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2021年02月13日 イイね!

「貨車操車場」の終焉

「貨車操車場」の終焉[写真・画像] 青い森セントラルパーク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 青い森セントラルパーク(あおいもりセントラルパーク)は、青森県青森市にある公園。所在地は青森市大字浦町字橋本。
 かつての青森操車場の跡地21.5ヘクタールの内、青森中央大橋の東側部分の大部分を使用して作られた公園。青森操車場跡地の西部は青森信号場として現在も使用されている。かつては日本国有鉄道清算事業団が現在の公園敷地を保有していたが、解散に伴い青森県が約20億7千万円、青森市が約43億4千万円を投入し敷地を買い取った。
作成: 2019年5月26日

日本の貨車操車場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 日本の貨車操車場の項目においては、かつて日本の鉄道貨物輸送の中枢を担った操車場(ヤード、英:classification yard)について、また操車場のその後の経過について記載する。車両基地の一般的な呼称である「操車場」については車両基地参照のこと。以下の記述では、「ヤード(英:yard)」は「操車場」と同意義、また操車場とは「貨車操車場」を示すものとする。加えて、過去には数多くの鉄道会社が貨物輸送を行っていたが、いずれも国鉄に比べると極めて小規模なので、この項目でも国鉄の貨車操車場を中心に扱う。

1 操車場建設の歴史的経緯
 1872年(明治5年)に開業した日本の鉄道では、創業して間もない頃から貨物輸送を行っており、やがて鉄道網が日本全国に拡大するにつれ鉄道輸送は旅客・貨物いずれにしても陸上輸送の主流となった。
 貨物輸送が増大したのは、特に1906年の鉄道国有化以降である。貨物の増加に対応するため、明治末期から大正時代にかけて、それまで駅構内の付属施設(仕分線)にて行われていた貨車の入換および貨物列車の組成作業を専門に行い、かつ広大な作業場を備えた操車場の建設が行われるようになった。これが操車場建設の第一期である。稲沢操車場や吹田操車場、田端操車場、品川操車場がこの時期に建設されている。品川操車場は後に客車操車場に転向し、貨車入換作業は品鶴線上に新設された新鶴見操車場に移転した。
 その後二度にわたって、集中的に日本全国で操車場が建設されていく。操車場建設の第二期は、日中戦争勃発に伴い、軍需を中心とした貨物輸送が増加した1930 - 1940年代である。香椎操車場や新潟操車場などが新たに建設された。そして第三期は太平洋戦争後の復興期で、やはり経済の復興にあわせて増大する貨物需要に対応するために建設された。富山操車場などが該当する。
 1970年代まではこうしたヤード継走式の貨物輸送が中心であった。戦後の高度経済成長の中で、鉄道の貨物輸送は1970年(昭和45年)に輸送量のピークを迎える。
 なお、ヤードといっても「ハンプヤード」、「平面ヤード」、「重力ヤード」の3種類があるが、日本の場合は大半が「平面ヤード」で、一般的に知られていたハンプヤード方式をとったのは、郡山・大宮・田端・武蔵野・新鶴見・塩浜・静岡・高崎・富山・稲沢・吹田・門司・鳥栖といった少数の(貨車入換量が特に多い)操車場だけであり、重力ヤードにいたっては一個もなかった。重力ヤードは操車能力こそハンプヤードに劣らぬものの、ヤードが全体的に坂に設置されている必要があって建設に適した場所がなかったことがその理由として挙げられる。全世界的に見ても重力ヤードは圧倒的に少ない。

2 ヤード継走式輸送の衰退
 1960年代以降、日本国内でもモータリゼーションという社会的変化は進んでいた。その結果、旅客輸送・貨物輸送いずれにおいても自動車が台頭し、特に貨物における鉄道輸送量は大きく減少していった。自動車に比べ小回りが利かず、駅で積荷の積替えを要すること、その上操車場での入換作業を要するがために到着までに時間がかかることや、いつ到着するかが極めて不明確であること、さらに度重なる運賃の値上げ、労組間の対立に伴い頻発するストライキによる信頼低下などがシェア低下の要因だった。
 ヤード継走式輸送は、貨車の取扱量が多くてこそはじめて威力を発揮し、輸送を効率化させる。しかし1970年以降、取扱量は大きく減少していた。さらに1959年(昭和34年)からはコンテナ専用列車が定期的に走り始め、1969年(昭和44年)には東海道本線・山陽本線でコンテナ専用の特急貨物列車「フレートライナー」が登場したことで、それまでは鉱山から工場、工場から港湾などに限られていた直行輸送がコンテナによってあらゆる貨物輸送の主流となることが明らかになると、操車場系輸送の落日は目に見えてきた。
 しかし国鉄は、コンテナ輸送の拡大と並んで、操車場の近代化・効率化も同時に推進した。1974年(昭和49年)に開業した武蔵野操車場のようにコンピューター(yard automatic control system、略称「YACS」と呼ばれる)による貨車仕分けの自動化や、無線操縦機関車やカーリターダー(自動減速器。線路に設置される)、リニアモータ方式貨車加減速装置、ダウティユニット(線路内に油圧ジャッキ式のユニットを多数設置して貨車の速度を制御する)等を用いて省力化・高速化が図られたところもあった。近代化前の操車場では、貨車の突放や減速などは作業員が走る貨車の横につかまって調節するという危険なものだった(実際大勢の死者が過去に発生していた)ので、これは極めて画期的なことだった。他に、コンピューター化された操車場としては、郡山・新南陽・北上・塩浜・高崎が挙げられる。
 しかし国鉄の貨物輸送が減少し、国鉄全体の収支も悪化したため全国の操車場を近代化する計画は頓挫してしまった。1978年10月2日国鉄ダイヤ改正や1980年10月1日国鉄ダイヤ改正では大幅に貨物列車が削減された。数々の効率化・合理化も空しく、1984年2月1日国鉄ダイヤ改正をもって、ヤード継走式輸送は全廃された。その後全国の操車場の大半は廃止され、遊休地化するものも多かった。存続しても機関車交換などの信号所的な業務に大幅に縮小され、一部は広い敷地を生かし、周辺駅と統合されコンテナ輸送に最適化された現代型の貨物駅に生まれ変わった旧操車場もあった。
 以後、国鉄そしてJRの貨物輸送はコンテナや企業の私有貨車による直行輸送のみとなった。しかし、この時点では車扱列車そのものは残存していたため、組成作業の必要は残されていた。国鉄はこうした操車作業を各地の臨海鉄道に移管するが、附近に代行可能な臨海鉄道がなかった富山貨物、新南陽、東小倉では操車作業を続けている。操車場そのものが不要になるには、途中駅で解結を行う車扱輸送がほぼ終了する2008年3月のダイヤ改正まで待たねばならなかった。

