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2025年05月02日 イイね!

仮称「寿都・岩内」新線!?

仮称「寿都・岩内」新線!?[写真・画像]
オレンジカード JR北海道 寿都鉄道(8100形) SL
YAHOO! JAPAN オークション より
1966年の胆振支庁地図。

寿都鉄道
 寿都鉄道(すっつてつどう)は、1918年(大正7年)に創業、1920年(大正9年)に開業し、1968年(昭和43年)まで北海道寿都郡黒松内町の黒松内駅から同郡寿都町の寿都駅を結んでいた鉄道路線、およびそれを運営していた鉄道会社である[1 a]。
 1968年当時に廃業した中小私鉄は珍しくはなかったが、資本金2000万円の会社の負債が2億5000万円に膨れ上がり、未払い賃金が長期にわたり発生するなど、最も悲惨な例として知られる[1 b]。
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
北海道寿都郡寿都町字渡島130
設立 1918年(大正7年)8月20日
業種 鉄軌道業
事業内容 旅客鉄道事業、バス事業
代表者 社長 明石徳松
資本金 20,000,000円
発行済株式総数 400,000株
特記事項:1972年度現在(『私鉄要覧 昭和47年度版』 89頁)
1.歴史
1-1.設立の経緯
寿都湾に面する寿都町は、ニシン漁のおかげで明治の頃からにぎわった町で、鉄道開通前の1918年には黒松内駅から乗合馬車が運行していた。料金は60銭で所要2時間、冬には馬橇で2時間半かかった[2][3]。
 寿都町には函館 - 小樽間鉄道(函館本線)に連絡する支線を敷設して欲しいという要望があり、ことあるごとに関係機関に要請が行われていた。しかし、鉄道敷設に必要な国会の議決が早急には得られなかったため、民間で設立した後に政府に買い上げてもらうこととした。1918年2月13日付けで鉄道免許状が下付され[4]、同年8月20日に、寿都で獲れるニシンや鉱産物の輸送等を目的として「寿都鉄道株式会社」[5][6]が設立された。資本金は50万円であった。このとき設立にあたったのは畑金吉。畑は福井県三国の出身で、新聞記者を経て政治の世界に入り立憲同志会北海道支部設立のため渡道していた。この選挙運動の際に寿都町の有力者である中田忠治、土谷重右衛門らから町の繁栄には鉄道は不可欠との申出を受け鉄道敷設運動に加わることになったという。また重役として函館・小樽の実業家が名を連ねていた。1919年7月に起工されたが、第一次世界大戦の影響で資材が高騰し、建設費は資本金の倍となる90万円近くになってしまい不足分は金融機関からの借入金によった。また機関車などの車両は鉄道省から払下げを受けることになった。
1-2.開通から休止まで
 1920年10月24日に鉄道路線が開通した[7]。27日には役人や名士を招待し寿都駅前で開通式を挙行し、提灯行列や花火打上げなど町を挙げての余興がおこなわれた。27・28日は無料運転となり7170形機関車が走った。旅客と貨物輸送を行い、利用客は年間10 - 13万人前後、1946年のピーク時には31万人を運んだ。また、ニシン輸送の際には、魚油で列車がスリップしたというエピソードもあったらしい。
 畑金吉は、政府に買い上げてもらうために、国会がある度に議員全員に陳情を行ったが、それが実現されることはなかった。一方、事業資金債務は13年で償還し終え、順調な経営を進めていた。
 しかし、第二次世界大戦後、物価・人件費は高騰するのに対して、運賃は物価庁からの許可が得られず数年間据え置かれたままであったことから、経営が次第に悪化し始めた。1952年には経費削減の一環として、燃費のいいディーゼル機関車が導入されたりした(営業用としては北海道初)。
 しかし、鉱山の閉山、ニシン漁の衰退、道路整備によるトラック輸送の増加、バス運行による鉄道利用客の減少により経営は悪化する。
 1965年のダイヤ改正以降は1日に1往復に減らされたが、冬期は除雪費用が出せず運休し、鉄道が運行できたのは年間300日未満であったという。運行できたとしても黒松内駅に国鉄の臨時列車があるとホームが使用できないため、黒松内行きは旅客扱いをしないという有様であった[8]。それでも岩内線と連絡して函館本線の勾配緩和別線にする計画[9]が存在していて、日本国有鉄道による買収を期待しながらバスやタクシー・砕石など経営の多角化を図った。
 1968年4月19日付けの北海道新聞夕刊の特集記事「消えてゆく私鉄」で寿都鉄道が取り上げられ、「十九世紀、アメリカ・ボールドウィン社製機関車。全国の鉄道ファンがたずねてくると、機関庫から引き出して見せるだけが仕事の三人の機関区員」「ニシン漁、鉱山で、かつて栄えた寿都鉄道。いまは犬クギも抜け、まくら木は朽ちて”馬の散歩道”。客貨混合でダイヤが不定のため、走れば乗客から苦情続出-という。」「一日の乗客わずか10人。それも一月一日から”雪害”で運休のまま。線路の雪は消えたのに、機関車は目ざめる気配もなかった」と報じられ、この時点で既に実質的な運休状態であったことが分かる。会社では同年4月30日に運輸省に対して全線運休の申請を出し、この頃に鉄道部門の従業員20名を解雇している。運輸審議会の答申を経て同年8月14日に運輸相が運行休止の許可を出しているが、前述の通り前年の1967年後半頃から実質的な運休状態となっており、最終運行日がいつであったかははっきりしない。
1-3.生産管理闘争
 1968年4月、鉄道部門が閉鎖され20人が解雇される。鉄道部門閉鎖後は、残ったバス部門だけで、寿都-黒松内-長万部などの路線を細々営業したが、賃金の未払いは続いた。業を煮やした組合は10月よりバスの運行の自主管理を始める。日銭を会社側に納金していては負債の返済に使われ、組合員の懐に入らないと考えたのだ。1日の運賃収入は約3万円、燃料代6000円を差し引いた残額を組合員14名と臨時雇いのバス車掌で分け合った。会社側もこれを黙認した。しかし、11月に入るとスノータイヤを購入する資金もなく暖房費用も賄えないほどとなる。組合員の中からは退職し失業保険で冬を食いつなごうと考える者も出たが、約2年間にわたり失業保険の掛け金60万円が払い込まれていないことが判明する有様であった。
1-4.会社清算
 休止中の鉄道路線は1972年5月11日付けでに正式に廃止許可となり、会社も清算されることとなった。バス事業はそれに先立つ1968年に北海道中央バスに500万円で移管されているが、路線免許の売買は正式にはできず、いわば裏取引であった[1 c](その後、1978年にニセコバスへ路線譲渡)。譲渡金の500万円は未払いの給与に充てられた。同年11月19日、ついにバス部門も閉鎖となった。退職金は支払われなかったが、私鉄総連が救済のためカンパを呼びかけ、全国の傘下組合から集められた支援金が送られたという。また失業保険は会社が未納分を分割払いで支払う約束ができ、支給された[1 d]。なお、1985年6月6日のNHKニュースでの特集「まぼろしの西海岸鉄道」では、寿都鉄道社長が「岩内線延長による用地買収を期待して会社組織を残してきたが、同月30日をもって岩内線が廃止されることから会社をこれ以上存続させる意味がなくなった」と述べていた。
