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2023年02月18日 イイね!

『隅田川駅』

『隅田川駅』隅田川駅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

[写真・画像]
(上)駅構内(2010年5月、東京メトロ南千住駅ホームより)
(下)隅田川駅付近配線略図
出典:祖田圭介「上野駅をめぐる線路配線 今昔」『鉄道ピクトリアル』2006年11月号 pp. 50-58.
青線は常磐線旅客列車の走行する線路

 隅田川駅(すみだがわえき)は、東京都荒川区南千住四丁目にある、日本貨物鉄道(JR貨物)・東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。常磐線貨物支線(隅田川貨物線)上に設置されている。主に東北本線、上越線などのいわゆる北、東方面発着の貨物列車の終着(始発)駅であり、東京貨物ターミナル駅と並ぶ東京の二大貨物駅である。
 鉄道施設としては一般駅であるが、旅客列車の発着はない(同様の駅に、東京貨物ターミナル駅や横浜羽沢駅、仙台貨物ターミナル駅などがある)。

すみだがわ Sumidagawa
所在地 東京都荒川区南千住四丁目 北緯35度43分59秒 東経139度48分3秒
所属事業者 東日本旅客鉄道(JR東日本)* 日本貨物鉄道(JR貨物)
所属路線 常磐線貨物支線(隅田川貨物線)
キロ程 3.2 km(三河島起点)
電報略号 スミ
駅構造 地上駅
開業年月日 1896年(明治29年)12月25日[1a]
備考 貨物専用駅・旅客乗降不可
*旅客の扱いはなく事実上の貨物専用駅

1.歴史
 もともとは東北本線や常磐線を建設した私鉄の日本鉄道が、上野駅で取り扱っていた貨物を1890年に開設した秋葉原駅などとともに分散して受け持ち、隅田川駅は常磐炭田からの石炭の受け入れを行うために1897年に設置した駅であった。主に石炭、木材、砂利などの荒荷を取り扱い、隅田川の水運と連絡して東京の市街地への輸送を行っていた[2]。このために水路が隅田川から引き込まれており、構内中央付近には水扱積卸場が存在していた。
 戦後はこうした荒荷の取り扱いが減少し、さらに水運との連絡も減少したため、水扱積卸場を埋め立てて構内を改良し、コンテナ扱いに対応した整備を進めることで、首都圏の東北・北海道方面との貨物輸送の拠点として使われてきた。
 国鉄分割民営化に際しては、構内に分散していた客貨車区施設が第6ホーム北側に移転集約されている。また、飯田町駅の廃止と飯田町紙流通センターの移転に伴って、従来飯田町駅に到着していた首都圏の新聞・出版産業で消費される紙が隅田川駅に到着するようになった。

1-1.駅構内改良工事
 2012年度(平成24年度)まで、北海道・東北方面への輸送力を増強する目的で「隅田川駅鉄道貨物輸送力増強事業」が実施された。総工費は約46億円で、国の「幹線鉄道等活性化事業費補助」の枠組みにより総工費の30 パーセントの13億8000万円が国庫から補助されている。事業主体は第3セクターの京葉臨海鉄道で、JR貨物は施設を借り受けて利用する枠組みとなっている[3a]。
 もともと隅田川駅は青函連絡船の輸送能力に合わせてコンテナ車18両に対応する規格で設計されていたが、現在の東北本線のコンテナ列車は最大20両編成となっているため、これに合わせる形での改良を実施した。改良以前において、20両編成に対応しているのは荷役線のうち3線、着発線のうち4線だけであったが、荷役線・プラットホームの4面6線を40 - 50 メートル延長し、第1ホームの短い1線を除く5面9線全てが20両編成対応となった。また着発線は従来の8線から7線に削減されたが、このうち6線が20両編成対応となった。各コンテナホームは一部拡幅して31フィートの大型コンテナの取り扱いが全てのホームで可能になった[3b]。
 隅田川駅と田端信号場駅の間は単線であり、田端運転所との間での機関車の回送列車が線路容量を圧迫していた。このため構内改良事業では機関車の留置機能も整備することとなり、第6ホーム・田端信号場寄りに設置されている構内本部と信号扱所の建物を撤去して跡地に機関車の留置線を設置した。有効長の短い第5ホームは廃止し、跡地に機関車の仕業検査庫や留置線、フォークリフトの検修庫等を設置した。更に、車扱荷役用高床ホーム(陸1ホーム)を撤去して総合事務所を建設し、機関区・駅構内本部・信号扱所を設置した[4]。
 機関区施設の整備に伴い、従前から設置されていた隅田川貨車区に加えて、田端機関区の機能と田端運転所の貨物関係業務を移転し、隅田川機関区とした[5]。
 これらの改良により、輸送力は年間22万トンの増強が見込まれている[3c]。2013年(平成25年)3月16日のダイヤ改正より供用を開始した[6]。

1-2.年表
・1896年(明治29年)12月25日:日本鉄道の貨物駅として開業[1b]。
・1906年(明治39年)11月1日:国有化により官設鉄道の駅となる[1c]。
・1909年(明治42年)10月12日:線路名称制定により常磐線の所属となる。
・1949年(昭和24年)6月1日:日本国有鉄道発足。
・1964年(昭和39年)10月1日:小荷物の取扱を開始[1d](一般駅となる)。上野駅の小荷物機能の大部分を移転。
・1965年(昭和40年):東京セメント運輸の施設が営業開始。
・1972年(昭和47年)9月5日:駅構内でコンテナ列車が脱線。2両が車止めを越えて照明用の鉄塔をなぎ倒し、さらに第三運転部の事務所に突っ込んだ。けが人なし。原因はポイントの切り替え操作ミスによるもの[7]。
・1985年(昭和60年)3月31日:開業88周年記念の団体臨時列車としてサロンエクスプレス東京が入線[8]。
・1986年(昭和61年)11月1日:小荷物の取扱を廃止[1e]。
・1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、JR東日本・JR貨物の駅となる[1f]。
・1993年(平成5年)2月24日:「エフ・プラザ隅田川ニッソウセンター」営業開始[9]。
・1999年(平成11年)7月1日:「エフ・プラザ隅田川IPC棟」営業開始。(飯田町駅廃止により移転)
・2006年(平成18年)3月18日:東京セメント運輸向けのセメント輸送が終了。
・2013年(平成25年)3月16日:隅田川駅鉄道貨物輸送力増強事業による改良部分の供用開始。

