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ディーゼルオート店のブログ一覧

2013年11月24日 イイね!

ゴム部品の研究に着手

ゴム部品の研究に着手トヨタ自動車 75年史  (2012年)
> 文章で読む75年の歩み
> 第1部 『自動車事業への挑戦』
> 第2章 『自動車事業の確立』
> 第3節 基礎技術の研究・開発
第6項 ゴム部品の研究・開発
ゴム部品の研究に着手

[写真] トヨタ・トラックのブレーキ系統図

豊田喜一郎は、有機化学にも関心を抱いていた。既述のように1932(昭和7)年12月には事業多角化のため、庄内川レーヨンを設立したが、同社も有機化学会社に属するといえよう。また、レーヨンの製造に関しては、同年12月から1937年10月の間に工業所有権を出願し、特許権4件、実用新案権5件を得ており、自動車製造と並行して人造繊維製造の研究も行っていたのである。

1934年にA1型試作乗用車の設計を開始した際、ボデー・スタイルとシャシーはクライスラー系のデソート車を参考にし、ブレーキについてもデソート車と同様に4輪油圧ブレーキを採用した。1.当時、シボレー、フォードの乗用車・トラックとも機械式ブレーキであり、油圧ブレーキは一般的ではなかった。このため、油圧ブレーキ部品やブレーキオイル(ブレーキ液)は輸入品を用いるとともに、それらについての研究が必要になった。

喜一郎は、1934年11月に化学関係の技術者である木村富士信 2.を採用し、「自動車に関するいっさいの化学的なことをやるように」、「自分でつくってみるように」と指示した。3.木村は、製鋼部研究室化学試験室で自動車部品の材質調査・研究に携わり、金属材料とあわせて有機材料の分析も行った。このころ、自動車に使われていた有機材料としては、タイヤ、チューブ、ファンベルト、エンジン架装や懸架装置のゴム製クッション材(防振ゴム)などがあり、ブレーキオイルもその一つであった。4.

油圧ブレーキの研究を開始するにあたり、まず化学試験室程度の設備で間に合うテーマとして、ブレーキオイルの調査研究に着手した。1935年ごろは油圧ブレーキが輸入車に装着され、普及し始めた時期であったため、国産のブレーキオイルに見るべきものはなかった。

当時のブレーキオイルは、植物油を主成分とし、適切な粘度に調整する必要から、アルコール系の溶剤が混合されていた。化学試験室での調査研究の結果、植物油のヒマシ油にダイアセトンアルコールを加えて、粘度を調節するのが最適であることがわかり、小規模な自家生産を開始した。このブレーキオイルの製造は、刈谷工場ゴム課がトヨタ自工から分離独立する1943年ごろまで続けられた。5.

さらに、油圧ブレーキの研究として、米国ワーグナー社製油圧ブレーキ・シリンダーのゴム製ピストンカップ、およびカバー(ブーツ)類の化学分析を行った。また、1935年には油圧ブレーキ用ゴム部品の試作のため、製鋼部研究室の東側に隣接した約80坪(約260m2)のブレーキ試験工場(試作工場)に、試験ロール機(8インチ×20インチ)、プレス機(20インチ×20インチ)などを据え付け、試験的なゴム部品の製作を開始した。

そのほか、ブレーキ・ライニングを開発した。当時のブレーキ・ライニングは、石綿(アスベスト)を結合剤で固めて作られ、結合剤としては、アスファルトやピッチ、ゴム、フェノール樹脂などが用いられていた。化学試験室ではゴム部品研究の延長として、石綿の繊維や細粉をゴムの結合剤で練物にして硬化させたブレーキ・ライニングを開発・実用化した。このブレーキ・ライニングは、刈谷工場ゴム課が分離して、国華工業名古屋工場になってからも製造され、トヨタ自工へ納入された。

