
守山城 (尾張国)
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[写真・画像]
(上)守山城址の碑: 撮影日: 2011年9月19日
(中)名古屋市守山図書館にある、模型(同図書館提供): 2018年6月9日
(下)宝勝寺: 2017年1月2日
守山城(もりやまじょう)は、尾張国守山、現在の愛知県名古屋市守山区市場にあった日本の城である。
1 概要
1526年(大永6年)、連歌師宗長が館で松平信定新知行祝の千句連歌会を催し、「花にけふ風を関守山路哉」と守山を詠んだ発句が宗長手記・下巻に記されておりこれが「もりやま」が「守山」と記された初見である。
『徳川実紀』や『三河物語』などによると、1535年(天文4年)には織田信秀の弟信光(松平信定の娘婿)の居城となっていたが、松平清康が尾張侵略を企てた結果、世に言う「守山崩れ」が起こる(詳細は「森山崩れ」を参照のこと)。
『信長公記』によると、1555年(弘治元年)、信長・信光により清洲織田氏(織田大和守家)の織田信友が滅ぼされた後、信光が清洲城に入った信長より譲られた那古野城に移ると、代わりに信光の弟の信次が入った。しかし早々に家臣洲賀才蔵が信長の弟秀孝を殺害するという事件を起こしたために出奔。城下は、信長の弟で秀孝の兄である信行(信勝)の兵により焼き払われた。城には信次の重臣角田新五らが立てこもり続けていたが、佐久間信盛の働きにより信長の異母弟信時を城主とすることで決着した。しかし、信時は他の家臣を重用したため角田新五により切腹させられ、城には再び新五一派が立てこもった。その後、帰参を許された信次が城主に復帰。信次は天正2年(1574年)、長島一向一揆戦において戦没した。
天正元年(1573年)、浅井長政がお市の方の兄である織田信長と対立し、小谷城が攻め落とされ、長政らは自害し浅井氏は滅亡する。國學院大學の宮本義己の研究により、お市の方と茶々、初、江の三姉妹は信次に預けられ、守山城に一年間程滞在していたことが明らかとなった(『渓心院文』)[1]。
廃城の時期は、桶狭間の戦いの後とも、後に城主に返り咲いたという信次の死後とも、長久手の戦いの後とも言われる。
2 守山城の略年表
築城年、築城者ともに詳細は不明であるが、大永年間(1521年〜)には今川・松平方の城として存在していたとされる[2]。
和暦 西暦 主な出来事
・大永6年 1526年
3月27日連歌師の柴屋軒宗長がこの城を訪れ連歌の会を開催(『宗長手記』)。守山の初見。
「尾張の国守山松平与一館千句(中略)新地の知行、彼是祝言にや」松平信定が新たに守山を所領し、すでに一定の格式を持った城館があったと推定。
・天文2年 1533年
11月には仁和寺の尊海僧正が美濃の井口からやな・でんがくくぼを通って「守山といへる所に泊まりて」との記録。
(あづまの道の記 群書類従三三九巻)守山城に宿泊したと推定される[3]。
・天文4年 1535年
12月、守山の陣中において清康が家臣阿部弥七朗に斬殺される(「守山崩れ」)。
当時の守山城主は織田信光。
・弘治元年 1555年
城主は、その後信次(信長の弟秀孝を誤殺し逃亡※)信行が守山城下に放火、織田信長が清州から駆け付ける。
柴田勝家らに守山城が包囲される (『信長公記』)。
・天正元年 1573年
お市の方と三人の娘(茶々、初、江)が信次に保護され、守山城に1年間程滞在することとなる(『溪心院文』)。
・明和4年 1767年 矢田川氾濫により瀬替え。陸続きであった長母寺が守山台地から切り離される。
3 遺構
平山城で、『尾州古城志』によると、規模は東西に約58メートル、南北に約51メートル、四方には堀がめぐらせてあったと言われる[4]。
河村秀根本では一重堀、奥村徳義本では二重堀とされている[5]。
城跡とされる丘には、後に清康のために建立された寺院(「宝勝寺」)が存在するほか、城址碑が建てられている。遺構は寺院の裏手の竹薮にある空堀をはじめ、本丸があったとされる土壇の一部などが残されている。
4 交通アクセス・・・名鉄瀬戸線 矢田駅より北へ徒歩で約10分。
5 脚注
5.1 注釈
[† 1]^ 一説には桶狭間の合戦後ともいわれるが、築城と同様、廃城時期を特定できる史料は見つかっていない。『織田信雄分限帳』(天正年間)に「九百貫文 モリ山 津田孫十郎」とあることから、守山城が存続築城から廃城までの期間は50年ほどと考えられている。
5.2 出典
[1]^ 宮本 2010, p. 74.
