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ディーゼルオート店のブログ一覧

2020年05月10日 イイね!

『ボンゴブローニイバン』

『ボンゴブローニイバン』MAZDA BONGO BRAWNY VAN

仕事がもっと、楽しくなる。

磨き抜かれた確かな性能で、仕事を安全・快適にサポートしてくれる。
それが、さまざまなシーンで頼れる心強いパートナー、ボンゴブローニイバン。
働く人の毎日に、大きな安心をお届けします。

DX 充実の標準装備を搭載したスタンダードモデル
GL ワンランク上の装備を搭載したハイスペックモデル

乗車定員 3〜6名
エンジン排気量
・ガソリン 1.998L
・ディーゼル 2.754L
駆動方式 2WD(FR)/4WD
トランスミッション 6速AT
燃費(国土交通省審査値)※1 [JC08モード] 10.4~12.0km/L
※1 燃料消費率(国土交通省審査値)は定められた試験条件での値です。お客様の使用環境(気象、渋滞等)や運転方法(急発進、エアコン使用時等)に応じて燃料消費率は異なります。

荷室の使いやすさを高める細やかな装備。
使い勝手を考え抜いた快適空間。
スムーズで快適な運転を支える走行性能。
安全運転をサポートする、先進の安全機能。

マツダ より


ボンゴ生産、8月終了へ マツダ、商用の国内生産撤退
2020/4/30
 マツダが商用車のボンゴバンとボンゴトラックの2車種の生産を終了し、8月にも商用車の国内生産から撤退することが30日、分かった。商用車市場の低迷や激しい競争で販売台数が減っていた。マツダは商用車と軽自動車を全て相手先ブランドによる生産(OEM)で調達することになり、自社生産を乗用車に絞り込む。
 本社宇品第1工場(広島市南区)で生産する箱形のボンゴバンは、近く生産を終える。プレス工業尾道工場(尾道市)に生産を委託しているトラックは8月にも終了する。乗用車は電動化など最先端技術への対応で巨額の投資が必要となっており、経営資源を乗用車に集中させる。
 ボンゴは1966年に初代を発売し、箱形バンの代名詞になった。これまでにシリーズで累計約296万台を生産した。ただ商用車は近年、販売が苦戦。2019年度の生産台数は1万1267台と05年度の6分の1だった。
 現行の4代目は99年発売で安全や環境の規制への対応が難しくなっていた。販売が伸び悩み、事業の継続は採算に合わないと判断したようだ。商用車の販売はOEMで続ける。自社ブランドの商用車はタイでも海外向けを造っている。
 マツダは創立間もない31年に三輪トラック「マツダ号DA型」を発売し、自動車分野に参入した。商用車は自動車メーカーとしての創業事業でもある。商用車の今年3月までの累計生産台数は約1200万台。約90年に及ぶ商用車生産の歴史を終える。(井上龍太郎)

変革期迎え乗用車に集中 マツダ、ボンゴ生産終了へ
2020/4/30
 マツダが国内で商用車の自社生産から撤退する背景には、販売の低迷と乗用車の開発競争がある。2019年度の商用車販売台数はこの10年で最も少なく、事業を続ける意義が薄れていた。世界の自動車業界の「スモールプレーヤー」(丸本明社長)として選択と集中を徹底し、乗用車に経営資源を注ぐ構えだ。
 ▽法人営業の要 販売低迷
 近年はスポーツタイプ多目的車(SUV)など乗用車の販売で収益を上げる一方、商用車の販売台数は05年度の5万2千台を境に減り続け、19年度は2万2千台だった。元幹部は「赤字を垂れ流す状態」と説く。
 現行のボンゴとボンゴトラックは1999年の発売から20年たち、安全や環境の規制に対応が難しくなっていた。現在の商用7車種のうち5車種はスズキやトヨタ自動車、いすゞ自動車から相手先ブランドによる生産(OEM)で調達する。自社生産の存廃の分岐点にあったといえる。
 乗用車の開発競争も理由の一つだ。業界は「100年に一度」の大変革期を迎え、自動運転や電動化、通信機能などの新技術が問われている。開発にかける人材や経費を乗用車に絞る必要性は高まっていた。
 商用車からの生産撤退はマツダの歴史で大きな節目になる。創立から間もない31年、三輪トラック「マツダ号DA型」の生産を開始。自動車メーカーとしての第一歩が商用車だった。乗用車を初めて手掛けたのは60年だった。
 商用車は販売店にとって法人営業の要。広島市内のマツダ販売店によると、ボンゴは今なお飲食業や製造業から一定の需要があり、車検やメンテナンスで結び付きを生んでいた。幹部は「顧客が他メーカーに流れる恐れがある」と懸念しつつ「乗用車の販売に力を入れていきたい」と言葉をつないだ。(井上龍太郎)
以上 中国新聞 より


≪くだめぎ?≫
 2019年4月に『ボンゴブローニイバン』が復活、1年経った。
『ハイエース』で言えば、仕様はロング・標準ボディ・標準ルーフ・低床フロア・3/6人乗り・5ドアのみの設定、「DX」・「DX"GLパッケージ"」相当。

 ボンゴバンとボンゴトラックの生産を終了し、8月にも商用車の国内生産から撤退する、と報道された。ボンゴバンが単にボンゴブローニイに統合されるだけか。"スーパーロング"も導入して、そちらを『ボンゴブローニイ』にしても良いと思うが。
Posted at 2020/05/10 22:14:48 | コメント(0) | トラックバック(0) | トヨタディーゼル店 | クルマ
2020年05月09日 イイね!