2.駅構造
 地上駅。南北に5面10線のコンテナホームが並び、その西側に1面1線の上屋付有蓋車用貨物ホーム、「エフ・プラザ隅田川IPC棟」の荷役線、東側には「エフ・プラザ隅田川ニッソーセンター」の荷役線がある。また、仕分け線や留置線なども数本ある。エフ・プラザは、貨物列車で輸送された紙を保管する倉庫として機能している。
 コンテナセンターがコンテナ荷役ホーム付近にあり、同じ建物には営業窓口のJR貨物東京営業支店隅田川分室が入っている。隅田川機関区の機関車仕業検査庫や貨車検修施設(旧隅田川貨車区)、IT-FRENS & TRACEシステムの窓口業務を行なう、本社直轄であるI-TEMセンターも同駅構内にある。
 かつては、構内北側に東京セメント運輸のセメントサイロ(隅田川営業所)や荷役線2線があり、武州原谷駅(秩父鉄道秩父本線)や東横瀬駅(西武秩父線)、日立駅発送のセメントが到着していたが、2006年に廃止された。
 また、1970年ごろまでは東京瓦斯千住工場、1980年代までは日本石油隅田川油槽所(1989年閉鎖)へ続く専用線も存在していた。その専用線には、1926年(大正15年)に竣工した日本初の跳上橋(隅田川駅跳上橋、設計︰山本卯太郎)が1950年代まで存在した。さらに1960年代以前は、舟運の便のために隅田川につながる桟橋も併設していた。
 北東部に広がる貨物駅の縮小部分は平成以降に順次再開発が行われ、超高層マンションなどが立ち並んでいる。また、かつては日比谷線の千住検車区との連絡線も存在していた(なお、千住検車区の用地の一部は、当時の帝都高速度交通営団が国鉄から当駅の敷地の一部を譲り受けた部分が含まれる)。

3.取扱貨物
・コンテナ貨物
 12 ftコンテナ、20 ft・30 ftの大型コンテナ、20 ftのISO規格海上コンテナを取り扱う。
・産業廃棄物・特別管理産業廃棄物の取扱許可を得ている。

4.貨物列車
東北本線や常磐線、高崎・上越線方面へ(から)の高速貨物列車が1日20本以上発着する。東海道本線や中央本線方面へ(から)の高速貨物列車は1日1・2本ほど。
1日1往復、焼島駅との間に、有蓋車(ワム80000形貨車)やコンテナ車を連結し北越製紙新潟工場で生産された紙を輸送する専用貨物列車が運行されていた。

5.利用状況
 2011年度の車扱貨物の取扱量は、発送なし、到着なし。コンテナ貨物の取扱量は、発送が607,409トン、到着が797,483トンである。

6.駅周辺
駅周辺には再開発に伴って建築された超高層マンションが広がる。
・東日本旅客鉄道(常磐線)・東京地下鉄(メトロ)(日比谷線)・首都圏新都市鉄道(つくばエクスプレス線)南千住駅
・東京地下鉄(日比谷線)三ノ輪駅
・東京都交通局(都電荒川線)三ノ輪橋停留場
・隅田川

7.その他
 2007年5月30日に、敷地内(地下鉄日比谷線南千住駅東側)で身体障害者福祉施設の起工式がJR貨物によって開催された。建物は鉄筋コンクリート造(一部鉄骨造)4階建て、敷地面積2134平方メートル、延床面積3200平方メートル。2008年1月竣工予定で、完成後、鉄道弘済会に賃貸される。鉄道弘済会では、東京都新宿区にあった東京身体障害者福祉センターを移転させ、移転に併せて義肢装具サポートセンターと改称し、2008年5月13日にオープンした[32]。

8.隣の駅
東日本旅客鉄道 常磐線 貨物支線(隅田川貨物線)
 三河島駅 - 隅田川駅 - 南千住駅

9.脚注
[1]^ a b c d e f 石野哲(編) 『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ』(初版)JTB、1998年10月1日、437-438頁。ISBN 978-4-533-02980-6。
[2]^ 藤井 三樹夫、「河川舟運の衰退と鉄道網形成との関係に関する一考察」、『土木史研究』Vol.17、土木学会、P323-332、1997年
[3]^ a b c 「輸送力を増強 北の玄関口・隅田川駅を改良」交通新聞2009年8月4日
[4]^ “「隅田川駅鉄道貨物輸送力増強事業」について”. 日本貨物鉄道 (2009年11月11日). 2021年2月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月15日閲覧
[5]^ 2018年12月16日付『荒川102』記事「JR貨物 隅田川駅 - 明治30年から働き続ける、貨物列車の『北の玄関口』」(2020年9月8日閲覧)
[6]^ “「隅田川駅鉄道貨物輸送力増強事業」竣工について (PDF)”. 日本貨物鉄道 (2013年2月13日). 2013年6月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月15日閲覧。
[7]^ 「コンテナ列車脱線 隅田川駅」『朝日新聞』昭和47年(1972年)9月6日夕刊、3版。9面
[8]^ “「隅田川駅開業88周年記念号」”. 2020年5月31日閲覧。
[9]^ “順調に進む駅近代化構想 JR貨物 貨物駅を立体利用 輸送ニース掘り起こし”. 交通新聞 (交通新聞社): p. 3. (1993年2月17日)
[32]^ “沿革|義肢装具サポートセンター - 公益財団法人 鉄道弘済会”. 公益財団法人鉄道弘済会 義肢装具サポートセンター. 2022年11月15日閲覧。

10.参考文献
祖田圭介「東京・大阪・名古屋の貨物線」『鉄道ピクトリアル』第808号、電気車研究会、2008年9月、 15 - 16頁。
11.関連項目
越中島駅 - 1990年(平成2年)まで、近隣の貨物駅が同名を称していた。
汐留駅 - 1986年(昭和61年)まで、同名の貨物駅が近隣に所在していた。
隅田駅 - 和歌山県に所在する、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅
最終更新 2023年2月10日 (金) 01:39 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


