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2023年01月08日 イイね!

『隅田川』

『隅田川』隅田川
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 隅田川(すみだがわ)は、東京都北区の岩淵水門で荒川から分岐し、東京湾に注ぐ全長23.5キロメートルの一級河川である[1a]。途中で新河岸川・石神井川・神田川・日本橋川などの支流河川と合流する。古くは墨田川、角田川とも書いた。
[写真・画像] 隅田川流域図
1.流域の自治体
埼玉県
川口市
東京都
北区、足立区、荒川区、墨田区、台東区、江東区、中央区
2.歴史
 当川の河道は、元は旧入間川が東京湾へ注ぐ下流部だったが、江戸時代に瀬替えの結果、荒川の本流が流れた。
 明治時代に荒川放水路が建設され、1964年の河川法改正により、放水路を荒川の本流と定め、それに合わせて、岩淵水門から下流の東京湾に注ぐ区間を隅田川と定めた[1b]。

 2-1.古代・中世
 古代に、隅田川は、旧利根川と旧入間川とが現在の足立区千住曙町付近[注釈 1]で一川へ合流し南流して東京湾へ注ぐ河道を指した。その西岸に標高10メートル以下の丘が点在し、古墳時代に古墳が作られた[注釈 2]。また西の不忍池から流出した忍川が注いでいた(鳥越の南付近)。
 一川への合流点より下流へ約1キロメートルの間(現在の水神大橋から白鬚橋まで)の東岸は隅田(墨田、須田)と呼ばれた[注釈 3][注釈 4]。
 合流点から2キロメートル下った墨田区向島5丁目北端付近[注釈 5]より下流は砂州が散在する河口への分流地帯だった[注釈 6]。東京湾へ注ぐ当時の主要河口河道は、この地点から分岐した二つがあり、南西の浅草方向へ向かう現在の河道とは別に、横十間川の方向へ南東へ2キロメートル流れる河道があり、現在の横川・柳島(墨田区)と亀戸(江東区)との間付近で東京湾へ注いだ[2]。ただし、後者の河口河道は次第に土砂の堆積で河勢が弱まった[注釈 7]。
 なお隅田川(および旧利根川)は後者の河口河道に至るまで武蔵国(豊島郡)と下総国(葛飾郡)との当初の国境だった[注釈 8][注釈 9]。
 また南北2キロメートルの合流区間は両国を繋ぐ接点として重要で、771年以降は武蔵国・下総国を経て常陸国へ至る東海道が通り隅田川を渡船で東岸の隅田へ渡った[注釈 10]。835年(承和2年)の太政官符に「住田河」として記されており、「宮戸川」などとも呼称されていた。
 その後も、合流区間もしくは分流地帯の渡河は、武蔵国・相模国と下総国・常陸国とを繋ぐ(さらには平安時代まではさらに奥州へ赴く[注釈 11])重要交通路で[注釈 12]、例えば更級日記によれば菅原孝標一行が都への帰任の際に渡河し武蔵国へ入っている(寛仁4年〈1020年〉9月)。また鎌倉時代中期の「とはずがたり」(後深草院二条)によれば、隅田川に橋がかかっており、現地の人は隅田川を「須田川」と呼んでいたとある(正応3年、1290年)。
 軍勢が通過した例は[注釈 13]、前九年の役で奥州へ向かう源頼義、義家が通過した。治承・寿永の乱で鎌倉へ向かう源頼朝が通過し武蔵国へ入った(治承4年〈1180年〉10月2日に隅田に宿泊)。

 2-1-1.中世以前の河口付近の河道
徳川家康入府以前、首都高速6号向島線向島入口付近からは、現在の鳩の街通り商店街と地蔵坂通り商店街を土手とする(それぞれかつては鷭土手、鶴土手と呼ばれた。)分流が流れ、現曳舟駅付近を経由して、その先押上付近までにさらに3手に分かれ、大横川、横十間川、北十間川にほぼ添う形の河川があったとされている。これらの河川と宮戸川・浅草川とも呼ばれた現在の隅田川下流のいずれが本流にあたるのかは現在判明しておらず、また『北条氏所領役帳』に見られる江戸地域と葛西地域の区分は、現在の隅田川ではなく分流のいずれかが境界線になる[3]。