3 主な国鉄の操車場
 国鉄社内では、操車場を含む貨車の入換作業を行う駅(貨物駅も含める)を組成駅と総称しており、1980年10月1日時点で150を数えた。組成駅は社内規則により、本社指定組成駅、地区指定組成駅(支社による指定)、局指定組成駅(鉄道管理局による指定)の3つに重要度別に分けられていた。
 その中で正式名称として「操車場」と呼ばれるのは、貨物列車の組成のみを行う独立した駅(停車場)のことで、さらに基幹操車場と地区操車場に分けられていた。まれに操車場が貨物の取扱を始める場合があり、その時は「操駅」(そうえき、操車場駅の略)に格上げされた。

3.1 本社指定組成駅
 1978年(昭和53年)5月当時の本社指定組成駅の一覧である。1978年当時は31箇所あったが、1984年(昭和59年)2月1日のダイヤ改正までにすべて指定が解除(廃止)された。

●五稜郭駅(五稜郭操車場)
 北海道の貨物輸送の玄関口として機能した。1943年(昭和18年)1月9日開業、1984年2月1日に機能停止。構内にあった車両基地がJR貨物五稜郭機関区として現存している。
●青森信号場(青森操車場)
 東北三大操車場の一つ。東北本線と奥羽本線の結節点であり、対北海道輸送の拠点であった。1926年(大正15年)10月25日開業、1984年2月1日に機能停止。1986年に青森信号場に降格した。
●秋田貨物駅(秋田操車場)
 奥羽本線と羽越本線の結節点。1960年(昭和35年)8月1日開業、1984年2月1日に機能停止。1990年に跡地に秋田操駅の貨物設備が移転し、秋田操駅は秋田貨物駅に改称した。
●郡山貨物ターミナル駅(郡山操車場)
 東北本線と磐越東線・磐越西線の結節点。東北三大操車場の一つ。1965年(昭和40年)10月1日開業、1977年に貨物の取扱を開始し郡山貨物ターミナル駅に昇格した。1984年2月1日に操車場機能を停止。1994年に操車場跡地に貨物設備が移転した。
●長町駅(長町操車場)
 東北三大操車場の一つ。東北本線と宮城野駅(現在の仙台貨物ターミナル駅)経由の貨物線の分岐点にあった。1924年(大正13年)3月1日開業、1984年2月1日に機能停止。跡地は「あすと長町」として再開発中。
●新潟操車場
 新潟港といくつもの貨物支線で結ばれ、新潟市の列車組成作業を担っていた。1957年(昭和32年)10月1日開業、1984年2月1日に機能停止。国鉄分割民営化直前に新潟操駅に昇格、1990年に貨物設備が操車場跡地に完成し、新潟貨物ターミナル駅に改称した。
●長岡操車場
 信越本線と上越線の合流地点にあたる。1931年(昭和6年)7月11日開業、1984年2月1日に機能停止。1985年(昭和60年)に南長岡駅に統合され、1996年(平成8年)にその貨物設備が跡地に移転した。
●直江津駅
 信越本線と北陸本線の結節点。1984年2月1日機能停止。
●高崎操車場
 上越線・高崎線・信越本線・八高線・両毛線の5線の結節点。1943年(昭和18年)3月1日開業。1984年2月1日に機能停止したが、高崎線の操車場として現存する。
●いわき貨物駅
 常磐線と磐越東線の結節点。1972年(昭和47年)10月1日開業、内郷機関区を併設した。1984年2月1日に機能停止、1985年(昭和60年)に信号場に格下げされ、その後廃止された。
●新小岩操車場(現在の新小岩信号場駅)
 千葉県方面の貨物輸送の拠点。新金線という貨物線で常磐線と接続した。1926年(大正15年)2月24日開業、1968年(昭和43年)に新小岩駅の客貨分離に伴い新小岩操駅として独立。1984年2月1日に操車場機能を停止。廃止時は地区指定組成駅であった。なお、1986年(昭和61年)に新小岩操車場に降格したが、国鉄分割民営化直前に再び新小岩操駅に昇格、2011年(平成23年)には新小岩信号場駅に降格された。
●大宮操駅(大宮操車場)
 東北本線と上越線の結節点で、東京における貨物輸送の北の玄関口として機能した。1928年(昭和3年)3月1日開業、1961年(昭和36年)に大宮駅の客貨分離に伴い大宮操駅として独立。1984年2月1日に操車場機能を停止し、1986年に大宮操駅は大宮操車場に降格した。東北本線の操車場として一部が現存。跡地はさいたま新都心。
●田端操車場(現在の田端信号場駅)
 構内に田端運転所を擁する。大宮・武蔵野の各操車場開業で役目を縮小していた。隅田川駅と貨物線で連絡。1915年(大正4年)5月10日開業、1961年(昭和36年)に田端駅の客貨分離に伴い田端操駅として独立。1984年2月1日に操車場機能を停止。廃止時は局指定組成駅になっていた。なお1986年に田端操車場に降格したが、1990年に再び田端操駅昇格、2011年に田端信号場駅に降格された。
●武蔵野操車場
 付近の貨車入換を行う駅を統合する形で1974年(昭和49年)10月1日に開業。1984年2月1日に機能停止、1986年に廃止。跡地には新三郷駅が設置され、かつての操車場の敷地は住宅・商業施設「新三郷ららシティ」として三井不動産が再開発中。
●新鶴見操車場
 日本三大操車場の一つ。大宮操車場や汐留駅と結ばれていた。北の大宮に対して南の牙城。1929年(昭和4年)8月21日開業、1984年2月1日に機能を停止し新鶴見信号場に降格した。跡地は長らく空き地のままであったが、2000年代より再開発が具体化しつつある。
●沼津駅
 東海道本線と御殿場線の結節点。1984年2月1日機能停止。廃止時は地区指定組成駅。
●東静岡駅(静岡操車場)
 東海道本線静岡付近の列車組成作業を担う。1962年(昭和37年)10月6日開業。1984年2月1日に操車場機能を停止、1993年(平成5年)に跡地に東静岡駅の貨物設備が移転、静岡貨物駅となった。
●稲沢駅(稲沢操車場)
 日本三大操車場の一つ。名古屋付近の貨物取扱を担い、貨物線(稲沢線)で笹島駅と結ばれていた。1925年(大正14年)1月16日開業、1984年2月1日に機能停止。
●米原駅(米原操車場)
 東海道本線と北陸本線の結節点。1984年2月1日機能停止だが、廃止時は地区指定組成駅になっていた。一部がJR貨物の操車場として現存し、跡地は「米原貨物ターミナル駅」として再開発予定。
●富山操車場
 北陸本線とその支線における貨物輸送の一大拠点。1955年(昭和30年)10月1日開業。1968年(昭和43年)に日本で初めてコンピューターが導入された。1984年2月1日に操車場機能停止、国鉄分割民営化直前に富山操駅に昇格、1990年に操車場跡地に貨物設備が完成し、富山貨物駅となった。
●梅小路駅(梅小路操車場)
 東海道本線と山陰本線が形成するデルタ線の中にあった。1913年(大正2年)6月21日開業、1984年2月1日に機能停止。1990年に跡地に梅小路駅(現在の京都貨物駅)貨物設備が移転。
●吹田操車場
 日本三大操車場の一つ。東海道本線上にあり、梅田駅と接続。操車量の多さゆえ「東洋最大」と称えられた。1923年(大正12年)7月1日開業。1984年2月1日に機能停止、吹田信号場に降格。2013年3月に跡地に吹田貨物ターミナル駅が完成した。
●姫路駅(姫路操車場)
 操車場は構内東側にあった。1984年2月1日に機能停止。北側に貨物設備があったが、姫路貨物駅へ移転した。跡地は現在再開発中。
●竜華操車場
 関西本線と城東貨物線・阪和貨物線の結節点にあり、百済駅とつながっていた。1938年(昭和13年)10月1日開業。1984年2月1日に機能停止、1986年に竜華信号場に降格。竜華信号場も1997年に廃止。跡地は竜華副都心建設予定地。
●岡山操車場
 岡山駅西方にあり、山陽本線・伯備線・宇野線を発着する貨車の組成作業を担った。1925年(大正14年)開業[1]。1984年2月1日に機能停止、1990年に西岡山駅(現在の岡山貨物ターミナル駅)に併合され、その貨物設備が跡地に移転した。
●東広島操車場
 広島駅東側にあった。1916年(大正5年)開業[2]。1984年2月1日に機能停止、1995年に跡地に東広島駅の貨物設備が移転、広島貨物ターミナル駅となる。旧貨物設備跡地にはMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島が建設され、2009年にオープンした。
●高松駅
 四国唯一の本社指定組成駅。1984年2月1日機能停止。付近に貨物ホームもあったが、高松貨物ターミナル駅に移転した。
●門司駅(門司操車場)
 九州の貨物輸送の玄関口。1942年(昭和17年)4月1日開業、1984年2月1日機能停止。跡地に2003年(平成15年)に貨物設備が完成し北九州貨物ターミナル駅となった。
●香椎駅(香椎操車場)
 鹿児島本線と博多港への貨物支線の分岐点。1984年2月1日機能停止。跡地の一部が千早操車場となったほかは副都心として再開発予定。
●鳥栖駅(鳥栖操車場)
 鹿児島本線と長崎本線の分岐点。かつて藤井フミヤが勤めていた。1926年(大正15年)6月15日開業。1984年2月1日に機能停止、跡地に1990年に貨物設備が完成、その後鳥栖貨物ターミナル駅となる。
●熊本駅(熊本操車場)
 熊本駅構内南方にあった。1984年2月1日機能停止。付近に熊本駅貨物ホームがある。

