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2025年06月12日 イイね!

鉄道雑誌の御三家

鉄道雑誌の御三家鉄道雑誌の老舗「鉄道ジャーナル」休刊へ 
通巻700号も 「近年の出版めぐる環境」
2025/1/23 11:11 [産経新聞]
休刊を発表した鉄道ジャーナルの令和7年3月号(奥原慎平撮影)
 鉄道情報の月刊誌「鉄道ジャーナル」(発刊・鉄道ジャーナル社)は令和7年6月号(4月21日発売予定)を最終号として休刊する。1月21日発売の3月号で明らかにした。鉄道ジャーナルは昭和42年に創刊し、今回の3月号で通巻701号を数え、「鉄道ファン」(同・交友社)「鉄道ピクトリアル」(同・電気車研究会)と合わせて鉄道雑誌の御三家と称されていた。
 同誌は休刊の理由について「近年の雑誌出版をめぐる環境および本誌を取り巻く諸般の事情」と触れるにとどめた。休刊に伴うウェブ版の移行は検討していないという。
 3月号では、巻頭で「長年にわたり支えてくださった読者の皆さま、寄稿いただいた執筆者の皆さま、制作に協力いただいた関係の方々に御礼申し上げるとともに、今後も購読を予定されていた読者の皆さまには心よりお詫び申し上げます」とつづった。
 3月号は津軽半島(青森県)を走る津軽鉄道や、川部駅(同県田舎館村)と東能代駅(秋田県能代市)を結ぶJR五能線など寒冷地を走る列車などを特集している。
2025年01月23日 16時09分 公開 IT mediaビジネスonline

老舗鉄道誌「鉄道ジャーナル」休刊へ! 
編集長にその理由を聞いた 
1月21日発売の3月号で告知…
鉄道乗蔵(鉄道ライター) 1/21(火) 20:01
 鉄道雑誌「鉄道ジャーナル」が2025年4月21日発売の6月号をもって休刊することがわかった。これは、1月21日発売の3月号の誌面表紙裏で発表されたものだったが、発売前の1月19日夜にこの誌面を見た方が、SNS上に投稿したことをきっかけに鉄道ジャーナル休刊の知らせは、一気にネット上を駆け巡った。
 鉄道ジャーナルは、鉄道総合誌として1967年に創刊し、創刊後58年で700号余りを世に送り続けてきた。「鉄道の将来を考える専門情報誌」を標榜し、交通政策そのものを含めた社会事情や経済的・政治的な視点から鉄道を客観的にみる記事が特徴であった。公式発表によると休刊の理由については、「近年の雑誌出版をめぐる環境および本誌を取り巻く諸般の事情に鑑み、雑誌制作・発行を取りやめ、休刊とすることになった」としている。「以後、WEB版移行、リニューアルなどによる発行再開の予定はない」という。
 鉄道ジャーナルの定期購読者や、これまで執筆を担当した著者のもとには発売の前日となる1月20日から「休刊のご連絡」と題した手紙が届き始め、その手紙もSNS上にアップされている。さらに、「鉄道ジャーナル休刊は本当に残念だ」「小学生のときから読んできた雑誌なので、改めて休刊の告知を目の当たりにするとツラい」など、休刊を惜しむ声が上がっている一方で、「毎年、背表紙の発行月の部分の色が変わっていたのに、2024~2025年の色が変わらずグレーのままだったのはその布石だったのかな」「書店の減少やネットメディアの普及により売上が厳しくなっていたのかな」など、さまざまな声がSNS上で飛び交っている。
 鉄道ジャーナルの宮原正和編集長は筆者の取材に対して、「雑誌の休刊というと、売れ行き不振を理由に挙げることが多いですが、鉄道ジャーナルに関してはそういったことではなく、端的に説明することは難しいと感じています」「近年の鉄道ジャーナルは、ほかの媒体ではなかなか扱わないようなテーマや、ほかでは読めないような記事を載せていきたいと考えてきたのですが、伝統的な鉄道記事を愛する読者が想像以上に多かったということかもしれません」と、売れ行き不振が理由であることは否定した。
(了)
鉄道乗蔵(鉄道ライター)
鉄道に乗りすぎて頭の中が時刻表になりました。日本の鉄道全路線の乗りつぶしに挑戦中です。学生時代はお金がなかったので青春18きっぷで日本列島縦断修行をしてましたが、社会人になってからは新幹線で日本列島縦断修行ができるようになりました。ステッカーやTシャツなど鉄道乗蔵グッズを作りました。
YAHOO! JAPAN ニュース より


≪くだめぎ?≫
 鉄道雑誌の御三家
「鉄道ファン」(交友社発刊1961年~月刊)、
「鉄道ピクトリアル」(電気車研究会1951年~月刊)、
「鉄道ジャーナル」(鉄道ジャーナル社1967年~2025/6・月刊)

確かに表紙の"タイトル"など、2誌とは印象が違うかもしれない・。

手元に、鉄道ジャーナル2019年9月・No.635
特集「筑豊各線を歩く」
 特に気にした記事は
"九州の周波数統一と鉄道電化"

後に、「国鉄時代 2024・5月号 SPRING 特集・九州」(ネコ・パブリッシング刊)
"ED73 1000番台先頭のブルートレイン" 表紙を手にする・・・。
Posted at 2025/06/12 16:06:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道 | 旅行/地域
2025年06月03日 イイね!