 寿都鉄道株式会社の閉鎖登記簿を見てみると、正式の会社解散決議は、1987年7月20日の株主総会によってなされている。当時の商法によれば、株式会社は株主総会で会社の解散決議をした後、清算手続に入り、その手続の終了後、清算結了の登記をするのだが、清算結了の登記がなされておらず、2004年3月8日、商業登記規則第81条第1項第1号の規定(解散の登記をした後10年を経過したとき)により登記官の職権で閉鎖されている。なお寿都町では保有していた株式全10万円分の権利を放棄することを2009年の町議会において可決している[10]。
2.路線
寿都鉄道線
 概要
現況 廃止
起終点 起点:黒松内駅 終点:寿都駅
駅数 5駅
 運営
開業 1920年10月24日
廃止 1972年5月11日
所有者 寿都鉄道
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 16.5[1 e] km (10.3 mi)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
最小曲線半径 201 m (659 ft)
電化 全線非電化
最急勾配 20 ‰
2-1.路線データ
路線距離(営業キロ):黒松内 - 寿都 16.5km
軌間:1067mm
駅数:5駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
閉塞方式:票券閉塞式
2-2.駅一覧
事業者名・駅の所在地は廃止時点のもの。全駅北海道に所在。
 駅名 駅間キロ 営業キロ 接続路線 所在地
黒松内駅 - 0.0 日本国有鉄道:函館本線 寿都郡黒松内町
中の川駅 3.9 3.9 - 寿都郡黒松内町
湯別駅 6.0 9.9 - 寿都郡寿都町
樽岸駅 3.4 13.3 - 寿都郡寿都町
寿都駅 3.2 16.5 - 寿都郡寿都町
3.輸送・収支実績
1945 240,257 38,485
1949 219,328 37,255
1952 110,907 50,420
1958 114千 57,194
1963 78千 36,437
1966 4千 30,604
・鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計、地方鉄道軌道統計年報、私鉄統計年報各年度版
4.車両
4-1.蒸気機関車
4-2.ディーゼル機関車
4-3.気動車
4-4.客車
5.バス
 前述のとおり、鉄道は末期には寿都行きのみ1便の運行であったが、鉄道を補完するためバスの運行を行っていた。路線は寿都駅から中の川駅、黒松内駅を経由して長万部町の国縫駅まで結んでいた。北海道中央バスへ路線を移譲した際、長万部駅までの運行となったため、その後の北海道中央バス、ニセコバスの時刻表には1997年頃まで長万部駅乗り継ぎの函館バスの時刻が掲載されていた。
6.脚注
[1]^ a b c d e アサヒグラフ1969年2月14日号 P69-73
[2]^ 「函館本線 黒松内駅」『北海道鉄道沿線案内』北海道鉄道管理局、1910年8月。doi:10.11501/1901115。
[3]^ 『シリーズ明治・大正の旅行 第I期 旅行案内書集成 第13巻 北海道鉄道沿線案内/樺太の鉄道旅行案内』ゆまに書房、2014年11月、63頁。ISBN 978-4-8433-4654-9。
[4]^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1918年2月14日(国立国会図書館デジタルコレクション)
[5]^ 『日本全国諸会社役員録. 第27回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
[6]^ 『地方鉄道及軌道一覧 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
[7]^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1920年10月28日(国立国会図書館デジタルコレクション)
[8]^ 「8108という名の開拓者」59頁
[9]^ 鉄道敷設法別表130号ノ2「後志国黒松内ヨリ岩内附近ニ至ル鉄道」
[10]^ 「審議した案件」『議会だより 寿都湾』第144号、寿都町議会、2010年2月、3ページ。
[11]^ 「振替」は許認可上の正式な用語ではない。小熊・星 (1967) によると、この鉄道では、実車は2代目と入れ替えるものの、書類上は番号・仕様とも変更なく初代であるとして使用することがあったという。
[12]^ 岩堀春夫「専用線の機関車」『鉄道ファン』No.282
[13]^ 窓配置よりの推定(例として客車略図のオイ9231とオイ9251)。『北線路』10頁。また原形屋根はダブルルーフではない
7.参考文献
青木栄一 著「昭和52年5月1日現在における補遺」、鉄道ピクトリアル編集部 編『私鉄車両めぐり特輯』 2巻、鉄道図書刊行会、東京、1977年、補遺3頁頁。
小熊米雄・星良介 (1967). “寿都鉄道”. 鉄道ピクトリアル No. 199 (1967年7月臨時増刊号:私鉄車両めぐり8): pp. 4-5, 11-19.(再録:鉄道ピクトリアル編集部 編『私鉄車両めぐり特輯』 2巻、鉄道図書刊行会、東京、1977年。)
沢和哉「鉄道の発展につくした人々」『コンコース』No.111
寺田裕一『消えた轍―ローカル私鉄廃線跡探訪』ネコ・パブリッシング、1999年。
中村由信;山野浩一「8108という名の開拓者」『太陽』48号、平凡社、1967年6月、58-64頁。doi:10.11501/1792585。
北海道鉄道管理局『北海道鉄道沿線案内』、1918年。荒山正彦監修・解説『シリーズ明治・大正の旅行 第I期 旅行案内書集成』第13巻(北海道旅行案内/樺太の鉄道旅行案内)、ゆまに書房、2014年に収録
湯口徹『北線路』上 プレスアイゼンバーン、1988年
黒岩保美 編『寿都鉄道』1984年12月。doi:10.11501/12065419。
8.関連項目
黒住成章(元監査役)
最終更新 2024年8月19日 (月) 16:19 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

