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2024年10月18日 イイね!

貴賓車クロ157形

貴賓車クロ157形[写真・画像]
(上左)クモハ157+モハ156-1・2との編成組成
東海道本線根府川-真鶴間を走行中の、国鉄157系電車によるお召し列車。: 1980年3月12日
(上右1段目)当日の準急「日光」
東京方3両は増号車扱い。またクモハ157形と向かい合わせのために通り抜け不可。
(上右2段目)お召列車運転の後品川駅に回送された、特急色時代の国鉄クロ157形貴賓用電車。: 1977年6月24日
(下左)183系との編成組成: 1980年8月19日
貴賓車クロ157-1を牽引して原宿皇室専用ホームに進入する国鉄183系回送列車。
 基本情報
運用者 日本国有鉄道
東日本旅客鉄道
製造所 川崎車輛
製造年 1960年
製造数 1両
 主要諸元
軌間 1,067 mm
電気方式 直流 1,500 V
車両定員 16人
自重 38.2 t
全長 20,000 mm
台車 TR59形
制動装置 発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ
 クロ157形は、従来の貴賓車クロ49形[注 34]に代わる御用邸への移動の際など皇室の小旅行用ならびに外国賓客用貴賓車で、お召し列車の簡素化を目的として1960年(昭和35年)7月に川崎車輛で1両のみが製造され、2020年(令和2年)現在もJR東日本に車籍を有する。
 本系列一般車と同じく配置は新製時から一貫して田町電車区(→田町車両センター→東京総合車両センター田町センター)であったが、2012年12月に東京総合車両センターへ回送[3]を実施し、同センター内御料車庫へ収容。2013年3月15日付で田町車両センターの東京総合車両センター田町センターへ改組および車両配置終了に伴い翌16日付で東京総合車両センターへ転属した。
●構造
 車体は、中間車としての使用も考慮して前面貫通構造とし、クハ153形0番台車に酷似する前面形状・低運転台構造[注 35]を採用。ただし、運転室は編成中間に組成される場合などにはシャッターを降ろし入室できない半室構造である。
 153系との併結運転も可能であり初期の試運転で実施された。
 新製時から空調装置を完備しており、屋根上にAU12形分散式冷房装置を搭載。電源は80系サロ85020での冷房試験で使用した自車給電用18 kVAの電動発電機 (MG) [注 36]を再整備して搭載する。客用扉は戸袋を廃した4枚折戸を採用。コンパートメント形式の貴賓室を車体中央部に有し、その前後を控室で挟み込む構造とした。貴賓室の窓は大型合わせガラス[注 37]を片側3枚とし、そのうち中央の1枚は賓客の答礼の便を図るために電動で開閉できるほか、貴賓室は光天井方式で冷房は隣の控室からダクトで導く構造である。さらにテーブルを挟んだ2つの主賓用の椅子は安楽椅子を採用したほか、絨毯の床・ソファ・飾り棚・ラジオなども装備する。定員は6名。
 製造当初の車体塗装は他の157系と同様クリーム4号と赤11号の塗り分けで、赤11号から赤2号への塗り替えも他車と同時期に実施された。車体側面の車号表記は他の157系が車体中央下部への赤色ペイントに対し、本形式ではステンレス製切り抜き文字を後位側出入り台脇への貼り付けとした。
●運用
 当初はクモハ157・モハ156-1が牽引にあたり、クロ157-1を後部に連結した3両編成で運転されたが、1962年6月に牽引車が電気系統の故障により運転不能な状態に陥ったために、次の変更措置が取られた。
・牽引車にクモハ157-2・モハ156-2を追加指定し、両ユニットで挟み込む5両編成を基本[注 38]とした。
 ・その後1966年11月の運転より一旦は運用開始当時の3両編成での運転(ただし牽引する2両は冷房化)となったが、1970年頃より再度5両編成の運転に戻され、以後1980年11月までの間は5両全車が157系の編成で運用されていた。
・二重の安全対策として、冷房化に先立ちモハ156-1・2に第2パンタグラフを設置する工事が緊急に行われた。
 牽引用電動車ユニットは特急用他車の廃車後も残ったが、1980年(昭和55年)2月15日の牽引を最後に同年11月28日付けで廃車[注 39]。1982年(昭和57年)11月までに解体された。 157系廃車後の牽引車は183系1000番台が充当されたが、1985年(昭和60年)3月に183系が長野運転所(現・長野総合車両センター)へと転出したため同時期に新前橋電車区(現・高崎車両センター)から転入した185系200番台が充当された[注 40]。このため外板塗色も当時の185系に準じたアイボリー地に緑帯に変更された。
 1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化時には東日本旅客鉄道(JR東日本)へ承継。民営化後も何度か運転されたが、平成時代に入ってからは、特別扱いを嫌っていた天皇の意向やその他の諸事情などにより列車による行幸は一般向けの車両を使用した「団体列車」形式で行われるケースがほとんどとなり、専用列車を仕立てたお召し列車そのものの運転回数が減少したことや補修部品の確保も難しくなったことから、1993年(平成5年)9月8日の運用を最後に全く運転実績のない状態が続いた[注 41]。
 またクロ157-1による列車運用は原則的に通常の定期列車とは別に設定されるが、1962年10月13日に準急「日光」に併結されて運転されたケースがある[注 42]。
・東京方3両は増号車扱い。またクモハ157形と向かい合わせのために通り抜け不可
●脚注-注釈
[注 35]^ 同様の前面構造を持つ車両では唯一車籍が残存する
[注 36]^ 1969年に40 kVAのものに交換
[注 37]^ 防犯上防弾ガラスである。
[注 38]^ 一部の文献では「安全上等の理由から、通常クロ157形が編成端につくことはない」と間違った記述のある文献も見受けられる。
[注 39]^ 廃車前日の11月27日に両McM'ユニットの間にサロ165-50・12を挟み大船工場(後の鎌倉総合車両センター)に自力回送された。
[注 40]^ クロ157形牽引のみならず運用面でも同様に東京都内と伊豆・草津を結ぶ特急のほか、かつては首都圏と日光を結ぶ臨時特急「日光」にも充当された。このほか大宮総合車両センター所属のOM08編成は2012年(平成24年)2月からストライプ塗装にされる2015年(平成27年)まで本系列を模した塗装を施工。
[注 41]^ その後のお召し列車は1号編成が使用されたほか、2007年(平成19年)にはお召し列車用車両の置換えを目的としたハイグレード車両E655系電車を製造しており、以降はE655系が主に使用されている。
[注 42]^ 多数の文献でクロ157形は営業列車として運転したことがないと記述されているが、本事例により厳密には間違いである。
●脚注-出典
[3]^ クロ157-1とクモヤ145-114が東京総合車両センターへ - 交友社 『鉄道ファン』 railf.jp 鉄道ニュース 2012年12月3日