「鉄道ジャーナル」最終号(2025年6月号)

「鉄道ジャーナル」最終号(2025年6月号)鉄道ジャーナル HOME PAGE
月刊「鉄道ジャーナル」のご案内をお届けしています。
最終号(2025年6月号) 東京の電車2025
 東京圏では今年3月のダイヤ改正で中央線快速にグリーン車が登場しました。二度の延期で待たされた格好ですが、構想から実現までの経緯をまとめました。また、山手線は今年11月に環状運転開始100周年を迎えます。一周34.5キロをめぐりながら東京のさまざまな「いま」をさぐりました。100年前、すなわち1925年前後の時代は日本の鉄道が統一を果たし大きな飛躍を遂げた時期にあたります。現在の日本の鉄道には、当時から続くものが少なくありません。この機に100年前の鉄道事情を振り返りました。
 また、横須賀・総武快速線で長らく活躍してきたE217系電車の引退を受け、ライバルといってもよい京急の快特2100形とともに改めて紹介しました。

「鉄道ジャーナル」は今月号(2025年6月号)をもって休刊します。✿
 1967年創刊以来58年、長年にわたり支えてくださった読者のみなさま、ご寄稿いただいた執筆者のみなさま、美しい写真を提供してくださった写真作家のみなさま、制作にご協力いただいた関係の方々に御礼申し上げるとともに、今後もご購読を予定されていた読者のみなさまには心よりお詫び申し上げます。
 なお本誌バックナンバーは今後も販売を継続します。お取り扱いは各号発行から1年後の翌月末までですが、在庫限りとなりますのでお求めはお早めにお願いします。
5月号も引き続きお求めいただけます。
-店頭売り切れの際は、書店または発売元の成美堂出版にご注文ください。-


≪くだめぎ?≫
 「鉄道ジャーナル」(2025年5月号・6月号)を一週間前に購入、? 2冊 ?
よく見たら、ビックリ。
3月号で発表していたが閲覧していなかった、この「3月号」今年1月21日発売であったのに・・。

 そもそも「鉄道ジャーナル」購読は、昭和53年~同胞の「旅と鉄道」を購読していたから。
「旅と鉄道」"鉄道ジャーナル社"発行であったが、2009年2月号をもって本誌は休刊となった。私の購読も打ち止め、「鉄道ジャーナル」購読継続を選択。
昭和55年~2誌定期購読していたから、他誌は極たまに読んでいたが・・。

 "鉄道ジャーナル社"は「旅と鉄道」休刊の次年・2010年に販売業務を成美堂出版へ移管し、会社自体も同社の傘下となった。
「鉄道ジャーナル」2010年3月号(通巻521号)に発売業務を"成美堂出版"へ移行、
最近は "「鉄道ジャーナル」誌および関連図書の編集と発行を主業務"

 「鉄道ジャーナル」の特集記事を編集・出版、
その様な形態の本出版があるか・・。
Posted at 2025/06/03 17:15:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道 | 旅行/地域
2025年05月04日 イイね!

「ボンネット型」の先頭車

「ボンネット型」の先頭車国鉄特急の象徴
長~く伸びた“デカッ鼻”は何のため?
新幹線や私鉄で真似た例も
2025.02.02 安藤昌季(乗りものライター)
(上)ボンネット型の国鉄特急形。
写真はイメージ(画像:PIXTA)
(中)京都鉄道博物館で展示されている
国鉄特急489系電車(安藤昌季撮影)
(下)「ブルドッグ」の愛称があるキハ81系気動車(安藤昌季撮影)
 国鉄特急形でよく見られた「ボンネット型」の先頭車。高い位置に運転台を置き、“鼻”を伸ばしたスタイルで、新幹線などにも受け継がれました。なぜ、あのような形が生まれたのでしょうか。
■突き出た“鼻”には何が入っている?
 特急形車両の中には、前頭部に貫通路がない車両がそれなりにあります。デザイン上と機能上、双方の理由があるものの、運転台を高い位置に置き、前頭部を前に伸ばしたスタイルを「ボンネット型」と呼びます。「ボンネット」とは自動車のエンジン部分の覆いを指す単語です。
 そもそも鉄道が始まって以来、蒸気機関車が客車を牽引するスタイルが長く続きました。しかし1930年代になると、航空機や自動車の発達に対抗して、鉄道も蒸気機関ではない動力を搭載して、高速運転を行うという機運が高まります。
 例えば、1932(昭和7)年にドイツで製造された電気式気動車「STV877」は、最高速度160km/hの高速性能であり、前頭部は流線形でした。ただ、この時点で前面窓は通常の位置にあり、“鼻”は突き出ていませんでした。
 スイス国鉄は1935(昭和10)年、RCe2/4というボンネット型電車を開発します。これは「赤い矢」という愛称が付けられた高速性能を誇る電車で、最高速度125km/hを発揮することが可能でした。この電車も前頭部が“鼻”のように突き出ていましたが、その部分は電気機器の収納部として使われていました。
 1952(昭和27)年に製造されたイタリアのETR300電車「セッテベロ」は、運転台を非常に高い位置に置き、前頭部を客室として前面展望を可能としたものです。厳密にはボンネット型ではないのですが、高速運転では運転台を高い位置に、という意味で、電車特急に強い影響を与えます。前面展望スタイルは、日本でも名古屋鉄道「パノラマカー」、小田急電鉄「ロマンスカー」に採用されました。
■「ボンネット型」は国鉄特急形の象徴に
 日本でボンネット型前頭部を初めて採用したのは、1958(昭和33)年に登場した最初の国鉄形特急電車151系(登場時は20系)です。151系は、前年に登場した小田急電鉄3000形「SE」の軽量化・高速電車をさらに一歩進めて、高速運転時に見晴らしが利く高運転台と、客室から騒音源となる電動発電機を遠ざけ静粛性を高めるという目的で、ボンネット型デザインとしていました。
 運転席を高い位置に置いたことは、運転士にも大変好評でした。そのため、翌1959(昭和34)年に登場した157系電車も、少しでも高い位置に運転席を置くということで、床面を50cm高くした高運転台となり、後期型の153系、キハ58系といった急行形車両の運転席も高い位置に置かれるようになっています。
 ボンネット型は国鉄特急形の象徴となり、気動車でもキハ81形で導入されましたが、分割併合できた方が運用しやすい気動車では普及せず、続くキハ82形では貫通型とされました。なお、私鉄特急でも1960(昭和35)年に登場した東武鉄道の1720系電車では、ボンネット型前頭部を採用しています。
 近鉄も1958(昭和33)年、高速運転に備えて床を客室より60cm上げた初代「ビスタカー」10000系電車を製造しますが、こちらは“鼻”があまり出ていなかったのでボンネットとは認識されず、ファンからは「ブルドッグ」などと呼ばれていました。
■新幹線を「ボンネット型」とは呼ばない?
 国鉄特急形のボンネット型は、1962(昭和37)年の161系電車、1964(昭和39)年の181・481系電車にも踏襲されます。そして世界初の高速専用鉄道である東海道新幹線の0系電車も、ボンネット型の前頭部を採用した代表例といえるでしょう。0系では前頭部に連結器や列車無線、電話装置などが設置されており、機器冷却用の空調も収納されていました。
 最後の国鉄特急形のボンネット型は、1971(昭和46)年製造の485系電車でした。翌1972(昭和47)年に登場した200番台より、電動発電機の小型化もあり貫通型前頭部となり、突き出た“鼻”はなくなったのです。この変更で定員は8名増えました。
 ただしそれ以降も、新幹線は高運転台で“鼻”が突き出たスタイルを踏襲しています。新幹線は逆にボンネット型しかない状況で、空気抵抗を緩和するなどの理由から、今でも長く突き出た“鼻”のデザインは変わっていません。
 一方で、1988(昭和63)年に登場したJR東日本651系電車や、1990(平成2)年に登場した東武鉄道100系電車「スペーシア」など、高運転台で“鼻”が突き出たスタイルの特急形はたびたび登場しているものの、これらはボンネット型と呼ばれないようです。
 一般的には1958~1971年の、わずか13年間に製造された国鉄特急形前頭部がボンネット型と認知されていますが、短い製造期間にも関わらず、それだけ強烈な印象を与えるデザインだったということでしょう。果たして今後、ボンネット型と呼ばれる特急形車両は登場するのでしょうか。
乗りものニュース より


