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2020年03月29日 イイね!

『インプレッサ』「ロー&ワイド」なデザイン

『インプレッサ』「ロー&ワイド」なデザイン【スバル インプレッサ 新型試乗】誰もが感じられる素直さという基本性能…飯田裕子
2020.01.19 11:00

[写真・画像]《撮影 雪岡直樹》
スバル インプレッサ 新型(2.0i-S Eye Sight)

 2016年の秋に登場した5代目『インプレッサ』が大幅改良を行った。その主な内容はデザインの変更と質感の向上にサスペンション改良。そしてアイサイト・ツーリングアシストの全車標準装備だ。
 スバルは「誰もが扱いやすく愉しめるクルマ」を目指しこの5代目を開発。これまでも安全/運転支援技術の改良や装備拡充を図ってきたが、今回の大幅改良では改めて前述のコンセプトを際立たせ、進化させている。今回はやはりデザインとドライブフィールの洗練ぶりがインプレッサの魅力を強めていることは間違いない。

◆スバルがこだわる“外寸最小、内寸最大のクルマづくり”
 全長4475mm×全幅1775mm×全高1480mmのボディサイズは、フロントグリルのデザイン変更にも貢献する。15mmがプラス(フロントオーバーハングのみ+15mm)されたそうだが、それを誤差とするなら外寸のディメンションに大きな変更はない。“外寸最小、内寸最大のクルマづくり”にこだわるスバルによって、インプレッサのボディサイズに対する室内空間の広さは国内外のライバルと比較しても優位。
 さらに好みはさておき、国産車のなかでもスバルは扱いやすさや快適さというクルマの機能性をデザインすることにこだわるメーカー。前面に貼られたガラスの大きさは、とくにフロントと三角窓も採用するサイドウインドウ(サイドミラーの位置も重要)によって運転席周辺の視界がいい。
 また“外寸最小、内寸最大”のこだわりが後席に座る人の安心感や快適さを保つデザインにも表れている。ボディサイドから見たルーフの傾斜の度合い、窓下のショルダーラインのフラットで跳ね上げ具合が極めて少ないのも後席の人の視界と快適さを優先させているからで、ルーフもショルダーラインも後席の人の頭の位置を意識してデザインされている。加えてドア下のまっすぐなサイドシルも後席の人の足が出しやすさを優先し、そこから後ろをわずかに跳ね上げているのだ。おかげで視界も空間も良好、乗降性もいい。

◆テクニックを駆使して更なる「ロー&ワイド」なデザインを実現
 今回の改良ではこれらを踏襲しつつ、より5代目誕生当初から提唱する「ロー&ワイド」なデザインをテクニックも効かせ磨きをかけている。フロント部はスバルのアイコンである“ヘキサゴングリル”を強調。それなのに今回はわずかながら幅を狭め配置は10mm上げたそう。
 強調するならサイズアップが常套手段だし、ロー&ワイドにこだわるならそういうモノは下げたほうが良さそうだが、ノン、ノンっ。ヘキサゴンの枠も取ってグリル上部に配置されたスバルのオーナメントから始まるラインの勢いをそのままランプのなかに走らせるような大きな流れをつくり、直線的な伸びやかさがワイド感を生み、その勢いがボディサイドのショルダーラインからテールへ、勢いやモーションを連続。表情全体でロー&ワイドを表現しているのだ。
 グリルは強調というより品よく際立った印象をうける。ランプの輪郭も実は形状こそ変わっていないが、コの字=水平対向エンジンのエンジンのイメージ(シリンダーが左右に動くイメージ)=スバルのアイコンをLEDで表現。するとライトもいくらか薄く見え、一体感の強まったバンパーも併せて厚みを抑えられた洗練された押し出し感とロー&ワイドな印象が増すから面白い。
 “外寸最小”のボディの側面には前から後方に向かって幅(えぐれ)のある楔形のキャラクターラインによってボディにボリューム感や伸びやかな抑揚をつけ、同時にその前後にあるホイールフェンダーも強調することでスバル車=4WDをさりげなくアピールしている。ホイールも躍動感を増すデザインに17/18インチともに変更されている。
 インテリアは構成要素に大きな変更はないものの、より一体感と連続完を演出するべく素材を効果的に活かす(メーターバイザーの素材の統一など)表面処理にこだわり質感と洗練ぶりを向上させている。 

◆全体的な改良により向上した“意のまま感”
 ドライブフィールについても改良が乗り味の質感向上に貢献している。搭載エンジンの1.6リットル、2.0リットルの水平対向4気筒エンジン+リニアトロニック(CVT)に変更はない。が1.6リットルでも16インチに加え17インチタイヤを履くSグレードが選べるようになった。
 2016年の登場当初、スバルのグローバルプラットフォーム(以後、SGPと略)を採用する第一弾モデルとして公道を走り始めた時点ですでに基本性能の革新的な進化が感じられたが、エンジンパワーの大小よりハンドリングによる扱いやすさや愉しさ、そこから生まれる頼もしさ見直すべく、スバルのスポーツモデルの開発をてがけるSTI社も加わって性能を確認。たどり着いたのが今回のモデルなのだとか。
 結果、サスペンションの受け側の剛性をアップし、それに合わせてバネやダンパーの設定を変更、操る楽しみをアップさせている。
 試乗車は18インチタイヤを装着する2.0i-S EyeSight。これで一般道から試乗をスタートさせて最初に感じたのは乗り心地の滑らかさだった。ちなみに、後席の快適性、乗り心地についても前席とほぼ同等だった。細かな段差を通過する際の接地感をドライバーに伝えるものの、当たりはまるい。その連続が走行中の滑らかさを印象付けてくれたのだ。
 一方、ボディのロールの少ない感覚やステアリングフィールのリニアさは、例えば高速道路のランプウエイを走る際の姿勢の収まりがいいこと。そしてそこでわずかにハンドルを切り足すような操舵をすると、車体そのものの反応も良く、だからと言ってスポーツカーのような過剰な類とは異なる。街中でも高速道路でも総じてハンドルの切り始めの反応の良さが扱いやすさに繋がる“意のまま感”がインプレッサのリニアさの特徴なのだ。パワステのチューニングなどに頼るのではなく、足元=本質の改善の効果だろう。