岩内線
 岩内線(いわないせん)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。北海道岩内郡共和町の小沢駅で函館本線から分岐し、同郡岩内町の岩内駅までを結んでいた。1980年(昭和55年)の日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)施行を受けて第1次特定地方交通線に指定され、1985年(昭和60年)7月1日に廃止された[1 b]。
国鉄 岩内線 基本情報
現況 廃止
所在地 北海道
起点 小沢駅 、終点 岩内駅
駅数 6駅
開業 1912年11月1日
廃止 1985年7月1日[1 a]
所有者 日本国有鉄道、運営者 日本国有鉄道
 路線諸元
路線距離 14.9 km
軌間 1,067 mm
線路数 単線
電化方式 全線非電化
最大勾配 12.5 ‰
最小曲線半径 300 m
閉塞方式 タブレット閉塞式
■未成区間(黒松内 - 岩内)
 もともとこの路線は瀬棚 - 寿都 - 岩内 - 然別間の鉄道敷設運動の結果、一部区間が承認されて建設された路線である。また、太平洋戦争後、函館本線の急勾配、急曲線を緩和するバイパスルートとして「後志國黒松内ヨリ岩内附近ニ至ル鐵道」(改正鉄道敷設法別表第130号ノ2。1953年(昭和28年)8月1日に公布・施行された「鉄道敷設法等の一部を改正する法律」(昭和28年法律第147号)によって追記)が計画された。
 1957年(昭和32年)4月3日に調査線、1964年(昭和39年)6月25日に工事線となり、黒松内 - 湯別間では1968年(昭和43年)まで営業していた寿都鉄道の路盤跡を転用することも内定し、1965年(昭和40年)から現地測量設計も進んでいた[16]。1969年(昭和44年)10月1日には地元主催の着工式が行われた[7]。
 岩内線が全通すると、函館 ‐ 札幌間は函館本線経由より10km短縮、室蘭本線・千歳線経由より44km短縮されるとした[16][7]。 日本鉄道建設公団としては、時速100km以上のスピードを出せる最新式の施設にする予定としていた[7]。最急勾配は10‰、最小曲線半径は800m[17]。橋梁は122カ所3916m、トンネルは16カ所12133m。総事業費は103億円を予定していた[17]。
 1972年(昭和47年)10月24日に着工(工事実施計画)が認可され[9]、完成までに10年の工期と約100億円の工事費が必要とした[9]。
 着工認可直後の1972年10月25日、岩内町など沿線8町村が事前に開業後の赤字全額を地元で負担するとの“一札”を国鉄、日本鉄道建設公団に提出していたことが明らかとなった。国鉄の赤字を地方自治体が助成するとしたのは初めてのことで、運輸省は“一札”を事実上の確約書と受け取り、地元の約束履行を条件とし、国鉄の赤字がかさんでいることもあり、地元の熱意を汲んで新線着工を認めた[18]。
 “一札”の背景として、全通後は観光客の入り込みが予想されるものの、過疎化が著しい町村であるため、開業後は赤字が確実で、運輸省は工事実施計画の認可を渋っていたため、沿線8町村で結成する岩内線建設促進期成会は「新線の開業後、国鉄の営業収支が損失を生じたときは、その全額を関係町村で負担するので、すみやかに工事実施計画を認めるよう」との文書を国鉄、日本鉄道建設公団あてに1972年9月末に提出していた[18]。
 一方、自治省では異例のことだと問題視した。国鉄に対する地方自治体の補助は認められないとの見解を打ち出し、地方財政再建促進特別措置法により、地方団体が国、国鉄、公社、日本鉄道建設公団に対して寄付金や法律、政令に基づかない負担金を支出してはならないことを根拠とした。国鉄への助成を許せば他線区にも波及しかねず、事実ならば違法行為なので、やめさせる意向とした[18]。
 その後、自治省は北海道に事実関係を調べるよう求めた。新線着工を認可した運輸大臣の佐々木秀世は「地元の約束があったから認めた。今後、各町村がそれぞれの議会で正式に決めるものと確信している。もし約束が守られなければ工事命令を出さないこともあり得る」と自治省と対立した見解を示した。岩内線建設促進期成会は「“一札”そのものは期成会役員の名前で出しているが、期成会は地方自治体と異なる任意団体であり、地方財政再建促進特別措置法に抵触するとは考えない。実際の赤字負担をどうするかについては、同線の完成がかなり先のことであり、その時点で法律に触れないように考えればよい」とした[19]。
 北海道は自治省の指示に基づき岩内線建設促進期成会から事情を聞き、期成会では「陳情の経過からみて、地元で赤字負担をしなければ新線建設はダメだと判断した」「赤字負担は期成会が約束したもので、町村が約束したわけではないから、直ちに法律違反になるとは思わなかった」「函館本線が新線を回るようになれば、赤字になるかどうか分からない」など赤字負担を約束した事情を説明した。これに基づき、道では「赤字負担を約束したことは、将来違法な結果を招かざるを得ないので不適当である」との基本的態度を決めながらも、実際に新線が建設され、沿線町村が赤字を負担するようになるのは10年ほど先の問題であり、この間に閑散線問題が解決すれば違法性がなくなる可能性もあるとして、閑散線問題の解決を急ぐことが先決であるとの意見も合わせて、自治省に回答した[20]。
 1972年11月3日に日本鉄道建設公団主催の起工式が行われたが[10]、全区間の調査設計と岩内駅付近など一部の用地買収が行われたのみで[8]、後に工事は中止された[21]。
 未成区間の延長は43.915kmで、雷電海岸や寿都鉄道の廃線跡を経由するとともに、第3雷電トンネル (5232m)、第2雷電トンネル (580m)、刀掛トンネル (3160m)、尻別トンネル (605m) 、第2種前トンネル(560m)などの長大トンネルも計画されていた[22]。
■計画されていた駅[21][22]
岩内駅 - 敷島内駅 - 雷電駅 - 港町駅 - 磯谷駅 - 美谷駅 - 歌棄駅 - 湯別駅 - 中の川駅 - 黒松内駅
岩内 - 湯別間は日本海沿いを通る計画で、磯谷駅、歌棄駅は内陸を通る函館本線の目名駅(旧・磯谷駅)、熱郛駅(旧・歌棄駅)とは別位置。
■出典
[1]^ a b “興浜北線など三線の旅客営業廃止軽微認定 運輸審議会”. 交通新聞 (交通協力会): p. 1. (1984年5月24日)
[2]^ 岩内町史 1966年(昭和41年)11月発行、P382。
[3]^ a b 岩内港一班 1911年(明治44年)7月 勝見貫一郎 編集・発行、P38-40。
[4]^ a b c 『北海道鉄道百年史 下巻』1981年3月 日本国有鉄道北海道総局 編集・発行、第5編資料/1年表。
[5]^ a b c d 『北海道鉄道百年史 下巻』P765 。
[6]^ 「鉄道省告示第109号」『官報』1922年9月2日(国立国会図書館デジタルコレクション)
[7]^ a b c d e f 早期実現と安全祈る 国鉄新岩内線 町ぐるみ着工式 - 北海道新聞1969年10月2日朝刊
[8]^ a b c d e 『鉄道未成線を歩く 国鉄編』JTB、2002年6月1日、168頁。
[9]^ a b c “岩内線の着工認可”. 北海道新聞. (1972年10月25日)
[10]^ a b “赤字負担はともかく 待望の岩内新線起工式”. 北海道新聞. (1972年11月4日)
[11]^ 「国鉄蒸気線区別最終運転日一覧」『Rail Magazine 日本の蒸気機関車』1994年1月号増刊
[12]^ a b c 『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 I』1998年10月 JTB編集・発行、P245。
[13]^ 「時計代わりの汽笛消え 岩内線、興浜北線 見納めさよなら列車」『北海道新聞』1985年7月1日、朝刊。
[14]^ 北海道運輸局 『北海道における鉄道廃止代替バス追跡調査 調査報告書(概要版) 平成21年3月』 (PDF) P2,3。
[15]^ a b c d e f 『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 II』1998年10月 JTB編集・発行、P845。
[16]^ a b “10月に地元着工式 国鉄岩内線 認可、明るい見通し”. 北海道新聞. (1969年6月30日)
[17]^ a b 『新線建設の概要』日本鉄道建設公団、1970年。
[18]^ a b c “新設岩内線 赤字は地元負担 沿線8町村が“一札” 運輸省の認可 約束履行条件に 自治省 法違反、認めぬ意向”. 北海道新聞. (1972年10月26日)
[19]^ 「自治省 道に調査指示 岩内新線の赤字地元負担問題 運輸省は「約束守らせる」」『北海道新聞』1972年10月27日、朝刊。
[20]^ 「将来違法招き不適当だが 閑散線の解決が先決 岩内線赤字地元負担で道意見」『北海道新聞』1972年10月28日、朝刊。
[21]^ a b 宝島社『全国未成線ガイド 知られざる鉄道路線』(草町義和 監修 2016年)p.88 - 89
[22]^ a b 岩内線建設促進期成会関係資料
最終更新 2025年4月16日 (水) 08:28 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