≪くだめぎ?≫
 通称『横軽対策』(信越本線横川 - 軽井沢間の碓氷峠対策)
にもう一歩機能を追加したのが「489系電車」
(ベース車485系交流直流両用特急形電車)
1971年7月に夏期臨時列車への充当目的で投入、1972年上期製造分までが
"初期型"で「国鉄特急形のボンネット型」、
1972年下期以降製造のグループ"中期型"から先頭車の貫通化や冷房装置の変更、
先頭車だけが、事実上のフルモデルチェンジした。
 直流特急形電車は分かりやすい。
151系・161系・181系はボンネット型、"初期型"。
急行型の153系・157系・165系は、
そもそも編成中間車にも使える車両である。
上越新幹線前夜の「とき」号の半分はボンネット型、有名でしたね。
183系(前面貫通型)~は"中期型"と言えよう、
東京駅地下線・総武横須賀線直通化時~に投入された。

「国鉄特急形のボンネット型」
1958~1971年の、わずか13年間に製造された、先頭車である。
Posted at 2025/05/04 04:42:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道 | 旅行/地域
2025年05月02日 イイね!

イギリスのHS2計画

イギリスのHS2計画新幹線を夢見たイギリスのHS2計画、
いかに「悲惨な失敗」に至ったのか
Oct 10 2024 [写真・画像] 
(上)計画中止で短くなる区間|Cnbrb / Wikimedia Commons
(下)HS2向け高速鉄道車両のイメージ|Hitachi Rail
 イギリスの高速鉄道「HS2」計画の迷走は、同国にとって非常に厳しい教訓となっている。現地メディアは「HS2の推進派たちは、日本やフランスに匹敵する鉄道を夢見ていた」とするが、計画は大きく変貌し、当初の目的を達成できそうにない。
 HS2は当初、ロンドンからバーミンガムへ至り、さらに東西に分かれて北部の主要都市までつながる「Y」字形の新線構想だった。しかし、楽観的すぎた費用の見積もりや、政治家による度重なる計画変更など問題が重なり、当初の目的である北部地域の振興は遠ざかった。多くの区間で計画が中止され、ロンドン近郊の利便性向上にとどまる見込みだ。
◆遅れていたイギリスの輸送網
 イギリスは日本やフランスに比べ、高速鉄道網の整備で遅れを取っており、「蒸気機関車を世界に送り出した国であるにもかかわらず」とも言われる皮肉な状況になっている。既存鉄道の運賃も高止まりが続き、遅延が慢性化していた。こうした国民の不満を解消すべく、イギリス政府は高速鉄道「HS2」の建設を進めてきた。
 期待のHS2だったが、計画は今、足踏み状態に近い。当初の予算の約2倍の費用をかけながら、計画された区間のほぼ半分しか実現の見込みが立たない状況だ。労働党政権が2010年5月にHS2建設を正式に提案した際、在来線の増設とほぼ同じコストで高速線が建設できるとの触れ込みだった。しかし、実際のコストは予想を大きく上回った。
 厳しい現実を受け、ロンドンから遠い北部区間の計画が次々に中止されたほか、ロンドン中心部への乗り入れさえ一時は見送られることになった。BBC(9月16日)は、「約束されていた区間が半分になった一方、納税者たちは当初予算の2倍以上の金額を負担することになる」と指摘する。バーミンガムから西ロンドン間の一部区間のみが、最大878億ポンド(約17兆円)で実現する見通しとなっている。同記事は、「これほど大規模に予算をオーバーし、約束された以上の成果がほとんど得られないプロジェクトはほとんどない」と論じる。
 HS2計画を「悲惨な失敗」と非難する現政権のヘイグ運輸相は、高騰するコストを抑制するため、HS2を建設する大手合弁会社との契約の再交渉を検討している。
◆切り捨てられた北部地域
 北部路線の中止に伴い、このプロジェクトから恩恵を受けるはずだったイングランド北部の人々や事業者らから反発の声が上がった。HS2の当初の目的だった地域格差の是正は達成できなくなる。
イギリス政府は2012年の報告書で、HS2により最大60億ポンドの経済効果が生じると試算していた。こうした事業のメリットは大きく損なわれつつある。
 いまや残されているのは、世界でもトップレベルに高くつく区間だ。エコノミスト誌(2月15日)は、現在計画が残っているロンドンからバーミンガムまでの約230キロの区間が、「世界で最も高価な路線の一つ」になると指摘する。1キロあたりの建設に、3億ポンド(約600億円)という高額な出費を要する。路線の大半がトンネルや高架区間であることがコストの高騰を招いている。