田端機関区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 田端機関区(たばたきかんく)は、かつて日本貨物鉄道(JR貨物)の関東支社管轄で東京都北区にあった乗務員配置区である。本区のほか、水戸派出と小名浜派出があった。
 名称は「機関区」ではあるが車両の所属はなく、田端操駅に滞泊となるJR貨物の電気機関車はすべてJR東日本の田端運転所構内に留置されていた。

1.乗務範囲
・田端信号場駅 - 隅田川駅
・田端信号場駅 - 黒磯駅
・田端信号場駅 - 高崎操車場
・田端信号場駅 - 水戸駅
・田端信号場駅 - 新鶴見信号場
・田端信号場駅 - 越谷貨物ターミナル駅
・金町駅  - 新小岩信号場駅など
 ・水戸派出所属の運転士はいわき駅 - 隅田川駅・新鶴見信号場の間を乗務した。
 ・小名浜派出は乗務員区所ではなく検修区所で、主に貨車の検修を担当していた。

2.歴史
・1987年(昭和62年)3月1日-国鉄分割民営化を控え、検修部門と旅客列車運転士を田端運転所として分離する。
・1987年(昭和62年)4月1日-国鉄分割民営化に伴い、日本貨物鉄道(JR貨物)関東支社の管轄となる。
・2013年(平成25年)3月16日-乗務員区所・機関車留置区所としての機能を隅田川駅構内に新設された隅田川機関区に移転し廃止。

3.参考文献
・藤川 憲一・吉岡 智文「JR貨物検修基地・運転基地の概要」『鉄道ピクトリアル』No.798(2008年1月) pp.28 - 30 電気車研究会
最終更新 2020年9月21日 (月) 09:28 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 1896年(明治29年)12月に日本鉄道の貨物駅として開業、
・旅客ターミナルの「上野駅」
・貨物ターミナルの「隅田川駅」
JR貨物の看板列車フレートライナー
『札幌貨物ターミナル駅』-『隅田川駅』
の起点・出発点である。
 「隅田川駅」開業で"常磐線"が開業したと言っても良い。
Posted at 2023/02/18 07:46:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道貨物 | 旅行/地域
2021年02月13日 イイね!

「貨車操車場」の終焉

「貨車操車場」の終焉[写真・画像] 青い森セントラルパーク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 青い森セントラルパーク(あおいもりセントラルパーク)は、青森県青森市にある公園。所在地は青森市大字浦町字橋本。
 かつての青森操車場の跡地21.5ヘクタールの内、青森中央大橋の東側部分の大部分を使用して作られた公園。青森操車場跡地の西部は青森信号場として現在も使用されている。かつては日本国有鉄道清算事業団が現在の公園敷地を保有していたが、解散に伴い青森県が約20億7千万円、青森市が約43億4千万円を投入し敷地を買い取った。
作成: 2019年5月26日

日本の貨車操車場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 日本の貨車操車場の項目においては、かつて日本の鉄道貨物輸送の中枢を担った操車場(ヤード、英:classification yard)について、また操車場のその後の経過について記載する。車両基地の一般的な呼称である「操車場」については車両基地参照のこと。以下の記述では、「ヤード(英:yard)」は「操車場」と同意義、また操車場とは「貨車操車場」を示すものとする。加えて、過去には数多くの鉄道会社が貨物輸送を行っていたが、いずれも国鉄に比べると極めて小規模なので、この項目でも国鉄の貨車操車場を中心に扱う。

1 操車場建設の歴史的経緯
 1872年(明治5年)に開業した日本の鉄道では、創業して間もない頃から貨物輸送を行っており、やがて鉄道網が日本全国に拡大するにつれ鉄道輸送は旅客・貨物いずれにしても陸上輸送の主流となった。
 貨物輸送が増大したのは、特に1906年の鉄道国有化以降である。貨物の増加に対応するため、明治末期から大正時代にかけて、それまで駅構内の付属施設(仕分線)にて行われていた貨車の入換および貨物列車の組成作業を専門に行い、かつ広大な作業場を備えた操車場の建設が行われるようになった。これが操車場建設の第一期である。稲沢操車場や吹田操車場、田端操車場、品川操車場がこの時期に建設されている。品川操車場は後に客車操車場に転向し、貨車入換作業は品鶴線上に新設された新鶴見操車場に移転した。
 その後二度にわたって、集中的に日本全国で操車場が建設されていく。操車場建設の第二期は、日中戦争勃発に伴い、軍需を中心とした貨物輸送が増加した1930 - 1940年代である。香椎操車場や新潟操車場などが新たに建設された。そして第三期は太平洋戦争後の復興期で、やはり経済の復興にあわせて増大する貨物需要に対応するために建設された。富山操車場などが該当する。
 1970年代まではこうしたヤード継走式の貨物輸送が中心であった。戦後の高度経済成長の中で、鉄道の貨物輸送は1970年(昭和45年)に輸送量のピークを迎える。
 なお、ヤードといっても「ハンプヤード」、「平面ヤード」、「重力ヤード」の3種類があるが、日本の場合は大半が「平面ヤード」で、一般的に知られていたハンプヤード方式をとったのは、郡山・大宮・田端・武蔵野・新鶴見・塩浜・静岡・高崎・富山・稲沢・吹田・門司・鳥栖といった少数の(貨車入換量が特に多い)操車場だけであり、重力ヤードにいたっては一個もなかった。重力ヤードは操車能力こそハンプヤードに劣らぬものの、ヤードが全体的に坂に設置されている必要があって建設に適した場所がなかったことがその理由として挙げられる。全世界的に見ても重力ヤードは圧倒的に少ない。

