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2021年12月01日 イイね!

『入間市』にならなかった「狭山市」

『入間市』にならなかった「狭山市」●狭山市駅
 狭山市駅(さやましえき)は、埼玉県狭山市入間川一丁目にある、西武鉄道新宿線の駅である。駅番号はSS26。
[写真・画像] 西口(2012年5月)

1 歴史
・1895年(明治28年)3月21日 - 入間川駅(いるまがわえき)として開業[1]。元は川越鉄道の駅で、西武鉄道全駅の中で国分寺駅、小川駅、東村山駅(旧久米川仮駅)に次いで古い。同時に開業した駅には所沢駅、入曽駅、川越駅(現・本川越駅)がある。
・1975年(昭和50年)3月 - 東口を開設。
・1979年(昭和54年)3月25日 - 改装新駅舎の供用を開始し、駅名を狭山市駅に改称。同時に当駅を発着する路線バスの系統名も「入川××」から「狭山××」に改称された。池袋線入間市駅発着のバス系統名が「入××」や「入間××」ではなく「入市××」と称しているのはこの名残りである。同年4月27日、駅ビル「西武狭山ステーションビル」開店[2]。
・1999年(平成11年)3月16日 - 狭山市が駅東口に「狭山市駅市民サービスコーナー」を開設。
・2007年(平成19年)3月6日 - ダイヤ改正により長らく多くの利用者から要望のあった快速急行の停車を開始。これにより当駅を通る営業列車はすべて停車するようになった。
・2008年(平成20年)11月 - 再開発事業に伴う駅舎改築のため、旧駅舎および旧西武狭山ステーションビルの建物の解体作業が始まる。
・2010年(平成22年)
 ・3月25日 - 西口広場での再開発事業のまち開きを開催[3]。
 ・3月26日 - 新駅舎と東西自由通路の一部を供用開始[4]。同時に発車メロディを童謡「たなばたさま」に変更[3]。
・2011年(平成23年)6月8日 - Emio狭山市開業[5]。

6 隣の駅
西武鉄道 新宿線
■特急「小江戸」停車駅
■通勤急行(上りのみ運転)
新所沢駅 (SS24) ← 狭山市駅 (SS26) ← 本川越駅 (SS29)
■快速急行・■急行・■準急・■各駅停車
入曽駅 (SS25) - 狭山市駅 (SS26) - 新狭山駅 (SS27)

7 脚注
[1]^ 「運輸開業免許状下付」『官報』1895年3月22日(国立国会図書館デジタルコレクション)
[2]^ 『会社要覧』西武鉄道株式会社、1999年、100 - 103頁では駅ビルの開店を4月27日としている。
[3]^ a b c “橋上駅舎供用開始に合わせ狭山市駅の発車メロディを「七夕さま」に変更します 〜施設見学会を3月25日(木)実施(事前申し込み不要)〜” (日本語) (PDF) (プレスリリース), 西武鉄道, (2010年3月23日), オリジナルの2016年8月11日時点におけるアーカイブ。 2020年5月8日閲覧。
[4]^ a b c d e f g h “3月26日(金)初電車より狭山市駅橋上駅舎の供用を開始します 〜駅直結の新たな商業施設は来年(2011年)春オープン〜” (日本語) (PDF) (プレスリリース), 西武鉄道, (2010年2月25日), オリジナルの2016年8月28日時点におけるアーカイブ。 2020年5月8日閲覧。
[5]^ a b “西武線沿線 駅ナカ・駅チカ商業施設「Emio狭山市」6月8日(水)オープン!!” (日本語) (PDF) (プレスリリース), 西武プロパティーズ, (2011年5月18日), オリジナルの2011年8月13日時点におけるアーカイブ。 2020年5月8日閲覧。
[6]^ 2011年時点では新所沢駅から臨時直通電車を運転することで対応している。
8 出典
私鉄の1日平均利用客数
 1^ 駅別乗降人員(2020年度1日平均) (PDF) - 西武鉄道
私鉄の統計データ
1^ 統計さやま - 狭山市
2^ レポート - 関東交通広告協議会
3^ 埼玉県統計年鑑 - 埼玉県
埼玉県統計年鑑
最終更新 2021年10月11日 (月) 13:11 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


