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ディーゼルオート店のブログ一覧

2019年01月20日 イイね!

なぜバイオ燃料は日本では普及しないのか。

なぜバイオ燃料は日本では普及しないのか。018.12.22
風前の灯火!? ガソリンで充分!? なぜバイオ燃料は日本では普及しないのか(ベストカーWeb)

[写真・画像]  トヨタはアメリカで家畜排泄物や汚泥から水素や電気を取り出す実験をしている。そこで生成された水素でFCVを動かす計画だ
文:ベストカー編集部/写真:トヨタ、AdobeStock

 ガソリン高騰が続き一時はどうなるかと思った2018年後半。11月頃には145円/Lを超えていたレギュラーガソリンも12月20日現在ではだいたい137円/L程度にまで落ち着いた。
 しかしガソリン価格は世界情勢に左右されるもので、価格は急激に上昇し、何事もなかったかのように落ち着いてくる。
 そんなガソリンの代替燃料として話題をさらったのがバイオ燃料。日本でも本格化するなんて言われていたのに……。そんなバイオ燃料がなぜ日本で普及しないのか迫ります。

【バイオ燃料とは?】

 バイオ燃料とはバイオマスと呼ばれる有機性資源(自動車用燃料はサトウキビやトウモロコシがメインだがバイオガスでは生ごみなどの廃棄物も含む)を処理して、ガソリンの代替燃料にしたもの。
 ガソリンのみならず軽油の代替燃料となるバイオ軽油も存在し、乗用車のみならずバスや艦船などにも使用される。
 自動車でバイオ燃料を使う場合は専用の装備が必要となるが、すでに海外では一般車にも流通している。

ベストカー2018年12月26日号

■国はバイオ燃料についてどんな政策をしいているのか?

 ガソリン価格、上昇したり下降したり、なかなか先が読めないですね。バイオ燃料のような新しいエネルギーが実用化されることで、原油価格が下がることを期待している人も多いでしょう。
 バイオ燃料が普及していない理由は、国のバイオエタノールの導入目標が小さいこと、バイオ燃料の使用義務がないこと、国内に製造業者がほぼないことが挙げられます。
 まずは政策面をみていきましょう。エネルギー供給事業者による非化石エネルギー源の利用および化石エネルギー原料の有効な利用の促進に関する「エネルギー供給構造高度化法」という法律があります(2009年成立)。
 このなかで、2011年度~2017年度までのバイオ燃料の導入目標量が決められました。ちなみに、2017年度で導入量が原油換算で目標50万kLとなっています。
 日本は1年で原油を1億8700万kLほど輸入しているので、微々たるものでしかないのがわかります。ちなみに、日本のバイオ燃料自給率は2015年で2%とまだまだです。
 2018年度の「資源・エネルギー関係予算の概要」によると、バイオ燃料の生産システム構築のための技術開発事業に24億円を投入しています。
 そのなかで、商用化可能なコスト競争力を持ったセルロース系バイオエタノールの大規模生産システムを2020年までに確立を目指すとしています。

■日本にもあるバイオ燃料生産設備

 コスト面が課題となり、一部のバイオエタノールを地産地消している事例を除き、北は北海道から南は沖縄まで10以上あった事業のすべてが継続を断念しています。
 そんななか、11月2日に株式会社ユーグレナがバイオジェットディーゼル燃料製造実証プラントを竣工。2025年に商業プラント稼働、2030年にバイオ燃料を年100万kL供給する目標を掲げています。
 ユーグレナは2010年からバイオジェット燃料の研究を開始しており、横浜市やいすゞ自動車、ANA、千代田化工、伊藤忠が協力している期待大のプロジェクトです。
 ただ、気になるのがユーグレナの業績です。このプラントの製造費用関連で64億円を費用計上しているからなのですが、2019年は67億円の営業損益となる見込み。
 過去のバイオ燃料事業がすべて採算が取れずに事業継続を断念していることを考えると、ユーグレナにも試練が訪れるかもしれません。今後のバイオ燃料の発展にも期待ですね。

(ベストカーWeb ベストカーWeb編集部シオカワ)
carview


≪くだめぎ?≫
 軽油税を使い、国も参加するプロジェクトにしないのは、なぜか。

 国が一番の消極的な姿勢なのかな?
Posted at 2019/01/20 14:24:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | トヨタディーゼル店 | クルマ
2019年01月20日 イイね!

“ミドリムシ”でバスが走る!

“ミドリムシ”でバスが走る!ニュースイッチ Newswitch
2018年11月06日
“ミドリムシ”でバスが走る!いすゞとユーグレナが実証走行へ
出力やトルクの性能などは軽油とほぼ同等

[写真・画像] 次世代バイオディーゼル燃料を活用したシャトルバス

 いすゞ自動車は、ユーグレナと2019年夏からミドリムシを活用した次世代バイオディーゼル燃料を使ったシャトルバスの実証走行を始める。ユーグレナが横浜市鶴見区内に建設した同燃料の製造実証プラントから、19年夏をめどに供給を受ける。車両の実証走行や性能試験を通じ、同燃料の実用化につなげていく。

 12月から、同燃料を含んだ燃料を用いて、いすゞの藤沢工場(神奈川県藤沢市)と小田急電鉄などの湘南台駅(同)間のシャトルバスでの公道実証に取り組む。同燃料に関しては、いすゞが9―10月に実施したエンジン試験で、出力やトルクの性能、排出ガスの質などを確認し、「ほぼ軽油と同等の結果が出た」(一政都志夫いすゞ執行役員)としている。

 いすゞとユーグレナは、14年6月に同燃料の実用化への共同研究契約を結んでいる。

日刊工業新聞2018年11月6日


ISUZU プレスリリース
2018年11月2日
いすゞ、次世代バイオディーゼル燃料での実証走行を開始
-日本初のバイオディーゼル燃料製造実証プラントが完成-

 いすゞ自動車株式会社(本社:東京都品川区、社長:片山正則、以下いすゞ)は、2014年6月にユーグレナ社と微細藻類ユーグレナ(和名:ミドリムシ)由来の次世代バイオディーゼル燃料の実用化に向けた共同研究契約を締結し、『DeuSEL®(デューゼル)プロジェクト』として推進してまいりましたが、この度、ユーグレナ社が10月31日に竣工した日本初のバイオディーゼル燃料製造実証プラントから、2019年夏より次世代バイオディーゼル燃料※の供給を受けることになりました。

 いすゞはこれまで、ユーグレナ社が開発を進めてきたバイオディーゼル燃料を使い、藤沢工場と湘南台駅間のシャトルバスの定期運航による実証走行を進めてまいりました。今回、実証プラントと同様の製造および精製方法により製造した燃料でエンジン性能試験を実施して市販されている軽油を使用した時と同等の出力・トルク及び排気ガス性能を確保できることを確認いたしました。2018年12月より次世代バイオディーゼル燃料を含有した燃料、また、2019年夏から実証プラントで製造された次世代バイオディーゼル燃料を用いたシャトルバスの実証走行を行っていきます。

 いすゞは、GREEN OIL JAPANに賛同し、近隣小学校での環境授業といった啓蒙・教育活動を通じてバイオ燃料普及に向けた活動も引続き実施して行きます。今後もユーグレナ社の計画における共同研究パートナーとして、車両での実証走行・性能試験等を行い、次世代バイオディーゼル燃料の実用化を目指してまいります。

※:含有率100%でも車両のエンジンに負担をかけることなく使用することができるバイオディーゼル燃料

以上


≪くだめぎ?≫
 いわゆる「次世代バイオディーゼル燃料」でチューニング無しでエンジンに負担をかけ無い方向を目指すわけだ・・。
Posted at 2019/01/20 13:56:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | バス | クルマ
2019年01月09日 イイね!

『客車』

『客車』客車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 客車(きゃくしゃ)とは、主に旅客を輸送するために用いられる鉄道車両である。座席車と寝台車を中心とするが、展望車、食堂車、荷物車、郵便車なども構造的には共通であり、旅客車と一体での運用も多いことから、これらも客車に分類される。
 狭義では、機関車などにより牽引される無動力(動力集中方式)の旅客車両を指す。電車や気動車とは区別される。本稿では狭義の客車について記す。
 同じく機関車に牽引される車両の中でも、貨物を運ぶ車両は貨車といい、客車とは区別される。

[写真・画像]
比較的最近の日本の客車列車の一例
サービス電源の引き通し線や応荷重式自動空気ブレーキを持つ、固定編成用車両を用いた寝台特急北斗星

1 概要
 日本の国鉄の場合、過去には鉄道車両を(広義の)客車と貨車に大別していた。(広義の)客車には、(狭義の)客車、電車、気動車を含んでいたが、1956年2月の車両称号規程改正で、広義の大分類を「旅客車」と改めた。したがってそれ以後は、客車とは自ら運転用の動力を持たない旅客車のみを指すことになった。
 また、軌道や架線の検査・測定を行う職用車や、救援車、配給車などの事業用車にも客車に分類されるものがある。
 いずれもプラットホームの低い線区で運転されることが多く、それに合わせたドアステップがついている車両が多い。
 鉄道の黎明期においては、旅客輸送は機関車が客車を牽引する方式から始まり、その後自ら動力を持つ電車、気動車の出現後も長く旅客輸送の中心的役割を占めてきた。(鉄道車両の歴史、特に初期の客車と貨車を参照)。しかし特に日本においては、下記のような特徴の比較により動力分散方式が有利とみなされるようになってきて、客車の数は減少の一途をたどった。しかし世界的にはその状況は大きく異なっている(後述)。

2 特徴
 動力分散方式(電車・気動車・蒸気動車など)との比較では以下のようになる。動力集中方式#長所と短所も参照。

2.1 長所
・自車で動力装置を持たないため、電車や気動車に比べ製造・保守コストが低い。
 ・上記の理由により、通年運行ではない(稼動日数の少ない)波動輸送用に適する。
 ・同様に、編成が長い場合、コスト的に有利になる。過去(昭和50年頃)の日本の研究では以下の場合に有利になると算定されたことがある[1]。
  ・直流電化区間では12両以上の場合。
  ・交流電化区間では10両以上の場合。
  ・非電化区間では5両以上の場合。
・機関車の付け替えだけで電化区間(交流・直流、周波数、電圧などの違い)・非電化区間を直通できる。このことは旅客車と比較して機動性が求められる郵便車と荷物車では特に有利である。
・電動機やエンジンがないため、騒音、振動が少ない(サービス電源用の発電セットを持つものや電源車を除く)。このことは静粛性が特に求められる夜行列車には有利である。
・組成時の制限が少ない。
 ・最小1両単位での客車の編成が可能。