≪くだめぎ?≫
 実質"特別車両"「E655-1」の先代車種である。「クロ157形」が補修部品の確保も難しくなったことから、1993年(平成5年)9月8日の運用を最後に全く運転実績のない状態であり、御料車庫へ収容された"保存車"てある。
Posted at 2024/10/18 14:54:32 | コメント(0) | トラックバック(0) | 新系列旅客車 | 旅行/地域
2024年10月18日 イイね!

皇室用客車

皇室用客車(上)お召し専用機EF58 61が牽引する御料車1号編成(1984年)
(下)3代目1号御料車を組み込んだ「1号編成」先代の一号編成。写真は最終運用となった2002年の陸羽西線お召しの返却回送。原宿にて :2002年6月1日

 皇室用客車(こうしつようきゃくしゃ)とは、日本の皇族が鉄道で旅行をする時に使用する皇室専用の鉄道車両(客車)のことである。皇室用客車には、皇族が乗車する御料車(ごりょうしゃ)、随伴員が乗車する供奉車(ぐぶしゃ)、天皇、皇后の霊柩を輸送する霊柩車(れいきゅうしゃ)およびご神体である賢所を輸送するための賢所乗御車(かしこどころじょうぎょしゃ)の4種がある。
 かつては東日本旅客鉄道(JR東日本)の東京総合車両センター(旧・大井工場)内の御料車庫において厳重に保管されていた。 2023年、御料車庫の解体が始まる前に保管車両は移動したが、保安上の理由から新たな保管場所は公表されていない[1]。
 お召し列車を運行する際には、入念な事前整備を施した上で用いられる。
01.御料車
 御料車は、歴代の皇族が乗る車両で、「御料」とは、高貴な人の所有物・利用物の意である。
 御料車は、その時代における最高の車両製造技術と工芸美術の粋を結集して製造されており、工芸品としても貴重なものである。また、明治・大正期の一般用客車がほとんど残存していないため、当時の車両製造技術を今に伝えるものとして、鉄道技術史の面でも貴重な資料である。
 御料車に番号が付与されたのは、1911年(明治44年)の鉄道院の車両称号規程制定時で、それまでは、単に玉車(ぎょくしゃ)、鳳車(ほうしゃ)と呼ばれていた。この規程により6両が御料車として番号を付与されたが、それ以後12両が製造あるいは入籍されており、計18両の御料車が存在したことになる。しかしそれ以前に、1872年(明治5年)の鉄道開業式で明治天皇の御乗用に供された客車など、番号を付与されなかった複数の御料車、あるいは貴賓車が存在していたのは確実であるが、その詳細はよくわかっていない。
 かつては、天皇用とは別に皇后用など複数の御料車が使用されていたこともあったが、1号御料車(3代)の落成後は、同車がもっぱら使用された。しかし、2007年(平成19年)にE655系電車が代替車として落成したことにより、使用可能な御料客車は存在しない。1号の他にも、2号(2代)、3号(3代。旧1号(2代))、及び14号が、御料車として2010年現在もJR東日本に車籍を有するが、全く使用されておらず、検査が行われていないため、いずれも予備車としても使用できる状態にない。
 この他に、電車であるクロ157-1やE655-1も同様の用途に供される車両であるが、過去に私鉄に存在した同等の車両、もしくは外国の同種の車両と同様に、貴賓車(きひんしゃ)または特別車両という呼称が用いられる。
 日本国有鉄道(国鉄)時代は全国で1号御料車の運転が見られたが、1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化後は、皇室用客車がJR東日本に継承されたこともあって、ほぼJR東日本管内での運転に限られている。
●番号付与以前
 1872年(明治5年)の京浜間鉄道開業式で明治天皇の御乗用となったのは、鉄道開業時にイギリスから輸入された上等車10両のうちのサロン車と称される「形式A」と推定されている。この客車は、全長25ft、車体長22ft5in、自重約5tで、車内は3室に分かれている。この車両は、新御料車(形式D)の製造にともなって御料車の任を解かれて皇后および皇太后用のお召し車としても使用できる御料車の予備車的存在となり、後に英照皇太后の霊柩車として改造されている。