●入間川町
入間川町(いるまがわまち)は埼玉県の南西部、入間郡に属していた町。

入間川町 いるまがわまち
廃止日 1954年7月1日
廃止理由 新設合併
入間川町、入間村、堀兼村、奥富村、柏原村、水富村 → 狭山市
現在の自治体 狭山市
 廃止時点のデータ
国 日本
地方 関東地方
都道府県 埼玉県
郡 入間郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
総人口 11,963人(国勢調査、1950年10月1日)
隣接自治体 入間村、堀兼村、奥富村、柏原村、水富村、豊岡町
 入間川町役場
所在地 埼玉県入間郡入間川町
座標 北緯35度51分11秒 東経139度24分44秒

1 地理 河川:入間川
2 歴史
・1889年(明治22年)4月1日 町村制施行により、以前の入間川村を継承し入間郡入間川村が成立する。
・1891年(明治24年)8月14日 入間川村が町制施行し入間川町となる。
・1954年(昭和29年)7月1日 入間村、堀兼村、奥富村、柏原村、水富村と合併し狭山市を新設する

4 交通
4.1 鉄道 西武鉄道 新宿線:入間川駅
最終更新 2021年6月4日 (金) 13:54 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


●狭山市
 狭山市(さやまし)は、埼玉県の南西部に位置する市。
 人口は約15万人で、久喜市に次ぐ県内12位。

狭山市 さやまし
国 日本
地方 関東地方
都道府県 埼玉県
市町村コード 11215-1
法人番号 4000020112151
面積 48.99km2
総人口 148,345人 (推計人口、2021年10月1日)
人口密度 3,028人/km2
隣接自治体 入間市・川越市・所沢市・飯能市・日高市
市の木 茶の木
市の花 ツツジ
市の鳥 オナガ
 狭山市役所
所在地 〒350-1380
埼玉県狭山市入間川一丁目23番5号
北緯35度51分10.7秒 東経139度24分43.9秒

1 概要
 市域を西武鉄道の二路線が通る。1960年代以降東京郊外のベッドタウンとなり人口が急増した。近年では高度成長期に移り住んできた市民の高齢化(少子高齢化[2])が進む一方で、新規転入者は減少している。都心回帰現象の影響が大きい。2005年国勢調査では鳥取県を上回る社会人口減少率を記録した。2012年、西武新宿線狭山市駅西口地区再開発整備事業が完了した。航空自衛隊の入間基地は市役所の南に位置し、9割が狭山市域にある(1割は入間市域)。

2 地理・気候
 市域の南西(入間・飯能方面)から北東(川越方面)にかけて一級河川の入間川が流れる。流域は沖積層の低地帯が広がっている。市の中心となる地域にも入間川という住所(旧入間川町の名残り)がついており、この川は街のシンボルにもなっている。
 入間川両岸には河岸段丘が形成されており、右岸は武蔵野台地、左岸は入間台地と呼ばれる台地からなっており、狭山市はその二つの台地上に属する。どちらの台地も洪積層からなり、比較的平坦である。
 市街地は、おもに国道16号と西武新宿線を軸として形成されている。市名の由来である「狭山茶」の茶畑は、入曽・堀兼地区に多い(なお、市名の由来ではあるものの、隣の入間市の方が生産量は多い)。また、奥富地区には田圃も多く見られる。
 周りに遮蔽物が少ないようなところでは、北方に日光・那須、西方に秩父の各連山、西南方には、はるかに富士山を遠望することができる。
 隣接している自治体は、入間市、川越市、所沢市、飯能市、日高市。
 気候は温暖湿潤であるが、同じ県内西部の秩父や鳩山ほどではないものの県南東部(さいたま市など)よりも内陸性の特徴を持ち、最高気温は39.0℃、最低気温は-5.3℃と寒暖差が大きい。年間平均気温は15.2℃で、夏季は高温多湿、冬季は低温乾燥の傾向にある。また、年間総雨量は1260mmである。
・河川: 入間川、不老川