 2-2.江戸時代
 江戸時代に入ると、吾妻橋周辺より下流は大川()とも呼ばれた[注釈 14]。1629年(寛永6年)に荒川を入間川に付け替える瀬替えにより隅田川の河道は荒川の本流となった。またこの頃に現在の河口への河道へほぼ一本化され、その西岸(浅草、蔵前など)に大規模な河岸が整備され、江戸を支える舟運にとって重要となった。横十間川の方向へ向かう流れへの分岐には牛嶋堤が築かれ最終的に締め切られた。
 浅草茅町河岸、新柳河岸、元柳河岸、浜町河岸、尾上河岸、稲荷河岸、湊河岸、船松河岸などがあった。

 2-3.明治以降
 明治末期から昭和初期にかけて、洪水を防ぐために岩淵水門から河口までの荒川放水路が開削され、1965年3月24日に出された政令によって荒川放水路が荒川の本流となり、分岐点である岩淵水門より下流の以前からの河道は「隅田川」に改称された[注釈 15]。
 関東大震災や東日本大震災などでは、大地震の影響で隅田川が逆流したとの記録もある。

 2-3-1.古隅田川
 詳細は「古隅田川」を参照
 隅田川の上流の古利根川の古い河道の一部はその後古利根川の本流が流れなくなったが、現在、古隅田川と呼ばれる二つの河川として河道が残っている。
1.埼玉県さいたま市岩槻区南平野で元荒川から分かれ春日部市梅田で古利根川に合流する河川
2.東京都葛飾区亀有付近で中川から西へ分かれ葛飾区小菅で綾瀬川に合流する河川[注釈 16]

3.隅田川派川
 隅田川派川()は分流であり、永代橋の下流で分岐して、相生橋の下流で晴海運河に注ぐまでの0.9キロメートルをいう[4]。

4.橋梁
 江戸期において防備上の視点から架橋が制限されたこともあり、明治期ごろまでは多くの渡しによって両岸が結ばれていたが、交通量の増加に伴い次第に木橋などで架橋が進んだ。大正期の関東大震災でその多くが被害を受けたために、国の予算による震災復興事業として鋼橋に架け替えられた。政府は東京復興のシンボルとして隅田川の架橋を全体的な構想の下に実行し、復興事業の技術面での総帥であった帝都復興院土木局長の太田圓三の部下で同院橋梁課長だった田中豊により、統一的なデザインモチーフのもと、それぞれ異なる橋梁形式が採用された[5]。さらに、自動車時代の幕開けとともにより多くの橋の建設が行われた。
 それぞれが特徴のあるデザインとなっている(#画像参照)。なかでも、下流側に位置する永代橋と清洲橋が震災復興時に架け替えられたときは、永代橋を上に張り出すアーチ橋とし、清洲橋を吊橋形式にして際だった対比性を持たせ、構造技術面と環境デザイン面を両立させることに成功を収めている[6]。近年では災害対策連絡橋を主とした橋や遊歩道的な歩行者専用橋なども架けられ、よりバリエーションが豊かになっている。徒歩で渡れるのは26橋で、上流から下流まで歩くと6時間ほどを要するとされる[7]。

5.生物
 コイやギンブナなどの淡水魚の他に、河口に近い下流部にサッパ・コノシロ・スズキ・ボラ・マハゼ・エイなどの汽水魚が生息している。また、冬になるとユリカモメが越冬のため飛来する[東京都建設局より]。大正年間まではシラウオも生息していた[10]。
 吾妻橋より上流のテラス部分に水質浄化のためにアシ原が作られ、小さな干潟を形成し、クロベンケイガニや数多くの水生昆虫の生息地域となっている。また、白鬚橋上流に人工的に湾処(ワンド)が作られ、ボラ、スズキ、マハゼ、クロベンケイガニ、テナガエビが生息し、それらを餌とするコサギやカワウが飛来している。