2 ヤード継走式輸送の衰退
 1960年代以降、日本国内でもモータリゼーションという社会的変化は進んでいた。その結果、旅客輸送・貨物輸送いずれにおいても自動車が台頭し、特に貨物における鉄道輸送量は大きく減少していった。自動車に比べ小回りが利かず、駅で積荷の積替えを要すること、その上操車場での入換作業を要するがために到着までに時間がかかることや、いつ到着するかが極めて不明確であること、さらに度重なる運賃の値上げ、労組間の対立に伴い頻発するストライキによる信頼低下などがシェア低下の要因だった。
 ヤード継走式輸送は、貨車の取扱量が多くてこそはじめて威力を発揮し、輸送を効率化させる。しかし1970年以降、取扱量は大きく減少していた。さらに1959年(昭和34年)からはコンテナ専用列車が定期的に走り始め、1969年(昭和44年)には東海道本線・山陽本線でコンテナ専用の特急貨物列車「フレートライナー」が登場したことで、それまでは鉱山から工場、工場から港湾などに限られていた直行輸送がコンテナによってあらゆる貨物輸送の主流となることが明らかになると、操車場系輸送の落日は目に見えてきた。
 しかし国鉄は、コンテナ輸送の拡大と並んで、操車場の近代化・効率化も同時に推進した。1974年(昭和49年)に開業した武蔵野操車場のようにコンピューター(yard automatic control system、略称「YACS」と呼ばれる)による貨車仕分けの自動化や、無線操縦機関車やカーリターダー(自動減速器。線路に設置される)、リニアモータ方式貨車加減速装置、ダウティユニット(線路内に油圧ジャッキ式のユニットを多数設置して貨車の速度を制御する)等を用いて省力化・高速化が図られたところもあった。近代化前の操車場では、貨車の突放や減速などは作業員が走る貨車の横につかまって調節するという危険なものだった(実際大勢の死者が過去に発生していた)ので、これは極めて画期的なことだった。他に、コンピューター化された操車場としては、郡山・新南陽・北上・塩浜・高崎が挙げられる。
 しかし国鉄の貨物輸送が減少し、国鉄全体の収支も悪化したため全国の操車場を近代化する計画は頓挫してしまった。1978年10月2日国鉄ダイヤ改正や1980年10月1日国鉄ダイヤ改正では大幅に貨物列車が削減された。数々の効率化・合理化も空しく、1984年2月1日国鉄ダイヤ改正をもって、ヤード継走式輸送は全廃された。その後全国の操車場の大半は廃止され、遊休地化するものも多かった。存続しても機関車交換などの信号所的な業務に大幅に縮小され、一部は広い敷地を生かし、周辺駅と統合されコンテナ輸送に最適化された現代型の貨物駅に生まれ変わった旧操車場もあった。
 以後、国鉄そしてJRの貨物輸送はコンテナや企業の私有貨車による直行輸送のみとなった。しかし、この時点では車扱列車そのものは残存していたため、組成作業の必要は残されていた。国鉄はこうした操車作業を各地の臨海鉄道に移管するが、附近に代行可能な臨海鉄道がなかった富山貨物、新南陽、東小倉では操車作業を続けている。操車場そのものが不要になるには、途中駅で解結を行う車扱輸送がほぼ終了する2008年3月のダイヤ改正まで待たねばならなかった。

3 主な国鉄の操車場
 国鉄社内では、操車場を含む貨車の入換作業を行う駅(貨物駅も含める)を組成駅と総称しており、1980年10月1日時点で150を数えた。組成駅は社内規則により、本社指定組成駅、地区指定組成駅(支社による指定)、局指定組成駅(鉄道管理局による指定)の3つに重要度別に分けられていた。
 その中で正式名称として「操車場」と呼ばれるのは、貨物列車の組成のみを行う独立した駅(停車場)のことで、さらに基幹操車場と地区操車場に分けられていた。まれに操車場が貨物の取扱を始める場合があり、その時は「操駅」(そうえき、操車場駅の略)に格上げされた。

3.1 本社指定組成駅
 1978年(昭和53年)5月当時の本社指定組成駅の一覧である。1978年当時は31箇所あったが、1984年(昭和59年)2月1日のダイヤ改正までにすべて指定が解除(廃止)された。