3.2 主要な地区指定組成駅
●岩見沢駅(岩見沢操車場)
 石狩炭田の石炭輸送の牙城だった。1980年(昭和55年)10月1日廃止。
●苫小牧駅(苫小牧操車場)
 室蘭本線と千歳線の分岐点にあった。1984年2月1日に機能停止、1991年(平成3年)に跡地にJR貨物苫小牧駅が移転。
●東室蘭駅(東室蘭操車場)
 石炭などの鉱産物、鉄鋼などの工業製品輸送の拠点とされた。石炭・製鉄業と共に衰退。1984年2月1日に機能停止、1996年(平成8年)に跡地にJR貨物東室蘭駅が移転。
●塩浜操駅(塩浜操車場)
 川崎市の工業地帯における列車組成を担った。1984年2月1日に操車場機能を神奈川臨海鉄道に移管。1995年に川崎貨物駅に改称。
●亀山駅(亀山操車場)
 関西本線と紀勢本線の交点。1984年2月1日廃止。
●東灘操車場
 東海道本線上にあり、神戸臨港線により神戸港駅とつながっていた。東灘駅構内扱いであったが、1972年に正式に東灘操車場となる。1981年4月1日に機能停止、東灘信号場に降格。
●和歌山操駅(和歌山操車場)
 阪和線と紀勢本線の結節点。1984年2月1日に操車場機能停止、1986年に和歌山操駅も廃止。
●直方操車場
 筑豊炭田の石炭輸送の牙城。石炭業と共に衰退、1982年11月15日廃止。廃止時は局指定組成駅に降格していた。