[2]^ “名古屋市:守山城跡(守山区)”. 名古屋市公式ウェブサイト. 名古屋市 (2017年3月9日). 2018年6月9日閲覧。
[3]^ 『守山市史』
[4]^ 守山区制50周年記念事業実行委員会 2013, p. 75.
[5]^ 守山市史編さん委員会 1963, p. 45.
6 参考文献
・『守山市史』守山市史編さん委員会、守山市役所、1963年2月1日。
・宮本義己 『誰も知らなかった江』 毎日コミュニケーションズ、2010年。
・『守山区誌』守山区制50周年記念事業実行委員会、守山区制50周年記念事業実行委員会、2013年2月10日
8 外部リンク 守山城跡 名古屋市公式ウェブサイト
最終更新 2022年2月11日 (金) 09:43 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
守山市 (愛知県)
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守山市(もりやまし)は、かつて愛知県に存在した市。
現在の名古屋市守山区に該当する。昭和の大合併で、愛知県では唯一廃止された市である[注 2]。名古屋市のベッドタウンとして発展したが、守山市が誕生してすぐに名古屋市と合併の動きがあり、市として存在した期間は9年程である。
庄内川、矢田川沿いに位置し、東部は標高100m前後の丘陵地帯である。「守山」は「森山」が転じた地名と推測され[注 3]、近世以前は「森山」と表記される文献もある。
同名の市として滋賀県守山市があるが、滋賀県守山市は1970年に市制施行であり、重複とはなっていない。
守山市 もりやまし
廃止日 1963年2月15日
廃止理由 編入合併
現在の自治体 名古屋市
廃止時点のデータ
地方 中部地方、東海地方
都道府県 愛知県
市町村コード なし(導入前に廃止)
面積 33.99km2.
総人口 67,786人(1963年)
隣接自治体 名古屋市[注 1]、春日井市、瀬戸市、東春日井郡旭町、愛知郡長久手村
守山市役所
所在地 愛知県守山市大字守山字茶臼15番地[1]
座標 北緯35度11分49秒 東経136度57分19秒
1 地理
1.1 隣接する自治体
・名古屋市 北区 東区 千種区[注 4]
・春日井市
・瀬戸市
・東春日井郡旭町
・愛知郡長久手村
2 歴史
・戦国時代初期、尾張国山田郡が分割され、春日井郡と愛知郡に編入される[注 5]。
・1521年(大永元年) - 松平信定により、守山城が築かれる[2]。
・1535年(天文4年) - 三河国岡崎城主・松平清康が、守山城で家臣の阿部正豊に暗殺される[2](森山崩れ)。
・江戸時代、この地域は尾張国春日井郡であり、尾張藩領であった[3]。
・1878年(明治11年) - 大森垣外村と牛牧村が合併し、大森垣外村となる[4]。
・1880年(明治13年)2月5日 - 春日井郡が東春日井郡と西春日井郡に分割され、この地域は東春日井郡となる。
・1889年(明治22年)10月1日 -
守山村、川村、金屋坊村、大森垣内村、大永寺村が合併し、二城村となる[5]。
幸心村と瀬古村が合併し、高間村となる[6]。
大森村と森孝新田が合併し、大森村となる[7]。
・1897年(明治30年) - 旧日本陸軍第3師団第5旅団歩兵第33連隊が名古屋市中区から移駐。
・1906年(明治39年)7月16日 - 二城村、高間村、大森村、小幡村が合併し町制施行。守山町となる[2]。
・1954年(昭和29年)6月1日 - 東春日井郡志段味村を編入。即日市制施行し、守山市となる(愛知県下18番目の市)[2]。
・1963年(昭和38年)2月15日 - 名古屋市に編入される(名守合併)。名古屋市13番目の区の守山区となる[2]。
2.1 名古屋市への編入への経緯
・1951年(昭和26年)、当時の守山町長により、守山町は市制移行事項を議会に提案し可決される。1953年(昭和28年)には守山町、旭町、志段味村の2町1村での合併、市制が計画される。しかし、旭町は単独市制を望み離脱[注 6]。そのため、守山町と志段味村とで合併し、守山市となる。
・1955年(昭和30年)、第1回市議会議員選挙の結果、名古屋市との合併を推進する議員多数を占めることとなる。また、住民からも名古屋市との合併を望む声が多かったため、1960年(昭和35年)に住民投票を実施して合併の賛否を問うことが決定する。しかし、1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風の被災復興のため、延期となる。
・1961年(昭和36年)10月、住民に世論調査を行い、名古屋市との合併に賛成が81.94%に及ぶ。この結果を踏まえて、1962年(昭和37年)1月に守山市は名古屋市への合併を申し入れる。同年9月に名古屋市議会は合併受け入れを議決する。
5 公共機関など
・国立療養所志段味荘(現・国立病院機構東尾張病院)
・守山市立守山市民病院(現・名古屋市立東部医療センター守山市民病院→守山いつき病院)
・守山警察署
・自衛隊守山駐屯地
6 交通
6.1 鉄道
・名古屋鉄道瀬戸線
守山市駅(現:守山自衛隊前駅) - 瓢簞山駅 - 小幡駅 - 小幡原駅[注 7] - 喜多山駅 - 大森駅(現:大森・金城学院前駅)
・名古屋鉄道小牧線 ※通過のみ[注 8] 。
・国鉄中央本線 ※通過のみ[注 9]
