• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ディーゼルオート店のブログ一覧

2022年10月30日 イイね!

八王子は昔「神奈川県」だった。

八王子は昔「神奈川県」だった。鉄道最前線 > 駅・再開発
中央線で東京直結、八王子は昔「神奈川県」だった
山梨・横浜を結ぶ街道の要衝、鉄道でさらに発展
小川 裕夫 : フリーランスライター
2022/09/11 4:30
[写真・画像] 八王子駅北口のロータリーは、ひっきりなしにバスが発着する(筆者撮影)

 八王子は江戸時代から甲州街道の要衝地であり、物資の集散地として多くの人が行き交う宿場町としてにぎわった。明治維新を迎えて社会や産業構造が変化してもむしろ発展していく。その背景には、明治新政府が外貨獲得のために生糸の輸出を奨励したことがある。
 養蚕業・製糸業が盛んな八王子は、富岡製糸場が立地する上州と開港場の横浜を結ぶルート上にあった。また、甲州・信州から横浜へと向かう際にも経由地だった。そうした要因から、生糸・絹の取引で活況を呈した。

■ 東京よりも「横浜寄り」だった八王子
 明治初期までの八王子は、横浜とのつながりが強い。実際、1893年までは神奈川県に属していた。東京府(現・東京都)に移管された理由は定かではない。町田や八王子の三多摩は、自由民権運動が盛んで反政府的な地域だった。その対応がおっくうになった神奈川県知事が東京府へ譲渡したとも、東京府の水源となっている多摩川流域が神奈川県に属することは管理上で不都合が生じたともいわれる。
 また、1889年に新宿駅―立川駅で開業を果たした甲武鉄道(現・JR中央線)の存在も無視できない。
 同区間を開業させた甲武は、半年も経たないうちに八王子駅まで延伸。立川駅―八王子駅間の開業が遅れたのは、多摩川を渡る橋梁の架橋工事に手間取ったからだ。甲武が開設した八王子駅は、現在の東京都八王子合同庁舎付近にあった。甲武が延伸開業したことにより、八王子から東京方面へと人と物が流れるようになり、経済的な結びつきは強まっていく。
 政府は軍事・殖産興業の両面から鉄道網の拡大を急いでいた。1888年、陸軍はそれまでの鎮台制から師団制へと切り替わり、配置が変化した。東京・青山に司令部を置いた第1師団は、東京に所在する第1連隊と高崎に所在する第15連隊とに分けられ、さらに第1連隊の下部組織には麻布大隊区と横浜大隊区の2つがあった。麻布大隊区には神奈川県の一部が属したが、大半は横浜大隊区に属し、山梨県は全域が横浜大隊区に組み込まれた。

■ 鉄道は横浜より山梨方面が先だった
 陸軍の制度から見ても、横浜と山梨県の結びつきは強い。甲武は八王子まで線路を敷設したが、甲府方面への延伸は採算面から滞っていた。陸軍は山梨と横浜とをつなげることを急ぎ、八王子から山梨方面の線路建設は政府の手で進められた。
 1902年、官営鉄道が八王子駅から上野原駅までを部分開業。八王子駅から新宿駅方面の線路を1本につなげるため、甲武の八王子駅は移転させられた。翌年、上野原駅から甲府駅までが開業。これで中央線は軍事輸送路線の趣を濃くする。
 横浜の影響を受ける山梨県が八王子と結ばれた一方で、横浜とを結ぶ鉄道はなかなか実現しなかった。八王子は生糸の輸出によって活況を呈していたこともあり、以前から輸送の効率化を図ることを目的にした横浜への鉄道計画は百出していた。
 記録として確認できる計画で、もっとも早く出願されたのは生糸で巨万の富を築いた貿易商の原善三郎によるものだ。原は1886年に八王子―横浜間の武蔵鉄道を出願。これは甲武の開通前で、明らかに生糸輸送を意図していた。同鉄道が計画倒れに終わっても、原は鉄道敷設を諦めなかった。1894年には同じ区間で横浜鉄道を出願。同年には甲武を率いる雨宮敬次郎が、武相鉄道という名称で八王子―原町田―横浜を結ぶ路線を出願する。両社の計画はひとまとめになったが、建設は叶わなかった。