小田急ロマンスカーGSEの「SE」が不変なワケ

小田急ロマンスカーGSEの「SE」が不変なワケ小田急ロマンスカー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 より抜粋

[写真・画像]
(上)「あさぎり」の運用に就くSE車 松田駅にて 作成: 1991年1月1日
(下)3100形NSE車
小田急電鉄 NSE3100形(更新前) 足柄駅にて 作成: 1987年1月1日

 小田急ロマンスカー(おだきゅうロマンスカー、ODAKYU ROMANCECAR)は、小田急電鉄が運行する特急列車および特急車両の総称である。列車により箱根登山線や東京地下鉄(東京メトロ)千代田線、東海旅客鉄道(JR東海)御殿場線と直通運転する。また、「ロマンスカー」は小田急電鉄の登録商標である。

2.3 高度成長期
2.3.1 軽量高性能新特急車SE車の登場
 1954年から国鉄鉄道技術研究所の協力を得て開発が進められていた「画期的な軽量高性能新特急車」は、1957年に3000形として登場した。この3000形は "Super Express car" 、略して「SE車」と呼ばれる車両で、数多くの新機軸が盛り込まれ、軽量車両で安全に走行するための条件が徹底的に追求された、低重心・超軽量の流線形車両であった。「電車といえば四角い箱」であった時代において、SE車はそれまでの電車の概念を一変させるものとなり、鉄道ファンだけではなく一般利用者からも注目を集めた。同年7月6日よりSE車の営業運行が開始されたが、すぐに夏休みに入ったこともあって、連日満席となる好成績となり、営業的にも成功した。
 また、同年9月には国鉄東海道本線でSE車を使用した高速走行試験が行われたが、私鉄の車両が国鉄の路線上で走行試験を行なうこと自体が異例のことであるのみならず、当時の狭軌鉄道における世界最高速度記録である145km/hを樹立した[64]。また、これを契機に鉄道友の会では優秀な車両を表彰する制度としてブルーリボン賞を創設し、SE車は第1回受賞車両となった。
 SE車が運用開始された1957年時点では、新宿と小田原は75分で結ばれていたが、SE車は1958年までに4編成が製造され、特急が全てSE車による運行となったため、1959年からは67分で結ばれるようになった。さらに1961年には新宿と小田原の間の所要時間は64分にまでスピードアップした。
 1959年からは、特急を補完するための準特急の運行が開始された[68]。使用車両は2扉セミクロスシート車で、特急運用から外れた2300形と、新造した2320形が使用された。

2.3.2 前面展望車NSE車の登場
 SE車の登場以後、特急利用者数はさらに増加し、週末には輸送力不足の状態となっていた。また、1960年には箱根ロープウェイが完成し、「箱根ゴールデンコース」と呼ばれる周遊コースが完成したことから、箱根の観光客自体が急増した。更に、1964年東京オリンピックの開催を控えていたこともあり、特急の輸送力増強策が検討された。その結果として、1963年に3100形が登場した。この3100形は "New Super Express" 、略して「NSE車」と呼ばれ、8両連接車だったSE車に対し、NSE車では11両連接車とし、さらに編成両端を展望席とすることによって定員増を図った車両である。また、SE車と比較すると豪華さが強調される車両となった。1963年にNSE車が4編成製造されたことによって、箱根特急の30分間隔運行が実現し、同時に新宿と小田原の間の所要時間は62分にまでスピードアップした。
 この時期まで、箱根特急の列車愛称は列車ごとに異なり、後述するようにNSE登場直前の時点で16種類の愛称が使用されていたが、NSE車の登場後の1963年11月4日からは5種類に整理されたほか、準特急という種別は廃止となった。その後、NSE車はさらに3編成が増備され、1967年からは箱根特急の全列車がNSE車で運用されることになった。
 また、1964年3月21日からは、それまで夏季のみ運行されていた江ノ島線の特急が土休日のみであるが通年運行となり、1965年3月1日からは毎日運転となった。1966年6月1日からは特急の愛称がさらに整理され、新宿から小田原までノンストップの列車は「はこね」、途中向ヶ丘遊園と新松田に停車する列車は「さがみ」、江ノ島線特急は「えのしま」に統一された。なお、途中駅に停車する特急はこのときの改正で新設されたもので、元来は沿線在住の箱根観光客を対象としたものであった。1968年7月1日からは、御殿場線直通列車が気動車からSE車に置き換えられ、愛称も「あさぎり」に統一された。列車種別は同年10月から「連絡急行」に変更されている。1968年12月31日からは、初詣客に対応する特急「初詣号」の運行が行なわれるようになったが、この列車は普段は各駅停車しか停車しない参宮橋にも停車するのが特徴であった。
 しかし、通勤輸送への対応やそれに伴う新宿駅再改良工事などの影響で、1972年以降、新宿から小田原までの所要時間は最速でも69分にスピードダウンを余儀なくされた。線路容量不足のため、上り「さがみ」の一部が新宿まで運行できず、向ヶ丘遊園終着とする措置まで行なわれた。
最終更新 2020年3月4日 (水) 13:20 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


小田急ロマンスカーGSEの「SE」が不変なワケ
車両の形は変わっても守り続けるブランド
土屋 武之 : 鉄道ジャーナリスト 2018/01/04 6:00

 2017年12月5日に小田急電鉄は、2018年3月から投入する新型ロマンスカー70000形の愛称を「GSE」と発表し、完成した車両をお披露目した。GSEは「Graceful Super Express」の略。Gracefulとは「優雅な」という意味である。
 70000形の投入は早くより予告されていたため、SNS上では、愛称がどうなるかという予想が飛び交っていた。だが、面白いことに「SE」という部分に関してはほぼ異論は唱えられず、注目は「●SE」の「●」の部分に、どのアルファベットを充てるのかという一点だけに集まっていた感があった。
 つまり「SE」であることは、もはや当然のこととして受け止められていた節があるのだ。これは大変、興味深い現象だった。