7 名所・旧跡
・生玉稲荷神社
・勝手社
・龍泉寺
・志段味古墳群
尾張戸神社古墳
白鳥塚古墳
白鳥古墳群
志段味大塚古墳
東大久手古墳
西大久手古墳
・勝手塚古墳
・守山城址
・志段味城址
9 脚注
9.1 注
[注 1]^ 1955年までは同年に名古屋市に編入された楠村・猪高村とも隣接していた。
[注 2]^ 愛知県では、平成の大合併で尾西市が廃止されている。
[注 3]^ 江戸時代に記された「尾張国地名考」には、続日本紀に『和銅3年正月初て守山戸を充て諸山の木を伐ことを禁むとあれば爰も古へ山守を置かれたる所歟。』との記述があり、これが「守山」の地名の由来としているが、定かではない。
[注 4]^ 守山市の名古屋市編入から12年後の1975年(昭和50年)に千種区から名東区が分区した。
[注 5]^ 山田郡分割時期は不明。1496年(明応5年)の文献には山田郡の名は記載されているが、1524年(大永4年)の文献には山田郡の名は記載されていないこと、太閤検地では山田郡は記載されていない事から、1500年頃と推測される。
[注 6]^ 旭町は1970年(昭和45年)12月1日に単独で市制施行。尾張旭市となる。
[注 7]^ 1944年休止、1969年廃止
[注 8]^ かつては瀬古駅が存在したが、1942年4月1日以前に廃止。
[注 9]^ 名古屋市守山区となった後の1964年(昭和39年)4月1日に新守山駅が開業した。なお、守山市であった1959年(昭和34年)1月には、地元住民による守山駅設置地元対策協議会が発足し、守山市議会には中央線守山駅対策委員会が組織され、1960年(昭和35年)に建設が開始される。
9.2 出典
[1]^ 愛知県守山市役所 1963, p. 奥付.
[2]^ a b c d e 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 1989, p. 1341.
[3]^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 1989, p. 1340.
[4]^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 1989, p. 297.
[5]^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 1989, p. 1024.
[6]^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 1989, p. 785.
[7]^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 1989, p. 296.
10 参考文献
・「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 23 愛知県』角川書店、1989年。ISBN 4-04-001230-5。
・『守山市史』愛知県守山市役所、愛知県守山市役所、1963年2月1日(日本語)。全国書誌番号:63003506。
12 外部リンク
マイホームタウン守山 - ウェイバックマシン(2019年1月1日アーカイブ分)(守山歴史散歩)
最終更新 2021年12月10日 (金) 05:53 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
■なぜ、同名の市町村が各地にあるのか
住んでいる町村が市制施行すると便利な面のひとつが、住所に都道府県名を書かなくても市名だけで通用することです。郵便番号制度ができてからは、それほど大きな違いはなくなりましたが、それ以前は同じ市名はどこにもなかったため、頻繁に郵便物を扱う職業の人なら、市名を聞けばどこの県にあるかすぐにわかるのがふつうでした。
1970(昭和45)年の自治事務次官通知で「市の設置若しくは町をしとする処分を行う場合において、当確処分より新たに市となる普通地方公共団体の名称については、既存の市の名称と同一となり又は類似することとならないよう十分配慮すること」としていますが、それ以前も、できるだけ避けられていました。P23
■同名の市がほかの地域に現れた例
同時に複数の市名が存在することは認められませんが、かつてあった市名との同名は認められています。
名古屋市守山区は1963(昭和38)年まで守山市でした。滋賀県野洲郡守山町は1970(昭和45)年に市制施行しましたが、そのときは愛知県守山市は消えていたため、「近江守山市」「西守山市」とはならず、守山市が誕生しました。
愛知県と滋賀県では距離が近いため、しばらく混同されることがあったようです。法律上は消えた市名であっても、人々の記憶からなかなか消えません。P25
以上2つとも 「消えた市町村名の謎」八幡和郎 イーストプレス 2017年7月20日発行
≪くだめぎ?≫
"愛知県守山市(もりやまし)"(1954年6月~1963年2月)、
現・滋賀県守山市(1970(昭和45)年~)
、と近距離での存在は近辺では、勘違いなどが起こるだろう、遠くの地に住むモノにとっても、そう思う。私の大学の先輩が滋賀県守山市出身であって、地名はよく覚えていたが、名古屋市守山区の存在を知ったのは、だいぶ後になってから。このことが事務次官の言葉を生む切っ掛けか・・・。