注1. G1型トラックにも油圧ブレーキが採用された。

注2. 製鋼部研究室化学試験室の技術者。東北帝大金属材料研究所から豊田自動織機製鋼部に入社し、製鋼部研究室と自動車部のゴム部品研究開発を兼務、のちに豊田製鋼研究所とトヨタ自工ゴム課を兼務。愛知製鋼取締役刈谷工場長、同社社長を歴任。

注3. 木村富士信「豊田前社長の思い出」(『トヨタ自動車20年史』549ページ)。

注4. そのほか、油圧ブレーキ・シリンダー用のゴム製ピストンカップやブーツ、油圧ブレーキ・ホース、ラジエーター・ホース、ブレーキ・ペダルのゴム製シート、エア・ホーン(警笛)のゴム製つまみ等のゴム部品、ステアリング・ホイールやバッテリー・ケース等の硬質ゴム(エボナイト)部品、エンジン・タイミング・ギアやディストリビューター・キャップ等のフェノール樹脂(ベークライト)部品などがある。

注5. 『名古屋ゴム20年のあゆみ』32ページ。

トヨタ自動車 75年史  (2012年) より


≪くだめぎ?≫
 「当時、シボレー、フォードの乗用車・トラックとも機械式ブレーキであり、油圧ブレーキは一般的ではなかった。」

 円太郎バスは機械式ブレーキだということは、まるで馬車?

Posted at 2013/11/24 09:47:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | トヨタ自動車 75年史 (2012年) | クルマ
2013年11月24日 イイね!

電装品の研究・開発

電装品の研究・開発トヨタ自動車 75年史  (2012年)
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第5項 電装品の研究・開発

[写真] トヨタ自工電装工場製配電器(GB型トラック・カタログより)

豊田自動織機製作所自動車部で製造されたGA型トラックや、AA型乗用車の電装品は、当初輸入品が用いられていた。1.その理由について、豊田喜一郎は、次のように語っている。

此の際新しいものを採用するよりも、今まで一般に使用し馴れて居る物を採用する事が、吾々の製品の善悪を判断する上に於て止むを得ない方法である為めに、暫くの間は外国製品を使用することにしました。例へば電気部分品カーブレーター、プラッグ、オイルブレーキ等は外国製品を使用することにしました。(中略)トヨタが作った車で当分の間は自分自身に於てどれだけ良いか、悪いか解りません。一旦トヨタから出した車は何処が悪くても全責任を負わなければなりません。それを他の部分に罪を着せずに、自家製部分の悪い所を云ひ逃れの出来ぬ様にさせるといふ事は、自分自身の製品に自信をつける最も大切なことであります。2.

電装品の調査・研究は、G1型トラックが発売された1935(昭和10)年末ごろ、喜一郎の指示によりスタートした。3.紡織設計室で精紡機用モーターを研究していた電気技術者たちが中心となり、G1型トラックのA型エンジンに使用されたデルコレミー社製のゼネレーター(直流発電機)、スターター(始動機)、ディストリビューター(配電器)、イグニッション・コイル(点火コイル)などを分解・スケッチすることから始まった。当時、電装品の国産化はかなり進んでいた 4.が、それにもかかわらず、喜一郎が電装品の自社開発を指示したのは、自助努力により電気技術を身につけ、さらにその技術を発展させるという考えを持っていたからであった。

紡織設計室でスケッチされた図面に基づき、研究工場の一角で電装品の試作を開始し、1936年10月には発電機の試作第1号が完成した。ところが、これと前後して、同年9月に豊田自動織機製作所は「自動車製造事業法」の許可会社に指定され、1938年以降、国産部品の使用が義務づけられた。そのため、電装品の社内開発を急ぐとともに、それが間に合わない場合を考慮し、専門メーカー1社への発注を追加することになった。

この方針に従い、電機メーカー6社 5.の見本品を試験した結果、日立製作所への発注が決まった。日立製作所製の電装品 6.は、豊田自動織機製作所と同じくデルコレミー社製をスケッチしたもので、図面の寸法はほぼ一致しており、差異はインチをミリメートルに換算する際の誤差程度であった。