■初代3000形に始まる「SE」
 今につながる小田急のロマンスカーの歴史は、1957年にデビューした初代3000形「SE(Super Express)」に始まる。
 小田急電鉄は、戦後すぐの1948年には特急列車の運転を始め、1951年には本格的な特急用電車1700形を投入していた。しかし1700形は従来の電車の域を出ず、さらなる高速化を目論んで、小田急と鉄道技術研究所が共同で開発したのが3000形であった。
 3000形はそれまでの特急用電車の概念を一変させる車両であったため、直訳すると「超特急」。つまり、特急を超えた存在という愛称が与えられた。このSEが呼び水となって、大手私鉄各社も新型車の開発に乗り出し、その多くには車両そのものに愛称がつけられている。

■60年間守り続ける「SE」の名
 これは「はこね」など列車としての愛称とは別のもの。例えば、2階建て電車がいちばんの売りだった近鉄10100系は「ビスタカー」、豪華さが際だった東武1720系は「DRC(Deluxe Romance Car)」という具合だ。
 「〜カー」という呼び名が1960年代を中心に流行したのであった。
 ただ、小田急ロマンスカーが特筆すべき存在である理由は、3000形のデビューから60年間、「SE」を守り抜いていることだ。
 愛称付きの車両が次第に流行らなくなり、あるいは愛称が残っている会社でも、例えば東武が最新の特急用電車を「リバティ」と名付けたように、時代に合わせた変化を見せているのとは対照的である。

■鉄道界には珍しい「伝統のブランド」
 自動車の世界では、たとえばトヨタ自動車の「クラウン」は1955年に販売が開始されて以来、モデルチェンジを繰り返し、現在も販売され続けているといったことは、普通にある。当然ながら、その時代の最新技術と流行を取り入れつつ設計されているため、60年前のクラウンと今のクラウンとでは、完全に違う自動車になっている。だが、トヨタの高級自動車のブランドとして、クラウンは認知されている。
 同様の例は、「ボーイング737」(1967年初飛行)のように飛行機の世界にもある。小型双発のナローボディ旅客機という共通点を除けば、ハイテク化が進んだ現代の737は、かつて初めて空を飛んだ頃の737とは、まるで「別物」のはずである。
 鉄道の世界では、SEのような例は極めて珍しい。そのわけは、鉄道車両は鉄道会社のオーダーメードが基本だから。メーカーがカタログを用意し、ユーザーはオプションを指定しつつ発注する、つまりはメーカーの意志が優先される自動車や飛行機とは根本的に異なる。

■車両自体は大きく変化してきたが…
 一方、鉄道車両のブランドは、ユーザーである鉄道会社の意志に左右される。出来上がった車両をどう名付けるかは鉄道会社の自由。伝統を守るか、目新しさを求めるかによって愛称は変わっていってしまう。
 小田急の「SE」という名称は、"ブランド化"が進んだ、際だった存在と言えようか。これまで同社が投入してきた特急ロマンスカーは、同一の設計方針に貫かれた一連のシリーズというわけではない。むしろ、この60年間の社会的要請の変化に沿って設計を大きく変えつつ、現在に至っている。
 それでも、小田急はSEと名付け続けてきた。それは、最終的な車両のユーザーである鉄道利用者に対し、さまざまな意味で超越した特急であるという品質を、小田急が約束しているのだ。

■「SE」はロマンスカーの代名詞
 SEを冠した車両は、3000形に続き、3100形「NSE(New Super Express)」、さらには7000形「LSE」、10000形「HiSE」、20000形「RSE」、50000形「VSE」、60000形「MSE」と送り出されてきた。頭の1文字は、「Graceful」のようにその車両を表すのにふさわしい単語が選ばれ、頭文字がつけられている。
 3000形SEは、隣りの車両同士を台車でつなぐ連接構造を採用していた。これはNSE、LSE、HiSE、VSEも同じである。だが、それ以外のロマンスカーは、各車体に2台ずつ台車がある、一般的なボギー車でGSEも同様だ。RSEの2階建て車両、VSEの車体傾斜装置など、特定のロマンスカーにのみ採用された構造、技術もある。
 また、1996年に登場した30000形「EXE(Excellent Express)」は、SEを冠していない特急用電車だ。箱根への観光客輸送ではなく、町田など中間駅への通勤客輸送を重視した設計になったがゆえ、一連のSEとは一線を画したのであった。
 けれども、こうした実情があったとしても、あくまで小田急ロマンスカー=SEなのである。どのように姿を変えていこうと、代名詞としてSEを守り、育てていこうという小田急の姿勢は、今回のGSE投入においても変わることはなかった。
東洋経済オンライン


≪くだめぎ?≫
 「LSE」が出そろた1987年小田急開業60周年は、やはり
「小田急電鉄の特急ロマンスカー」=「オレンジとグレーの車体」

と確立した。1957年7月よりSE車の営業運行より、以後全ての観光特急=ロマンスカーのイメージが確立した。
 国鉄鉄道技術研究所の協力を得て開発が進められていた「画期的な軽量高性能新特急車」"SE"であるから、「国鉄線上での試験」した元祖だ。新幹線0系を生み出す試験の一つになった。
 更にSE車・NSE車の性能をフルに発揮する、と目標として、小田急線連続立体交差化・複々線化事業を完工する原動力に成ったと言っても良いだろう。
Posted at 2020/05/09 07:20:06 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道 | ニュース
2020年05月08日 イイね!

