
[写真・画像] 渋谷駅(1950年代)
日本政府「写真公報(1959年7月1日号)」より。
渋谷町 (東京府)
渋谷町(しぶやまち、旧字体: 澁谷町)は、かつての東京府豊多摩郡にあった町である。
上渋谷村、中渋谷村、下渋谷村として存在していた3村が、1889年(明治22年)の町村制施行により南豊島郡渋谷村として成立した。1909年(明治42年)には渋谷町に昇格したが、1932年(昭和7年)になると東京市に編入されて消滅、渋谷区の一部となった。
渋谷町 しぶやまち
廃止日 1932年10月1日
廃止理由 編入合併
渋谷町、千駄ヶ谷町、代々幡町→東京市渋谷区
現在の自治体 渋谷区
廃止時点のデータ
地方 関東地方
都道府県 東京府
郡 豊多摩郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
面積 6.06 km2.
総人口 102,056人(1930年10月1日)
隣接自治体 東京市芝区、麻布区、赤坂区、豊多摩郡千駄ヶ谷町、代々幡町、荏原郡目黒町、大崎町
渋谷町役場
所在地 東京府豊多摩郡渋谷町氷川町34番地
座標 北緯35度39分13秒 東経139度42分33秒
1.歴史
渋谷川(穏田川)と宇田川が合流する現在の渋谷駅周辺は谷状の地形となっており、古来より「渋谷」と呼ばれていた。
1-1.前史
渋谷氏の祖・河崎基家が前九年の役(11世紀)の功労により源頼義から下賜された地領が、しばらくして武蔵国豊嶋郡渋谷郷と呼ばれるようになった。
中世になると 鎌倉街道が渋谷郷を貫通し、渋谷氏が渋谷城を築いた。江戸時代の寛文年間(17世紀)、渋谷村は、「上渋谷村」、「中渋谷村」、「下渋谷村」の3村となった。
1-2.明治維新後
江戸時代までに現在の渋谷区の区域にあった町村は、1868年(慶應4年)、先ずは同年に任命された武蔵知県事・松村長為の管轄とされた。
1870年(明治2年)、下渋谷村と中渋谷村は東京府豊島郡(豊嶋郡)、上渋谷村は品川県豊島郡に所属することとなった。2年後の1872年(明治4年)、品川県の廃止に伴い、上渋谷村も東京府豊島郡に編入された。
1879年(明治11年)、郡区町村編制法の施行に伴って豊島郡は南豊島郡と北豊島郡に分割され、上渋谷村、中渋谷村、下渋谷村の渋谷3村は、いずれも南豊島郡に属することとなった。
・1870年頃、薩摩藩島津家、渋谷川左岸にあった領地を皇室に献上し、「皇室御料牧場」が設けられる。渋谷では牧場勤外国人に師事し、食肉・搾乳牛飼育を業とする村民が現われた。
・1882年(明治15年)、 青山学院が開拓使農事試験場第二官園跡地[1] である現在地に移転。
・1885年(明治18年) には日本鉄道品川線(後の山手線)が開通し、渋谷駅が開業した。
また、中渋谷村は1874年(明治7年)中豊沢村を編入、上渋谷村は1879年(明治12年)上豊沢村を編入、下渋谷村も同じ年、下豊沢村を編入している。
1-3.渋谷村の成立
1889年(明治22年)、町村制が施行され、それまでの南豊島郡上渋谷村、中渋谷村、下渋谷村の渋谷3村に、赤坂区の渋谷宮益町と渋谷神原町、青山北町七丁目と青山南町七丁目、麻布区の麻布広尾町の区域をそれぞれ加え、南豊島郡 渋谷村が成立した。
7年後の1896年(明治29年)、南豊島郡は東多摩郡と合併して豊多摩郡となったことから、渋谷村も豊多摩郡 渋谷村に代わった。
1898年(明治31年) 東京農業大学が常磐松御料地に移転
1901年(明治34年) 山手線恵比寿駅がビール出荷専用の貨物駅として開設。
1902年(明治35年) 実践女学校および女子工芸学校が常磐松御料地に移転。
1906年(明治39年) 恵比寿貨物駅の旅客取り扱い開始。
1907年(明治40年) 玉電道玄坂上〜三軒茶屋間開業。同年8月11日渋谷駅前まで乗り入れ。
1-4.渋谷町の成立
1909年(明治42年) 元日に渋谷村は町制を施行、豊多摩郡 渋谷町に昇格した。