≪くだめぎ?≫
 函館本線"山線"は北海道新幹線の「並行在来線」として廃止される予定。
仮称「寿都・岩内」新線が"山線"を買収する・ウルトラC !?を使わなければならない。
 現北海道知事が「攻めの廃線」の元市長であるから、まずは無理。
 三陸鉄道は岩手県が作った鉄道。しかし、大船渡線は鉄道復旧されなかった。
一方の始発・気仙沼が「宮城県」であること。三陸鉄道自身が被災し、何とか復旧、国鉄山田線・宮古-釜石を引き受ける"大技"をやり遂げたから。
 残すのも大変だが、新たに会社を立ち上げるのも大変だ。
Posted at 2025/05/02 12:02:17 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道 | 旅行/地域
2025年05月02日 イイね!

豊田自動織機が非上場化を検討

豊田自動織機が非上場化を検討豊田自動織機が非上場化を検討
株式取得の資金調達を協議
NHK 2025年4月26日 6時38分
 トヨタ自動車のルーツの企業で、東証などに上場している「豊田自動織機」が株式の非上場化について検討し、主力取引銀行などとの間で株式の取得に必要となる資金の調達について協議していることがわかりました。
 関係者によりますと、自動車部品メーカーの「豊田自動織機」は新たにつくる会社が発行済みの株式を取得する形で非上場化することを検討していて、主力取引銀行などと必要となる資金について協議していることがわかりました。
 買収に必要な資金は6兆円規模にのぼる見通しで、現在、筆頭株主のトヨタ自動車なども含めて資金調達の具体的な方法などについて調整を進めているということです。
 豊田自動織機は1926年に創業し、この会社の自動車部門が独立して今のトヨタ自動車となりました。
 現在はトヨタのグループ会社として東証プライム市場などに上場していますが、最近は外資系の投資ファンドから自社株買いなど株価を意識した経営に取り組むよう求められていました。
 非上場化の検討は、こうした株主対応のコストを解消して経営資源を事業に集中するのがねらいとみられますが、株式の買収にかかる資金が巨額にのぼるため、調整が難航することも予想されます。

豊田自動織機が株式非公開化を検討
…トヨタやグループ会社の出資案、総額6兆円規模も
読売新聞 2025/04/26 00:29
  トヨタ自動車の源流企業となる豊田自動織機が、株式の非公開化を検討していることが25日、分かった。関係者によるとトヨタやグループ会社が出資する案が浮上し、買収総額は6兆 豊田織機は、トヨタとお互いの株式を持ち合っており、トヨタは時価総額が4兆円を超える豊田織機株の約24%を保有する筆頭株主だ。豊田織機もトヨタの株式の約9%(約3・8兆円相当)を出資している。
 投資家の一部から株式の持ち合いを解消して資金を有効活用するように求める声が出ており、トヨタにはグループ企業の統治を強化する狙いもあるとみられる。関係者によると、メガバンクを含む銀行団が融資を検討している。トヨタは25日夜、「当社が保有するトヨタグループ株式については常に最適なあり方を検討しているが、現時点で決定した事実はない」とのコメントを出した。
 豊田織機は、トヨタの豊田章男会長の曽祖父にあたる佐吉氏が設立し、「自動車部」が分離してトヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)が誕生した経緯がある。豊田織機は現在、繊維機械のほかフォークリフトやエンジンを製造し、トヨタのスポーツ用多目的車(SUV)「RAV4」を生産する。
 トヨタグループではここ数年、量産に必要な認証「型式指定」を巡る不正が相次ぎ、車の生産と出荷が一時停止する事態に発展した。豊田会長はグループ統治強化を主導する意向を示している。円規模に上る可能性がある。
msn より