ただし、これらの長所は電車や気動車の性能の向上などに伴い、相対的に減少しつつある。

2.2 短所
・運転時分の短縮が難しい。
 ・急勾配や急曲線に加え、高速通過が困難な分岐器が多く、駅間距離も短い日本では、電車や気動車に比べると、起動加速度やブレーキ性能、勾配での均衡速度で劣る。この事から電車、気動車で組成された列車に追い越されることが多く、またラッシュ時のダイヤに組み込むにも制約がある。
・機回しが必要で、折り返し時分の短縮が難しい。
 ・常に機関車を先頭にする必要があり、終着駅やスイッチバックでの付け替えを要する。特に、2列車を1列車に併合する場合は、駅構内での入換が必要となり、時間がかかる。ただし、海外(特に欧州・北米)の近距離列車などでは、一端に機関車を固定し、他端に連結された付随制御車の運転台から制御できる=機関車を最後部にした「高速」推進運転ができる=ものが多く見られる。日本でも、速度域は低いがJR北海道のノロッコ号用など、一部にこの方式を採用したものがある。特に欧州の車両は、日本や北米と連結器が異なるため、推進運転に適し、乗り心地、速度とも他の動力方式と比べ遜色は無い。2列車を併結することもあり、その場合は、機関車 + 客車 + 機関車 + 客車のような編成となり、乗客の通り抜けはできない。また、機関車に申し訳程度の客室(1・2等合造の場合もある)を持つものがある。
・ワンマン運転ができない。
 ・これも、海外においては上記の折返し運転の事情と共通する。
・電気運転の場合、回生ブレーキの効率が悪い。(客車にモーターがないため)
・重量や軸重の不均衡が大きい。
 ・機関車の重量によっては、軌道や橋梁の強化が必要になる場合がある。(日本の場合、構築物の耐震性を考慮する必要性が高い)しかし、許容の強度を満たしている場合、電車中心の運転の方がクリアランス悪化(狂い)が速い場合もある。
・機関車の分だけ編成長が長くなる。
 ・駅、信号場、操車場の有効長の延伸工事が必要になる場合がある。ただし、駅の場合は延伸工事をせず、ドアカット(プラットホームにかからないドアを開けない操作)で対応する事がある。
 ・短編成であるほど、列車長あたりの有効客室床面積の割合が低くなる。
・1個の連結器にかかる牽引力が大きく、乗り心地の面で不利。
 ・加減速で前後方向の衝動が発生し、特に発進、停止時は大きい。日本では、自動連結器が大勢を占めるため、特にウィークポイントとなっている。
・車輌の冷房化が困難である。
 ・客車でサービス電源の確保に長年使用されている車軸発電機では車輌用クーラーを動作させることができないため、冷房専用の発電機を別途搭載する必要があるほか、発電機の容量によって編成の増減に制限がかかるため、客車の長所が相殺されてしまう。
 ・各車輌に小型の発電機を搭載した上でクーラーを稼動させる方法もあるものの、冷房用とはいえすべての車輌に発電機と燃料タンクを搭載するために気動車なみの維持コストがかかる。
 ・昭和初期に製造された客車の一部に車軸駆動式の冷房装置が搭載されたものがあるが、車軸駆動式ゆえに走行時に寒くなり、停車時に暑くなるなど、動作が不安定になりがちであり、お世辞にも快適とは言えなかった。
・当然のことではあるが、牽引する機関車を別途手配する必要がある。客車区内ではこれに加えて入れ替え用の小型機関車も必要になることがある。

3 日本の客車
  日本の客車史」も参照
 日本では1960年(昭和35年)から実施された動力近代化計画によって客車列車の淘汰が行なわれ、1975年(昭和50年)以降は組合側の反対などによって[要出典][2]一時中断されたものの、1986年(昭和61年)11月のダイヤ改正でに鉄道による郵便荷物輸送が廃止されたことなどから、残存していた定期客車列車は民営化以降に少数の寝台列車(夜行列車)を除き、電車や気動車に置き換えられて姿を消した。
 JR旅客5社(国鉄分割民営化時点でもともと定期普通客車列車が存在しなかった東海旅客鉄道(JR東海)を除く)および私鉄での客車による定期普通列車は、車両限界などの特殊な事情を持つ大井川鐵道井川線・黒部峡谷鉄道と、蒸気機関車および一般形(旧型)客車の動態保存のためほぼ定期運転を行っている大井川鐵道大井川本線の蒸気機関車牽引列車を除いて消滅した。なお、日本国内での国鉄形車両・国鉄形近縁車両によって運行される定期普通客車列車としては、国鉄14系客車を使用した2006年3月に運行を終了した樽見鉄道の定期列車が最後となっている。また季節限定であるが津軽鉄道では客車を3両保有しており、ダルマストーブ特徴の「ストーブ列車」として冬季運転がある。また、他に、定期的に運行している観光用のトロッコ列車として平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線、嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線などの例はある。
 2008年現在で定期列車として使われる寝台車以外に残っているものは、天理教、金光教など一部の宗教団体関連や、旧盆・年末年始といったピーク時、蒸気機関車の運転といったイベント時に運転する臨時列車(波動輸送)用に少数の車両が残るのみであり、これについても電車などへの置き換えが進められて、運行本数を減らしている。
 また、寝台車を始め現存する客車についても、1999年にJR東日本が「カシオペア」に使用するために製造したE26系客車や、2013年にJR九州が「ななつ星in九州」に使用するために製造した77系客車、寝台車以外では2017年にJR西日本が「SLやまぐち号」に使用するために製造した35系4000番台客車を除いては、製造後30年以上が経過しており、旅客数の低下と老朽化が進行しているため、運転本数は減少傾向にある。なお、2016年3月26日のダイヤ改正で、急行「はまなす」が廃止された為、JR線における定期客車列車は全廃された。
 一方、欧米など海外では、大都市近郊の地下鉄や通勤路線以外は、ほとんど客車列車で運行されている。また、自前で機関車を保有している事業者においては車両の購入費や維持費の面で気動車よりも有利なため、発展途上国では通勤路線でも客車列車を使っている場合が多く、日本からも廃車になった車齢の若い車両が輸出や無償提供されている。

4 ヨーロッパの客車
  歴史については鉄道車両の歴史#初期の客車と貨車および鉄道車両の歴史#客車の発展も参照。
 欧州各国の鉄道では、客車は依然として幅広く使われているものの、21世紀に入ってから輌数を減らしている。
 欧州の場合、周辺国と地続きであるため鉄道についても複数の国々に跨ったネットワークが構築されている。しかし、国ごとに電化方式・複線区間の通行方向(右側・左側)・車体寸法・軌間・保安装置などがまちまちであるため、国ごとに機関車を付け替えることができる客車方式が長年にわたって主流となっていた。
 近年では、大都市内やその近郊において通勤の利便性を高めるため、日本国内と同様に電車・気動車などの動力分散方式への移行が行われ、通勤形客車列車は少なくなりつつあり、ローカル線でも、合理化の一環として、低床式の新形気動車への置き換えが進んでいる。また、高速鉄道においても動力分散方式への移行(ICE 3など)等の理由により、客車が活躍する舞台は縮小している。例外的に複数の国をまたぐ国際長距離列車については前述の理由により、いまだに客車が主流である。
 日本の客車のような「固定編成客車」は少なく、1両単位で運用することが多い。専用の電源車を持つことは少なく、ほとんどの場合電源は機関車から供給されるか、車軸発電機による給電である。
 日本ではあまり一般的ではないが、運転台付の客車(制御車)を最後尾に連結し、客車側運転台からの遠隔操作により機関車が客車を押すような運転方法(ペンデルツーク:Pendelzug(独))も一般的である。またTGVやタリスなどの高速列車では、客車に運転台を設けるのではなく、列車の前後に機関車を取り付け、運転時は前後の機関車を同調させる例もある。これらの方法により、駅での方向転換の際、機関車の付け替えを省略することができる。
 国際列車を運転する観点から、欧州大陸の客車には、国際列車用の規格である「UIC規格(あるいは「RIC規格」)」が存在する。また、国内用ではあるが、ダブルデッカーも数多く使用されている。
 欧州大陸の客車のサイズは、車体長は日本の客車よりも大型で26.4m(UIC-X, UIC-Zなど)、あるいは24.5m(UIC-Yなど)のものが大多数である。しかし車体幅や高さは、日本の客車とそれほど変わらない。

5 日本を除くアジアの客車
 日本と台湾、韓国、マレーシア、中国の一部を除くアジアのほとんどはまだ発展途上にあるため、都市部以外ではいまだに客車列車が全盛である。インドの山奥ではいまだに蒸気機関車が客車を引っ張っている光景を見ることがある。ちなみにこの場合、燃料は石炭ではなく、薪であることも多い。[要出典]
 また東南アジアへは、日本で不要になった鉄道車両が輸出されているが、その中には客車も含まれている。多くの車両はそのまま、一部は輸出先の軌間に合うように台車を交換したうえで使われている。このような融通が利くのは、現在台湾や東南アジアの主な鉄道の中に、太平洋戦争終了までに日本の占領下で作られた鉄道(台湾総督府鉄道、泰緬鉄道)があるため、1067mm(1000mmのメーターゲージもある)と言う軌間の他、駅やトンネルなど、様々な規格が日本と同じ、あるいは近いことがその背景にある。
 しかし最近では、新製車の輸出、中古の譲渡車両ともに電車や気動車の比率が高まっており、旧来の客車がこれらで置き換えられることもある。

6 脚注
[1]^ 『鉄道ピクトリアル』785号 P.10 - 12。
[2]^ 動力の種類によって動力車操縦者の免許、整備資格、配置区(主に一般形と急行形の気動車は機関区に、電車は電車区に配置される)が異なる。客車列車の電車・気動車化など動力方式の切り替えや新形車の導入のたび、リストラ(職場や人員の整理)を推進したい本社や各鉄道管理局と、それによって雇用が脅かされるとする労働組合が対立し、折衝に多大な時間と労力を要するようになっていた。

7 参考文献
・電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2007年2月号 No.785 特集『50系客車』

8 関連項目
・日本の客車史
・国鉄客車の車両形式

最終更新 2018年11月8日 (木) 13:22 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 『新系列旅客車』と私の"ブログカテゴリー"を作った。
 機関車・客車・貨車を持たない・最小限在庫で対応するJR旅客会社になっているので、「電車」「気動車」「客車」に分類するより、新技術が共通な機能として搭載される時代である。

 でも、「ED75+24系24形ゆうづる号」を目の前でみていた者としては、定期列車として『客車』を見てみたいね。
Posted at 2019/01/09 10:48:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | 新系列旅客車 | 趣味
2019年01月02日 イイね!

『センチュリー』 フルモデルチェンジ

『センチュリー』 フルモデルチェンジTOYOTA -Global Newsroom
2018年06月22日
TOYOTA、センチュリーを21年ぶりにフルモデルチェンジ-品格と匠の技を継承し、日本が誇るショーファーカーとして進化-

・伝統と品格を守りながら華を感じさせ、時代をリードする新しさを付与した外形デザイン
・後席のVIPが快適に寛げることを最優先に考えた室内空間と、乗り心地の良さ、静粛性を追求
・V型8気筒 5.0Lハイブリッドシステムによる優れた燃費性能と、余裕に満ちた走り
・Toyota Safety Senseをはじめとする先進安全技術を新搭載

 TOYOTAは、センチュリーをフルモデルチェンジし、全国のトヨタ店(東京地区は東京トヨペットならびに東京トヨタ)を通じて6月22日に発売しました。

[写真・画像] センチュリー<オプション装着車>

 センチュリーは1967年、トヨタグループの創始者である豊田佐吉の生誕100年を記念して発売しました。以来50年にわたり「日本を代表するショーファーカー」として、各界のエグゼクティブにご愛用いただいております。
 21年ぶりのフルモデルチェンジとなる三代目センチュリーは「継承と進化」を開発テーマとしました。「匠の技」と「高品質のモノづくり」を継承しつつ、ハイブリッド化による高い環境性能と、新しい魅力を付与した内外装デザイン、ショーファーカーとしてふさわしい先進・快適装備を付与。乗り心地、静粛性、走行安定性を一段と向上させています。

 販売概要
販売店 全国のトヨタ店(東京地区は東京トヨペットならびに東京トヨタ)
月販目標台数 50台

生産工場 トヨタ自動車東日本(株) 東富士工場

 メーカー希望小売価格
19,600,000円(消費税込み。北海道、沖縄のみ価格が異なる。リサイクル料金は含まれない)

