
◇東伏見駅
東伏見駅(ひがしふしみえき)は、東京都西東京市東伏見二丁目にある、西武鉄道新宿線の駅。駅番号はSS15。
ひがしふしみ Higashi-Fushimi
◄SS14 武蔵関 (1.2 km)
(1.0 km) 西武柳沢 SS16►
所在地 東京都西東京市東伏見二丁目5-1
北緯35度43分43.3秒 東経139度33分51.3秒
所属事業者 西武鉄道所属路線 ■新宿線 駅番号 SS15
キロ程 15.3 km(西武新宿起点)
駅構造 地上駅(橋上駅) ホーム 2面4線
乗降人員-統計年度- 17,179人/日-2020年-
開業年月日 1927年(昭和2年)4月16日
備考 ホーム有効長は10両編成分。
1 歴史
西武鉄道の
上保谷の開発計画は早稲田大学の誘致運動に始まる。まだ鉄道も開通していない1925年(大正14年)、西武鉄道(旧)は早稲田大学に対して上保谷に所有していた土地約2,500坪の寄付の申し出をし、その土地を大学は総合運動場として各体育部に利用させることに成功した。
さらに1927年(昭和2年)に上保谷(東伏見)駅が開業すると同時に分譲地の販売を開始した。分譲地は1区画100坪から300坪の間で3年 - 10年の月賦払いで販売し、入居してから1年間は鉄道の無料パスを進呈したという。なお、ここは長者園と呼ばれていた。
そして次に行ったのが伏見稲荷神社の勧請である。東伏見稲荷神社には西武鉄道所有の約7,000坪の土地の無償貸与と移転にかかる費用のうち3万円を提供し、御祭神には貴賓車を仕立てた特別列車を運行した。
西隣の西武柳沢駅と比較してみると、1928年(昭和3年)度は18,840人と28,335人で西武柳沢駅の方が多かったが、1929年(昭和4年)度以降は東伏見駅が逆転し、1933年(昭和8年)度には113,860人と22,631人になっている。
1.1 年表
・1927年(昭和2年)4月16日 - 上保谷駅として開業。
・1929年(昭和4年)11月20日 - 東伏見稲荷神社の設立により、東伏見駅に駅名を変更。
・1983年(昭和58年)3月24日 - 島式ホーム2面3線を島式ホーム2面4線に変更。同日、橋上駅舎使用開始[1]。
・1993年(平成5年)6月11日 - 自動改札機の使用を開始。
・2003年(平成15年)9月30日 - バリアフリー化完成[2]。
・2012年(平成24年)6月30日 - ダイヤ改正による見直しで昼間時間帯の準急廃止に伴い、優等列車はデータイム通過駅となる
2 駅構造
島式ホーム2面4線の地上駅で橋上駅舎を有している。外側2線(1番・4番ホーム)が待避線となっている。元々は田無駅と同様に、上下線の間に待避線1線を設けた2面3線の形態であった。待避線では各停・準急・回送が上位優等列車の通過を待避し、緩急接続はしない。
各ホームと改札内コンコース、南口・北口地上部と改札外コンコースをそれぞれ連絡するエスカレーター・エレベーターが設置されている。トイレは改札内コンコース部にあり、多機能トイレを併設する。
構内店舗としてコンコース部にTOMONY[3]、ゆうちょ銀行ATM[4]があり、南口地上部にはクリーニング店がある[5]。
駅の高架化計画があり、高架化後も島式ホーム2面4線となる予定[6]。
2.1 のりば
ホーム 路線 方向 行先
1・2 新宿線 下り 所沢・本川越・拝島方面
3・4 〃 上り 高田馬場・西武新宿方面
3 利用状況
2020年(令和2年)度の1日平均乗降人員は17,179人であり、西武鉄道全92駅中46位[7]。練馬区と西東京市の市区境付近に立地するために、練馬区側からの利用もある。
4 駅周辺
「東伏見」および「関町北」も参照
駅周辺はおおむね閑静な住宅街である。大規模なマンションは立地していないが、2000年代以降はITなどのインフラを整備した学生向けアパートの建設も進んでいる。また、かつてのSEIBUプリンス ラビッツの本拠地として、地元商店街はのぼりなどで応援している。
4.1 北口
4.2 南口
4.3 バス路線
4.3.1 北口
西東京市東伏見ふれあいプラザ
保谷富士町郵便局
新青梅街道(東京都道245号杉並田無線)
富士街道(東京都道8号千代田練馬田無線)
きらぼし銀行 東伏見・保谷支店
東京三協信用金庫 東伏見支店
4.3.2 南口
東伏見稲荷神社 - 京都府の伏見稲荷大社の分祀。
ダイドードリンコアイスアリーナ(東伏見アイスアリーナ)
武蔵関公園
都立東伏見公園
下野谷遺跡公園
石神井川
早稲田大学 東伏見キャンパス・東伏見グラウンド・東伏見スポーツホール
NTT武蔵野研究開発センタ(通称:電気通信研究所)
青梅街道(東京都道4号東京所沢線・東京都道5号新宿青梅線)
田無警察署 東伏見交番
保谷東伏見郵便局
バス路線
西武バス(上石神井営業所、滝山営業所)と関東バス(武蔵野営業所)により運行される以下の路線が発着する。
かつては南口に武蔵境駅行きのバス(境01:西武バス)が朝夕に数本発着するのみだった。
北口