●五稜郭駅(五稜郭操車場)
 北海道の貨物輸送の玄関口として機能した。1943年(昭和18年)1月9日開業、1984年2月1日に機能停止。構内にあった車両基地がJR貨物五稜郭機関区として現存している。
●青森信号場(青森操車場)
 東北三大操車場の一つ。東北本線と奥羽本線の結節点であり、対北海道輸送の拠点であった。1926年(大正15年)10月25日開業、1984年2月1日に機能停止。1986年に青森信号場に降格した。
●秋田貨物駅(秋田操車場)
 奥羽本線と羽越本線の結節点。1960年(昭和35年)8月1日開業、1984年2月1日に機能停止。1990年に跡地に秋田操駅の貨物設備が移転し、秋田操駅は秋田貨物駅に改称した。
●郡山貨物ターミナル駅(郡山操車場)
 東北本線と磐越東線・磐越西線の結節点。東北三大操車場の一つ。1965年(昭和40年)10月1日開業、1977年に貨物の取扱を開始し郡山貨物ターミナル駅に昇格した。1984年2月1日に操車場機能を停止。1994年に操車場跡地に貨物設備が移転した。
●長町駅(長町操車場)
 東北三大操車場の一つ。東北本線と宮城野駅(現在の仙台貨物ターミナル駅)経由の貨物線の分岐点にあった。1924年(大正13年)3月1日開業、1984年2月1日に機能停止。跡地は「あすと長町」として再開発中。
●新潟操車場
 新潟港といくつもの貨物支線で結ばれ、新潟市の列車組成作業を担っていた。1957年(昭和32年)10月1日開業、1984年2月1日に機能停止。国鉄分割民営化直前に新潟操駅に昇格、1990年に貨物設備が操車場跡地に完成し、新潟貨物ターミナル駅に改称した。
●長岡操車場
 信越本線と上越線の合流地点にあたる。1931年(昭和6年)7月11日開業、1984年2月1日に機能停止。1985年(昭和60年)に南長岡駅に統合され、1996年(平成8年)にその貨物設備が跡地に移転した。
●直江津駅
 信越本線と北陸本線の結節点。1984年2月1日機能停止。
●高崎操車場
 上越線・高崎線・信越本線・八高線・両毛線の5線の結節点。1943年(昭和18年)3月1日開業。1984年2月1日に機能停止したが、高崎線の操車場として現存する。
●いわき貨物駅
 常磐線と磐越東線の結節点。1972年(昭和47年)10月1日開業、内郷機関区を併設した。1984年2月1日に機能停止、1985年(昭和60年)に信号場に格下げされ、その後廃止された。
●新小岩操車場(現在の新小岩信号場駅)
 千葉県方面の貨物輸送の拠点。新金線という貨物線で常磐線と接続した。1926年(大正15年)2月24日開業、1968年(昭和43年)に新小岩駅の客貨分離に伴い新小岩操駅として独立。1984年2月1日に操車場機能を停止。廃止時は地区指定組成駅であった。なお、1986年(昭和61年)に新小岩操車場に降格したが、国鉄分割民営化直前に再び新小岩操駅に昇格、2011年(平成23年)には新小岩信号場駅に降格された。
●大宮操駅(大宮操車場)
 東北本線と上越線の結節点で、東京における貨物輸送の北の玄関口として機能した。1928年(昭和3年)3月1日開業、1961年(昭和36年)に大宮駅の客貨分離に伴い大宮操駅として独立。1984年2月1日に操車場機能を停止し、1986年に大宮操駅は大宮操車場に降格した。東北本線の操車場として一部が現存。跡地はさいたま新都心。
●田端操車場(現在の田端信号場駅)
 構内に田端運転所を擁する。大宮・武蔵野の各操車場開業で役目を縮小していた。隅田川駅と貨物線で連絡。1915年(大正4年)5月10日開業、1961年(昭和36年)に田端駅の客貨分離に伴い田端操駅として独立。1984年2月1日に操車場機能を停止。廃止時は局指定組成駅になっていた。なお1986年に田端操車場に降格したが、1990年に再び田端操駅昇格、2011年に田端信号場駅に降格された。
●武蔵野操車場
 付近の貨車入換を行う駅を統合する形で1974年(昭和49年)10月1日に開業。1984年2月1日に機能停止、1986年に廃止。跡地には新三郷駅が設置され、かつての操車場の敷地は住宅・商業施設「新三郷ららシティ」として三井不動産が再開発中。
●新鶴見操車場
 日本三大操車場の一つ。大宮操車場や汐留駅と結ばれていた。北の大宮に対して南の牙城。1929年(昭和4年)8月21日開業、1984年2月1日に機能を停止し新鶴見信号場に降格した。跡地は長らく空き地のままであったが、2000年代より再開発が具体化しつつある。
●沼津駅
 東海道本線と御殿場線の結節点。1984年2月1日機能停止。廃止時は地区指定組成駅。
●東静岡駅(静岡操車場)
 東海道本線静岡付近の列車組成作業を担う。1962年(昭和37年)10月6日開業。1984年2月1日に操車場機能を停止、1993年(平成5年)に跡地に東静岡駅の貨物設備が移転、静岡貨物駅となった。
●稲沢駅(稲沢操車場)
 日本三大操車場の一つ。名古屋付近の貨物取扱を担い、貨物線(稲沢線)で笹島駅と結ばれていた。1925年(大正14年)1月16日開業、1984年2月1日に機能停止。
●米原駅(米原操車場)
 東海道本線と北陸本線の結節点。1984年2月1日機能停止だが、廃止時は地区指定組成駅になっていた。一部がJR貨物の操車場として現存し、跡地は「米原貨物ターミナル駅」として再開発予定。
●富山操車場
 北陸本線とその支線における貨物輸送の一大拠点。1955年(昭和30年)10月1日開業。1968年(昭和43年)に日本で初めてコンピューターが導入された。1984年2月1日に操車場機能停止、国鉄分割民営化直前に富山操駅に昇格、1990年に操車場跡地に貨物設備が完成し、富山貨物駅となった。
●梅小路駅(梅小路操車場)
 東海道本線と山陰本線が形成するデルタ線の中にあった。1913年(大正2年)6月21日開業、1984年2月1日に機能停止。1990年に跡地に梅小路駅(現在の京都貨物駅)貨物設備が移転。
●吹田操車場
 日本三大操車場の一つ。東海道本線上にあり、梅田駅と接続。操車量の多さゆえ「東洋最大」と称えられた。1923年(大正12年)7月1日開業。1984年2月1日に機能停止、吹田信号場に降格。2013年3月に跡地に吹田貨物ターミナル駅が完成した。
●姫路駅(姫路操車場)
 操車場は構内東側にあった。1984年2月1日に機能停止。北側に貨物設備があったが、姫路貨物駅へ移転した。跡地は現在再開発中。
●竜華操車場
 関西本線と城東貨物線・阪和貨物線の結節点にあり、百済駅とつながっていた。1938年(昭和13年)10月1日開業。1984年2月1日に機能停止、1986年に竜華信号場に降格。竜華信号場も1997年に廃止。跡地は竜華副都心建設予定地。
●岡山操車場
 岡山駅西方にあり、山陽本線・伯備線・宇野線を発着する貨車の組成作業を担った。1925年(大正14年)開業[1]。1984年2月1日に機能停止、1990年に西岡山駅(現在の岡山貨物ターミナル駅)に併合され、その貨物設備が跡地に移転した。
●東広島操車場
 広島駅東側にあった。1916年(大正5年)開業[2]。1984年2月1日に機能停止、1995年に跡地に東広島駅の貨物設備が移転、広島貨物ターミナル駅となる。旧貨物設備跡地にはMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島が建設され、2009年にオープンした。
●高松駅
 四国唯一の本社指定組成駅。1984年2月1日機能停止。付近に貨物ホームもあったが、高松貨物ターミナル駅に移転した。
●門司駅(門司操車場)
 九州の貨物輸送の玄関口。1942年(昭和17年)4月1日開業、1984年2月1日機能停止。跡地に2003年(平成15年)に貨物設備が完成し北九州貨物ターミナル駅となった。
●香椎駅(香椎操車場)
 鹿児島本線と博多港への貨物支線の分岐点。1984年2月1日機能停止。跡地の一部が千早操車場となったほかは副都心として再開発予定。
●鳥栖駅(鳥栖操車場)
 鹿児島本線と長崎本線の分岐点。かつて藤井フミヤが勤めていた。1926年(大正15年)6月15日開業。1984年2月1日に機能停止、跡地に1990年に貨物設備が完成、その後鳥栖貨物ターミナル駅となる。
●熊本駅(熊本操車場)
 熊本駅構内南方にあった。1984年2月1日機能停止。付近に熊本駅貨物ホームがある。