■ 八王子―横浜間鉄道の夢
 その後も多くの実業家が八王子―横浜間の鉄道を夢見た。例えば、後に江ノ島電鉄や京浜電鉄(現・京浜急行電鉄)などの経営に関わった衆議院議員の青木正太郎は、多摩川鉄道という名称で八王子―川崎間と溝ノ口から分岐して品川までの支線を出願している。水戸藩徳川家の継嗣で明治期に侯爵議員となっていた徳川篤敬は、八王子鉄道という名称で八王子―横浜間を出願。これが却下されると、神奈川鉄道という名称に変更して八王子―神奈川間を再出願している。
 これら多くの鉄道計画からも、八王子が有望な地であることが窺える。開港場である横浜を目的地にするものが目立つが、生産地でもある北関東とを結ぼうとする鉄道計画もいくつかあった。
 政府は、これらの出願をことごとく却下した。八王子―横浜間の路線は中央線と東海道本線とを結ぶ役割を担うことになり、両線の軍事的な重要性は年を経るごとに高まっていたため、民間に任せたくないという思いがあったのだろう。しかし、財政難から政府は同区間の建設を実質的に放棄。政府に代わり、私鉄の横浜鉄道が1908年に八王子駅―東神奈川駅間を開業させた。

■ 私鉄として開業したがすぐ国鉄に
 この横浜鉄道は、以前に原が立ち上げたものではない。原と同じく、横浜の貿易商だった渡辺福三郎が立ち上げた鉄道会社だった。渡辺は、昭和恐慌で破綻した渡辺財閥の9代目総帥・渡辺治右衛門の弟という血筋にあたるが、本家から分家して横浜で事業を興していた。そして、本家の破綻後も横浜を中心に実業家として活躍している。
 1910年に政府は八王子駅―東横浜駅を開業させた横浜鉄道から線路を賃借し、1917年には国有化した。国が同鉄道を賃借する4年前の1906年には、すでに甲武が国有化されていたから、これは既定路線だったのかもしれない。
 こうして八王子駅を発着する鉄道はすべて官営となったが、他方で東京から新たな鉄道が延びてくる。それが日露戦争の好況を背景に設立された京王電気軌道(京王)だった。社名に軌道とつくことからも、京王は路面電車として開業。京王は、もともと東「京」と八「王」子から1文字ずつとって社名にしているように、東京と八王子を結ぶことを意図していた。
 しかし京王は、府中を境に八王子側の建設を別会社の玉南電気鉄道に担当させた。玉南は1925年に東八王子駅までを開業。終着駅となる東八王子駅は甲州街道沿いにあり、現在の京王八王子駅よりも約200m北西にあった。
3.現在の京王八王子駅。JRの八王子駅と約350m離れている。ホームは地下で、駅ビルとバスターミナルを併設している(筆者撮影)

■ 甲州街道沿いに広がった繁華街
 京王が玉南を設立したのは国から補助金を受けるためだったが、政府から両社は同一の会社で、補助金目当てであるとされたために支給は認められなかった。そのため、京王は玉南を合併。玉南の1067mm軌間を京王と同じ1372mmへ改軌し、新宿駅から東八王子駅まで直通運転するようになった。
 甲武の八王子駅や玉南の東八王子駅が甲州街道に近接した場所に駅を開設した理由は、江戸時代から八王子は甲州街道沿いに繁華街が形成されていたからだ。
 京王の進出と同時期、八王子と埼玉県北部・群馬県などの養蚕業が盛んな地域との結ぶ鉄道網の整備を求める声が強くなる。こうした声を受け、政府は八王子と高崎を結ぶ八高線の建設に着手。1931年に八王子駅―東飯能駅間が暫定開業し、1934年に全線が開業した。
 1937年に日中戦争が開戦すると、八王子駅は物資の集散地としてにぎわうようになる。翌年には八王子駅舎が新装されるが、アメリカ軍から物流の重要拠点とみなされた八王子は1945年8月2日の空襲で市街地は灰燼に帰した。このとき、駅も全焼した。

