• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ディーゼルオート店のブログ一覧

2021年07月11日 イイね!

「DLやまぐち号」 運行中

「DLやまぐち号」 運行中R西日本「DLやまぐち号」DE10形が重連運転、DD51形の転車台展示も
2021/07/10 20:53 著者:佐々木康弘

[写真・画像]
期間限定で運転される「DLやまぐち号」

 7月17日から8月29日までの運転日には、瀬戸内を盛り上げるアイドル・STU48のメンバーで鉄道ファンの瀧野由美子さんとのコラボレーション企画として、「DLやまぐち号」に乗車した人へ瀧野さんプロデュースのオリジナルデザイン記念乗車証をプレゼント。通常配布している記念乗車証もあわせて配布する。
 「DLやまぐち号」は通常、ディーゼル機関車DD51形1機で客車を牽引しているが、8月1~15日の運転日は特別にディーゼル機関車DE10形2機による重連運転とする。DE10形は車両所での車両入替などで使用されており、「DLやまぐち号」の機関車として運行するのはこれが初だという。
 7月22~25日と9月18~20日には、津和野駅の転車台を活用したディーゼル機関車DD51形の回転展示を行う。ディーゼル機関車は方向転換が必要ないため、通常の運行では転車台を使用しないが、今回は機関車の迫力ある姿を見学してもらうべく、特別に回転展示するとのこと。転車台の使用時間は13時20分頃からを予定している。
マイナビニュース より


DLやまぐち号運行開始 C57故障で今季はDLが牽引
藤牧幸一2021年3月21日 9時44分

 ディーゼル機関車(DL)が牽引(けんいん)するJR山口線の観光列車、DLやまぐち号(新山口―津和野間)の運行が20日、始まった。新山口駅であった出発式には多くの人が集まり、ホームで写真を撮ったり手を振ったりしていた。
 山口市の中本楽(がく)ちゃん(4)は、運行日はほぼ毎回見に行くSLやまぐち号のファン。DLを見るのはこの日が初めてで、前夜はなかなか寝付けなかったという。「大きくて、DLもかっこよかった。乗るのが楽しみ」
 新山口駅の平原康久駅長は「DLは表舞台に立つことが少なく、貴重な機会。地域の方と一緒に盛り上げたい」と話した。
 SLやまぐち号を牽引する蒸気機関車のC57(愛称・貴婦人)が故障して修理していることなどから、今季は今のところ9月20日までは、SLではなくDLが牽引する。(藤牧幸一)
朝日新聞デジタル


≪くだめぎ?≫
 そもそも「国鉄型」最終章である。ボヤボヤしていると、SLより先に"国鉄型"が消える可能性!! が出てきた。JR貨物・JR西日本・JR九州がDF200をドンドン新製する時代で無いので「DD51」「DE10」が直ちに抹消される訳ではないが・・。
Posted at 2021/07/11 08:59:36 | コメント(0) | トラックバック(0) | ディーゼル機関車 | ニュース
2021年03月13日 イイね!

『新幹線911形ディーゼル機関車』

『新幹線911形ディーゼル機関車』新幹線911形ディーゼル機関車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
[写真・画像] 新幹線911形ディーゼル機関車(1985年9月25日)新幹線東京第一運転所大井支所にて。

 911形は、日本国有鉄道(国鉄)が1964年(昭和39年)の東海道新幹線開業時に、新幹線電車救援用として製造した液体式ディーゼル機関車である。日本車輌製造で3両が製造された。
 1号機 (911-1) と3号機 (911-3) は国鉄時代に廃車され、1987年の国鉄分割民営化時には、2号機 (911-2) 1両のみが東海旅客鉄道(JR東海)に引き継がれた。

 基本情報
運用者 日本国有鉄道 東海旅客鉄道
製造所 日本車輌製造
製造年 1964年
製造数 3両
廃車 1995年
主要諸元
軸配置 B-B-B
軌間 1,435 mm(標準軌)
全長 19,400 mm
全幅 3,350 mm
全高 4,490 mm
運転整備重量 90.00 t
 台車
両端 DT8001 中間 DT8002
動力伝達方式 液体式
機関 DML61Z
機関出力 1,100 PS (1,500 rpm) × 2基
変速機 DW2B × 2基
駆動方式 歯車減速および推進軸
歯車比 1:2.386
制御方式 機関回転数および推進軸。非重連。電磁および電磁空気式制御
制動装置 SEAA空気ブレーキ、バネブレーキ
保安装置 ATC
最高速度 160 km/h
最大引張力 27,000 kg

■概要
 DD51形をベースとして、箱型両運転台構造の車体、6動軸駆動に改めたもので、新幹線の事業用車共通の青20号と警戒色の黄5号の塗装(全体が青で、運転台窓下から側面にかけて太く短い黄色の帯)となっている。前面は上面が傾斜した(いわゆる「く」の字型)高運転台式非貫通の構造で、後のEF66形やDD54形などに似た、力強さを感じさせる半流線型の造形デザインであった。この在来線機関車のようなナンバープレートは使用せず、形式称号は新幹線旅客車と同様のステンレス小型切抜き文字によって運転室扉近接の車体下部に装着された。 この意匠は日本貨物鉄道に継承されており、21世紀になった現在でも同社の機関車に受け継がれている。
 エンジンは先行車の1号機ではDD51形と同じDML61S (1,000PS/1,500rpm) ×2が使用されたが、量産車の2・3号機では余裕を持たせるため、中期DD51形のDML61Z (1,100PS/1,500rpm) ×2に変更され出力が強化された。液体変速機は初期型DD51形と同じDW2であるが、使用目的によって引張力と速度を2段に切り替えられるように、高速段 (160km/h) と低速段 (92km/h) の副変速機を付加したDW2Bを搭載し6軸の車輪を駆動する。救援の際の後続列車のダイヤへの影響を減らすべく、最高速度は160km/hと高く設定されており、また、20‰勾配において東海道新幹線型16両編成の満員電車に相当する引き出しが可能となっている。
 連結器は工事車両の牽引も考えられていたので、新幹線用密着連結器と並形自動連結器の双頭連結器を装備していた。列車救援を念頭において製造されているので、牽引される電車に予備灯電源を供給するためのディーゼル発電装置を搭載している。 
 本機の特徴として、ATCを搭載した世界初の機関車であることが上げられる。速度区分は0系電車と同じで、160Km/h信号ないし200Km/h信号受信時には最高速度で走行可能である。高速走行中に70Km/h信号を受信すると、DML61エンジンが轟音を立てて抑速を行う。
 「当時の世界最速のディーゼル機関車であった」とウィキペディアの以前の項には記述されていたが、設計上、最高速度160km/hのディーゼル機関車は以前からヨーロッパを中心に存在していた。山陽新幹線開業前の1972年、新大阪駅 - 岡山駅間を1時間弱で走破し、平均速度165km/hのディーゼル機関車世界速度記録を樹立した。

■運用
 前述のように故障電車の救援用として製造されたが、幸いにもこの目的で使用されることはなく(列車密度等の面から、故障等で立ち往生した列車の救援は本形式を使用するのではなく、前後の列車を使用して行うような措置になったため)、自力走行できない軌道検測車921形0番台を160km/hで牽引する運用についたが、新型検測車922形10番台が導入されると921形0番台は予備車となり[1]、922形10番台の検査入場中の検測や、工事列車の牽引に活用された。
 国鉄分割民営化時にJR東海に継承された2号機は1995年に廃車となり、以降はJR東海浜松工場で保管され、工場の一般公開時(新幹線なるほど発見デー)に展示されていたが、すでに解体され現存車はない。
■脚注
[1]^ 『東海道 山陽新幹線二十年史』日本国有鉄道新幹線総局、1985年、p.918
最終更新 2020年11月30日 (月) 04:47 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 "新幹線電車救援用"とは言え、「最高速度 160 km/h」は魅力的であり、試験走行でも実力を発揮した様だ。
 JR東日本が、もし国鉄時代に廃車された1号機 (911-1) と3号機 (911-3) を所有していたなら、青函トンネルで確実に使っていた、と思わせる。
 現行のJR貨物DF200形の新幹線版なら出来そう、911と同じワイドボディ3,350 mmなら・・。
Posted at 2021/03/13 20:32:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | ディーゼル機関車 | ニュース
2021年03月13日 イイね!