1936年11月にはエンジン工場の西側に200坪(660m2)の電装品工場が完成 7.し、翌1937年1月から試作を開始した。試作品の製作で苦労したのは、材料の入手であった。特殊サイズの少しばかりの電線や、少量のベークライト(フェノール樹脂)成形部品の注文を受けてくれるメーカーがなかなか見つからなかった。また、ディストリビューター用のコンデンサーも国産化したが、国産のコンデンサー・ペーパーがないため輸入品を用いた。点火コイルの絶縁用層間紙は、和紙に絶縁ワニスを含浸させて製作し、2次コイル用エナメル線の絶縁塗料には、桐油を用いた特製の速乾性加熱乾燥用ワニスを開発し、コイルの断線や絶縁不良の解決を図った。

試作品は、隣のエンジン工場でエンジンに組み付けられ、試運転台上で試験を行ったが、さまざまな不具合が発生した。例えば、発電機では出力不足や整流子の遠心力による飛散、スターターではギア、シャフト、スプリングなどの破損、点火コイルの焼損や断線、ディストリビューターの進角不良などである。失敗を繰り返しながら改良を重ね、1937年7月ごろには実用可能な電装品が製作できるようになった。8.

電装工場は、1938年11月にトヨタ自工が挙母工場へ移転するとともに、以前は自動車組立工場であった刈谷工場へ移り、残留したトラック車体工場や東京芝浦工場から移転してきたラジエーター工場とともに操業することになった。そして、ラジエーターに使われる材料の銅、真鍮、ハンダが電装品と共通するところから、電装工場がラジエーターも担当することになったのである。9.

その後、1943年2月に電装工場は中央紡績から借用した刈谷北工場(刈谷部品工場) 10.への移転準備を開始した。ところが、状況が一変し、トヨタ自工が同年初めから挙母工場で準備を進めていた航空機用空冷エンジンの生産を刈谷部品工場で行うことになった。この決定を受けて、同年9月にラジエーター工場が刈谷部品工場から挙母工場に移転し、10月には挙母工場から航空機エンジン加工用の工作機械が刈谷部品工場へ一括搬入された。結局、電装工場は11月に中央紡績の刈谷南工場 11.に移転した。

戦後、1946年10月にトヨタ自工は紡織部を設置し、刈谷南工場で紡織業を再開した。その後、紡織部の分離独立が検討されるに伴い、1948年10月に電装工場は刈谷南工場から刈谷北工場に移転することになった。同時に、ラジエーター工場が挙母工場から同工場へ移転し、両工場をあわせて刈谷北工場が電装工場と改称された。そして、1949年12月16日、電装工場はトヨタ自工から分離独立し、日本電装株式会社が設立された。現在の株式会社デンソーである。

注1. バッテリーは国産品で十分であったが、スパーク・プラグはACスパークプラグ社、チャンピオン・スパークプラグ社、ロバート・ボッシュ社製が、メーターはACスパークプラグ社製が、その他の電装品はすべてデルコレミー社製が用いられた。

注2. 「トヨタ自動車躍進譜」、「なぜ外国部分品を使用したか」(『豊田喜一郎文書集成』131~132ページ)。なお、引用文中の「カーブレーター」はキャブレター(気化器)、「プラッグ」はスパーク・プラグ(点火栓)、「オイルブレーキ」は油圧ブレーキである。

注3. 鈴木隆一著「電装回顧録その二」(『電装時報』79号、1959年6月1日、9ページ)。

注4. 1936年1月発行の『日立評論』(日立製作所が発行する技術誌)には、「自動車用電装品」として、自動三輪車用電装品と軽自動車用電装品が紹介され、同年5月発行の『芝浦レヴュー』(芝浦製作所〈現・東芝〉が発行する技術誌)には、「自動車電装品に就いて」の記事が掲載されるなど、日立製作所、芝浦製作所の2社は電装品開発がかなり進んでいた。特に、芝浦製作所はフォード社の電装品を月産1,000台以上、流れ作業で生産していたといわれる(鈴木隆一著「電装回顧録その三」〈『電装時報』80号、1959年7月1日、6ページ〉)。