豊田自動織機の非上場化検討、
「取締役会で真剣に話してはいない」と幹部が“実情”を明かす
…実現への高いハードルとは?
ダイヤモンド編集部 2025.5.1 5:22
 豊田自動織機が、非公開化を検討していることがわかった。同社幹部は「取締役会で真剣に話された形跡はない」と生煮え状態であることを明かす。非公開化を実施するには、高いハードルが存在する。それは一体何か。同社幹部、資金の出し手であるメガバンク関係者、豊田自動織機株を保有する英国アクティビストの“本音”を明らかにする。(ダイヤモンド編集部 永吉泰貴、山本興陽)
■「5兆~6兆円の巨額資金集め」が焦点
アクティビストの関心事は?
「取締役会で、そう真剣に話された形跡はないと思っている」。豊田自動織機幹部は、ダイヤモンド編集部の取材に対し、同社の非公開化が、検討の初期段階にとどまっている実態を明かした。
 トヨタ自動車や豊田章男会長ら創業家などが、SPC(特別目的会社)を立ち上げ、SPCが豊田自動織機に株式公開買い付け(TOB)を実施する案が浮上している。豊田自動織機は、トヨタ自動車の源流に当たる。トヨタグループと創業家にとって同社が特別な存在であることは間違いない。
 冒頭の豊田自動織機幹部の言葉が示すように、非公開化の議論は同社内でも始まったばかりで、“高いハードル”があることも確かである。


≪くだめぎ?≫
 「トヨタのお店」は"トヨタ自動車"、
『トヨタL&F』店は"豊田自動織機"が統括している。
「元祖・持株会社」と言っていいだろう。
Posted at 2025/05/02 05:28:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | トヨタディーゼル店 | クルマ
2025年05月01日 イイね!

町田駅 「新宿に次ぐナンバー2」の求心力

町田駅 「新宿に次ぐナンバー2」の求心力町田駅、小田急で「新宿に次ぐナンバー2」の求心力 JR横浜線・神奈中バスとの乗り換え客でにぎわう
橋村 季真 : 東洋経済 記者
2025/04/10 4:30
小田急電鉄の町田駅。西口には町田バスセンター(記者撮影)
 愛情を込めてであることに違いないが、「神奈川県町田市」などとすっかりイジられキャラが定着している東京都町田市。川崎市、横浜市、大和市、相模原市に囲まれ、中心部を神奈川中央交通のバスが行き交う、なにかと神奈川県との結び付きが強いまちだ。
■百貨店があるターミナル
 小田急電鉄小田原線の新宿方面からの電車は、登戸や新百合ヶ丘など、いったん神奈川県内の駅を通ってやってくる。中心市街地にある町田駅は小田急百貨店が入る駅ビルが存在感を放ち、駅の内外はJR横浜線や路線バスとの乗換客と周辺の商業施設の買い物客などで一日中にぎわう。
 そして町田駅を出発した電車はすぐ、都県境の境川を越えて神奈川県に入る。隣駅の相模大野は江ノ島線との分岐点で、乗務所や車両メンテナンスの拠点を抱える要衝。都県境を挟んで隣り合う町田と相模大野にはすべての種別が停車するが、特急ロマンスカーは基本的にどちらか一方の駅に停まるダイヤとなっている。
 「まわりに団地がたくさんあってバス路線もすごく多いです。ベッドタウンからバスでやってきて電車に乗っていく、というのが町田駅の利用の特徴です。ロマンスカーで町田から新宿まで乗車時間は約30分ですが、通勤時間帯の需要は強く、朝は半分くらい町田から乗車するイメージです」
 こう話すのは町田管区管区長兼町田駅長の熊澤巌さん。1989年入社で、2024年4月から町田管区長を務める。出身は神奈川県座間市。相模大野の1つ小田原寄りの小田急相模原が最寄り駅で「子供のころから小田急線が身近にあった。買い物なら町田に来れば何でもそろう印象が強かった」という。
■ベテラン社員が語る町田駅
「昔は治安がよくないイメージがあって、学校の先生からも町田にはあまり行くなと言われていましたので、ビクビクしながら行っていました。我々が中学生くらいのころに『ビー・バップ・ハイスクール』の漫画がすごく流行りました。駅前にあったジーンズの『マルカワ』の下には学生服売り場があって“特殊な学生服”を売っていたんですよ」(熊澤管区長)
 町田駅の2023年度の1日平均乗降人員は25万4478人で、小田急全70駅中、新宿駅(43万9840人)、相互直通運転先の東京メトロ千代田線との境界である代々木上原駅(25万7017人)に次いで3位だった。本来、町田は新宿に次ぐ2位というのが当たり前だったが、コロナ禍からの利用回復が都心側のほうが早く、2023年度は順位が逆転したという。
「悔しいですが、私に言わせれば代々木上原はホームで乗り換えているだけなので、改札口を出入りする数は新宿が1番で町田が“ダントツ”の2番ですよね」(熊澤管区長)
■東西南北と百貨店専用の改札口
 改札階には東口、西口、南口、北口と四方に改札口がある。待ち合わせる際は注意する必要があるが、通路がぐるりと囲んでいるため、どの改札口から出てもはぐれて大変なことになることはなさそうだ。JR町田駅や町田バスセンターは西口、商店街の旧町田街道方面は東口や南口が近い。
 町田バスセンターには木曽南団地、山崎団地、藤の台団地などを結ぶ神奈川中央交通の路線バスが発着。山崎団地センターへは連節バスの「ツインライナー」も運行している。
 駅は百貨店の入るビルを貫く形。改札階は百貨店のフロアでいえば2階だが、駅が傾斜地にあるため東口側は地下になっており、地上に出るには階段を上る。
 ホーム階は改札階の上にある。2面4線で南側の1・2番ホームが小田原・片瀬江ノ島方面、北側の3・4番ホームが新宿方面。ホーム階から「小田急百貨店お入口」の表示がある階段を上がると小田急百貨店の3階に専用の改札がある。
 小田急百貨店町田店は地下1階の食料品売り場から9階のレストランフロアまであり、屋上には広場。一部のレストランや屋上広場からはトレインビューが望める。
■「お賽銭は駅で管理」
 駅南口側の壁面と道路の間の細長いスペースには鳥居があって「町田稲荷」と掲げられている。
「毎年『初午祭』もやっています。駅の敷地内なのでお賽銭の管理も駅でやっていて、ある程度まとまった金額になると町田天満宮に持っていくんです」(熊澤管区長)
 町田駅のルーツをたどると、小田原線開業までさかのぼる。1927年4月1日、小田原急行鉄道が新宿―小田原間で営業運転を開始した際に誕生した。当初は新原町田(しんはらまちだ)駅という名称で、国鉄横浜線の東神奈川寄りに原町田駅があったためこの名になった。
 市の名称と同じ「町田」の駅名になったのは1976年4月11日。小田急線をまたぐように建っている小田急百貨店町田店も同年9月にオープンした。当時の名称は町田小田急百貨店だった。
■輸送力増強で巨大駅に
 2003年発行の『小田急75年史』は「昭和40年代(1965~1974年)後半に入り、近い将来に実施を予定している急行・準急の10両編成運転に備えて、その停車駅のホーム延伸を中心とする改良工事を逐次進めることとした」と背景を説明する。
「その第一着手となったのが新原町田(現・町田)駅の全面改良と駅ビルの建設で、昭和46(1971)年11月に着工した。これには、輸送力増強に対応する駅施設の改良、百貨店を想定した駅ビルの建設、市の都市計画道路との立体交差という3要素があった」(『小田急75年史』)
 周辺の再開発はさらに進み、国鉄の原町田駅は1980年にいまの位置へ移転、町田駅となった。それまでの両駅間は大勢の人が長い距離を走って乗り換えることから「マラソン道路」などと呼ばれていたという。
 小田急とJRの駅はペデストリアンデッキで結ばれている。周辺にはモディ、マルイ、ルミネなど大型の商業施設がいくつも建っている。さらに南には町田市立中央図書館や町田天満宮がある。
 JR町田駅には「中央口」のほかに、ホームの東神奈川寄りから階段を上り、かなり進んだ先に「ターミナル口」がある。ここがかつての原町田駅付近だ。JR町田駅で待ち合わせる場合は、出口を間違えると大変なことになる。
■多摩モノレールがやってくる?
 小田急とJR横浜線が交差する町田駅。将来的には、乗り換え拠点としてさらに進化する可能性がある。町田から直線距離で約9km北には日本最大級のニュータウンの中心、多摩センターが位置しており、小田急多摩線・京王相模原線・多摩都市モノレール線が乗り入れている。
 多摩都市モノレールは現在、多摩センターから北へ、上北台までの16kmを結んでいる。複数の延伸計画があり、その1つが多摩センターから町田までの延伸だ。実現することになれば、小田急の「ナンバー2」としての立ち位置も盤石となりそうだ。
東洋経済 ONLINE