『DD51形ディーゼル機関車』重連形

『DD51形ディーゼル機関車』重連形[写真・画像]
(上)最後の運行日を迎えたディーゼル機関車「DD51形」=2021年3月12日午前11時4分、三重県四日市市のJR貨物四日市駅、岩下毅撮影 朝日新聞デジタル
(下)「トワイライトエクスプレス」を重連で牽引する1405号機 (2006年11月4日 札幌駅)下記より

国鉄DD51形ディーゼル機関車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 DD51形ディーゼル機関車(DD51がたディーゼルきかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)によって1962年(昭和37年)から1978年(昭和53年)にかけて製造された液体式ディーゼル機関車である。

2 番台区分
2.2 500番台
製造時期:1966年 - 1977年
 重連運転のための重連総括制御装置を搭載しており、車端端梁部にKE70ジャンパ栓受けを両渡りに装備するとともに、ジャンパ連結器栓納めを前部デッキ部に取付けた区分で、重連形と呼ばれる。さらに、ブレーキの制御方式で以下のように区別される。一部を除いて蒸気発生装置を搭載したが、2013年現在は使用していない。また、空気圧縮機 (CP) からの圧縮空気を、連結した次位の機関車や牽引する客車などに送る元空気だめ管を両渡りに装備している。
  非電化幹線・亜幹線の無煙化促進のため多数が増備されたが、1970年代半ば以降は、同じディーゼル機関車で旧式化したDF50形や、故障に悩まされ信頼性が低いDD54形を代替している。
  この番台区分以降より、すべて外ハメ式の尾灯が用いられた。

2.2.1 半重連形(501 - 592号機)
 501 - 592号機が該当する。
 釣り合い引き通し管を装備していないため、重連運転時に前位の本務機が単独ブレーキ弁(単弁)を操作したときは本務機のブレーキのみが作動し、次位の補機はブレーキが作動しない[8]。半重連タイプはJRには継承されなかった。
 548以降は、ブレーキ力増大のため中間台車にも基礎ブレーキ装置を装備したために台車形式はTR106形となる。ブレーキ装置のスペース確保のため、床下の燃料タンク容量が4,500 Lから4,000 Lに減少している。
 587 - 592の6両は蒸気発生装置 (SG) 未搭載車として落成している。800番台のような本格的なSG非搭載車とは異なり、SG用ボイラを積載していないだけでSG機器室などの関連機器は省略されていない。
 半重連形のうち、美濃太田機関区(現・美濃太田車両区)所属だった592は、国鉄名古屋鉄道管理局(当時)の12系欧風客車「ユーロライナー」の運用開始にあたり、塗色を「ユーロライナー」色に変更し高山本線・紀勢本線・参宮線などで同客車を牽引し、岡山鉄道管理局(当時)所属の「ゆうゆうサロン岡山」も牽引したものの、塗色変更から1年半後の1987年2月に廃車された。全重連形の791も「ユーロライナー色」に塗装されていたが、こちらも2007年5月に廃車となっている。
 半重連形は、北海道の釧路機関区配置車の一部に1981年ごろより余剰休車となる車両が現れ、その他の車両も1986年11月のダイヤ改正で全機運用を離脱し、1987年までに廃車された。

2.2.2 全重連形(593 - 799・1001 - 1193号機)
 593 - 799・1001 - 1193号機が該当する。
 釣り合い引き通し管を元空気だめ管の外側に両渡りで装備しており、重連運転時に本務機の単独ブレーキ弁(単弁)の操作が次位の補機まで作動するように改良された区分である。一部の半重連形で釣り合い引き通し管を新設し、全重連形に改造されたものも存在した。
 1001以降は、500番台が799まで達したため貨物用800番台との重複を避け1001へ飛び番となったグループである。JRに継承されたものはこのグループが多い。このグループからナンバープレートが切り文字式からブロック式に変更された。1010以降は運転室内前後の天井に扇風機が設置されたため、運転室屋根に突起が2か所ある。また1052以降はラジエーターカバーが2分割タイプに変更された。
 北海道地区に配置された500番台は半重連形と全重連形とを区別するため、区名札の隣に「半」「重」の識別札を挿入していた。2011年現在では北海道旅客鉄道(JR北海道)函館運輸所所属の重連形に「函」「重」の札が残るのみだが、国鉄時代は「築」「重」(小樽築港機関区)、「五」「重」(五稜郭機関区)、「釧」「半」(釧路機関区、半重連形)、「釧」「重」、「旭」「非」(旭川機関区、非重連形)などの組み合わせが存在した。
 北海道内で使用された本区分のうち、1972年に前照灯をボンネット前端上に増設し、3灯化された車両が存在する。冬季降雪時の視界確保のためで、五稜郭機関区などに配置された5両 (710・716・741・742・745) に施工された。745は1986年に本州へ転属後も補助灯を存置し、東日本旅客鉄道(JR東日本)長岡車両センターに配置され2002年まで磐越西線などで使用された。また入換作業時の誘導係への連絡用として、スピーカーを装備した車両も北海道地区では多く見られた。

2.3 800番台(801 - 899・1801 - 1805号機)
 製造時期:1968年 - 1978年
 貨物列車の運用を主体とするため、SGを搭載せずに登場したグループである。SG関連機器やボイラ・タンクなどを省略し、運転室中央にあったSG機器室がなくなった[注 2]。運転整備重量は約6 t軽くなり、各軸の荷重負担割合が変化したことから中間台車の枕ばねを変更し、滑走防止のためブレーキシリンダを縮小したTR106Aとなった。その他は基本的には同時期に製造された500番台の完全重連タイプの仕様に準じており、ナンバープレートやラジエーターカバーも時期を同じくして変更された。また855以降は運転室内に扇風機が設置されたが、500番台と異なり運転室屋根の中央に大きな突起が1か所あるのみである。北海道地区へは一時的に投入されたのみで、A寒地仕様車は存在しない。
 当初の計画では貨物列車用の新形式「DD52形」を予定していたが、新形式の投入に際しては労働組合との間で難しい折衝を行う必要があったために、既存形式DD51形の仕様を変更する方針を採ったとされる[要出典][注 3][9][10]。
 JR東日本高崎車両センターに所属する842号機は非電化区間のお召し列車牽引機として用いられ、台枠側面の飾り帯やデッキ手すり・煙突カバーにステンレスが用いられている[注 4]。なお、842号機はお召し列車運用の他、同センター配置の他機とともに管内のイベント列車などに使用されている。
 1801号機以降は、800番台が899号機まで達したため、1801号機へ飛び番となったグループである。成田線および総武本線での成田空港向けジェット燃料輸送のために製造されたが、将来の客車列車牽引への転用も考慮してSG搭載の準備工事[注 5]がされた。

3 気候条件に対する仕様区分
 DD51形はほぼ日本全国に配置されたため、配置された気候条件によって以下の仕様がある。使用地域別にA寒地仕様、B寒地仕様、一般型の3種類の仕様に分けて製造された[8]。
●一般型
 気候が温暖な地域に配置された標準的な仕様である。スノープラウが装備されないものが多く(千葉機関区所属機など例外もある)、関東以西に配置されたものに見られる。
●A寒地仕様
 気候が極めて寒冷な地域に配置された仕様である。おもな追加装備は耐雪ブレーキ・スノープラウ・旋回窓・ホース類の凍結防止用加熱装置・つらら切り兼前面窓プロテクター(2011年現在は東新潟機関区のみ)である。北海道・東北地区に配置されたものと中部地区に配置されたものの一部に見られる[注 6]。
●B寒地仕様
 A寒地仕様程気候が寒冷ではない地域に配置された仕様である。おもな追加装備はA寒地仕様に準じるが、耐雪ブレーキ・旋回窓・つらら切り兼前面窓プロテクターは装備していない。山陰を中心とした中国地区に配置されたものに見られる[注 7]。

4 現状
4.1 運用
 1987年の国鉄分割民営化に際しては、北海道旅客鉄道(JR北海道)25両、東日本旅客鉄道(JR東日本)29両、東海旅客鉄道(JR東海)4両、西日本旅客鉄道(JR西日本)63両、九州旅客鉄道(JR九州)1両、日本貨物鉄道(JR貨物)137両の計259両がJR各社に継承された。すべて重連形の500番台および800番台である。
 1988年度にはJR貨物が貨物列車増発のため、国鉄清算事業団より800番台4両(874・875・877・878号機)を購入している[11]。
 2000年までは東京都内、2011年までは大阪府内でも定期運用があったものの、近年は運転列車の設定の消滅やJR貨物に限られるがDF200形等の新型機関車への置き換え、老朽化などにより本形式は徐々に淘汰されつつある。九州地区では2005年1月をもって定期運用が消滅しており、JR東海およびJR九州ではすでに全廃され、北海道でのJR貨物の所属機は2014年3月15日ダイヤ改正で定期運用が消滅する。JR北海道では2015年度に5両が廃車され(1137号機が2015年11月30日付、1093・1095・1102・1141号機が2016年3月31日付)[12][13]、うち2両が海外譲渡された。さらに2016年4月30日付で5両が廃車され[14]、残存していた8両全てについて、海外譲渡を前提とした甲種輸送が行われている[15]。2019年4月1日現在(JR貨物のみ2019年3月16日)の在籍機は、JR東日本4両、JR西日本8両、JR貨物12両の計24両である[16][17]。
 2020年6月1日現在の配置車両は以下のとおり。