3.3 主要な局指定組成駅
●北上操車場
 東北本線北部の貨物輸送の拠点であり、作業がコンピューター化されていたことで知られていた。国内で最も遅くできた操車場。1984年2月1日に機能停止、1986年に廃止。現在貨物駅の建設が計画されている。
●酒田駅
 羽越本線と羽越貨物支線(酒田港線)の結節点。山形県庄内地方の中心。1984年(昭和59年)2月1日操車場機能廃止。
●鼠ケ関駅
 山形県庄内地方と新潟県下越の境界。1972年(昭和47年)操車場機能廃止。
●坂町駅
 羽越本線と米坂線の結節点。新潟県北部の中心。1980年(昭和55年)10月1日新潟操車場に集約する形で操車場機能廃止。
●新津駅
 信越本線と羽越本線、磐越西線の結節点。1980年(昭和55年)10月1日新潟操車場に集約する形で操車場機能廃止。
●新南陽駅(新南陽操車場)
 旧称「徳山操車場」。山口県南部の中心。1986年に新南陽駅貨物ホームが移転。山陽西部地区は接続専用線や支線区の貨物扱いが多く残っていたことから、JR貨物でも専用列車の組成駅として操車場機能が残され、1996年10月31日まで運用された。日本最後のハンプヤードであった。
●幡生駅(幡生操車場)
 山陽本線と山陰本線の結節点。1984年2月1日に機能停止、大幅に縮小されたが現存する。関門トンネルを越える貨物列車の機関車交換地点。

3.4 その他
 炭田地帯や鉱山付近には大小多くのヤードが存在していた(岩見沢操車場や東折尾駅もそれらの一つ)。石灰石輸送で知られていたヤードとして美祢ヤードが挙げられる。
 計画されたものの、建設されずに終わったもので大井操車場がある。1960年代に東京外環状線計画が発動された時に、当時の大井埋立地にコンテナ対応の貨物駅(大井駅)と併設される形で建設が予定されていた大規模操車場である。しかし、鉄道貨物輸送の衰退に伴い、操車場の建設は取りやめとなった。その建設用地には現在、東京貨物ターミナル駅がある。
 また、この項目では国鉄を中心に取り扱っているが、私鉄でも貨物ヤードを保有する会社は存在した。東武鉄道のとうきょうスカイツリー駅付近の広大な空き地(一部は東京スカイツリー建設に用いられる)も、元々貨物ヤードだった名残である。

4 出典
[1]^ 「鉄道による貨物輸送の変遷」太田幸夫、富士コンテム、2010年、p.28
[2]^ 「鉄道による貨物輸送の変遷」太田幸夫、富士コンテム、2010年、p.18

5 関連項目
・操車場:ヤードの種類について記載されている。
・ゴーサントオ(1978年10月2日国鉄ダイヤ改正):国鉄始まって以来の、貨物列車の大幅削減。
・1980年10月1日国鉄ダイヤ改正:さらなる貨物列車の削減。岩見沢操車場の廃止。
・1982年11月15日国鉄ダイヤ改正:貨物面でも合理化を推進。ヤード式前提輸送では最後の改正。
・1984年2月1日国鉄ダイヤ改正:ヤード経由式輸送の全廃。
・武蔵野線
・東京外環状線
・山手貨物線
・東海道貨物線
・品鶴線
・梅田貨物線
・物流
・貨物列車
・荷物列車
最終更新 2021年1月18日 (月) 14:03 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 『ワム80000』有蓋貨車など"最高運転速度75km/h"と一緒に停止したのが
『貨車操車場』である、多くの二軸貨車を入替作業するための場所である。もし、鉄道コンテナに一気に切り換えれば、大型フォークリフト荷役で『荷物がいつごろ届く』という予定が立てやすいのは後生の事実だ、と思う。

 写真の青森操車場は「青函連絡船」対策のためで特殊かもしれないが、小規模貨物駅と共にもっと延命出来たと思う。
 また、蒸機からのエネルギー転換は石炭輸送の廃止を早めた面も否めない。北海道・九州などの炭坑からの輸送も無くなったのは大きい。
 小規模貨物駅が宅急便・宅配便・ゆうパックの窓口・中継地点として機能したのでは。鉄道は旅客だけでなく、貨物・荷物輸送の両輪で発揮出来るのであるはずだから。
Posted at 2021/02/13 17:55:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道貨物 | ニュース
2021年02月02日 イイね!

「鉄道貨物」の"コンテナ"化

「鉄道貨物」の"コンテナ"化[写真・画像] DD51形を先頭にした貨物列車
山陰本線の三保三隅 - 折居間を走行する愛知機関区所属のDD51型ディーゼル機関車1802号機牽引のコンテナ貨物列車
作成: 2018年9月6日

日本のコンテナ輸送
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

4 鉄道コンテナ
 日本の鉄道コンテナは、戦前の1931年に試作された1 t積みの「イ号コンテナ」に始まるが、戦時中の金属供出によって全廃された[14]。そして戦後、トラック輸送に対抗すべく3 t積み3000形コンテナ、5 t積み5000形コンテナの試作・試験輸送を経て1959年11月から、正式にコンテナ専用列車「たから号」として汐留 - 梅田間で、5000形など数種類の10 ft形、5 t積みコンテナを積載して運用を開始した。この10 ftの5 t積みコンテナが荷主にとって、取引単位や大きさなどからも非常に扱いやすいサイズであったため、このサイズをもとに日本のコンテナ貨物は、現在の主流である12 ftサイズへと拡充していくこととなる。
 一方で、鉄道貨物輸送開始当初より伝統的に続けられていた「ヤード集結型輸送[注 3]」の貨車輸送は戦後、日本の高度成長時代に伸び続けた。しかし、現代では当たり前の『荷物がいつごろ届く』という予定が、輸送途中での貨車を何度も切り離しては組み替えて、再輸送するヤード集結輸送方式ではほぼ掴めず、到着間際にやっとわかる程度の致命的な欠陥を抱えていた。このような輸送効率の悪い状況下でも国鉄貨物の輸送量が増え続けて、ついに1964年をピークに輸送限界に達し、その影響によりさらに輸送遅延がひどくなった。また当時はトラックなどのほかの輸送方法も手薄だった事もかさなり、国鉄は抜本的な輸送改革を求められ続けた。しかし1964年度に赤字に転落した後、累積赤字や度重なる労働争議の影響で輸送改革は思うように進まず、その後の相次ぐ高速道路の開通や地方までの道路整備が進み、急速に輸送日数も早くまた配達日程が分りやすいトラックに輸送シェアを奪われ、鉄道での貨物輸送量は年々激減し逆に赤字は膨らむ一方の悪循環に陥っていた。
 その結果、ついに抜本的な対策として1984年2月1日国鉄ダイヤ改正#貨物列車の大整理にあわせて「ヤード集結型輸送」を廃止し、多くの貨物駅を拠点となる大型貨物駅に集約してコンテナ貨物列車や、一部の物資別専用列車[注 4]による発送から到着までを、途中で貨車の組み替えする事無く「直行型輸送[注 5]」に一斉に切り替えた。また国鉄が管理している私有コンテナに関しては、それまで専用のタンク車で長年輸送されてきた各種化成品についても、輸送方式の変更により多くの貨車が余剰廃棄となる中で、ごく一部のタンク車(ガソリン用など)しか生き残れないために、国鉄は私有#タンク・コンテナや#ホッパ・コンテナ化への変更を荷主に求めていったことで、主に20 ftサイズの私有タンクコンテナ(ISO規格・規格外ともにあり)に切り替わっていった。