◆過剰な高規格が災いか
 迷走の原因は何か。英シンクタンク「ポリシー・エクスチェンジ」の交通部門の責任者であり、元首相補佐官(交通担当)を務めたアンドリュー・ギリガン氏は、サンデー・タイムズ紙への寄稿の中で、「HS2は最初から失敗することが決まっていた」と厳しく批判している。ギリガン氏は4つの根本的欠陥を挙げる。ルート選定の失敗、過剰に高規格な設計、ほかの交通網との連携不足、建設主体の事業者の浪費と不誠実さだ。
 イギリスの土木学会(ICE)がHS2の失敗に関する報告書をまとめているが、その中で「過剰に高規格な設計」に関して、仕様が「世界最高水準の鉄道で、200年間使える設計」とされたため、過剰なものになってしまったと指摘している。HS2の設計時に「世界最高水準」を目指すよう政府から指示があり、時速400キロで運行可能な列車を1時間に36本も走らせる計画だった。(タイムズ紙)
 そのためには99%の可用性が求められるほか、保守用のアクセス道路も含め、前例のないインフラが必要だという。だが、こうした過剰な仕様が要因となり、建設費が最初の見積もりを大きく上回ってしまった。さらに詳細設計が固まっていない段階から着工が進められたため、後から路線変更が必要になるなど想定外のコストが次々と発生し、最終的に計画が頓挫する結果となった。
◆内閣交代で迷走続く
 報告書はまた、HS2の根本的な問題の一つは、責任の所在が誰にあるのかが不明確であったことだとも指摘する。国会か運輸省の事務次官か、HS2の会長か最高経営責任者(CEO)かなど、長期にわたり主導権を持つ存在が定まらなかったという。
さらに内閣が頻繁に代わり、首相、財務相、運輸相が入れ替わるたびに、HS2を必要とする根拠が変わってしまった。一貫した目標設定が困難になり、最終的に事業の見直しを余儀なくされたと記事は分析している。
 そもそもイギリスに高速鉄道は不要だったとの指摘も上がっている。元首相補佐官のギリガン氏はBBCの取材に対し、「スペインやフランス、ドイツとは異なり、イングランドの主要都市は、ニューキャッスルを除いて、すべて200マイル(約320キロ)以内の距離にあります」と述べている。この距離内の都市間移動に、本来は高速鉄道は不要だと氏は批判する。
◆高額すぎて引き返せない
 それでもHS2計画が撤回に至らなかったのは、すでに投じた巨費を惜しむ心理的要因が働いたためだ。ギリガン氏はサンデー・タイムズ紙への寄稿で、「HS2は、おそらく意図的に、高額すぎて中止できない規模になっていた」と主張する。
 HS2は2020年の時点で、設計や用地買収などの「準備作業」に、90億ポンド(約1.8兆円)もの巨費が投じられていた。仮にここで事業を中止しても、その費用はほとんど無駄になってしまう。このため政府は、すでに多額の費用をかけているため、完遂するのが賢明だとばかりに事業の継続を正当化した。この時点ですでに、事実上引き返すことが困難な状況に陥っていた。
 もっとも、暗い話題ばかりではない。ガーディアン紙が10月30日に報じたところによると、イギリスのレイチェル・リーブス財務相は、ロンドン中心部の北部に位置するユーストン駅までの延伸工事に係る資金を確保したと明らかにした。当初計画されていた中心部への乗り入れについて、一部区間の見通しが立った形だ。
 迷走が続く巨大プロジェクトのHS2計画は、数々の議論を巻き起こしながら、当初の見込みとは異なる形で実現に向かっている。
NewSpHERE より


≪くだめぎ?≫
 1976年・HSTインターシティー125が運行開始、
無煙・非電化での時速200km運転は画期的だった。
高速列車・在来線とも軌間が1,435 mm (標準軌)であり、
日本の在来線が1,067 mm(狭軌)であり、
直通運転出来るメリットは大きい、
今でも通用するスピードである。
 日本でもそうだが、時速200km運転は
"郊外区間"に出てから、
「最高速度 400 km/h」とは大勝負に出たモノだ・・。
Posted at 2025/05/02 19:36:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道 | 旅行/地域
2025年05月02日 イイね!

仮称「寿都・岩内」新線!?