3 歴史
古代 - 武蔵国入間郡に属する。
716年(霊亀2年)- 新たに高麗郡が設置される。中世以降、入間川西岸の一部地区が高麗郡に属する。
中世 - 入間川宿が鎌倉街道上道の宿場町として栄える。鎌倉街道上道は入間川宿で上野国方面と下野国方面に分岐していた。
1353年 (正平8年/分和2年) - 鎌倉公方足利基氏が上杉氏勢力に対抗するため、一時的に鎌倉府を入間川の入間川御陣(現在の徳林寺付近)に設置する。
近世 - 川越藩領や天領となる。天領は旗本知行地として旗本小笠原氏の所領となっていた。
近世中期 - 武蔵野の新田開発により三富新田などとともに不老川流域が開墾され、入間・堀兼の住民が増える。
1868年(慶応4年)7月12日(旧暦5月23日) - 渋沢成一郎の率いる振武軍と新政府軍が笹井河原で交戦。飯能戦争の発端となった[3][4]。
1894年(明治27年) - 川越鉄道が開通。入間川駅(現・狭山市駅)・入曽駅開業。
1933年(昭和8年) - 武蔵野鉄道稲荷山公園駅が開業。
1938年(昭和13年) - 陸軍航空士官学校(現入間基地)が開設。
1945年(昭和20年) - 戦後進駐軍に接収され「ジョンソン基地」になる。
1954年(昭和29年)7月1日 - 入間郡入間川町・入間村・堀兼村・奥富村・柏原村・水富村が合併し、狭山市となる。合併当時の人口は31,030人[5]。
1963年(昭和38年) ジョンソン基地が返還され、航空自衛隊入間基地となる。
1960年代から、市内の工場・宅地開発が進み、人口が急速に増加する。
1964年(昭和39年) - 新狭山駅が開業。
1966年(昭和41年) - 川越狭山工業団地が完成。
1970年(昭和45年) - 日本住宅公団(現:都市再生機構)狭山台団地の造成開始。
1973年(昭和48年) - 狭山工業団地が完成。
1975年(昭和50年) - 日本住宅公団狭山台団地が完成、入居開始。

3.1 市名の由来
 狭山丘陵及び市内の特産物「狭山茶」に由来する。狭山市域に狭山丘陵は含まれていない。
 「狭山」という地名の由来自体は判然としない。江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』では狭山丘陵そのものを「狭山」と称しており、「狭山」という表現を地域呼称ではなく山の名称の如く用いている[8]。

3.2 入間市との合併構想
 この構想は、かつての入間川町と豊岡町の合併構想にまで遡るものである。戦中の1943年(昭和18年)には2町と入間村、堀兼村、奥富村、柏原村、水富村、藤沢村(現在は入間市)、東金子村(現在は入間市)の7村による合併が内定(新市名は「入間市」)したが3ヶ月で頓挫[9]、戦後の昭和の大合併が進展していた時期には現在の狭山市・入間市域に所在した町村全部を一つの市にまとめるという合併構想があり、埼玉県も推進していた。またこれとは別に、江戸時代の武蔵野の新田開発によって開墾されたという共通の歴史を持ち、いずれも不老川流域にあたる入間村、堀兼村、宮寺村(現在は入間市)、藤沢村(現在は入間市)の4村が「農業都市」として合併し、将来的には共に境を接する所沢市(隣接地域は同じく共通の歴史を持つ三富新田にあたる)への編入をも計画するという動きも見られた。しかし西武鉄道路線やバス路線・道路など交通事情との関わりもあり、結局関係が最も深かった町村がまとまって現在の形に落ち着き、狭山市市政施行後は合併構想が提起されることは少なくなっていた。しかし平成の大合併の流れを受け、2000年頃から入間市との合併が協議され、2006年1月1日に合併の予定となった(新市名は「狭山市」)。しかし2005年1月30日に行われた住民投票で合併反対が多数となり、一方の入間市でも住民へのアンケートで合併反対が多数となったため、合併協議会は解散した。