3.2 主要な地区指定組成駅
●岩見沢駅(岩見沢操車場)
 石狩炭田の石炭輸送の牙城だった。1980年(昭和55年)10月1日廃止。
●苫小牧駅(苫小牧操車場)
 室蘭本線と千歳線の分岐点にあった。1984年2月1日に機能停止、1991年(平成3年)に跡地にJR貨物苫小牧駅が移転。
●東室蘭駅(東室蘭操車場)
 石炭などの鉱産物、鉄鋼などの工業製品輸送の拠点とされた。石炭・製鉄業と共に衰退。1984年2月1日に機能停止、1996年(平成8年)に跡地にJR貨物東室蘭駅が移転。
●塩浜操駅(塩浜操車場)
 川崎市の工業地帯における列車組成を担った。1984年2月1日に操車場機能を神奈川臨海鉄道に移管。1995年に川崎貨物駅に改称。
●亀山駅(亀山操車場)
 関西本線と紀勢本線の交点。1984年2月1日廃止。
●東灘操車場
 東海道本線上にあり、神戸臨港線により神戸港駅とつながっていた。東灘駅構内扱いであったが、1972年に正式に東灘操車場となる。1981年4月1日に機能停止、東灘信号場に降格。
●和歌山操駅(和歌山操車場)
 阪和線と紀勢本線の結節点。1984年2月1日に操車場機能停止、1986年に和歌山操駅も廃止。
●直方操車場
 筑豊炭田の石炭輸送の牙城。石炭業と共に衰退、1982年11月15日廃止。廃止時は局指定組成駅に降格していた。

3.3 主要な局指定組成駅
●北上操車場
 東北本線北部の貨物輸送の拠点であり、作業がコンピューター化されていたことで知られていた。国内で最も遅くできた操車場。1984年2月1日に機能停止、1986年に廃止。現在貨物駅の建設が計画されている。
●酒田駅
 羽越本線と羽越貨物支線(酒田港線)の結節点。山形県庄内地方の中心。1984年(昭和59年)2月1日操車場機能廃止。
●鼠ケ関駅
 山形県庄内地方と新潟県下越の境界。1972年(昭和47年)操車場機能廃止。
●坂町駅
 羽越本線と米坂線の結節点。新潟県北部の中心。1980年(昭和55年)10月1日新潟操車場に集約する形で操車場機能廃止。
●新津駅
 信越本線と羽越本線、磐越西線の結節点。1980年(昭和55年)10月1日新潟操車場に集約する形で操車場機能廃止。
●新南陽駅(新南陽操車場)
 旧称「徳山操車場」。山口県南部の中心。1986年に新南陽駅貨物ホームが移転。山陽西部地区は接続専用線や支線区の貨物扱いが多く残っていたことから、JR貨物でも専用列車の組成駅として操車場機能が残され、1996年10月31日まで運用された。日本最後のハンプヤードであった。
●幡生駅(幡生操車場)
 山陽本線と山陰本線の結節点。1984年2月1日に機能停止、大幅に縮小されたが現存する。関門トンネルを越える貨物列車の機関車交換地点。

3.4 その他
 炭田地帯や鉱山付近には大小多くのヤードが存在していた(岩見沢操車場や東折尾駅もそれらの一つ)。石灰石輸送で知られていたヤードとして美祢ヤードが挙げられる。
 計画されたものの、建設されずに終わったもので大井操車場がある。1960年代に東京外環状線計画が発動された時に、当時の大井埋立地にコンテナ対応の貨物駅(大井駅)と併設される形で建設が予定されていた大規模操車場である。しかし、鉄道貨物輸送の衰退に伴い、操車場の建設は取りやめとなった。その建設用地には現在、東京貨物ターミナル駅がある。
 また、この項目では国鉄を中心に取り扱っているが、私鉄でも貨物ヤードを保有する会社は存在した。東武鉄道のとうきょうスカイツリー駅付近の広大な空き地(一部は東京スカイツリー建設に用いられる)も、元々貨物ヤードだった名残である。

4 出典
[1]^ 「鉄道による貨物輸送の変遷」太田幸夫、富士コンテム、2010年、p.28
[2]^ 「鉄道による貨物輸送の変遷」太田幸夫、富士コンテム、2010年、p.18

5 関連項目
・操車場:ヤードの種類について記載されている。
・ゴーサントオ(1978年10月2日国鉄ダイヤ改正):国鉄始まって以来の、貨物列車の大幅削減。
・1980年10月1日国鉄ダイヤ改正:さらなる貨物列車の削減。岩見沢操車場の廃止。
・1982年11月15日国鉄ダイヤ改正:貨物面でも合理化を推進。ヤード式前提輸送では最後の改正。
・1984年2月1日国鉄ダイヤ改正:ヤード経由式輸送の全廃。
・武蔵野線
・東京外環状線
・山手貨物線
・東海道貨物線
・品鶴線
・梅田貨物線
・物流
・貨物列車
・荷物列車
最終更新 2021年1月18日 (月) 14:03 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 『ワム80000』有蓋貨車など"最高運転速度75km/h"と一緒に停止したのが
『貨車操車場』である、多くの二軸貨車を入替作業するための場所である。もし、鉄道コンテナに一気に切り換えれば、大型フォークリフト荷役で『荷物がいつごろ届く』という予定が立てやすいのは後生の事実だ、と思う。

 写真の青森操車場は「青函連絡船」対策のためで特殊かもしれないが、小規模貨物駅と共にもっと延命出来たと思う。
 また、蒸機からのエネルギー転換は石炭輸送の廃止を早めた面も否めない。北海道・九州などの炭坑からの輸送も無くなったのは大きい。
 小規模貨物駅が宅急便・宅配便・ゆうパックの窓口・中継地点として機能したのでは。鉄道は旅客だけでなく、貨物・荷物輸送の両輪で発揮出来るのであるはずだから。
Posted at 2021/02/13 17:55:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道貨物 | ニュース
2021年02月02日 イイね!