◆上級なテクニックよりも素直さという基本性能
 2.0リットルエンジン+CVTは街中では加速性能は気にならないが高速道路の再加速や上り坂ではトルクや加速性能がもう少し欲しいと思う場面もあった。インプレッサはそんな要求に応えるべく2つのドライブモードを持つSI-DRIVEとパドルシフトが用意されている。走行状況に応じて燃費にも配慮した走行を“I”(インテリジェントモード)で、リニアな加速が欲しいときは“S”(スポーツモード)を使い分ければいい。アップダウンに変化のあるところでは回転落ちもしない、アクセルのつきもいいSモードをぜひ試してみてほしい。
 アイサイト・ツーリングアシストの性能のアップデートはツーリングアシストの車速設定がこれまで60~115km/hまでだったが、今回から0~135km/h(あくまでセット車速)まで可能になった。さらに制御の継続性の強化や車線内のセンターリング性能、加減速もより自然かつ滑らかになり、運転支援をより快適に活用しやすくなっている。
 インプレッサは「誰もが日常で感じられる走りの愉しさ」にこだわったモデル。“誰もが”というと運転上級者には生温い印象に映るかもしれないけれど、上級なテクニックよりも素直さという基本性能があるから、“誰もが”と言えるのだ。実用性を最大限に活かすデザインと走り、そして安全性能の洗練ぶりが感じられるのは間違いない。

■5つ星評価
パッケージング:★★★★
インテリア/居住性:★★★★
パワーソース:★★★★
フットワーク:★★★★★
オススメ度:★★★★★

飯田裕子|自動車ジャーナリスト協会会員
現在の仕事を本格的に始めるきっかけは、OL時代に弟(レーサー:飯田章)と一緒に始めたレース。その後、女性にもわかりやすいCar & Lifeの紹介ができるジャーナリストを目指す。独自の視点は『人とクルマと生活』。ドライビングインストラクターとしての経験も10年以上。現在は雑誌、ラジオ、TV、シンポジウムのパネリストやトークショーなど、活動の場は多岐にわたる。

(レスポンス 飯田裕子)


≪くだめぎ?≫
 『カローラ』が"3ナンバー"になったのも、『インプレッサ』の"3ナンバー"定着化もあると思う私である。ユーザーも"5ナンバー"に拘らなくなったのだろう。

 『レオーネ』時代にいすゞ"ジェミネットII"OEM供給されいた。当地のいすゞモーター店からスバル店に事実上転換された所があり、スムーズにいすゞ車→スバル車、そしていすゞバス・UDバス車体製造撤退を乗用車部門でカバーできていると思う。トヨタディーゼル店→カローラ店転換が、いすゞ・スバル連合で同様なことが起きた様なものである。

 更に一歩踏み込んで、スバルいすゞ共同開発で「水平対向ディーゼル」を復活させれば、スバリストだけでなくトヨタ党も納得する。いすゞとトヨタ、資本関係を解消されたが、4WDとディーゼルエンジンの組み合わせは世界が望んでいることではないか。
Posted at 2020/03/29 18:54:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | 車全般 | クルマ
2020年03月29日 イイね!

『インプレッサ』 大幅改良

『インプレッサ』 大幅改良SUBARU ニュースリリース 2019年10月10日
SUBARU 「インプレッサ」大幅改良モデルを発表
~ドライバーの運転負荷を軽減する「アイサイト・ツーリングアシスト」全車標準装備~
● エクステリア・インテリアデザインを刷新し質感を向上
● 高い走りの実力にさらに磨きをかけたサスペンションの改良
● 充実した装備でお買い得な価格とした「1.6i-S EyeSight」を追加

[写真・画像]
(左)インプレッサSPORT「2.0i-S EyeSight」
(右)インプレッサG4「1.6i-S EyeSight」(新グレード)

 SUBARUは、「インプレッサ」大幅改良モデルを本日2019年10月10日に発表し、11月15日*1に発売します。
 2016年10月に発表した第5世代インプレッサは、国内主力車種として、お客様に最高の「安心と愉しさ」を提供することを目指し、SUBARUの次世代プラットフォームである「SUBARU GLOBAL PLATFORM」や、国産初となる歩行者保護エアバッグなどの新技術を採用。「総合安全性能」と「動的質感・静的質感」の大幅向上を実現しました。
 今回の大幅改良では、ドライバーの運転負荷を軽減するアイサイト・ツーリングアシストを全車に標準装備するとともに、「アダプティブドライビングビーム」などの先進安全技術を採用し、総合安全性能をさらに進化させました。また、SUBARU GLOBAL PLATFORMの強みを引き出すサスペンションの改良により、乗り心地の良さとハンドリング性能を高い次元で両立。デザインは、フロントフェイスやアルミホイールなどを刷新し、走りの愉しさを予感させる躍動感を表現しました。さらに、「アクセスキー対応運転席シートポジションメモリー機能」をはじめ、日々の使用シーンで役立つ機能を拡充し、利便性を向上させました。

*1:1.6Lエンジン搭載グレードは2020年初頭発売予定

<SUBARUオフィシャルwebサイト インプレッサ>
SPORT:https://www.subaru.jp/impreza/impreza/
G4:https://www.subaru.jp/impreza/g4/

【インプレッサの主な改良内容】*2
■ 安全性能
・ アイサイト・ツーリングアシスト
・ アダプティブドライビングビーム
・ フロントビューモニター

■ エクステリア
・ 新デザインフロントフェイス(バンパー・グリル)
・ 新デザインLEDハイ&ロービームランプ
・ 新デザインリヤフォグランプ(インプレッサSPORT)
・ 新デザイン17インチアルミホイール
・ 新デザイン18インチアルミホイール

