]^ 『官報』 1924年4月1日
[8]^ 『市郡合併紀年 碑衾町誌』 210頁
[9]^ 『早稲田大学校友会会員名簿 大正14年11月調』150頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年4月7日閲覧
7.参考文献
大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
『早稲田大学校友会会員名簿 大正14年11月調』早稲田大学校友会、1915-1925年。
交詢社編『日本紳士録 第34版』交詢社、1930年。
交詢社編『日本紳士録 第36版』交詢社、1932年。
東京市臨時市域擴張部 『荏原郡碑衾町現状調査』 1931年。
東京府荏原郡碑衾町役場 『市郡合併紀年 碑衾町誌』 1932年10月1日発行
最終更新 2022年7月25日 (月) 06:45 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
目黒区
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目黒区(めぐろく)は、東京都の区部南西部に位置する特別区[1]。
目黒区 めぐろく
国 日本、地方 関東地方、都道府県 東京都
市町村コード 13110-5、法人番号 1000020131105
面積 14.67km2
総人口 284,641人 (推計人口、2023年1月1日)
人口密度 19,403人/km2
隣接自治体 品川区、大田区、世田谷区、渋谷区
区の木 シイ
区の花 ハギ
区の鳥 シジュウカラ
目黒区役所
所在地 〒153-8573 東京都目黒区上目黒二丁目19番15号
北緯35度38分29秒 東経139度41分54秒
1.地理
東京23区の南西部、武蔵野台地の南東部に位置する。目黒川と呑川が形成する谷とその支谷が台地を刻んでおり、標高5m未満から35m以上まで起伏に富んだ坂が多いことが特徴である[2]。
面積は1,470haであり、これは東京23区中で16番目となる[2]。
1-1.河川・水路・池
区内には、以下の二級河川がある。
目黒川
蛇崩川
立会川
呑川
柿の木坂支流
駒沢支流
九品仏川
これらの川は、呑川の一部と目黒川のみが地表を流れており、他は支流の羅漢寺川なども含めて区内では暗渠にされている[3]。
主な池は以下の通りである。
碑文谷池 - 碑文谷公園内
清水池 - 清水池公園内
2.歴史
2-1.原始、古墳時代
東山貝塚遺跡:23区内の3大貝塚の一つ。旧石器時代から古墳時代の遺跡が重層的に発見されており、氷期、縄文海進期、古代海退期と超長期的に利用された場所である。縄文時代の遺跡は区内に数多い。
2-2.古代
武蔵国荏原郡に属す。
9世紀頃大鳥神社、目黒不動、法眼寺が建てられる。
横山党目黒氏の荘園「菅刈荘」であったと伝えられる(目黒高校近辺が居館であったという伝承がある)。
2-3.中世
区内に鎌倉道幹線が整備された。
後北条氏勢力下となってからは、吉良氏の所領となった。
2-4.近世
江戸時代には孟宗竹の産地であり、現在の目黒区南部、品川区境で採れる筍は名産品であった。
2-5.近・現代
1874年 八雲小学校設置。
1896年 ビール工場開場。
1907年 目黒競馬場開設。
1927年 東急東横線開通。
1933年 目黒競馬場廃止。
1994年 防衛庁移転計画に基づき統合幕僚学校・三自衛隊の幹部学校が移駐、目黒駐屯地として開設。
2003年 - 目黒区ポイ捨てなどのないまちをみんなでつくる条例制定。
2-6.区の沿革
1867年 武蔵知県事管轄地となる。
1869年 品川県の一部となる。
1871年 東京府の一部となる。
1889年5月1日 荏原郡三田村、上目黒村、中目黒村、下目黒村が目黒村に、碑文谷村、衾村が碑衾村になる。
1922年12月1日 荏原郡目黒村が荏原郡目黒町になる。
1927年4月1日 荏原郡碑衾村が荏原郡碑衾町になる。
1932年10月1日 目黒町と碑衾町が東京市に編入、2町の区域をもって東京市目黒区となる。
1936年 区役所を中央町二丁目に移転。
1980年9月20日 区歌「めぐろ・みんなの歌」を制定。
1981年8月1日 防災行政無線運用開始。
2003年1月6日 区役所を上目黒二丁目に移転。
最終更新 2023年2月26日 (日) 03:30 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)
昭和のはじめに都市発展にともなって市街地化した郊外の町村の合併という動きがありました。新宿や渋谷が東京市に、伏見や山科が京都市に合併したのはこのころです。 P3
合成地名はそれほど多くないですが存在します。荏原郡に碑文谷村(ひもんや)と衾村(ふすま)から1文字ずつをとって碑衾村(ひぶすま)という例があります。P17
「消えた市町村名の謎」八幡和郎 著(イースト新書Q)
2017年7月20日 初版第1刷発行 より
≪くだめぎ?≫
江戸時代からの碑文谷村、衾村が合併して碑衾村になったとされるが、元の衾村(ふすま)の一部は隣の玉川村(現・世田谷区の一部)に編入されたとある。東京府で行われた「大区小区」か、「田園調布」などの開発の関係か・・。
まっ、同じ荏原郡内・東京府内部のことであるから問題ないか。