■JR東日本[16]
・高崎車両センター高崎支所:2両(842・895号機)
 高崎区のDD51形は国鉄時代より八高線のセメント輸送列車に用いられ、高麗川駅付近の日本セメント(後の太平洋セメント)埼玉工場で生産されたセメントが輸送されていたが、輸送需要の減少から鉄道によるセメント輸送は1999年9月に全廃となった[18]。
 セメント輸送廃止後のDD51形の定期運用はなく、JR東日本管内で運転される臨時列車や工事列車の牽引に使用されている[18]。このうち3両(842・888・895号機)はお召し列車牽引の対応工事を施している。2019年5月15日付で897号機が、同年10月29日付で888号機がいずれも廃車になった。
■JR西日本[16]
・網干総合車両所宮原支所:5両(1109・1183・1191・1192・1193号機)
 DD51形の宮原区への初配置は1990年6月で、亀山運転区からの転入により配置された[19]。定期運用はなく、JR西日本管内で運転される臨時列車や工事列車の牽引に使用されている[20][21]。宮原支所 - 本所間で運転される12系客車牽引の訓練列車にも使用されている[22][23]。
・後藤総合車両所:2両(1179・1186号機)
 2006年までは寝台特急「出雲」を牽引していたが同列車の廃止後は定期運用が消滅。現在は2両(1179・1186号機)が残るのみとなり、いずれも臨時列車やお召し列車、工事列車の牽引および構内入換用として使用されている[24]。2015年7月25日から2016年3月22日の間は団体列車『特別な「トワイライトエクスプレス」』山陰ルートの牽引機として使用された[25]。
・下関総合車両所運用検修センター:1両(1043号機)
 下関にはJR発足以降1両が配置され、山陰本線西部や山口線・美祢線のレール・砕石輸送、「SLやまぐち号」の補機や非常時牽引機としても使用されている[26]。現在所属している1043号機は2011年5月31日付で宮原総合車両所から転属した車両であり、JR発足時より配置されていた元厚狭機関区の844号機は、同年9月8日付で廃車された。なお、1043号機はかつて亀山機関区所属時代に、側面の白帯が配置されていない唯一の特徴を有していたことで有名な機関車(現在は側面にも白帯を配した標準塗装になっている)。
■JR貨物[17]
・愛知機関区:6両(825・857・1028・1801・1802・1804号機)
 東海道本線、関西本線で運用されていたが、2021年3月12日をもって全ての運用が終了した[27]。JR所属機の中では一番最期まで定期運用を保持していた[27]。ただし、JR貨物の所属機は、2015年をもって本形式の全般検査が打ち切られたため、以降は検査切れをもって順次廃車となり、数年内にすべての車両が姿を消すことになる。愛知機関区で使用されるDD51形の後継は、北海道で使用されていた五稜郭機関区所属のDF200形から捻出され、改造を施した上で投入される。詳細はDF200形の記事を参照。
 そのうち、国鉄色を維持していた853・1805の2両は2018年5月27日付で解体され、JR貨物から国鉄色が消滅することとなった[28]。
 2020年1月30日には890・891・1803号機、同年5月28日には最後まで残存していた寒地仕様車の1156号機の解体が完了し、2020年6月現在は暖地仕様車の6両のみが在籍している。
■JR北海道(2016年4月30日まで)
 2016年4月30日までは、JR北海道にも配置されていたが、その後所属機は存在しない。参考として、在籍末期の状況を当節に記載する。
・函館運輸所
 以下の定期運用を有していたが、2016年3月26日のダイヤ改正での定期運行および一般販売分の運行終了により、客車牽引の運用は消滅した[29]。
  「はまなす」[注 8]
  「カシオペア」(重連運転)※臨時列車
  その他寝台特急運用の間合いとして札幌運転所・函館運転所 - 苗穂工場間の電車・気動車回送および構内入換にも使用された。
 全機が通称『北斗星』色と呼ばれる、青地に金色の帯を巻いた塗装となっている。
 いずれも区間は札幌 - 函館間(室蘭本線経由)であるが、「トワイライトエクスプレス」については函館駅に乗り入れない[注 9]ため五稜郭駅で付け替えを行っていた。
 2015年8月22日に北斗星が臨時列車としても運行を終了したことにより、余剰となった機関車がミャンマーへの譲渡を前提として室蘭港へ輸送された[30]。また、2016年4月30日付で最後まで車籍を残していた5両(1100・1138・1140・1143・1148号機)が廃車され[14]、2016年7月3日-4日の2日間に掛けて、8両がJR貨物のDF200-63牽引により旧陣屋町臨港駅へ甲種輸送された[31]。輸送された8両については2016年末にミャンマーに譲渡予定となっている[15]。
 なお、20系・14系・24系客車編成などを使用した寝台特急列車(ブルートレイン)の牽引は、1965年春の「はくつる」盛岡駅以北の前補機仕業を皮切りに2016年3月のカシオペア廃止まで51年間継続し、1形式では最長期間記録を保持している。

4.2 更新工事
 現役の車両も最終増備機の製造から30年以上が経過し、特に北海道地区のものは厳しい気候条件と過酷な長距離の運用により、著しく老朽化が進んでいるため置き換えとしてDF200形が投入されていたが、全面的に置き換えるまでには時間を要した上、北海道地区以外のものは老朽化こそ進んでいるものの置き換えるには及ばず(民営化以降は貨物輸送のコンテナ化などによって貨物列車そのものの削減が進んでいるため、大金をかけて機関車を新造しても数年で余剰になることが予想される)、かつ代替する適当な機関車もない。よって、延命のため、まず北海道のものから1994年以降本格的な更新工事が実施されるようになった。
■A更新工事
 エンジンは換装されず老朽部品や配管の新品への交換を中心としたもので、2002年以降北海道地区と本州で実施されている。青15号を基調に前面点検扉をクリーム1号、屋根を従来と異なるねずみ色(N4号)とした塗装になっているが、2004年に広島車両所で実施された愛知機関区の892以降、赤を基調の塗装デザインに変更された。
■B更新工事
 JR貨物北海道支社に配置されているものに見られ、エンジンがコマツ製SA12V170-1 (1,500 PS / 2000 rpm)[32][注 10] に換装され、赤色とねずみ色のDF200形に準じた塗装になっている。

5 派生形式
5.1 新製機
 本形式は本線用機関車として大量に製作され、汎用性の高さから基本設計を踏襲した派生形式も多数製作された。詳細は各形式のリンク先を参照されたい。
■DD20形
 支線用・入換用車で、1963年から2両(1 - 2号機)が製作された。
■DD21形
 ラッセル式除雪車で、1963年に1両が製作された。
■DD53形
 ロータリー式除雪車で、1965年から3両(1 - 3号機)が製作された。
■911形
 新幹線電車の故障時救援用、バラスト散布用貨車の牽引用、および軌道検測車牽引用として開発された標準軌用の機関車[33]で、1964年に3両(1 - 3号機)が製作された。
 最高速度は92 km/hと160 km/hの切り換えが可能であった[33]。

5.2 改造機
■DD17形 → DD19形
 ロータリー式除雪車で、1983年に1両(1号機)が改造された。1992年の山形新幹線開業に併せて標準軌への改軌がなされ、DD19形に形式を変更した。
 ・DD51 507→DD17 1→DD19 1
■DD18形
 山形新幹線・秋田新幹線用のラッセル式除雪車で、1991年から1996年にかけて3両(1 - 3号機)が改造された。DE15形の複線用ラッセルヘッドを転用し、機関車本体とともに標準軌へ改軌した。
 ・DD51 796・742・783 → DD18 1 - 3

6 保存機
7 日本国外への譲渡機

8 今後の予定
 JR貨物では、上述のとおりDF200形を改造した上で愛知機関区に転属させ、順次本形式を置き換えている。これによってJR貨物所属の車両は、2021年3月12日をもって全機が引退。一方、JR東日本およびJR西日本所属の車両は、置き換えの対象には入っていない。