9 注釈
[注 3]^ 文献によっては「ヤード集結輸送方式」または単に「ヤード方式」などの複数の呼ばれ方があるが、ここでは1984年2月1日国鉄ダイヤ改正で記された呼び方に統一した。
[注 4]^ 新聞紙用のロール紙専用輸送列車【紙列車】、石油類の専用列車【燃料列車】、セメント専用列車、鮮魚専用列車など。
[注 5]^ 文献によっては「直行輸送方式」または単に「直行方式」などの複数の呼ばれ方があるが、ここでは1984年2月1日国鉄ダイヤ改正で記された呼び方に統一した。

10 出典
[14]^ “鉄道貨物輸送の今 (pdf)” (日本語). 一橋大学鉄道研究会. p. 49. 2021年1月21日閲覧。
最終更新 2021年1月23日 (土) 07:53 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)


≪くだめぎ?≫
 『動力近代化』の一つの目的はスピードアップである。蒸機時代は"最高運転速度65km/h"、そして1968年10月1日ダイヤ改正で"最高運転速度75km/h"に成ったが、DD51などディーゼル機関車の性能が生かし切れていない。無煙化を進めるより先に、貨車の高速化と奏してコンテナ列車移行を強引に進めた方が、貨物激減をいくらか食い止められたと思うのは・・。
Posted at 2021/02/02 21:26:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道貨物 | ニュース
2020年11月15日 イイね!

今年も「玉ねぎ列車」が走る!!

今年も「玉ねぎ列車」が走る!!北見の玉ねぎを全国へ。今年も「玉ねぎ列車」が走る!!
柴山ロミオ 2020年11月12日 ライフ

[写真] “プッシュ・プル方式”
 前後の運転士が2人で息を合わせて運行。

 玉ねぎの生産量が日本一の北見では、この時期、収穫した玉ねぎを全国へと出荷しています。大量の玉ねぎの輸送に使われるのが貨物列車。その名も「玉ねぎ列車」です。全コンテナの中には北見の玉ねぎがおよそ200トン。北見から旭川までの道中は、険しい峠を越えなければならないため、「プッシュ・プル方式」という珍しい車両編成で、毎年、玉ねぎを運びます。

■“玉ねぎの大生産地” 北見から玉ねぎを運ぶから、愛称「玉ねぎ列車」
 玉ねぎの生産日本一を誇る北見市では、初夏に玉ねぎの収穫が終わると、8月から翌年の4月にかけて、全国へと玉ねぎを出荷します。北見から旭川までの輸送には鉄道が利用されます。玉ねぎを積んで走る臨時の貨物列車、愛称は「玉ねぎ列車」。11両編成の貨車に、北見で生産された玉ねぎが積まれています。
 北見駅を出発するのは午後7時。およそ5時間かけて、終点の北旭川駅に到着します。北見から運ばれてきた玉ねぎは、この駅から札幌や本州、九州にも運ばれていきます。
 かつては1日に3往復していた「玉ねぎ列車」ですが、車両が古くなり、採算性が低いことから、トラックでの輸送が主になってきました。しかし、玉ねぎを安定的に運ぶためには、貨物列車はなくてはならない存在です。現在は1日1便になりましたが、北見地方の秋冬の風物詩ともいえる「玉ねぎ列車」は、今年も運行しています。

■急勾配、急カーブ。運転が難しい峠をベテラン運転士が運行
 玉ねぎ列車が走る石北本線には複数の峠があり、急勾配や急カーブがいくつもある難所が多い路線です。また、秋も終わりになると線路に落ち葉が積もり、日によっては、落ち葉の上に雪が積もることもあります。
 玉ねぎを積んだ貨車はとても重いので、ブレーキがすぐにきかず、また、一度停まってしまうと加速が悪くなります。落ち葉が積もっている線路では、なおのことです。
 このように難関が多い石北本線では、重い玉ねぎを積んで運転を担うのは、ベテランの運転士です。しかし、線路を熟知しているベテランであっても、天候や風向きなどによっては運転が難しいときがあるといいます。

■機関車が前にも後ろにも。後ろで押す、前が引く“プッシュ・プル方式”
 重い貨車、ベテランでも難しい路線。玉ねぎを運ぶのはなかなか容易ではありません。そこで、北見の玉ねぎ列車は「プッシュ・プル方式」という特別な車両編成で運行されています。
 普通、貨物列車というと、前に機関車が配置されていて後ろの貨車を牽引する、という姿が思い浮かばれると思いますが、この「プッシュ・プル方式」は、貨物の前だけでなく、後ろにも機関車が配置されています。つまり、後ろの機関車が玉ねぎを積んだ貨車を押し(プッシュ)、前の機関車がそれを引っぱって(プル)走るのです。「プッシュ・プル方式」はヨーロッパなどではよく行われていますが、日本ではあまり見られない珍しい編成です。
 機関車が2台あるということは、運転士も2人いるということです。秋の落ち葉の多い時期、急勾配で車輪が滑るときなどは、前の運転士と後ろの運転士が無線で線路の状況を伝えあいながら、息を合わせて運転します。2人のベテラン運転士の連携によって、北見特産の玉ねぎが全国の消費者へと出荷されるのです。