■ インテリア
・ 新デザインマルチファンクションディスプレイ
・ 新デザインシート材質(メイン/サイド)
・ 新デザインマルチインフォメーションディスプレイ付メーター

■ 機能装備
・ 運転席シートポジションメモリー機能
・ ドアミラーメモリー&オート格納機能
・ リバース連動ドアミラー
・ 集中ドアロック(オートドアロック・アンロック機能付)

*2:グレードによって改良内容が異なります。詳細はSUBARUオフィシャルwebサイトの「主要装備表(SPORT・G4)」をご覧ください。

【店頭デビューフェア】2019年11月16日(土)~17日(日)、23日(土)~24日(日)

【販売計画】月販 2,200台

【価格表】
 車種
グレード エンジン 変速機 駆動方式 価格(単位:円)※1 消費税抜・消費税込(10%) 発売日
 ・インプレッサSPORT
・1.6i-LEyeSight 1.6L 水平対向4気筒 DOHC リニアトロニック 2WD 1,820,000・2,002,000 2020年初頭発売予定
・1.6i-LEyeSight 1.6L 水平対向4気筒 DOHC リニアトロニック AWD 2,020,000・2,222,000 2020年初頭発売予定
・1.6i-SEyeSight 1.6L 水平対向4気筒 DOHC リニアトロニック 2WD 2,040,000・2,244,000 2020年初頭発売予定
・1.6i-SEyeSight 1.6L 水平対向4気筒 DOHC リニアトロニック AWD 2,240,000・2,464,000 2020年初頭発売予定
・2.0i-LEyeSight 2.0L 水平対向4気筒 DOHC リニアトロニック 2WD 2,040,000・2,244,000 2019年11月15日発売
・2.0i-LEyeSight 2.0L 水平対向4気筒 DOHC リニアトロニック AWD 2,240,000・2,464,000 2019年11月15日発売
・2.0i-SEyeSight ☆ 2.0L 水平対向4気筒 DOHC リニアトロニック 2WD 2,260,000・2,486,000 2019年11月15日発売
・2.0i-SEyeSight ☆ 2.0L 水平対向4気筒 DOHC リニアトロニック AWD 2,460,000・2,706,000 2019年11月15日発売
 ・インプレッサG4
・1.6i-LEyeSight 1.6L 水平対向4気筒 DOHC リニアトロニック 2WD 1,820,000・2,002,000 2020年初頭発売予定
・1.6i-LEyeSight 1.6L 水平対向4気筒 DOHC リニアトロニック AWD 2,020,000・2,222,000 2020年初頭発売予定
・1.6i-SEyeSight ☆ 1.6L 水平対向4気筒 DOHC リニアトロニック 2WD 2,040,000・2,244,000 2020年初頭発売予定
・1.6i-SEyeSight ☆ 1.6L 水平対向4気筒 DOHC リニアトロニック AWD 2,240,000・2,464,000 2020年初頭発売予定
・2.0i-LEyeSight 2.0L 水平対向4気筒 DOHC リニアトロニック 2WD 2,040,000・2,244,000 2019年11月15日発売
・2.0i-LEyeSight 2.0L 水平対向4気筒 DOHC リニアトロニック AWD 2,240,000・2,464,000 2019年11月15日発売
・2.0i-SEyeSight 2.0L 水平対向4気筒 DOHC リニアトロニック 2WD 2,260,000・2,486,000 2019年11月15日発売
・2.0i-SEyeSight 2.0L 水平対向4気筒 DOHC リニアトロニック AWD 2,460,000・2,706,000 2019年11月15日発売

 ボディカラー
クリスタルホワイト・パール※2
アイスシルバー・メタリック
マグネタイトグレー・メタリック
クリスタルブラック・シリカ
ピュアレッド
ダークブルー・パール
クォーツブルー・パール
(全グレードに上記カラーを設定していiます)

※1:1.6Lエンジン搭載グレードは参考価格
※2:33,000円高(消費税10%込)
☆:写真掲載グレード

なお、商品等についてのお問い合わせは、最寄りの販売会社、またはSUBARU お客様センター「SUBARU コール」までお願いします。


≪くだめぎ?≫
 『インプレッサSPORT』全幅1775 mm"ハッチバック"であるが、全長4460 mmであり『レオーネ』ワゴン・バン後継車種であるね。
Posted at 2020/03/29 17:59:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | 車全般 | クルマ
2020年03月29日 イイね!

“軽”事業を捨てたスバルの決断

“軽”事業を捨てたスバルの決断スバルがメイン事業だった「軽自動車」から見事に撤退できたワケ
プレジデントオンライン /
2020年3月23日 9時15分

[写真・画像]レガシィアウトバック
- 提供=SUBARU

 スバル(SUBARU)は2008年、軽自動車の生産から撤退した。赤字体質から抜け出せないためだが、それは国内販売の3分の2を占めるメイン事業を切り捨てることを意味した。異例の決断の背景には何があったのか——。
※本稿は、野地秩嘉『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■技術偏重だった企業体質を大きく変える決断
 2006年、社長になった森郁夫はカムリの受託生産に続いて、アメリカマーケットに集中する決定をした。
 同社は2010年までの中期経営計画で「スバルらしさの追求」「グローバル視点の販売」を掲げた。グローバル視点とはつまり、アメリカのユーザーの声を聞くということだ。
 生産現場といい、経営といい、富士重工はやっと人々の声を聞く会社になった。中島知久平以来、技術偏重だった同社の体質が変わったのがこの時と言っていい。
 技術にプライドを持ち、技術で結果を出してきた人間は他人の話を聞かない傾向がある。だから、名車は出すけれど、スバル360をのぞいて富士重工の車はなかなかベストセラーにならなかった。
 富士重工の経営の転換とは、謙虚になって、世の中の声を聞くところからスタートしたのである。
 そして、具体的にはふたつの決断をした。ひとつは軽自動車の生産から撤退することで、もうひとつはアメリカマーケットに向けた自動車開発を始めることだった。
 2008年、富士重工はトヨタからの出資比率を8.7パーセントから16.5パーセントに拡大して受け入れた。
 同時に、軽自動車の開発・生産から段階的に撤退し、トヨタのグループ、ダイハツからOEM供給を受けることを発表した。
 ちょっと前まではスズキと提携していたのだが、軽自動車をやめてスズキのライバルのダイハツから車を供給してもらうことにしたのである。