1番のりば
吉66:武蔵関駅入口経由 吉祥寺駅行き ※ 西武バス
保02:西武車庫行き ※ 西武バス
吉66・保02:保谷駅南口行き ※ 西武バス
西東京市はなバス第2ルート:保谷庁舎行き / 保谷庁舎経由 ひばりが丘駅行き ※西武バスが受託運行
2番のりば
鷹15:武蔵野営業所経由 三鷹駅行き(休日運休) ※ 関東バス
南口 西東京市はなバス第3ルート:田無駅行き ※ 西武バスが受託運行
5 隣の駅
西武鉄道 SS 新宿線
通過 ■拝島ライナー・■快速急行・■通勤急行・■急行
■準急・■各駅停車
武蔵関駅 (SS14) - 東伏見駅 (SS15) - 西武柳沢駅 (SS16)
6 脚注
[1]^ 『写真で見る西武鉄道100年』(ネコ・パブリッシング)97ページ
[2]^ “9月30日(火)東伏見駅のバリアフリー化完成 ◎エレベーター4基、エスカレーター4基、多機能トイレ1ヵ所を備えた“人にやさしい駅”となります。” (日本語) (PDF) (プレスリリース), 西武鉄道, (2003年9月29日), オリジナルの2005年2月12日時点におけるアーカイブ。 2022年3月26日閲覧。
[3]^ 販売店一覧 - 西武鉄道
[4]^ 本店 西武新宿線東伏見駅出張所 - 日本郵政「郵便局・ATMをさがす」
[5]^ 東伏見駅の店舗情報[リンク切れ] - 西武プロパティーズ
[6]^ 西武鉄道新宿線(井荻駅 - 西武柳沢駅間)連続立体交差化計画および関連する道路計画について (PDF) - 東京都都市整備局、p.5、2019年3月21日閲覧。
[7]^ 駅別乗降人員(2020年度1日平均) (PDF) - 西武鉄道
[8]^ 練馬区統計書 - 練馬区
[9]^ 統計書 - 西東京市
[10]^ レポート - 関東交通広告協議会
[11]^ 東京都統計年鑑 - 東京都
7 出典
東京都統計年鑑(平成2年~平成31年・令和元年)
8 参考文献
『保谷市史 通史編3 近現代』1989年、941-952頁
『保谷市史 史料編4 近現代2』1987年、510-514頁
9 関連項目
東伏見稲荷神社
都立東伏見公園
10 外部リンク 東伏見駅(駅情報) - 西武鉄道
最終更新 2022年3月26日 (土) 04:20 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
◇東伏見
東伏見(ひがしふしみ)は、東京都西東京市の町名。現行行政地名は東伏見一丁目から東伏見六丁目。住居表示実施済み区域である。郵便番号は202-0021[3]。
都道府県 東京都
市町村 西東京市、地域 保谷地域
設置年月日 2001年1月21日
住居表示実施年月日 1966年5月1日
面積[1]• 合計 0.66 km2
人口(2018年(平成30年)1月1日現在)[2]
• 合計 5,187人、• 密度 7,900人/km2
郵便番号 202-0021[3]、市外局番 042[4]
1 地理
西東京市の南東部に位置する。北は西武新宿線を挟んで富士町、東は練馬区関町北、南は武蔵野市緑町、西は柳沢に隣接する。北西から時計回りに東伏見一~六丁目が設置されている
1.1 河川・・
石神井川
1.4 地価
住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、東伏見3-2-19の地点で35万1000円/m2となっている。西東京市で最も地価が高い[6]。
2 歴史
明治以前には、武蔵国
新座郡上保谷村に属していた。旧保谷市地域である。
2.1 地名の由来
町内にある東伏見稲荷神社にちなむ[7]。なお、町名の案として、東伏見の他に「伏見町」「稲荷町」「伏見南町」が挙がっていた[8]。
2.2 沿革
・1966年(昭和41年)5月1日 保谷町が町名整理を実施。
大字上保谷の小字下柳沢(一部)、千駄山(一部)、下野谷、坂上、上柳沢(一部)に大字上保谷新田の小字坂上(一部)を合わせて東伏見が設置される。
・2001年(平成13年)1月21日 保谷市と田無市が合併して西東京市発足。西東京市東伏見となる。
3 交通
3.1 鉄道・・二丁目に西武新宿線東伏見駅がある。
3.2 バス・・地域内を西武バス・関東バス、及び西東京市コミュニティバス「はなバス」が通る。
3.3 道路
東京都道4号東京所沢線(青梅街道)
東京都道7号杉並あきる野線(五日市街道)
多摩南北道路1号線(調布保谷線)(伏見通り)
4 施設
教育
早稲田大学東伏見キャンパス
早稲田大学東伏見運動場
西東京市立東伏見小学校
その他
東伏見稲荷神社
東伏見アイスアリーナ
東伏見公園
5 史跡・・下野谷遺跡
6 関連項目
西東京市
上保谷村
7 参考文献
『角川日本地名大辞典 13.東京都』角川書店、1978年
『新旧対照町名 - 東京市町名沿革史 -』明治文献、1974年
8 脚注
[1]^ a b “平成22年 東京都区市町村町丁別報告”. 東京都 (2014年12月25日). 2018年1月22日閲覧。