仮称「寿都・岩内」新線!?[写真・画像]
オレンジカード JR北海道 寿都鉄道(8100形) SL
YAHOO! JAPAN オークション より
1966年の胆振支庁地図。

寿都鉄道
 寿都鉄道(すっつてつどう)は、1918年(大正7年)に創業、1920年(大正9年)に開業し、1968年(昭和43年)まで北海道寿都郡黒松内町の黒松内駅から同郡寿都町の寿都駅を結んでいた鉄道路線、およびそれを運営していた鉄道会社である[1 a]。
 1968年当時に廃業した中小私鉄は珍しくはなかったが、資本金2000万円の会社の負債が2億5000万円に膨れ上がり、未払い賃金が長期にわたり発生するなど、最も悲惨な例として知られる[1 b]。
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
北海道寿都郡寿都町字渡島130
設立 1918年(大正7年)8月20日
業種 鉄軌道業
事業内容 旅客鉄道事業、バス事業
代表者 社長 明石徳松
資本金 20,000,000円
発行済株式総数 400,000株
特記事項:1972年度現在(『私鉄要覧 昭和47年度版』 89頁)
1.歴史
1-1.設立の経緯
寿都湾に面する寿都町は、ニシン漁のおかげで明治の頃からにぎわった町で、鉄道開通前の1918年には黒松内駅から乗合馬車が運行していた。料金は60銭で所要2時間、冬には馬橇で2時間半かかった[2][3]。
 寿都町には函館 - 小樽間鉄道(函館本線)に連絡する支線を敷設して欲しいという要望があり、ことあるごとに関係機関に要請が行われていた。しかし、鉄道敷設に必要な国会の議決が早急には得られなかったため、民間で設立した後に政府に買い上げてもらうこととした。1918年2月13日付けで鉄道免許状が下付され[4]、同年8月20日に、寿都で獲れるニシンや鉱産物の輸送等を目的として「寿都鉄道株式会社」[5][6]が設立された。資本金は50万円であった。このとき設立にあたったのは畑金吉。畑は福井県三国の出身で、新聞記者を経て政治の世界に入り立憲同志会北海道支部設立のため渡道していた。この選挙運動の際に寿都町の有力者である中田忠治、土谷重右衛門らから町の繁栄には鉄道は不可欠との申出を受け鉄道敷設運動に加わることになったという。また重役として函館・小樽の実業家が名を連ねていた。1919年7月に起工されたが、第一次世界大戦の影響で資材が高騰し、建設費は資本金の倍となる90万円近くになってしまい不足分は金融機関からの借入金によった。また機関車などの車両は鉄道省から払下げを受けることになった。
1-2.開通から休止まで
 1920年10月24日に鉄道路線が開通した[7]。27日には役人や名士を招待し寿都駅前で開通式を挙行し、提灯行列や花火打上げなど町を挙げての余興がおこなわれた。27・28日は無料運転となり7170形機関車が走った。旅客と貨物輸送を行い、利用客は年間10 - 13万人前後、1946年のピーク時には31万人を運んだ。また、ニシン輸送の際には、魚油で列車がスリップしたというエピソードもあったらしい。
 畑金吉は、政府に買い上げてもらうために、国会がある度に議員全員に陳情を行ったが、それが実現されることはなかった。一方、事業資金債務は13年で償還し終え、順調な経営を進めていた。
 しかし、第二次世界大戦後、物価・人件費は高騰するのに対して、運賃は物価庁からの許可が得られず数年間据え置かれたままであったことから、経営が次第に悪化し始めた。1952年には経費削減の一環として、燃費のいいディーゼル機関車が導入されたりした(営業用としては北海道初)。
 しかし、鉱山の閉山、ニシン漁の衰退、道路整備によるトラック輸送の増加、バス運行による鉄道利用客の減少により経営は悪化する。
 1965年のダイヤ改正以降は1日に1往復に減らされたが、冬期は除雪費用が出せず運休し、鉄道が運行できたのは年間300日未満であったという。運行できたとしても黒松内駅に国鉄の臨時列車があるとホームが使用できないため、黒松内行きは旅客扱いをしないという有様であった[8]。それでも岩内線と連絡して函館本線の勾配緩和別線にする計画[9]が存在していて、日本国有鉄道による買収を期待しながらバスやタクシー・砕石など経営の多角化を図った。
 1968年4月19日付けの北海道新聞夕刊の特集記事「消えてゆく私鉄」で寿都鉄道が取り上げられ、「十九世紀、アメリカ・ボールドウィン社製機関車。全国の鉄道ファンがたずねてくると、機関庫から引き出して見せるだけが仕事の三人の機関区員」「ニシン漁、鉱山で、かつて栄えた寿都鉄道。いまは犬クギも抜け、まくら木は朽ちて”馬の散歩道”。客貨混合でダイヤが不定のため、走れば乗客から苦情続出-という。」「一日の乗客わずか10人。それも一月一日から”雪害”で運休のまま。線路の雪は消えたのに、機関車は目ざめる気配もなかった」と報じられ、この時点で既に実質的な運休状態であったことが分かる。会社では同年4月30日に運輸省に対して全線運休の申請を出し、この頃に鉄道部門の従業員20名を解雇している。運輸審議会の答申を経て同年8月14日に運輸相が運行休止の許可を出しているが、前述の通り前年の1967年後半頃から実質的な運休状態となっており、最終運行日がいつであったかははっきりしない。
1-3.生産管理闘争
 1968年4月、鉄道部門が閉鎖され20人が解雇される。鉄道部門閉鎖後は、残ったバス部門だけで、寿都-黒松内-長万部などの路線を細々営業したが、賃金の未払いは続いた。業を煮やした組合は10月よりバスの運行の自主管理を始める。日銭を会社側に納金していては負債の返済に使われ、組合員の懐に入らないと考えたのだ。1日の運賃収入は約3万円、燃料代6000円を差し引いた残額を組合員14名と臨時雇いのバス車掌で分け合った。会社側もこれを黙認した。しかし、11月に入るとスノータイヤを購入する資金もなく暖房費用も賄えないほどとなる。組合員の中からは退職し失業保険で冬を食いつなごうと考える者も出たが、約2年間にわたり失業保険の掛け金60万円が払い込まれていないことが判明する有様であった。
1-4.会社清算
 休止中の鉄道路線は1972年5月11日付けでに正式に廃止許可となり、会社も清算されることとなった。バス事業はそれに先立つ1968年に北海道中央バスに500万円で移管されているが、路線免許の売買は正式にはできず、いわば裏取引であった[1 c](その後、1978年にニセコバスへ路線譲渡)。譲渡金の500万円は未払いの給与に充てられた。同年11月19日、ついにバス部門も閉鎖となった。退職金は支払われなかったが、私鉄総連が救済のためカンパを呼びかけ、全国の傘下組合から集められた支援金が送られたという。また失業保険は会社が未納分を分割払いで支払う約束ができ、支給された[1 d]。なお、1985年6月6日のNHKニュースでの特集「まぼろしの西海岸鉄道」では、寿都鉄道社長が「岩内線延長による用地買収を期待して会社組織を残してきたが、同月30日をもって岩内線が廃止されることから会社をこれ以上存続させる意味がなくなった」と述べていた。