■国内販売の6割を占める“軽”事業を捨てる
 2007年当時、富士重工の国内販売台数は22万5818台。うち軽自動車は62パーセントの14万990台である。国内販売の3分の2を占める軽自動車の開発・生産から撤退するという、空前の決断だった。
 しかも、その年は日本の軽自動車のヒーロー、スバル360の誕生から50周年の記念すべき年だったのである。
 当時、森はこう語っている。
「国内の販売は最盛期の35万台から22万台まで減少している。一方で収益の大半は海外なんです。私たちはグローバルで生き残る道を模索しなければならない。国内のことだけを考えて、軽自動車から普通車まですべてを開発・生産するのはもう難しい。そこで決めたのです」
 実際、軽自動車は10万台を売る程度ではまったく商売にならなかった。価格の安い軽自動車はダイハツ、スズキのように50万台は売らないと儲けは出てこないのである。
 スバルの規模で開発、生産、販売すると赤字になるのだが、スバル360を作った会社というイメージに縛られて、なかなか撤退の決断ができなかった。

■アメリカ向けの開発に振り向けることができた
 だが、このおかげで、赤字はなくなり、また、軽自動車の開発をしていた人材をアメリカ向けの車を開発する部門に振り向けることができた。開発技術者が他社に比べて少ない同社にとっては、軽自動車からの撤退は開発陣の強化にもつながったのである。
 ただ、単に撤退しただけでは国内の販売網で売るタマががくんと減ってしまう。トヨタ、ダイハツとのアライアンスを生かして、OEM供給してもらうことで、販売店を納得させることができた。

 「どうして、もっと早く決断しなかったのか」「こんなことは赤字が続くだろうと見通しが出た時点で決めることだった」とも言われるべき正しい判断だった。
 これまで決断してこなかった方が不思議だったのである。けれどもそれは森、吉永といった危機感を持った生え抜き幹部が登用されて、初めてできたことだった。
 森は撤退を発表する前、社内やOBから大きな反対があると予想したのだが、実際にそれほど激烈な反応はなかった。社内の人間も軽自動車が大赤字だとわかっていたからだろう。

■「3ナンバーの方が5よりも税金が高い」という思い込み
 そして、軽自動車をやめた開発の人間たちはアメリカ向けの車の設計に携わり、早速、ひとつのアイデアを出し、それは採用された。
 「車体の幅を広げる」
 それがアメリカマーケット向けのひとつの解答だった。業界で販売のコンサルタントをしている人間はこう言った。
 「日本の車って、ようかんみたいに細長いんです。世界の車に比べると、ヘンな形なんですね。それは車幅が1メートル70センチを超えると3ナンバーになってしまうからです。売る方としては3ナンバーよりも、5ナンバーの方が売りやすいから、そんなヘンな形の車が増えてしまったんです」
 彼の話をもう少し正確に言うと、ナンバーが3になるのは車幅が1.7メートルを超えた場合、そして、排気量が2000ccを超えた場合である。いずれかひとつでも規定を上回ると3ナンバーになる。
 ただし、ナンバーが3でも5でも自動車税はまったく変わらない。自動車税は排気量によって課税される。仮に、1800ccのエンジンを搭載する5ナンバー車と1400ccのエンジンを搭載する3ナンバー車があったとする。
 すると、3ナンバー車の方が自動車税は安くなる。
 だが、ユーザーは「3ナンバーの方が5ナンバーよりも税金が高い」と思い込んでいるのである。そこで、自動車会社は長い間、5ナンバーの車を主に開発してきた。
 車幅を広げれば日本では売りにくくなるが、一方、アメリカでは座席間に余裕がある車が好まれる。それは一般的にアメリカ人の方が日本人よりも体格がいいから、車幅が広い方がウケるのである。

■「レガシィアウトバック」がアメリカで大ヒット
 開発陣はレガシィアウトバックの車幅を3センチ大きくして、1.73メートルにした。ちなみに現在では1.84メートルまで大きくなっている。
 ただ1.8メートルを少しでも超えると、日本ではとたんに売れなくなるという。立体駐車場に入らないし、普通のマンションの駐車場でも、はみ出してしまう。
 それに狭い路地にも入っていけない。だから、高級車のクラウンでさえ、車幅はちょうど1.8メートルだ。それ以上の車幅を持つのは日本車ではレクサス以上のグレードだ。
 こうして、レガシィアウトバックは車幅を大きくしたため、日本国内では人気は出なかったがアメリカでは大いに受け入れられることとなった。
 乗用車をベースにした四輪駆動のSUVで、しかも幅がアメリカ車並みになったレガシィアウトバック……。
 アメリカ市場ではベストセラーカーになり、リセールバリューも高くなった。他社の車とスターティングプライスは同じでも、リセールバリューが高くなれば、ユーザーは安く買ったことになる。
 そして、リセールバリューが高いことが広まればレガシィアウトバックはますます売れるという好循環が生まれる。

