
トヨタ スポーツ800 Toyota Sport 800
ボデータイプ クーペ CP
発売日 1965年4月1日
■スペック
グレード トヨタ スポーツ800
車両型式 UP15
重量 580(kg)
寸法
全長 3580(mm) 全幅 1465(mm) 全高 1175(mm) ホイールベース 2000(mm)
エンジン
型式 U、種類 空冷2気筒水平対向式ツイン・キャブ、排気量 790(cc)
最高出力 -(kW)/ 45(PS)/ 5400r.p.m
※ 代表するグレードのスペックを表示しています。
※ エンジン最高出力はネット値です。
※ このクルマの型式は、UP15(800)です。
■解説
1962年の東京モーターショーで発表した「パブリカスポーツ」を市販化した二人乗りの小型軽量スポーツカーで、1965年4月に販売した。
市販化にあたっては、スライディングキャンピーを、通常のドアと着脱式ルーフに変えて採用した。「パブリカ」のものをベースにしたプラットホームに、空気力学的にすぐれたボデーを載せて、非常に軽量に仕上げたことから、155km/hという最高速度を得たばかりか、燃費にも優れた。
本格的なスポーツカーの走りと、着脱式ルーフによるオープン走行を手軽に味わえるクルマとして若者を中心に支持された。レースでも大活躍し、特に長距離レースで信頼性と高燃費を武器に真価を発揮して、1967年の富士24時間レースでは2台の「トヨタ 2000GT」に続いて3位に入賞した。
■ 生産工場 関東自動車工業(株) 販売会社 トヨタカローラ店
■車名の由来
800ccエンジンを搭載したスポーツクーペの意
トヨタ自動車75年史 車両系統図 2012年
トヨタ・スポーツ800
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
トヨタ・スポーツ800(トヨタ・スポーツはっぴゃく)とは、トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)が1965年(昭和40年)から1969年(昭和44年)にかけて製造した小型のスポーツカーである。車体型式はUP15。
超軽量構造と空気抵抗の少なさで、非力ながら優れた性能を発揮したことで知られる。愛好者からは「ヨタハチ」の通称で呼ばれる。
本田技研工業が1963年(昭和38年)から生産した、ホンダ・S500に始まるSシリーズとは好敵手として並び称され、1960年代の日本製小型スポーツカーの秀作として評価が高い。
-自動車のスペック表-
トヨタ・スポーツ800 UP15型
製造国 日本
販売期間 1965年4月-1969年10月[1]
設計統括 長谷川龍雄
乗車定員 2人
ボディタイプ 2ドアクーペ / タルガトップ
エンジン 2U型 790cc 空冷水平対向2気筒OHV
エンジン位置 フロント
駆動方式 後輪駆動
最高出力 33kW (45PS)/5,400rpm
最大トルク 67N·m (6.8kgf·m)/3,800rpm
変速機 4速MT
サスペンション 前:ダブルウィッシュボーン 後:半楕円リーフ
全長 3,580mm
全幅 1,465mm
全高 1,175mm
ホイールベース 2,000mm
車両重量 580kg
生産台数 3131台[2]
1 概要
当時トヨタが生産していた最小のモデルである大衆車パブリカのエンジンとシャシを流用することを前提に、トヨタの系列会社の関東自動車工業で1962年(昭和37年)で開発に着手した。主査は長谷川龍雄。
当初は「パブリカ・スポーツ」の名称で開発が進められ、非力なパブリカ用エンジンで高性能を確保するため、航空機さながらに徹底した軽量化と空気抵抗の抑制が図られた[3]。このためオープンボディながら難易度の高いモノコック構造を採用し、市販型でも重量は僅か580 kg に抑えられている。
1.1 ボディスタイリング
関東自動車工業の回流水槽で研究を重ねるなどして、空気抵抗の低減を目指したデザインを企図した結果、徹底して丸みを帯びた、全長3,580 mm ×全幅1,465 mm ×全高1,175 mm という小さな2シーターボディは、凄みは皆無だが大変愛嬌のある形態となった。空力対策としてヘッドランプをプラスチックでカバーしたその造形は同社の2000GTでのフォグランプ処理を彷彿とさせるが、実際には相似を狙った訳ではない。
原型のスタイリングについては、日産自動車出身で当時関東自工に移籍しており、ダットサン・110/210やブルーバード310をデザインした佐藤章蔵が手がけた、と一般に伝えられている。だが長谷川龍雄が後年語ったところによれば、現実のスポーツ800のデザインの大部分は長谷川と関東自動車社内スタッフとが手がけたもので、どちらかといえば直線的デザインを好んだ佐藤が寄与した部分は少ないという。これに対し、関東自動車開発部門のプロパー社員で開発に携わった菅原留意は、開発企画自体が関東自動車側からの発案でトヨタ自工と長谷川を巻き込んだものであるとし、関東自動車側のデザイナーらが佐藤の主導で試作車デザインをまとめ上げたことを証言している(佐藤のサインの入った、試作車に極めて近いデザインスケッチも残されている)[4]。