注5. 三菱電機、国産電機(日立製作所と合併)、神鋼電機、芝浦製作所、日立製作所、富士電機の6社。日立製作所へ発注されたのは、ゼネレーター、スターター、点火コイル、ディストリビューターなどの電装品であった。

注6. 日立製作所製電装品の導入は、1936年9月の「自動車製造事業法」による許可会社の指定以降と考えられるが、すでに日立製作所製のデルコレミー型電装品は、1936年7月に製品としての型式番号が設定されており、いつでも納入できる体制にあったと思われる。「自動車用日立電装品」(技術誌『日立評論』1936年7月、51ページ)掲載の写真には、「トヨダ号用大衆車用電装品」(同誌1937年12月、798ページ)で紹介される電装品の写真が含まれている。

注7. 電装品工場に据え付けられた装置は、ワンダラー社製ねじ切りフライス盤1台、米ワーナー・スウェージー社製タレット旋盤2台、普通旋盤5台、ボール盤2台、フライス盤1台、各種プレス機5台などであった。

注8. 1937年7月に日中戦争が勃発すると、トラック需要が急増した。豊田自動織機製作所自動車部では、トラック増産分については、全面的に日立製作所製の電装品を用いるとともに、生産体制が整わない内製品について、豊田喜一郎常務から製造中止の意見が表明されるという事態が起こった。しかし、1カ月の猶予を得て、電装工場全員の努力の結果、生産も軌道に乗って、内製品も正式採用になり、その後徐々に信用されるようになっていったとのことである(鈴木隆一著「電装回顧録その三」〈『電装時報』81号、1959年8月1日、13ページ〉)。

注9. 当初、トヨタ車のラジエーターは外注品であったが、水漏れ不良が多かった。こうした問題を解決するため、東北帝大の抜山四郎教授や、トヨタ自工研究部仙台出張所梅原研究主任の指導のもと、東京芝浦工場で研究開発を行っていた。その内製化のめどが立ったので、製造拠点が刈谷に移された。

注10. もとは中央紡織の工場で、借用後はトヨタ自工刈谷部品工場、トヨタ自工と中央紡績の合併後は航空機工場となる。

注11. もとは豊田紡織の刈谷工場で、トヨタ自工と中央紡績の合併後は航空機分工場となる。

トヨタ自動車 75年史  (2012年) より


≪くだめぎ?≫
 "DENSO"日本電装は一番の出世頭だ。トヨタグループだけでなく、マツダの大株主の大会社になっている。そういう意味では電装品の内製化は先見の明の中の先見の明であろう。
Posted at 2013/11/24 09:12:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | トヨタ自動車 75年史 (2012年) | クルマ
2013年11月24日 イイね!

機械加工法、工作機械の研究・開発

機械加工法、工作機械の研究・開発トヨタ自動車 75年史  (2012年)
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第4項 機械加工法、工作機械の研究・開発

[写真] トヨタ自工製E型旋盤

1934(昭和9)年、トランスミッションの試作を開始し、歯車の加工に着手したが、歯車の形状が不明で、歯車加工機の刃具も何を用いればよいか、わからなかった。豊田喜一郎が友人の東北帝大教授抜山四郎に相談したところ、歯車の権威者である東北帝大の成瀬政男博士を紹介され、同年11月から岩岡次郎 1.、若松辰治 2.の両名を同大学へ国内留学させることになった。

2人は、まず成瀬博士から歯車理論の講義を聞き、それから持参したシボレーのトランスミッション歯車を解析した。測定装置を備えた機械工場用顕微鏡を用い、1/100mm単位で正確に歯形を測定した。そのデータに基づいて、10倍に拡大した歯形曲線を描き 3.、成瀬博士が確立した理論式により、歯車の形状を確定してカッターを発注した。成瀬博士の理論が実用化された最初の事例であった。4.