6.脚注
 6-1.注釈
[注釈 1]^ 水神大橋より上流300メートルの地点。
[注釈 2]^ 待乳山、浅草弁天山、鳥越など
[注釈 3]^ 隅田川東岸が下総国葛飾郡(隅田、寺島、小村井、亀戸島など)だった。
[注釈 4]^ 西岸は江戸時代に橋場と呼ばれた。
[注釈 5]^ 桜橋より上流500メートルの地点。
[注釈 6]^ 牛嶋、請地(浮地)、柳島などの中洲があった(どれも武蔵国豊島郡に属した)。牛嶋は浅草・柳橋の対岸に2キロメートル以上細長く延び、現在の墨田区横網から古墳時代の壺が出土している。
[注釈 7]^ 請地村飛木稲荷はこの河道の中洲に当たる。
[注釈 8]^ この下総国と武蔵国の国境を流れる旧利根川の河道は、現在の古利根川の埼玉県加須市琴寄、川口より下流、埼玉県春日部市の古隅田川、越谷市の元荒川、三郷市・八潮市の中川、東京都足立区・葛飾区境界の古隅田川、足立区・墨田区境界の旧綾瀬川であり、部分的に「隅田川」の名が残っている。その後、荒川瀬替え後の1683年(貞享3年)もしくは一説によれば寛永年間(1622年-1643年)に下総国と武蔵国の国境が変更された。
[注釈 9]^ 埼玉県の古隅田川も併せて考えると、「隅田川」とは、古くは旧利根川が春日部付近から南流し旧入間川と合流し東京湾へ注ぐまでを指していたらしい。
[注釈 10]^ 江戸時代の橋場の渡し。
[注釈 11]^ なお鎌倉時代以降になると、奥州へ向かうには、『吾妻鏡』によれば、岩渕から川口へ旧入間川を渡り北上する鎌倉街道#中路および奥大道(後に日光御成道)の経路が使われている。
[注釈 12]^ 伊勢物語(東下りの段)で主人公が赴いている。
[注釈 13]^ 日本武尊の一向が渡河した伝説も当地に伝わっている。

 6-2.出典
[1]^ a b “荒川水系隅田川流域河川整備計画”. 東京都. 2021年12月24日閲覧。
[2]^ 谷口栄「低地の景観と開発」『水の中世 治水・環境・支配』(高志書院、2013年)
[3]^ 『特別展 隅田川流域の古代・中世世界 水辺から見る江戸東京前史』の図録本(足立区立郷土博物館, すみだ郷土文化資料館, 宮本記念財団編、2007)では、現隅田川を宮戸川(別称ではなく正式名称として)、分流を(中世の)隅田川と位置づけ、中世においてはこの定義での隅田川(最下流は横十間川付近の河口)を国境としている(関連リンク 中世から江戸初期にかけての隅田川 - 消えた隅田川/ スカイツリー634m 一考 - 武蔵・下総の国境、隅田川)。
[4]^ 東京都建設局・隅田川はどんな川?
[5]^ 武部健一 2015, p. 171.
[6]^ 武部健一 2015, pp. 171–172.
[7]^ 隅田川の「歩ける橋」をぜんぶ渡る朝日新聞社withnews
[10]^ 下川耿史『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』(河出書房新社刊、2003年11月30日) 317頁 全国書誌番号:20522067

7.参考文献
・武部健一 『道路の日本史』〈中公新書〉中央公論新社、2015年5月25日。ISBN 978-4-12-102321-6。

8.関連項目
隅田川橋梁群
隅田川の渡し
隅田川テラス
隅田川花火大会
パンの会
荒川堤
大川端リバーシティ21
水上バス
築地川
セーヌ川 - 1988年より東京都とパリ市が友好河川として提携
四万十川 - 1989年より友好河川

9.外部リンク
隅田川流域連絡会 - 東京都建設局
隅田川テラス公式Twitter
『隅田川』 - コトバンク
最終更新 2022年12月21日 (水) 16:27 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
・もともと、旧入間川が東京湾へ注ぐ下流部だったが、江戸時代に瀬替えの結果、荒川の本流が流れた。
・明治時代に荒川放水路が建設され、1964年の河川法改正により、放水路を荒川の本流と定め、それに合わせて、岩淵水門から下流の東京湾に注ぐ区間を隅田川と定めた。
 従って、現隅田川は旧荒川本流であり、江戸時代より前には旧入間川の下流部であった。
Posted at 2023/01/08 17:28:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | 河川改修の実例 | 旅行/地域

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