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2021年08月26日 イイね!

『保谷連合村』

『保谷連合村』[写真・画像] 旧田無市と旧保谷市
 武蔵野台地のほぼ中央、東京都の西北部に位置する西東京市は、2001年(平成13年)1月21日、田無市と保谷市の合併により誕生しました。
 旧田無市は、江戸時代から青梅街道の宿場町であり、北多摩地区の人々の生活を支える商業の拠点として栄え、旧保谷市は、江戸時代に幕府の開墾対策一環として新田開発された農村から、その後は住宅都市として発展してきました。
 旧保谷市が旧田無市を包み込むという地形の特殊性もあり、合併前から一体的な生活圏を構成していました。
西東京市図書館/西東京市デジタルアーカイブ トップヘージより


新町 (西東京市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(上保谷新田村から転送)
 新町(しんまち)は、東京都西東京市の町。現行行政地名では新町一丁目から新町六丁目までの6町が存在する。住居表示実施済み地区。郵便番号は202-0023[“郵便番号”. 日本郵便. 2018年1月15日閲覧]。

1 地理
 西東京市の南端に位置し、町域は東西に細長い。西東京市発足前の旧保谷市時代には、武蔵野市と旧田無市の隙間に入り込むような区画になっており、保谷市役所よりも武蔵野市役所や田無市役所の方が近いという環境で、行政効率から田無市との合併が求められる要因のひとつだった。東から新町一丁目、東京都道12号調布田無線(境新道、武蔵境通り)を挟んで新町二丁目、市道を挟んで新町三丁目、東京都道253号保谷狭山自然公園自転車道線(多摩湖自転車道)を挟んで新町四丁目、市道を挟んで新町五丁目、市道を挟んで新町六丁目と並んでいる。新町一丁目に武蔵野大学、武蔵野女子学院中学校・高等学校があり、東京都道7号杉並あきる野線(五日市街道)沿いには商業施設が多く、残りは僅かに農地が残る他は住宅地となっている。
 東は深大寺街道を挟んで柳沢、南は五日市街道を挟んで武蔵野市関前・境・桜堤、西も武蔵野市桜堤、北は鈴木街道・旧鈴木街道を挟んで向台町に隣接する。

1.1 河川
・玉川上水
・千川上水

2 歴史
 享保7年(1722年)に江戸幕府が武蔵野新田82ヵ村の開発を命じ[9]、上保谷村の岩城平井伊左衛門によって開発された持添新田が当地の起源である[10][11]。元文元年(1736年)12月に検地が行われて成立した[11]。天保6年(1835年)に上保谷村から分村され上保谷新田村となり、新座郡野方領に属した[10]。

 以下の沿革では、当町の設置以前は上保谷新田について述べる。

・1868年8月27日(慶応4年7月10日) - 武蔵県に所属する。
・1869年2月23日(明治2年1月13日) - 品川県に所属する。
・1871年12月25日(明治4年11月14日) - 品川県のうち上保谷新田を含む新座郡と入間郡が川越県に編入され、入間県が発足。
・1873年(明治6年)6月15日 - 入間県と群馬県(第1期)が合併して熊谷県が発足。
・1876年(明治9年)8月21日 - 熊谷県が分割され、旧入間県は埼玉県に編入される。
・1886年(明治19年) - 上保谷・下保谷・上保谷新田・小榑・橋戸の5村で保谷連合村となる。
・1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、上保谷・下保谷・上保谷新田の3村が合併し、埼玉県新座郡保谷村を設置。旧3村はそれぞれ大字となる。
・1896年(明治29年)3月29日 - 新座郡の北足立郡への編入に伴い、埼玉県北足立郡保谷村上保谷新田となる。
・1907年(明治40年)4月1日 - 保谷村が東京府北多摩郡へ移管され、東京府北多摩郡保谷村上保谷新田となる。
・1940年(昭和15年)11月10日 - 保谷村が町制を施行し、東京府北多摩郡保谷町上保谷新田となる。
・1943年(昭和18年)7月1日 - 東京都制施行により東京都北多摩郡保谷町上保谷新田となる。
・1967年(昭和42年)1月1日 - 保谷町が市制を施行し保谷市となると同時に、町名整理を実施。
 ・上保谷新田の一部に上保谷の一部を合わせて東伏見が設置される(住居表示実施は同年5月1日)[12]。
 ・上保谷新田の一部に上保谷の一部を合わせて柳沢が設置される(住居表示実施は同年5月1日)[13]。
 ・上保谷新田の残存部をもって新町が設置され、同時に住居表示実施[12]。
・2001年(平成13年)1月21日 - 保谷市と田無市が合併し西東京市が発足。西東京市新町となる。