■ 繊維産業で発展、駅前に「織物タワー」
 八王子の戦後復興は、駅の再建から始まる。終戦直後には仮駅舎が建てられたが、従来の駅は北口しかなかった。住民たちは昭和に入った頃から南口開設の陳情を繰り返してきたが、実現せずに駅南側の住民は長らく不便を強いられていた。
 住民が用地を提供するなどの条件で、ようやく1949年に南口が開設された。戦災で焼失した駅舎は1952年に東へ約150m移動し、現在の位置に建て直された。綿密な都市計画が練られ、駅前広場や駅前から延びる放射状の幹線道路も整備された。そして、北口ロータリーには1960年に噴水池とトーチ状の広告塔が完成。これは市民から“織物タワー”と呼ばれて1995年の撤去まで親しまれた。
 八王子の経済は、朝鮮戦争を契機とする「ガチャマン景気」で回復していった。これは日本各地の繊維産業を活性化させたが、日本最大の着尺産地だった八王子はその恩恵を最大限に享受する。1961年には、地元資本が「まるき百貨店」を駅前にオープン。同店が八王子の都市化を促すことになり、駅周辺にはイノウエ百貨店・伊勢丹・西武百貨店・八王子大丸のなどの百貨店が乱立した。そのほかにも総合スーパーや地元の商店街などが軒を連ね、駅前は活気に溢れていく。
 八王子に店舗を構えた百貨店は、地元商店街との協議で売り場面積が制限されていた。これは商店街との共存共栄を図るものだったが、1983年に駅の改築に合わせて駅ビルがオープンすると様相は一変する。
 駅ビルの核テナントには、百貨店のそごうが入居。オープン当初こそ売り場面積を抑えていたが、駅の利用者増加に伴って売り場面積を拡大。増床を繰り返したことで駅近隣の百貨店は太刀打ちできなくなり、撤退が相次ぐ。そして、それは駅前の魅力を喪失させ、商店街の衰退も招いた。

■一時は中央線の大半が「立川止まり」に
 八王子駅周辺の都市化が進むと乗降客数は年を経るごとに増えていったが、そんな中で激震が走る出来事が勃発する。中央線で乗降客が増えていたのは八王子駅だけではなかったのだ。より都心に近い立川は戦前から人口増の兆しを見せ始め、1940年に市制を施行していた。さらに都心寄りの武蔵野と三鷹は戦後に人口が急増し、それぞれ1947年と1950年に市へと昇格している。杉並区・中野区の人口増も驚異的だった。
 中央線各駅の乗降客数が増えたこともあり、国鉄は1959年に電車の大半を立川駅で折り返すダイヤへと変更した。
 このダイヤ改正は中央線の複々線工事という事情もあったが、八王子駅発着の大半の電車は立川駅―浅川(現・高尾)駅間を2両編成で行き来することになり、八王子市にとって受け入れがたいものだった。市は国鉄にダイヤを復元するように要望。複々線化が終了した1967年にようやくダイヤは戻り、特別快速の運転が始まる。

■ 八王子寄りは長らく単線だった横浜線
 中央線の複々線化と連続立体交差事業は、沿線がベッドタウン化する中央線の通勤輸送対策だった。これら2つの事業により増発と所要時間の短縮を目指したわけだが、後述する京王八王子駅の地下化やホーム延長工事も目的は同じだった。
 通勤対策が必要になっていたのは、中央線だけではない。八王子駅から南北に延びる八高線や横浜線も通勤重要が増大していた。八高線沿線には、日本住宅公団が1957年に北八王子工業団地を造成。これを受け、1959年に北八王子駅が開設される。さらに、市民は運転本数を増やすために、八高線の複線化や電化を要望した。
 他方、横浜線の複線化は1967年に着工されたが、相原駅―八王子駅間は単線のままだった。八王子市は沿線自治体とも協力し、横浜線の早期複線化に取り組む。市は国鉄へ複線化を要望するにあたり、「ひかり号の新横浜駅全停車」も同時に訴えている。沿線自治体に配慮したとも考えられるが、八王子にとってもメリットのある要望だった。高度経済成長期になっても、八王子と横浜の強い結びつきが窺えるエピソードといえるだろう。
 しかし、横浜線の複線化は思わぬところに影響を及ぼす。八王子駅の南側には1906年に発足した機関区があり、レンガ造の機関庫やSLを転回させる転車台が設置されていた。これら鉄道関連施設は横浜線の複線化に伴うホーム拡張工事によって姿を消すことになった。その後、機関区そのものも廃止された。