9 脚注
9.1 注釈
[注 2]^ このため、EF58形(新)電気機関車と同じ理由で運転室内が「相撲がとれる」といわれるほど広くなっている。
[注 3]^ 同様な事例に電気機関車のEF64形1000番台やED76形500番台がある。
[注 4]^ 佐倉機関区所属時の1973年10月に千葉県内でのお召し列車牽引に充当(「若潮国体」)。ステンレス材による装飾はその際に施工された。
[注 5]^ SG関連電気配線の設置程度で機器室は設置されていない。
[注 6]^ 過去には山陰地区に配置されたものにも見られた。
[注 7]^ 過去には中央西線や磐越東線にも配置されていた。
[注 8]^ 編成両数および運用時間帯としては単機運用で十分であるものの、重連運転が行われる場合は基本的に工場出入に伴う回送を兼ねている例が多い。
[注 9]^ 大幅にダイヤが乱れた場合、乗り入れることがあった。
[注 10]^ ただし、実際には1,100 PS / 1500 rpmに落として使用されている。

9.2 出典
[8]^ 石井幸孝『DD51物語』121頁。
[9]^ 石井幸孝『DD51物語』149頁。
[10]^ 石井幸孝他9名『幻の国鉄車両』p109。
[11]^ 鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」2004年12月特集「DD51形ディーゼル機関車」p.59 記事。
[12]^ 鉄道ファン編集部、2016、「JR旅客会社の車両配置表」、『鉄道ファン』56巻(通巻663号(2016年7月号))、交友社 p. 37(平成27年度分・北海道旅客鉄道の廃車、別冊付録)
[13]^ 鉄道ファン編集部、2016、「北海道旅客鉄道(本誌2016年7月号特別付録 補遺)」、『鉄道ファン』56巻(通巻665号(2016年9月号))、交友社 p. 208(JR旅客会社の車両配置表・データバンク2016、補遺)
[14]^ 鉄道ファン編集部、2017、「JR旅客会社の車両配置表」、『鉄道ファン』57巻(通巻675号(2017年7月号))、交友社 p. 33(北海道旅客鉄道の廃車分、別冊付録)
[15]^ “青のDD51形8重連で室蘭に”. 北海道新聞(どうしんウェブ) (北海道新聞社). (2016年7月5日). オリジナルの2016年7月6日時点におけるアーカイブ。 2016年7月6日閲覧。
[16]^ 「JR旅客会社の車両配置表」、『鉄道ファン』59巻(通巻699号(2019年7月号))、交友社 pp. 4,21(別冊付録、旅客鉄道会社分のみ)
[17]^ 『JR貨物時刻表』2019年 機関車配置表(2019年3月16日現在) - 鉄道貨物協会
[18]^ 木村忠吾「DD51 現在機の興味」『鉄道ピクトリアル』2020年5月号、81頁
[19]^ 木村忠吾「DD51 現在機の興味」『鉄道ピクトリアル』2020年5月号、91頁
[20]^ 24系6両による天理臨運転 鉄道ニュース(railf.jp)、2015年1月26日。
[21]^ DD51形プッシュプルによる工臨運転 鉄道ニュース(railf.jp)、2015年5月1日。
[22]^ DD51と12系による訓練列車運転 鉄道ニュース(railf.jp)、2019年11月1日。
[23]^ 【JR西】網干訓練列車、運転実施 RM News(鉄道ホビダス)、2019年11月29日。
[24]^ 木村忠吾「DD51 現在機の興味」『鉄道ピクトリアル』2020年5月号、93頁。
[25]^ “「特別なトワイライトエクスプレス」山陰ルートの運転開始”. railf.jp(鉄道ニュース). 交友社 (2015年7月27日). 2015年11月21日閲覧。
[26]^ 木村忠吾「DD51 現在機の興味」『鉄道ピクトリアル』2020年5月号、96頁。
[27]^ “「ありがとうDD51」 機関車引退、国鉄時代から活躍”. 朝日新聞. (2021年3月12日). オリジナルの2021年3月12日時点におけるアーカイブ。 2021年3月12日閲覧。
[28]^ “JR貨物所属の国鉄色DD51解体・消滅へ”. railf.jp(鉄道ニュース). 交友社 (2018年5月28日). 2018年5月30日閲覧。
[29]^ “北海道新幹線 新青森〜新函館北斗間開業に伴う運行計画の概要について” (PDF) (プレスリリース), 北海道旅客鉄道, (2015年9月16日), オリジナルの2015年9月16日時点におけるアーカイブ。 2016年7月5日閲覧。
[30]^ “「北斗星」機関車 客車と再会 ミャンマー輸出で室蘭港に”. 北海道新聞(どうしんウェブ) (北海道新聞社). (2015年11月18日). オリジナルの2015年11月20日時点におけるアーカイブ。 2015年11月21日閲覧。
[31]^ “DD51形8両が陣屋町へ”. railf.jp(鉄道ニュース). 交友社 (2016年7月4日). 2016年7月5日閲覧。
[32]^ 石井幸孝『DD51物語』122頁。

10 参考文献
・石井幸孝『DD51物語-国鉄ディーゼル機関車2400両の開発と活躍の足跡』(JTBパブリッシング、2004年) ISBN 453305661X
・電気車研究会『鉄道ピクトリアル』
 ・2004年12月号 No.755 特集・DD51形ディーゼル機関車
 ・2005年11月号 No.768 「ミャンマーへ渡った日本の車両」斉藤幹雄
 ・2009年12月号 No.827 「変貌を遂げるマレーシア在来線と旧DD51の話題」塩塚陽介
 ・2020年5月号 No.972 特集・DD51形ディーゼル機関車
・交友社『鉄道ファン』2005年6月号 No.530 特別企画・DD51形
・誠文堂新光社『鉄道画報』No.5 2006 SPRING 特集・至高のディーゼル機関車 いまこそDD51 ISBN 4416806213
・石井幸孝他9名『幻の国鉄車両』JTBパブリッシング、2007年
最終更新 2021年3月13日 (土) 06:02 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 今回の内、1968年~の「全重連形」がJRに引き継がれた、約3/5が余剰廃車され、たったの259両に過ぎない。陰の国鉄赤字資産だ。
 1978年10月ダイヤ改正から大幅に貨物列車が削減されたが、輸送は1970年をピークに取扱量は大きく減少していて、既に国鉄が赤字に転落していた為、1972年(昭和47年)3月山陽新幹線岡山駅開業あたりで在来線車両新製・無煙化などの見直し・停止が有っても良かった、と思うが・・。

 2016年3月まで「カシオペア」・急行「はまなす」などを重連とは言え、最高運転速度 95 km/hで走り抜いたことは筆頭に値する。所謂、観光列車・貸切だろうと言われるが、もっとJR各社はDD51形「非重連形」も活用できるはずだった。
Posted at 2021/03/13 19:18:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | ディーゼル機関車 | ニュース
2021年03月13日 イイね!

『ダイハツディーゼル(株)』

『ダイハツディーゼル(株)』[写真・画像] ダイハツディーゼル(株) HPトップ・先進の船舶エンジン・技術は地球を守るために。編

ダイハツ工業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 ダイハツ工業株式会社(ダイハツこうぎょう、英: Daihatsu Motor Co., Ltd.)は、主に軽自動車、および総排気量1,000cc以下の小型車を主力とする日本の自動車メーカーである。本社所在地は大阪府池田市ダイハツ町。トヨタグループ16社のうちの一社で、日野自動車などと共にトヨタ自動車の完全子会社(機能子会社)である。
 現在のコーポレーションスローガンは「Light you up 〜らしく、ともに軽やかに〜」。

ダイハツ工業株式会社 Daihatsu Motor Co., Ltd.
種類 株式会社
市場情報 非上場(以下は過去のデータ)
東証1部 7262
1949年5月 - 2016年7月27日
本社所在地 日本 〒563-8651 大阪府池田市ダイハツ町1番1号
設立 1907年(明治40年)3月1日(発動機製造株式会社)
業種 輸送用機器
法人番号 3120901019710 ウィキデータを編集
事業内容 自動車(車種一覧を参照)
代表者 代表取締役会長 松林 淳
代表取締役社長 奥平総一郎
資本金 284億400万円(2015年3月31日現在)
発行済株式総数 4億2712万2966株
売上高 1兆4350億円(2020年03月31日時点)[1]
営業利益 1000億円(2020年03月31日時点)[1]
経常利益 1210億円(2020年03月31日時点)[1]
純利益 980億円(2020年03月31日時点)[1]
純資産 4240億円(2020年03月31日時点)[1]
総資産 9150億円(2020年03月31日時点)[1]
従業員数 単体:1万1446人 連結:4万2575人(2015年3月31日現在)
決算期 3月31日
主要株主 トヨタ自動車 100%
 関係する人物
白水宏典(元会長)
伊瀬芳吉(元社長)
伊奈功一(元社長)
三井正則(元社長)
横山裕行(元副社長)
加藤光久(元取締役)
寺師茂樹(元取締役)
吉田守孝
木梨憲武
外部リンク https://www.daihatsu.co.jp/