小田急ロマンスカー「LSE」38年の豪快な疾走

小田急ロマンスカー「LSE」38年の豪快な疾走小田急ロマンスカー「LSE」38年の豪快な疾走
定期ダイヤでの運転終了、年度内に引退へ
小佐野 景寿 : 東洋経済 記者
2018/07/11 6:00
[写真・画像]
(上)ロマンスカー7000形LSEの定期運行最終日となった7月10日、内田克美・新宿管区長の合図とともに発車する「はこね41号」(記者撮影)
(下左)オレンジとグレーの塗装を受け継いだLSE(記者撮影)
(下右)白とワインレッドの塗装だった当時のLSE(記者撮影)

 真っ赤な装いの最新型車両「GSE」をはじめ、白やブルー、シルバーと色とりどりの車両が人気を集める小田急電鉄の特急ロマンスカー。だが、特に「昭和生まれ」の世代なら、ロマンスカーといえばオレンジとグレーの車体を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。
 その伝統のカラーリングをまとった最後の車種、7000形「LSE」が7月10日、定期列車としての運行を終え、38年にわたる活躍に一つのピリオドを打った。
 同日は、箱根行き特急としては最後の定期運転となった新宿駅15時40分発「はこね41号」の出発に合わせ、同駅ホームで記念のセレモニーが行われた。大勢の鉄道ファンや利用客が見守る中、LSEは箱根湯本へ向け、長い警笛とともに新宿駅をあとにした。

■これほど長く現役とは
 LSEが登場したのは1980年。38年という現役期間は、歴代ロマンスカーの中でも最長だ。「これほど長く現役でいるとは考えもしませんでした」。小田急やロマンスカー、鉄道全般に関する著書も多い小田急電鉄OBの生方良雄(うぶかた・よしお)さんは語る。
 生方さんは1925年生まれ。1948年4月、戦時体制下で小田急などの私鉄を統合して成立した「東京急行電鉄」に入社、同年6月に小田急が分離独立した際に同社所属となり、車両部長や運輸部長などを務めた。1957年に登場し、画期的な高速車両として新幹線の実現にも大きな影響を与えたロマンスカー3000形「SE(Super Express)」の開発にも携わり、小田急とロマンスカーの発展を見つめ続けてきた。
 LSEの計画が進められていたころ、生方さんは中長期的な列車の運行計画や、それに伴う車両や設備などの計画を担当する運輸計画部長。実際の車両設計にはタッチしていないが、新型特急車両の基本性能や増備などの構想を担当する立場だったという。

■ロマンスカーの伝統を受け継いだデザイン
 LSEは、流線形の車体にオレンジとグレーの塗装、車両と車両の間に台車を設けた「連接車」など、その後のロマンスカーの伝統を築いたSEから数えて3代目の車両として登場。運転席を2階に上げて先頭に展望席を設けた構造は、SEの後継車として1963年に登場した3100形「NSE(New Super Express)」から受け継いだ。
 外観は登場時のトレンドも反映し、丸みのあるデザインだったSEやNSEと比べて直線的なデザインに。展望席の窓ガラスの傾斜もNSEより鋭角になり、それまでのロマンスカーのイメージを保ちつつシャープなスタイルとなった。

■愛称は「豪華さ」から
 LSEのLは”Luxury”(豪華な)の頭文字だ。生方さんは「『豪華』といっても、最近の特急列車のように豪華という感じとは違いますよ」と笑うが、「展望席も側面も窓が大きくなって、より明るい雰囲気になった」。ロマンスカーでは初のリクライニングシートを採用し、人気の高い展望席の座席数を増やすなどグレードアップを図ったほか、終着駅で座席を自動的に方向転換するシステムも初めて導入した。
 塗装はSEから続いたオレンジとグレーのカラーリング。1990年代半ばにはのちに登場した10000形「HiSE」に合わせた白とワインレッドの塗り分けに変わったが、近年になって再び元の塗装に復元された。「最近のロマンスカーは白・青・赤と単色ですが、SE以来のこの塗装は飽きがこない。(LSEが長年愛される車両となったのは)飽きのこないデザインという点が大きいでしょうね」と生方さんはいう。
 LSEに次ぐロマンスカーとして1987年に登場したHiSEや、JR御殿場線乗り入れ用として1991年に運行を始めた20000形「RSE」は、床面の高いハイデッカー構造でバリアフリー化が難しいことから2012年に引退。後輩車両が先に姿を消す中、バリアフリー対応も可能だったLSEは長らく現役の座を保つこととなった。
 展望席や連接車など、SEやNSEで培ったロマンスカーの特徴を受け継ぎつつグレードアップを図ったLSE。だが、SEやNSEから設計思想を切り替えた部分もあった。重心を下げるために床面を低くする構造をやめたことだ。

■高速化の夢から輸送力へ
 小田急は戦後、新宿―小田原間を60分で結ぶという目標を立てており、SEもこの目標の実現を目指して開発された。車体の大幅な軽量化などスピードアップのためにさまざまな工夫が行われた。「低重心化」もその一つで、台車のある部分以外の床を10センチ程度低くしていた。
 新宿―小田原間の特急列車の所要時間は1963年には62分まで短縮され、目標まであと一歩に迫った。同年にデビューしたNSEも、展望席を設けるなど車内設備の充実を図りつつ、高速性能を重視してこの構造を踏襲した。
 スピードアップを狙った構造は車両の性能だけでなく、実は当時計画が始まった複々線にもあったという。小田急の複々線は4本ある線路のうち内側の2本を特急・急行など、外側の2本を各駅停車が走る。内側の2本を各駅停車用にすればホームを1つで済ますことができるが、あえてそうしなかったのは、中央にホームをはさむ形にするとカーブが増え、高速化の妨げになるためだった。
 「(特急60分運転の実現という狙いは)ありましたね。これは私が最初から言っていたことで、内側の2線は急行線ということで押し切ったんです」と生方さん。60分運転達成がいかに大きな命題だったかがわかる。