長谷川は卒業研究では翼断面形を研究し、就職後は試作機キ94を担当するなどした元航空技術者であり、スタイリングや試作車においてドアの代わりにスライド式キャノピーを採用したことからも航空機を意識した設計(デザイン)が伺える。しかし、さすがに乗降や安全性の面で問題があり、市販車では通常型ドアと、より現実的な着脱式のトップとの組み合わせを採用した。ポルシェ・911での同例に用いられていた呼称を流用して、後年「タルガトップ」と呼ばれるようになったが、採用はこちらのほうが早い。
1.2 メカニズム
ほとんどのコンポーネントをパブリカからの流用、もしくは強化で賄っている。フロントを縦置きトーションバー・スプリングのダブルウィッシュボーン独立、リアをリーフ・リジッドとしたサスペンションの基本レイアウトもそのままである。ブレーキもまだ前後ドラムではあったが、さすがにシフトレバーはフロアシフト化されていた。
パワーユニットは、当初、パブリカ用のU型(空冷水平対向2気筒OHV・700 cc)エンジン流用が考えられていたが、最高速度150 km/h 以上を企図した性能確保には非力であり、約100 cc の排気量拡大とツイン・キャブレター装備によって、790cc、45ps(エンジン形式は2U型)とした。それでもまだ非力としか言いようがなかったが、空気抵抗係数0.35を誇る超軽量空力ボディの効果は大きく、155 km/h の最高速度を達成した。同時期にDOHCの高回転高出力エンジンを700 kg 級の車体に搭載したホンダ・S600とは、対極的な発想に位置する。
2 販売
1965年(昭和40年)4月から市販された。東京地区標準販売価格は59.5万円で、比較的廉価に設定されていた。ホンダS600の56.3万円と大差なく、当初から競合モデルとして考えられていたことが伺われる。
しかし、小型といえど2シーターのスポーツカーが大量に売れる程の情勢には至っておらず、日本国外への輸出もほとんど行われなかったため、1969年(昭和44年)10月の販売終了までの累計販売台数は3,131台に留まっている。
長谷川のインタビューによれば、もともと売るつもりで作った車ではなく、パブリカの開発が終わり、次のカローラが始まるまでの手慰みにやった実験的な作品に過ぎなかったという。パブリカのコンポーネントを流用したのも、製品化予定のない車には会社の設備を割けなかったためである。しかし、1962年の東京モーターショーに出品したところ、思いがけぬ反響があったため、販売部門からの要望で製品化することになってしまった。輸出がなされなかったのも、当時の日本に合わせたパブリカのコンポーネントでは、アメリカの道路を高速で飛ばすような使い方に耐えられないと判断し、長谷川が強固に反対していたためである。
3 レース活動
日本で自動車レースが盛んに成りつつあった時期の出現であり、好敵手と言えるホンダ・S600の存在もあって、「ヨタハチ」は日本国内の自動車レースで多くの逸話を残した。
ジェット機のごとき音を発するDOHC4気筒エンジンを搭載し、とにかく速いが、重く曲がりにくく燃料を食うホンダ・S600に対し、「ポロポロポロ…」あるいは「バタバタバタ…」と気の抜けた2気筒エンジンの音を立てながら走るヨタハチは、その軽さによって操縦性が良かったことに加え、当時珍しかった風洞開発のおかげで空気抵抗も少なかったため、燃料消費やタイヤ摩耗が少なく、結果としてピットインの頻度を他車より少なくできるという強みがあった。1966年の第一回鈴鹿500kmでは、一度もピットインすることなく優勝した上、30%も燃料を残していたという。なお、このレースに参加したヨタハチの内、フレームナンバー「UP15-10007」の車両は現存しており、トヨタ自動車の手による徹底的なレストアとチューニングが行われ
「スポーツ800 GR CONCEPT」として復活している[5]。
更に整備性の良さからピットインではエンジンを丸ごと交換するという荒技まで可能となり、ピットインによるロスタイムが勝敗に大きく影響する長距離レースでは、その「経済車」たる長所が大いに際立った。
「ヨタハチ」による名勝負として伝説的に語られるのは、1965年(昭和40年)7月18日の船橋サーキットにおける全日本自動車クラブ選手権レースでの浮谷東次郎の優勝である。
1,300 cc までのカテゴリーGT-Iレースの序盤に、雨中決戦でホンダ・S600を駆る生沢徹のスピンに巻き込まれてクラッシュし、少破した車体を復旧すべくピットインした浮谷のヨタハチは、一時16位にまで後退しながら、その後驚異的な追い上げによって順位を一気に挽回、ついには先頭を走る生沢のS600を抜き去り、さらに2位以下を19秒以上引き離し、優勝している。