3 交通
3.1 鉄道
 町内に駅・鉄道路線は無い。最寄り駅は田無町四丁目の西武新宿線田無駅または柳沢六丁目の西武柳沢駅、若しくは武蔵野市境一丁目・境南町二丁目のJR中央本線・西武多摩川線武蔵境駅。

3.3 道路
東京都道7号杉並あきる野線(五日市街道)
深大寺街道
東京都道12号調布田無線(境新道、武蔵境通り)
東京都道253号保谷狭山自然公園自転車道線(多摩湖自転車道)
鈴木街道

4 施設
4.1 新町一丁目
・西東京市役所柳橋出張所
・武蔵野大学、武蔵野女子学院中学校・高等学校(向台町一丁目に跨る)
・至誠学舎東京
・柳橋保育園
・東京電力武蔵野支社武蔵野制御所境変電所
4.2 新町二丁目
・阿波洲神社
・日産プリンス西東京
・AOKI
・タックメイト旭屋酒店
・ひらたあや
4.3 新町三丁目
・おおぞら公園
4.4 新町四丁目
・田無警察署保谷新町交番
・TSUTAYA境橋店
4.5 新町五丁目
・新町福祉会館 - 西東京市図書館の図書サービス(貸出・予約窓口)を併設(旧・新町分室)
・ドイトプロ小金井公園店(旧・ドン.キホーテ小金井公園店)
4.6 新町六丁目
・損害保険ジャパン事務本部

5 参考文献・・「角川日本地名大辞典 13 東京都」角川書店、1978年
7 脚注
[9]^ 西東京市Web 年表(保谷版)。
[10]^ a b 「角川日本地名大辞典 13 東京都」221頁。
[11]^ a b 「角川日本地名大辞典 13 東京都」1131頁。
[12]^ a b 「角川日本地名大辞典 13 東京都」1133頁。
[13]^ 「角川日本地名大辞典 13 東京都」1134頁。
8 外部リンク 西東京市Webトップページ
最終更新 2021年6月2日 (水) 00:57 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
  いつもの様に、テキストは既に出ている
「消えた市町村名の謎」 八幡和郎著 2017年7月20日 イースト新書
である。

 埼玉県新座郡の旧保谷村(ほうやむら・旧保谷市)と旧小榑村(こぐれむら)の地区連合体である。明治17年から22年の5年間存在した、今となっては瞬間タッチの様である。 明治22年町村制の施行まで、上保谷・下保谷・上保谷新田・小榑・橋戸の江戸時代からの「ムラ」のままだった。
 旧小榑村が白子川(しらこがわ)流域、旧保谷村が支流の新川流域である。1888年(M21)市制町村制制定、翌年に二手に分かれた様である。
 1878年(M11)郡区町村制法により、大区・小区を廃止、府県の下に郡区町村を設置。町村の役場は戸長役場と呼ばれ、小規模な町村は一カ所の戸長役場の例があり、保谷連合村の連合戸長役場を置いた。後の保谷市役所の基礎となったのだろう。
 「ムラ」→"村"、になる前段階が『連合村・連合戸長役場』だ。

 今回の上保谷新田・改め旧保谷市新町(しんまち)地区は旧田無市と武蔵野市(ともに1893年(M26)神奈川県→東京府・現東京都)の隙間に入り込むような区画になっており、明治時代から田無市との合併が求められる所だったのだろう。結果、
・1907年(M40)4月1日 - 保谷村が東京府北多摩郡へ移管され、東京府北多摩郡保谷村となる。
・2001年(平成13年)1月21日 - 保谷市と田無市が合併し西東京市が発足。西東京市となる。

・上保谷新田(新町、東伏見、柳沢)
・上保谷(住吉町、泉町、中町、富士町、保谷町、東伏見、柳沢、およびひばりが丘北、栄町の一部)
・下保谷(ひばりが丘、ひばりが丘北、北町、下保谷、栄町、東町および住吉町の一部)

保谷町、下保谷の地名があるのが救いである、と言えよう。
Posted at 2021/08/26 19:31:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | 都道府県区市町村 | ニュース
2021年08月24日 イイね!