1934年前半には自動車試作工場に輸入工作機械が設置され、豊田自動織機製作所ではそれらを参考にして、翌1935年から工作機械の内製を始めた。そして、自動車量産用の工作機械や治工具を本格的に製作するため、1937年5月、豊田自動織機製作所内に自動車部工機工場を建設した。

当時の国産工作機械は、多種多様な加工に適した万能型といわれる多種少量生産用が大部分であった。このため、分業化した自動車量産工程では、使われない機能までも備えており、輸入機を参考にして、必要な機能だけに限定した自動車量産用の工作機械や専用機を工機工場で設計・製造した。例えば、工機工場で製造されたA型旋盤は、構造が簡単で、確実かつ軽快な操作性が好評であった。同様にC型旋盤も、生産用旋盤として余分な機構を簡略化し、操作性を重点に設計した点に特徴があった。

これらの旋盤は、トヨタ自工の工機工場、その後身である豊田工機へと引き継がれるとともに、A型、B型、C型、D型(DD型)、E型、F型、G型とシリーズ化された。このうちE型は、トヨタ自工の工機工場で設計・製造された生産工場用旋盤で、操作性に重点を置いて機構を簡素化し、最も簡単な構造を採用したものである。仕上げ切削に必要な静粛回転と加工精度に対する評価が高く、比較的低価格でもあったところから、豊田工機では月産10台の実績をあげた。5.

1938年11月にはトヨタ自工挙母工場の工機工場が完成し、工作機械の設計・製作は豊田自動織機製作所内の工場から移転した。これ以降、同工場では前記の普通旋盤をはじめ、多軸ボール盤、自動多刃旋盤、精密中ぐり盤、自動車製造用専用工作機械など、多様な工作機械が製作された。

1941年5月1日、「工作機械製造事業法」にもとづき、トヨタ自工の工機工場を分離独立し、豊田工機株式会社を設立した。豊田工機の発足後、国策に従って自動車用工作機械の製造は減少し、航空機エンジン製造用工作機械に重点を置いた。6.

注1. 創業期の機械技術者。試作自動車の製造を担当し、トヨタ自工製造部長、航空機部長を経て、東海飛行機取締役、同社の後身である愛知工業およびアイシン精機の社長・会長を歴任。

注2. 東北帝大機械工学科助手を経て、豊田自動織機自動車部入社、歯車の専門家。研究部研究室技範当時の1945年12月、自動車故障による事故で殉職。

注3. この曲線を解析してインボリュート曲線を応用していることを解明した。

注4. 「岩岡次郎氏への聞き取り記録」1966年3月23日(「40年史聞き取り調査記録(1)」70~73ページ)。

注5. 豊田工機『トヨタ技報』(1961年5月15日)8ページ、「当社製品の変せん」。

注6. 2006(平成18)年1月に同社は光洋精工株式会社と合併し、株式会社ジェイテクトとなった。

トヨタ自動車 75年史  (2012年) より


≪くだめぎ?≫
 『旋盤』と言ったら、「技能五輪全国大会」と出てくるくらい定着している、と思われる。工作機械も内製し、その工機工場が分社化したのだから、「技能五輪」に選手派遣もこのことの名残かな。

 更に、"東北帝大"に通ったことも味わい深い・・・。
Posted at 2013/11/24 08:37:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | トヨタ自動車 75年史 (2012年) | クルマ
2013年11月23日 イイね!