「鉄道貨物」の"コンテナ"化

「鉄道貨物」の"コンテナ"化[写真・画像] DD51形を先頭にした貨物列車
山陰本線の三保三隅 - 折居間を走行する愛知機関区所属のDD51型ディーゼル機関車1802号機牽引のコンテナ貨物列車
作成: 2018年9月6日

日本のコンテナ輸送
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

4 鉄道コンテナ
 日本の鉄道コンテナは、戦前の1931年に試作された1 t積みの「イ号コンテナ」に始まるが、戦時中の金属供出によって全廃された[14]。そして戦後、トラック輸送に対抗すべく3 t積み3000形コンテナ、5 t積み5000形コンテナの試作・試験輸送を経て1959年11月から、正式にコンテナ専用列車「たから号」として汐留 - 梅田間で、5000形など数種類の10 ft形、5 t積みコンテナを積載して運用を開始した。この10 ftの5 t積みコンテナが荷主にとって、取引単位や大きさなどからも非常に扱いやすいサイズであったため、このサイズをもとに日本のコンテナ貨物は、現在の主流である12 ftサイズへと拡充していくこととなる。
 一方で、鉄道貨物輸送開始当初より伝統的に続けられていた「ヤード集結型輸送[注 3]」の貨車輸送は戦後、日本の高度成長時代に伸び続けた。しかし、現代では当たり前の『荷物がいつごろ届く』という予定が、輸送途中での貨車を何度も切り離しては組み替えて、再輸送するヤード集結輸送方式ではほぼ掴めず、到着間際にやっとわかる程度の致命的な欠陥を抱えていた。このような輸送効率の悪い状況下でも国鉄貨物の輸送量が増え続けて、ついに1964年をピークに輸送限界に達し、その影響によりさらに輸送遅延がひどくなった。また当時はトラックなどのほかの輸送方法も手薄だった事もかさなり、国鉄は抜本的な輸送改革を求められ続けた。しかし1964年度に赤字に転落した後、累積赤字や度重なる労働争議の影響で輸送改革は思うように進まず、その後の相次ぐ高速道路の開通や地方までの道路整備が進み、急速に輸送日数も早くまた配達日程が分りやすいトラックに輸送シェアを奪われ、鉄道での貨物輸送量は年々激減し逆に赤字は膨らむ一方の悪循環に陥っていた。
 その結果、ついに抜本的な対策として1984年2月1日国鉄ダイヤ改正#貨物列車の大整理にあわせて「ヤード集結型輸送」を廃止し、多くの貨物駅を拠点となる大型貨物駅に集約してコンテナ貨物列車や、一部の物資別専用列車[注 4]による発送から到着までを、途中で貨車の組み替えする事無く「直行型輸送[注 5]」に一斉に切り替えた。また国鉄が管理している私有コンテナに関しては、それまで専用のタンク車で長年輸送されてきた各種化成品についても、輸送方式の変更により多くの貨車が余剰廃棄となる中で、ごく一部のタンク車(ガソリン用など)しか生き残れないために、国鉄は私有#タンク・コンテナや#ホッパ・コンテナ化への変更を荷主に求めていったことで、主に20 ftサイズの私有タンクコンテナ(ISO規格・規格外ともにあり)に切り替わっていった。

9 注釈
[注 3]^ 文献によっては「ヤード集結輸送方式」または単に「ヤード方式」などの複数の呼ばれ方があるが、ここでは1984年2月1日国鉄ダイヤ改正で記された呼び方に統一した。
[注 4]^ 新聞紙用のロール紙専用輸送列車【紙列車】、石油類の専用列車【燃料列車】、セメント専用列車、鮮魚専用列車など。
[注 5]^ 文献によっては「直行輸送方式」または単に「直行方式」などの複数の呼ばれ方があるが、ここでは1984年2月1日国鉄ダイヤ改正で記された呼び方に統一した。

10 出典
[14]^ “鉄道貨物輸送の今 (pdf)” (日本語). 一橋大学鉄道研究会. p. 49. 2021年1月21日閲覧。
最終更新 2021年1月23日 (土) 07:53 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)


≪くだめぎ?≫
 『動力近代化』の一つの目的はスピードアップである。蒸機時代は"最高運転速度65km/h"、そして1968年10月1日ダイヤ改正で"最高運転速度75km/h"に成ったが、DD51などディーゼル機関車の性能が生かし切れていない。無煙化を進めるより先に、貨車の高速化と奏してコンテナ列車移行を強引に進めた方が、貨物激減をいくらか食い止められたと思うのは・・。
Posted at 2021/02/02 21:26:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道貨物 | ニュース
2020年11月15日 イイね!

今年も「玉ねぎ列車」が走る!!

今年も「玉ねぎ列車」が走る!!北見の玉ねぎを全国へ。今年も「玉ねぎ列車」が走る!!
柴山ロミオ 2020年11月12日 ライフ

[写真] “プッシュ・プル方式”
 前後の運転士が2人で息を合わせて運行。

 玉ねぎの生産量が日本一の北見では、この時期、収穫した玉ねぎを全国へと出荷しています。大量の玉ねぎの輸送に使われるのが貨物列車。その名も「玉ねぎ列車」です。全コンテナの中には北見の玉ねぎがおよそ200トン。北見から旭川までの道中は、険しい峠を越えなければならないため、「プッシュ・プル方式」という珍しい車両編成で、毎年、玉ねぎを運びます。

■“玉ねぎの大生産地” 北見から玉ねぎを運ぶから、愛称「玉ねぎ列車」
 玉ねぎの生産日本一を誇る北見市では、初夏に玉ねぎの収穫が終わると、8月から翌年の4月にかけて、全国へと玉ねぎを出荷します。北見から旭川までの輸送には鉄道が利用されます。玉ねぎを積んで走る臨時の貨物列車、愛称は「玉ねぎ列車」。11両編成の貨車に、北見で生産された玉ねぎが積まれています。
 北見駅を出発するのは午後7時。およそ5時間かけて、終点の北旭川駅に到着します。北見から運ばれてきた玉ねぎは、この駅から札幌や本州、九州にも運ばれていきます。
 かつては1日に3往復していた「玉ねぎ列車」ですが、車両が古くなり、採算性が低いことから、トラックでの輸送が主になってきました。しかし、玉ねぎを安定的に運ぶためには、貨物列車はなくてはならない存在です。現在は1日1便になりましたが、北見地方の秋冬の風物詩ともいえる「玉ねぎ列車」は、今年も運行しています。