■技術はあってもイノベーションがなかった
 軽自動車からの撤退とアメリカマーケット向けの製品企画に特化することで、富士重工は長年の停滞から脱して、快進撃が始まる。
 ふたつの決断は富士重工という会社が息を吹き返すためにはなくてはならないイノベーションだった。
 スバル360やスバル1000、水平対向エンジン、四輪駆動、そして、アイサイトに至るまで、同社の技術開発、革新にはめざましいものがあった。専門家、自動車評論家はそうした技術革新を手放しでほめる。しかしながら、技術革新とイノベーションは違うものだ。
 前者が発明だとしたら、後者は発見であり、価値の転換だ。どちらも必要なものなのだけれど、イノベーションがなければ技術革新は生きてこない。
 イノベーションという意味の説明で、たとえばコンビニエンスストアのおにぎりを挙げることができる。
 個別包装になっていて、パリパリした海苔を巻いて食べるのがもはや常識だ。しかし、それが当たり前になったのは古くからのことではない。1978年以降だ。それまで長い間、日本人は何の疑いもなく、最初から海苔が巻いてあるおにぎりが当たり前だと思っていたのである。
 個別包装という技術革新が生まれた時、イノベーションを考えた人がいる。
 「個別包装になったら、最初からおにぎりに海苔を巻くことはない。海苔は包装と一緒にすればいい。そうすればパリパリして、風味、香りを感じられる海苔を巻いたおにぎりを食べることができる」
 この考えがイノベーションだ。パリパリ海苔のイノベーションは消費者の潜在的なニーズに応えたものだったから、あっという間に広がっていった。今では店で売るおにぎりといえば、パリパリ海苔のそれが当たり前になったのである。
 このように、イノベーションとは思いつきだから、技術者でなくとも誰にでも思いつくチャンスがある。

■「BMW、アウディからスバルに乗り換える人たちがいる」
 前身の中島飛行機以来、富士重工が求め続けてきたのは技術の革新だった。新しい技術を模索し、困難を乗り越えてモノにしてきた。
 それを自社のセールスポイントとして訴えてきたから、技術を好む人たちで、俗に「スバリスト」と呼ばれる層、四輪駆動が不可欠な雪国のユーザーが同社を支えてきた。しかし、逆に言えば、技術を好む層だけが富士重工の車を買っていたのである。
 それがようやく、イノベーションが起こり、アメリカでは着実にスバルが売れるようになっていった。
 現在SOA(スバル・オブ・アメリカ)の社長で、すでに37年間働いている、イノベーションと変化を肌で感じてきたトム・ドールは次のように総括している。
 「スバルはトヨタ、ホンダよりは知名度は落ちます。しかし、アメリカに来ている各国の車のなかで、スバルはもっともアメリカのユーザーを見ている会社になりました。ですから、毎年、成長しているのです。それにスバルはプレミアムブランドです。BMW、アウディからスバルに乗り換える人たちがいる。これは他の日本車にはない現象です」
 どこの国の自動車会社でも、まず、自分の国のなかで売れる商品を作る。ところが、スバルだけは北米のユーザーが乗りたい車を作っている。自分の国よりも、アメリカを向いた車を作っている。

■中島飛行機の創業者はどう思うだろうか
 かつて中島飛行機の創業者、中島知久平はアメリカを空爆するための巨大爆撃機「富嶽」を構想し、開発に着手した。
 結局、それは実現しなかったが、彼の仕事を継いだ者たちは苦労に苦労を重ねた結果、アメリカのマーケットに受け入れられる車を開発することで傾いた会社を再生させた。
 知久平だって、アメリカをうらんでいたから、巨大爆撃機を作ろうと思ったわけではない。乾坤一擲(けんこんいってき)、富嶽を作り、飛ばすことで戦争を終わらせようとした。
 富嶽を通じて巨大航空機の技術を培い、その後は巨大な旅客機で日本人をアメリカへ連れて行こうとした。
 富士重工の幹部が「アメリカマーケットを向いた車を作ったこと」をもっとも喜んでいる男がいるとすれば、それは知久平だったろう。

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『ヤンキー社長』など多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。----------
(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)


≪くだめぎ?≫
 「レガシィアウトバック」
1.73メートルが、現在では1.84メートル。
ただ1.8メートルを少しでも超えると、日本ではとたんに売れなくなるという。
・・・「アメリカマーケットを向いた車を作ったこと」である。

 「軽自動車の開発・生産」の労力を、
"1.8メートル"日本向けに使ったと思えば、事業転換も納得する。
Posted at 2020/03/29 16:04:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | 車全般 | クルマ
2020年03月23日 イイね!

「レガシィ」の奇跡

「レガシィ」の奇跡倒産の危機にあったスバルを救った「レガシィ」の奇跡
現場を歩き続けた剛腕社長の再建策 2020/02/10 9:00

[写真・画像] 提供=SUBARU

 スバル(SUBARU)は看板車「レガシィ」の発売当時、巨額の投資をつぎ込んだことから赤字が膨れ上がり、創業以来の危機を迎えていた。だがその後、売り上げを4年間で800億円増やし、V字回復に成功する。スバルにいったい何が起きたのか――。
※本稿は、野地秩嘉『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■次期社長に就任したのは日産OBだった
 創業以来の赤字に震えたのは社内だけではなかった。
 「貸した金はどうなるのか」ともっとも心配したのが興銀だった。自分のところから出した社長の田島が赤字にした以上、次は大株主の日産から人材を引っ張ってこなければならない。当時、富士重工の経営トップに生え抜きの人間はありえなかった。基本は興銀、それがダメだったら、提携先で大株主の日産出身者と決まっていた。
 当時、興銀の頭取、中村金夫が動いた。
 「こうなったら、日産から川合さんをもらってくるしかない」
 中村は日産ディーゼル工業の社長だった川合勇のもとを訪れ「富士重工の社長になってくれ」と懇請したのである。当時、川合はすでに六八歳で、日産ディーゼルを退いたら、あとは隠居するつもりだった。
 東大を出て日産に入社した川合は生産技術一筋で、追浜、栃木、九州、イギリスの工場建設に携わった。エンジニアとしてスタートしたのだが、途中からは日産の営業担当役員や経理担当もやった。生産現場のエキスパートで、しかも、営業と数字に強いというスーパーマンのような男だったのである。
 実際、日産時代、上にいたワンマン社長の石原俊は川合と久米豊のふたりを後継者として考えていたのだが、最終的に、石原は久米を選んだ。そのため八五年、日産自動車の専務から業績が悪化していたトラック会社、日産ディーゼルに出されたのである。しかし、川合は奮い立った。わずかな期間で同社を立て直し、黒字会社に変えた。興銀の中村は川合の手腕を噂に聞いていて、「再建屋」としての川合に富士重工を託したのである。