1 概要
 現在量産車を手掛ける日本のメーカーとしては最も古い歴史(2019年現在創業112年)を持ち、初の国産エンジンを開発する目的で大阪高等工業学校(後の大阪帝国大学工学部、現大阪大学工学部の前身)の研究者を中心に、1907年に「発動機製造株式会社」として創立された。ブランド名・社名は、創業後、社名に「発動機」を冠する後発メーカーがいくつも出現し、既に出回っている「発動機製造」の発動機をどこで造った発動機か認識するため顧客の方で「大阪の発動機」と区別呼びし、やがて詰めて「大発(だいはつ)」と略称したことに由来する。
 親会社でありトヨタグループの中核企業であるトヨタ自動車は三井グループに属しているが[2]、ダイハツ工業は三和グループに属し三水会・みどり会に加盟している[2][3]。
 エンブレムは以前は「大阪城」のイラストを模したものを使用していた。またこれとは別で、店舗看板やテレビ番組協賛の提供クレジット用に「ダイハツ」に楕円形の囲みをしたロゴもあった。現在の「D」を模したマーク(社章)は1966年に登場し、数回の修正を経ながら現在まで使用され続けている。1998年まで車台にエンブレムが搭載されることは少なかったが、同年2月のロゴリニューアルに伴い多用されるようになった。

2 歴史
 設立年の1907年、日本で最初の国産エンジンである「6馬力 吸入ガス発動機」を発明。その当初は工場等の定置動力用として用いられるガス燃料の内燃機関(ガス発動機)や鉄道車両用機器の製造を手掛けていた。
 1919年に純国産エンジンで軍用自動車を試作し、1930年には自社製小型4サイクル空冷単気筒サイドバルブ(SV)のガソリンエンジンを搭載した試作型オート三輪「ダイハツ號(号)HA型」の開発で本格的に自動車業界に参入[4]。創立50周年となる1957年にミゼットで国内や東南アジアで大ヒットを記録し、1972年まで東洋工業(現マツダ)とともにオート三輪業界の覇権を争った。
 1951年に「大阪発動機」から現在の「ダイハツ工業」へと社名を変更した。
 四輪市場には1963年のコンパーノから参入。しかし当時四輪車への新規参入には通産省(現在の経済産業省)が難色を示していたため、スムーズな参入が出来なかった。また堅実な社風であったため、派手にアピールする手法も取らず、地味な印象となり、すでに評価を得ている先行メーカーに割って入って新規顧客を獲得するのは容易ではなかった[5]。
 同じころ自動車業界は再編の波が吹き荒れており、ダイハツにも三和銀行によってトヨタ自販・トヨタ自工との提携話が持ち出され、1967年11月に両社は業務提携に至った。この時の提携は同時期にトヨタ傘下入りした日野に比べると対等な関係で、それぞれの経営に自主性を持って運営していくと声明文が出された[6][注釈 1]。またこの翌年ダイハツ自動車販売株式会社が設立されている。1966年までは鉄道車輌用の原動機、変速機および駆動装置も製造していた(ダイハツディーゼルとして分社化)。
 トヨタとの提携後はパブリカをベースとしたコンソルテ、トヨタ・カローラをベースとしたシャルマンを生産し、四輪生産のノウハウとブランド力を蓄積していった。
 1977年には満を持してダイハツ独自開発のコンパクトカーであるシャレードを投入。それまで振動の問題などから国内外のメーカーから敬遠されていた4ストローク直列3気筒ガソリンエンジンを採用し、軽自動車程度の価格に見合わぬ高い燃費・動力性能でカーオブザイヤーを受賞、ダイハツの四輪車は名実ともに大躍進を遂げた。
 1980年になると、現在まで続く軽自動車のミラシリーズが登場。ここにアルト擁するスズキとの軽自動車戦争が勃発した。
 1981年にダイハツ自動車販売はダイハツ工業と合併。1995年には同じトヨタ傘下の日野自動車と商品相互供給に関する基本契約の締結を発表、以降現在まで部品の取引を行っている。
 1998年にはトヨタが株式を51.2%取得し、トヨタの連結子会社となった。
 1995年登場のムーヴシリーズ、2003年登場のタントシリーズなどが大ヒットを記録したことで、2006年度(2006年4月から2007年3月までの一年間)には軽自動車総販売台数で30年以上連続1位であったスズキの牙城を崩し、ついにダイハツがトップに立った[7]。その後2017年まで11年間連続で首位の座を守り続けている[8]。また軽トラック市場もハイゼットなどを主力に、スズキとシェアトップを奪い合っている[9]。
 2009年からは軽自動車生産から撤退したスバルにも軽自動車・軽福祉車のOEM供給を開始。2016年度の国内販売台数は57万台だが、これに加えてトヨタ・スバルへのOEM供給・受託生産が25.5万台あり、軽自動車メーカーとしてのみならずトヨタグループの重要な生産拠点としての役割も大きい。
 2016年にトヨタがダイハツの株式を100%取得し、完全子会社となった。これ以降ダイハツはトヨタグループにおいて軽自動車を含む小型車部門としての立場を明確にし、新興国向け戦略の一翼を担うことになる。

10 関連企業
・ダイハツディーゼル
・ダイハツ九州
・葵機械工業
・明石機械工業
・浅野歯車工作所
・ボルツ
・神菱
・ダイハツメタル
・ダイハツ信販
・ダイハツ輸送
・ダイハツビジネスサポートセンター[注釈 9]
・ディー・ビー・エス
・ナミコー
・川村金属製作所
・メタルアート
・明星金属工業
・河村化工

14 脚注
14.1 注釈
[注釈 1]^ この提携の際トヨタ自工の豊田英二社長は「外資の攻勢に対する防波堤の役を果たしたい」と語っているように、当時売り上げ台数で圧倒的優位に立っていたGM、フォードに対抗するための業務提携だったとされる。特にラインナップ・生産台数を増やすこととそれにともなうコストダウンが重点的に行われた(200万台体制)。
[注釈 9]^ 本社は伊丹市に所在。2014年5月1日にビジネスサポートセンターがダイハツテクナーを吸収合併し商号変更。連結子会社間の合併に関するお知らせ[リンク切れ]ダイハツ工業 2014年5月12日閲覧。東京に本社のあるビジネスサポートセンターとの資本・人的関係はない。

14.2 出典
[1]^ ダイハツ工業株式会社 第179期決算公告
[2]^ 田中彰、「六大企業集団の無機能化: ポストバブル期における企業間ネットワークのオーガナイジング」『同志社商学』 2013年 64巻 5号 p.330-351, doi:10.14988/pa.2017.0000013201。
[3]^ メンバー会社一覧 - みどり会
[4]^ ダイハツ号HB型三輪自動車
[5]^ 松下宏・桂木洋二、2008、『国産乗用車60年の軌跡』1、グランプリ出版 ISBN 978-4-87687-303-6
[6]^ トヨタ自動車75年史 第五項 ダイハツとの業務提携
[7]^ 社団法人全国軽自動車協会連合会の該当ページ[リンク切れ]
[8]^ ダイハツが11年連続で軽自動車シェアNo.1の理由 ニューズウィーク日本版
[9]^ JAMA
最終更新 2021年3月7日 (日) 09:59 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)


ダイハツディーゼル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 ダイハツディーゼル株式会社は、中・大型船舶、鉄道車輌用ディーゼルエンジン、陸用(定置式の発電機及びポンプ用)ディーゼルエンジン及びガスタービンエンジン、コジェネレーションシステムなどを製造する会社である。
 ダイハツ工業の関連企業であり、ダイハツ工業同様みどり会の会員企業であり、三和グループに属している[1]。但しダイハツ工業と異なりトヨタグループではなく、三水会(後の水曜会)には加盟していない。