■速さから本数や快適性へ
 だが、昭和40年代以降は増え続ける通勤利用者をさばくための輸送力増強に追われ、あと一歩まで近づいていたスピード面の目標達成は次第に遠ざかっていった。1970年代には新宿―小田原間の最速所要時間が62分からダウン。「特急60分運転のためには途中で待避線をつくらないといけない。だからといってこの時期に待避線をつくるなんてとんでもないということで、特急のスピードは我慢をしようという流れだった」という。
 その流れの中で、LSEは床面を下げた低重心構造を採用しなかった。生方さんは「技術屋としては60分運転をやりたいけれど、ちょっともう無理だろうと思っていましたね」と当時を振り返る。
 「新幹線ができちゃって、世間一般であの当時はもう普通鉄道でのスピードという要求はなかったんですよ。在来線でいくら頑張っても新幹線のスピードは出ませんからね。2分や3分速くするよりも本数を増やして乗りやすくする、そして快適に乗れる、そういう方向に流れが変わっていたんですね」。少しでも速さを追求した時代から、快適性や高級感が重視される時代へと変化する中で登場したのが、「豪華さ」のLを頭文字としたLSEだったわけだ。

■60分運転達成「まだまだいける」
 生方さんは、LSEの登場から引退までの間に、新宿―小田原間60分運転が実現するとは「思っていなかった」と笑う。だが、今年3月のダイヤ改正では、複々線化の完成によってついに新宿―小田原間を59分で走破する特急が登場した。
 実際に乗ってみて感慨深いものがあるという生方さん。「さらに欲を出すと、あれなら55~56分でも走れるんじゃないかと。複々線区間は踏切がないんだからもっと飛ばしたっていい。日本全体の鉄道の一つのモデルケースとして、130キロや160キロにスピードアップして55分運転をやってもらいたい」と、技術者の視点でさらなる発展を期待する。
 ロマンスカーはその利用者層も変化してきた。LSEの登場時には「まだまだ観光客の利用が主体だった」というが、今では年間に約1315万人(2016年度)という特急利用者の多くは通勤客をはじめとする沿線利用者だ。LSEの定期運転ラストとなった列車も、箱根行きの観光特急ではなく通勤利用者向けの「ホームウェイ」片瀬江ノ島行きだった。
 「これだけ便利になったので、もっと大衆化していいと思うんですよ。前に、藤沢からベビーカーのお母さんが乗ってきて大和(所要時間約15分)で降りるのを見たんですね。というのは、ベビーカーだと一般の列車ではなかなか座れないが、特急なら余裕を持って座れるから。そういう意味では、ベビーカーのお母さんなんかにもっと気軽に乗ってもらえるような方法を考えてほしい」。生方さんは、今後のロマンスカーの理想像についてこう語る。

■平成の終わりとともに
 戦後復興の中で技術の粋を集めて登場したSE、高度成長期のレジャーブームを反映したNSEの後継車として、社会が成熟する中でゆとりや高級感を重視して誕生したLSE。7月10日に定期運用を外れたあとは臨時列車などに使われる予定だが、2018年度中には引退するという。
 小田急は海老名駅(神奈川県海老名市)の隣接地に博物館「ロマンスカーミュージアム」を2021年春に開設すると発表しており、LSEもほかの歴代ロマンスカーとともにここに保存される予定だ。
 38年の長きにわたって、様変わりする沿線や社会環境の中を走り続けたLSE。構想から半世紀を費やした複々線が完成し、小田急が新たな時代を迎える中、伝統のカラーをまとった特急は、平成の終わりとともにその長い歴史に幕を下ろすことになる。
東洋経済オンライン


≪くだめぎ?≫
 「小田急電鉄の特急ロマンスカー」=「オレンジとグレーの車体」

1987年小田急開業60周年記念にデビューした「HiSE」10000形電車が写真下右の白とワインレッドの塗装になり、イメージの一新を図ったがその年12月23日からの運用ということもあり、昭和時代は「オレンジとグレーの車体」だった、と言っても過言ではない。

 「国鉄線上での試験」として、通常のボギー車と連接車の比較試験を1982年の11月から12月にかけて行われたのは"伝説"の出来事だ。
 昭和63年に朝日新聞神奈川版の短期連載「きしむ大動脈」で取り上げられ全国版にも記事が掲載された混雑する小田急線。「代々木上原駅~和泉多摩川~登戸」連続立体交差化・複々線化事業が2018年(平成30年)3月に完了した。 昭和のエコでない電車が"バリアフリー"対応出来たことで生き延び、複々線区間を走行したのは、奇跡というか伝説である。
Posted at 2020/05/08 17:58:35 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道 | ニュース
2020年05月08日 イイね!

なぜ「ジープ」はアメ車で唯一売れているのか

なぜ「ジープ」はアメ車で唯一売れているのかなぜ「ジープ」はアメ車で唯一売れているのか
初の「年間1万台超え」狙い、販売店を大改装中
宮本 夏実 : 東洋経済 記者 2017/03/20 7:00

[写真・画像]
(上)都内にある「ジープ世田谷」は日本で最も販売台数の多いジープ販売店だ。店の前面には人気のある「ラングラー」が置かれている(記者撮影)
(中)改装後の「ジープ」店。ロゴがジープのみになり、黒い外装に様変わり(記者撮影)
(下)「ラングラー」の小型版ともいえる「レネゲード」。売れ行きは順調だ(記者撮影)

 「米国人は毎年何百万台も日本車を買っているのに、日本人がほとんどアメリカ車を買わないのは不公平だ」
 ドナルド・トランプ米大統領は、選挙戦中から日米自動車貿易の不均衡を批判し続けている。日本の自動車市場は「先進国で最も閉鎖的」と言ってはばからない。実際2016年の新車販売全体のうち、輸入車(外国メーカー車)の割合は7.1%にとどまった。