 1893年(明治26年)にまとめられた形式図集「明治26年略図」には、上記の形式Aの外に、形式Dおよび形式AJの2両の「サロン車」が掲載されている。形式Aおよび形式Dは新橋所属、形式AJは神戸の所属で、形式AJは後に1号御料車となった車両である。形式Dの正確な製造時期を知る資料は見当たらないが、1889年(明治22年)10月の文書に、形式Dの製作指示が推測される文言が残っている。この車両は1890年(明治23年)に完成して明治天皇の京都行幸用に使用されており、長距離の移動に備えて厠が設置された。構造的には形式AJとほぼ同一で、御座所を車体中央部に、その前後に侍従室、女官室が設けられており、形式AJのような大型の側面窓は設けられていない。
 1880年(明治13年)11月に官営幌内鉄道の手宮 - 幌内間が全通、翌1881年(明治14年)8月に明治天皇が北海道へ行幸した際、8月30日にお召列車が運転された。このときに御料車となったのは、1880年にアメリカのハーラン・アンド・ホリングスワース社で製造された「開拓使号」で、同時に導入された8両中最上級の客車であった。同車は1961年(昭和36年)に鉄道記念物に指定され、交通博物館に保存された。交通博物館閉館後は、2007年(平成19年)10月14日にさいたま市大宮区に開館した鉄道博物館で展示されている。
ホヤ5015の形式図
 1911年(明治44年)8月、皇太子(当時。後の大正天皇)が北海道へ行啓することとなり、同年3月、札幌工場で御乗用客車が製造された。この客車は後年ホトク5015となったものであるが、当時の写真によれば、同車には記号番号とも標記されておらず、実質的には御料車として扱われていたようである。全長は14,732mm、幅は2,737mm、高さは3,842mm、屋根は、全長にわたってモニター屋根、定員は21人であった。車体中央に御座所が設けられており、両側には供奉員室が設けられている。御座所の床は絨毯敷きで、大椅子1個、肘掛椅子2個、テーブル1脚が置かれていた。供奉員室は、長手椅子で肘掛が設けられていた。この「御料車」が皇族の御乗用とされたのはこの1度きりで、その後一般用の特別車に転用された際に、形式番号が与えられたものと推定される。同車は1917年(大正6年)に苗穂工場で職用車に改造されホヤ5015となったが、1928年(昭和3年)の形式称号規程改正ではコヤ6610とされ、1951年(昭和26年)12月まで在籍した。
●1号御料車(3代)
 現在の1号御料車は、昭和天皇の御乗用として、1960年(昭和35年)に国鉄大井工場で製造されたもので、1876年(明治9年)に製造された2軸客車の初代、1932年(昭和7年)に製造された2代目(現・3号)に次ぐ、3代目の1号御料車である。
 車体は、当時の最新鋭客車である20系客車をベースに、鋼体を厚くする、窓を防弾ガラスに換える等の保安対策を施した構造となっており、旧形客車とは違う平滑でシンプルな外観が特徴である。台車もこれまでの御料車に使用されていた三軸台車から空気バネ使用の二軸台車・TR65を使用している。
 車内は、次室・御座所(皇族が乗る箇所)・御休憩室・御化粧室・御厠(トイレ)・配電室が配置され、出入台(デッキ)は観音開き式とし一個所に集約。御剣璽室・御剣璽奉安所は省略された。内装は出入台・御厠を除き総絹張りとし、御座所・御休憩室・御化粧室はそれぞれ異なる時代様式としている。御座所の天井は平天井とし、20Wの蛍光灯を80本使用した光源を白いアクリル板を透かして照明とする光天井としている。側窓は複層ガラスによる固定窓としているが、御座所については他より大きな窓が3枚ずつあり、このうち中央の1枚は電動で上下し、開閉することができる。御座所内には豪華なソファの他、テレビとラジオがあり、冷暖房も完備されている。
 御座所の天井以外の内装には、和風調度品をふんだんに用いており、その時代における日本の最高級の車両製造技術と美術工芸の粋を駆使して製造されている[7]。