車両概要

1.伝統と品格を守りながら「華」を感じさせる外形デザイン

・日本の美意識に通じる静的な均整感を保ちながら、後席を上座とする独自の思想を造形に表しました。サイドビューは、あえて傾斜を立てた重厚なクォーターピラーにより後席の存在感を強調し、ショーファーカーにふさわしく、一目でセンチュリーと分かるデザインにしました。
・サイドボディはドア断面の美しいカーブを追求するとともに、ショルダー部のキャラクターラインには「几帳面」と呼ばれる、平安時代の屏障具(へいしょうぐ)の柱にあしらわれた面処理の技法を採用。端正に並んで走る2本の線を角として研ぎ出し、わずかな隙に淀みなく通した面を1本の線として際立たせることで、高い格調を与えています。
・センチュリーの象徴であるフロントセンターの「鳳凰」エンブレムは、工匠が金型を約1カ月半かけて丁寧に手で彫り込み、躍動する翼のうねりや繊細な羽毛の表情を鮮やかに描き出しています。さらにエンブレムを彩る縦格子のフロントグリル奥に、「七宝(しっぽう)文様*1」を配置し、前後二重構造にすることで、「品位ある華」を表現しています。
・新規開発色のエターナルブラック「神威(かむい)」は、漆黒感を高める黒染料入りのカラークリアなど7層もの塗装に、研ぎと磨きを加えて奥深い艶と輝きを追求しました。日本の伝統工芸の漆塗りを参考に、流水の中で微細な凹凸を修正する「水研ぎ」を3回実施し、さらにその後、一点のくもりも残さないよう「鏡面仕上げ」を施しています。

*1 同じ大きさの円を1/4ずつ重ねて描く、日本の伝統的なデザイン。無限に繋がる円ということから、円満や財産、子孫繁栄などを表す伝統文様

2.後席のVIPをもてなす至高の室内空間

・65mm延長したホイールベースを後席スペースの拡大に充てることで、乗員の膝まわりや足元に十分なゆとりを提供。加えて、後席のスカッフプレートとフロアの段差を従来型より15mm縮小することにより、フロアマット*2装着時にはフラットとなり、さらに乗り降りしやすくなりました。
・本杢(ほんもく)オーナメントで前後席の空間を区切りながら「折り上げ天井様式*3」を取り入れ、天井には「紗綾形(さやがた)崩し柄*4」の織物をあしらい、後席の格の高さを表現しました。
・無段階に調整可能な電動オットマンや座り心地を追求したリフレッシュ機能付(左後席のみ)電動リヤシートを採用しました。
・11.6インチリヤシートエンターテインメントシステムを搭載するとともに、12chオーディオアンプと20個のスピーカーを最適配置し、臨場感あふれる空間を創出しています。また、後席アームレストの7インチ大型タッチパネルから、オーディオに加え、エアコン、シート、リフレッシュ機能*5、カーテンなどを操作できます。

*2 販売店装着オプション
*3 居室の天井の中央部を上方へ一段高く凹ませる建築様式
*4 卍(まんじ)を組み合わせた柄には、「不断長久(絶えることなく長く続く)」という意味があり、家の繁栄や長寿を願う文様とされている
*5 左後席に採用され、背もたれ面に内蔵したエアブラダー(空気袋)を膨張させることで肩から腰までを押圧し、心地よい刺激が得られます

3.V8 5.0Lハイブリッドシステムが実現する余裕に満ちた走りと、匠の技が実現する静粛性

・V型8気筒5.0Lハイブリッドシステムを新搭載し、ショーファーカーに求められるスムーズで余裕に満ちた走りと、高い環境性能を両立しています。JC08モード走行燃費は13.6km/L*6。
・熟練の匠が時間と手間をかけ、防音材を隙間なく組み付けるなど、徹底的な防音対策を施しました。加えて、エンジン起動時の音や振動にはアクティブノイズコントロール*7で対応し、圧倒的な静かさを実現しました。
・AVS*8機能付電子制御エアサスペンションを採用したほか、構造用接着剤によるボディ剛性の向上、乗心地に特化した新開発のタイヤ、サスペンションアームやブッシュ、マウントなどのゴム部品にいたる細部までチューニングを施し、ソフトで目線の動きが少ないフラットな乗り心地を実現しました。

3.ハイブリッドシステムの主要諸元
 エンジン
型式 2UR-FSE
排気量 4,968(cc)
最高出力 280[381]/6,200(kW[PS]/rpm)
最大トルク 510[52.0]/4,000(N・m[kgf・m]/rpm)
 モーター
最高出力 165[224](kW[PS])
最大トルク 300[30.6](N・m[kgf・m])
システム全体 317[431](kW[PS])
駆動用バッテリー ニッケル水素

*6 国土交通省審査値
*7 逆位相の音を発することで、音を打ち消すシステム
*8 Adaptive Variable Suspension System

4.VIPを守りぬく先進の安全性能

・「Toyota Safety Sense」を新搭載するとともに、隣車線の死角を走る車両を検知する「ブラインドスポットモニター」、周辺状況を検知して駐車支援する「パーキングサポートアラート*9」を採用しています。
<Toyota Safety Senseの機能>
 ○前方の車両や歩行者(昼間)を検知し、衝突回避支援または被害低減を図る「プリクラッシュセーフティ(PCS)」
 ○車線を逸脱する可能性があると判断した場合に、警報を発するとともにステアリングを制御する「レーンディパーチャーアラート(ステアリング制御機能付)」
 ○先行車と適切な車間距離を保って追従する「レーダークルーズコントロール(全車速追従機能付)」
 ○片側24個のLEDの点灯・消灯を制御し、先行車や対向車に対しては遮光しながらハイビームを照射する「アダプティブハイビームシステム(AHS)」
・ヘルプネット®*10(エアバッグ連動付)を新たに採用し、事故や急病時には専門のオペレーターが警察や消防に取り次ぐほか、エアバッグ作動時には自動でオペレーターに接続します。また、車両データを基に重症度を推定して、ドクターヘリ等の早期出動判断を行うD-Call Net®*11にも対応しています。

*9 後方左右から接近してくる車両をレーダー検知する「リヤクロストラフィックアラート」と、低速走行時に車両前方コーナーや車両後方の障害物を超音波センサーで検知する「クリアランスソナー&バックソナー」を組み合わせた名称
*10 ヘルプネット®は、株式会社 日本緊急通報サービスの登録商標です。ご利用にはサービス開始操作が必要
*11 D-Call Net®は、認定NPO法人 救急ヘリ病院ネットワーク(HEM-Net)の登録商標です。詳しくはhttp://hemnet.jp/

センチュリー 車両情報はこちら https://toyota.jp/century/

以上


≪くだめぎ?≫
 「19,600,000円(消費税込み。)」「日本を代表するショーファーカー」、十分である。
Posted at 2019/01/02 06:11:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | 車全般 | クルマ
2019年01月01日 イイね!

『国鉄20系客車』

『国鉄20系客車』国鉄20系客車
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国鉄20系客車(こくてつ20けいきゃくしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1958年(昭和33年)に開発した寝台特急列車用客車である。

[写真・画像] 「銀河」絵入りサインマーク
国鉄20系客車 カヤ21 急行「銀河」: 1985年頃

1 概要
 1958年から1970年までに合計14形式473両が製造された[1]。他形式からの改造編入が6両あったほか、系列内での改造による形式増加があり、最終的には20形式479両となった[2]。
 最初に投入された列車にちなみ「あさかぜ形客車」とも呼ばれ、その設備の優秀さから登場当時は「走るホテル」とも評された[3]。
 電源車から一括供給される大容量の電力により、国鉄制式客車としては初となる全車空調装置の装備と、食堂車調理設備の完全電化を実現。また編成内の旅客車全車に空気バネ台車[注釈 2]を装備するなど、居住性を大きく改善した画期的な車両である[4]。

2 構造
 日本で初めて同一系列・同一意匠の車両による「固定編成」を組むことを前提とした体系的な基本構想の下に設計された客車である。
 塗装は青15号にクリーム色1号の帯[注釈 3]を3本巻いた外観はデザイン的にも優れ、以後の客車寝台特急も含めて「ブルートレイン」と呼ばれる起源となった。

2.1 車体
 設計は先行する10系客車を基本とし、普通鋼使用であるものの、台枠だけではなく側板などにも荷重を負担させることで、梁や柱などの構造部材を省略して大幅な軽量化かつ側面を腰板部で絞った大断面準張殻構造車体を採用した。外板は1.6mm厚、屋根板は1.2mm厚の冷間圧延鋼板を使用し、イボ付絶縁屋根布を張っている[5]。鋼体内側には10mm厚のスプレーアスベストを吹き付け、防音・防熱性に配慮した[5]。
 屋根部は床下冷房搭載により扇風機カバーや通風器などの突起物を一切取り付ける必要が無くなったことから、車両限界を最大限に活用すべく丸く深い切妻構造の断面形状である。
 また完全冷房化により、側窓は車掌室やトイレなど開閉の必要のあるものを除き全て複層ガラスとゴムシーリングによる固定窓とした。座席車はシートピッチに合わせた狭窓を、寝台車や食堂車は区画に合わせた広窓を採用し在来車の窓配置を踏襲する形で窓寸法が決定されている。
・2段式1等寝台車では上段寝台明かり取り用小窓を幕板部に設置し、外観上の特徴となった。
 編成の最前部・最後尾に連結される電源車は3枚の平面ガラス、緩急車は2面の曲面ガラス[注釈 4]を採用する丸妻型デザインである。また分割運用にも対応する編成中間の緩急車は、貫通路を備える切妻形デザインとした。
 内装は当初は10系客車同様のハードボードと称する木質樹脂板を使用したが、途中からメラミン樹脂化粧板に変更された。
・同時に寝台車の天井内張板も穿孔板から一般の化粧板に変更。
 ナロネ20・22形では、「ルーメット」と称する1人用個室[注釈 5]を国鉄の営業用客車では初めて採用した[注釈 6]。
 2等寝台車は10系寝台車と同様、3段式の折りたたみ寝台を備える側廊下式配置で、組立・解体作業は手動で行った。
・このため多数の人手と長い時間を要することから側廊下には跳ね上げ式の折りたたみ座席を設置した。

 客用扉は自動ドアの採用を見送り、電磁弁で遠隔ロックのみ可能な手動式折り戸である。
・開閉作業は列車給仕[注釈 7]により行われていたが、1976年10月の車掌補廃止[注釈 8]以降は開扉は乗客が行うようになった。閉扉は車掌の業務となったため扉が開いた状態のまま発車し走行中に車掌が各車を巡回して閉める光景もしばしば見られた[6][注釈 9]。そのため、各ドアには「手であけてください」等の2種類のドアステッカーが貼られた。