5 地域
5.1 町名
5.1.1 「入曽」の地区名称について
 2009年4月1日、合併前の旧村名「入間村」に由来する名称「入間地区」より改めた。入間市との混同を避けるとともに、駅名とあわせ分かりやすくするため。以前から仲川市長が改称を提起しており、2008年には狭山市入間地区自治会連合会から要望書の提出もあった。市側の改称を受け、民間でも改称の動きが広がり、JAいるま野農業協同組合入間支店が2009年12月、村政時代以来の「入間農協」に由来する支店名を改め、「入曽支店」に名称変更している。2011年3月には狭山市立入間小学校が閉校となり、以後入曽地区内で村政以来の「入間」の呼称を残す公共施設・機関名は狭山市立入間中学校のみとなっていたが、同中学校も2015年3月に閉校した。また民間では入曽駅近くの旧入間村役場跡地に店舗を構えるAコープが現在も「入間店」(2016年4月より「JAファーマーズ入間」)を称している。同店舗駐車場脇には入間村政を記念する「入間村の碑」が狭山市史編纂委員会と住民有志によって建立されているほか、1915年11月の大正天皇即位礼を祝して村民により植えられたイチョウの木が大木となって記念碑「銀杏の碑」とともに現存しており、その歴史を伝えている。
6 行政
 長らく地方交付税交付金不交付団体であり[10]、市財政には余裕がある[11]。高齢化と人口減少の影響による市税収入の減少から2010年代以降は近隣の川越市・入間市・所沢市等の自治体とともに地方交付税交付金交付団体に移行しているものの、なおも健全財政を維持している。市内に進出した本田技研工業を始めとする企業の工場・事業所から納入される固定資産税収入と、敷地の9割が狭山市域にある航空自衛隊入間基地が置かれていることによる国有提供施設等所在市町村助成交付金(基地交付金)及び施設等所在市町村調整交付金(調整交付金)、更に特定防衛施設周辺整備調整交付金(防衛省補助金)が主要な財源である。
 本田技研工業の企業城下町として知られ、1987年4月以来、市議会には同社労働組合の組織内議員1名がいる。ただ業種の異なるロッテ、コーセーなど別の大企業の工場も進出しており、航空自衛隊入間基地勤務の自衛官も多数在住していることから、本田技研工業一社が市の命運を握るほどの影響力を有しているわけではなく、茨城県日立市や愛知県豊田市のように市民の相当数が一企業グループに関わっているといった状況にはない。また市議会においても、本田技研工業労働組合に先立つ1975年4月からコーセー労働組合推薦の市議会議員1名が議席を維持していた[12]。また他の首都圏ベッドタウン同様、農業は衰退傾向にあるものの、農産物に特産物があるため農業関係者の存在も大きく、前市長は「狭山茶」の製造販売業を営む人物であった。
 市役所、市民会館や総合体育館などは立派な造りとなっており、また市内には所沢市や川越市等にあるドッグラン等のペット共生施設公園等は無いが、動物園や体育館併設の多目的公園の智光山公園や狭山稲荷山公園をはじめとするたくさんの公園が整備されている。入間川河川敷には川越市とともに川越狭山自転車道路(サイクリングロード)と広大な公園が整備されており、多くの市民にとって憩いの場となっている。
 市役所の公式サイトとしては異例の公式モバイル版サイトを全国市町村に先駆け開設し、その取り組みが新聞などにも取り上げられた。2006年、狭山市は「携帯電話を活用した情報配信の取り組み」により、「平成18年度地域づくり総務大臣表彰」(情報化部門)を受賞した。狭山市では既に2001年から市消防本部が地元消防団員を対象に市内の災害情報を携帯電話のメールで伝達していたが、2007年2月からはこのシステムを全市民に拡大し、希望者に対し携帯メールで市内の災害情報を配信する新規事業を開始した。市の公式Twitterも早期に開設しており、2014年8月から公式ツイッターに大雨・洪水・地震などの気象情報を自動更新して配信する機能を追加、24時間運用を開始した[13]。熊谷地方気象台から出された警報等の最新情報を自動的にツイッター用の短文に変換し、配信する。公式ツイッターにこうした機能を付加した地方公共団体は西日本では数例見られるが、東日本の自治体では初めてとなる。
 2008年2月、新たな人口増及び少子化対策・子育て支援の一環として、市はこれまで未就学児童を対象に行っていた所得制限・費用上限無しの医療費助成の対象年齢を中学校3年生まで引き上げる方針を明らかにした[14]。まず2008年10月に小学校3年生までに適用範囲を広げた後、2011年度までに中学校3年生へと段階的に拡大する。これにより今後狭山市では中学卒業時まで入院・通院とも保険診療の医療費は無料となった。また2008年10月から医療機関での窓口払いも廃止された。この施策は比較的余裕がある市の財源を市民に還元する目的もある。またこの施策は埼玉県内の他の市町村にも影響を及ぼし、現在県内32自治体が同様ないしは類似の政策を実施・計画するに至っている。