 御料車の外装は、それまでの漆に代わり深紅色の合成樹脂ラッカー塗装で、さらにワックスで磨き上げている。また側面の上下には2本の金線が入っているが、これは本物の金箔を貼りつけている。窓枠は金メッキとしていたが後に金箔の貼りつけに改めた。
 御座所の外側、開閉可能な窓の下には、紋章取付座がある。ここには、天皇が乗車する場合に限り金色の天皇家の御紋章(十六弁八重表菊紋)が取り付けられる。車両限界に対する御紋章の厚みを考慮し、20系客車同様の広幅車体は採用せず、車体下部の裾絞りのない垂直な側板形状となっている。
 なお、御料車としては初めて製造所銘板が取付けられている。前位端梁には青銅鋳物に金メッキされた通常より小型サイズのものが、配電室には黄銅板にエッチングを施し、さらに金メッキをしたものが取付けられた。
 本車は、供奉車の460号・340号・330号・461号と固定編成を組んでおり、一般に「1号編成」と呼ばれている。これらの供奉車は、1931年(昭和6年)から翌年にかけて1号御料車(2代。現・3号)との編成用に製造されたものであるが、本車の落成とともに改装され、460号にディーゼル発電機を設置して20系客車に準じた交流600V/60Hzを供給する給電システムに改めている。
 JR東日本は、2007年(平成19年)に1号編成に代わる貴賓用電車E655系と特別車両E655-1を新製し、現在はこれらの車両を用いている。それにともない、供奉車4両を含む1号編成は保留車となっており、東京総合車両センター内の専用車庫に厳重に保管されている。なお、検査も行われていないことから1号編成の出番は今後はないものと思われる[8]。
02.供奉車
 供奉車(ぐぶしゃ)とは、お召列車が運転される際、随伴員(宮内庁関係者や警備関係者、鉄道職員など)が乗車する車両のことで、皇室用客車の一種である。
 鉄道が開業した当初は、一般営業用客車の中から適宜選定して編成していたが、6号御料車が完成した1910年(明治43年)以降専用の客車が製造されるようになり、宮廷列車編成用車と呼ばれた。また形式称号は、一般用客車のものが付されていた。
 供奉車が現在のような番号を付されるようになったのは、1928年(昭和3年)10月の鉄道省の車両形式称号規程改正の際で、11両が供奉車となっている。木造車のうち2軸ボギー車は100番台及び200番台、3軸ボギー車は700番台が付与されている。それ以降に製造された鋼製車は、300番台及び400番台が与えられている。
 2018年4月現在、1号御料車と編成を組む4両が、いずれもJR東日本に車籍を有するが、保留車となっている。
●鋼製車
 鋼製の1号御料車(2代)及び2号御料車(2代)製造の際に計画されたもので、1931年(昭和6年)から1933年(昭和8年)にかけて11両が鉄道省の工場で製作された。
 車体は鋼製の丸屋根で、同時期に製造された一般用客車(スハ32系)と異なり、妻部の形状は御料車と同じ切妻状となっている。組み立てに皿鋲を使用して外板を平滑化した御料車に対し、通常の丸鋲を使用しており、印象は異なる。外板塗色は、本グループより御料車と同様の深紅色となっている。全長は20m、幅は2.900m、高さは3.83m、車体の両端に出入り台を有し、台車は3軸ボギーのTR73またはTR73Aである。
 太平洋戦争後は、お召列車への軍人の乗車がなくなったこともあって所要数が減少し、一部が一般用あるいは事業用に転用された。現1号御料車落成後は2号御料車の使用がほとんどなくなったこともあり、2号編成用の供奉車も国鉄分割民営化直前に廃車され、344号車以外は大船工場で解体された。
 2018年4月現在、以下の4両がJR東日本に在籍しており、460 - 340 - 1号御料車 - 330 - 461 の順で連結して使用された。
460号 - 電源車。2基のディーゼル発電機のほか、技術員室、荷物室、給仕室を持つ。3軸ボギー台車を装着している。
340号 - 供奉員の乗車用。1等回転座席16、2等固定座席30を持つ。
330号 - 主要な供奉員の乗車用。1等回転座席25と、供進所を持つ。
461号 - 鉄道関係者の乗車用。固定座席28(2等席12・3等席16)と、荷物室などを持つ。3軸ボギー台車を装着している。
 ●330形(330)