ランドクルーザー (70系) 現行型「LC70」

ランドクルーザー (70系) 現行型「LC70」[写真] Double Cab Chassis GXL オーストラリア版より

トヨタ・ランドクルーザー

トヨタ・ランドクルーザー(Land Cruiser )はトヨタ自動車が製造する最上級モデルの大型四輪駆動車である。日本では「ランクル」と通称される場合もある。

●概要

世界で最も知名度の高いSUVのひとつとも言われ、その耐久性は世界中で高い評価を受けている。「ランドクルーザー」という車名は1954年6月より使用されており、2011年1月現在、一つの車名で継続生産されている日本製の自動車としてはもっとも長い歴史をもつ(56年。クラウン、トヨエースよりも古い)。

4ドアで大柄の車体を持つ「ステーションワゴン」、主に業務用途向けとして多彩な車種を展開する「70ヘビー系」(ヘビーデューティー)、そして、「70ライト系」(ライトデューティー、日本国内での車名はランドクルーザーワゴン) から発展した「ランドクルーザープラド」の、車格も仕様もまったく異なる三系列が並行して生産、販売されている。

現在のステーションワゴンは、レクサス LX570の姉妹車でもあるV型8気筒エンジンを搭載したランドクルーザー200であり、欧州など、仕向け地によっては車名がランドクルーザー V8 となる(100系の欧州名はアマゾン = Amazon )。100系のランドクルーザーシグナスは、日本国外のレクサスブランドでLX470として販売されていたものを日本国内販売したものであったが、国内へのレクサスブランド導入に伴い、200系では廃止された。しかし、日本国内のレクサスブランドにおけるLXの投入は実施されていない。

ランドクルーザーの源流はヘビー系にあり、現行モデルの70系では、日本製クロスカントリーカーとしては初となるV型8気筒ディーゼルエンジンを採用し、長大な車体を持つ78と79を中心に世界各国に向けて輸出が続けられている。日本国内では貨物登録(1、4ナンバー)となっていたこともあり、NOx規制法およびPM規制条例の影響により、2004年7月に販売を終了している。

ランドクルーザープラドは、タコマ/ハイラックスサーフとシャシやエンジン、ドライブトレインの多くを共有するモデルで、2ドアのショートと4ドアのロングのバリエーションを持ち、V6ガソリンエンジンと直4のガソリン、ディーゼルエンジンを積む。ランクルワゴンの伝統に則り、乗用車なみの装備を持つワゴンと業務用途の簡素なバンをラインナップしている。欧州やアフリカでの名称には「プラド」は使われず、ランドクルーザーのみである。北米では、レクサスブランドにおいてGX470として販売されている。

NHKをはじめ各放送局の取材車や中継車としても利用されている。なお、同タイプの日本メーカー製車両としては三菱・ジープや、日産・パトロール(後のサファリ)がある。

●40系(1960年-1984年)

1960年1月発売開始。20系のフルモデルチェンジ版として登場した。

すでに20系が30番台の数字を使っていたため、型式は40とされた。

1984年11月に70系にフルモデルチェンジされるまで24年にわたり販売され続け、超ロングセラーモデルとなった。北米においても、1960年代前半まではトヨタの最量販車種であった[2]。

そのため、世界各国で業務用として今なお現役のものも多く、また、趣味の世界でも、「ヨンマル」、「フォーティー」などの愛称で親しまれ、多くの愛好家に大切にされている。

また現在でも根強い支持を受け、ランドクルーザープラドをベースに誕生したFJクルーザーのデザインモチーフとなっている。

・・第2期

・ 1973年、日本国外向けのロングホイールベースモデル(2950mm 2代目45シリーズ)に直6 3.6L 3576c OHV 90HPのH型ディーゼルエンジン搭載のHJ45を追加。ランクル史上初のディーゼルエンジンとなる。