8 経済
8.1 工業
 川越狭山と狭山の2つの工業団地があり、オデッセイやレジェンド[32]などを製造する本田技研工業 (ホンダ)の埼玉製作所を筆頭に、製造品出荷額県下1位と埼玉県一の工業都市となっている。
 市制施行時は特産物「狭山茶」により農業都市というイメージが強かったが、市政施行後の1955年(昭和30年)12月「狭山市工場誘致条例」を制定し、積極的に企業誘致を行った。翌年9月には工場誘致第1号として日本クロス工業(現在のダイニック)が進出[33]。以後工場誘致は順調に進み、市内各地に大企業の大型工場が進出した。1966年(昭和41年)に川越狭山工業団地、1973年(昭和48年)には狭山工業団地が相次いで完成。2つの大型工業団地を有する工業都市へと変貌した。1982年(昭和57年)以降現在まで製造品出荷額埼玉県内第1位となっており、県内最大の工業都市となっている。企業誘致は現在も行っている。首都圏中央連絡自動車道狭山日高インターチェンジの開設と埼玉県道126号所沢堀兼狭山線の全線開通を受け、2015年、狭山工業団地の2地区(東地区(柏原北)と西地区(上広瀬))の拡張と土地区画整理事業実施が決まった。
 ・川越狭山工業団地 - 本田技研工業埼玉製作所、ロッテ狭山工場、住友電装狭山工場、全酪(ジャパンミルクネット)狭山工場、紀文フードケミファ埼玉工場・新埼玉工場、工進精工所・狭山工場など
 ・狭山工業団地 - 小岩井乳業東京工場、大日本印刷狭山工場、鷺宮製作所狭山事業所、八千代工業本社・柏原工場など。倉庫や配送・物流センターなども立地。
 ・コーセー狭山工場・入曽工場、入間川ゴム本社工場、シチズンマイクロ本社工場、山本製作所入間川事業所

8.2 農業
 JA・いるま野農業協同組合管内である。地物の野菜が市内のスーパーの店頭に並んでいることも多いが農業は衰退している。
 入曽駅近くに埼玉県内の狭山茶生産地域全域を管内とする狭山茶業農業協同組合があり、生産者約280名が加盟している。
・狭山茶
茶は隣接する入間市などと共通の名産である。主産地は入間市。狭山市内では入曽・堀兼地区が主要産地であるが、茶畑は減少傾向にある。長らく入間市に次ぐ生産高を維持していたものの、1990年代以降は所沢市とほぼ同程度の数値となり、2000年代以降は所沢市の生産高をも下回るようになっている。
・さといも
隣接する入間市や所沢市などと共通の名産。さといもをつくっている農家はかなり減少しているが、高級品として扱われており、東京や京都の高級料亭で使われる。ただ地元ではあまり知られていない。
・入間ごぼう
主産地は狭山市。かつては東京から京都・大阪まで広く出荷された特産物であったが現在作付面積は大幅に減少している。
・入間にんじん
かつては非常に多く出荷されたが現在作付面積は大幅に減少している。
・観光ぶどう園
入曽地区を中心に市内に点在。手軽なレジャーやイベント・学校の遠足などで利用されている。
18 脚注
最終更新 2021年11月20日 (土) 23:23 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
以上 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


≪くだめぎ?≫
 「入間川宿」が入間川村、そして明治の町村制施行でも単独でもそのまま成立、1891年(明治24年)8月に入間川村が町制施行し入間川町となる。
 後に記するが、1889年(明治22)4月の市制・町村制施行時には隣の豊岡町(現入間市)が成立しているが、村の連合体・合併で出来たモノで、現在の入間基地を挟んで東西に"町"が同時期に誕生した様なものである。
 そもそも、入間基地を地図で見ると「入間川」と記載されている。周りが"入間川4丁目"など新しそうな住所だ、「入間郡入間川町」時代のままなのか。『入間川宿』が大きく見えてくる。
Posted at 2021/12/01 19:03:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | 都道府県区市町村 | 旅行/地域
2021年12月01日 イイね!