 愛称板は非貫通タイプの電源車・緩急車では5角形のアクリル板[注釈 10]による電照式大形愛称表示装置を採用した。
・初期には列車によって配色を変える試みがなされ、地色は「あさかぜ」は薄水色、「さくら」は桃色、「はやぶさ」は黄色、「みずほ」は水色(文字は黄色)が採用されたが、1964年の「富士」「はくつる」以降は簡略化のため白の地色に濃青の文字にほぼ統一され、前記の各列車も次第にそのスタイルに取り替えられた。
・ただし「あけぼの」「ゆうづる」では、両列車に青森運転所と秋田運転区の運用が混在したことから区別のため、青森車が白地、秋田車が桃地とされた。
・1978年より導入した「絵入りサインマーク」は、特急列車では、既に本系列が置換え対象となっていたため、1980年代に多客期の臨時列車として投入された「明星」「あかつき」「日本海」で新規に作成された程度で、急行列車では1980年の「銀河」を皮切りに九州地区の「かいもん」「日南」でも採用された。また、同時期から1990年代にかけて運行された臨時急行「おが」[注釈 11]「あおもり」「玄海」「霧島」「雲仙」で絵入りサインが採用された一方で、その他の定期急行運用では文字の「急行」表示のみとされた。
 分割用緩急車であるナハフ21・ナハネフ21・ナハネフ23では貫通路を挟んだ形の2分割タイプのバックサインで、列車名のアクリル板を車内側の蓋を開けて差し込む構造である。
 客用扉及び車端部には固定式の等級・種別・号車・行先の各表示灯を設置。
・行先表示灯は「東京←→博多」の様に発着地両表示とし、着地を裏から照明の点滅で明示した[注釈 12]。
・等級表示灯は以下の相違がある。
 ・3等級制時代:白地黒文字「2等寝台」「3等寝台」「2等」「3等」
 ・2等級制時代:青地白抜き文字「1等寝台」「2等寝台」「1等」「2等」
 ・等級制度廃止後:白地黒文字「A寝台」「B寝台」「グリーン車」[注釈 13]

2.2 主要機器
2.2.1 電源システム
 従来型客車が装備した蒸気暖房・車軸駆動冷房・石炭レンジなどをすべて排除した、国鉄としては初となる「完全電化」車である。このため編成の一端に連結された電源車[注釈 14]により、編成内の冷暖房や食堂車調理設備等の電源の一切を供給する集中電源方式を採用した。
 電源車はマニ20形・カニ21形・カニ22形が新造され、DMF31S-G形ディーゼルエンジンと三相交流600 V電源を供給するPAG1形発電機を2セット搭載するが、カニ22形ではそれに加え、直流電化区間でパンタグラフからの集電によって駆動する大容量電動発電機も搭載した。
 九州地区での付属編成分割運転に対応するため、旧形客車から改造された簡易電源車のマヤ20形では、DMH17C-G・DMH17S-G形ディーゼルエンジンとPAG7形発電機を2セット搭載した。
 発電された電力はKE2形ジャンパ連結器を介し、全車両に給電される。給電された電力は車両ごとの変圧器でさらに単相100 Vと三相200 Vに変換され、前者は照明・サービス用コンセント・冷水器・ジュースクーラーなどの小型電化機器に、後者は空調や食堂車の調理機器に用いられた。

2.2.2 冷房装置
 冷凍能力12,800kcalの三菱電機製AU21形もしくは日立製作所製AU22形集中式冷房装置[注釈 15]を各車の床下に2基搭載し、電源車から給電される電力で駆動する。なお、前者は日本車輛製の車両に、後者は日立製の車両に搭載された。

2.2.3 台車
 電源車以外の各形式については10系で開発・実用化されたTR50形を基本としつつ、乗り心地改善のために枕バネをベローズ式空気バネへ置換えた鋼板プレス材溶接組み立てによるペデスタル式の軸バネ式台車であるTR55形を装着する。だが、同時期の特急形電車・気動車で採用された2次蛇行動を抑止するボルスタアンカーの装着は見送られた。
 これに対し電源車は乗り心地に対する配慮が特に必要なく、また荷重も大きいことからバネ定数を大きくとった枕バネを金属バネとしたTR54・54A・66の各形式を装着する。

2.2.4 連結器
 定編成が前提の観点から、編成の中間となる車両の連結器は噛み合わせの遊びを極力少なくした密着自動連結器とし、また車体台枠へのマウント部分に前位側に油圧式、後位側にゴム式の緩衝装置を設けることで衝撃を吸収出来る設計を採用。さらに高速運転時の横揺れ対策として、妻面の幌の上に車端ダンパも採用した。
 また前述の電力供給用KE2形以外にも制御・連絡回線用KE59形(19芯)[注釈 16]、1968年のブレーキ改造後は電磁ブレーキ指令用KE72形(9芯)の各ジャンパ連結器を装備する。

2.2.5 ブレーキ
 新造開始当初は山陽本線の電化区間がようやく姫路に到達したばかりで、非電化区間ではC62形などの蒸気機関車が牽引を担当した。このため、在来型客車と同様に通常のA動作弁に対するブレーキ管指令によるAS自動空気ブレーキを装備し、最高速度は従来通り95km/hに制限された[注釈 17]。
 その後1967年の常磐線全線電化完成で本系列の幹線系での蒸気機関車牽引による運用が消滅し、さらに1968年9月をもって最後まで残っていた佐世保線内のC11形牽引運用もDD51形への置換えが決定したことから、1968年10月1日のダイヤ改正に向けASブレーキに中継弁 (Relay valve)・電磁給排弁 (Electro-pneumatic valve)・ブレーキ率速度制御機能を付与したAREB増圧装置付き電磁自動空気ブレーキ化改造工事[注釈 18]を実施し、110km/h運転対応となった。
 この改良により以後の営業運転時は原則として牽引機関車が限定されることになり、最高速度95km/h超での運転では以下の装備[注釈 19]が必要となった。
 ・編成増圧ブレーキ装置[注釈 20]
 ・電磁指令ブレーキ回路[注釈 21]
 ・元空気溜管 (MRP) 引き通し
 また95km/h以下での運転の際にも増圧圧縮空気や空気バネ台車への供給源として元空気溜管の接続を必要としたため全ての運用について牽引機関車が限定された[注釈 22]。
 ・奥羽本線では全区間95km/h以下の運転であるが、急勾配区間となる板谷峠での非常ブレーキ時に全編成に同期的な作用を促し連結器にかかる過大な力の発生を抑えるため電空帰還器を装備せずブレーキ弁の非常接点のみを電磁指令としたため牽引機となるEF71形・ED78形では95km/h以上での運転に準ずる装備制約がある。
 この牽引機限定の制約は、後年の急行列車転用に際して機関車側からの元空気溜管への供給を不要とするためカニ21形の荷物室に空気圧縮機を搭載改造したカヤ21形が竣工するまで継続した。

3 形式
解説文中、以下の点で注意されたい。
・ナハ21形を除き1960 - 69年の2等級制による表示とする。
 ・1960年以前の3等級制時代においては、1等→2等・2等→3等と読み替えのこと。
 ・1969年以降は、1等座席車→グリーン車・2等座席車→普通車・1等寝台車→A寝台車・2等寝台車→B寝台車に相当。
・等級については、1等車・2等車も参照のこと。

3.1 新造車
 本系列の新造車は、原則として車両番号下2桁1 - 49は日本車輌製造、51 - 99は日立製作所と、製造メーカーでの区分を実施した。しかし、日立製作所は1963年(昭和38年)の「みずほ」用増備車を最後に客車の製造を中止したためこの区分原則は崩れ、1970年(昭和45年)製造のナハネ20 350 - 364は車番の下2桁が50以降であるが、日本車輌製となった。
 寝台車・座席車・食堂車・その他の順に記述する。

3.1.1 ナロネ20形
1958年(昭和33年)に3両のみ製造された1人・2人用1等個室寝台車。区分室のみで構成されており、定員は18名。

1人用個室「ルーメット」
 1,960 mm×1,046 mmの個室が車体前位側に5室ずつ中央の通路を挟み、10室が区画された。室内には幅900 mm程の1人用ソファがあり、背ズリ部分が壁ごと手前に倒れて寝台となる構造。さらに補助席・収納式洗面台・電気カミソリ用コンセントを装備する。

2人用個室「コンパートメント」
 マロネ40の2人用個室設計を元にした、1,960 mm×1,046 mmの個室を後位側に4室設置する。東海道本線基準の山側に通路を持ち、室内は枕木方向に長いソファの背ズリ部分が倒れて下段寝台となり、壁面に折りたたまれた上段寝台が引き出されて2段ベッドとなる。壁面にはテーブル兼用の洗面台と中に水差しを備えた鏡台を装備する。車端側の2室は4人個室としての利用も想定し、間仕切りが開放できる構造[注釈 23]を採用した。

 それぞれの個室両端に洋式トイレを1室ずつ計2室のほか、荷物保管室・給仕室を設置するなど本系列の代名詞である「走るホテル」の名を具現化した豪華車両でもある。また本形式は1次車3両が製造されたのみであるが、日本車輌製造の1・2と日立製作所製造の51とでは窓配置が異なるほかに車内デザインに差異が存在する[注釈 24]。

1人用個室通路の照明配置
 1・2は千鳥配置。51は天井中央に配置。
2人用個室通路の照明配置
 1・2は通路端配置。51は中央に配置。
個室内装
 1・2は木目調でシート地は緑色。51はクリーム色の壁材でシート地はオレンジ色。

 新製時から1975年3月10日国鉄ダイヤ改正で運用を終了するまで終始「あさかぜ」専用で、品川客車区に配置された。1976年(昭和51年)に全車廃車され形式消滅となった。

3.1.2 ナロネ21形
 1958年(昭和33年)から1970年(昭和45年)にかけて59両が製造されたプルマン形開放式1等寝台車。室内配置はマロネ41形を元にした、中央通路を挟んで左右に上下2段寝台をレール方向に7区画ずつ28名分寝台が配置され、そのほかに喫煙コーナー・給仕室・荷物保管室・和式ならびに洋式トイレが設置された。
1 - 4・51 - 55
 初期に製造されたグループ。1969年(昭和44年)と1970年(昭和45年)に大船工場にて100番台と同仕様にする改造を施工し、原番号+500に改番された。
101 - 147・151 - 153
 「みずほ」でナロ20形連結を中止したため、給仕室→専務車掌室・荷物保管室→給仕室ならびに730 mmの小窓設置・喫煙室の半分→更衣室へと仕様が変更され、番台が区分された。この設計変更は以後製造された車両の標準仕様ともなった。
 のちに一部が座席車ナハ21形に改造され、分割民営化までに多くが廃車された。残存した少数の車両はカートレインなどで運用されたが、1996年(平成8年)には全車廃車となり形式消滅した。

3.1.3 ナロネ22形
 1959年(昭和34年)の「さくら」運転開始に合わせて製造開始された1人用個室・開放式合造1等寝台車。1963年(昭和38年)までに1 - 3・51 - 55の8両が製造された。前位はナロネ20形と同じ1人用個室が6室、喫煙コーナーを挟んで後位には開放式寝台を16名分設置する。
 乗務員室→専務車掌室・荷物保管室→乗務員室とし730 mmの窓を新設する改造が1969年(昭和44年)および1970年(昭和45年)に大船工場で施工され、原番号+100となった。
 九州ブルトレにのみ連結された関係から終始品川客車区配置であり、最後の連結列車であった「あさかぜ(下り)1号・(上り)2号」の24系25形客車置換えにより全室1人用個室のオロネ25形で代替され、1978年(昭和53年)に廃車・形式消滅となった。

3.1.4 ナハネ20形
 2等寝台車。1958年(昭和33年)から1970年(昭和45年)にかけて、1 - 49・51 - 91・101 - 149・201 - 249・301 - 364と、本系列中最多の253両が製造された。基本的なレイアウトはナハネ11形に準じ、車内は側廊下式で幅520 mmの3段式寝台が9ボックス54名分並ぶ構造は踏襲しているが、当初より冷暖房完備で、各段寝台の上下間隔が大きく取られ、快適性が改善された[注釈 25]。また固定窓となったため窓下に格納スペースが生まれ、通路側下部には折りたたみ式座席[注釈 26]が設置されたほか、車端部に和式トイレ2室と洗面台3基、出入り口付近に給仕室を装備する。JRに継承されたが1997年までに形式消滅した。改造車については後述。