1911年(明治44年) 東京市街鉄道(後の都電)が中渋谷まで延伸。(1923年終点を渋谷駅西口に移転。)
1913年(大正2年) 円山町に三業地が形成される。戦後の高度成長期まで花街として繁栄する。1964年東京オリンピック後から現在のようなラブホテル街へと変化していく。
1916年(大正5年) 常磐松女学校が常磐松御料地に設立。
1923年(大正12年) 皇典講究所および國學院大學が氷川裏御料地に移転。
1924年(大正13年)
箱根土地が中川久任伯爵邸跡地を「百軒店」と名付け、商業地として分譲。関東大震災で被害をうけた下町の店が百軒店に移転する。
1925年(大正14年)
渋谷駅から毎日通勤していた忠犬ハチ公[注釈 1]の飼い主である渋谷町在住の東京帝国大学教授・上野英三郎が亡くなる。
1927年(昭和2年) 東横線渋谷駅・代官山駅が開業。
1928年(昭和3年) 従来の大字・小字を改廃して、66町(大字)が新設される。
1928年(昭和3年) 箱根土地が南平台町の西郷従道侯爵邸跡地を西郷山と名付けて分譲。
1929年(昭和4年) 〜1931年(昭和6年) 渋谷川の改修工事が行なわれる。
1932年(昭和7年) 東京市に編入され、渋谷町及び同時に編入された千駄ヶ谷町、代々幡町の区域をもって渋谷区となる。[2][3]
2.人口
・1930年 102,056 ・1925年 99,022 ・1920年 80,799
3.渋谷町の字名
渋谷町では1928年(昭和3年)、それまでの大字・小字を廃止して66町(大字)を新設した。そのため、その前後では町内の字名(あざめい)が大きく異なる。
改編後の町名はいずれも正式には大字であり、それらは1932年(昭和7年)の渋谷区成立後、そのまま新設の町として引き継がれた。
3-1.改編前
大字青山北町七丁目
大字青山南町七丁目
大字宮益町[注釈 2]
大字麻布広尾町
大字渋谷上広尾町
大字渋谷下広尾町
大字渋谷広尾町
大字渋谷神原町
大字上渋谷
字竹ノ下・大原・渋谷・前耕地・町裏・豊沢・宇田川
大字中渋谷
字大和田下・堀ノ内・並木・並木前・長谷戸・大和田・鉢山・南平台・豊沢・神泉谷・大山・神山・道玄坂・大向・深町
大字下渋谷
字猿楽・代官山・長谷戸・鎗ヶ崎・広尾向・向山・欠塚・伊達跡・伊達前・広尾耕地・豊沢・町田・新地・笄開谷・豊分・羽根沢・居村・四反町・田子免・伊藤前・氷川裏・常磐松・伊勢山
3-2.改編後
・竹下町・神園町・神南町・神宮通・北谷町・宇田川町・大向通・神山町
・松濤町・大山町・栄通・神泉町・円山町・上通・宮下・美竹町・青葉町
・緑岡町・八幡通・金王町・並木町・大和田町・南平台町・桜ガ丘町
・鶯谷町・鉢山町・猿楽町・代官山町・衆楽町・公会堂通・長谷戸町
・田毎町・丹後町・中通・常磐松町・若木町・氷川町・上智町・永住町
・羽沢町・豊分町・宮代町・元広尾町・下通・豊沢町・新橋町・恵比寿通
・伊達町・景丘町・山下町・向山町・原町
4.脚注
4-1.注釈
[注釈 1]^ 東京朝日新聞に掲載された記事を機に「忠犬ハチ公」として知られるようになったのは、渋谷町が東京市に合併した以降のことである。
[注釈 2]^ 渋谷宮益町のことだが、正式には「宮益町」
4-2.出典
[1]^ 青山学院 『青山学院九十年史』 1965年、118頁
[2]^ 伊野泰一,佐藤豊,堀口和正『目で見る渋谷区の100年』郷土出版社、2014305、14頁。ISBN 9784863752092。
[3]^ 池享 櫻井良樹 陣内秀信 西木浩一 吉田伸之『みるよむあるく 東京の歴史7 地帯・編4 渋谷区 ・中野区・杉並区・板橋区・練馬区・豊島区・北区』吉川弘文館、20191110、10頁。
5.関連書籍
東京市臨時市域擴張部 『豊多摩郡澁谷町現状調査』 1931年
東京府豊多摩郡渋谷町 『渋谷町町勢一斑 昭和7年』 1932年
「上渋谷村、中渋谷村、下渋谷村」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ10豊島郡ノ2、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763976/80。