ダイハツディーゼル株式会社 Daihatsu Diesel Mfg. Co., Ltd.
種類 株式会社
 市場情報
東証2部 6023
大証2部(廃止) 6023
略称 ダイハツデ
本社所在地 日本〒531-0076 大阪府大阪市北区大淀中1丁目1番30号
梅田スカイビルタワーウエスト17・18階
設立 1939年(昭和14年)4月29日※1
業種 輸送用機器
法人番号 3120001083145
代表者 代表取締役会長 原田猛
代表取締役社長 木下茂樹
資本金 24億3,430万円
発行済株式総数 31,850千株
売上高 連結:589億34百万円 単体:516億12百万円
純利益 連結:23億19百万円 単体:20億37百万円
純資産 連結:364億60百万円 単体:301億80百万円
総資産 連結:789億81百万円 単体:704億31百万円
従業員数 連結:1,188(220)人
単体: 827(167)人※2
決算期 3月31日
 主要株主
ダイハツ工業株式会社 35.11%
ビービーエイチ フィデリティ ピューリタン フィデリティ シリーズ イントリンシック オポチュニティズ ファンド 10.00%
積水ハウス株式会社 6.28%
主要子会社 関係会社参照
外部リンク http://www.dhtd.co.jp/
特記事項:経営指標は 2017年3月 第57期 有価証券報告書
※1株式の額面変更のため、1966年(昭和41年)5月2日設立の(旧)ダイハツディーゼル株式会社は吸収合併された。
※2従業員数欄の(外書)は、臨時従業員の年間平均雇用人員である。

1 国内事業所
・本社:大阪府大阪市北区大淀中1丁目1-30 梅田スカイビルタワーウエスト17・18階
・守山第一工場:滋賀県守山市阿村町45
・守山第二工場:滋賀県守山市古高町字松塚808-2
・姫路工場:兵庫県姫路市広畑区富士町12-8
・東京支社:東京都中央区日本橋本町2丁目2-10 ダイハツビルディング4階
・名古屋支店:名古屋市中村区那古野1丁目47-1 名古屋国際センタービル17階
・仙台支店:仙台市青葉区本町2丁目2-3 鹿島広業ビル
・四国支店:愛媛県今治市近見町3丁目6-42
・九州支店:福岡市東区多の津2丁目3-1

2 主要海外拠点
・DAIHATSU DIESEL (ASIA PACIFIC)PTE. LTD.(シンガポール)
・DAIHATSU DIESEL (EUROPE) LTD.(ロンドン)
・DAIHATSU DIESEL (AMERICA) ,INC.(ニューヨーク)
・DAIHATSU DIESEL (SHANGHAI)CO.,LTD.(上海)

3 関連会社
・ダイハツディーゼル部品サービス
・ダイハツディーゼル西日本
・ダイハツディーゼル四国
・ダイハツディーゼル中日本
・ダイハツディーゼル東日本
・ディーエス商事
・ダイテク
・ダイハツディーゼル梅田シティ
・ダイハツディーゼル姫路
・日本ノッズル精機

3.1 過去の関連会社
・ダイハツディーゼルNHN

4 沿革
・1965年(昭和40年)3月 - ダイハツ工業本社の大阪府池田市への移転に伴い、船舶用、および鉄道車両(主に気動車、およびごく一部のディーゼル機関車)用、汎用ディーゼル機関の製造・販売を行う同社大阪事業部に改組。
・1966年(昭和41年)5月 - ダイハツ工業から大阪事業部を分離して「ダイハツディーゼル株式会社」を設立。
 ・分社化された当社がダイハツ創業の地に残る形になった。
・1968年(昭和43年)8月 - 九州地区の内燃機関販売代理店として長崎マリンサービス株式会社を設立。(現ダイハツディーゼル西日本株式会社・連結子会社)
・1969年(昭和44年)8月 - 滋賀県守山市に守山工場を建設、操業開始。
・1970年(昭和45年)4月 - 株式額面金額を変更するため会社合併を行う。
・1970年(昭和45年)4月 - 四国地区の内燃機関販売代理店としてダイハツディーゼル今治サービス株式会社を設立。(現ダイハツディーゼル四国株式会社・連結子会社)
・1972年(昭和47年)12月 - 近畿・中国・山陰地区の内燃機関販売代理店として中日本ダイハツディーゼル販売株式会社を設立。(現ダイハツディーゼル中日本株式会社・連結子会社)
・1977年(昭和52年)11月 - 大阪証券取引所第2部に株式を上場。
・1979年(昭和54年)1月 - 滋賀県守山市に守山第二工場を建設、操業開始。
・1979年(昭和54年)1月 - 関東・東北・北海道地区の内燃機関販売代理店として東日本ダイハツディーゼル販売株式会社を設立。(現ダイハツディーゼル東日本株式会社・連結子会社)
・1981年(昭和56年)9月 - 米国に北・中米総販売代理店としてDAIHATSU DIESEL (U.S.A.) ,INC.を設立。(現DAIHATSU DIESEL (AMERICA) ,INC.・連結子会社)
・1981年(昭和56年)12月 - 内燃機関の塗装・梱包・運送を目的としてダイハツディーゼル輸送株式会社を設立。(現ディーエス商事株式会社・連結子会社)
・1982年(昭和57年)1月 - 中国の安慶中船柴油機有限公司および陝西柴油機重工有限公司とディーゼルエンジンに関する技術提携契約を締結。
・1982年(昭和57年)8月 - シンガポールにアジア総販売代理店としてDAIHATSU DIESEL (SINGAPORE) PTE. LTD.を設立。(現DAIHATSU DIESEL (ASIA PACIFIC) PTE. LTD.・連結子会社)
・1983年(昭和58年)8月 - 守山第二工場に部品センター、研究工場を建設。
・1983年(昭和58年)10月 - 英国に欧州総販売代理店としてDAIHATSU DIESEL (EUROPE) LTD.設立。(現・連結子会社)
・1986年(昭和61年)4月 - 情報通信業務を株式会社ダイテクとして独立、設立。(現・連結子会社)
・1986年(昭和61年)9月 - 近畿地区の部品販売会社としてディー・ディー部品サービス株式会社を設立。(現ダイハツディーゼル部品サービス株式会社・連結子会社)
・1986年(昭和61年)11月 - 守山第二工場に精機メカトロ工場を建設、精機メカトロの生産開始。
・1990年(平成2年)9月 - 大阪府大阪市中央区徳井町に本社移転。
・1991年(平成3年)11月 - 旧本社跡地に積水ハウス株式会社他2社と再開発事業を行うにあたりダイハツディーゼル梅田シティ株式会社を設立、貸事務所および駐車場業を開始。(現・連結子会社)
・1993年(平成5年)11月 - 中国に上海事務所を開設。
・1993年(平成5年)旧 - 旧本社跡地に共同開発による梅田スカイビル竣工。
・1994年(平成6年)1月 - 英国LRQAから国際品質標準規格のISO9001の認証を取得。
・1999年(平成11年)2月 - 株式会社トヨタタービン&システムと小型ガスタービンの販売提携契約を締結。
・1999年(平成11年)6月 - 守山第二工場に物流工場を建設、倉庫賃貸業を開始。
・2000年(平成12年)5月 - ダイハツディーゼル機器株式会社と株式会社ニッカナの2社を建築機器関連事業の再構築を図るために合併、新たにダイハツディーゼル エヌ・エイチ・エヌ株式会社を設立。
・2000年(平成12年)5月 - 中国に中国総販売代理店としてDAIHATSU DIESEL (SHANGHAI) CO., LTD.(現・連結子会社)を設立。
・2000年(平成12年)12月 - 守山工場に国際環境基準ISO14001の認証を取得。
・2001年(平成13年)10月 - 守山第一工場に技術開発センター、史料館を建設。
・2004年(平成16年)4月 - 台湾に台湾事務所を開設。
・2004年(平成16年)10月 - 三井造船株式会社とガスエンジンに関する技術提携契約を締結。
・2005年(平成17年)4月 - ダイハツディーゼルエヌ・エイチ・エヌ株式会社を会社分割。承継会社としてNHN興産株式会社、分割新設会社としてダイハツディーゼルエヌ・エイチ・エヌ株式会社を設立。
・2005年(平成17年)5月 - 守山第二工場に発電設備を建設。株式会社フェスコパワーステーション滋賀と賃貸契約を締結。
・2005年(平成17年)7月 - 旧本社跡地に建つ梅田スカイビルに本社移転。
・2005年(平成17年)9月 - 守山工場に中国船級社(CCS)工場認定を取得。
・2007年(平成19年)3月 - 増資により2,028万円の資金調達を行った。
・2007年(平成19年)7月 - 安慶中船柴油機有限公司との共同出資による合弁会社DAIHATSU DIESEL ANQING IRONWORKS.CO.,LTD.を設立。
・2007年(平成19年)9月 - 社団法人日本舶用工業会とスーパークリーンマリンディーゼルに関する技術提携契約を締結。
・2008年(平成20年)5月 - 守山第二工場に研究開発センターを建設。
・2010年(平成22年)3月 - ダイハツディーゼルエヌ・エイチ・エヌ株式会社を清算結了。
・2010年(平成22年)7月 - 韓国「斗山エンジン社」とライセンス契約締結。
・2010年(平成22年)9月 - 三井造船との共同出資による合弁会社「MDエンジニアリング株式会社」を設立。
・2013年(平成25年)7月 - 大阪証券取引所と東京証券取引所との現物株市場統合に伴い、東京証券取引所第2部に指定替え。
・2015年(平成27年)11月 - ダイハツディーゼル姫路株式会社を設立。
・2017年(平成29年)11月 - 守山第一工場に総合棟を建設。
・2018年(平成30年)8月 - 兵庫県姫路市に姫路工場を建設、操業開始