『埼玉県高麗郡 元加治村(もとかじむら)』

『埼玉県高麗郡 元加治村(もとかじむら)』●元加治駅
 元加治駅(もとかじえき)は、埼玉県入間市野田にある、西武鉄道池袋線の駅である。
 敷地は入間市と飯能市にまたがっている
[写真・画像] 駅前広場から見た駅舎(2016年7月)

1 年表
 前身は1918年開業の加治荷扱所(貨物駅)で、1926年に旅客も扱う一般駅として営業を開始した。西武鉄道の会社要覧では旅客営業を開始した1926年4月3日を開業日としている[1]。
 なお、昭和2年版の鉄道省『鉄道停車場一覧』では荷扱所として開業した1918年11月12日を開業日としている[2]。また、「地方鉄道駅設置並駅名改称」『官報』1926年4月6日(国立国会図書館デジタル化資料)では元加治駅営業開始を武蔵藤沢駅と「同時に」としている(武蔵藤沢駅の開業日は1926年4月1日である)
1.1 年表
・1918年(大正7年)11月12日 - 加治荷扱所開業[3]。
・1919年(大正8年)9月15日 - 岩沢荷扱所に改称[4]。
・1926年(大正15年)4月3日 - 荷扱所から一般駅に変更して元加治駅開業[1]
・1990年(平成2年)6月9日 - 新駅舎使用開始[5]。
・1999年(平成11年)1月21日 - 無人駅化。飯能駅で管理していた。2009年に再び有人駅化されるまで西武鉄道の中で、また東京地下鉄(東京メトロ)の車両が停車する唯一の無人駅だった。
・2009年(平成21年)8月16日 - 再び有人駅化。各種割引きっぷの発売も開始した。一部の駅業務は飯能駅で行われている。
・2010年(平成22年)
 ・2月2日 - お客様案内カウンターと多機能トイレの使用を開始。改修工事をしていたトイレが使用開始となり、北口改札付近(現在地)に移動[6]。
 ・2月10日 - 跨線橋部分のエレベーターの供用を開始。一連のバリアフリー化工事が終了[6]。

4 駅周辺
民間交番「防犯パトロールステーション」 - 入間市内の自治会や防犯関係諸団体の拠点として設けられた公共施設。
駿河台大学 - 当駅と飯能駅からスクールバスが運行されている。駅南側に、同大学専用のバス乗り場がある。バス乗り場までは駅北側の改札を出てから所沢方面の踏切までぐるっと回って移動する必要がある。
円照寺 - 1205年から、駅のすぐ南側の入間川左岸上にある。国指定重要文化財の板碑を所蔵する。
阿須運動公園(飯能市民球場を含む)
あけぼの子どもの森公園
カインズ飯能店
入間川橋梁 - 隣には旧入間川橋梁がある。西武鉄道で一番長い橋梁である。
飯能岩沢郵便局
飯能信用金庫 加治支店
駿河台大学のバス乗り場付近から入間川まで、かつて砂利運搬用の引き込み線が伸びていた。廃線跡は道路になっている

5 隣の駅
西武鉄道・池袋線 仏子駅 (SI24) - 元加治駅 (SI25) - 飯能駅 (SI26)

6 脚注
[1]^ a b 会社要覧 駅一覧 (PDF)
[2]^ 鉄道省『鉄道停車場一覧 昭和2年版』
[3]^ 「軽便鉄道荷扱所設置」『官報』1918年11月19日(国立国会図書館デジタル化資料)
[4]^ 「地方鉄道荷扱所名改称」『官報』1919年9月18日(国立国会図書館デジタル化資料)
[5]^ 『会社要覧』西武鉄道株式会社、1999年、100-103頁
[6]^ a b “2月10日(水)正午より元加治駅エレベーターを使用開始します 〜駅出入口からホームまでの通路がバリアフリー化され“人にやさしい駅”になります〜” (日本語) (PDF) (プレスリリース), 西武鉄道, (2010年2月4日), オリジナルの2016年3月9日時点におけるアーカイブ。 2020年6月21日閲覧。
[7]^ a b c 元加治駅 駅構内マップ - 西武鉄道
[8]^ 駅別乗降人員(2020年度1日平均) (PDF) - 西武鉄道
[9]^ 入間市統計書 - 入間市
[10]^ レポート - 関東交通広告協議会
[11]^ 埼玉県統計年鑑 - 埼玉県
[12]^ “「駅別乗降人員(一日平均)の推移」No.1 2001年度〜2005年度・池袋線・西武秩父線・西武有楽町線・豊島線・狭山線・山口線 (PDF)” (日本語). 西武鉄道. 2011年11月2日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2021年7月30日閲覧。
[13]^ a b c d e “「駅別乗降人員(一日平均)の推移」No.1 2002年度〜2006年度・池袋線・西武秩父線・西武有楽町線・豊島線・狭山線・山口線 (PDF)” (日本語). 西武鉄道. 2012年11月1日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2021年7月30日閲覧。
[14]^ 駅別乗降人員 2009(平成21)年度 1日平均 (PDF) [リンク切れ] - 西武鉄道