3.1.5 ナハネフ22形
 全車寝台化への方針変更によりナハフ20形に代わって1964年(昭和39年)から1970年(昭和45年)にかけて1 - 26が日本車輌製造のみで製造された2等寝台緩急車。ナハフ20形同様の非貫通式を採用し、最後尾は車掌室と展望室を設置する。寝台はナハネ20形同様の3段式が8ボックス48名分設置されており、トイレ・洗面所もナハネ20形と同じである。車掌室とは別に乗務員室も設置された。改造車については後述。JRに継承された車両も1996年(平成8年)には廃車となり形式消滅した。

3.1.6 ナハネフ23形
 1964年(昭和39年)から1970年(昭和45年)にかけて、1 - 20が日本車輌製造のみで製造された2等寝台緩急車。ナハフ21形同様に編成分割を前提とした切妻・貫通式を採用。寝台はナハネフ22形と同様の48名分だが、ナハフ21形にあった売店はない。改造車については後述。JRに継承された車両も1997年(平成9年)までに廃車され形式消滅した。

3.1.7 ナロ20形
 当初は全車寝台車ではなく一部を座席車としていたため[注釈 27]1958年(昭和33年)から1960年(昭和35年)にかけて製造された1等座席車[注釈 28]。ナロ10形の座席レイアウトを踏襲したシートピッチ1,170mmのリクライニングシートを12列装備し、定員は48名。床下空調の風道とするため座席部分の床を通路よりも100 mm高とする構造のほか、白熱灯を使った光軸可変スポットライト式の読書灯を各座席に設置した。出入り台側に洋式トイレ・洗面台・荷物保管室・車掌室が、前位寄りに和式トイレ・洗面所が設けられていた。
 1 - 5・51 - 54の9両が製造されたが、1968年(昭和43年)に3両を残してナハネ20形に改造され、ナハネ20 501 - 503・506 - 508となった。残った4・5・54は、2等座席車廃止後も1975年(昭和50年)3月まで「あさかぜ」用の1等車→グリーン車として使用され廃車となった。

3.1.8 ナハ20形
 1958年(昭和33年)に製造された定員64名の2等座席車。回転式クロスシートを装備しているが、当初は車両基地などでの転換を想定したもので、構造上車端から順番に回転させる必要があり、乗客が任意に回転させることは不可能であった(後に改良)。座席部分の床はナロ20形と同じ理由で100 mm高い。客室の固定窓化で立売りの駅弁などが利用しにくくなった乗客への対策と、食堂車を補助する観点から、国鉄としては初の売店設置車両となり、弁当・土産・新聞などを販売した。構造的にはショーケースカウンターとその向かいに電気式ジュースクーラーならびに物置を配置した。また、ホームから物品搬入の便を図るため、側面には業務用扉が設置された。
 1・51・52の3両が製造されたにとどまり、「あさかぜ」の後には1964年(昭和39年)運転開始の「はくつる」に連結された。運用移管により1966年(昭和41年)に尾久客車区に転出、その後1968年(昭和43年)に青森運転所に再転出し「ゆうづる」で運用されたが、1970年(昭和45年)8月に運用を終了した。
 1971年(昭和46年)にナハネ20 510 - 512に改造され、形式消滅した。

3.1.9 ナハフ20形
 1958年(昭和33年)から1963年(昭和38年)にかけて製造された2等座席緩急車。最後部に連結される非貫通式流線形緩急車で、最後部右側半分を車掌室、左側半分を展望室として乗客に開放した。客室はナハ20形に準じており、定員は68名。1 - 6・51 - 53の9両が製造されたが、1958年(昭和33年)から1959年(昭和34年)にかけて製造された1 - 3・51・52は製造技術面の問題で、妻部窓ガラスを平面4枚窓とし、それ以降は曲面ガラス2枚窓が採用された。
 後に新設の「ゆうづる」などに連結されたが、1970年(昭和45年)12月に全ての運用が終了。また、1965年(昭和40年)以降は寝台特急列車全席寝台化の方針により順次寝台車に改造され、ナハネフ20形に3両・ナハネ20形500番台に1両・ナハネフ22形500番台に5両が改造され、形式消滅した。

3.1.10 ナハフ21形
 1959年(昭和34年)から1963年(昭和38年)にかけて製造された2等座席緩急車。編成中間に挟んで分割併合に対応するため、切妻・貫通式とした形式。「さくら」「はやぶさ」「みずほ」の基本編成に使用された。客室はナハ20形に準じ、定員は60名。ナハ20形と同様に売店も設置された。1 - 4・51 - 56の10両が製造されたが、1965年(昭和40年)以降ナハネフ21形に6両・ナハネフ23形500番台に4両が改造され形式消滅した。

3.1.11 ナシ20形
 1958年(昭和33年)から1970年(昭和45年)にかけて1 - 29・51 - 57の36両が製造された食堂車。基本構造はオシ17形に準ずるが、厨房は完全電化され[注釈 29]、冷蔵庫や電気レンジが設置されるなど、近代化された。食堂部分は通路を挟んで4人掛けの片持ち式テーブルを10セット設置したため定員は40名である。食堂の内装デザインが製造メーカーで全く異なることも特徴である。
 食堂満席時に待合室となる喫煙室は深夜の営業終了時に座布団と背ズリを引き出し従業員用寝台になる構造が採用された。当初車端部には、将来の列車電話の使用開始を見越し、準備工事を施工した電話室が設置されていた。

ナシ20形製造メーカー別内装デザイン相違
部位・担当者 日本車輌 日立製作所
照明 中央・窓側にカバー付蛍光灯 間接照明・ダウンライト
冷房吹出口 連続タイプ 円形タイプ
食堂・厨房仕切 キノコ形貫通路類似形状[注釈 30] 円弧
担当者 高島屋装飾部所属インテリアデザイナー 同社家電品設計を依頼されていたフリー工業デザイナー

また増備中には以下の設計変更が行われた。
ナシ20形製造年次別設計変更点
年次 変更点 該当車番(日車・日立)
1963 喫煙室側入口ドアをアクリル製に変更 5 - 16、56・57
1968
厨房部業務用扉を内開戸から外吊り式に変更
食堂テーブルをサシ581形同様の跳ね上げ式化、ならび椅子をFRP化
蛍光灯を中央部のみ設置に減少
電話室を折りたたみ式テーブルを設置した車販準備室化[注釈 31]
車販準備室該当部分の窓を廃止   17 - 29、- [注釈 32]

 1978年(昭和53年)の「あさかぜ」編成置換えにより定期列車での運用が終了。24系などの増備により1980年(昭和55年)前後には全車が休車となった。しかし財政管理の都合上、分割民営化直前まで車籍を有していた車両もあり[注釈 33]、1987年(昭和62年)に全車廃車となり、形式消滅した。

3.1.12 マニ20形
1958年(昭和33年)に製造された電源荷物車。全長17,500 mm、自重40.6 t、台車はTR54形で250 kVAのディーゼル発電機を2基搭載。
・当初は全長19 m・荷物室荷重4 tのスニ20として設計[注釈 34]されたが、製造途中で騒音対策強化を行った関係で重量が増加し、列車重量が400 tに収まらなくなったため全長を縮小して、マニ20として落成した[注釈 35]。
・荷物用扉は、一般的な引き戸ではなくカニ38形で試用された上昇式の巻き上げシャッターを採用。
全長が短く新聞輸送に対して荷物室荷重3 tと小さいため1・51・52の3両のみの製造にとどまり、以後電源車はカニ21形が増備される。当初は「あさかぜ」で使用されたが、後に主荷物需要の少ない「はやぶさ」・「富士」・「あかつき」で使用される。1968年(昭和43年)の青森転属に際し、寒冷地仕様・荷物室への明かり窓の追加などの改造工事が施工された[注釈 36]。1977年(昭和52年)に全車廃車で形式消滅。

3.1.13 カニ21形
 1959年(昭和34年)の2次車から製造された電源荷物車。マニ20形からの変更点を以下に示す。
・新聞輸送急増のため全長を20,000 mmに延長し、荷物室を5 t積みに拡大。
・機関室にも明かり窓を設置。
・燃料タンク容量がマニ20形の700リットル2基から700リットル1基に変更[注釈 37]となった。
 1970年(昭和45年)6月増備の122 - 124は電源装置の無人運転に対応するため遠隔自動制御装置が装備されており、基本番台の続番+100の車番に区分された。1970年(昭和45年)9月に下関に配備された最終製造車25 - 27にも新製時から装備された。
・試験結果が良好だったため1971年から翌年にかけて基本番台全車にも同装置が取り付けられたが、改造に伴う改番は実施されていない。
 1 - 21・25 - 27・51・52・122 - 124の29両が製造されたが、18両が後述のカヤ21形に改造された。1985年(昭和60年)に形式消滅。

3.1.14 カニ22形
 1960年(昭和35年)および1963年(昭和38年)に製造された電源荷物車。1960年(昭和35年)、「はやぶさ」を20系化する際に登場した。本形式の特徴を以下に示す。
・カニ21形同様のディーゼル発電機2基のほか、山陽本線全線電化による直流電化区間での架線電力有効利用を検討した結果、電動発電機(MG MH100形電動機・DM64形発電機)と給電のため屋根上にPS18形パンタグラフを2基搭載。
 ・電源装置の切替は同乗している技術員によって手動で行われるほか、パンタグラフの上昇・降下などは本系列制御回線用のKE59形ジャンパ連結器によりEF58形・EF60形500番台・EF65形500番台(各運転台のカニパンスイッチ)から遠隔操作することができ、EF58形の対応車両では電源装置の遠隔制御機能も搭載された。
・燃料タンクはカニ21形の700リットルから1,700リットルに大幅拡大し、さらに10リットル補助タンク2基と炭酸ガス消火装置を搭載。
・この結果自重が59 t、荷物・燃料を満載すると64 tにも達し軸重が最大16 tとなり、バネ定数の問題から軸バネ式のTR54系では支えるのが困難と判断され、電車用のDT21系と同様の複列コイルバネによるウィングバネ式であるTR66形[注釈 38]が新規設計され装着。
 ・軸重を許容できる線路規格の高い区間でしか最高速度で運転できないという制約があり、速度制限を受けずに走行可能なのは東海道本線・山陽本線・鹿児島本線熊本以北のみであった。このため熊本以南での70 km/hの速度制限を受けるよりも長崎本線での応急的な軌道強化工事[注釈 39]を施工して速度制限を75 km/hに緩和する対応の方が得策であること。また、荷物室の荷重も2 t[注釈 40]と小さいことから、当初予定されていた「はやぶさ」での運用は試運転時以外ではカニ21形の代走で使われた程度[8]であり、基本的には「さくら」で限定運用[注釈 42]された。

以後の増備は1963年(昭和38年)の「みずほ」20系化時のみで、1 - 3・51 - 53の6両が製造されたに留まった。さらにMGも比較的早期に撤去された。また、1964年(昭和39年) - 1965年(昭和40年)頃には「あさかぜ」のほか、「はくつる[9]」の583系電車化ならびに「ゆうづる[10]」青森運転所移管となる1968年(昭和43年)ダイヤ改正まではパンタグラフ・MGを搭載したままカニ21形の予備車として充当された実績がある[注釈 43]。