■アメ車人気は低迷、フォードが撤退
 トランプ氏の不満は「アメ車」の低いシェアにも起因するといえる。日本の輸入車市場はドイツ系が圧倒的で、米国系ブランドの販売台数は2016年で1万台強。新車全体のわずか0.32%、輸入車の中でも4.5%を占めるのみだ。かつて7万台以上を販売していた頃の面影はもうない。こうした苦戦を受け、米大手のフォード・モーターは昨年末に日本から撤退した。
 一方、アメ車で唯一気を吐いているのが、フィアット・クライスラー・オートモービルズ(FCA)のブランドの一角を成す「ジープ」だ。
 軍用車が発祥の4輪駆動SUV(スポーツ多目的車)で、7つのスロットグリルに象徴される独特の個性を持つブランドである。2016年の国内販売台数は過去最多の9392台(前年比31.6%増)を記録した。この5年では3倍の数になった。
 FCA日本法人は今年、この勢いを継続してジープの国内販売で初の1万台超えを狙う。従来は2019年までに1万台を達成する計画だったが、2年前倒しでの大台突破を目指す。
 フォードが日本から撤退したのは「投資に見合うリターンが見込めない」という理由だった。それとは対照的にジープの場合、FCA日本法人とディーラーが連携して積極的に店舗への投資を進めている。

■全国で店舗改装が進む
 2014年には66店だったジープの販売店数は着実に増え、2017年3月9日時点で74店となった。今年中には80店に達する計画だ。新店の中には昨年末に開店した「ジープ甲府」のように、もともとフォード車を扱っていたディーラーが、ブランド撤退に伴いジープに鞍替えしたところもある。
 店舗数の拡大だけでなく、既存店舗への投資を怠らないことも販売を下支えしている。ジープの販売店はFCA日本法人が定めた新たなブランド方針に従って、2016年4月以降、従来白色だった外装を黒を基調としたデザインにするためタイルを張り替えるなど、店舗の改装を順次進めている。ただこれは店舗の老朽化対策ではない。

■ジープの販売店が”真っ黒”に
 ジープの販売店は従来、ジープだけではなく同じFCA傘下の「クライスラー」ブランドも併売していたので、店舗名は「クライスラー/ジープ世田谷」のように「クライスラー/ジープ」+「地名」であり、看板にもクライスラーとジープの両ブランドのロゴが掲げられていた。
 ところが昨年4月以降の新方針では、店の看板からクライスラーを外した。ジープに特化したイメージづくりを進め、販売のリソースもすべてジープに投入するという方向性を明確にした。
 複数の輸入車ブランドの販売店を運営するウイルプラスホールディングスの飯田陽二郎・管理部長は、こうした店舗リニューアルに必要な投資額について「最低でも5000万円」と話す。たとえば比較的小型店の「ジープ福岡西」は5740万円を投じて改装が行われたが、さらに大型の店舗になればそれよりも数千万円は高い投資金額を要する。
 2017年中には80店すべてのジープディーラーが新方針に沿った店舗へと改装する。全店舗合計で数十億円規模の投資であり、極めて「攻め」の姿勢が極めて強い計画だといえる。
 積極的な投資策に打って出ることができる背景には、ジープが高いブランド力を築きつつあるという要因がある。それを象徴するのが、ジープの中でも往年のベストセラーである「ラングラー」だ。昨年は約3500台を販売し、ジープ全体の4割弱を占めているが、実は2007年以降にフルモデルチェンジが行われていない。

■「ラングラー」が人気の理由
 1941年の本国での発売以来、60年以上ラングラーは2ドアのみだったが、2007年の刷新で初めて4ドアが設定され、日本でも顧客層を広げることができた。モデルチェンジから年数が経つと販売が落ち込むのが自動車販売の通例だが、ラングラーは10年経っても人気が衰えていない。
 2016年度に全国で最も販売台数の多かった「ジープ世田谷」の桑原秀晴セールスマネージャーは、「ラングラー独特のデザインで、競合する車種が他ブランドにない」と人気の理由について分析する。独BMWの「X3」や独ポルシェの「マカン」などが同一車格のSUVだが、顧客がそれらの車種と比較検討してラングラーを選んでいるわけではなく、「指名買い」に近い感覚で選ばれる傾向がある。ちなみにラングラーの価格は396万円からで、X3やマカンよりも200万円以上安い。

■「ラングラー」が固定ファンを広げた
 根強いブランド力を背景に、「ラングラーは下取り価格も高い」(前出の桑原マネージャー)。結果的に、使い古したラングラーから新品のラングラーへ乗り換える顧客層を厚くすることになり、販売店が固定客を囲い込めるという好循環を生むに至っている。
 さらにジープは2015年秋、顧客層の拡大を狙い都市向けの小型SUV「レネゲード」を新たに投入。価格は297万円からと、ラングラーよりも100万円ほど廉価だ。2016年には約3000台が販売され、ラングラーに次ぐ人気車種となった。
 米国で6モデルが展開されているジープは、日本では5モデルが導入されており本国と車種数に大差はない。このように品ぞろえが充実しているのは、FCAがグローバルで販売を強化するブランドにジープを位置づけているからだ。
 同じFCA傘下のブランドでも、「ローカルブランド」に区分されるクライスラーやフィアットは日本に導入される車種が絞り込まれる。たとえばフィアットの場合、本国では19モデルもあるのに対して、日本での販売は4モデルと少ないという違いがある。
 大小に広がるラインナップの強みを基盤に、着々と日本市場を開拓するジープ。さらに数年以内にはラングラーをフルモデルチェンジするとうわさされており、日本でファンを獲得する余地はまだまだありそうだ。
東洋経済オンライン


≪くだめぎ?≫
 「ジープ」店の勢いは最近もあったのでは、と思った次第。他社もSUVに力を入れている。

 セダン中心に発足した国内の「レクサス」店は伸び悩み、SUVを投入して何とか、だ。2009年(平成21年)1月登場3代目『RX』と同時に"レクサス店"導入もアリではなかったと思えるようになった。『セルシオ』は無条件に移籍、『アリスト』『アルテッツァ』は売れなかったら移籍させない、のもアリ、と思えて成らない。
Posted at 2020/05/08 15:41:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | 車全般 | クルマ
2020年05月08日 イイね!