・ 1974年、B型(2代目)ディーゼルエンジンが投入され、長い40の歴史上でのターニングポイントとなる。
ショートとミドルモデルにU10系ダイナ用として好評を博していた直列4気筒、3000ccのB型(2代目)と呼ばれるディーゼルエンジンが搭載された。4気筒エンジンはランドクルーザーとしては初めてとなる。
BJ40 と BJ43 と呼ばれるこのモデルは、ファイナルギア・レシオをFJ40 / 43の3.700から4.111へと、たった1割下げた以外(実際、ピニオンギアの歯数が一山少ないだけ)はT / Mも含め、FJ40 / 43の4速車と同じであったが、ディーゼルエンジンの特性から、その走行性能はF型との馬力差(125PSと85PS)を感じさせない遜色のないものであり、4気筒のためエンジンの搭載位置が後退してフロントミッドシップレイアウトとなったことで車両の重量バランスやハンドリングが改善される効果も生んだ。
日本では小型登録(4ナンバー)できることもあって好評をもって迎えられたが、その優れた経済性と卓越した性能はもとより備わっていた高い耐久性と相まって世界的なヒットとなり、販売台数は飛躍的に増えることとなった。
2種類のディーゼルエンジンの追加により、全てのボディータイプでディーゼルエンジンが選べるようになる。もともとはオイルショックが招いた流れではあったが、これ以降、ディーゼルエンジンはランクルの主流となって行く[2]。

●70系(1984年 -2004年 )

○ヘビー系

1984年11月、それまでの40系に代わりデビュー。
足回りは前後共にリーフスプリングとリジッドアクスルの組み合わせだったが、1999年のマイナーチェンジにおいて前軸のみリーディングアーム+コイルスプリングに変更された。
2004年7月日本国内での販売終了。
2007年3月オーストラリアを皮切りに、フロント周りの意匠を大幅変更した新型がデビューした。

これは新型のV型8気筒(1VD-FTV)ディーゼルエンジン(4461cc、インタークーラーターボ)を今までの狭いエンジンベイに収めるにあたり、余裕がなかったためと思われる。 ちなみに1984年のデビュー以降、フロントマスクの変更は3度行われているが、ボンネット全体が大きく変更されたのはこれが初めてとなる。

・ホイールベース
ショート 2310mm(70,71)
ミドル 2600mm(73,74)
セミロング 2730mm(77,76)
ロング 2980mm(75,78 日本国外向けおよび日本国内消防用シャーシ)
スーパーロング 3180mm(79 日本国外向けおよび日本国内消防用シャーシ)

○ライト系

70系のライトデューティー版派生種として、1984年11月に登場(日本国内は1985年10月)。

エンジン、トランスミッション、デフなどをハイラックス / ハイラックスサーフと共用、サスペンションとスプリングは国産4輪駆動車初の、4輪コイルリジッドとなる。R系、L系エンジン共に、出自は乗用車用である。

仕向け地により、「ランドクルーザーワゴン」(日本国内)、「ランドクルーザー」、「ランドクルーザー II ( 2 )」、「バンデラ」の名を使い分ける。この場合の「II」は、「カローラ II 」と同様、サブシリーズ(格下)の意味となる。

1990年4月、4ドア・セミロングボディーの追加に伴い、「PRADO」(プラド)のサブネームが与えられる。(以降はトヨタ・ランドクルーザープラドを参照)

ホイールベース
ショート 2310mm(70,71)
ミドル 2600mm(73,74)日本国内は設定なし
セミロング 2730mm(78,79)

※78はヘビー系ロング、79はヘビー系スーパーロングなど、ホイールベースの異なる車型との型式重複を起こしている。

●脚注
2.^ ただし、日本国内向けにおいては2002年以降排出ガス規制の強化に伴ってガソリンエンジン仕様が販売の主軸となり、70系は国内販売を終了、200系ではディーゼルエンジン仕様を日本国内向けには設定していない。

最終更新 2013年10月25日 (金) 04:58
フリー百科事典『ウィキペディア』 より


≪くだめぎ?≫
 他にオーストラリア版、南アフリカ版を見たが、商用車「LC70」としても現行型のプラドランクル200と変わらないサイズのよう。 2007年3月・4.5リッターV8ディーゼルエンジン搭載から見た目もこのように"マイナーチェンジ"したようである。
Posted at 2013/11/23 19:27:08 | コメント(0) | トラックバック(0) | 車全般 | クルマ
2013年11月23日 イイね!