51
新製直後にマニ20形・カニ21形と共通予備車とされたことから軸重軽減のためMG撤去[注釈 44]。

52・53
1965年(昭和40年)に「さくら」運用での佐世保線入線に備えてMGとパンタグラフを撤去。

1・2・3
「みずほ」「あさかぜ」運用でMGを使用していたが、1968年(昭和43年)の向日町運転所転属時までにMGとパンタグラフを撤去。

 以後は全車ともディーゼル発電機のみの使用となり、MG装備位置には燃料タンクが増設された。
 ・これによりカニ21形との共通運用が可能となったが、実際には荷物積載量が少ないため、関西 - 九州の「彗星」や上野発着の「あけぼの」で限定運用された。
 1975年(昭和50年)に2両が24系に編入改造されてカニ25 1・2となった。詳細は#カニ25形も参照のこと。1979年(昭和54年)に形式消滅。

3.2 改造車
改造工事施工順に解説する。

3.2.1 マヤ20形
本系列の簡易電源車である。設計変更されたことから1 - 3と10 - 12のグループが存在する。

3.2.1.1 1 - 3
 1963年(昭和38年)6月に「みずほ」20系化の際、付属編成が門司 - 大分間で分割運用となったことから、電源確保のため旧型客車オハシ30形から小倉工場で改造[注釈 45]され、1・2が門司客貨車区に配置された。短区間用のため荷物室は無く、形式は職用車の「ヤ」とした。
 1964年(昭和39年)10月に「みずほ」付属編成が「富士」として独立すると定期運用を外れ、1を休車とし2は予備電源車として待機体制[注釈 46]が取られた。
 1965年(昭和40年)10月ダイヤ改正では「さくら」・「あかつき」で長崎本線・佐世保線編成分割運用が実施されることになり、早岐客貨車区に転出。また運用増による予備車確保の名目で、スハ32形丸屋根車から3が追加改造された。改造内容を以下に示す。
・塗色変更。
・車体種車であるオハシ30形の状態を残す一方で屋根にはラジエーターファンを搭載。
・旧食堂・調理室側は全て撤去して電源室と技術員室とした。
・DMH17C-G形機関・PAG7形発電機・床下燃料タンク2基設置。
・20系と連結する2エンド側連結器を密着自動式に交換。
・台車は種車の平軸受TR23形が流用されたが、バネ定数を荷物車用に変更しブレーキシリンダーを2基に増加。
・1エンド側にナハフ21形と同様の左右分割式愛称表示器を設置。
 ・スハ33044→スハ32 381→スシ31 2→オハシ30 4→マヤ20 1
 ・スハ32907→スハ32 244→スシ31 5→オハシ30 5→オハシ30 2005→マヤ20 2
 ・スハ32941→スハ32 278→マヤ20 3

3.2.1.2 10 - 12
 1968年の増発によりスハ32形丸屋根車を種車として3両が改造されたが、以下の設計変更が行われた結果10 - 12の番台区分とされた。
 ・車体安定のために電源室(発電装置)を車体中央部に移設し重量配分の適正化を実施。
 ・1エンド側に荷物室を設置したため扉が2カ所とも残存したほか、前述の電源室移設も関係し技術員室の配置・窓位置も変更。
 ・機関を過給機付きDMH17S-G形・発電機をPAG7A形へ変更し、出力を125kVAから165kVAに増強。
  ・スハ33275→スハ32 612→マヤ20 10
  ・スハ33450→スハ32 787→マヤ20 11
  ・スハ32860→スハ32 197→マヤ20 12
 両グループ全車とも1972年3月15日のダイヤ改正で長崎客貨車区に転出したが、「さくら」の14系置替えと「あかつき」の運用減により1974年までに2・3・10が廃車された。その後は「あかつき」・「はやぶさ」の付属編成用として1・11・12が使用されたが、1975年3月10日のダイヤ改正で運用を失い、4月末には小倉工場で順次廃車解体され形式消滅した。
1エンド側に荷物室を設置したため扉が2カ所とも残存したほか、前述の電源室移設も関係し技術員室の配置・窓位置も変更。
機関を過給機付きDMH17S-G形・発電機をPAG7A形へ変更し、出力を125kVAから165kVAに増強。
スハ33275→スハ32 612→マヤ20 10
スハ33450→スハ32 787→マヤ20 11
スハ32860→スハ32 197→マヤ20 12

3.2.2 ナハネフ20形
 2等寝台緩急車。1964年および1965年にナハフ20形を改造した形式。車体を流用しているため、2窓分で1ボックスとした窓割から寝台の1ボックスあたりの幅が従来車の1,560mmより230mm広い1,790mmとなっている。そのため寝台はナハネフ22形に比べ1ボックス6名分少ない42名分。以後の改造は車体を載せ替えたナハネフ22形500番台に移行した。1975年に形式消滅した。
 ・ナハフ20 2 - 4→ナハネフ20同番号

3.2.3 ナハネフ21形
 2等寝台緩急車。1964年および1965年に小倉工場でナハフ21形から6両が改造された。ナハネフ20形同様に車体を流用している。売店は撤去し7ボックス42名分の寝台を設置した。「さくら」などで運用された後、青森運転所へ転属し「ゆうづる」・「日本海」・「つるぎ」などで運用された。さらに尾久客車区に転属し「天の川」で運用された後に廃車となり1978年に形式消滅した。
 ・ナハフ21 1・3・4・51 - 53→ナハネフ21同番号

3.2.4 500番台改造車
 1964年の東海道新幹線開業後、夜行特急列車の寝台専用列車化が推進されることとなった[注釈 27]。上述したナハネフ20形・ナハネフ21形の改造では内装を寝台車化するものの車体は種車のままとされたが、1968年度以降の改造では新造車体に載せ替える工法へ変更し既存形式とほぼ同一仕様となることから、該当形式の500番台に区分された。
ナハネ20形
 1968年にナロ20形のうち6両が、小倉・幡生の両工場で改造施工され501 - 503・506 - 508に区分された。
 1971年にナハ20形3両が、1972年にはナハフ20形1両が土崎工場で改造施工され510 - 513に区分された。また本グループは1977年までに廃車となった。
 ・ナロ20 1 - 3・51 - 53→ナハネ20 501 - 503・506 - 508
 ・ナハ20 1・51・52・ナハフ20 5→ナハネ20 510 - 513
ナハネフ22形
 1968年にナハフ20形から5両が改造された。
 ・ナハフ20 1・51 - 53・6→ナハネフ22 501 - 505
ナハネフ23形
 1968年に高砂工場でナハフ21形から4両が改造された
 ・ナハフ21 2・54 - 56→ナハネフ23 501 - 504

3.2.5 カヤ21形
 1976 - 1978年にカニ21形を改造した電源車。本系列の急行列車への格下げにより、本系列と機関車間に一般形荷物車を連結する事象が発生した。しかし、本系列の増圧圧縮空気は元空気ダメ管によって機関車から供給されていたが、一般形荷物車には元空気ダメ管の引き通しがないため供給に支障が生じること、またP形改造未施工の機関車(主にEF58形[注釈 47])での牽引が想定されたことから、電源車の荷物室へ同時期に廃車となったクハ181形のC3000形空気圧縮機 (CP) を搭載する改造が18両に施工された[注釈 48]。この改造により形式表記が「カニ」から職用車を示す「カヤ」に変更されたが、車両番号は原番号を承継する。1998年に形式消滅。
・カニ21 2・4・5・7 - 13・15 - 17・19 - 21・122・123→カヤ21同番号

3.2.6 ナハ21形
 急行「十和田」および「だいせん」が20系化される際に座席車が必要になったため、1977 - 79年に大宮・高砂の両工場でナロネ21形16両を改造した普通座席車。以下の改造が施工された。
・中央通路式であった開放式A寝台の寝台部分と上段部分にあった小窓を撤去。
・客用扉上部にあった等級表示灯(表示窓)を撤去。
・下段寝台を固定し4人がけボックスシートとし、喫煙室の反対側に1ボックスを増やしたため定員は64名とした。
・座席上部に荷棚を新設した[注釈 49]。
・トイレは洋式トイレ1箇所のみとした。
 高天井かつシートピッチが広いなど種車が寝台車ならではの特徴がある。全車とも1987年までに廃車となり形式消滅した。
・ナロネ21 110・112・115・119・120・122・123・124・128・105・108・113・129・134・136・144 → ナハ21 1 - 16

3.2.7 1000・2000番台改造車
 1970年代後半の夜行急行列車では、座席車主体編成の列車も多いことや車内環境改善の見地も含めて座席車は12系客車への置換えが開始された。しかし併結される寝台車の10系客車がアコモ陳腐や老朽化が顕著であるため寝台車を本系列に置換えて併結運転とするために、1978年に幡生・高砂・土崎(ナハネ20形1000番台のみ)・大宮(ナハネ20形2000番台のみ)の4工場でナハネ20形・ナハネフ22・23形へ12系客車との連結に対応した改造である。
 なお、ナハネ20形のうち12系客車と直接連結可能な車両は原番号+1000に、当グループの中間に編成組成が限定された車両は番号+2000に区分される。
・サービス電源を12系客車の440Vから供給とするために1000番台車はジャンパ連結器を12系客車対応品に交換。さらに変圧器などを搭載。
・客用扉を12系客車と一括操作可能な自動ドアに交換。
・ナハネフ22形・23形は車掌室・業務用室に車掌スイッチ、デッキにドアコックを取付。

ナハネ20形1000番台
 1126・1135・1136・1202・1214・1215・1309・1313・1324・1340 - 1342・1354・1357
ナハネ20形2000番台
 2220・2232・2235・2237・2243・2245・2314・2358
ナハネフ22形1000番台
 1002・1004 - 1013・1023
ナハネフ23形1000番台
 1009・1010・1019

 なお本グループは、当初投入された「ちくま」・「さんべ」・「かいもん」・「日南」も比較的早期に廃止や臨時列車格下げもしくは寝台車の14系客車への置換えとなったことから1987年までに全車廃車となり、JRグループに承継された車両はない。

3.2.8 オニ23形
 1988年(昭和63年)に日本国内で「オリエント急行」が運転されることになったが、連結器変換アダプターとしての控車[注釈 50]が必要とされた。このため国鉄時代に除籍され清算事業団が所有していたナハネフ23 8に日立製作所笠戸事業所[注釈 51]で以下の改造改番を施工しJR東日本へ復籍させた形式である。
 ・塗色はプルマン車をイメージして上半分が白、下半分が紺の塗り分けに変更。また他車と釣り合いを取るべく黄色のロゴを新調。
 ・編成片側端部のスタッフカー側に連結するために洗面室側連結器をねじ式に交換。併せてバッファーも装着。
 ・当時日立製作所が試作していたハイビジョンテレビのデモンストレーションを目的にシアターカーとして運用されるため寝台の撤去や冷房風道の移設などをした上で車内を改装。
 ・床下水タンクおよび冷房装置1台を撤去しディーゼル発電機を搭載。
「オリエント急行」運転終了で用途喪失となり廃車された。
 ナハネフ23 8→オニ23 1

3.3 未成車
3.3.1 オニ22形
 直流電化区間用のパンタグラフを搭載した電源車として計画され、図面作成まで終了していたものの、製造が中止された形式。図面では一見してカニ22形に類似した部分もあるが、それと比較してディーゼル発電セットを搭載していないこと、車体長がマニ20形よりもさらに短い13,500 mmであることなどの相違点がある。しかし、直流電化区間でしか使用できない欠点から本形式の必要性が疑問視され、本系列で唯一計画のみの車両となり、製造はされなかった。

4 改造
国鉄時代に行なわれた主な改造について年代順に解説を行う。

4.1 座席車の寝台車化
1964年 - 1965年度の改造
 ナハフ20・21形に施工。車体はそのまま流用し、車内を寝台化する改造を行いナハネフ20・21形となった。
1968年 - 1972年の改造
 新造した車両構体に載せ換える改造に方針転換となり、ナロ・ナハ・ナハフ20形からはナハネ20形に、ナハフ20・21形からはナハネフ22・23形のそれぞれ500番台に改造改番が行われている。なお詳細は#500番台改造車を参照のこと。