多摩地域
 多摩地域(たまちいき)は、東京都のうち、東京都区部(旧東京市)と東京都島嶼部(伊豆諸島・小笠原諸島)を除いた市町村部(26市・3町・1村)のこと。多摩地区(たまちく)、三多摩(さんたま)、多摩(たま)とも呼ばれる。
 おおむね令制国時代の武蔵国多摩郡に相当し、古くは武蔵国の行政の中心地として国府と国分寺が置かれていた。
 東京都人口(14,220,200人)の約3分の1に当たる4,293,671人がこの地域に居住している。国勢調査より、多摩地域の人口を上回る都道府県は順に神奈川県・大阪府・愛知県・埼玉県・千葉県・兵庫県・北海道・福岡県の8道府県。
■範囲
 旧武蔵国多摩郡であった区域のうち、東多摩郡を除く、北多摩郡・南多摩郡・西多摩郡の3つの地域の総称。おおむね多摩川と秋川の合流地点よりやや東の米軍横田飛行場付近から西が西多摩地域、それより下流の多摩川の南側が南多摩地域、北側が北多摩地域である。
■変遷
 多摩地域は、平安時代中期に延喜式において、武蔵国多摩郡とされたのが始まりである。
 明治維新後にこの地の旧天領、旧旗本領は武蔵県、韮山県などに編成された一方で、各藩の領地はそのまま各県の飛び地となった。多摩郡のうち東部の各村は武蔵県に編入され、品川県を経て1871年(明治4年)に東京府に編入された。北南西部の各村は韮山県に編入され、小田原県、神奈川県を経て、1893年(明治26年)に東京府に移管された。
 1878年(明治11年)の郡区町村編制法施行により、それぞれ東京府および神奈川県において東多摩郡・西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡の4郡が成立した。
 東多摩郡は1896年(明治29年)に南豊島郡と合併して豊多摩郡(1932年(昭和7年)には東京市へ編入)となって消滅し、北多摩郡と南多摩郡は郡内全町村の市制施行に伴って1970年(昭和45年)、1971年(昭和46年)に消滅した。これにより旧多摩郡4郡で郡名を残すのは西多摩郡のみとなっている。

南多摩郡
 ■郡域
 1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、八王子市・町田市・日野市・多摩市および稲城市の大部分(押立 を除く)、府中市の一部(南町の大部分)、相模原市の一部(境川改修に伴う市境変更箇所)にあたる。
以上 二つ、出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


≪くだめぎ?≫
 『町田市』を含む"旧・南多摩郡" 南多摩地区は、
多摩川の南側であり、
川崎市・横浜市の神奈川県地域が現・東京都に食い込んでいるとも思える。
 更に、境川以西が旧相模国であり、
旧相模国と川崎市・横浜市両地域が「神奈川県」として成立、
特に『町田市』を"包み込む"カタチが出来た、と見るべきだ。
Posted at 2025/05/01 16:51:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | 地域 | 旅行/地域
2025年04月20日 イイね!

「山線」高速化計画!?