 寿都鉄道株式会社の閉鎖登記簿を見てみると、正式の会社解散決議は、1987年7月20日の株主総会によってなされている。当時の商法によれば、株式会社は株主総会で会社の解散決議をした後、清算手続に入り、その手続の終了後、清算結了の登記をするのだが、清算結了の登記がなされておらず、2004年3月8日、商業登記規則第81条第1項第1号の規定(解散の登記をした後10年を経過したとき)により登記官の職権で閉鎖されている。なお寿都町では保有していた株式全10万円分の権利を放棄することを2009年の町議会において可決している[10]。
2.路線
寿都鉄道線
 概要
現況 廃止
起終点 起点:黒松内駅 終点:寿都駅
駅数 5駅
 運営
開業 1920年10月24日
廃止 1972年5月11日
所有者 寿都鉄道
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 16.5[1 e] km (10.3 mi)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
最小曲線半径 201 m (659 ft)
電化 全線非電化
最急勾配 20 ‰
2-1.路線データ
路線距離(営業キロ):黒松内 - 寿都 16.5km
軌間:1067mm
駅数:5駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
閉塞方式:票券閉塞式
2-2.駅一覧
事業者名・駅の所在地は廃止時点のもの。全駅北海道に所在。
 駅名 駅間キロ 営業キロ 接続路線 所在地
黒松内駅 - 0.0 日本国有鉄道:函館本線 寿都郡黒松内町
中の川駅 3.9 3.9 - 寿都郡黒松内町
湯別駅 6.0 9.9 - 寿都郡寿都町
樽岸駅 3.4 13.3 - 寿都郡寿都町
寿都駅 3.2 16.5 - 寿都郡寿都町
3.輸送・収支実績
1945 240,257 38,485
1949 219,328 37,255
1952 110,907 50,420
1958 114千 57,194
1963 78千 36,437
1966 4千 30,604
・鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計、地方鉄道軌道統計年報、私鉄統計年報各年度版
4.車両
4-1.蒸気機関車
4-2.ディーゼル機関車
4-3.気動車
4-4.客車
5.バス
 前述のとおり、鉄道は末期には寿都行きのみ1便の運行であったが、鉄道を補完するためバスの運行を行っていた。路線は寿都駅から中の川駅、黒松内駅を経由して長万部町の国縫駅まで結んでいた。北海道中央バスへ路線を移譲した際、長万部駅までの運行となったため、その後の北海道中央バス、ニセコバスの時刻表には1997年頃まで長万部駅乗り継ぎの函館バスの時刻が掲載されていた。
6.脚注
[1]^ a b c d e アサヒグラフ1969年2月14日号 P69-73
[2]^ 「函館本線 黒松内駅」『北海道鉄道沿線案内』北海道鉄道管理局、1910年8月。doi:10.11501/1901115。
[3]^ 『シリーズ明治・大正の旅行 第I期 旅行案内書集成 第13巻 北海道鉄道沿線案内/樺太の鉄道旅行案内』ゆまに書房、2014年11月、63頁。ISBN 978-4-8433-4654-9。
[4]^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1918年2月14日(国立国会図書館デジタルコレクション)
[5]^ 『日本全国諸会社役員録. 第27回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
[6]^ 『地方鉄道及軌道一覧 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
[7]^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1920年10月28日(国立国会図書館デジタルコレクション)
[8]^ 「8108という名の開拓者」59頁
[9]^ 鉄道敷設法別表130号ノ2「後志国黒松内ヨリ岩内附近ニ至ル鉄道」
[10]^ 「審議した案件」『議会だより 寿都湾』第144号、寿都町議会、2010年2月、3ページ。
[11]^ 「振替」は許認可上の正式な用語ではない。小熊・星 (1967) によると、この鉄道では、実車は2代目と入れ替えるものの、書類上は番号・仕様とも変更なく初代であるとして使用することがあったという。
[12]^ 岩堀春夫「専用線の機関車」『鉄道ファン』No.282
[13]^ 窓配置よりの推定(例として客車略図のオイ9231とオイ9251)。『北線路』10頁。また原形屋根はダブルルーフではない
7.参考文献
青木栄一 著「昭和52年5月1日現在における補遺」、鉄道ピクトリアル編集部 編『私鉄車両めぐり特輯』 2巻、鉄道図書刊行会、東京、1977年、補遺3頁頁。
小熊米雄・星良介 (1967). “寿都鉄道”. 鉄道ピクトリアル No. 199 (1967年7月臨時増刊号:私鉄車両めぐり8): pp. 4-5, 11-19.(再録:鉄道ピクトリアル編集部 編『私鉄車両めぐり特輯』 2巻、鉄道図書刊行会、東京、1977年。)
沢和哉「鉄道の発展につくした人々」『コンコース』No.111
寺田裕一『消えた轍―ローカル私鉄廃線跡探訪』ネコ・パブリッシング、1999年。
中村由信;山野浩一「8108という名の開拓者」『太陽』48号、平凡社、1967年6月、58-64頁。doi:10.11501/1792585。
北海道鉄道管理局『北海道鉄道沿線案内』、1918年。荒山正彦監修・解説『シリーズ明治・大正の旅行 第I期 旅行案内書集成』第13巻(北海道旅行案内/樺太の鉄道旅行案内)、ゆまに書房、2014年に収録
湯口徹『北線路』上 プレスアイゼンバーン、1988年
黒岩保美 編『寿都鉄道』1984年12月。doi:10.11501/12065419。
8.関連項目
黒住成章(元監査役)
最終更新 2024年8月19日 (月) 16:19 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