 一等車で、1号編成用として1931年12月に大井工場で製造された。前位側に供進所(調理室)、後位側にトイレと洗面所を有する。定員は27人、1人掛の回転椅子を備えている。自重は38.7t。
 1960年(昭和35年)、1号御料車(3代)の落成にともなって固定編成方式に改造され、その際に床下に冷房装置を搭載し、風道を客室内に立ち上げたことから定員が2名減少し25人となるとともに、外観上も窓が1個埋められている。台車も1号御料車と同じ2軸ボギーのTR65に交換され、自重は38.4tに減少した。
 ●340形(340)
 一・二等合造車で、1号編成用として1931年12月に大宮工場で製造された。前位寄りに一等室、後位寄りに二等室があり、その中間にトイレ・洗面所がある。定員は一等16人、二等30人で、一等席には1人掛の回転椅子、二等室には固定式のボックスシートを備えている。自重は39.0t。
 1960年(昭和35年)、1号御料車(3代)の落成にともなって固定編成方式に改造され、その際に床下に冷房装置を搭載した。台車も1号御料車と同じ2軸ボギーのTR65に交換され、自重は38.1tに減少した。
 ●460形(460 - 463)
二・三等荷物合造車で、1号編成用として1932年3月に2両(460, 461)、2号編成用として1933年3月に2両(462, 463)が、いずれも小倉工場で製造された。前位から二等室、給仕室・湯沸所、荷物室、トイレ、三等室に区分されている。定員は二等12人、三等18人で、いずれも固定式のボックスシートを備えており、荷物室の荷重は3t、自重は38.8tである。
 460と461は、1960年(昭和35年)、1号御料車(3代)の落成にともなって固定編成方式に改造され、461は二等室(旧三等室)の定員が16人に減少した程度で大きな改造はなかったが、460はディーゼル発電機を搭載して編成全体の電源をまかなう電源車に改造され、大きく外観が変わった。車内は、前位から給仕室・湯沸室、荷物室、技術員室・トイレ、機械室、車掌室となり、自重は51.6tとなっている。
 2号編成用だった462, 463は、長らく大船工場に放置されていたが、国鉄分割民営化直前の1986年に除籍、解体された。
03.霊柩車
 皇室用の霊柩車としては、英照皇太后(孝明天皇の皇后)、明治天皇及び大正天皇の大喪の礼の際にそれぞれ新製された3両が存在する。これらには、形式、記号、番号のいずれもが付与されておらず、「霊柩車」が名称であるが、ここでは便宜的に、それぞれ初代、2代、3代と称することとする。
 これらの他に、葉山御用邸で崩御した大正天皇の遺体を東京の宮城(皇居の旧称)に還幸させるために、3号御料車(初代)が霊柩車に改造のうえ使用されたが、名称、番号等の変更はなかった。同車は、1951年(昭和26年)の貞明皇后の大葬の際にも13号御料車と改称のうえ、霊柩車として使用されている。
●3代
 1926年(大正15年)12月25日に崩御した大正天皇の大葬の際に、製造中の客車を大井工場で改造して製作されたもので、形態的には大型客車(22000系)に属する。
 3号御料車の改造計画とほぼ同時に計画されたもので、車両の性格上、車体中央部に大きな開口部を設ける必要があることから、床下にトラスロッドを有する旧設計の未成郵便荷物緩急車の台枠と台車を流用することとして製作期間の短縮を図っており、翌1927年(昭和2年)1月20日になり落成した。 あくまでも大喪の礼に合わせて製作されたもので、崩御直後の1926年(昭和元年)12月27日、逗子駅から原宿駅間で運行された「御霊柩列車」[10]には使用されていない。
 車体は木製で、全長16.86m、大正14年式の2軸ボギー台車を装着し、車体の中央部の片側に幅3200mmの扉を設けた。 奉安室内はヒノキの白木造りで、床面には霊柩安置の際に使用するガイドレールを設置した。四方のカーテンは羽二重で金具類は全て銀製。釘隠しも菊の銀細工が用いられた。床は草色の絨毯が使用されている[11]。 外板塗色は、御料車と同様の深紫色の漆塗りで、羽目板は継ぎ目を見せない平滑な横張りとしている。