5 脚注・出典
[1]^ メンバー会社一覧 - みどり会
最終更新 2021年1月12日 (火) 09:35 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 当地にも船舶関係の"ダイハツディーゼル"店を掲げるサービス協力会社がある。でも、なんと言っても「DD51形●1号機」にダイハツ工業(現・ダイハツディーゼル)製ディーゼルエンジンを搭載したことだろう。
 「ダイハツディーゼル」の大株主が"ダイハツ工業"であることは変わりないが、「ダイハツディーゼル」が"大阪の「発動機製造(株)」"の現代の姿・後継会社に思えてくる。
Posted at 2021/03/13 16:41:34 | コメント(0) | トラックバック(0) | ディーゼル機関車 | ニュース
2021年03月13日 イイね!

『DD51形』ディーゼル機関車 "0番台"

『DD51形』ディーゼル機関車 "0番台"国鉄DD51形ディーゼル機関車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
[写真・画像]
(上)秋田機関区に留置中のDD51 1(1985年 / 秋田駅)
(下)DD51 1(0番台 1号機)(2012年7月 / 碓氷峠鉄道文化むら)

DD51形ディーゼル機関車(DD51がたディーゼルきかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)によって1962年(昭和37年)から1978年(昭和53年)にかけて製造された液体式ディーゼル機関車である。

国鉄DD51形ディーゼル機関車
 基本情報
  運用者
 日本国有鉄道
 北海道旅客鉄道
 東日本旅客鉄道
 東海旅客鉄道
 西日本旅客鉄道
 九州旅客鉄道
 日本貨物鉄道
製造所 日立製作所・川崎車輛・三菱重工業
製造年 1962年 - 1978年
製造数 649両
 主要諸元
軸配置 Bo-2-Bo
軌間 1,067 mm
全長 18,000 mm
全幅 2,971 mm
全高 3,956 mm
機関車重量 84.0 t
 台車
DT113B(動力台車)
TR101(1-4号機)
TR101A(5 - 53・501 - 547号機)
TR106(548 - 799・1001 - 1193号機)
TR106A(800番台)(付随台車)
軸重 14 - 15 t (可変)(動力台車)
動力伝達方式 液体式
 機関
V型12気筒ディーゼル機関61,070 cc
DML61S×2(1 - 19号機)
DML61Z×2(20 - 53号機・500・800番台)
変速機 DW2A
最高運転速度 95 km/h
 定格出力
2,000 PS / 1500 rpm(1 - 19号機)
2,200 PS / 1500 rpm(20 - 53号機・500・800番台)
最大引張力 16,800 kgf
備考 番台区分による差異あり

1 概要
 幹線から蒸気機関車を廃する「無煙化」を推進するため、1962年から1978年までの16年間に649両が製造された[1]。
 本線用として先行して導入された電気式のDF50形は、亜幹線の無煙化の面では好評であったが、出力の不足や故障の多さ、価格の高さが欠点とされていた[2]。DD51形はこれに代わる本格的な幹線用主力機として開発された液体式ディーゼル機関車であり、速度面では旅客列車用大型蒸気機関車C61形を、牽引力では貨物列車用大型蒸気機関車D51形を上回る性能を持つように設計されている。
 本形式の登場後も、より大出力のエンジンを1基装備したDD54形や、軸重を軽減したDE50形など、幹線・亜幹線用のディーゼル機関車が開発・製造されたが、前者は不調続きで短命に終わり、後者は電化の進展で投入する機会が得られず、試作機のみで終わった。その結果、合理化推進のための車両「標準化」により、性能の安定したDD51形のみが長期量産・運用されることになった。
 本形式は、最盛期には四国地方を除く日本全国で使用され、非電化幹線の無煙化・動力近代化を推進した。一方、本形式の導入によって高い人気を博していた蒸気機関車が続々と廃車に追いやられたことから、愛好家には「赤ブタ」「文鎮」「ダメデゴイチ」と揶揄されることもあった[3]。
 電化の進展と客車・貨物列車の減少により、1987年のJR移行までに約3/5が余剰廃車され、JR各社には593号機以降の完全重連タイプのみの259両が継承された。
 その後も客車・貨物列車のさらなる減少、DF200形など新型機関車への置き換え、加えて老朽化のため、少しずつ数を減らしつつある。日本貨物鉄道(JR貨物)所属車には延命のための更新工事が実施されるなどしたが、2021年3月ダイヤから本形式は定期運用から外れることが2020年12月18日にJR貨物から発表された[4]

1.1 基本構成
 側面から見ると凸型となる車体全長中央部に運転台を備えており、前後に合計2基のエンジンを搭載した大型機関車である。
 幹線用の大型機関車としては珍しく、小型機関車と同様の中央部運転室を持つ凸型車体が採用された[2]。この形態を採用した理由は、最大軸重の制限による軽量化要請への優位性、エンジン回りの整備性の良さ、機器配置の容易さなどによるものである。DF50や車両メーカー系の試作大型ディーゼル機関車が軒並み箱形車体を採用していた1960年代初頭、あえて新型機関車での凸型車体採用を指示したのは、当時の国鉄臨時車両設計事務所次長の近藤恭三であった[5]。
 DD13形や後のDE10形、DD16形、といった小型機と異なり、運転台は前後方向に共通ではなく、機関士・運転士は進行方向側の運転台に前方を向いて座る。全長は大きいが、B-2-B軸配置による重量負担配分と、凸型車体運転台前後のボンネットとの間に緩衝ゴムを挟んだ柔結合として台枠自体の垂直強度をある程度落すことを許容し軽量化したことにより軸重の低減を実現した。
 2軸ボギー台車3組を装備し、うち両端台車が動力台車 (DT113B) とされ、無動力の中間台車 (TR106) によって全体の軸重を軽減している。従来の6軸機関車では2台車のC-CやA1A-A1Aの軸配置が主流であったが、軸間距離が長く曲線通過性能がそれほど良くなかったため、軸配置B-2-Bの3台車とすることで曲線区間での回転性能が向上した[6]。
 車体中央にある中間台車(付随台車)は、開発当初、全体の軸重を亜幹線基準の14 tに抑制する手段に過ぎなかったが、増加試作機ではライナー挿入、さらに量産車では空気ばねを搭載して空気ばね内の空気圧を調整することにより、動力台車の軸重を14 tと15 tとの2段階に調整できるようになった[7]。これによって、亜幹線への入線能力と、規格の高い重幹線での動輪粘着力確保を両立可能としている。
 エンジンは、入換・支線用小型機DD13形で使用されていたDMF31S形をベースにして新開発されたDML61Z形ディーゼルエンジンで、気筒の数を直列6気筒からV形12気筒に変更[注 1]、排気過給機(ターボチャージャー)と中間冷却器(インタークーラー)を装備して、最大出力が1100 PS / 1500 rpmとなり、それを2基搭載して、総出力2200 PSを出すことができる。ノッチは14段階。
 動力伝達方式は、軌道の重量制限に対処する軽量化のため日本国外大型機関車の主流である電気式をやめ、日本での量産大型ディーゼル機関車では初めて液体式として製造された。液体変速機は3組のトルクコンバータを内蔵した充排油式(フォイト式)のDW2Aで、新たに開発されたものである。動力伝達システムは、両端の動力台車2基4軸を、前後のボンネット内にある1エンジンに1変速機の組合わせの動力装置と、その動力により駆動する2軸駆動の1台の動力台車の構成により動力が伝達されるシステムとなっており、エンジンと運転室側にある逆転機内蔵の液体変速機の間に第1推進軸、液体変速機と動力台車に内蔵された第1減速機(動力台車の運転室側)の間に第2推進軸、第1減速機と同じく内蔵された第2減速機(動力台車の先頭側)の間に第3推進軸がそれぞれ連結され、動力が伝達される。
 また、エンジンの冷却系機器として先頭部両側面にラジエーターとその上部にファンを装備しており、補機駆動軸充電発電機と空気圧縮機を駆動させ、機関潤滑油・変速機油・機関と中間冷却器の冷却水をポンプで循環させることで、オイルおよびラジエーターを冷却している。