4.2 110km/h運転対応改造
 1968年10月1日のダイヤ改正で110km/h運転が開始されることになり、ブレーキをAREB増圧装置付き電磁指令式自動空気ブレーキとしている。詳細は#ブレーキを参照のこと。

4.3 ナロネ21形・22形の車掌室設置改造
 1969年から1970年にナロネ21形基本番台とナロネ22形全車に行われた改造。この改造でナロネ21形は原番号+500、ナロネ22形は原番号+100に改番された。詳細はそれぞれの形式を参照のこと。

4.4 北陸トンネル火災事故による対応
 1972年に発生した北陸トンネル火災事故後にとられた出火対策および汚物処理装置装備によって重量増となり[注釈 52]、ナ級からオ級となった。ただし形式・表記の変更は行わず、形式の前に白三角を追加することで対応している。

4.5 カニ25形
「国鉄24系客車#改造車」も参照
 1975年3月10日のダイヤ改正で、「あかつき」は3往復中1往復が24系客車により新大阪 - 長崎・佐世保で運転されることになった。そのため付属編成を分割した際に電源車が必要となることから、小倉工場でカニ22形から2両がカニ25形に改造された。改造内容を以下に示す。

・発電機の巻線巻き替えにより三相交流供給電圧を600V→440Vに変更。
・ジャンパ連結器を24系対応品に交換。
・ブレーキを24系のCL自動空気ブレーキに変更。
・屋上パンタグラフ跡にベンチレーター(通風器)を追加。
・車両番号標記をペンキ塗りとした。
 長崎客貨車区に配置されたが、2が1978年4月20日に廃車。1978年10月のダイヤ改正で24系の分割運用は消滅したため、1は向日町運転所に転属し「彗星」・「明星」などで運用されたが、1984年9月29日に廃車された。
・カニ22 53・2→カニ25 1・2

4.6 急行列車への投入による対応
 1970年代後半には、本系列は老朽化した10系寝台車置換え用として急行列車への格下げ投入を実施。カヤ21・ナハ21の両形式が改造で竣工したほか、12系客車との併結対応改造を施工された車両は1000・2000番台に区分された。
 なお、詳細についてはそれぞれの項目を参照のこと。

4.7 ジョイフルトレイン「ホリデーパル」
 「ホリデーパル」は、1984年(昭和59年)に広島鉄道管理局(現在のJR西日本広島支社に相当)が幡生工場で改造したジョイフルトレインで、以下の改造をナハネ20形5両とナハネフ22形1両に施工した。
・B寝台の下段の間をスペーサーで埋められるようにしてフラット化し、簡易個室として使用できるようにした。
・モケット色をオレンジ色に変更。
 改造後に改番が行われているが、電源関係などの改造は行われていないため未改造の車両との混結も可能である。
・ナハネ20 325 - 329→ナハネ20 701 - 705
・ナハネフ22 21→ナハネフ22 701
 またオシ14 1をラウンジカーオハ14 701に改造し編成に組み込みんでいる。サービス電源の供給を従前のカヤ21形からとしたために、同車には電源回路・ブレーキ装置の変換装置を搭載して対応した[注釈 53]。
 ホリデーパルは登場から分割民営化後しばらくは20系標準色のままで、団体専用列車のみならず多客時の臨時「あさかぜ」などに投入されることもあった。民営化後の1990年12月に白を基調としたオリジナル塗装に変更された。また、これと前後して編成両数を増加させるためにカヤ21 123・ナハネフ23 14・ナハネ20 331・335が無改造のまま塗装のみ変更し、臨時寝台急行「玄海」などでも運用された。しかし、老朽化のため1997年(平成9年)3月31日に全車廃車となっている。

5 運用
 1958年(昭和33年)10月から、東京 - 博多間を結ぶ特急「あさかぜ」に投入され運行を開始した。これ以後本州・九州における寝台特急列車に広く投入され、日本各地に寝台特急列車網を構築した功績は大きい。
 後継となる14系や24系客車が拡充された1970年代後半からは、設備が時代に合わなくなってきたため、本来の定期特急列車の運用から外されて急行列車ならびに臨時列車の運用が主体となる。1980年(昭和55年)10月の「あけぼの」の24系化を最後に特急での定期運用が消滅し、1980年代後半からは塗装のうちドア部分や最上部の白帯が省略された。
 1985年3月のダイヤ改正では余剰車を1985年(昭和60年)3月17日 - 9月16日に茨城県筑波郡谷田部町(現在のつくば市御幸が丘)で開催された国際科学技術博覧会(つくば博・科学万博)へのアクセス列車「エキスポライナー」「エキスポドリーム」に投入した。
 1986年(昭和61年)11月には「だいせん」「ちくま」を最後に急行列車での定期運用も終了。1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化時には主に臨時列車用として東日本旅客鉄道(JR東日本)に34両、西日本旅客鉄道(JR西日本)に63両が承継され、「カートレイン九州」や「シュプール号」などの臨時列車に使用され、特に「カートレイン九州」は20系の特急列車としては最後の存在だった。しかし、老朽化により年々廃車されると同時に運用も減少し、末期には予備車扱いで少数が残存するのみであった。
 1997年(平成9年)11月29日、JR西日本で本系列の最終運用[11][注釈 54]となる新大阪発岡山行き快速「さよなら20系客車[注釈 55]」が運転され、翌1998年(平成10年)までに全車廃車となった。

6 保存車
・現存
ナロネ21 551・ナロネ22 153・ナハネ20 132
北海道上川郡新得町・「狩勝線ミュージアム」(新内駅跡)[注釈 56][注釈 57][注釈 58]。
ナハネ20 352・355・363
岩手県岩手郡雫石町・小岩井農場[注釈 59]
ナハネフ22 1
埼玉県さいたま市大宮区・鉄道博物館
ナハネ20 347
静岡県浜松市天竜区・天竜浜名湖鉄道天竜二俣駅構内[注釈 60]
ナハネ20 2237
三重県亀山市・ゲストホテル関ロッジ(旧国民宿舎「関ロッジ」)[注釈 61]
ナロネ21 142・ナハ21 4
群馬県渋川市「とれいん学童クラブ」(利用)
ナシ20 24
京都府京都市下京区・京都鉄道博物館[15](利用)
1980年から2014年までは交通科学博物館(大阪市港区)で保存展示されていた。
ナハネ20 239・ナハネフ22 25
兵庫県西宮市・蓬莱峡ブルートレインキャンプ場
ナハネフ22 1007
福岡県福岡市東区・貝塚公園[16]

・保存後に解体
ナハ21 9
三重県松阪市大津町・レジャー施設ポッポーパルコ(閉店後に解体)
また、詳細は不明だが佐賀県江北町に中間車2両が保存されていた。既に解体されている。