■「“中島飛行機”に残った技術者はまさにスバルの原点だ」
 川合が社長に就任した理由としては、興銀の頭取に頭を下げられたこともある。だが、彼自身も富士重工の前身、中島飛行機に思い入れがあった。それは学生時代の体験である。東京帝大航工学部空学科在学中に学徒動員された彼は後にプリンス自動車となる中島飛行機荻窪工場で飛行機エンジンの開発に携わり、戦後もそこで働いたことがあった。
 川合は経済誌のインタビューでこう語っている。
 「苦境にあって航空技術者たちの大半は離散してしまった。焼け野原のなかで毎日食べるのに精一杯で、自分の夢にこだわり続けられるような状況ではなかったんだね。僕は終戦翌年に日産に入ったんだけど、巨大企業集団の、それも民生分野に近い企業でさえ明日のこともわからないくらいだったしね。でも、その中であえて(中島飛行機系企業に)とどまった技術者たちがいた。まさにスバルの原点です」
 中島飛行機の技術者を尊敬していたこともあり、川合は社長就任を了承する。田島は会長で残ったものの、実際に経営を指揮するのは川合と決まった。
 続いて、こうも語っている。
 「中島飛行機の技術者たちが戦後、ひどい状況にあっても耐え抜くことができたのは、技術力への自負があったからだと思う。戦争中に『誉』エンジンを作っていたとき、当時のエース級の技術者は言っていましたよ。『航空工学はもう欧米をキャッチアップしている。日本に足りなかったのは高分子化学や精密な加工ができる工作機械、電気工学など、裾野の分野だ。この戦争ではアメリカの凄さを見せつけられているが、自分たちだってやれないことはないんだ』」
 川合は不思議な因縁を感じていたのだろうし、戦後の焼け野原から立ち直った富士重工を苦境のままにしておくことは忍びなかったのだろう。

■徹底したのは「入るを量り出ずるを制す」
 社長になってから彼はすぐ、社内に檄を飛ばした。
 管理職以上を新宿スバルビルに近いホテルセンチュリーハイアットに集め、厳しい顔で現実を直視せよと机を叩いて言った。
 「すべての判断基準は現状認識にある。富士重工がどういう状態にあるのか。ひとりひとりが何が事実で問題なのかを認識し合うところから適切な解決策が生まれます。表面だけを見ても、事実はつかめない。すべての面で現状認識の姿勢が必要だ」
 川合の言う現状認識とは自動車製造の基本を徹底することだった。
 「いい品をなるべく安く作る」
 そのためには原価の管理と原価の低減が必要だ。彼は現場を歩き、原価管理を怠っていた管理職を大声で叱責した。
 川合を尊敬する生え抜き社員は次のように思い出す。
 「川合さんは偉かった。人員整理はしなかった。資産の売却もしなかった。その代わり、徹底的に『入るを量り出ずるを制す』政策を取った。じつは、うちの会社は技術優先だったこともあり、現場の原価をわかる人間が幹部にいなかった。原価低減というと、協力会社に電話をかけて『安くしろ』と値段を叩くだけだった。部品原価は安くなるのですが、製品の質は落ちる。川合さんは図面にある部品が適格かどうか、その値段がまっとうかどうかまでひと目でわかる経営者でした」
■幹部には「辞表を書け」でも作業者には礼を尽くす
 川合が導入したのがVA、つまり、バリューアナリシスのシステムだった。品質を落とさずに原価を低減し、それを管理するシステムである。メーカーであれば、自動車会社ならば、当然、あるべきシステムなのだが、富士重工は前身の中島飛行機以来、新車開発には惜しみなく金をつぎ込む体質だったため、いつの間にか開発費用が増えてしまっていた。それを川合は怒った。
 同じく富士重工のエンジニアは言う。
 「川合さんは社長室に閉じこもるのではなく、会社やディーラーなど、あらゆる場所に姿を見せて陣頭指揮を取るタイプの社長でした。何しろ、現場からの叩き上げみたいな人だから、ひとりで工場に出かけていって質問する。テストコースに来て試作車にも乗る。そして技術者に『スイッチ類の隙間がこんなに広かったら、女性はどうする? 爪が割れてしまうじゃないか』と指摘して怒る。
 富士重工のエンジニアは、いい車を作ることは考えていたけれど、ユーザーが欲しいものは何か、何を喜ぶかということについては無頓着でした。それを徹底的に叩き直されました」
 また、ある幹部は「あの人でうちの会社は変わった」と言っている。
 「現場のことをわかっていない幹部や管理職はバカ呼ばわりですよ。そのうえ『こんなことをやっていたから赤字になったんだ』と怒鳴られ、『この場で辞表を書け』ですよ。役員会でも一度、ありました。辞表を書け、と怒鳴って、そのまま会議室を出て行っちゃいました。あとで会長の田島さんが連れ戻しましたけれどね。でも、それほど猛烈で怖い人だったのに、現場の作業者や販売店の人には礼を尽くして、腰が低い。とても人気がある人でした。ディーラーのセールスマンを売る気にさせるのが上手でした」

■「ふざけるな、席を変えろ」と怒鳴った
 川合は販売の第一線では怒鳴ることはなかった。にこにこと話しかけ、自分から頭を下げて、相手のやる気を引き出したのである。ディーラーの社長たちと顔を合わせるパーティが開かれた時、会場を下見した川合は血相を変えて怒鳴った。
 「オレは上座じゃないか。ふざけるな、席を変えろ」
 従来、富士重工の社長はディーラーの社長よりも上座に座るのが通例だった。だが、川合は入り口近くの末席に自分の席を持ってきたうえで、担当の人間を呼び、今度は静かに説いた。
 「いいか。ディーラーの方々はお客さまだ。お客さまがいちばんいい席に座るのが当たり前だ」
 そうして、彼はディーラーの社長たちの心をつかみ、全国の店舗を回った時もディーラーの従業員ひとりひとりに声をかけ、「何か問題はないか」と問いかけた。たとえば「こうしてほしい」と要望があったとする。川合はその場で本社の担当に電話をかけ、その場で答えるようにした。
 前任の田島が自動車好きだったとはいえ、興銀出身の社長はそこまではしない。川合は自動車会社の人間の心理や体質をよく知る男だったのである。