■帰りは肥料を積んで効率化をはかる
 北見から旭川へ、貨物車両にビッシリと玉ねぎを積んで走る「玉ねぎ列車」ですが、玉ねぎを降ろした後、旭川から北見へ戻る時には積荷が少なく、効率が悪いことが課題となっていました。
 そこで今年からホクレン(ホクレン農業協同組合連合会)では、帰りの貨車に、小麦などの追肥でよく使われる「硫安肥料」を積んで、収益性を高めようとしています。たびたび廃止・廃線が議論されてきた「玉ねぎ列車」と石北線ですが、オホーツク圏の農産物を本州に届けるための大動脈ともいえる大切な路線です。「玉ねぎ列車」の存続には、今後さらなる取り組みが必要となるかもしれません。
 全国の玉ねぎ生産量の5割以上を北海道が占めています。そのうちの4割を北見地方が占めています。玉ねぎの大生産地である北見から、今年もおいしい玉ねぎが「玉ねぎ列車」によって運ばれています。
tenki.jpサプリ


≪くだめぎ?≫
 「玉ねぎ列車」存続の最大理由は、北見地方が全国玉ねぎ生産量のかなりの部分を占めろから。"旭川紋別自動車道"があり、石北線が災害でも代行輸送でも発揮しているが、冬期の安定輸送確保のため、ホクレン(ホクレン農業協同組合連合会)が敢えて選択している部分もある。
Posted at 2020/11/15 09:21:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道貨物 | ニュース
2020年04月19日 イイね!

JR札沼線「北海道医療大学―新十津川(47.6キロ)」廃止

JR札沼線「北海道医療大学―新十津川(47.6キロ)」廃止緊急事態宣言で廃線前倒し、札沼線85年の歴史に幕
2020年4月18日 19時0分

[写真・画像]
(上)多くの町民や鉄道ファンらに見送られ新十津川駅を出発する札沼線の最終列車(17日午前10時頃、新十津川町で)=原中直樹撮影
(下)新十津川町付近 googleマップより

 5月7日に廃止されるJR札沼線の北海道医療大学―新十津川間(47・6キロ)で17日、最終運行を迎え、1935年の全線開通以来、85年の歴史に幕を下ろした。新型コロナウイルスを巡る緊急事態宣言の対象地域が北海道にも拡大されたことを受け、急きょ前倒しされた。新十津川駅には沿線住民や鉄道ファンら約300人が集まり、別れを惜しんだ。
 最終列車(2両編成)は午前9時半頃、同駅に到着。乗客の当別町の女性(77)は通院で利用していたといい、「予定が前倒しされたので、急いで乗車を決めた。最後に乗れて良かった」と涙を浮かべた。
 乗客らは、午前10時過ぎに列車が折り返して出発するまで、写真を撮るなどし、警笛が鳴り響くと、「ありがとう」と声が上がった。列車に別れを告げた駅近くの女性(87)は「子どもの頃、出征する兵隊さんを見送るなど思い出が詰まった駅。もう少し存続してほしかった」と寂しそうに話した。
 JR北海道は最終運行を今月27日と決めていたが、緊急事態宣言の対象地域の拡大を受け、予定を前倒しした。2016年にJR北が廃止方針を発表した5線区のうち、廃止となるのは2線区目。

読売新聞 より


≪くだめぎ?≫
 "札沼線"の「石狩沼田-新十津川」
(1956年(昭和31年)11月~1972年(昭和47年)6月・戦時不要不急線から復旧線として)がいわゆる「赤字83線」として廃止されていた。新十津川駅が残されたのは要所"滝川駅"が近いからと言われる。近年、西日本での自然災害で貨物列車の迂回運行が行われているが、JR貨物が一切動かない、防災上いかがなモノか。

 滝川-新十津川の石狩川に橋を架け、DF200牽引貨物が札沼線を低速運転運行が可能だったのではなかったのか。
Posted at 2020/04/19 09:06:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道貨物 | ニュース
2018年11月09日 イイね!

『ワム80000』形

『ワム80000』形とび色2号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

とび色2号(とびいろ2ごう)は、日本国有鉄道(国鉄)が定めた色名称の一つである。

[写真・画像] とび色2号を地色としたワム80000形

1 概要
慣用色名称は「とび色」である。マンセル値は「3.5YR 3.8/3.5」。

1960年にワム80000形貨車量産車の地色として採用されたのが最初である。これは、パレット輸送に対応した貨車として、区別するために制定された色であったが、それまで黒一色が当たり前だった国鉄貨車の中では大変目立つ存在となった。後にワキ5000形貨車等にも採用されている。

この他、コンテナの構体内面や、無蓋車や石炭車の荷台内側、713系電車や415系電車の腰掛構体の色としても採用されている。

2 使用車両
国鉄ワム80000形貨車
国鉄ワム89000形貨車
国鉄ワサ1形貨車
国鉄ワキ5000形貨車
国鉄ワキ9000形貨車
国鉄ワキ50000形貨車

3 近似色
鳶色
茶色

4 関連項目
国鉄色

最終更新 2017年3月19日 (日) 08:45 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


二軸車 (鉄道)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

二軸車(にじくしゃ)とは、鉄軌道車両のうちで一つの車体の走り装置が二本の車軸のみの車両のこと。ボギー車との区別で使われる。

電車の場合は、四輪単車(二軸単車)、あるいは単に単車と呼ばれることが多く、その場合の台車は、単台車と呼ばれる。

1 分類
馬車や自動車のリーフリジッドサスペンションと同様に、板ばねを懸架装置の一部に兼用したものや、台車を台枠(だいわく)に固定したもののように、車軸が偏向できない構造のものと、一軸台車を持ち、偏向できるものがある。