岩内線
 岩内線(いわないせん)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。北海道岩内郡共和町の小沢駅で函館本線から分岐し、同郡岩内町の岩内駅までを結んでいた。1980年(昭和55年)の日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)施行を受けて第1次特定地方交通線に指定され、1985年(昭和60年)7月1日に廃止された[1 b]。
国鉄 岩内線 基本情報
現況 廃止
所在地 北海道
起点 小沢駅 、終点 岩内駅
駅数 6駅
開業 1912年11月1日
廃止 1985年7月1日[1 a]
所有者 日本国有鉄道、運営者 日本国有鉄道
 路線諸元
路線距離 14.9 km
軌間 1,067 mm
線路数 単線
電化方式 全線非電化
最大勾配 12.5 ‰
最小曲線半径 300 m
閉塞方式 タブレット閉塞式
■未成区間(黒松内 - 岩内)
 もともとこの路線は瀬棚 - 寿都 - 岩内 - 然別間の鉄道敷設運動の結果、一部区間が承認されて建設された路線である。また、太平洋戦争後、函館本線の急勾配、急曲線を緩和するバイパスルートとして「後志國黒松内ヨリ岩内附近ニ至ル鐵道」(改正鉄道敷設法別表第130号ノ2。1953年(昭和28年)8月1日に公布・施行された「鉄道敷設法等の一部を改正する法律」(昭和28年法律第147号)によって追記)が計画された。
 1957年(昭和32年)4月3日に調査線、1964年(昭和39年)6月25日に工事線となり、黒松内 - 湯別間では1968年(昭和43年)まで営業していた寿都鉄道の路盤跡を転用することも内定し、1965年(昭和40年)から現地測量設計も進んでいた[16]。1969年(昭和44年)10月1日には地元主催の着工式が行われた[7]。
 岩内線が全通すると、函館 ‐ 札幌間は函館本線経由より10km短縮、室蘭本線・千歳線経由より44km短縮されるとした[16][7]。 日本鉄道建設公団としては、時速100km以上のスピードを出せる最新式の施設にする予定としていた[7]。最急勾配は10‰、最小曲線半径は800m[17]。橋梁は122カ所3916m、トンネルは16カ所12133m。総事業費は103億円を予定していた[17]。
 1972年(昭和47年)10月24日に着工(工事実施計画)が認可され[9]、完成までに10年の工期と約100億円の工事費が必要とした[9]。
 着工認可直後の1972年10月25日、岩内町など沿線8町村が事前に開業後の赤字全額を地元で負担するとの“一札”を国鉄、日本鉄道建設公団に提出していたことが明らかとなった。国鉄の赤字を地方自治体が助成するとしたのは初めてのことで、運輸省は“一札”を事実上の確約書と受け取り、地元の約束履行を条件とし、国鉄の赤字がかさんでいることもあり、地元の熱意を汲んで新線着工を認めた[18]。
 “一札”の背景として、全通後は観光客の入り込みが予想されるものの、過疎化が著しい町村であるため、開業後は赤字が確実で、運輸省は工事実施計画の認可を渋っていたため、沿線8町村で結成する岩内線建設促進期成会は「新線の開業後、国鉄の営業収支が損失を生じたときは、その全額を関係町村で負担するので、すみやかに工事実施計画を認めるよう」との文書を国鉄、日本鉄道建設公団あてに1972年9月末に提出していた[18]。
 一方、自治省では異例のことだと問題視した。国鉄に対する地方自治体の補助は認められないとの見解を打ち出し、地方財政再建促進特別措置法により、地方団体が国、国鉄、公社、日本鉄道建設公団に対して寄付金や法律、政令に基づかない負担金を支出してはならないことを根拠とした。国鉄への助成を許せば他線区にも波及しかねず、事実ならば違法行為なので、やめさせる意向とした[18]。
 その後、自治省は北海道に事実関係を調べるよう求めた。新線着工を認可した運輸大臣の佐々木秀世は「地元の約束があったから認めた。今後、各町村がそれぞれの議会で正式に決めるものと確信している。もし約束が守られなければ工事命令を出さないこともあり得る」と自治省と対立した見解を示した。岩内線建設促進期成会は「“一札”そのものは期成会役員の名前で出しているが、期成会は地方自治体と異なる任意団体であり、地方財政再建促進特別措置法に抵触するとは考えない。実際の赤字負担をどうするかについては、同線の完成がかなり先のことであり、その時点で法律に触れないように考えればよい」とした[19]。
 北海道は自治省の指示に基づき岩内線建設促進期成会から事情を聞き、期成会では「陳情の経過からみて、地元で赤字負担をしなければ新線建設はダメだと判断した」「赤字負担は期成会が約束したもので、町村が約束したわけではないから、直ちに法律違反になるとは思わなかった」「函館本線が新線を回るようになれば、赤字になるかどうか分からない」など赤字負担を約束した事情を説明した。これに基づき、道では「赤字負担を約束したことは、将来違法な結果を招かざるを得ないので不適当である」との基本的態度を決めながらも、実際に新線が建設され、沿線町村が赤字を負担するようになるのは10年ほど先の問題であり、この間に閑散線問題が解決すれば違法性がなくなる可能性もあるとして、閑散線問題の解決を急ぐことが先決であるとの意見も合わせて、自治省に回答した[20]。