■バブルで世の中が浮かれる中、憂鬱な状況だった
 川合が販売の人間のモチベーションを引き出したことで、レガシィは好調に推移した。発売当初から目標台数を突破することができた。ただ、問題はあった。目標台数は売っていたにもかかわらず、収益には貢献していなかった。つまり、売れても利益にならない新車だったのである。
 原因は開発費用が高コストになってしまう構造だったことにある。川合が原価低減を唱えても、すでに開発に投じていた費用が多額だったのである。また、発売してすぐのころは車両に不具合が起こる。手直しするには対策費がかかる。そして、不具合が続けば次第に、ユーザーから支持されなくなり、結果的に売れなくなってしまう。同社の社史には悲痛な調子でこう書いてある。
 「課題は明白だった。再建を果たすためには、目前のレガシィの出血を止め、これを断ち切らないといけない。そこでまず、レガシィの品質向上とコスト構造の見直し、加えて不具合の撲滅を、収益向上に向けてのターゲットとした」
 一九九〇年、世の中がバブルで浮かれていた時、富士重工の社員は憂鬱な状況のなかにいた。高級車が売れていた業界大手とはまったく違う世界にいたと言っていい。

■二代目レガシィのクレームが初代の5分の1に激減
 新車のレガシィが売れないわけではなかったのだから、利益を出すには構造改革しかない。原価を低減し、生産性を向上する。トヨタであれば「トヨタ生産方式」という生産性向上の文化があるから、売れ行きが落ちても利益がなくなることはない。富士重工の人間だって原価低減、生産性向上という言葉は知っていたけれど、カイゼンをやり続けるという体質ではなかった。川合は自ら先頭に立って、徹底的な認識と実行を部下に命令、強要したのである。
 まず、手を付けたのは品質の向上である。開発したクルマを量産する場合、ひとつの部品の不具合が他の部品に影響を与える。

 「量産しても品質を維持できる部品を使う」
 「ラインのなかで品質を作り込む」
 「検査過程で不具合のあるものはすべて出荷しない」

 品質の向上とは基本的なことを守ることにある。川合は生産現場に行って、チェックした。幹部と会議をするだけでは、品質向上の文化ができるとは考えなかったからだ。こうして、川合が目を光らせたため、初代レガシィのクレームは三年後には半減し、二代目レガシィではクレームが初代の時の五分の一にまで減った。その分、対策費がかからなくなり、コストが低減できたのである。

■「いい車だからこれくらいのコストは仕方ない」を排除した
 次に手を付けたのは設計段階の原価低減だった。
 一九九〇年の秋に社内に自動車部門経営対策会議というものができた。同社はバス、産業機械、飛行機部門を持っていたから、自動車部門と名前はついていたが、実質的には売り上げの過半を占める乗用車のコストを抑えるための対策会議である。マイナーチェンジを控えたレガシィだけでなく、軽自動車のレックス660(新規格車)、さらにはバンタイプのサンバー660も含めた、全車種の開発、量産コストを安くすることが目的だった。
 川合は席上で、何度も「VAの徹底」を唱えた。
 「品質を落とさず、部品を作る。協力会社を泣かすな。知恵を使ってコストを抑制しろ」
 知恵とはつまり、部品の共通化、設計の仕様や材料の見直しだ。そして、協力会社の社員にもVAの提案をつのった。
「いい車だからこれくらいのコストは仕方ないじゃないか」という考え方を排除したのである。

その後のVAの歩みは次のようになっている。
①九一年からは購買本部が中心となってSPS(スバル・プロダクション・システム)活動を始めた。また、原価企画部が開発車を対象にMCI(ミニマム・コスト・インベスティゲーション)活動を開始する。前者は協力企業の生産性向上を支援する活動であり、後者は特定の部品を対象にコストを最小にしようという活動だ。
②九四年からはSCI(サイマル・コスト・イノベーション)活動が始まった。前述のMCIとSPSを包括し、さらに全体のVAをすすめていくコスト低減を進化させた社内運動である。

■涙を流しながら悲壮な覚悟で訴えた
 必死の活動を行った結果、この時期以降、富士重工の量産車は必ず利益が出る形で市場にリリースされていくようになった。それまでは要するに、「これだけ使わないと新技術の車はできないんだ」という開発陣の主張が通っていたのである。
 だが、危機のなかにいると、人は態度を変えざるを得ない。開発陣の声は小さくなり、一方で、社内の他の部署からはコストの低減に関して多くの提案があった。提案が通り、設備投資、試験研究費、経費などにも適用されていった。社員の意識は徐々に変わり、「コストを抑えて利益を出す」ことを考える文化が生み出されていった。
 一方、川合は足踏みせず、ますます改革を進めていく。九一年から本社の管理職をディーラーに出し、車を売らせた。それまでも一般社員がディーラーでセールスをしたことはあった。だが、川合は「管理職にも販売現場に出てもらう」と決めたのである。
 悲壮な覚悟でスピーチをし、彼は管理職を送り出している。実際に涙を流しながら、彼は声を振り絞った。
 「無理に出向をお願いするが、みなさんだけに汗水を流してもらうという考えはまったくありません。残った人たちも大変になるだろうし、役員も、ついては私も出向しなくてはという気持ちでいることを理解してほしい」
 自動車業界では本社の部長、課長が販売店に行って、セールスを行うなんてことは前代未聞のことだった。業界他社の幹部は「考えられないし、うちでは絶対できない」と首を振った。もし、同業他社で同じことをしたならば、管理職は拒否するか、もしくはやめてしまっただろう。