7 出典 埼玉県統計年鑑
最終更新 2021年7月30日 (金) 11:15 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


●元加治村
 元加治村(もとかじむら)は埼玉県の南西部、入間郡に属していた村。当初は高麗郡所属であった。

1 地理 河川:入間川
2 歴史
・1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、野田村、仏子村が合併し高麗郡元加治村が成立する。
・1896年(明治29年)4月1日 - 高麗郡が入間郡と統合し入間郡となる。
・1943年(昭和18年)4月1日 - 飯能町、精明村、加治村、南高麗村と合併し入間郡飯能町を新設する。
・1954年1月1日 - 飯能町の市制施行に伴い、旧村域が飯能市の一部となる。
・1954年(昭和23年)4月1日 - 旧村域の部分が東金子村に編入、同日町制施行し西武町の一部となる。
・1956年(昭和31年)9月30日 町の一部(旧東金子村)が1町3村と合併し武蔵町を新設するが、旧元加治村は西武町のまま残る。
・1967年(昭和42年)4月1日 - 西武町が入間市に編入される

3.1 鉄道
・武蔵野鉄道(現:西武鉄道)
・武蔵野線(現:池袋線):仏子駅 - 元加治駅
最終更新 2021年6月9日 (水) 11:13 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


●高麗郡
 高麗郡(こまぐん)は、埼玉県(武蔵国)にあった郡

1 郡域
・日高市(全域)
・鶴ヶ島市(全域)
・川越市(入間川以西)
・狭山市(同上)
・入間市(大字野田、仏子、新光)
・飯能市(大字坂石、坂石町分、南、南川、北川、高山、坂元、上名栗、下名栗を除く全域)

2 歴史
 716年、朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗から渡来系移民1,799人を武蔵国の一部に移し、高麗郡を設置したとされる[1]。初代郡司は高麗若光で、666年に高麗の副使として天智天皇に貢ぎ物を捧げている[2]。
 設置時の郡域は現在の日高市と飯能市のそれぞれ一部であり、律令制下では小郡に分類されていた。『倭名類聚抄』には高麗郷(現在の日高市高麗本郷付近)・上総郷(現在の飯能市北東部)の二郷の名が記されている。郷名から高麗郷には旧高句麗の遺民(国が滅びて残った民)が、上総郷には上総国からの移民が配置されたものと考えられている。
 中世以降郡域が東側の入間郡・比企郡方面に拡大し、江戸時代には現在の鶴ヶ島市全域・日高市のほぼ全域および飯能市の東半分、川越市・狭山市・入間市のそれぞれ北西側の一部を含む地域となり、入間川が入間郡との境界となっていた。
 廃藩置県後に行われた全国的な府県統合に伴い入間県→熊谷県→埼玉県と所属を変え、1878年(明治11年)7月22日、郡区町村編制法制定に伴い、行政区域としての高麗郡が誕生した。高麗郡役所は郡の中心地であった飯能町ではなく、入間郡と共同で川越町に置かれていた。1896年(明治29年)3月29日、郡制の施行のため入間郡に編入されて消滅した。

5 脚注
[1]^ 経済雑誌社編『国史大系 第2巻 続日本紀』経済雑誌社、1897年、pp.98-99、『続日本紀 巻7』1657年刊行
[2]^ 日本書紀巻第廿七『五年春正月戊辰朔戊寅、高麗遣前部能婁等進調。(中略) 冬十月甲午朔己未、高麗遣臣乙相奄𨛃等進調。大使臣乙相奄𨛃・副使達相遁・二位玄武若光等。是冬、京都之鼠、向近江移。以百濟男女二千餘人、居于東國。凡不擇緇素、起癸亥年至于三歲、並賜官食。倭漢沙門智由、獻指南車。』とある。天智天皇の三年(663年)に起きた白村江の戦い後にあたる。但し、同一人物か襲名した後継者かは確認されていない。
[3]^ a b 「旧高旧領取調帳」では入間郡の所属となっているが、ここでは「角川日本地名大辞典」に準じた。
[4]^ 記載は「上大谷沢村」。
[5]^ 記載は「上知鹿山村」。
[6]^ 記載は「向郷中沢大谷沢」。
[7]^ 両陛下が埼玉へ私的旅行 日高の高麗神社、見頃のヒガンバナを見て回られる 大勢の市民ら歓迎 - 埼玉新聞 2017年09月20日