■京王の駅「隣接」計画は未完に
 一方、京王の東八王子駅は市が策定した都市計画により、1963年に約200m南東に移設。それと同時に、駅名も京王八王子駅と改称している。京王は国鉄八王子駅の隣接地に戦前期から駅用地を確保していたが、移転しないまま1970年に北野駅―京王八王子駅間が複線化され、1989年には京王八王子駅の地下化が完了した。
 当時、京王は輸送力の増強が最重要課題になっていた。そのために列車の長大編成化を進めなければならず、各駅のホーム延長工事に取りかかっていた。京王八王子駅の工事は、国鉄駅隣接地への移転が未完に終わったことを静かに物語っている。
 国鉄と京王の駅統合は実現せず、2000年には八王子駅北口ロータリーにペデストリアンデッキが完成。その後もペデストリアンデッキは拡張を続ける。
 時代とともに八王子駅・京王八王子駅が移転を繰り返し街の核が移り変わってきたが、近年は八王子駅を軸にした開発が進められている。それだけに、八王子駅は多摩地域の玄関口として今後も発展が期待されている。
東洋経済ONLINE より


≪くだめぎ?≫
・1871(明治4)年7月 "廃藩置県"が断行、3府302県になる。
・1878(M11)年7月 区町村編成法が制定、元の地名が復活、大区小区制は廃止。
・1872年9月21日(旧暦M5年8月19日) 東多摩郡(中野区・杉並区)に相当する区域が東京府の管轄になる。
・1878年(M11年)11月2日 - 郡区町村編制法の東京府での施行により、多摩郡のうち東京府に属する区域をもって「東多摩郡」が発足。郡役所を中野村に設置。
・1878年(M11年)11月に施行された郡区町村編制法により、神奈川県管下の区域は3分割され西多摩郡、南多摩郡、北多摩郡に、三多摩(さんたま)地域と言われるようになる。
・1888(M21)年 「47道府県」が確定する。
・1888(M21)年4月 市制・町村制を公布、小学校運営主体になる。 以後、明治の大合併が行われる。
・1893(M26)年4月1日 三多摩(さんたま)地域が東京府の管轄となる。

後に「東多摩郡(中野区・杉並区)」に相当する区域が東京府の管轄になるのは地図で見ると分かるように、最初の「東京府」に食い込んであり、神田川など水源・流域の確保であるのは明らかだ。
 更に、上流部の北多摩郡の尾根?『玉川上水』 も押さえるのだが。
Posted at 2022/10/30 17:14:48 | コメント(0) | トラックバック(0) | 地域 | 旅行/地域
2022年10月30日 イイね!

『神田上水』

『神田上水』神田川 (東京都)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 神田川(かんだがわ)は、東京都を流れる一級河川。荒川水系の支流である。東京都三鷹市井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発し東へ流れ、台東区、中央区と墨田区の境界にある両国橋脇で隅田川に合流する。流路延長24.6km、流域面積105.0km2と、東京都内における中小河川としては最大規模で、都心を流れているにも拘らず全区間にわたり開渠であることは極めて稀である。
 フォークグループかぐや姫の楽曲(神田川)になっていることでも有名である。

[写真・画像] JR御茶ノ水駅脇を流れる神田川(仙台堀)と聖橋(東京都千代田区/文京区)
遠景に秋葉原電気街を望む。手前で停車している電車は201系電車2005/04/15、
投稿者撮影(日本語版ウィキペディアのKamakuraさん)。