■「636億円の経常赤字」から4年でV字回復
 川合がやったことは生産現場、販売、事務の人間に至るまでの意識改革である。
 「技術の中島飛行機、富士重工という意識ではいけない。お客さまを見て金を儲けることを考えろ」
 彼が繰り返し教えたのはそういうことだった。
 猛烈な改革が始まって四年が経ち、ようやく結果が出た。
 九四年には年間販売台数が過去最高の三五万七六〇五台となる。売り上げは八三〇〇億円、営業利益が一三二億円で経常利益で二八億円。川合が死に物狂いで社内を督促した結果、ようやく黒字に転換することができた。なんといっても四年前の九〇年には経常利益がマイナス六三六億円だった会社だ(売り上げは七五〇〇億円)。
 四年間で売り上げが八〇〇億円も増えるなんてことは、一種の奇跡だ。結局、企業の成長は経営者にかかっている。自分の任期の間、前年度より少しでも売り上げが伸びていればいいと思っているサラリーマン経営者では、立て直しなどできない。
 他人にも自分にも厳しい川合が怒号を飛ばし、社内を引き締め、休みの日も朝から晩まで働かなければ会社は伸びていかない。ただし、川合は社内にも社外にも敵を作った。それが後に彼を不幸な立場に追い込んでいく。

PRESIDENT Online /PRESIDENT BOOKS
野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『ヤンキー社長』など多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。


≪くだめぎ?≫
 「レガシィ」が生まれたより先に行われたこと。いや、その後のことか。

 二代目「レガシィ」ではクレームが初代の時の五分の一にまで減った。その分、対策費がかからなくなり、コストが低減できたのだから。
Posted at 2020/03/23 12:03:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | 車全般 | クルマ
2020年03月23日 イイね!

【富士重からSUBARUへ】

【富士重からSUBARUへ】2017/03/31 11:33
【富士重からSUBARUへ】いまのスバルにつながる1980年代の英断、そして「レガシィ」が生まれた

[写真・画像]
(上)『レオーネ』
(中)『レガシィ』
(下)『インプレッサ』

 2016年の世界販売で、ついにスバルは100万台を突破しました。それだけ「SUBARU」というブランドは認知され、支持されているといえます。
 とはいえ、スバルのクルマは順調に伸びてきたとは言い切れません。水平対向エンジンや四輪駆動というメカニズムを搭載した乗用車「レオーネ」によって『スバリスト』と呼ばれる熱心なファンを生み出してきましたが、現在のようなプレミアムなブランドイメージはなかったのです。
 レガシィ・シリーズをフラッグシップに、レヴォーグ、WRX、インプレッサなどなど……様々なモデルをラインナップする現在のスバルから見ると信じられないかもしれませんが、1980年代以前のスバル車は、国内でも存在感はいまいちだったのです。
 当時のラインナップは、レオーネ、ジャスティ、レックス(軽乗用車)といったところ。もちろんSUV的なモデルなどありません、スペシャリティクーペとしてアルシオーネが登場したのは1985年のことでした。
 しかし、その頃から現代のスバルにつながるプランは温められていたのです。水平対向エンジンを積むセダンとステーションワゴンである「レオーネ」がカバーしているゾーンを2つに分けることが検討され、エンジンとプラットフォームのいずれも完全新設計とするモデルの開発が進んでいました。
 そうして1989年に誕生したのが初代レガシィです。さらに、レガシィが上級シフトしたことにより空いてしまったゾーンには、インプレッサ(1992年)を設定することでカバーしたのです。いずれもセダンとワゴンをラインナップしていたのは、レオーネからの伝統を感じさせるものでした。

■圧倒的パフォーマンスを目指した初代レガシィ
 初代レガシィのデビュー時に話題を集めたのは、新開発の水平対向2.0リッターDOHCターボエンジンでした。
 その型式は「EJ20」、現在もWRX STIの心臓部として熟成を重ねている名機です。そのパフォーマンスをアピールすべく、10万km連続走行の世界速度記録を樹立したことはスバリストにはよく知られています。
 それまで走りにおいてライバルに差をつけられているという印象もあったスバルが、ライバルをリードする性能を得たことが初代レガシィでの大いなるインパクトでした。そのハイパフォーマンスは弟分であるインプレッサにも共通していました。
 その後、アウトバック、フォレスター、XVといったSUVラインナップによって現在のブランド価値を生み出すことになるわけですが、クルマづくりという自動車メーカーの根幹といえる部分において大きくステップアップする原動力となったのが1989年に誕生したレガシィと、それを支えたメカニズムであることは間違いありません。
 だからこそ、レガシィとインプレッサを生み出そうと決定した1980年代の経営判断はスバルの歴史において無視できない重要な出来事だったといえるのです。
(山本晋也)


≪くだめぎ?≫
 "鉄道マン"や"バス業界"からみれば、【富士重からSUBARUへ】は乗用車メーカー・航空機部門に絞ったと捉えられている。

 『レガシィ』の成功・旗艦車種となったことで、『ジャスティ』は1994年フルモデルチェンジ時に外注化された。更に、2014年9月『サンバートラック』フルモデルチェンジ時から「ハイゼット」のOEMとなり、軽自動車生産が全てダイハツ工業製になった。

 1972年4月「レオーネエステートバン1400 4WD」が世界初の四輪駆動乗用車として登場、
『「水平対向エンジン」・「4WDワゴン」の"SUBARU"』定着の切っ掛けとなった。言ってみれば、現在は"レオーネ"の後継車種・派生車種の生産が"「乗用車部門」そのもの"であろう、と思う。
Posted at 2020/03/23 06:35:04 | コメント(0) | トラックバック(0) | 車全般 | 日記

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「「Yamato」体重計 ♫〜」
何シテル?   04/02 16:02
 「昔々、有ったとさ、 『トヨタディーゼル店』、『トヨタパブリカ店』、『トヨタオート店』、『トヨタビスタ店』・・・」。      身長165cm・体重6...
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