
[写真・画像] 四谷大木戸跡碑
四谷大木戸(よつやおおきど)は、江戸時代の四谷に設けられていた、甲州街道の大木戸(街道を通って江戸に出入りする通行人や荷物を取り締まるための関所)である。現在の東京都新宿区四谷4丁目交差点にあたり、新宿区立四谷区民センターの脇には四谷大木戸門跡の碑が立っている。
元和2年(1616年)、江戸幕府により四谷の地に、甲州街道における江戸への出入り口として大木戸が設けられた。地面には石畳を敷き、木戸の両側には石垣を設けていた。初めは夜になると木戸を閉めていたが、寛政4年(1792年)以降は木戸が撤去されている(木戸がなくなった後も四谷大木戸の名は変わらなかった)。文政12年(1829年)成立の『江戸名所図会』には、木戸撤去後の、人馬や籠などの行き交う様子が描かれている[1]。
大木戸近くには、承応2年(1653年)に完成した玉川上水の終点にあたる四谷水番所が設けられ、ここから江戸市中へ配水していた。また、元禄12年(1699年)には大木戸の西に甲州街道最初の宿場となる内藤新宿が開設されている。
明治維新後、石畳や石垣は交通の障害となったため、明治9年(1876年)に撤去されてしまい、現在では何も残っていない。ただし、現在の交差点上が「四谷大木戸跡」として東京都指定旧跡となっている。なお、新宿御苑の出入り口のひとつである大木戸門の名前は、四谷大木戸に因むものである。
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四谷区
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四谷区(よつやく、旧字体: 四谷區)は、東京府東京市(後に東京都)にかつて存在した区である。1878年(明治11年)から1947年(昭和22年)までの期間(東京15区及び35区の時代)に存在した。現在の新宿区の一部。
四谷区 よつやく
廃止日 1947年3月15日
廃止理由 新設合併
淀橋区、四谷区、牛込区 → 新宿区
現在の自治体 新宿区
廃止時点のデータ
地方 関東地方
都道府県 東京都
面積 2.85km2.
総人口 11,245人(国勢調査人口、1945年10月1日)
隣接自治体 牛込区、麹町区、赤坂区、渋谷区、淀橋区
四谷区役所
所在地 東京都四谷区内藤町1番地
座標 北緯35度41分15秒 東経139度42分52秒
1.歴史
・1878年(明治11年)11月2日 - 郡区町村編制法により、以下の区域をもって東京府四谷区が発足。
・四谷愛住町、四谷荒木町、四谷坂町、四谷左門町、四谷須賀町、四谷舟町(以上は現存。ただし四谷坂町以外「四谷」の冠称は廃止)
・四谷塩町一丁目(現四谷本塩町)
・四谷箪笥町、四谷北伊賀町、四谷新堀江町(現四谷三栄町)
・四谷伝馬町一丁目、四谷伝馬町新一丁目、四谷伝馬町二丁目、四谷伝馬町三丁目、四谷尾張町、四谷仲町一丁目、四谷忍町、四谷塩町二丁目、四谷塩町三丁目、四谷永住町(現四谷)
・四谷南伊賀町、四谷寺町、四谷仲町二丁目、四谷仲町三丁目、鮫河橋谷町一丁目、鮫河橋谷町二丁目(現若葉)
・四谷南寺町(現須賀町)
・四谷東信濃町(現信濃町、ごく一部は南元町)
・四谷平長町、千駄ヶ谷西信濃町(現信濃町)
・元鮫河橋町(現南元町、若葉)
・元鮫河橋南町(現南元町)
・四谷右京町(現大京町)
・千駄ヶ谷大番町(現大京町)
・千駄ヶ谷甲賀町、千駄ヶ谷一丁目(現霞ヶ丘町、霞岳町)
・千駄ヶ谷二丁目、千駄ヶ谷三丁目、千駄ヶ谷仲町一丁目、千駄ヶ谷仲町二丁目(現渋谷区千駄ヶ谷一〜六丁目、代々木一丁目)
・1879年(明治12年)
4月 - 牛込区市ヶ谷七軒町(現四谷本塩町の一部)を編入。四谷七軒町に改称。
4月22日 - 千駄ヶ谷西信濃町、千駄ヶ谷甲賀町、千駄ヶ谷大番町、千駄ヶ谷一丁目、千駄ヶ谷二丁目、千駄ヶ谷三丁目、千駄ヶ谷仲町二丁目、千駄ヶ谷仲町一丁目、を南豊島郡千駄ヶ谷村に編入。
・1880年(明治13年)9月27日 - 麹町区麹町十一丁目、十二丁目、十三丁目(現四谷)、牛込区市ヶ谷本村町の一部(現四谷本塩町)、市ヶ谷片町(現片町、ごく一部は荒木町)を編入。市ヶ谷本村町、市ヶ谷片町をそれぞれ本村町、四谷片町に改称。
・1889年(明治22年)5月1日 - 市制、町村制の施行に伴う東京市の設置により、以下の再編が行われた。
・南豊島郡の以下の2町村の各一部を編入(カッコ内は残部の編入先)。