6 参考文献
・『角川日本地名大辞典』11 埼玉県、「角川日本地名大辞典」編纂委員会、角川書店、1980年7月1日。ISBN 4040011104。
・旧高旧領取調帳データベース
・高麗郡建郡1300年記念事業 〜渡来から未来へ〜一般社団法人 高麗1300
・埼玉県立歴史と民俗の博物館編 『高麗郡 (Komagun) 一三〇〇年 : 物と語り : 渡来人の軌跡をたどる : 特別展』 埼玉県立歴史と民俗の博物館、2016年。 NCID BB22011464。

7 関連項目
高麗神社
高麗川
高麗駅
高麗川駅
新座郡 - 古くは新羅郡と称されていた。
日朝関係史
最終更新 2021年9月6日 (月) 07:54 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


●西武町 (東金子村から転送)
 西武町(せいぶまち)は埼玉県の南西部、入間郡に属していた町。現在の入間市、西武地区付近にあたる。
 農業のほか手芸用レースを初めとする繊維産業が盛んな町であった[1]。現在も入間市立西武公民館や入間市立西武小学校などにその名をのこす。

西武町 せいぶまち
廃止日 1967年4月1日
廃止理由 編入合併
西武町 → 入間市
現在の自治体 入間市
 廃止時点のデータ
国 日本
地方 関東地方
都道府県 埼玉県
郡 入間郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
総人口 7,218人(国勢調査、1965年)
隣接自治体 飯能市、狭山市、入間市
 西武町役場
所在地 埼玉県入間郡西武町大字野田
座標 北緯35度50分29秒 東経139度21分13秒

1 地理 河川:入間川、霞川

2 歴史
1889年(明治22年)4月1日 町村制施行により、小谷田村、新久村が合併し入間郡東金子村が成立する[2]。
1954年(昭和29年)4月1日 前年施行された町村合併促進法により、飯能市の一部(野田、仏子、新光の一部)を編入、町制施行、即日改称し西武町となる[3][1]。 町役場を大字仏子に設置。町名は旧武蔵国の西部にあたることによる[4]。
1956年(昭和31年)9月30日 町の一部(旧東金子村)が豊岡町、金子村、宮寺村、藤沢村と合併し武蔵町を新設する[3]。これにより町の面積は4.66 km2となり、埼玉県で最小の自治体となった[4]。
1967年(昭和42年)4月1日 入間市へ編入する。

3 交通
3.1 鉄道  西武鉄道 池袋線:仏子駅 - 元加治駅
4 脚注
[1]^ a b 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』509-510頁。
[2]^ 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』712頁。
[3]^ a b 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』1422-1423頁。
[4]^ a b 今尾恵介『『地図から消えた地名』』東京堂出版、2008年12月30日、59頁。ISBN 978-4-490-20645-6。
5 参考文献
・「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』角川書店、1980年7月8日。ISBN 4040011104。
最終更新 2021年9月22日 (水) 23:47 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
上記すべて 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


≪くだめぎ?≫
 1943年(昭和18年)4月に戦時町村合併促進法により「飯能町」(現飯能市)になった自治体である。
 1954年(昭和29年)1月市制施行時にも飯能市内であったが、同年4月旧村域の部分が東金子村に編入、同日町制施行し西武町の一部となった。
 1896年(明治29年)4月に高麗郡が入間郡と統合されているので、『入間郡』内部の話であるが、当時の飯能市は高麗郡域であり、郡の移籍・境界変更である。
 1956年(昭和31年)9月30日 町の一部(旧東金子村)が1町3村と合併し武蔵町(現入間市)を新設するが、旧元加治村は西武町のまま残る。
西武町 = 旧元加治村、となる。
 1967年(昭和42年)4月1日 入間市へ編入する。西武町を名乗ったのは元加治村が長かった?ことになる。
Posted at 2021/12/01 17:00:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 都道府県区市町村 | 旅行/地域

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