昭和初期まで「15区」と「郡部」に分かれていた東京

昭和初期まで「15区」と「郡部」に分かれていた東京多摩地域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
[写真・画像]多摩地域
 多摩地域(たまちいき)、多摩地区(たまちく)、三多摩(さんたま)、多摩(たま)とは、東京都のうち、東京都区部(旧東京市)と東京都島嶼部(伊豆諸島・小笠原諸島)を除いた市町村部(26市・3町・1村)のこと。
 おおむね令制国時代の武蔵国多摩郡に相当し、古くは武蔵国の行政の中心地として国府や国分寺が置かれていた。
 東京都民の約3分の1に当たる420万人を超える人々がこの地域に居住している。多摩地域の人口を上回る都道府県は人口の多い順に神奈川県・大阪府・愛知県・埼玉県・千葉県・兵庫県・北海道・福岡県のみである。
 代表的な市町村としては、政令指定都市に相当する人口を有する八王子市[注 1]、中核市に相当する人口を有する町田市・府中市・調布市・西東京市、東京23区と隣接している武蔵野市・三鷹市、国の行政機関を多く有する立川市、多摩ニュータウンを有する多摩市などがある。西東京などとも言われ、住みたい街ランキングで上位に入る事が多い武蔵野市の吉祥寺を筆頭に八王子市以東は東京23区のベッドタウン・郊外エリアとして人気が高い地域である。
最終更新 2021年8月19日 (木) 07:00 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


多摩郡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 多摩郡(たまぐん)は、東京府・神奈川県(武蔵国)にあった郡。

1 郡域
 消滅時の郡域は、東京都中野区・杉並区および多摩地域の大部分(西東京市ひばりが丘[1]・ひばりが丘北・住吉町・栄町・北町・下保谷・東町・中町・泉町・保谷町・富士町・東伏見・柳沢・新町、西多摩郡瑞穂町二本木・高根・駒形富士山・富士山栗原新田を除く)、世田谷区の一部(八幡山、船橋、砧、大蔵、砧公園、岡本、鎌田以西)にあたる。

2 概要
 534年の武蔵国造の乱の後に献上された4つの屯倉のうちの1つ多氷屯倉(おおいのみやけ、歴史的仮名遣:おほひのみやけ)の位置は、「多氷」を「多末」(たま)の誤記として当郡、特に現在の東京都あきる野市付近であると推測されている。
 延喜式には多麻郡の字であらわれ、のちには多磨郡とも書き、「たま」「たば」と読まれた。地名の由来は、丹波が転訛したものだとか、かつて麻が多い地域であったとか、かつて多摩郡を治めた大國魂命(おおくにたまのみこと)によるなど諸説ある。なお、武蔵国の国府が置かれた府中にある総社大國魂神社もかつて多摩郡に属していた地域にある。かつては菅村・中野島村(現在の川崎市多摩区の一部)も含まれたが、菅村は1690年(元禄3年)に、中野島村は1875年(明治8年)に橘樹郡に編入した。
 武蔵国の国府・国分寺および一宮(小野神社、現在の一ノ宮)と二宮(二宮神社)があった。郡衙は東京都府中市にあった。
 文献史料においては、12世紀半ば以降、多摩郡が東西に分けられて多東郡、多西郡と表記されていた例が多く見つかっている。大石学の研究によると、多東郡の初出は1330年、多西郡は1154年である。このような表記は徳川家康の朱印状や検地帳など、極めて重大な文書でも使用されていることから、中近世において多摩郡は多東郡、多西郡に事実上分かれていたと考えられている。多東郡と多西郡の境界については狭山丘陵と見る説、多摩川と見る説がある[2]。なお、1921年から1955年まで、西多摩郡に多西村が存在した。多西村の由来は上記の多西郡によるものと考えられる。
 江戸時代、多くの村が幕府直轄領(天領)や旗本領とされたほか、多くの藩の飛び地が分散し、複数の領主による相給とされた村も少なくなかった。支配関係が錯綜して郡内の一円支配が行われず、直轄領に対する幕府役人の配置も少なかったために農民は自己防衛を行うようになり、剣術がさかんになった。土方歳三、近藤勇らは、こうした環境から世に出ている。
 廃藩置県後は現在の中野区・杉並区が東京府、残部が神奈川県の管轄となった。当初大部分が入間県の管轄となるはずだったが、本郡の一部が横浜に居留する外国人の遊歩区域に含まれるとの神奈川県知事・陸奥宗光の上申により全郡神奈川県管轄とされ、現在の中野区・杉並区の区域のみ東京府に戻された。多摩郡全体が東京府の管轄となったのは郡の分割により本郡が消滅して以降のことで、これは主に東京の上水道水源保全を理由にして、実際には自由党勢力の切り崩しを目的としたものといわれる。