「山線」高速化計画!?新幹線開業で消える「山線」
函館本線の”起死回生”高速化計画とは
貨物ルートで生き残る未来もあった!?
2023.06.18 乗りものニュース編集部
[写真・画像] 函館本線の"新ルート"計画の大まかな位置(国土地理院の地図を加工)
 北海道新幹線が札幌まで開業すると、並行する函館本線の長万部~小樽間、通称「山線」は廃止となります。しかし、かつて同区間には高速化計画があり、実現すれば貨物ルートとして生き残っていたかもしれません。
■北海道の鉄道黎明期に生まれた「函館本線」
 建設が進められている北海道新幹線の新函館北斗~札幌間は、長万部、倶知安、小樽と内陸側を経由するルートを取ります。このルートはJR函館本線に並行しており、新幹線開業後の存廃問題が取り沙汰されてきました。
 結局、函館本線の長万部~小樽間140.2kmは廃止が決まっています。いっぽうで、室蘭本線・千歳線経由の函館~長万部~苫小牧~千歳~札幌は貨物輸送という重要な役割があり、現時点で廃止を免れています。
 最初に函館~札幌を結んだのは函館本線なのに、長万部~小樽は「山線」として、貨物列車も特急列車も通らない「超閑散路線」の地位に落ちています。なぜこうなったのでしょうか。
 北海道の鉄道は、採掘した石炭などを港から全国へ運ぶために作られました。中部の幌内炭田から、岩見沢・札幌を経由し、小樽の港まで敷かれた1882(明治15)年の「官営幌内鉄道」が北海道初の鉄道です。
 その後、本州への玄関口のひとつ函館と札幌を鉄道でつなぐべく、開業済みの小樽をめざして建設が進められ、1904(明治37)年に全通します。同区間は複数の支線もつくられ、日本海側の寿都、岩内などの漁獲物も運ばれ活気を呈していきます。
 しかし、このルートは長万部~小樽で延々と厳しい山越えが続き、急カーブ・急勾配の連続で、所要時間は7時間近くにのぼっていました。
 ところで1892(明治25)年、やはり炭鉱と港をむすぶ路線として、岩見沢~苫小牧~室蘭に鉄道が敷かれました。現在の室蘭本線です。さらに、「長万部から室蘭までつなげれば、平坦なルートが多く、多少遠回りでも札幌へのスピードアップになるのでは?」として、新線の建設が始まりました。
 加えて「岩見沢経由は遠回りすぎるので、苫小牧から札幌に最短距離でつなげよう」ということになり、現在の千歳線の建設も進みます。
 千歳線は1926(大正15)年に開業、長万部~東室蘭は1928(昭和3)年に全通。函館~札幌を結ぶの優等列車は、徐々にこの室蘭・苫小牧経由へ移っていきます。
■時代遅れの「山線」にも新ルート計画が
 いっぽう、線形があまりにも時代遅れだった長万部~小樽の「山線」にも、スピードアップ計画が持ち上がります。
 戦後まもない1953(昭和28)年、新たに追加された国鉄の計画路線に「黒松内~岩内」というものがあります。長万部の北側、黒松内駅から日本海側へ分岐し、寿都の港町から北東へ日本海沿いに進み、岩内へ到達。そこから既設の「岩内線」に入り、然別から余市・小樽方面へ向かうというものでした。
 蘭越・ニセコ・倶知安経由の恐ろしい山越えに比べ、はるかに平坦なルートで、開通すれば函館本線の「復権」にもつながることが期待されました。もともと黒松内~寿都には寿都鉄道があり、その施設を活用する計画もありました。
 1960年代に入ると土木技術が発達し、山岳地帯の難所も長大トンネルで抜けるようになり、平地も高速化のため高架橋でまっすぐ突っ切る設計が進められます。寿都~岩内の崖迫る海岸線を通る国道229号は、2000m級のトンネルが連続していますが、鉄道も同様になるはずで、小樽・札幌への所要時間はかなりの短縮が期待されました。
 しかし、時代はいよいよ国鉄末期に差し掛かっていきます。国道の整備が進み、都市間輸送の主体はすでに鉄道からトラックやバスへ移って久しく、採算の想定はとうてい黒字にはなりませんでした。1968(昭和43)年にはバス転換の検討対象路線リスト、いわゆる「赤字83線」が発表されます。「新ルート」の一部となるはずの岩内線もそこに含まれ、新線建設の逆風となりました。
 結局、1972(昭和47)年に一応「工事開始」したものの、特に何かが作られるわけでもなく、それっきり。岩内線は1985(昭和60)年に廃止を迎えます。
 着工の裏で同1972年、整備新幹線の「基本計画」に青森~札幌がリストアップ。そこから半世紀が経ち、いよいよ夢の北海道縦断の高速鉄道が、実現しつつあります。
 別ルート→高速化→新幹線建設と、時代ごとの技術革新に翻弄され続けた「函館本線」は、函館~長万部と小樽~旭川という、遠く離れた2つのパーツに「大分断」される未来が近づいています。
【了】


≪くだめぎ?≫
 既設の国鉄「岩内線」、
そして黒松内~寿都「寿都鉄道」を活用して、
"岩内""寿都"の二つの"町"を通る「山線」新ルート計画があった。
国鉄の「赤字83線」発表に岩内線が入り頓挫した。
まだ地元にも"第三セクター"が頭にも入っていなかった時代かもしれない。
Posted at 2025/04/20 05:52:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道 | 旅行/地域
2025年04月19日 イイね!

函館本線(山線) ファイナルエディション!?