「オペル」14年ぶりの日本再参入

「オペル」14年ぶりの日本再参入オペル、14年ぶりの日本再参入に勝算はあるか
知名度ゼロからの市場開拓には挑戦が必要だ
御堀 直嗣 : モータージャーナリスト
2020/04/30 5:45

[写真・画像]
(上)2021年より販売されるオペル車のひとつ「コルサ」(写真:オペル)
(下)「アストラ」とともに日本でヒットした「ヴィータ」(写真:オペル)

 今年2月、ドイツの「オペル」が2021年から日本市場に再参入するとの報に触れ、寝耳に水というか青天の霹靂というか、突然のことで驚くとともに「今さらなぜ」との思いが頭をよぎった。2006年に日本市場から撤退してから14年の歳月が経ち、輸入車の枠組みからすっかりその名が消えていたからである。
 オペルはドイツの自動車メーカーで、1899年に誕生した。それまではミシンや自転車を製造していたメーカーであった。自動車メーカーとしては1999年に100周年を迎え、ドイツではメルセデス・ベンツに次ぐ古参である。
 ちなみに、アウディの創始者であるアウグスト・ホルヒが、自らのガソリンエンジン自動車を作ったのも1899年であった。BMWの創業は1916年だ。フォルクスワーゲンが自動車メーカーとして動き出したのは1937年だが、実質的には戦後「タイプ1(通称ビートル)」が発売されてからのことになる。

■身近な価格と確かな品質がオペルの本質
 歴史ある自動車メーカーでありながら、オペルの国内での知名度は低い。メルセデス・ベンツは「ベンツ」として広く名が知られ、BMWは「ビーエム」と呼ばれ、フォルクスワーゲンは最初の「ビートル」の愛称で人々の間に広く行き渡った。しかし、オペルと聞いて外観を思い出す人はいつの時代も少ない。
 一方、欧州でオペルは、フォルクスワーゲンやフォードと並んで大衆的で質実剛健なクルマを作るメーカーとして知られている。また英国では、ヴォクスホール(Vauxhall)の名で売られ、浸透した。
 オペルは、1909年のドクトル・ヴァーゲン(英語でいえばドクター・カー)で早くも廉価な小型車を作るメーカーとして名をあげた。医者が往診に出かけるときに乗るクルマとして最適との評価を得て、そう呼ばれたのである。
 また、1911年には大きな工場火災を起こしたが、それを糧として消防車を作り、毎分2000リットルの水を供給する高圧ポンプを搭載して、高い評判を得た。クルマの持つ機動性と実利を身近な価格と確かな品質で提供することが、創業の初期からオペルの特徴となっていった。
 背景にあるのは、アダム・オペルという創業者と、その事業を受け継いだ5人兄弟による経営の理念である。

■88年間にわたりゼネラルモーターズ傘下に
 カール・ベンツが世界で最初のガソリンエンジン自動車を発明した1886年以降、20世紀初頭まで、自動車の製造は手作りが中心で、富裕層のための高価な乗り物でしかなかった。しかし、オペルはあえてフランスからシャシーを購入し、それに自社の車体を載せることでより安価な自動車を製造し、事業として成功させる道を選んだのである。その象徴が、ドクトル・ヴァーゲンだ。
 自動車製造を事業化する考え方は、アメリカのヘンリー・フォードの発想に通じる。フォードも自動車を庶民の乗り物とするため、流れ作業による大量生産方式を創案し、フォード「T型」で実現した。
 オペルの5人兄弟の次男と4男はともに渡米経験があり、アメリカでのさまざまな事業化の動きを直接目にしてきた可能性がある。やがてオペルは、1929年にアメリカの自動車メーカー、ゼネラル・モーターズ(GM)の100%子会社となる道を選び、2017年にフランスのPSA(プジョーシトロエン)傘下となるまで、GMの欧州事業をヴォクスホールと共に支えてきた。

■ヤナセの取り扱いにより「アストラ」がヒット
 オペルの特徴は、ドイツ車らしく質実剛健で高い走行性能や品質を備えながら、常に消費者に身近な価格帯の商品に徹することであった。
 しかし、1980年代の日本進出時には、メルセデス・ベンツやBMWと競い合うような上級車種として戦略が練られた結果、ドイツ本社の考えと日本市場での戦略に乖離が生じ、成功しなかった。ほぼ同じ価格帯であるなら、オペルよりメルセデス・ベンツを選ぶのが消費者心理だろう。
 そうした中で、オペルが日本国内で唯一成功したのは、ヤナセがフォルクスワーゲンの輸入・販売権を失い、翌1993年からオペルを主力小型車として量販したときだった。ことにフォルクスワーゲン「ゴルフ」と競合する「アストラ」が街に増えた。
 アストラは、それ以前からゴルフと遜色ない商品力を持つ車種であった。ただ、知名度と販売網が不足して、日本では売れていなかったのである。
 ヤナセは、輸入車販売の老舗としてキャデラックをはじめとしたGMグループのクルマの販売も永年手掛けていた。そんな背景もあり、ヤナセがオペルの販売をはじめると、アストラを中心に販売台数を伸ばしたのである。
 ヤナセが今日も宣伝で使う「クルマはつくらない。クルマのある人生をつくっている」の言葉にあるように、ヤナセの優良顧客はブランドを買ったのではなく、ヤナセが売るクルマを買っていたのであり、それがゴルフからオペルになろうともヤナセへの信頼は揺るぎなかった。