・内藤新宿添地町の飛地(内藤新宿町)→四谷永住町へ編入。
・千駄ヶ谷村(千駄ヶ谷村) - 1879年に分離した地域のうち、字西信濃町(もと千駄ヶ谷西信濃町)、火薬庫前、霞岳、川向(元千駄ヶ谷一丁目)、甲賀町(元千駄ヶ谷甲賀町)、池尻、大番町(元千駄ヶ谷大番町)の7字。
・1891年(明治24年)編入された旧千駄ヶ谷村域に以下の町丁を設置。一部は四谷永住町に編入。
・四谷西信濃町(字西信濃町・火薬庫前。現:信濃町)
・四谷霞岳町(字霞岳・川向・甲賀町。現:霞ヶ丘町)
・四谷大番町(字大番町・池尻。現:大京町)- 既存の町丁に編入。
1891年(明治24年)3月18日 - 豊多摩郡内藤新宿町大字内藤新宿一丁目の一部(字大木戸)を編入し四谷内藤町を設置。
1894年(明治27年)10月9日 - 甲武鉄道四ツ谷駅および信濃町駅開業。
1903年(明治36年)12月 - 東京市街鉄道(後の東京都電車)が新宿駅に乗り入れ。
1911年(明治44年) - 町名の「四谷」の冠称を廃止。鮫河橋谷町、元鮫河橋町、元鮫河橋南町を、それぞれ谷町、元町、南町に改称。
1915年(大正4年)5月30日 - 京王電気軌道(現在の京王線)新宿追分駅(新宿三丁目)が開業。
1920年(大正9年)4月1日 - 豊多摩郡内藤新宿町を編入。以下の町丁を設置。
新宿一丁目(大字内藤新宿一丁目、大字内藤新宿北裏町)
新宿二丁目(大字内藤新宿二丁目、大字内藤新宿一丁目、大字内藤新宿北町)
新宿三丁目(大字内藤新宿三丁目、大字内藤新宿添地町)
三光町、花園町(大字内藤新宿北裏町)
番衆町(大字内藤新宿番衆町、大字内藤新宿北裏町)
旭町(大字内藤新宿南町)
内藤新宿一丁目の一部は内藤町に編入。
1927年(昭和2年)10月28日 - 新宿追分駅が、京王新宿ビルディング1階に移転。
1930年(昭和5年)3月6日 - 新宿追分駅は、四谷新宿駅に改称。
1937年(昭和12年)5月1日 - 四谷新宿駅は、京王新宿駅に改称。
1943年(昭和18年)
7月1日 - 東京都制施行により東京都四谷区となる。
旧内藤新宿町の区域を除く全域で町名整理が行われ、町名をおおむね現行のものに変更。
1945年(昭和20年)
4月13日~4月14日 - 城北大空襲を受ける
7月24日 - 京王新宿駅が廃止される。
1947年(昭和22年)3月15日 - 淀橋区および牛込区と合併し、東京都新宿区となる。
新宿区発足後、内藤町にあった四谷区役所庁舎は新宿区役所四谷支所となり、その後1950年(昭和25年)に組織改組により新宿区四谷特別出張所に名を改めた。その後建て替えが行われ、1997年(平成9年)に新宿区四谷区民センターとして竣工した。
2.交通
・鉄道路線
国鉄(現JR東日本)
中央本線
四ツ谷駅 - 信濃町駅
京王電気軌道(→東京急行電鉄(大東急)→京王帝都電鉄、現京王電鉄)
京王線
新宿追分駅(→四谷新宿駅→京王新宿駅、その後廃駅)
(現行の京王線新宿駅、新線新宿駅とは異なる。京王線の新宿駅付近の廃駅も参照。)
東京メトロ丸ノ内線、南北線は未開通。また北参道駅(副都心線)、新宿三丁目駅(丸ノ内線、副都心線、都営地下鉄新宿線)、新宿御苑前駅、四谷三丁目駅(丸ノ内線)、国立競技場駅(都営大江戸線)は開業していなかった。
3.医療機関 慶應義塾大学病院(1920年11月開院)
4.教育機関 慶應義塾大学医学部
5.外部リンク
四谷区の写真一覧 - 国立国会図書館
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≪くだめぎ?≫
・1871(明治4)年7月「廃藩置県」が断行、
1888(明治21)年、47道府県が確定した。
・1871(明治4)年、戸籍法制定
全国に区設置(行政区画)、戸長・副戸長配置。
・1872(明治5)年、前年設置の区を「大区」と改称、
その下にそれまでの町村をいくつかにまとめて「小区」を置き、
大区に区長・副区長、
小区に戸長・副戸長を置く(番号・ナンバー制)。
番号・ナンバー制は急進的すぎてで十分に機能しなかったため、
・1878(明治11)年7月22日
郡区町村編成法が制定、もとの地名が復活した。
『東京府四谷区』
東京府には15区が設定されたが、その一つである。
「東京府15区」 = 「江戸市中」
= 「東京市」(1888M21.5.1市制施行)
・1920(大正9)年4月1日 豊多摩郡内藤新宿町を編入、
その後の再編の序章と言っても良い、「新宿区」の元だ。