ランドクルーザー (70系)

ランドクルーザー (70系)トヨタ自動車 75年史  (2012年)
> 車両系統図
ランドクルーザー (70系)

ボデータイプ - スポーツ ユーティリティ ビークル SUV

4代目 
発売日 1984年11月2日

●スペック

○グレード 70系・ミドル・FRPトップ・STD
車両形式 N-BJ73V-MR
重量 1800 〔kg〕
・寸法
全長 4265 〔mm〕
全幅 1690 〔mm〕
全高 1940 〔mm〕
ホイールベース 2600 〔mm〕
・エンジン
エンジン形式 3B Diesel
エンジン種類 水冷直列4気筒OHV
排気量 3431 〔cc〕
最高出力 98 〔PS〕/ 3500 〔r.p.m〕

○グレード 70系・ショート・バンタイプ・STD
車両形式 N-BJ70V-MR
重量 1750 〔kg〕
・寸法
全長 3975 〔mm〕
全幅 1690 〔mm〕
全高 1895 〔mm〕
ホイールベース 2310 〔mm〕
・エンジン
エンジン形式 3B Diesel
エンジン種類 水冷直列4気筒OHV
排気量 3431 〔cc〕
最高出力 98 〔PS〕/ 3500 〔r.p.m〕

○グレード 60系・標準ルーフ・STD・5速マニュアル
車両形式 M-FJ62V-MC
重量 1900 〔kg〕
・寸法
全長 4750 〔mm〕
全幅 1800 〔mm〕
全高 1815 〔mm〕
ホイールベース 2730 〔mm〕
・エンジン
エンジン形式 3F
エンジン種類 水冷直列6気筒OHV
排気量 3955 〔cc〕
最高出力 155 〔PS〕/ 4200 〔r.p.m〕

※ 代表するグレードのスペックを表示しております。
※ エンジン最高出力はネット値です。
※ このクルマの型式は、 BJ73V(3400), BJ70V(3400), BJ70(3400),HJ60V(4000), BJ61V(3400), FJ62V(4000) です。

●解説

1984年11月に発売された「40系」の後継モデル。かつては業務用途主体だった4輪駆動車が、乗用車代わりにも使われるようになってきたため、スタイルを一新し、快適性・操作性・使用性の向上を図り、新たな需要にも応えられるようにした。スタイルは「40系」のイメージを継承したもので、フロントガラスに曲面ガラスを採用。室内は居住空間を拡げると同時に、実用性も向上させた。ボデーバリエーションは従来の幌タイプ、バンタイプに加えてFRPトップ車を設定。広い用途に対応すべく、2310mmから3180mmの範囲で5種類のホイールベースを用意し、ボデーなしの特装車用シャシーも設定した。

1999年、フロントサスペンションをリジッドアクスルのままリーフスプリングからコイルスプリングに変更し、乗り心地の向上を図った。エンジンはガソリン、ディーゼルともに4、5、6気筒を使い分け、輸出用にはV型8気筒4.5リッターのディーゼルエンジン仕様も設定した。

●生産・販売

生産工場 本社工場
販売会社 トヨタ店

●車名の由来

英語の「Land(陸)」と「Cruiser(巡洋艦)」を合成した名前で、「陸の巡洋艦」という意味

トヨタ自動車 75年史  (2012年) より


≪くだめぎ?≫
 サウジアラビア版では「LC70」という商用車として"ランドクルーザー (70系)"は現役であるが、まるで違う。トヨタとしても70系前期型?として殿堂入りなのだろう。

 「ビスタ店」向けに改良したモデルと思えば味わい深い。
Posted at 2013/11/23 18:31:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | トヨタ自動車 75年史 (2012年) | クルマ

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