 1927年2月7日に挙行された大正天皇の大葬後は、2月13日から4月4日までの48日間、東浅川駅に据え置いて一般の拝観に供した。その間の拝観者数は、63万9千人に達したという。
 1933年(昭和8年)、一等病客車オイヘ26900に改造された。定員16人、自重34.86t。同車は、1949年(昭和24年)10月に鋼体化改造され、オハ60 5となった。
04.賢所乗御車
 1915年(大正4年)に行われた大正天皇の御大礼(即位式)の際に、賢所(御神体)の輸送用に製作された車両である。この車両には霊柩車同様、形式、記号、番号のいずれもが付与されていない。1928年(昭和3年)の昭和天皇の御大礼の際にも使用された。
「賢所乗御車」を参照
05.旧外地皇室用客車
詳細は「台鉄花車」を参照
●台湾鉄路管理局SA4101
 1912年に台湾総督府鉄道トク2として製造された木造ボギー車である。元々皇太子嘉仁親王の台湾視察に供するため製作されたものだが、明治天皇の崩御により、10年後の皇太子裕仁親王の台湾視察の際に、ようやくお召し列車として運用された。皇太子専用車両であり、朝鮮皇太子李垠も乗車したことがある。戦後は内装の一部改装が行われ、蔣介石専用の「花車」SA4101となり、蔣介石の福隆への行楽などに何度か使用された。1968年、新しい空調付き特別車が完成したことにより、この車両は予備車となるが、今までも特殊車両として大切に保管されている。
●台湾鉄路管理局SA4102
 1904年にトク1として製造された。皇族用車両ではなく、台湾総督など要人用の特別車両である。戦後はトク2同様に一部改装が行われ、宋美齢専用の「花車」SA4102となった。
06.記念切符
・1976年、国鉄は天皇ご在位五十年を記念した記念切符を発売。1号御料車(初代)、12号御料車、3号御料車(3代)、1号御料車(3代)を印刷した急行券4枚で、全国主要46駅で約30万枚が用意された[12]。
・1986年、近畿日本鉄道は天皇在位六十年を記念した記念切符を発売。1932年(昭和7年)に、お召し電車として使用された300形電車の外観と車内の写真が配されたデザインであった[13]。
07.脚注
[1]^ “大正時代のれんが造り「御料車庫」の解体が始まる 失われる東京・品川の鉄道遺構 JR東日本が再開発”. 東京新聞 (2023年4月2日). 2023年5月11日閲覧。
[7]^ 星晃『回想の旅客車 特ロ・ハネ・こだまの時代』上(学習研究社、2008年) 御料車と貴賓電車 p143~p146
[8]^ 東日本旅客鉄道鉄道事業本部運輸車両部車両運用計画グループ 白土裕之「3月15日ダイヤ改正 JR東日本 客車・機関車の動き さようならEF58 61、夢空間、ゆとり…」『Rail Magazine』2008年4月号(通巻295号)、ネコ・パブリッシング。
[10]^ 弔砲四十八発、葉山から東京に還御『東京日日新聞』昭和元年12月28日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p363 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
[12]^ 記念切符を発売『朝日新聞』1976年(昭和51年)10月13日朝刊、13版、22面
[13]^ 原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、71頁。ISBN 978-4-10-320523-4。
08.参考文献
・星山一男「お召列車百年」1973年 鉄道図書刊行会刊
・「皇室用客車図面集」1986年 鉄道史資料保存会刊 ISBN 4-88540-049-X
・鉄道院「客車形式図 下」
09.関連項目
お召し列車
国鉄32系電車#クロ49形
国鉄157系電車#貴賓車クロ157形
JR東日本E655系電車
樺太鉄道局#中型木製二軸ボギー車
木曽森林鉄道#客車
10.外部リンク
御召列車博物館(鉄道車両)
最終更新 2024年5月6日 (月) 13:12 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