水系 一級水系 荒川
種別 一級河川
延長 24.6 km
流域面積 105.0 km²
水源 井の頭池(三鷹市)
河口・合流先 隅田川
流域 東京都

1.名称
 かつては平川と呼ばれ、現在の飯田橋付近から現在の日本橋川を通って日比谷入江に流れていたが、江戸幕府による度重なる普請と瀬替えが行われ、現在の流路となった。
 江戸市中への上水が引かれてからは上流を神田上水、下流を江戸川と呼び、さらに開削された神田山[注釈 1]から下流は神田川と呼ばれるようになった。明治になり神田上水が廃止されてからは上流も神田川と呼ばれるようになり、昭和の河川法改正によって全て神田川の呼称で統一された[1]。
1-1.別称
 神田川の中流域の中でも今日の都電荒川線早稲田停留場付近(関口の石堰があった)から飯田橋駅付近(日本橋川と分かれる)まで約2.1キロメートルの区間は「江戸川」と呼ばれていた。この部分も1970年8月に「神田川」に名称が統一されることとなったため、これに由来する地名の多くは1966年までにその名を消したが、江戸川橋駅及びその由来である橋梁、文京区立江戸川公園などにその名をとどめている。なお、明治末頃まで、石切橋から隆慶橋間の両岸は、東京市内屈指の桜の名所と言われた。

2.歴史
2-1.江戸市中の上水整備と平川の改修
 神田川の前身である平川は、台地ハケからの湧水や雨水を多く集め、豊嶋郡と荏原郡との境界をなす大きな川だったが、江戸城を普請する上で深刻だったのは、江戸城内へ飲料水の確保と、武蔵野台地上の洪水だった。
 潮汐のため平川は現在の江戸川橋あたりまで海水が遡上して飲料水に適さず、また沿岸の井戸も鹹水が混じった。平川の普請は、まずは江戸市中の飲料水確保のために行われた。
 1590年(天正18年)、徳川家康が江戸に入府する前後に大久保忠行が小石川上水[注釈 2]を整備して主に江戸城内への用水としていたが、城下を含めより多くの上水を確保する必要から、豊富な真水の水源を有した井の頭池に加え、善福寺池からの善福寺川、妙正寺池からの妙正寺川も平川に集めて神田上水を整備した。目白下(現在の文京区関口大滝橋付近)に石堰を作って海水の遡上を防ぎ、分水を平川の北側崕に沿って通していた。これは下流への高低差を確保することと、洪水によって水道施設が破壊されてしまうのを防ぐ目的もあった[注釈 3]。川の本流から水戸藩上屋敷(現在の小石川後楽園)を通った後に懸樋(空中を通した水道で、これが水道橋の由来)や伏樋(地中の水道)により現在の本郷、神田から南は京橋付近まで水を供給した。石堰から下流は江戸川(現在の江戸川と区別するため以下この節では「旧・平川」とする)と呼ばれた。
 次に、江戸城拡張のため、江戸前島の日比谷入江に面していた老月村、桜田村、日比谷村といった漁師町を移転させて入江を埋め立て、江戸前島の尾根道だった小田原道を東海道とし、その西側に旧・平川の河道を導いて隅田川に通じる道三堀とつなぎ、江戸前島を貫通する流路を新たに開削して江戸城の外濠(外濠川とも)とした[2][3]。
 これらは家康が将軍を任官する以前の普請であり徳川家のみで行われていた。旧・平川に架けられた橋や河岸、蔵地、埋め立てた日比谷入江に建てられた大名屋敷(大名小路)はたびたび大規模に氾濫して流されていたが、慶長8年(1603年)に江戸幕府を開いてからは大名を集めての天下普請として大規模に行われるようになる。
 なお、拡大急増した江戸の人口を潤すための上水はこの頃にすでに足りなくなり始めており、1653年(承応2年)に新たに玉川上水が引かれ、主に江戸の西部から南部にかけて供給された。