■急勾配、急カーブ。運転が難しい峠をベテラン運転士が運行
 玉ねぎ列車が走る石北本線には複数の峠があり、急勾配や急カーブがいくつもある難所が多い路線です。また、秋も終わりになると線路に落ち葉が積もり、日によっては、落ち葉の上に雪が積もることもあります。
 玉ねぎを積んだ貨車はとても重いので、ブレーキがすぐにきかず、また、一度停まってしまうと加速が悪くなります。落ち葉が積もっている線路では、なおのことです。
 このように難関が多い石北本線では、重い玉ねぎを積んで運転を担うのは、ベテランの運転士です。しかし、線路を熟知しているベテランであっても、天候や風向きなどによっては運転が難しいときがあるといいます。

■機関車が前にも後ろにも。後ろで押す、前が引く“プッシュ・プル方式”
 重い貨車、ベテランでも難しい路線。玉ねぎを運ぶのはなかなか容易ではありません。そこで、北見の玉ねぎ列車は「プッシュ・プル方式」という特別な車両編成で運行されています。
 普通、貨物列車というと、前に機関車が配置されていて後ろの貨車を牽引する、という姿が思い浮かばれると思いますが、この「プッシュ・プル方式」は、貨物の前だけでなく、後ろにも機関車が配置されています。つまり、後ろの機関車が玉ねぎを積んだ貨車を押し(プッシュ)、前の機関車がそれを引っぱって(プル)走るのです。「プッシュ・プル方式」はヨーロッパなどではよく行われていますが、日本ではあまり見られない珍しい編成です。
 機関車が2台あるということは、運転士も2人いるということです。秋の落ち葉の多い時期、急勾配で車輪が滑るときなどは、前の運転士と後ろの運転士が無線で線路の状況を伝えあいながら、息を合わせて運転します。2人のベテラン運転士の連携によって、北見特産の玉ねぎが全国の消費者へと出荷されるのです。

■帰りは肥料を積んで効率化をはかる
 北見から旭川へ、貨物車両にビッシリと玉ねぎを積んで走る「玉ねぎ列車」ですが、玉ねぎを降ろした後、旭川から北見へ戻る時には積荷が少なく、効率が悪いことが課題となっていました。
 そこで今年からホクレン(ホクレン農業協同組合連合会)では、帰りの貨車に、小麦などの追肥でよく使われる「硫安肥料」を積んで、収益性を高めようとしています。たびたび廃止・廃線が議論されてきた「玉ねぎ列車」と石北線ですが、オホーツク圏の農産物を本州に届けるための大動脈ともいえる大切な路線です。「玉ねぎ列車」の存続には、今後さらなる取り組みが必要となるかもしれません。
 全国の玉ねぎ生産量の5割以上を北海道が占めています。そのうちの4割を北見地方が占めています。玉ねぎの大生産地である北見から、今年もおいしい玉ねぎが「玉ねぎ列車」によって運ばれています。
tenki.jpサプリ


≪くだめぎ?≫
 「玉ねぎ列車」存続の最大理由は、北見地方が全国玉ねぎ生産量のかなりの部分を占めろから。"旭川紋別自動車道"があり、石北線が災害でも代行輸送でも発揮しているが、冬期の安定輸送確保のため、ホクレン(ホクレン農業協同組合連合会)が敢えて選択している部分もある。
Posted at 2020/11/15 09:21:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道貨物 | ニュース
2020年04月19日 イイね!

JR札沼線「北海道医療大学―新十津川(47.6キロ)」廃止

JR札沼線「北海道医療大学―新十津川(47.6キロ)」廃止緊急事態宣言で廃線前倒し、札沼線85年の歴史に幕
2020年4月18日 19時0分

[写真・画像]
(上)多くの町民や鉄道ファンらに見送られ新十津川駅を出発する札沼線の最終列車(17日午前10時頃、新十津川町で)=原中直樹撮影
(下)新十津川町付近 googleマップより

 5月7日に廃止されるJR札沼線の北海道医療大学―新十津川間(47・6キロ)で17日、最終運行を迎え、1935年の全線開通以来、85年の歴史に幕を下ろした。新型コロナウイルスを巡る緊急事態宣言の対象地域が北海道にも拡大されたことを受け、急きょ前倒しされた。新十津川駅には沿線住民や鉄道ファンら約300人が集まり、別れを惜しんだ。
 最終列車(2両編成)は午前9時半頃、同駅に到着。乗客の当別町の女性(77)は通院で利用していたといい、「予定が前倒しされたので、急いで乗車を決めた。最後に乗れて良かった」と涙を浮かべた。
 乗客らは、午前10時過ぎに列車が折り返して出発するまで、写真を撮るなどし、警笛が鳴り響くと、「ありがとう」と声が上がった。列車に別れを告げた駅近くの女性(87)は「子どもの頃、出征する兵隊さんを見送るなど思い出が詰まった駅。もう少し存続してほしかった」と寂しそうに話した。
 JR北海道は最終運行を今月27日と決めていたが、緊急事態宣言の対象地域の拡大を受け、予定を前倒しした。2016年にJR北が廃止方針を発表した5線区のうち、廃止となるのは2線区目。

読売新聞 より


≪くだめぎ?≫
 "札沼線"の「石狩沼田-新十津川」
(1956年(昭和31年)11月~1972年(昭和47年)6月・戦時不要不急線から復旧線として)がいわゆる「赤字83線」として廃止されていた。新十津川駅が残されたのは要所"滝川駅"が近いからと言われる。近年、西日本での自然災害で貨物列車の迂回運行が行われているが、JR貨物が一切動かない、防災上いかがなモノか。

 滝川-新十津川の石狩川に橋を架け、DF200牽引貨物が札沼線を低速運転運行が可能だったのではなかったのか。
Posted at 2020/04/19 09:06:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道貨物 | ニュース

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 「昔々、有ったとさ、 『トヨタディーゼル店』、『トヨタパブリカ店』、『トヨタオート店』、『トヨタビスタ店』・・・」。      身長165cm・体重6...
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