≪くだめぎ?≫
 「460号にディーゼル発電機を設置して20系客車に準じた交流600V/60Hzを供給する給電システムに改めている。」
そのため、『1号編成』2002年6月1日の最終運用となった陸羽西線お召しの返却回送以降、
使われなくなった様である。
Posted at 2024/10/18 09:58:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | 新系列旅客車 | 旅行/地域
2024年10月18日 イイね!

れんが造り「御料車庫」

れんが造り「御料車庫」大正時代のれんが造り「御料車庫」の解体が始まる
失われる東京・品川の鉄道遺構 JR東日本が再開発
2023年4月2日 06時00分
[写真・画像]
(上)解体が始まったJR東日本・東京総合車両センターの御料車庫=東京都品川区で
(下段左)解体工事が始まった「御料車庫」(中央)。手前では再開発の工事が進む。御料車庫に隣接する建物は品川区役所=本社ヘリ「おおづる」から(由木直子撮影)
(下段右上)略図
(下段右下)日の丸を掲げて走るお召し列車=1999年

 天皇、皇后両陛下らが利用する「お召し列車」を大正期から保管してきた、JR東日本の東京総合車両センター内の「御料車庫」(東京都品川区)の解体が始まった。隣接する品川区役所の新築移転を含めた再開発に伴い撤去される。歴史を感じさせる赤れんがの建物だけに、区民からは保存を求める声が今も上がっている。(梅野光春)
◆お召し列車保管100年余りでも「構造に特殊性ない」
 JR東日本が関わる鉄道遺構では、鉄道開業時に造られた「高輪築堤」(東京都港区)が再開発のため、一部保存にとどまった。これに続き、JR東の再開発で鉄道の歴史を示す建造物が解体されることになる。
 関係者によると御料車庫は1914(大正3)年ごろ、当時の鉄道院が建設。鉄道の起点だった旧新橋停車場に併設された車両整備工場の移転に合わせ建てられた。関東大震災(23年)を経て、太平洋戦争で空襲も受けたが焼け残った。
 計2棟のうち1棟は既に壊されて品川区役所の敷地となり、最近は残る1棟にお召し列車が保管されていた。長さ約90メートル、幅約15メートルの細長い形。壁面は赤れんがを積んで造り、上部は鉄骨で支える構造。計3線の線路が敷かれていた。
 JR東によると、保管していた車両は既に別施設に移したが、保安上の理由から場所は公表していない。車庫は3月から解体に着手し、並行して調査し記録を残す。れんがの一部は、再開発でJR・東急の大井町駅前に整備するバス・タクシー乗り場の壁面に活用するという。
 再開発は大井町駅西側の約7.1ヘクタールを対象に、JR東は住宅や宿泊施設が入る26階建てビルなど計2棟を建設。品川区は新区役所庁舎の建設を2025年度に始め、27年度中の移転を目指している。
 区によると、御料車庫は再開発で新設する道路ルート上にあるため、解体を検討。JR東が専門家から意見聴取し、構造に特殊性がないことなどから撤去を決めたという。JR東は「区と連携し、有識者を交えて方針を検討した結果、調査記録の保存と、建物の一部の移設・保存を行うことにした」としている。
 区が昨年実施したパブリックコメントでは「れんが造りの建物を活用し、大井町のシンボルに」などと保存を求める声も上がった。意見を寄せた一人は「JR東が発足する前からの建物で、もともと国民の財産。歴史を語るきっかけになるのに、なぜ大切にしないのか」と憤る。
◆識者「貴重な建造物。解体判断の根拠を説明すべき」
 老川慶喜・立教大名誉教授(鉄道史)の話 JR東日本の東京総合車両センターは、国内の鉄道発祥の地・旧新橋停車場の整備工場の系譜を引く施設で、御料車庫はそうした歴史を示す貴重な建造物。JR東は、解体すると判断した根拠を説明すべきだ。高輪築堤も一部保存にとどまった。JR東は、鉄道にまつわる文化財を再開発後の街づくりに積極的に取り込むよう、姿勢を改めるべきだ。
東京新聞


≪くだめぎ?≫
 「E655-1」が"特別車両"とされたのは、『御料車庫』の扱いに支障なくするためではなかったのか・・。
Posted at 2024/10/18 08:26:35 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道 | 旅行/地域
2024年10月18日 イイね!