 1972年11月3日に日本鉄道建設公団主催の起工式が行われたが[10]、全区間の調査設計と岩内駅付近など一部の用地買収が行われたのみで[8]、後に工事は中止された[21]。
 未成区間の延長は43.915kmで、雷電海岸や寿都鉄道の廃線跡を経由するとともに、第3雷電トンネル (5232m)、第2雷電トンネル (580m)、刀掛トンネル (3160m)、尻別トンネル (605m) 、第2種前トンネル(560m)などの長大トンネルも計画されていた[22]。
■計画されていた駅[21][22]
岩内駅 - 敷島内駅 - 雷電駅 - 港町駅 - 磯谷駅 - 美谷駅 - 歌棄駅 - 湯別駅 - 中の川駅 - 黒松内駅
岩内 - 湯別間は日本海沿いを通る計画で、磯谷駅、歌棄駅は内陸を通る函館本線の目名駅(旧・磯谷駅)、熱郛駅(旧・歌棄駅)とは別位置。
■出典
[1]^ a b “興浜北線など三線の旅客営業廃止軽微認定 運輸審議会”. 交通新聞 (交通協力会): p. 1. (1984年5月24日)
[2]^ 岩内町史 1966年(昭和41年)11月発行、P382。
[3]^ a b 岩内港一班 1911年(明治44年)7月 勝見貫一郎 編集・発行、P38-40。
[4]^ a b c 『北海道鉄道百年史 下巻』1981年3月 日本国有鉄道北海道総局 編集・発行、第5編資料/1年表。
[5]^ a b c d 『北海道鉄道百年史 下巻』P765 。
[6]^ 「鉄道省告示第109号」『官報』1922年9月2日(国立国会図書館デジタルコレクション)
[7]^ a b c d e f 早期実現と安全祈る 国鉄新岩内線 町ぐるみ着工式 - 北海道新聞1969年10月2日朝刊
[8]^ a b c d e 『鉄道未成線を歩く 国鉄編』JTB、2002年6月1日、168頁。
[9]^ a b c “岩内線の着工認可”. 北海道新聞. (1972年10月25日)
[10]^ a b “赤字負担はともかく 待望の岩内新線起工式”. 北海道新聞. (1972年11月4日)
[11]^ 「国鉄蒸気線区別最終運転日一覧」『Rail Magazine 日本の蒸気機関車』1994年1月号増刊
[12]^ a b c 『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 I』1998年10月 JTB編集・発行、P245。
[13]^ 「時計代わりの汽笛消え 岩内線、興浜北線 見納めさよなら列車」『北海道新聞』1985年7月1日、朝刊。
[14]^ 北海道運輸局 『北海道における鉄道廃止代替バス追跡調査 調査報告書(概要版) 平成21年3月』 (PDF) P2,3。
[15]^ a b c d e f 『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 II』1998年10月 JTB編集・発行、P845。
[16]^ a b “10月に地元着工式 国鉄岩内線 認可、明るい見通し”. 北海道新聞. (1969年6月30日)
[17]^ a b 『新線建設の概要』日本鉄道建設公団、1970年。
[18]^ a b c “新設岩内線 赤字は地元負担 沿線8町村が“一札” 運輸省の認可 約束履行条件に 自治省 法違反、認めぬ意向”. 北海道新聞. (1972年10月26日)
[19]^ 「自治省 道に調査指示 岩内新線の赤字地元負担問題 運輸省は「約束守らせる」」『北海道新聞』1972年10月27日、朝刊。
[20]^ 「将来違法招き不適当だが 閑散線の解決が先決 岩内線赤字地元負担で道意見」『北海道新聞』1972年10月28日、朝刊。
[21]^ a b 宝島社『全国未成線ガイド 知られざる鉄道路線』(草町義和 監修 2016年)p.88 - 89
[22]^ a b 岩内線建設促進期成会関係資料
最終更新 2025年4月16日 (水) 08:28 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


≪くだめぎ?≫
 函館本線"山線"は北海道新幹線の「並行在来線」として廃止される予定。
仮称「寿都・岩内」新線が"山線"を買収する・ウルトラC !?を使わなければならない。
 現北海道知事が「攻めの廃線」の元市長であるから、まずは無理。
 三陸鉄道は岩手県が作った鉄道。しかし、大船渡線は鉄道復旧されなかった。
一方の始発・気仙沼が「宮城県」であること。三陸鉄道自身が被災し、何とか復旧、国鉄山田線・宮古-釜石を引き受ける"大技"をやり遂げたから。
 残すのも大変だが、新たに会社を立ち上げるのも大変だ。
Posted at 2025/05/02 12:02:17 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道 | 旅行/地域

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