1.1 板ばね懸架
荷重変化によるばね両端の変位を許す構造の違いにより分類される。前後左右の車軸の位置決めは軸箱守(じくばこもり = ペデスタル)で行なわれる。

1.1.1 シュー式
板ばねの両端に摺動用のシュー(Shoe = 靴)があり、台枠にはその部分で接しているだけで、固定はされていない。

1.1.2 リンク式
二段リンク式に対して一段リンク式と呼ばれることもある。板ばね両端はアイ(目玉)形状となり、引っ張り方向に働くリンク(シャックル)で吊られている。シュー式に比べ、ばね両端の摩擦が少なく、車軸の動きが良い。

1.1.3 二段リンク式
二つの輪からなる上ばね吊りが一つの輪の下ばね吊りを挟む構造となっている。お互いのリンクを繋ぐ部品が天秤の役割を果たし、三点支持を形成する。

一段リンクに比べ車軸の動きが良く、脱線に対する抗力も上がり、貨車の最高速度で 10 km/hの向上(65 km/h → 75 km/h)を果たした。
「2段リンク式走り装置」も参照

二段リンク式
1.2 台車懸架
1.2.1 単台車式
黎明期の小型電車や路面電車に多く見られる走り装置。台車は台枠と一体であり、首振り機能は持たない。

車体から独立した台車枠に装備した軸ばねと枕ばねで輪軸を懸架する。重ね板ばねを軸ばねとして輪軸が車体に直接懸架された二軸貨車の足回りとは異なり、構造的に台車を構成しているので「単台車」と呼ばれる。

円滑な曲線通過のために軸距を長く取ることが困難で、車体長に対して長くなる車体のオーバーハング部分が走行中上下左右に振り子状に振られてピッチングやヨーイングが激しく、横揺れを積極的に吸収する上揺れ枕に相当する機構を持たない事もあって蛇行動を誘発しやすく、乗り心地も走行特性も悪い。高速化にも車両の大型化にも適さず、ボギー式に取って代られた。

しかしながらこれには例外がある。バーニーカーがそれで、既にボギー車時代になっていた1915年に敢えて小型の単車として登場した。これは車輌を小型にすることで頻発運転とワンマン運転を可能とすることで効率化を図った路面電車であった。この電車は乗務員の不足していた第一次世界大戦中には一定の成果を上げ、1930年まで製造が続けられたが、やがて終戦後には収容力不足や軽量ゆえの脱線のしやすさなどの問題が露呈し、最終的に第一線から退くことになった。

1.2.2 一軸台車式
「一軸台車」を参照

2 関連項目
一軸台車
ボギー台車
連接台車
鉄道車両の台車
鉄道車両の台車史

最終更新 2018年10月30日 (火) 11:22 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


2段リンク式走り装置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2段リンク式走り装置(にだんりんくしきはしりそうち)は、鉄道車両において主に二軸車に用いられる、走り装置の一つである。板ばねを懸架装置の一部に用いて車軸・軸箱を支持するが、その板ばねの両側を2段になったリンクで支持するのでこの名がある。

1 概要
シュー式や1段リンク式の走り装置を用いた2軸車は、高速になると蛇行動を発生するため、速度向上が阻まれてきた。 これに対し、蛇行動現象の解析により新たに提案されたのが、2段リンク式の走り装置である。 二つの輪からなる上ばね吊りが中間ばね吊り座を介して一つの輪の下ばね吊りを挟む構造となっている。これによって、前後方向に強く、左右方向に柔らかい支持剛性を持たせる。

蛇行動は左右方向に柔らかい支持剛性であるほど低速で発生する。また速度が上がるにつれ一度安定し、さらに速度が上がると再度発生する。従来の走り装置では、最初の蛇行動領域に入る前の速度で運転していたが、2段リンク式は最初の蛇行動領域の速度を下げることで、より高い速度域を通常の運転速度に用いて安定させたものである[1]。

日本では、この装置の導入により、二軸貨車の最高運転速度向上が図られ、従来の65 km/h が75 km/h となった。また、1968年10月1日ダイヤ改正では、二軸貨車の走り装置を原則として2段リンク式に統一することで、貨物列車の運転速度の全体的底上げが図られた[2]。

3 歴史
1948年にドイツで速度向上のため2段リンク式が採用された[3]。一方、日本では1965年から独自に改良された2段リンク式が貨車に採用され、1968年から走行速度が75km/hに引き上げられた[3]。

4 脚注
[1]^ 「日本の貨車」pp.268-270
[2]^ 2段リンク改造を受けなかった車両もあり、それらは北海道内に封じ込められた。「国鉄貨車の車両形式#特殊標記符号」も参照。
[3]^ a b 「鉄道車両の科学」p.96

5 参考文献
『日本の貨車―技術発達史―』 貨車技術発達史編纂委員会、社団法人 日本鉄道車輌工業会、2009年。
宮本昌幸 『鉄道車両の科学』 ソフトバンククリエイティブ、2012年。ISBN 978-4-7973-4220-8。

6 関連項目
輪軸
鉄道車両の台車

最終更新 2018年5月25日 (金) 07:29 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


国鉄ワム80000形貨車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ワム80000形は、日本国有鉄道(国鉄)が1960年(昭和35年)から製造、使用した、15t積み二軸有蓋貨車である。

国鉄貨車の標準型として、1981年(昭和56年)までの21年間で、実に26,605両が量産された。製造所は、日本車輌製造、川崎車輛/川崎重工業、汽車製造東京支店、日立製作所、輸送機工業、富士車輌、ナニワ工機、三菱重工業、協三工業、舞鶴重工業、鉄道車輛工業、若松車輛である。

かつては全国各地で見ることのできた貨車で、ワムハチの愛称で知られる[1]。

国鉄ワム80000形貨車
基本情報
車種 有蓋車
運用者 日本国有鉄道
日本貨物鉄道
北海道旅客鉄道
東日本旅客鉄道
東海旅客鉄道
西日本旅客鉄道
四国旅客鉄道
製造所 日本車輌製造、川崎車輛/川崎重工業、汽車製造東京支店、日立製作所、輸送機工業、富士車輌、ナニワ工機、三菱重工業、協三工業、舞鶴重工業、鉄道車輛工業、若松車輛
製造年 1960年 - 1981年
製造数 26,605両
運用終了 2012年3月17日