最終更新 2023年4月8日 (土) 04:41 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
渋谷区
渋谷区(しぶやく)は、東京都の区部西部に位置する特別区[1]。
1.地理
新宿区・豊島区とともに「副都心3区」とされる[2]。また、不動産業界においては千代田区・中央区・港区の「都心3区」に新宿区と渋谷区を加えて「都心5区」と称される[3]。区内全域が武蔵野台地上の高台にあり、東京の山の手地区を構成する。
ターミナル駅である渋谷駅周辺(渋谷)は新宿・池袋とともに三大副都心の一角をなし、東京を代表する繁華街である。渋谷駅ハチ公口前にある渋谷スクランブル交差点や渋谷センター街は、「若者の街」の典型としてニュースなどで報道されることが多く、全国的に有名である。新宿駅に近い代々木や千駄ヶ谷も新宿と一体となって繁華街・オフィス街となっている。ほか、西新宿に隣接する初台や本町にもオフィスビルが多く存在する。
原宿・表参道及び隣接する港区の青山エリアは日本のファッションの中心として知られるほか、代官山や恵比寿には商業施設やセレクトショップなどのファッション・アパレル関連産業が集積している。
区内には明治神宮や代々木公園といった広大な緑地が存在し、周辺には松濤や代々木上原、代官山といった山の手の高級住宅街も点在している。同様に高級住宅地として知られる広尾は麻布区(現在の港区)に起源を持ち、現在でも麻布に近い地域性を持つ。
上記の初台、本町のほか幡ヶ谷や笹塚といった区の北部は渋谷の中心部から離れており、甲州街道や京王線の沿線にあるという特性上、昔から新宿との結びつきが強い。とはいえ渋谷区の一部であり、2022年秋には「北渋フェスティバル」やランニングを楽しむ「北渋マイル」を開催し、「北渋」として地域おこしを図る動きもある[4]。
これら区北部は下町情緒あふれる庶民的な商店街が数多く存在するなど、新宿区や中野区のターミナル駅周辺以外のエリアに近い雰囲気を持つ地域である。しかし、地域内に存在する緑道や水道道路の再整備が計画されているほか、駅周辺でも大規模な再開発が行われており、近い将来に街の様子が変貌する可能性がある。
1970年辺りまでは、「若者の街」「若者文化の流行の発信地」といえば、新宿であった[5]。しかし、1973年にで渋谷パルコの開店があり、日本における若者文化の歴史が大きく変化した。その流れは「新宿から渋谷、または渋谷区全体へ」(つまり原宿、表参道、代官山、裏原宿方面も)と移り変わっていくこととなる。
2.歴史
渋谷区は1932年(昭和7年)に設置された。同年、それまで15区で構成されていた東京市に隣接する5郡82町村が編入され、豊多摩郡に属していた渋谷町・千駄ヶ谷町・代々幡町の3町をもって東京市渋谷区が成立したのが始まりである[注釈 1]。
渋谷区の成立には一悶着があり、必ずしも当時の住民の満足できる結果とはならなかった。渋谷町とともに渋谷区の一部となることになった千駄ケ谷町・代々幡町が、渋谷区になることに消極的であったからである。千駄ケ谷町は昔から四谷区や赤坂区との関係が深く、町域が都心に近かったこともあり、当時「郊外」のイメージが強かった渋谷町と一緒になることには消極的であった[8]。代々幡町も古来より新宿との結びつきが強かったため、新宿に近い淀橋町などと一緒の区を形成することを模索しており、渋谷町と一緒になることには反対の姿勢だった[9]。しかし、東京市編入の際には同じ郡に所属する町村同士で1つの区を形成するというルールがあったため、豊多摩郡の南端にあり互いに隣り合う渋谷町・千駄ケ谷町・代々幡町が合わさって一つの区を形成することは避けられず、千駄ケ谷町・代々幡町も渋谷町と一緒になることを渋々受け入れた[注釈 2]。