3 歴史
3.1 近代以降の沿革
・明治11年(1878年)
 ・11月2日 - 郡区町村編制法の東京府での施行により、東京府が管轄する区域をもって東多摩郡が発足。
 ・11月18日 - 郡区町村編制法の神奈川県での施行により、八王子横山宿ほか126村の区域をもって南多摩郡が、府中番場宿(府中宿のうち)ほか1町131村の区域をもって北多摩郡が、青梅町ほか1町93村の区域をもって西多摩郡がそれぞれ発足。同日多摩郡消滅。
5 参考文献
・『角川日本地名大辞典』13 東京都、「角川日本地名大辞典」編纂委員会、角川書店、1983年10月27日。ISBN 4040011309。
・旧高旧領取調帳データベース (国立歴史民俗博物館)
・新編武蔵風土記稿、林述斎ほか、江戸幕府、文政 8年。
・菅散歩(一)菅の地名・自然、佐保田五郎、菅散歩出版事務局、平成 9年。
・多摩移管百年展(三多摩東京府移管百周年記念特別展実行委員会)
最終更新 2021年8月13日 (金) 05:31 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 いつもの様に、テキストは既に出ている
「消えた市町村名の謎」 八幡和郎著 2017年7月20日 イースト新書
である。
1878年(M11)郡区町村制法により、大区・小区を廃止、
府県の下に郡区町村を設置。

 東京では"旧江戸市中"を15区に分けて各郡から独立する。
 「郡部」-北豊島郡・南豊島郡・東多摩郡・荏原郡・南足立郡・南葛飾郡
※1896(M29)4.1 南豊島郡と東多摩郡が統合、"豊多摩郡"となる。

・1888年(M21) 47道府県が事実上、確定する。
・同年、市制町村制制定。
 ・東京、大阪、京都の3大都市では
・1889年(明治22年)から1898年(明治31年)までの間、導入した特例
「市制中東京市京都市大阪市ニ特例ヲ設クルノ件」(市制特例)
で市長と助役を置かず、市長の職務は府知事が、助役の職務は書記官が行うなどの特例が定められ、今日でいう「都制度」に近いものが採用。
 47道府県が確定時の「東京府」は現在の"東京23区"とほぼ同じである。
同時に"旧江戸市中"を15区が「東京市」となり、15区がそのまま引き継がれる。

 本書はM22.4.1時の「東京23区の区町村名」の区分地図が掲載されている。
 現在の中野区・杉並区の区域になっている「東多摩郡」が含まれている。
 結果的に"多摩郡"だった残りの地域も、
神奈川県→「東京府」に移管されることに。1893年(M26)4月1日。

・1932年(S7)10.1 最初の「東京府」の残りの"郡部"も合併、
「大東京市」35区が成立。戦後に22区に統合してから、23区に確定する。
 「東多摩郡」も"大東京市"になる見込みをつけ、「東京府」に繰り込まれたとも言える。
 更に、東京都は「東京23区」と「多摩地域」からなることに・・。
Posted at 2021/08/24 21:24:32 | コメント(0) | トラックバック(0) | 都道府県区市町村 | ニュース
2021年08月22日 イイね!

店舗統合による閉店

店舗統合による閉店店舗統合による閉店のお知らせ

ネッツトヨタ青森根城店は、令和4年完成予定「ツインプラザ八戸」の準備のため、城下店と一時統合し営業することとなりました。8月30日(月)をもちまして閉店、8月31日(火)以降は、ネッツトヨタ青森城下店にて各種ご用命賜りますよう、お願い申し上げます。
長きにわたり現在地でご愛顧賜り、暑く御礼申し上げます。ネッツトヨタ青森城下店におきまして、スタッフ一同笑顔でみなさまをお待ちしておりますので、引き続きご利用のほど、お願いいたします。