主要諸元
車体色 とび色2号、貨物ブルー、赤紫色(JRFレッド)他
軌間 1,067 mm
全長 9,650 mm
全幅 2,882 mm
全高 3,703 mm
荷重 15 t
実容積 52.8 m3
自重 11.3 t
換算両数 積車 2.2
換算両数 空車 1.0
走り装置 二段リンク式
軸距 5,300 mm
最高速度 75 km/h
*上記寸法関係は280000番台を示す

1 概要
1959年(昭和34年)、汐留駅 - 梅田駅間においてコンテナ輸送が始まった。一方でそれまで主流であった車扱貨物、特に有蓋車の荷役作業の近代化をはかる必要がでてきた。このためパレットを使用し、フォークリフトで荷役をすることによる効率化が検討され、初代ワム80000形(後の初代ワム89000形)が誕生した。本形式はその改良量産型である。車体色はとび色2号(明るい茶色)。

最大積載荷重は15tであるが、これはパレットの重量を含んだものである。本形式の試作車にあたる初代ワム80000形は、容積が過小で15トンを積載することができなかったため、本形式では容積を大きくして、同荷重の他形式と比べ車体長が増加している。また、初代ワム80000形同様、荷役の利便を図るため側面は総開き式として4枚の引戸とされ、どの場所でも開口させて荷役を行うことができる[2]。積載可能なパレット数は、初代ワム80000形より2枚多い14枚である。

走り装置は二段リンク式で、最高運転速度は75km/h、車軸は12t長軸で、軸受は平軸受である。

標記トン数15tのパレット荷役用有蓋車であることから車番標記の前に「パ」(後年「ハ」に変更)の小文字が入れられたため「パワム(ハワム)」と区別される。パレット輸送の利点を生かし主に大口輸送に使用されたため、1984年(昭和59年)2月のダイヤ改正で、ヤード集結形輸送が廃止された後も、製紙業者による紙の輸送用に生き残った。1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化後は、日本貨物鉄道(JR貨物)のほか、九州旅客鉄道(JR九州)を除く旅客鉄道会社にも少数が事業用として引き継がれた。

JR貨物に引き継がれたものの一部は、軸受をコロ軸受にする改造(380000番台)や製紙原料用の木材チップバラ積み用(480000番台)へと改造されたが、輸送自体の廃止やコンテナ車への切り替えにより消滅した。

廃車となった車両の一部は、使い勝手の良さから数多くが一般に払い下げられた上で倉庫や店舗などに再利用された。今でも全国各地でその姿を見ることができる(淡路島など鉄道がない地域にもある)。また、廃車体が駅舎として転用された例もあるが、既に建て替えられたところもある(香取駅、伊勢柏崎駅など)。

5 国鉄分割民営化後の状況

26,000両以上が製造された本形式であるが、1984年2月のダイヤ改正でヤード集結輸送が原則廃止されたため大量の余剰車が発生した。余剰車は他の不要車両とともに操車場跡地に留置され、うち相当数が車軸を撤去して民間に売却され、各地で倉庫等に利用されることとなった。

1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化時には、日本貨物鉄道(JR貨物)および旅客5社に6,632両が承継された。これは本形式総製作数の4分の1弱である。内訳は、北海道旅客鉄道(JR北海道)6両、東日本旅客鉄道(JR東日本)13両、東海旅客鉄道(JR東海)8両、西日本旅客鉄道(JR西日本)19両、四国旅客鉄道(JR四国)1両、JR貨物6,588両である。走行安定性対策車(280000番台)が承継車の多数を占め、ごく少数の2次量産車およびビール輸送用物資別適合車が含まれていた。旅客鉄道会社のものは配給車や救援車代用等の事業用、JR貨物のものは営業用であるが、一部は車両所の配給用である。配給車代用のものは、国鉄時代から車体に白帯を巻いて区別されているが、広島車両所のものは緑色一色に「SUPPLY LINE」のロゴを標記した塗装に変更された。また、民営化初期のJR貨物所有車では、JR貨物のコーポレートカラーであるコンテナブルーに、「パワー全開JR貨物」等のキャッチコピーを書いた車両も存在した。

JR貨物での用途は、ロール紙を主体とする紙製品を輸送する専用貨物列車が主体であった。各地の製紙工場から大都市近傍の消費地に向けた多数の列車が設定されていたが、最高速度の制約ならびに本形式の老朽化にともなうコンテナ輸送への置換や、輸送需要自体の消滅によって運用は漸次減少し、2012年3月17日のダイヤ改正で全車運用を終了した[6]。

2010年4月1日現在の在籍数は、JR北海道1両(ワム281395)[7][8]、JR東日本1両(ワム287336)[9][10]、JR貨物401両[11]で、JR発足時の10分の1以下となっている。

7 脚注
[1]^ 名取紀之 (2012年1月25日). “ワム80000の終焉。 編集長敬白 鉄道ホビダス”. ネコ・パブリッシング. 2017年11月10日閲覧。
[2]^ 実際に昭和51年から52年にかけて荷役作業をしていた松本正司の体験談によると「ワム80000はドアが全開するので(ワム90000・60000・70000・ワラ1に比べ)取り降ろしが楽だった」そうである。高橋・松本(2011) p.164
[6]^ 平成24年3月時刻改正 新しい輸送サービスのご案内 (PDF) - 日本貨物鉄道 2011年12月16日
[7]^ C11-171の機材類運搬用
[8]^ 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』No.840 増刊 鉄道車両年鑑 p.207
[9]^ 救援車代用
[10]^ 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』No.840 増刊 鉄道車両年鑑 p.208
[11]^ 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』No.840 増刊 鉄道車両年鑑 p.107

8 参考文献

最終更新 2018年9月22日 (土) 09:15 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 「とび色」「単車」と言ったら『ワム80000』である、有蓋貨車だ。蒸気機関車の時代は黒が多かったから、これでも古くない。"最高運転速度75km/h"で1968年10月1日ダイヤ改正で速度向上の原動力となった。しかし、1984年2月ダイヤ改正で『ヤード集結型輸送』から『直行型輸送』へ急激な転換により、同型と操車場が大量余剰となった。多くが売却され、倉庫等に使われて、いまだに見かけるだろう。
Posted at 2018/11/09 07:35:58 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道貨物 | その他

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