7 参考文献
・山本道郎・斎藤節夫(日立製作所笠戸工場)「特急あさかぜ」 (pdf) 、『日立評論』第40巻第12号、日立製作所、1958年12月、 70 - 79頁。
・電気車研究会『鉄道ピクトリアル』
 ・1985年3月号 No.444 特集・20系固定編成客車
 ・2005年7月号 No.763 特集・20系固定編成客車
・交友社『鉄道ファン』
 ・1993年11月号 No.391 20系特急形客車最後の特集
・中村光司「門鉄の簡易電源車 マヤ20」
 ・鉄道友の会 編『車両研究 1960年代の鉄道車両』(電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2003年12月号臨時増刊) P.84 - P.95
・鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』
 ・1982年7月号 No.185 RJ系列シリーズ3・20系固定編成客車
・JTBパブリッシング JTBキャンブックス
 ・三宅俊彦『ブルートレイン』
 ・『幻の国鉄車両』(オニ22の図面と簡単な記述がある)
 ・『国鉄鋼製客車II』
8 脚注
8.1 注釈
[注釈 1]^ ただしこの表では、ナハフ21形10両を改造両数に、カヤ21形18両を新製両数に計上しているため、差し引き8両多い481両を新製両数としているが、32-33頁の表、及び35頁の記述どおり473両が妥当である。
[注釈 2]^ 電源車については全車金属バネ台車を装着した。
[注釈 3]^ 国鉄では当初製造メーカーである日本車輌と日立製作所に塗装案の提出を要求した。これに対し日本車輌はグリーングレーとワインカラーのツートン、日立製作所は濃淡の異なるグレーによる塗り分けを提案したが、当時はまだSL牽引区間が長く煤煙による汚れを考慮した結果、メーカー案はいずれも却下され、国鉄案であった青15号にクリーム色1号の帯が採用された。下回り塗装を初期車はグレーとしたが後に黒に変更された。
[注釈 4]^ ナハフ20形1958 - 59年製造車は平面ガラス2枚。
[注釈 5]^ 当時の総理大臣であった岸信介が地盤の山口県と東京との往来に愛用した逸話もある。
[注釈 6]^ 戦前の鉄道院基本形客車などでは政府高官用として特別室と称する個室を備えた車両が存在したが、これは通常の営業には使用されておらず、一般向けは1等寝台室であっても定員2名以上となっていた。
[注釈 7]^ 後に「乗客乗務掛」を経て「車掌補」に改称。
[注釈 8]^ 国鉄の正式な役職としては廃止されたが、OBは外郭団体に再雇用されて引き続き乗務していたため、実態としては一斉に全廃されたわけではない。
[注釈 9]^ 「おが」の普通列車区間では乗客を座席車に案内した上で、ドアを開放したまま運転した記録が残されている[7]。
[注釈 10]^ 当初は愛称を表示板内部のガラス板に直接記入しており愛称の差し替えは不可能だったが、後に差し替え可能なように改造・設計変更された。
[注釈 11]^ 絵入りのサインマークでは漢字の「男鹿」とされた。なお、絵無しのものは「おが」「OGA」(貫通型のみ)と表示されていた。
[注釈 12]^ 車両運用共通化の観点から後に差替式に変更。
[注釈 13]^ ごく少数残っていた普通車については青地の無表示。
[注釈 14]^ 牽引・走行性能が確保されていれば暖房供給装置を持たない機関車でも本系列での営業運転に使用できることとなったが、のちにブレーキ改良による制約が新たに生じている
[注釈 15]^ 冷房フル稼働となった1959年夏には故障が相継ぎ、急遽途中駅で大量の氷柱が運び込まれたこともあった。また日立製のAU22形搭載車の場合、下松駅に臨時停車させ乗客を乗せたままその場で駆けつけた日立の技術者が部品を交換して復旧させたというエピソードもある。対策としてシステムの信頼性向上がメーカーと国鉄で行われた結果、点検口配置などを見直したAU21B・AU22B形が開発され増備車から換装された。
[注釈 16]^ 連絡回線として牽引機関車側にも装備されていれば有効ではあるが、未装備の機関車も多く1970年代半ばから機関車側との連絡が無線に移行したために装備する機関車間とも使用停止となった。
[注釈 17]^ このため一時は最高速度100km/hで運転される高速貨物列車の方が寝台特急より高速という逆転現象が発生した。
[注釈 18]^ 新造当初よりAREB改造を想定した機器配置としており、後年になってブレーキの緩解不良対策として制御弁をA動作弁からKU1制御弁に換装したことによりCREBへ称号変更された。
[注釈 19]^ ED73形1000番台・EF70形1000番台などの改造車、EF65形500番台(P形・F形)・1000番台(PF形)・EF66形・EF81形・ED75形1000番台・ED76形1000番台などの製造当初から装備を搭載して新製された形式が存在する。しかし、一部線区では軌道条件あるいは車両性能の問題から最高速度は100km/hに制限された。
[注釈 20]^ 95km/h以上の高速域でブレーキ圧を1段増圧することで応答性能を向上させる。
[注釈 21]^ 通常のK14弁などに電気接点を追加してブレーキ指令が通常のA動作弁に対するもの以外に各車の電磁給排弁に対して伝達されるようになり、空気圧指令で問題となる最後尾車への指令到達までの遅延時間が大幅に短縮された。
[注釈 22]^ 本系列を牽引する定期運用への充当に際し元空気溜管を新たに設置したEF58形P形(車番については原番号のまま)・ED74形・EF80 1 -12・DD54 32 - 37などと、製造当初から重連運転総括制御に対応するため元空気溜管を装備するDD51形500番台以降・DF50形・ED75形0番台などの2グループが該当する。なお非常時の迂回運転や車両基地・工場への回送等の際には、元空気溜管引き通しを持たない機関車の牽引例も存在するが、この場合はブレーキ取扱に制限がある。
[注釈 23]^ 2人用個室であっても寝台券は1人分ずつ別個に発売されており、いわゆる「相部屋」の状態がしばしば発生した。
[注釈 24]^ 細部設計を製造メーカーごとで任意とさせることで、デザインや技術力の向上というメリットがある反面、同一形式でありながら複数のマニュアルが存在して現場が混乱したり、予備部品を余分にストックする必要が生じるなど保守面では大きなデメリットも存在する。
[注釈 25]^ 中段寝台の収納方法は、在来車の座席使用時の背ズリを兼ねる下方収納から、上方格納に変更され、下段座席の背ズリ部は新たに設けられた物が固定された。
[注釈 26]^ 寝台の組み立て・収納時に座る場所を提供する。
[注釈 27]^ a b 1958年の本系列登場当時は、出張旅費で2等車が認められても寝台料金は認められないという規程を持つ会社が多く存在したことからの対応で夜行列車であっても座席車の連結は必須事項であり、当初計画での全寝台車編成を変更して座席車を設定した背景がある。また、東海道新幹線開業前は「特急列車の最終便(上りでは始発便)」となっていたことから同区間での座席需要自体も存在した
[注釈 28]^ 旧特ロ。のちグリーン車。
[注釈 29]^ 20系登場以前にもカシ36形食堂車の厨房において試験的に電気レンジや電気冷蔵庫が採用されたことがあったが、車軸発電機の電源を使用していた故に不具合の発生が多かったこともあって、僅か1年で旧来の石炭レンジと氷冷蔵庫に戻され、同時にカシ36形もマシ35形に編入されている。
[注釈 30]^ 営団地下鉄6000系などで採用された比較的シンプルなデザイン。
[注釈 31] 電話室から車販準備室への設計変更は実際の使用実績ならびに以後の計画もなかったためである。しかし後に青森運転所配置車が青函連絡船交信用無線機を搭載することになり、電話室車が列車電話用配線や一部機器を利用したほか、車販準備室設計変更後の24 - 26(1970年製造)も同様の改造を施工された。
[注釈 32]^ 日立製作所は1963年に本系列の製造を打ち切ったため1968年の設計変更該当車はない。
[注釈 33]^ 最終増備車が1970年製であり車齢が若かったことによる措置。それらの車両は品川運転所や厚狭駅等に留置されていた。
[注釈 34]^ 当時「あさかぜ」に連結されていたオハニ36形の荷物室の容量に合わせたことによる。
[注釈 35]^ 映画「特急あさかぜ」では日立製作所笠戸工場で“スニ20 51”として製造中の映像が確認できる。
[注釈 36]^ 明かり窓の位置は1と51・52とで異なっていた(51・52は同一)。
[注釈 37]^ 後年、700リットルタンクを2基に増設した車両も存在する。
[注釈 38]^ TR66形台車は24系客車の電源車でも一部仕様を変更の上で採用された
[注釈 39]^ 長崎本線は戦前・戦中長崎港を経て上海へ至る中南支方面への重要補給ルートに位置づけられており、このため単線ながら東海道山陽線の軌道等級「特甲」に次ぐ軌道等級「甲」で整備されていた。カニ22導入にあたり、長崎本線での牽引機にC61形(後にC60形に変更)を充てることから、共通運用を考慮して佐世保線・大村線の軌道強化も行なっている。
[注釈 40]^ 1960年(昭和35年)製造分は荷重3 tであったが実際には2 t積みで運用され、1963年(昭和38年)製造分では設計が変更されたため2 tとされた。
[注釈 41]^ この2ページにそれぞれ1枚ずつ掲載されている写真に「はやぶさ」を牽引するC61形の次位に連結している電源車がパンタグラフを降ろして運用していたカニ22形を連結しているものが掲載されていることから、パンタグラフ取付時代のカニ22形がカニ21形の代走として「はやぶさ」に充当されていたことが検証できる。よって、一部文献に書かれてある、「はやぶさ」にはMGとパンタグラフを搭載していた時代のカニ22形を使用しなかったと言う記述は厳密には間違いである。なお、カニ22形を運用する場合は、70 km/hの速度制限を実施していたため、熊本 - 西鹿児島間では遅延状態となっていた。
[注釈 42]^ このため「あさかぜ」で使用されていたマニ20形が「はやぶさ」に捻出される一方で、「さくら」で使用されていたカニ21形を「あさかぜ」充当に変更する電源車の玉突き的交換が実施された。
[注釈 43]^ 「はくつる」「ゆうづる」運転開始時には東北本線・常磐線も電化区間ではED75形やEF80形といった軸重16tの電気機関車が入線できるよう軌道強化され、非電化で残る区間もC62形・C60形の入線や電化工事の進行に伴って軌道強化が進められており、MGを搭載した状態のカニ22形でも運用が可能であった。
[注釈 44]^ MGの再装備を想定し暫くパンタグラフを残していたが、後年に撤去された。また、荷物室の荷重は3 tとして運用された。
[注釈 45]^ 供奉車460号の改造実績を参考に施工している。
[注釈 46]^ 発電容量が低いことと、発電装置設置に伴う車両重心の偏りから来る速度制限から、本務電源車の代用とする際は山陽線内で途中交換とすることが決められていた。実際、予備車時代に数回故障した電源車の代車として使用され、品川から下り列車で手配される電源車と岡山付近で交換されたほか、1968年(昭和43年)頃に新大阪まで代走した記録がある。
[注釈 47]^ 山口線でのイベントの際にC57 1の牽引を受けたことがあるが、これが実現したのもカヤ21形への改造施工があったため可能となった。
[注釈 48]^ 電源車がカヤ21形の場合であっても、20系のみでの編成かつ元空気ダメ管を持つ機関車が牽引に当たる場合はカヤ21形のCPは使用せず機関車側から元空気溜管が引き通される。
[注釈 49]^ 改造工事の遅れで「十和田」の置換え時には座席セット状態のナロネ21形が使用されたが、網棚がないなどの苦情が多発した
[注釈 50]^ 控車には他にマニ50 2236が使用されたが、オリエント急行の荷物車にあわせ、青15号の車体に金色の帯を巻いた上でレタリングが施された。
[注釈 51]^ 日立製作所は「オリエント急行'88」のメインスポンサー。
[注釈 52]^ 板谷峠を擁する福島 - 山形間では、書類上牽引定数に足るとされたEF71形が単機で牽引していた「あけぼの」の空転が積雪に影響され粘着係数の低下する冬季に続出し、その原因に出火対策工事による製造当初と比較しての重量増加が挙げられた。なお、その後「あけぼの」は冬季はED78を暫定的に補機し重連運転にすることで編成重量の増加に対処し、さらに編成重量のある24系化後、数年間は粘着係数に絶対的余裕のあるED78重連限定、編成短縮後はED78とEF71の重連となった。
[注釈 53]^ 改造種車である14系や12系とも連結可能。
[注釈 54]^ JR東日本でも1996年までに廃車されたが、さよなら運転は行っていない。
[注釈 55]^ 牽引機はEF58 150が充当され、新大阪駅では記念式典が行われた。
[注釈 56]^ 1995年までSLホテルとして利用されていた。
[注釈 57]^ 本系列A寝台車の唯一の現存車。なお本系列は北海道内での運転実績はない
[注釈 58]^ NPO団体「旧狩勝線を楽しむ会」によって保存されており時間帯によっては車内にも入ることができる。
[注釈 59]^ 2008年までSLホテルとして利用されていた。
[注釈 60]^ NPO法人の「天竜レトロ・トレインクラブ」が保存・修復を行っている。
[注釈 61]^ 車内に通年で宿泊可能な本系列唯一の車両となっていたが、2015年3月に指定管理者の撤退から閉館された。車両については、売却の見込と2015年9月に報じられていた[12]。2016年12月で施設自体が閉館し、2017年1月の撮影地点ではカバーが掛けられていた[13]。2017年8月より施設はゲストホテル関ロッジとして再開しているが、客車については2019年撤去予定と表明している。[14]。
8.2 出典
[1]^ 『鉄道ピクトリアル』763号、32-33頁。
[2]^ 『鉄道ピクトリアル』763号、75頁、「年度末両数表」[注釈 1]。
[3]^ 『鉄道ピクトリアル』763号、20頁、22頁など。
[4]^ 『鉄道ピクトリアル』763号、18頁、22-25頁。
[5]^ a b 『日立評論』第40巻第12号、p.71
[6]^ 『車掌裏乗務手帳』坂本衛 1998年11月 山海堂より。
[7]^ 「鉄道ジャーナル」1984年1月号。
[8]^ ネコ・パブリッシング「国鉄時代」Vol.54「九州の鉄路」p.49-50[注釈 41]。
[9]^ 交友社『鉄道ファン』43号(1965年1月号)表紙 p41頁掲載写真。
[10]^ キネマ旬報社『蒸気機関車』31号(1974年5月号)p16-17・20掲載写真。
[11]^ ブルートレイン「20系客車」さよなら運転 KTTグループ、2013年11月19日閲覧。
[12]^ 加藤新市 (2015年9月30日). “国民宿舎 「関ロッジ」廃止 亀山市、赤字解消は困難 /三重”. 毎日新聞 (毎日新聞社). オリジナルの2016年7月3日時点によるアーカイブ。 2017年2月26日閲覧
[13]^ 鉄道ファン編集部、2017、「POST」、『鉄道ファン』57巻(通巻671号(2017年3月号))、交友社 p. 15
[14]^ “20系客車ブルートレインについて”. ゲストホテル関ロッジ. 2018年1月14日閲覧。
[15]^ “プロムナード”. 展示車両紹介. 京都鉄道博物館. 2015年6月7日閲覧。
[16]^ 小佐野 景寿 (2017年6月17日). “「公園のブルトレ」修復に取り組む社長の熱意”. 東洋経済オンライン. 東洋経済新報社. 2017年6月19日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2017年6月19日閲覧。

9 関連項目
・あさかぜ (列車)
・寝台列車
・夜行列車
・ブルートレイン (日本)

最終更新 2018年11月11日 (日) 02:53 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 電源車による集中電源方式の全車空調完備。後の対応とはいえ、AREB増圧装置付き電磁指令式自動空気ブレーキ採用で110km/h運転対応。急行列車への投入のため、12系客車との併結対応改造を施工された車両1000・2000番台、自動ドアに交換などがあろう。20系客車自体は比較的早く廃車されたのが多かったが、「ブルートレイン」ブームの元であるし、なったって国鉄直流機色になった功績は大きい。
Posted at 2019/01/01 18:49:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | 新系列旅客車 | 趣味

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