2 番台区分
2.1 基本番台(1 - 53号機)
 製造時期:1962年 - 1966年
試作型及び初期の量産型で客貨両用。客車暖房用の蒸気発生装置 (SG) を搭載しているが、重連総括制御装置は搭載しておらず、非重連形と呼ばれる。0番台はJRに継承されることなく、1986年までにすべて廃車された。

●1号機
 第1次試作型で1962年に日立製作所が製造。エンジンはダイハツ工業(現・ダイハツディーゼル)製DML61S (1,000 PS) を2基搭載している。DD13形の後期型と同様の円形の装飾リム付きのシールドビーム式前照灯を2灯ボンネット前端に配置し、運転室屋根もヒサシ状とはなっていないため、2号機以降に比べて丸みを帯びた印象となっている。登場当初はぶどう色2号を基調に白帯を回し、帯が左右の前照灯間で斜めに切れ下がり突き合わされた独特の塗装色だったが、のちに2次試作機以降と同じくオレンジ色を基調に白帯の塗装に変更され、秋田機関区(現・秋田車両センター)に配置された。
 当初は機関や変速機の特性不一致などで所定の性能が得られなかったが、そのデータは2号機以降に活かされることになり、本機ものちに改修され面目を一新した。
 2 - 4号機が増備されると盛岡機関区に転属し、その後も東北地方を中心に運用されたが末期には再び秋田機関区に転属。1980年頃まで使用されていたがその後は休車となって秋田機関区に留置され、1986年に廃車された。その後は長らく当時の高崎第二機関区(現・高崎機関区)に保存されていたが、1999年以降に登場当初の塗装色に戻され、碓氷峠鉄道文化むらに保存されている。
●2 - 4号機
 第2次試作型で2号機は日立製作所が、3号機は川崎車輛が、4号機は三菱重工業がそれぞれ担当し、いずれも1963年に製造された。前照灯はボンネット前端にやや奥まった形態で配置され、凹んだ四角形のライトベゼルが付けられた。運転室屋根前後端は水平に延長され、ヒサシ状となった。中間台車は、コイルばねにライナーを挿入することで14 t - 15 tの間で軸重切替が可能である。燃料タンクの容量は3,000 Lだったが、のちに700 Lタンクがランボード上2箇所に設置され、4,400 Lに増量された。
 1号機のテストで得られた結果を元に改良されており、所定の牽引性能を確保した。また、技術的な問題も解決され、以後の量産機に反映された。
 3両とも盛岡機関区に配属され、秋田から転入した1号機とともに、当初は東北本線御堂 - 奥中山高原間の十三本木峠越えに投入されている。
 末期には2・3号機が秋田機関区に、4号機が岡山機関区にそれぞれ転属されたのち、4号機が1983年に廃車され、2・3号機がそれぞれ1985年に廃車された。
●5 - 19号機
 1964年に製造された先行量産型。長距離運用に対応するため、燃料タンク容量が4,500 Lに増量された。中間台車は枕ばねを空気ばねとしたTR101A形で、空気ばね圧の変化で軸重を調整する機構に変更され、運転台から調整操作が行えるようになった。
 盛岡機関区の他、吹田第一機関区(現・吹田機関区)・鳥栖機関区にも配置され、非電化幹線の旅客列車の無煙化を推進した。
 1 - 19号機までは正面の塗りわけが異なり、白帯はサイドと同じ高さでナンバープレートの下を通っており、末期には磐越西線などの運用で鉄道ファンの注目を集めていた(末期の2号機など、量産機と同じ塗り分けになったものも存在した)。
 末期は吹田第一機関区と東新潟機関区に集中配置され、東新潟の車両は磐越西線で使用されていたが、他地区で余剰となったDD51形の転入により1984年ごろまでに運用を離脱し、1986年に廃車された。一方吹田第一の車両は、大阪近郊の貨物列車のほか、福知山線では普通列車も牽引していたが、1984年2月で運用を離脱し、1985年に廃車された。
●20 - 53号機
 1965年・1966年に製造された初期量産型。エンジンはDML61Z (1,100 PS) に強化された。20号機以前の車両も後日DML61Zに換装され、DD51形は全機がDML61Zに統一された[1]。従来使用されていたエンジンはDD16形に流用されている[1]。
 正面の白帯はナンバープレートの取付位置に合わせられ、以降の標準配色となった。
 このグループの一部は20系客車牽引のため、空気圧縮機 (CP) からの圧縮空気を送る元空気溜め管を両渡りで増設した。
 新製当初は、盛岡機関区、長野機関区、門司機関区、鳥栖機関区に配置されたが、盛岡機関区・長野機関区の車両は、電化工事の完成により他所に転属し、晩年は旭川機関区、東新潟運転所、吹田第一機関区、米子機関区、門司機関区へ配置されていた。昭和59年の貨物列車の大規模な削減によってほぼ全機が余剰となり1985年から1987年にかけて廃車された。

9 脚注
9.1 注釈
[注 1]^ バンク角60°ボア180 mm×ストローク200 mm、排気量61.1 L。

9.2 出典
[1]^ 石井幸孝『DD51物語』117頁。
[2]^ 石井幸孝『DD51物語』111頁。
[3]^ “「赤豚」「ダメデゴイチ」 一部で嫌われたDD51形ディーゼル機関車 鉄道ファンの心理” (日本語). 乗りものニュース. 2020年12月30日閲覧。
[4]^ “凸型ディーゼル機関車DD51、来年3月に引退へ 北斗星や出雲にも(朝日新聞デジタル)” (日本語). Yahoo!ニュース. 2020年12月18日閲覧。
[5]^ 石井幸孝『DD51物語』112頁。
[6]^ 石井幸孝『DD51物語』114頁。
[7]^ 石井幸孝『DD51物語』115頁。

最終更新 2021年3月12日 (金) 16:26 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 電気式DF50形の代替を目指して入換・支線用小型機の液体変速式ディーゼル機関車DD13形を元に開発された。私の所は既に幹線は電化区間、支線はDE10形、臨海鉄道にDD13形同型機があり、今回の「DD51」は上京時の途中車窓で見たのが最初。DE10が"当たり前"に大きくなった、のが第一印象だった。電化前は当地でもSL重連で通過する地であったが、特急が「DD51」に変わったらしい。1968年(昭和43年)10月ダイヤ改正の電化により、秋田駅や釜石線などに舞台が移った、その後の絵なのだろう。
 1960年代に始まった貨物輸送のモータリーゼーションは1970年をピークに鉄道貨物は激減。1984年2月1日国鉄ダイヤ改正をもって、ヤード継走式輸送は全廃され、「貨車操車場」は終焉を迎えた。今回の「DD51」0番代は"非重連形"であり、事実上の試験車両。53台の0番代は多い気もする、JRには"非重連形"は引き継がれなかったから。「完全重連形」を完成させてから量産させても良かったかも。1966年から見て、1970年以降の鉄道貨物激減を予測できなかったのか。
Posted at 2021/03/13 15:22:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | ディーゼル機関車 | ニュース

プロフィール

「「Yamato」体重計 ♫〜」
何シテル?   04/02 16:02
 「昔々、有ったとさ、 『トヨタディーゼル店』、『トヨタパブリカ店』、『トヨタオート店』、『トヨタビスタ店』・・・」。      身長165cm・体重6...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/8 >>

      12
345 6789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      

リンク・クリップ

新明和工業・特装車事業部 
カテゴリ:鉄道・バス
2016/09/29 08:29:33
 
マイナビ ニュース 
カテゴリ:マスコミ
2013/02/20 15:01:45
 
都道府県タクシー協会 
カテゴリ:鉄道・バス
2011/01/06 11:50:45
 

愛車一覧

ダイハツ ハイゼットカーゴ ダイハツ ハイゼットカーゴ
"MT車"、9.8万キロ走行、である。 前車ハイエースを年末に買取りしてもらう。 ほぼ、 ...
トヨタ ルーミー 「タンク」顔の"ルーミー" (トヨタ ルーミー)
[写真・画像] 6/25(日)10:37 青森トヨタ・ネッツトヨタ青森 TwiN pla ...
スバル サンバー スバル サンバー
母の嫁入り道具、父は車持ってなかった。後に事故廃車。
トヨタ マークIIバン トヨタ マークIIバン
事故廃車したため、購入。コロナバンがなかった・・。
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation