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2022年11月05日 イイね!

「利根川」にみる瀬替え・河川改修

「利根川」にみる瀬替え・河川改修利根川
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋
[写真・画像] 中世の利根川流路は、荒川を合流させ東京湾に注ぐ流路であった。渡良瀬川や鬼怒川は独立した水系である。

 利根川(とねがわ)は、大水上山を水源として関東地方を北から東へ流れ、太平洋に注ぐ一級河川。一級水系であり、利根川水系の本流である。河川の規模は日本最大級であり、日本三大河川の一つ。首都圏の水源として国内の経済活動上重要な役割を果たしている。「坂東太郎(ばんどうたろう。“東国にある日本一の大河”)」の異名を持つ日本三大暴れ川の一つで、江戸時代初期に行われた河川改修である利根川東遷事業により、流路を変更された歴史を持つ。

■中世以前
 中世以前の利根川は、現在のように銚子市で太平洋に注ぐ形態を取っていなかった。当時は埼玉県羽生市上川俣で東と南の二股に分かれた後、南への分流(会の川)は南東に流路を取り、加須市川口で合流後再び本流となり現在の大落古利根川の流路をたどり荒川(現在の元荒川)などを合わせ、江戸湾(東京湾)へと注いだ。
 なお当時「太日川」という名称であった渡良瀬川は独立した河川として、現在の江戸川の流路を取りながら利根川と並行するように江戸湾へ流れた。鬼怒川は同じく独立した河川として小貝川を併せ、香取海に注ぐ形態だった。

■関連項目
一級水系
紀の川 - 紀伊藩時代に井沢為永が河川事業を実施。利根川の河川事業に生かされる。
荒川 - かつては利根川の支流で、現在は利根川水系と一体化した河川事業を展開。
那珂川 - 霞ヶ浦導水事業で利根川水系と連携。
多摩川 - 利根川と並ぶ東京都の水源。なお東京都の水源は約8割が利根川水系及び荒川水系(荒川は武蔵水路によって利根川の水も導水されている)で、残りの約2割が多摩川水系である[1]。
只見特定地域総合開発計画 - 尾瀬分水の水源である尾瀬原ダム計画が関連する、阿賀野川水系を対象とした特定地域総合開発計画。1951年閣議決定。
関東平野
北関東 - 南関東
平将門の乱 - 平安時代に発生した承平天慶の乱の一つ。平将門が朝廷に反旗を翻し利根川流域を一時制圧。
享徳の乱 - 古河公方派と堀越公方派に分かれた室町時代の戦乱。旧利根川流路を境に東西関東が対立。
神流川の戦い - 1582年に神流川で起こった北条氏政と滝川一益の戦い。織田氏勢力が利根川流域より駆逐される。
日本のダムの歴史 - 日本ダム史年表
ダム建設の是非
暴れ川 - 利根川が日本三大暴れ川の1つとして数えられる。
日本一の一覧
高規格堤防
首都圏氾濫区域堤防強化対策
上毛かるた - 「と」の札において、「利根は坂東一の川」と読まれる。
最終更新 2022年10月13日 (木) 07:29 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 「渡良瀬川」と「鬼怒川」が独立していたことに驚き。

でも実態は利根川の「坂東太郎」ぶりで、「渡良瀬川」と「鬼怒川」との間に
"分水稜"が存在して無かったのだろうと、確信する
Posted at 2022/11/05 19:28:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | 河川改修の実例 | 旅行/地域
2022年11月05日 イイね!

「令制国」「旧国名」

「令制国」「旧国名」令制国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
[写真・画像] 江戸時代末期の日本地図(1855年、アメリカ合衆国発行):陸奥国および出羽国の分割、北海道11か国の設置、琉球処分がなされる前の状況

 令制国(りょうせいこく)とは、日本の律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である。律令国(りつりょうこく)ともいう。飛鳥時代から明治初期まで、日本の地理的区分の基本単位だった。現在は行政区分としての機能は失われ、単なる地理的区分となっている。ただし、その地理的区分としての機能も都道府県に取って代わられつつある。
 令制国の行政機関を国衙(こくが)または国庁(こくちょう)といい、国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府(こくふ、こう)や府中といった。

1.用語
 令制国が行政体・地理区分の基本単位として用いられていた時代には、正式にも慣用的にも「国」とだけ呼ばれていた。後代の20世紀以降には「旧国」「旧国名」とも呼ばれることがある[1]。律令のうち、令によって規定される制度を令制というので、令制の国を令制国と呼ぶ。「令制国」という語は、20世紀末に用いられ始めた歴史学の用語であり、1970年代から使用例が現れる[2]が、1984年(昭和59年)2月に吉川弘文館から発行された『国史大辞典第4巻』では令制国のことは「国」の項目で説明されており、文中にも「令制国」と呼ぶといった説明はない。
 なお、英語などの欧米語ではprovinceに相当する訳があてられる。

2.令制国の成立
 日本の古代には、令制国が成立する前に、土着した豪族が世襲して務める国造(くにのみやつこ)が治める国と、県主(あがたぬし)が治める県(あがた)が並立した段階があった。それに対して、令制国は、中央から派遣された国司が治める国である。
 『日本書紀』には、大化元年(645年)、難波宮で行われた大化の改新の際に、東国に国司を派遣したという記事があり、飛鳥京跡から出土した木簡削片に「伊勢国」「近淡□(海)」などと書かれていることが判っているので、『日本書紀』の記事に信を置けば大化の改新直後、少なくとも藤原京への遷都以前にはある程度の令制国が成立していたものと推測される。しかし、昭和42年(1967年)12月、藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出され郡評論争に決着が付けられたとともに、『日本書紀』にある大化の改新の諸政策は後世の潤色であることが判明しており、多くの令制国が確実に成立したと言えるのは、大宝元年(701年)に制定された大宝律令からである。故に、令制国の成立時期は早ければ大化元年(645年)、遅ければ大宝元年(701年)となる。この間の段階的な制度変化の結果である可能性も高い。
2-1.令制国成立に伴い分割された国
常陸国(常陸国、陸奥国)
凡河内国(河内国、摂津国)
筑紫国(筑前国、筑後国)
火国(肥前国、肥後国)
豊国(豊前国、豊後国)

令制国成立以前国造の領域だったとされる、凡河内、筑紫、火、豊についてはその領域の分割と考えられるが、それ以外の国については厳密には令制国成立に伴う分割ではなく、それぞれ異なる経緯を経て成立していることに注意する必要がある。

3.律令制下
 律令制確立直後の、大宝4年(704年)に全国の国印が一斉に鋳造された。それを機会に国名に用いる文字が改定され、現在までつづく表記となった。
 奈良時代初期の和銅6年(713年)に、元明天皇は、令制国毎に『風土記』という地誌の編纂を命じた。現在、出雲国、常陸国、播磨国、肥前国、豊後国の物が、一部残存している。同年5月に畿内と七道諸国の郡(こおり)・郷(さと)の名に好字を付けるように命じた。上毛野国・下毛野国・木国・粟国の国名が漢字2文字に統一された。
 天平10年(738年)諸国の国郡図を進上させる。天平11年(739年)末頃から天平12年(740年)初めの頃に郷里制を郷制に改める。天平時代に聖武天皇が政権に就いた時期には、平城京では疫病が蔓延し、社会不安が広がっていた。これを払拭すべく、光明皇后の意見も有って、天平13年(741年)令制国には国分寺(国分僧寺)・国分尼寺の建立の詔を出した。

4.中近世
 律令制が事実上崩壊してからも、鎌倉時代には依然として各国に国衙が置かれ、国を支配していた。南北朝時代に戦乱が全国に及ぶと、守護の力が増大し、国衙の機構を吸収するに至った。それに伴い室町時代には守護による領国支配が進行した。こうして軍事警察権のみならず国の行政権も手にした守護を守護大名、彼らの国支配体制を守護領国制と呼ぶ。
 戦国時代になると、律令時代からの行政体としての国はこれを構成した荘園や公領の実態の希薄化に伴い消滅した。国司は、完全に名目だけの官職となり、惣村や国人一揆といった在地の自治的結合を権力基盤として守護大名や守護代、有力な国人などから成長した戦国大名が領国支配の正当性を主張するために欲するようになる。安土桃山時代と江戸時代には、地方統治は大小多様の大名と、大名に準ずる領主、江戸幕府の直轄領に分割された。領有が細分化した地方に特別な機関を置く場合を除いて、国を単位とする行政体はなかった。ただし国司を任じていたことから、名目のみ行政区分としての令制国は存在していた。また令制国全土あるいはそれに匹敵する大きさの領地をもつ大名を示す国主という家格が存在した。住所の表示には令制国が用いられ、欠かせない地理区分だった。

5.明治以後
 江戸時代までとの大きな違いは国司を廃止したことであり、国司廃止によって名実共に行政的な地理区分ではなくなった。
 1869年1月19日(明治元年12月7日)、戊辰戦争(東北戦争)に敗戦した奥羽越列藩同盟諸藩に対する処分が行われ、明治政府は陸奥(むつ)国を磐城国・岩代国・陸前(りくぜん)国・陸中(りくちゅう)国・陸奥(りくおう)国の5国に、出羽国を羽前国・羽後国の2国に分割した。
 戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年9月20日(明治2年8月15日)、和人地および蝦夷地(北州)に北海道11か国を新たに設け、これにより五畿七道から五畿八道とした[3]。
 1871年(明治4年)の廃藩置県後、薩摩藩の付庸国だった琉球国(いわゆる琉球王国)は、琉球処分の過程で、1872年(明治5年)に琉球藩とされ、1879年(明治12年)には沖縄県とされたが、その後も地名としては引き続き琉球国と呼ばれた。ただし、この「琉球国」は便宜上の用法であり、令制国の1つではなく、五畿八道にも含まれない。
 1902年(明治35年)までは令制国の範囲改定が行われたりしていたことから[4]、少なくともこの年までは制度上も用いられていた。しかし、台湾・朝鮮などの外地には令制国は設定されなかった。また、いったん失ったのち日露戦争後南半分が日本領に復帰した樺太は大正期制定の共通法1条2項では内地と規定され、1943年(昭和18年)法令上の特例が廃止され名実ともに完全な内地となったものの、同様に新たな令制国は設定されなかった。
 法令による廃止はされていないが、とりわけ戸籍や郵便などの地名表記から外されたことにより急速に廃れ、反対に府県は急速に定着した。現代では、同じ地名を呼び分けるときや(摂津本山駅←→長門本山駅など。鉄道では複数の県を結ぶ路線名に「小倉(豊前)と宮崎(日向)を結ぶ『日豊本線』」のように令制国名を用いることもある)、都道府県名を嫌う場合(長野県←→信州など)、地域名(泉州、筑豊など)、地域ブランド名など(讃岐うどん、但馬牛、薩摩焼など)に旧国名が利用されている。また、国の法令においても、北海道に存する同一の名称の郡を区別するため、「下級裁判所の設立及び管轄区域に関する法律」(昭和22年法律第63号)や「法務局及び地方法務局の支局及び出張所設置規則」(平成13年法務省令第12号)は、令制国を使用している[5]。大相撲では、番付の出身地表記を昭和22年(1947年)11月場所まで令制国名で表記していた。検定教科書である社会科の地図帳は検定を受けるには令制国を記載する必要があるため令制国が記載されているが、千島国を記載していないものがある。また、地図帳での令制国表示は、実質的に歴史教材としての意味合いでしかない。
 前述の通り1902年以降令制国の範囲改定が行われていないが、都道府県は境界線の変更が行われているため範囲の差が広がりつつある(越境合併を参照)。

6.令制国の数
 令制国は、奈良時代までと明治時代に大きな改廃がなされたが、その間の平安時代から江戸時代までの長期にわたって変更がなかった。その数は68であるが、66とされることも多かった。この場合、対馬・壱岐が「嶋」として外れる。
 例えば11か国を守護領国とした山名氏は、全国の6分の1の国を領したという意味で「六分一殿」と呼ばれた。「全国一宮一覧」など全ての国を列挙するような場合には、実際の国の数と合わないので、備前・備中・備後をまとめて吉備とする(ただし、備前から分かれた美作はそのまま)など無理に2国減らして66にすることも行われた。「六十余州」と表現することもあった。
 明治初期に行われた分割や新設に伴い、全国の令制国の数は84国となった。

7.国境の変更
江戸初期に瀬替え・河川改修に伴い国境の変更が行われた。
・下総国葛飾郡のほぼ南北中心線を南流し東京湾へ注いだ太日川(渡良瀬川の下流)より西側の地域(葛西)を武蔵国へ編入した(これをもって武蔵国葛飾郡が発足)。
・上野国・下野国の境を東へ流れる矢場川(古代の渡良瀬川本流が流れた)を、館林市多々良から北東へ向かい開削し近世以降の渡良瀬川本流に合流させ、この新たな河道に合わせて上野国・下野国の国境も変更された。

9.関連項目
旧国名
令制国一覧
国郡里制
五畿七道 - 令制国の上位区分

都道府県
近代以前の日本の人口統計
スウェーデンの地方 - スウェーデンにおける令制国と近似した地方区分

10.脚注
[1]^ 2016年現在も商法施行法などで令制国は使われており、"旧"という表現は必ずしも適切とは言い難い。
[2]^ 早川庄八「律令制の形成」に「令制国と国宰」の見出しがある。『岩波講座日本歴史』第2巻(古代2)、岩波書店、1975年。
[3]^ 明治2年8月15日太政官布告(通番734)
[4]^ 京都府下国界並郡界変更法律(明治35年法律第14号、昭和57年廃止)
[5]^ 廃止された北海道支庁設置条例(昭和23年9月27日条例第44号)も同様であったが、これに代わる北海道総合振興局及び振興局の設置に関する条例(平成20年6月30日条例第78号、最終改正平成21年12月15日条例第103号)は、管轄の市町村名を列挙しており、市町村名が同一である「泊村」は郡名で区別し得ているため、令制国は使用されていない。

11.外部リンク
江戸時代における令制国ごとの人口(オランダユトレヒト大学図書館)
法務局及び地方法務局の支局及び出張所設置規則 - e-Gov法令検索
令制国資料集
最終更新 2022年9月3日 (土) 07:49 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 かつては単に「国」と表記していたモノである。日本国、アメリカ合衆国などと区別するために、言い慣わされたモノが、ほぼ定着したものだ。
私自身は下記の様に定義する。

・令制国(りょうせいこく)・・江戸時代末期までつかわれたもの。
・道府県・・・1888(M21)年4月に市制・町村制を公布、直前に47道府県が確立(現47都道府県)。
Posted at 2022/11/05 19:07:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | 地域 | 旅行/地域
2022年11月05日 イイね!

北条鉄道「キハ40」導入戦略

北条鉄道「キハ40」導入戦略新たな乗り鉄を発掘、北条鉄道「キハ40」導入戦略
都会人の「オアシス」的存在として期待が高まる
谷川 一巳 : 交通ライター 2022/10/05 6:10
[写真・画像] 五能線時代のデザインそのままにピカピカに磨かれていたキハ40
(写真:谷川一巳)

 2022年3月、兵庫県の第三セクター鉄道である北条鉄道に国鉄型キハ40ディーゼルカーが運行をはじめた。運行開始から少し時間を経た週末、久しぶりに北条鉄道を訪ねてみた。
 北条鉄道は元国鉄北条線を引き継いだ第三セクター鉄道で、関係する加西市、小野市、そして兵庫県と地元企業が出資する。JR加古川線と神戸電鉄が乗り入れる粟生から、終点の北条町まで13.6kmのミニ路線で、目立った勾配や山越えはなく、平坦な単線非電化のローカル線である。
 日本には地域の鉄道が数多くあるが、きわめて地味な存在といっていいかもしれない。国鉄の民営化時、不採算路線として切り離され、これといった観光資源に恵まれているわけでもない。地域需要だけではなかなか経営も難しいのではないかと思われる鉄道会社だ。そんな鉄道にキハ40がやってきたのだ。

■ピカピカのキハ40にテンションも上がる
 筆者は前日、姫路に宿泊、加古川で加古川線へ乗り継いで北条鉄道の起点である粟生を目指した。加古川線の列車はロングシートの2両編成、日曜日だったせいか、仕事利用の人は見ないが、週末の気軽な日帰り旅行と思しきカップルや熟年夫婦でそこそこの乗車率であった。
 ところが、加古川線の列車が粟生に到着すると、多くの人が下車した。週末の日帰り旅行と思しき客は北条鉄道が目当てだったようで、思っていたより北条鉄道の人気が高まっていると感じた。キハ40形導入は鉄道ファンもさることながら、一般客の集客に効果を発揮しているとも感じた。
 北条鉄道には3両のディーゼルカーが在籍していた。第三セクター鉄道でよく見るタイプで、1両はすぐ近くにあった同じく第三セクター鉄道の三木鉄道が廃止になったとき譲り受けたものである。
 しかし、これら在籍する車両が引退するわけではなく、路線を延ばすわけでもないのにキハ40形導入となった経緯は、路線のほぼ中間の法華口駅に列車の行き違い設備を設け、増発が可能になったためである。

■五能線のキハ40がやってきた
 それまで北条鉄道には列車交換設備がなく、1本の列車しか運転できなかったが、列車の行き違い設備を設けたことで2本の列車が運転できるようになった。在籍する3両のうち、2両を運転し、1両がメンテナンスなどを受けると予備車がなくなるため、1両増備されたのだ。こうして、新型車両より安価に導入できる元JR東日本の五能線を引退したキハ40形導入となったのである。
 実際にキハ40形と対面すると、五能線で見ていたときよりピカピカに磨かれた元気な姿で嬉しくなった。キハ40形はJR西日本の山陰地区にも多く残っているが、JR西日本では長く利用されている反面、窓が換気程度にしか開かないよう改造され、サイドビューの印象が変わっているのに対し、今回導入された車両は、デザインこそ五能線カラーであるが、冷房化されたこと以外はオリジナルスタイルで、いかにも「キハ40」を思わせる姿が鉄道ファンの心をくすぐるのではないかと感じた。

■「五能線当時のまま」をうまく利用
 車内に入って苦笑してしまったのは、路線図が五能線当時のままというところで、「深浦」「鯵ケ沢」といった、この土地とは無関係の地名が見られることである。かつて、一般的には中古車両であることに興味を持つのは鉄道ファンだけであったが、北条鉄道では「東北の車両がやってきた」という部分をうまく利用している。
 トイレの外壁部分には「キハ40導入支援者一覧」があり(トイレは使用できない)、支援者名や団体名がずらりと並ぶ。キハ40形導入に際してはクラウドファンディングによっての資金調達が実施され、目標金額を大きく上回る金額が集まったという。
 沿線にはカメラを構えた鉄道ファンをずいぶん見かけた。これといって山越えなどの区間はないが、全体的に日本の田舎の原風景のような沿線で、非電化ゆえ架線柱がないので、どの駅で降りてもそれなりに絵になる風景となる。
 人気のキハ40形は4両のうちの1両であるが、北条鉄道のウェブサイトに4両の運用予定が掲載されているので、事前に運行日や時間などは確認できる。キハ40形はおもに週末の運転となっているので、やみくもに走らせず、週末の来訪者のために温存しているともとれるスケジュールである。
 2022年2月22日付記事(小湊&いすみ鉄道、首都圏で満喫「国鉄型キハ」の旅)でも述べたが、旧国鉄型ディーゼルカー運転には、故障時の部品補充がネックになる場合があるので、大切に使うという考えも重要であろうと思う。

■大阪へ出るなら高速バスが圧倒的に便利
 終点の北条町は兵庫県内陸、加西市の中心になる町で、駅前には大きなショッピングセンターがあった。
 この地域は中国自動車道が東西に通っていて、地域交通はほぼ自家用車である。大阪へ出るのに、鉄道だと北条鉄道から加古川線、山陽本線、あるいは粟生から神戸電鉄、阪急電鉄などと乗り継がねばならないが、高速バスなら乗り換えなしでアクセスできる。道路を中心に考えると便利な立地だ。
 高速バスは高速道路上の「北条」バス停があるほか、始発の高速バスは「アスティアかさい」を起点にする。「アスティアかさい」とは前述のショッピングセンターのことで、つまりは北条町駅前なのだが、バス停名は駅であることに触れておらず、地域住民の足として、鉄道の利用度が低いことを思わせる。
 このため、もっとも需要の高そうな北条町から大阪へは高速バスが楽で運賃も安い。では、兵庫県の県庁所在地神戸の三宮へ行くと仮定すると、北条鉄道、神戸電鉄、阪急電鉄と乗り継ぐのが一番便利となる。ちなみに、北条鉄道の運賃は第三セクター鉄道としては安価なほうで(10km360円)、距離当たりの運賃は神戸電鉄より安い(神戸電鉄は10km400円)。もちろんJRのほうが距離当たりの運賃は安いのだが(加古川線10km210円)、JRで神戸方面へ出ると加古川経由になり、距離が長くなり、かえって高額になってしまうのだ。
 大阪へ出るなら高速バスが便利だが、神戸へは北条鉄道も大きな役割を果たしているはずである。

■都会人のオアシス的な存在としてうまく機能
 そうこうしていると、粟生駅に1台の観光貸切バスが停車、北条鉄道側では時刻表に載っていない、キハ40形ではない列車が行先表示を「回送」にして到着、間もなく行先表示が「団体」に変わった。貸切バスの乗客が北条鉄道の団体列車に乗るのだ。この列車は回送時、法華口でキハ40と交換しているはずで、早くも行き違い設備を設けた効果が表れていた。
 貸切バスの乗客は「神戸から来ました」といい、「国鉄の古い電車にも乗る」といっていた。女性がほとんどで、もちろん鉄道ファンといった感じではなく、カメラではなく、皆さんスマホでしきりに車両を撮っている。
 一概にはいえないことであるが、熱心な鉄道ファンは、北条鉄道のキハ40を撮るにしても、自家用車で来て、ここぞというポイントで撮影し、案外キハ40に乗る人は少ないのであろう。中国自動車道が至近なので車でのアクセスは非常にいい。

■北条鉄道の「うまい立ち回り」
 そのため、「乗り鉄」以外の一般客をどう誘客するかが利用率アップのカギに思えた。そういう意味では北条鉄道はうまく立ち回っていると感じたのである。沿線にこれといった見所はないが、関西圏から若いカップルなどの気軽な日帰り旅にもってこいの場を提供しているように思えた。路線が短いので1日乗車券も1000円以下である。
 地方ローカル線の存続が話題になっていて、その都度問題になるのが、その地域の利用者の減少であるが、地方では地域内の移動は自家用車が圧倒的に便利で、人口も減っているのだから、鉄道利用者が増える要因はほぼなくなっている。

■日帰り旅にちょうどいい
 北条鉄道は「地域民の利用者を劇的に増やすことには限界がある」さらに「見所も少ないので観光客誘致も難しい」が、関西圏からのちょっとした日帰り旅にちょうどいい場を提供し、鉄道、しかもレトロなキハ40に乗れるという部分が役立っていると感じた。若いカップルなどにしてみれば、「混雑するところには行きたくない」という人も多いだろう。
 地方ローカル線には、「地元利用者は少なくても、都会人の休日のオアシスになれれば」といった視点が必要であろう。
 鉄道ファン目線でいえば、「国鉄型」なら加古川線の103系もあるし、すぐ近くの播但線普通列車は電化区間が103系、非電化区間はキハ40系ばかりで運転、ともに「国鉄型」である。形式でいえば、北条鉄道のキハ40がそんなにレアな存在ともいえないはずである。
 キハ40に乗車して感じたのは「ちょうどいい程度に人気者になっていた」という点だ。1両しかなく、毎日必ず運転しているわけでもない。逆に大騒ぎになっても受け入れられないであろう。その辺のさじ加減がよかったと思われる。

■粟生での接続は3社とも良好だったが…
 北条鉄道は関西圏からほど近い場所に位置しているという点も見逃せないが、とくに観光資源はなくても、都会人のオアシス的な場所にはなりうるという点も感じたのである。
 北条鉄道の起点となる粟生駅は乗り換えが便利にできていて、加古川線両方向、神戸電鉄、3社4方向の列車が、どれも本数は少ないものの、それぞれが同じ時間帯にやってくるので、どの列車からどの列車へも待ち時間が少なく接続している。
 しかし、ひとつ残念に思ったのが復路、午後に粟生から加古川へ乗った加古川線であった。やってきたのは西脇市始発の125系の単行であるが、粟生ですでに満席状態で立ち客が大勢いる。さらに厄神で大勢の客が乗車、超満員で加古川へ到着した。厄神ではお年寄りも乗車したが「お気の毒」としかいいようがなかった。
 おそらく加古川線の列車の車両運用は、あまり現場を見ていない人が、運転する側の効率化を優先して決めたのではないだろうか。

■小回りの良さで需要発掘?
 北条鉄道キハ40の乗客は「たまにはこういうレトロな鉄道での旅もいいもんだ」と満足げな顔であふれていたのに対し、復路の加古川線は「ただただ早く加古川へ到着するのを待つ」という顔ばかり、あまりに対照的であった。
 私は加古川線を毎日利用しているわけではないので、平均的なことはわからないが、小回りの利く北条鉄道に需要発掘の成果が出はじめているのに対し、大きな組織だと、需要がありながら、みすみす利用者に見限られてはいるのではと心配になったのである。
東洋経済「鉄道最前線」より


≪くだめぎ?≫
 北条鉄道北条線は1915(大正4)年3月に播州鉄道が開業させ、1943(昭和18)年6月に播丹鉄道が国有化、国鉄加古川線と一体に成っていた路線だ。特定地方交通線第1次廃止対象として、1985(昭和60)年4月第三セクター鉄道に転換し、経営分離した。加古川線は加古川流域であり、加古川駅起点の路線で、加古川市は姫路市の隣町である。粟生駅だけが小野市であり、ほぼ加西市内の路線だ。
 粟生駅に1952(昭和27)年4月神戸電鉄粟生線が開業し、現在の路線形成された。粟生線は最大勾配50.0‰の線形も経営的にも厳しい路線だ。
 北条線は今回、路線のほぼ中間の法華口駅に列車の行き違い設備を設け、増発が可能になった、「キハ40」導入は車両面の一環だ。JR加古川線・神戸電鉄粟生線・高速バスを使って、北条線・粟生-北条町 13.6kmのミニ路線に人を引き寄せるか仕掛けたものだが・・。
Posted at 2022/11/05 17:00:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道 | 旅行/地域

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