
田野畑村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋
田野畑村(たのはたむら)は、日本の岩手県下閉伊郡にある、太平洋に面した村である。
都道府県 岩手県
郡 下閉伊郡
市町村コード 03484-3
面積 156.19km2
総人口 2,925人 (推計人口、2022年9月1日)
人口密度 18.7人/km2
隣接自治体 下閉伊郡岩泉町、普代村
村の木 キリ
村の花 シロバナシャクナゲ
村の鳥 ヤマドリ
田野畑村役場
所在地 〒028-8407
岩手県下閉伊郡田野畑村田野畑143番地1
北緯39度55分50秒 東経141度53分20秒
1.地理
●自然
・北山崎断崖
・鵜ノ巣断崖
●隣接する市町村
同県内(下閉伊郡内)
・普代村 :北で隣接。
・岩泉町 :西から南にかけて幅広く隣接。
2.歴史
●行政区域の変遷(市町村制施行以後)
・1889年(明治22年)4月1日 :村制が施行され、旧・田野畑村、浜岩泉村、沼袋村が合併し、北閉伊郡田野畑村が成立。[9]
・1896年(明治29年)3月29日:北閉伊郡・中閉伊郡・東閉伊郡が合併して下閉伊郡となったことに伴い、田野畑村は下閉伊郡所属となる。
3.産業
農林水産業が盛んな地域である。酪農などの第一次産業が主産業である。特産品としてウニ、アワビ、ワカメ、マツタケ、山ぶどうなどのほか、牛乳、ヨーグルト、アイスクリームなどの乳製品がある。また漁船や観光船によるクルーズや海釣り、海水浴、ダイビング、キャンプ、トレッキング、収穫体験といった、体験型観光にも力を入れている。
4.交通
●鉄道 三陸鉄道
リアス線 : 島越駅 - 田野畑駅
中心となる駅 : 田野畑駅
島越駅ー田野畑駅間でハイペ沢橋梁を通過する。
●バス
田野畑村営バス:田野畑交通が運行。
岩手県北自動車:田野畑駅 - 小本間(実証運行中)
●道路 地域高規格道路
E45 三陸北縦貫道路
・岩泉道路 (下閉伊郡岩泉町)- (56) 鵜の巣断崖IC
・田野畑道路 (57) 田野畑南IC - (58) 田野畑中央IC
・尾肝要道路 (59) 田野畑北IC -(下閉伊郡普代村)
●道路 一般国道 国道45号
●道の駅 たのはた
●道路 県道 主要地方道
岩手県道44号岩泉平井賀普代線
●道路 県道 一般県道
岩手県道173号田野畑岩泉線
4.名所・旧跡・観光
三陸復興国立公園
北山崎
鵜の巣断崖
平井賀浜海水浴場
島越海水浴場
机浜番屋群 :未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選に選定されている。
津波石
畠山神社 - 源義経の討伐に差し向けられた畠山重忠の愛馬がこの地で脚を折って倒れ、それを祀った神社とされる。重忠のものとされる鐙が奉納されていた(現在は田野畑村民俗資料館に保管)[10]。祭神は鍬形八幡大明神。御神体が鍬であることから鍬形神社とも呼ばれ、農家の嫁に巻き付いた大蛇を鍬で打ち殺し、その鍬を祀るために神社を創建したという伝説もある[11]。
菅窪鹿踊・剣舞(県指定無形民俗文化財)- 伝承では、畠山重忠が田野畑村大芦に畠山神社を建立し、守護神「鍬形八幡大明神」を勧請するとともに鹿踊りを伝えたのが始まりで、数百年のちの嘉永5年(1852年)、大芦の一番の踊り手であった大工・常五郎が菅窪に移住して菅窪鹿踊を創始し、雷電神社の別当を代々務めた常五郎一族によって神社に奉納されるようになったという[11]。菅窪鹿踊の鹿頭は野生鹿を象っており、この特徴は田野畑村と四国宇和島だけと言われる。また、菅窪流は同一の踊組が鹿踊りから早替わりして剣舞を踊るという珍しい芸態をもっている[12]。
5.外部リンク
公式ウェブサイト
国土地理院、地形図閲覧システム
“ウォッちず 地図閲覧サービス”. (ウェブサイト). 国土地理院. 2011年4月7日閲覧。
“地形図閲覧システム 2万5千分1地形図名:田野畑(盛岡)”. (公式ウェブサイト). 国土地理院. 2011年4月7日閲覧。
“県内各市町村”. (公式ウェブサイト). 岩手県. 2011年4月18日閲覧。岩手県の市町村全図。
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最終更新 2022年9月25日 (日) 08:42 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
北閉伊郡
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北閉伊郡(きたへいぐん)は、岩手県にあった郡。
1.郡域
明治12年(1879年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下閉伊郡岩泉町・田野畑村・普代村にあたる。
2.歴史
2-1.郡発足までの沿革
・幕末時点では陸奥国に所属し、全域が盛岡藩領であった。「旧高旧領取調帳」に記載されている、閉伊郡のうち後の本郡域の明治初年時点での村は以下の通り。(25村)
下有芸村、上有芸村、釜津田村、大川村、浅内村、小本村、中里村、中島村、袰野村、乙茂村、猿沢村、鼠入村、尼額村、袰綿村、穴沢村、門村、浜岩泉村、田野畑村、沼袋村、岩泉村、二升石村、安家村、普代村、黒崎村、堀内村
・明治元年12月7日(1869年1月19日)
・陸奥国が分割され、本郡は陸中国の所属となる。
・盛岡藩が戊辰戦争後の処分により、領地を没収される。後の北閉伊郡全域が信濃松代藩取締地となり、盛岡県(第1次)を称する[1]。
・明治2年8月7日(1869年9月12日) - 盛岡県(第1次)の区域をもって江刺県を設置。
・明治4年11月2日(1871年12月13日) - 第1次府県統合により盛岡県(第3次)の管轄となる。
・明治5年1月8日(1872年2月16日) - 盛岡県(第3次)が岩手県に改称。
・明治9年(1876年) - 黒崎村・堀内村が普代村に合併。(23村)
・明治11年(1878年)11月26日 - 郡区町村編制法の岩手県での施行により、行政区画としての閉伊郡が発足。
2-2.郡発足以降の沿革
・明治12年(1879年)1月4日 - 閉伊郡が分割し、岩泉村ほか23村の区域をもって北閉伊郡が発足。郡役所が岩泉村に設置。
・明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により、以下の各村が発足。特記以外は現・下閉伊郡岩泉町。(8村)
小本村 ← 小本村、中里村、中島村、袰野村
田野畑村 ← 田野畑村、浜岩泉村、沼袋村(現・下閉伊郡田野畑村)
普代村 (単独村制。現・下閉伊郡普代村)
岩泉村 ← 岩泉村、尼額村、乙茂村、猿沢村、二升石村
有芸村 ← 上有芸村、下有芸村、鼠入村
安家村 (単独村制)
小川村 ← 穴沢村、門村、袰綿村
大川村 ← 大川村、浅内村、釜津田村
・明治30年(1897年)4月1日 - 郡制の施行により、北閉伊郡・東閉伊郡・中閉伊郡の区域をもって下閉伊郡が発足。同日北閉伊郡廃止。
3.脚注
[1]^ 明治元年12月23日(1869年2月4日)の「諸藩取締奥羽各県当分御規則」(法令全書通番明治元年太政官布告第1129)に従って設置された県だが、明治政府が権知県事を任命したわけではなく、そのため明治政府の公文書には全く記録が残っておらず、正式な県とは認められていない。
4.参考文献
「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編 『角川日本地名大辞典』 3 岩手県、角川書店、1985年2月7日。ISBN 4040010302。
5.関連項目
消滅した郡の一覧
東閉伊郡 西閉伊郡 南閉伊郡 中閉伊郡
最終更新 2021年8月15日 (日) 04:29 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
岩手県道44号岩泉平井賀普代線
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岩手県道44号岩泉平井賀普代線(いわてけんどう44ごう いわいずみひらいがふだいせん)は、岩手県下閉伊郡岩泉町乙茂から下閉伊郡普代村普代に至る県道(主要地方道)である。「陸中海岸シーサイドライン」の愛称がある。
岩手県道44号 岩泉平井賀普代線
主要地方道 岩泉平井賀普代線
実延長 38,254.9 m
制定年 1965年
起点 下閉伊郡岩泉町乙茂字三田市【北緯39度50分46.9秒 東経141度52分44.6秒】
主な経由都市 下閉伊郡田野畑村
終点 下閉伊郡普代村第13地割字普代【北緯40度0分18.5秒 東経141度53分0.9秒】
接続する主な道路
国道455号、国道45号
1.概要
三陸海岸北部の名称「北山崎」を通る観光道路的性格で、リアス式海岸の険しい地形に沿って通っている。なお、2006年度(平成18年度)より島越から大芦までのルートが、以前の浜岩泉 - 大芦間国道45号重複から切牛経由に変更され、浜岩泉経由の旧ルートは村道に指定替えされた。
1-1.路線データ
実延長:38,254.9m
起点:下閉伊郡岩泉町乙茂字三田市(国道455号交点)
終点:下閉伊郡普代村第13地割字普代(三陸鉄道リアス線 普代駅前、国道45号交点)
2.歴史
1965年(昭和40年)3月30日 - 県道に認定される。
1993年(平成5年)5月11日 - 建設省から主要地方道岩泉平井賀普代線の指定を受ける[1]。
3.地理
3-1.通過する自治体
下閉伊郡
岩泉町
田野畑村
普代村
3-2.交差する道路
国道455号(岩泉町乙茂字三田市)
国道45号(田野畑村南大苔)
E45 三陸北縦貫道路(普代道路) 普代IC(普代村第8地割)
国道45号(普代村第13地割字普代)
4.脚注
[1]^ s:道路法第五十六条の規定に基づく主要な都道府県道及び市道 - 平成五年五月十一日建設省告示第千二百七十号、建設省
5.関連項目・・岩手県の県道一覧
6.外部リンク
岩手県 県土整備部 道路建設課
最終更新 2021年7月10日 (土) 14:39 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
≪くだめぎ?≫
岩手県(いわてけん)は、日本の東北地方に位置する県。県庁所在地は盛岡市。
面積は15,275.01km2で、日本の都道府県としては、北海道に次いで2番目に広い。県の人口およそ120万人のうち、100万人以上(7割強)は、内陸部の北上盆地に集中している。盆地と海岸部以外は山地や丘陵地が多く、緑豊かな県である。
・・・出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岩手山などの国立公園など指定されているの山岳地帯を外したら、極端に言えば、残りは開拓村・放牧地であると言い切れるかもしれない。
そんな岩手県でも「村」は、たった"4"村
・下閉伊郡(しもへいぐん)-田野畑村(たのはたむら)、普代村(ふだいむら)
・九戸郡(くのへぐん)-野田村(のだむら)、九戸村(くのへむら)
"区界"も今や「宮古市」市内である、頭の中も切り替えなければならない。
でも上の"4"村は名実共に開拓村・放牧地のある『村むら』である。
田野畑村(たのはたむら)は明治22年(1889年)4月 町村制の施行により、
田野畑村、浜岩泉村、沼袋村 (町村制の施行前は"ムラ"と表記したいが・・)
が合併して成立・現在に続く。
思惟大橋が田野畑ムラと浜岩泉ムラの境、閉伊峠の辺りが田野畑ムラと沼袋ムラの境であるようだ。
実は今回のドライブは大芦信号機交差点より在来国道45号から主要地方道44号 岩泉平井賀普代線へ曲がり、岩泉町乙茂字三田市へ降りていく、岩泉中心街へは近いと思ったから。小本川支流三田市川流域で思いのほか険しくない、旧国道111(国道45号の旧名)と言われれば信じる程、復興道路・中野バイパスが無い時は迂回路に使われたのだろう。
岩泉村 ← 岩泉村、尼額村、乙茂村、猿沢村、二升石村(町村制の施行)
浜岩泉ムラは岩泉村の"となり村"である位置。北閉伊郡役所が岩泉村に設置されたのは自然な行程ではある。
昭和の大合併時にこの旧北閉伊郡が合併できてたなら町でなく、"市"を名乗れるチャンスと思えたが。
「本州で最も面積の広い町」・・1957年(昭和32年)4月に現在の「岩泉町(いわいずみちょう)」の町域を完成しただけでもある意味で奇跡かもしれないから、
「市」を完成させる気力までも・・も分からない訳でないが・・。