函館本線(山線) ファイナルエディション!?函館本線(山線)は「小樽―長万部」全線で混雑
ニセコ駅でも乗降客多く、新幹線でカバーできない需要あり
鉄道乗蔵 鉄道ライター
1/6(月) 20:01
H100形3両編成で運行される小樽発倶知安行(筆者撮影)
 例年、冬の観光シーズンには地元の利用者に加えて押し寄せる観光客で大混雑となっている函館本線の小樽―長万部間。このうち、小樽―倶知安間について、通常は大半の列車がH100形2両のワンマン運転が行われているところ、昨年末の2024年12月28日から午前中の一部列車が車掌乗務のH100形3両編成で運行されている。この記事を執筆している2025年1月6日時点でも、H100形3両編成の運行は続いており、JR北海道公式ホームページの「列車走行位置」でもその情報を確認することができる。
 さらに、この混雑は倶知安―長万部間にも拡大しており、こちらの区間でも激しい混雑が続いている。こうした年末の状況については、筆者の記事(函館本線「小樽―倶知安」で一部列車がH100形3両編成に! 閑散線区の「倶知安―長万部」も激しい混雑)でも詳しく触れている。倶知安―長万部間には1日4.5往復しか列車の設定がなく、昼過ぎの列車に乗客が集中しやすい傾向があるが、今回は、筆者が年末に実際に倶知安―長万部間を乗車したときの様子を報告したい。
 なお、筆者は、このとき年末年始の首都圏での年越し大回り乗車に参加するため、長万部駅からは特急北斗号と北海道新幹線はやぶさ号に乗り継いで大宮駅まで行き、そこから東武野田線でこの日の宿泊地となる柏駅へと向かっている。
■倶知安駅の待合室は椅子が取り払われ整列スペースに
 筆者が倶知安駅に到着したのは、長万部行が発車する2時間ほど前となる10時30分頃。H100形3両編成の列車が倶知安駅に到着する様子を狙うために、早めに倶知安駅入りをすることにした。この3両編成の列車は、札幌駅を6時9分に発車する然別行の普通列車で車両基地から送り込まれ、然別駅を8時5分に発車する小樽行でいったん小樽に戻り、小樽駅を9時36分に発車する倶知安行となり、再び小樽に戻るという運用が組まれている。この列車が倶知安駅に到着するのが10時52分となるわけだ。この日の天気はかなりの雪であったが、雪の降りしきる中、倶知安駅に到着する3両編成の列車をカメラに収めた後、筆者は長万部行に乗車するために倶知安駅へと向かうことにした。
 倶知安駅に行ってみると、待合室にあった椅子はその大半が取り払われ、床に黄色い線が書かれた整列スペースとなっていた。筆者は、昨シーズンに日中の列車がキハ201系3両編成の運行に改められた際に乗車した際には、改札口から駅待合室の端まで100名を超える長蛇の列ができていたが、今シーズンからは、待合室内で列を折り返して整列できるように万全の準備がなされているように感じられた。
■倶知安駅から2両編成に120名ほどが乗車
 倶知安駅を12時35分に発車する長万部行は12時頃から列が出来始め、12時10分頃に改札を開始。さらに12時16分には小樽駅からの普通列車が倶知安駅に到着し、この列車からの乗り換え客を合わせて、長万部行を待つ乗客の数は120名ほどとなり、倶知安駅のホームは溢れんばかりの人でごった返していた。そして12時25分頃に長万部行が入線。車内の座席はあっという間に埋まり、50名ほどの立ち席客が出る状況となった。
 筆者は、倶知安駅の改札では3人目に並び、改札の開始と同時にホームへと入ることができた。このためホーム上ではほぼ最前列に並ぶことができたため、4人掛けのボックス席を確保できた。筆者と同席したほかの3名は言葉を聞く限り中国系の旅行者と思われ、列車が発車すると北海道の雪景色が珍しいのか、しきりに車窓からの風景をカメラに収めていた。ニセコ駅では除雪用のモーターカーと列車交換し、中国系の旅行者にとってはこの除雪用の車両も珍しかったのか、熱心に写真を撮影していた。
 また、ニセコ駅では20~30名ほどが下車したと同時にほぼ同数の乗車があり、ニセコ駅から乗車してきた白人観光客の手には、ニセコ駅の出札補充券で発行された「ニセコ→函館」の乗車券が握りしめられていた。函館本線の山線については、ニセコ駅からの需要も増え始めているほか、新幹線では楽しむことのできない車窓風景も観光の魅力と感じている旅行者が多い様子である。こうしたことから、新幹線の駅ができない地域からの需要や、ほとんどがトンネル区間で景色がほとんど見えない新幹線では味わうことのできない車窓風景などに対する在来線の観光需要があることが確認された。
 そして、黒松内駅では、長万部駅から来る対向列車が17分遅れるということで、しばらく停車。H100形1両編成でやってきた倶知安行の車内の様子を見ると、すし詰め状態で100名ほどは乗車しているのではないかという状況となっていた。そして筆者の乗った列車は長万部駅には14時28分頃に到着したが、ここで降りた乗客がすべて函館方面に乗り継ぐというわけではなく、長万部駅で途中下車する者や、札幌方面の特急に乗り換える乗客の姿も見られた。
■それでも倶知安町は在来線の早期廃止を主張
 函館本線の山線と呼ばれる長万部―小樽間140.2kmについては、北海道新幹線の札幌延伸に伴い、並行在来線としてJR北海道から経営分離されることが確定しており、北海道庁が主導する並行在来線対策協議会の場において廃止の方針が強引に決定された。
 北海道新幹線の札幌延伸については、トンネル工事などの遅れで開業見通しが2038年ころになりそうであることは筆者の記事(北海道新幹線の札幌延伸開業は2038年度へ! 函館本線山線の廃止は白紙撤回し、活用方策を再検討すべき)で詳しく触れている。
 函館本線の山線は、北海道新幹線の並行在来線と言えども、新幹線の駅ができるのは、長万部駅と倶知安駅のみで、新幹線の新小樽駅は現在の小樽駅からバスで30分ほどかかる町はずれに建設されることや、バスでは運びきれないほどの利用者がいる余市駅は全く通らないことから、現在の山線の利用者を新幹線で代替することは不可能と言ってもよい状況だ。
 こんな状況においても、倶知安町では、新幹線新駅整備に支障することを理由に山線の早期廃止を主張しているが、協議会に地域のバス会社は呼ばれておらず、昨今深刻化するバスドライバー不足から、鉄道代替バスの引き受けに難色を示している現状があり、倶知安町の主張は支離滅裂で完全に破綻していると言っても過言ではない。
(了)
鉄道乗蔵 鉄道ライター
 鉄道に乗りすぎて頭の中が時刻表になりました。日本の鉄道全路線の乗りつぶしに挑戦中です。学生時代はお金がなかったので青春18きっぷで日本列島縦断修行をしてましたが、社会人になってからは新幹線で日本列島縦断修行ができるようになりました。ステッカーやTシャツなど鉄道乗蔵グッズを作りました。
YAHOO JAPAN!ニュース より


≪くだめぎ?≫
 「北海道庁が主導する並行在来線対策協議会の場」
 協議会に地域のバス会社は呼ばれておらず、
昨今深刻化するバスドライバー不足から、
鉄道代替バスの引き受けに難色を示している現状・・。
 北海道をはじめ、倶知安町など地元自治体がサジを投げている、
その様な状態に見える・・。
Posted at 2025/04/19 07:25:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道 | 旅行/地域

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「「Yamato」体重計 ♫〜」
何シテル?   04/02 16:02
 「昔々、有ったとさ、 『トヨタディーゼル店』、『トヨタパブリカ店』、『トヨタオート店』、『トヨタビスタ店』・・・」。      身長165cm・体重6...
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