住所
ネッツトヨタ青森根城店 〒039-1166 八戸市根城5丁目13-19
ネッツトヨタ青森城下店 〒031-0071 八戸市沼館2丁目3-14


≪くだめぎ?≫
 父親がかつて務めていた「旧・青森トヨタ根城マイカーセンター」が閉店することになった。1968年(昭和43年)に「旧・トヨタオート青森根城店」開業で転換した所。トヨタオート青森本社は青森トヨタ本社は同一地であり、現在のネッツ青森でも同じである。トヨタ全店併売化で両社HPも統合された。
 根城店は国道104号線に面しているが、店舗敷地が狭い。昭和末期までに現従業員駐車場と店舗敷地の間の現在は料理学校となっている敷地も使用していた。余計に狭く感じるところである。
 令和4年完成予定「ツインプラザ八戸」は馬淵川向こうの国道454号線に面した元パチンコ屋だった巨大?な敷地に引越。マイクロバス・3トン車もバンバン取り扱える。実態は根城店の引越に城下店が加わる感じ、青森トヨタ城下店の至近だったから。青森トヨタ城下店は最近リニューアルしたばかりだ。
Posted at 2021/08/22 09:38:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | ディーラー・販売店 | クルマ
2021年08月21日 イイね!

大"板橋" 市

大"板橋" 市出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

練馬区(ねりまく)は、東京都の区部北西部に位置する特別区。

[写真・画像] 練馬区役所(2007年3月22日撮影)

 東京23区の中で唯一、特別区を規定した地方自治法の施行後、すなわち、他の22区が東京都の行政区から特別区へ移行した後に新設された区である。板橋区の一部だった旧北豊島郡練馬町・上練馬村・中新井村・石神井村・大泉村の区域が1947年8月1日に分離して発足した。当時、広大な板橋区の区役所までの経路が遠く、著しく不便であったことが分離の要因とされている。板橋区は練馬、石神井に行政派出所(後に支所)を設けたが、行政サービスは極めて限られていたため、西武池袋線沿線を中心として生活する住民の要望にこたえる形で分離された。[練馬区独立60周年記念誌「ねりま60」第二章練馬独立史 - 練馬区 2007年8月1日]
 2007年(平成19年) - 人口70万人に到達。
最終更新 2021年8月10日 (火) 05:14 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 1932年(昭和7年)10月1日に"大東京市"が成立、同時に
大『板橋区』も成立、1947年8月1日に旧北豊島郡練馬町・上練馬村・中新井村・石神井村・大泉村の区域が分離して現「練馬区」発足した。7月の推計人口75万人であり、大『板橋区』だったら政令指定都市を目指しても無理に話ではないだろうが・・。
 小学校維持にも苦労した小榑(こぐれ)村の事を考えれば、隔世の感か?
Posted at 2021/08/21 17:38:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | 都道府県区市町村 | ニュース
2021年08月21日 イイね!

「武藏國」(むさしのくに)は近世版"首都圏"

「武藏國」(むさしのくに)は近世版"首都圏"[写真・画像] 株式会社TOKYO TOWER より


≪くだめぎ?≫
 いつもの様に、テキストは既に出ている
「消えた市町村名の謎」 八幡和郎著 2017年7月20日
 イースト新書
である。

■『武藏國』(むさしのくに)
郡別は「消えた市町村名の謎」、説明は フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

・埼玉県
旧中葛飾郡を除く全域
・東京都
特別区(23区)
多摩地域
・神奈川県
川崎市
横浜市
大部分(横浜市のうち一部は相模国の鎌倉郡に属していた。

 江戸幕府開府以後は徳川政権のお膝元となり、日本政治の中心地となった所。
 明治維新時の廃藩置県では行政区域が細分化され、『武藏國』(むさしのくに)は"解体"されたカタチ。

 仮に『武藏國』(むさしのくに)の範囲が維持それていたなら、都道府県より大きい"道州制"で、武蔵道(むさしのしゅう)または首都圏(しゅとけん)などと称して、少子化での県吸収も進んだかも。
 私は「政令指定都市」化で都道府県廃止が地方自治が進むと思うが。少なくとも、政令指定都市は、道路の管理に関して県と同等の権利を有し、指定区間以外の国道維持管理も担当しているから、可能性は無くはない。
Posted at 2021/08/21 17:05:48 | コメント(0) | トラックバック(0) | 都道府県区市町村 | ニュース

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何シテル?   04/02 16:02
 「昔々、有ったとさ、 『トヨタディーゼル店』、『トヨタパブリカ店』、『トヨタオート店』、『トヨタビスタ店』・・・」。      身長165cm・体重6...
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