■再参入のターゲットはファミリーと女性
 2000年にヤナセの手を離れ、日本ゼネラルモーターズ(当時)に輸入権が移管するとオペルの売れ行きは再び落ち、2006年に日本市場から撤退。それから14年を経て、いったいオペルはどのように日本市場でクルマを売っていくのだろう。
 現在は、フランスのPSA傘下となっており、PSAで販売される各車と部品を共有する。日本導入に際しては、日本で販売されるPSA車と共有部品の多い車種から検討されることになる。
 日本市場で狙う消費者は「ファミリーと女性」であると伝えられており、コンパクトカーの「コルサ」、ミニバンの「コンボライフ」、そしてSUVの「グランドランドX」となるようだ。
 コルサは、プジョー「208」に近いBセグメントのハッチバックである。コンボライフは昨年、日本でも販売が開始されたプジョー「リフター」やシトロエン「ベルランゴ」と基本コンポーネントを共有する。グランドランドXは、プジョー3008やDSクロスバックなどが兄弟車にあたる。
 いずれの3車種も、ドイツ国内はもとより世界的な売れ筋といえる品揃えだ。同時に、当然ながら競合車も多い。激しい競争の中で、オペルはどのような販売を仕掛けていくのか。

 ここから先は、筆者の仮説である。

■オペルの本質で勝負せよ
 すでに輸入車のなかから、オペルという選択肢が失われたなかで、どのようにその存在を知らしめるか。また、かつて他のドイツ車と同様に、上級志向の装備や価格で失敗した経験をどのように生かしていくかも、問われることになる
 一つのきっかけとなるのは、あえて輸入車との競合を考えるのではなく、日本車と真っ向勝負できる価格で参入することだろう。それは、冒頭で語ったオペルの歴史と、そこで培われた企業理念にも通じる。簡単に言えば、「大衆車としてのドイツ車の価値を訴求すること」だ。
 それに際し、当然ながら装備の見直しが必要になるだろう。たとえば、カーナビは日本仕様としてお金をかけず、Apple CarPlayやAndroid Autoの活用に絞り込む。そしてスマートフォンを見やすい位置に取り付けられるダッシュボード形状とするか、スマートフォン接続を前提としたディスプレイを設置し、スマートフォンの置き場所を確保する。
 カーナビを高度化すれば数十万円のコストとなるので、それを省く発想だ。スマートフォンなら、地図情報の更新も素早く、お金をかけずにできる。

■「買ってもらう」から「使ってもらう」へ
 タイヤも、あえてインチアップした扁平タイヤの装着は見送る。代わりに、車体外装色は魅力的なラインナップを揃える。ことにコンパクトカーのコルサは、たとえばトヨタ「アクア」が導入時に多彩な車体色を揃え、街を華やかにしたようなやり方を真似てもよいだろう。
 あわせて、カーシェアリングの選択肢にオペルを積極的に入れる法人営業を行い、オペルの利用体験者を増やしていく。BMWの「MINI」が、早くからカーシェアリングに参入したように、ここでもオペルの体験者を増やしていく戦略だ。その際も、車体色の豊富さは目立たせるうえで重要だろう。
 次に、販売自体も従来の「買ってもらう」から「使ってもらう」発想に切り替えてはどうだろう。簡単に言えば、リースの比重を増やすことだ。
 たとえば、ボルボ・カー・ジャパンが「スマボ」の名で導入したように、毎月支払う定額料金の中に、車両価格はもちろん、整備費用や保険、内外装が損傷したときの補償までをも料金に含め、クルマを安心して使えるようにすることに徹するのである。
 オペルを選べば、手間いらずで余計な出費を心配せずに済む。多少の傷を気にせず、クルマで外出する便利さを楽しんでもらう。そうした安心を提供するブランドとなれば、ブランディングに余計な活動費を計上せずとも、巷の評判がおのずとオペルを選ぶ動機になっていくだろう。
 それはまさに近年の若い世代の消費動向とつながり、若い家族にも最適だ。今後10年で市場はその傾向をより強めていくはずである。市場の変化を先取りするかたちで、「オペル方式」としてしまうのだ。
 そうした挑戦的思考の販売店に的を絞った募集をしていくことも重要だろう。そのためには、これまでの固定観念から脱却する必要がある。

■テスラが成功したように
 成功の秘訣は、既存の販売網ではできなかったり転換し切れなかったりした売り方のできる事業主を見つけ、保守管理の仕方も見直しながら取り扱い網を構築し、それに見合った品揃えとする。
 電気自動車のテスラが、一つの見本だ。そうした発想を持てるなら、2021年からの再参入を新鮮にはじめることができるに違いない。自動車メーカーとしての歴史は長くても、新しいブランドとして立ちあがる発想である。
 従来通り、ブランドをまず浸透させる発想で、輸入車同士での装備や販売価格帯をみながら再参入したのでは、オペルの未来は必ずしも明るくないだろう。
週刊東洋経済ONLINE

≪くだめぎ?≫
 "オペル「コルサ」"として登場するか、トヨタ党としは大事。

私個人は、トヨペット店「コルサ」や、ましてやトヨペット店「コロナ」は無いだろう・・な。
Posted at 2020/05/08 14:21:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | 車全般 | クルマ

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