その後、区の名称を決める際にも、千駄ケ谷町や代々幡町は明治神宮の所在地として全国的に有名だった代々木を採用し「代々木区」とすることを提案したが、渋谷町は「渋谷区」で譲らず3町の間で争いが起きた。妥協策として「宮区」(渋谷・千駄ヶ谷・幡ヶ谷の3つの谷、すなわち「三谷(みや)」と代々木にある明治神宮の「宮」をかけたもの)とする案も出たという[9]。最終的には東京府議会と関係の深い渋谷町議会議員にの圧力で新区名が強引に「渋谷区」とされることになったが、このような経緯は千駄ケ谷町・代々幡町の住民に怨念を残すことになり、千駄ケ谷町では大規模な反対運動も起こった[8]。 渋谷町が他の2町に敬遠されたのは、当時の渋谷がまだ未発達だったことが一番の原因である[9]。昔から交通の要衝として栄え東京を代表する繁華街になっていた新宿と比べ、当時の渋谷はまだ発展途上であり、いまだ「郊外」のイメージがつきまとっていた。しかし、その後渋谷は東京を代表する繁華街として成長し、1970年代以降は若者文化の中心地として君臨する(後述)ようになる。
■1970年代 - 80年代
1970年代は若者の街、若者文化などの、流行の発信地の大きな移動が始まり若者文化の歴史を大きく変えた(新宿→渋谷)。この影響で渋谷だけではなく、渋谷区の中にある原宿を含めた渋谷区全体に大きな変化が訪れることになる。1970年ごろまでは、若者の街、若者文化の流行の発信地といえば、何といっても新宿だった。しかし、1973年に渋谷でPARCOの開店があり、日本における若者文化の歴史が大きく変化。その流れは「新宿から渋谷、または原宿を含めた渋谷区全体へ」(つまり原宿、表参道、代官山、裏原宿方面も)と移り変わっていく。
3.脚注
3-1.注釈
[注釈 1]^ 渋谷町、千駄ヶ谷町、代々幡町のかつての町域は、それぞれ現在の渋谷警察署、原宿警察署、代々木警察署の管轄地域と一致する。
[注釈 2]^ この際、豊多摩郡の残り10町は、2 - 4町ずつまとめられ、「中野区」「杉並区」「淀橋区」として再編されることになった。
3-2.出典
[1]^ 『大辞林』第三版
[2]^ 国土交通省 第6章 都市構造と鉄道利用に関する分析
[3]^ “都心三区 | 用語集|タウンハウジング”. タウンハウジング|賃貸マンション・アパートのお部屋探しはお任せください。. 2021年4月4日閲覧
[4]^ 【ぶらりぶらり】「北渋」玉川上水の歴史跡 彩る芸術『朝日新聞』朝刊2022年10月18日(東京面)同日閲覧
[8]^ 「祝はぬ千駄ケ谷」、『読売新聞』、1932 年 10 月 2 日、夕刊、p.2
[9]^ 幡ヶ谷郷土史
4.参考文献
東京都交通局編『東京都交通局60年史』東京都交通局、1972年。
渋谷区郷土博物館・文学館編『ハチ公の見た渋谷展図録』渋谷区郷土博物館・文学館、2005年7月。
渋谷区郷土博物館・文学館編『住まいからみた近・現代の渋谷』渋谷区郷土博物館・文学館、2007年10月。
渋谷区郷土博物館・文学館編『「春の小川」の流れた街・渋谷-川が映し出す地域史』渋谷区郷土博物館・文学館、2008年9月。
最終更新 2023年5月7日 (日) 09:51 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
以上 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
≪くだめぎ?≫
1889(明治22)年に町村制が施行され、東京府南豊島郡渋谷村が成立。
1896(明治29)年、南豊島郡と東多摩郡が合併して豊多摩郡となる。
現在の渋谷区・中野区・杉並区および新宿区となっている地区が、以後一体化・市街地化すると「東京府」は思っていたのではないか。
実際、1932(昭和7)年に大「東京市」に編入されるが、渋谷町(しぶやまち)は直前には10万人を超える
"都市"であった。急激に都市化して、住んでいる方々も「渋谷」は郡部で田舎と思っていた考え・思いが、人口増加という数字を信じていなかった、思いこんでいた節がある。