特別車両:E655-1 (TR)

特別車両:E655-1 (TR)E655系電車 (E655けいでんしゃ)は、
2007年(平成19年)に登場した、東日本旅客鉄道(JR東日本)の交直流特急形電車。
[写真・画像]
(上左)特別車両(菊花紋章を取り付けた状態)E655系の御料車。令和元年9月28日撮影。
(上右)JR東日本E655系電車 特別車両:E655-1 (TR) 新習志野駅で撮影 作成: 2010年9月27日
(下左)E655系によるお召し列車 (2012年10月6日 武蔵境駅)
(下右)E657系に組み込まれ試運転を実施したE655-1 (2011年9月28日 大崎駅)
●特別車両:E655-1(TR)
特別車両として皇室又は同時に国賓が利用する際のみ、3号車と4号車の間に連結される付随車。「サイ」「サロ」などの記号は付されていない。
3号車寄り車端に出入台があり、次室、特別室<御座所>、休憩室<御休憩室>、トイレ<御厠>と続く(<>内は1号御料車の名称)。特別室は、壁・天井とテーブルに大分県産の高級杉材を用いた内装に菊柄の絹織物を張ったソファを設け、床には9種類の伝統文様を配した手織りの絨毯を敷いている。特別室の窓の天地寸法は950 mmと他の箇所より大きく、中央部の窓は幅2,200 mmの電動昇降式となっている。1号御料車に設けられていた御化粧室の機能は休憩室に統合され、ベッドにもなるソファと三面鏡付き化粧台を設置している。外装は特別室の窓下に金帯がなく、広幅窓下中央に菊の御紋を取り付けるための窪みがある。空調装置は床下集中式[11]のAU303形で、屋根上には休憩室付近のアンテナ2本(用途非公表)以外に何もない。車両番号は妻面に標記されている。付随車ながら空車重量は40.5 tある。
E257系、E653系、E657系に組み込んで走行することも可能な構造になっており、各車両を使用した試運転も行われている。

皇室用客車
1号御料車(3代)
 現在の1号御料車は、昭和天皇の御乗用として、1960年(昭和35年)に国鉄大井工場で製造されたもので、1876年(明治9年)に製造された2軸客車の初代、1932年(昭和7年)に製造された2代目(現・3号)に次ぐ、3代目の1号御料車である。
 本車は、供奉車の460号・340号・330号・461号と固定編成を組んでおり、一般に「1号編成」と呼ばれている。これらの供奉車は、1931年(昭和6年)から翌年にかけて1号御料車(2代。現・3号)との編成用に製造されたものであるが、本車の落成とともに改装され、460号にディーゼル発電機を設置して20系客車に準じた交流600V/60Hzを供給する給電システムに改めている。
 JR東日本は、2007年(平成19年)に1号編成に代わる貴賓用電車E655系と特別車両E655-1を新製し、現在はこれらの車両を用いている。それにともない、供奉車4両を含む1号編成は保留車となっており、東京総合車両センター内の専用車庫に厳重に保管されている。なお、検査も行われていないことから1号編成の出番は今後はないものと思われる[8]。
[8]^ 東日本旅客鉄道鉄道事業本部運輸車両部車両運用計画グループ 白土裕之「3月15日ダイヤ改正 JR東日本 客車・機関車の動き さようならEF58 61、夢空間、ゆとり…」『Rail Magazine』2008年4月号(通巻295号)、ネコ・パブリッシング。
以上 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


≪くだめぎ?≫
 特別車両"E655-1"は「1号御料車(3代)」(1960年(昭和35年)国鉄大井工場製)の後継として2007(平成19)年に投入された。現在「1号御料車(3代)」を含めた"「1号編成」"自体が検査も行われていないことから、
"お召し列車"専用車 E655系電車+特別車両E655-1
で運行される。ここでも"電車"時代、専用機関車は過去になった。

「センチュリーロイヤル」の鉄道車両版だ。
Posted at 2024/10/18 07:35:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | 新系列旅客車 | 旅行/地域

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