[2]^ a b “人口・世帯数”. 西東京市 (2018年1月10日). 2018年1月15日閲覧。
[3]^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2018年1月15日閲覧。
[4]^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2018年1月15日閲覧。
[5]^ “市立小・中学校通学区域”. 西東京市 (2017年9月7日). 2018年1月15日閲覧。
[6]^ 国土交通省地価公示・都道府県地価調査
[7]^ 角川日本地名大辞典 13.東京都 P1133
[8]^ 保谷町広報第62号 1964年7月30日
9 外部リンク・・西東京市
最終更新 2022年4月26日 (火) 08:21 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
◇上保谷村
上保谷村(かみほうやむら)は、かつて埼玉県新座郡に存在した村。1889年(明治22年)、町村制施行に際して廃された。その後、旧村域は北足立郡を経て、東京府北多摩郡に編入されている。
現在の東京都西東京市東南部(住吉町、泉町、中町、富士町、保谷町、東伏見、柳沢、およびひばりが丘北、栄町の一部)に相当する。
1 地理
上保谷村は新川沿いに開けた集落である。新川の水量は少ないため、水田は少なく畑が多かった。
2 歴史
「保谷市」も参照
村の起源は明らかでないが、伝承では、1081年(永保元年)に新倉の住人板倉四郎左衛門のもと保谷・下田・岩崎・中村・野口・桜井の六氏(保谷六苗)により開発されたとされている[1]。初期の村域は現在の住吉町・泉町地域だったと考えられ、村の惣鎮守の尉殿権現(現尉殿神社)や保谷四軒寺と呼ばれる寺院もこの地域に集中している。
その後、享保期(1716年 - 1735年)以降に現在の新町の地域が開墾され、後に上保谷新田村として独立した。なお、江戸期、村は3つの組に分かれ、それぞれに名主と組頭を置き、村内の有力農民が交代でこれらの役に就いていた[2]。
2.1 年表
・1884年(明治17年)4月1日 - 連合戸長制施行。
上保谷村、下保谷村、上保谷新田村、小榑村、橋戸村の5箇村で保谷村連合となる。
・1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、明治の大合併が起こる。
上保谷村、下保谷村、上保谷新田村の3箇村が合併し、埼玉県新座郡保谷村が成立、上保谷村は消滅する。
小榑村と橋戸村の2箇村も合併し埼玉県新座郡榑橋村となる。
・1896年(明治29年)3月29日- 新座郡が北足立郡へ編入、保谷村も北足立郡の所属となる。
・1907年(明治40年)4月1日- 埼玉県北足立郡より東京府北多摩郡に移る。
・2001年(平成13年)1月21日- 保谷市と田無市が合併し、西東京市が発足する。
3 寺院・神社
尉殿神社 (上保谷村の惣鎮守、尉殿権現)
寳晃院
寶樹院
如意輪寺
東禅寺
4 史跡
下野谷遺跡 (旧石器時代、縄文時代の遺跡)
東伏見稲荷神社遺跡 (旧石器時代、縄文時代の遺跡)
5 脚注
[1]^ 東京都の地名 P1002
[2]^ 東京都の地名 P1005
6 参考文献
片桐譲『保谷の昔と村人たち』 1999年
下田五郎『田無・保谷の歴史』 2013年
『東京都の地名』平凡社、2002年
最終更新 2022年2月19日 (土) 08:51 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
以上 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
≪くだめぎ?≫
「消えた市町村名の謎」 八幡和郎著 2017年7月20日 イースト新書P135より
西武池袋線の保谷市と西武新宿線の田無市の合併は、保谷市が田無市を囲むように不自然な形状だったことがきっかけです。歴史的にこの地域を指す名称はなく、東京23区に隣接していることからついた名称です。保谷市は明治時代に埼玉県新座郡(にいくらぐん)から
東京府に編入されたもので、歴史的に見ると「西東京」では無理があります。・・
本来"保谷市"は「上保谷」「下保谷」の両ムラであるから新川流域であるが、上保谷村の石神井川流域が、天保6年(1835年)に上保谷村から分村され「上保谷新田」ムラとなった、比較的新しい。
1966年(昭和41年)5月1日 保谷町が町名整理を実施、"東伏見"、
1967年(昭和42年)1月1日 - 保谷町が市制を施行し保谷市となると同時に、町名整理を実施。上保谷新田の一部に上保谷の一部を合わせて柳沢が設置される(住居表示実施は同年5月1日)。
・上保谷新田の残存部をもって新町が設置され、同時に住居表示実施。
新町地区が
玉川上水に接していることから、埼玉県が東京に突き刺さり、「大東京市」と「多摩地区」を分けている存在だった、興味深い。