4 ハイブリッド試作車
トヨタが1965年から研究を進めていたハイブリッドカーの試作車両として、1977年の東京モーターショーにこのスポーツ800のボディとガスタービンエンジン及び電気モーターによるハイブリッドシステムを組み合わせた「トヨタスポーツ800・ガスタービンハイブリッド」を出展している。外観上ではボンネットに大型のエアスクープを備える点でノーマル車と異なっており、エンジン以外の内部機構ではトランスミッションは前進2速となっている。エンジンの公称出力はガソリンエンジン車とほぼ同等とされた。
5 その他
・2005年のグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードに展示され観客から大きな注目を集めた。これはトヨタが製作した富士24時間レース仕様のレプリカで、ドライバーも当時ステアリングを握った一人である北原豪彦とイベントに相応しい趣向を凝らしたものだった。なお主催者の意向によりゼッケンは800番が与えられている[6]。
・トヨタ東京自動車大学校の生徒により、スポーツ800のボディをレストアした上で電気自動車に改造した「トヨタ・スポーツEV」が2010年の東京オートサロンに出展された。2011年のオートサロンでも出展。
・2012年に発売したトヨタ・86の初期コンセプトは本車の存在を参考に固められた。また2012年7月には原型になった「パブリカスポーツ」が復元された。復元時点で現存していなかった車両の復元で、自走も出来るようにエンジンも搭載している[7][8]。
・2015年の第44回東京モーターショーにトヨタ・S-FRとして出品されたコンセプトモデルは2+2ではあるものの、その愛嬌のある外観やFRである可能性から本車両の後継、あるいは本車両へのオマージュと見做す向きもある。
・開発当初のエピソードとして高速道路でのテスト走行に料金担当に、あまりにもコンパクトなボディであったため軽自動車と間違われたというエピソードがある。
・「トヨタ スポーツ800」という車名は、第11回東京モーターショー(1964年)開催時に実施された公募により決定した。車名決定までの経緯は以下のようなものである。 応募された案の中からいくつかが候補として選ばれたが、調べたところそれらは全て商標登録済みであったため不採用となった。そこで社名に「スポーツ+排気量」を組み合わせた無難な車名にすることとしたが、実はモーターショーの時点ではまだ排気量を公表していなかった。つまり、応募された案の中に「トヨタ スポーツ800」という名称はないはずであったが、ここで奇跡が起きた。ひとりの学生が「トヨタ スポーツ800」という名称を応募していたのである。(ベースモデルのパブリカの排気量が700ccであったため「スポーツ700」という名称の応募は数件あった由) この学生の応募によって"公募により決定"という体裁が整い、「トヨタ スポーツ800」という名称が正式に採用されたのである。[9]
6 脚注
6.2 出典
[1]^ デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車第1号(創刊号)19ページより。
[2]^ デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車第1号(創刊号)19ページより。
[3]^ 諸星和夫「第2章 パブリカスポーツはこうして創られた」『想いの復元:パブリカスポーツ:トヨタスポーツ800の源流』三樹書房、2015年、14-29頁。
[4]^ 『SUPER CG』31号、二玄社、1995年、42-50頁。
[5]^ 当時の耐久レースを戦った「本物のスポーツ800 レーシング」が「スポーツ800 GR CONCEPT」として復活TOYOTA Gazoo Racing 2017年9月19日
[6]^ ヨタハチにグッドウッドのギャラリー大喝采!CORISM2005年8月11日
[7]^ (動画)【幻の車】トヨタ パブリカスポーツ走行! トヨタ博物館クラシックカーフェスタin神宮外苑 - YouTube > Car@niftyTV(2013/11/30公開)2017年9月29日閲覧
[8]^ トヨタ「パブリカスポーツ」半世紀ぶりに復元 - 読売新聞 2012年7月14日[リンク切れ]
[9]^ 月刊自家用車 1965年5月号: P29. (1965).
7 関連項目
トヨタ自動車
トヨタ・2000GT
トヨタ・パブリカ
トヨタ・MR-S
ホンダ・S800
ダイハツ・コンパーノスパイダー
トヨタ・86
≪くだめぎ?≫
販売期間が「1965年4月-1969年10月」、1969年(昭和44年)4月に家元の「パブリカ」がフルモデルチェンジ・"パブリカ店"→「トヨタ カローラ店」へ改名・「パブリカ」乗用モデルが「トヨタオート店」専売になる。「スポーツ800」がその年の秋までとなったのだろう。"併売車種"ではなかったようだ。