2-2.天下普請による瀬替え
 二代将軍・徳川秀忠の時代には、旧・平川下流域の洪水対策と外濠機能の強化として、神田山(本郷台地)に当って南流していた流路を東に付け替える工事が行われた[2][4][5]。1620年(元和6年)、秀忠の命を受け、仙台藩祖・伊達政宗が現在の飯田橋駅近くの牛込橋付近から秋葉原駅近くの和泉橋までの開削を担当した。小石川見附門(現在の三崎橋付近)から東に神田山を切り通して湯島台と駿河台とに分け、現在の御茶の水に人工の谷(茗渓)を開削した[4][5][2][6][7]。このため、この区間は特に「仙台堀」あるいは「伊達堀」とも呼ばれる[4][5][2][6]。本郷台地の東では旧石神井川の河道を流れる小河川と合流させて真東に向かい、現在の浅草橋や柳橋の東で隅田川に合流させた[2]。開削当初の「仙台堀」は川幅が狭く洪水を解消する機能にも事欠いたが、幕府は舟運に供するため拡幅するよう仙台藩第4代藩主・伊達綱村に命じ、1660年(万治3年)より拡幅工事がなされた[4][注釈 4]。この拡幅された掘割から河口までを神田川と呼んだ[7][注釈 5]。広く開削された旧・平川を舟運が船河原橋[注釈 5][9](ほぼ現在の飯田橋)まで通じるようになった。
 一方、小石川見附門から南流する旧・平川は現在の九段下付近まで埋め立てられて神田川と切り離され堀留となった(元飯田町堀留)。かつての外濠から内濠となったこの堀留は飯田川とも呼ばれ、道三堀からの舟運を導いて河岸も建っていた。しかしその後も川の氾濫は頻発し、開削した神田川と、谷田川や大川(隅田川)と重なり日本橋地域から江戸城下を氾濫させていたため、筋違橋御門から下流の神田川南岸に築土して(柳原土手)城下を守った。

2-3.水運の活発化による河川再整備
 明治に入り、物流の水運利用が活発になり川にはさらに多くの河岸が建った。上流から紅梅河岸、昌平河岸、佐久間河岸、鞍地河岸、柳原河岸、左衛門河岸などがあった。明治16年には浜町川が延伸(岩井川)して神田川と接続、また埋め立てていた飯田川の北側を再開削して再び神田川と結び、これが現在の日本橋川となった。明治23年には日本鉄道の秋葉原貨物駅が開業し、佐久間河岸からの掘割が引かれ、さらにこの地に大正12年の関東大震災後に神田多町から神田青物市場が移転して周辺は物流拠点になっていた。昭和12年には河川改修よって関口の神田上水石堰も取り除かれた。
 高度経済成長期には生活排水の流入により水質が悪化し「死の川」と呼ばれたが、周辺部に落合水再生センターなどの下水道網、下水道処理施設の整備が進み、元々湧水が多いことなどから近年は水質が大幅に改善し、鯉や鮎、鮒などが生息するようになった。鮎は1993年(平成5年)から毎年確認されている。
 また、1957年(昭和32年)の台風22号、1966年(昭和41年)の台風6号などにより氾濫を繰り返したため[10]、洪水で有名となる不名誉な肩書きもあったが、80年代以降の川岸整備や放水路の増設によって治水が成された(ただし今でも中野区上高田では危険水位にしばしば達する)。 この際の整備で高戸橋から江戸川橋にかけて植栽された桜が大きく育ち、花見シーズンには多くの人が訪れる。

3.神田川の治水事業
 江戸時代からの普請にもかかわらず、都市河川となった現在も溢水の危険をはらんでいる[注釈 3]。江戸期にも洪水による橋の流出や水道施設の破壊は頻繁に発生していた。しかし戦後は流域の急激な都市開発に河川改修が追いつかず、保水や遊水の機能が低下していた。昭和33年(1958年)の狩野川台風による大水害は、城東の低地での水害に加えてそれまで認識されなかった「山の手水害」を引き起こした。昭和61年、全国の総合治水対策が必要な17河川の1つに選定され、平成元年に協議会が発足、時間雨量50mmに対応する対策として段階的に分水路や貯水池などが建設された。現在神田川は流域の市街化率が全国でトップの97%(平成21年度現在)にも達し、対策が難しい河川になっている[11]が、対策は一定の効果を上げていた。しかし、平成17年9月の台風14号により活発化した前線から観測史上最多となる時間雨量100mmを超える降雨災害[注釈 6]が発生し、特に支流の妙正寺川は護岸が破壊されるほどの被害が出た。平成19年8月、東京都は「東京都豪雨対策基本方針」を策定[12]し、時間雨量75mmまでの対応強化を目標として整備が続けられている[13]。

4.流域
4-1.流域の自治体 東京都
 三鷹市、杉並区、中野区、新宿区、豊島区、文京区、千代田区、台東区、中央区
4-2.主な支流
・善福寺川 - 杉並区和田1丁目で合流
・妙正寺川 - 新宿区下落合1丁目で合流(高田馬場分水路)
 ・江古田川
・和泉川 - 新宿区西新宿5丁目で合流、現在は暗渠、上部は一部緑道。
・桃園川 - 中野区東中野1丁目で合流、現在は暗渠、上部は緑道。
・水窪川 - 文京区音羽1丁目で合流、現在は暗渠。
 ・弦巻川
・皇居外濠(牛込濠、新見附濠、市ヶ谷濠)
・(派川)日本橋川
・(派川)亀島川

4-3.分水路、貯水池
・江古田川
 ・北江古田調整池 1986年[14] - 江古田の森公園
・妙正寺川
 ・鷺ノ宮調整池 2013年[14] - 白鷺せせらぎ公園
 ・妙正寺川第一調整池 1987年[14] - 妙正寺川公園(中野区)
 ・妙正寺川第二調整池 1995年[14] - 妙正寺川公園(新宿区)
 ・神田川・環状七号線地下調節池 2005年[14] (妙正寺川取水施設(沼栄橋公園内)- 梅里換気塔(梅里公園内) - 善福寺川取水施設(定塚橋公園内)- 神田川取水施設(泉南緑地内) - 杉並区方南1丁目付近)
 ・上高田調整池 1997年[14] - 中野区上高田運動場
 ・落合町整池 1995年[14] - 新宿区落合公園
・神田川
 ・高田馬場分水路(新宿区)- 1982年[14] - 下落合1丁目付近(妙正寺川はそのままこの分水路へ向かい、かつての合流河道が都有地として残っている) - 豊島区高田3丁目(高戸橋上流)
 ・江戸川橋分水路(文京区)- 1977年[14] 江戸川橋下流 - 飯田橋付近
 ・水道橋分水路(千代田区)- 1986年[14] 飯田橋付近 - 小石川橋下流
 ・お茶の水分水路(千代田区)- 1999年[14] 水道橋下流 - 丸ノ内線下流開閉口 - 昌平橋下流側
 ・善福寺川調整池(計画中)
 ・和田堀公園調整池(計画中)
・神田上水 - かつての分水路

5.脚注
5-1.注釈
[注釈 1]^ 「神田山」は本郷台地の南端部を江戸市中から見上げた呼称。開削によって北は湯島台、南は駿河台と呼ばれるようになった。
[注釈 2]^ 小石川上水については詳細な記録が少ない。
[注釈 3]^ a b 武蔵野台地上は水が浸潤しにくい粘土層が覆う平坦地形で、大量の降水がわずかな窪地へ向かって一気に集まり氾濫しやすい。神田川に限らず台地上の河川には浸水の記録が多く残る。
[注釈 4]^ 『御府内備考』「【萬治年録】云、三年庚子二月十日、牛込より和泉橋迄船入堀普請、松平陸奥守被仰付之、依在国以奉書被伝之。」[8]当時家督を継いだ綱村はまだ数え2歳、生後11ヶ月でしかなく、実際の普請は蟄居させられた先代の伊達綱宗が行っている。
[注釈 5]^ a b 『御府内備考』「今神田川といふは、船河原橋辺より御茶水、及び柳原堤外を過て浅草川に落合へるまでの呼称なり。」[8]
[注釈 6]^ 時間雨量で東京都杉並区下井草で112ミリ、東京都三鷹市長久保で105ミリを記録した。

5-2.出典
[1]^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『神田川』 - コトバンク
[2]^ a b c d e 地下鉄の駅名に見る江戸のなごり(その2) (PDF) (社団法人日本地下鉄協会「SUBWAY 日本地下鉄協会報 第194号」 2012年8月31日発行)p.48-50
[3]^ [リンク切れ]平成23年度 第8回 ラーニング コモンズ・イベント「お楽しみ! 地図で日本史 ~地歴連携の試み~」 (PDF) (大妻女子大学)
[4]^ a b c d 第五章 神田川山脈「御茶ノ水の茗渓」 (PDF) (川副秀樹 著、『東京「消えた山」発掘散歩』 p.80-83)
[5]^ a b c 首都圏みやぎゆかりの地「仙台堀(神田川)」(宮城県)
[6]^ a b J-BECレポート 2013 vol.8 (PDF) (一般在団法人橋梁調査会) p.33
[7]^ a b 緑と水のひろば No.68 SUMMER 2012 (PDF) (公益財団法人東京都公園協会)
[8]^ a b 御府内備考 神田川.
[9]^ 船河原橋
[10]^ 「ヒヤヒヤの中小河川 整備計画足ぶみ 無秩序な都市化も一因」『朝日新聞』昭和42年9月8日夕刊、3版、11面
[11]^ “総合的な水害対策 -特定都市河川浸水被害対策法の施行状況の検証- (平成21年度 政策レビュー)- p.11 (PDF)”. 国土交通省. 2017年10月23日閲覧。
[12]^ “神田川流域豪雨対策計画 概要版 (PDF)”. 東京都総合治水対策協議会 (2009年). 2017年10月22日閲覧。
[13]^ “神田川流域河川整備計画の概要 (PDF)”. 東京都建設局. 2017年10月25日閲覧。
[14]^ a b c d e f g h i j k “河川構造物(地下調節池・分水路)の予防保全計画[土木構造物編] (PDF)”. 東京都建設局 (2016年10月). 2017年10月22日閲覧。

5-3.参考文献
・鈴木理生 『江戸の川 東京の川』 井上書院、1989年 ISBN 4-7530-2304-4
・蘆田伊人 編「御府内備考巻之6御曲輪内之4神田川」 『大日本地誌大系』 第1巻、雄山閣、1929年8月。NDLJP:1214847/67。

6.関連項目
・外濠 (東京都)
・神田上水
・玉川上水 - 高井戸駅前で神田川に放流。
・神田川 (曲) - 1973年に発表されたフォークグループ「かぐや姫」のヒット曲。
・戸塚地域センター - 神田川に棲む魚類等の展示が行われている。
・江戸川橋駅 - 別称の「江戸川」に由来
・仙台堀川 - 神田川と同様に「仙台堀」と呼ばれる運河

7.外部リンク
・神田川流域浸水予想区域図(東京都)
・緑と水のひろば No.68 SUMMER 2012 (PDF) (公益財団法人東京都公園協会)
・神田川ウォーキングガイド (橋の写真等あり)
・神田川に架かる140の橋
最終更新 2022年6月14日 (火) 02:14 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 『神田川』のことである、1590年(天正18年)から始まり、かつては"平川"と呼ばれた川を、井の頭池・善福寺川・妙正寺川なども平川に集めて神田上水を整備したことによる。結局、拡大急増した江戸の人口を潤すための上水はこの頃にすでに足りなくなり始めており、1653年(承応2年)に新たに玉川上水が引かれるに至った。
Posted at 2022/10/30 15:52:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | 河川改修の実例 | 旅行/地域

プロフィール

「「Yamato」体重計 ♫〜」
何シテル?   04/02 16:02
 「昔々、有ったとさ、 『トヨタディーゼル店』、『トヨタパブリカ店』、『トヨタオート店』、『トヨタビスタ店』・・・」。      身長165cm・体重6...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2022/10 >>

      1
234 567 8
91011121314 15
1617 18192021 22
23242526272829
3031     

リンク・クリップ

新明和工業・特装車事業部 
カテゴリ:鉄道・バス
2016/09/29 08:29:33
 
マイナビ ニュース 
カテゴリ:マスコミ
2013/02/20 15:01:45
 
都道府県タクシー協会 
カテゴリ:鉄道・バス
2011/01/06 11:50:45
 

愛車一覧

ダイハツ ハイゼットカーゴ ダイハツ ハイゼットカーゴ
"MT車"、9.8万キロ走行、である。 前車ハイエースを年末に買取りしてもらう。 ほぼ、 ...
トヨタ ルーミー 「タンク」顔の"ルーミー" (トヨタ ルーミー)
[写真・画像] 6/25(日)10:37 青森トヨタ・ネッツトヨタ青森 TwiN pla ...
スバル サンバー スバル サンバー
母の嫁入り道具、父は車持ってなかった。後に事故廃車。
トヨタ マークIIバン トヨタ マークIIバン
事故廃車したため、購入。コロナバンがなかった・・。
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation