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2022年05月07日 イイね!

種村直樹『汽車旅文庫』

種村直樹『汽車旅文庫』津軽鉄道に新たな名所! 種村直樹『汽車旅文庫』開館!
 11月13日、津軽鉄道津軽飯詰駅に「レイルウェイ・ライター種村直樹『汽車旅文庫』」が開館しました。鉄道作家の故・種村直樹氏が執筆し、これまで保管されていた約3,000冊の鉄道書籍や資料が並ぶほか、種村氏が実際に使用していた机を設置した書斎が設けられ、初日は県内外から関係者やファンが約70名訪れ、にぎわいました。
 2014年の種村氏の死後、読者の会のメンバーらが協力し、書斎に残った多くの蔵書を後世に残そうと全国数カ所の鉄道関連施設に寄贈。関係者を通して縁があった津軽鉄道には段ボール100箱分の書籍や机が届き、飯詰地区の住民グループ「飯詰を元気にする会」(岡田千秋会長)が東北職業能力開発大学校青森・秋田校の協力を得て展示準備を進めてきました。
 開館式が行われた日は津軽鉄道が全線開業した日でもあり、式典を主催した同社の澤田長二郎代表取締役社長が「津軽鉄道全線開業日に汽車旅文庫開館を迎えることができ、津軽鉄道の魅力が大きく増したと思う。これから津軽鉄道が多くの人の出会いの場になれば」とあいさつ。続いて佐々木市長が「津軽鉄道は昭和5年の開業以来、地域の人々の足など重要な役割を担ってきた。開館を機にファンの聖地となることを願っている」と話しました。
 -種村直樹(たねむらなおき)-
 1936年、滋賀県大津市出身。京都大学卒業後、毎日新聞記者として国鉄などを取材し、73年にフリーに転身。「レイルウェイ・ライター」を名乗り、汽車旅をテーマに執筆活動を行う。主な著書は「気まぐれ列車で出発進行」「きしゃ記者汽車」「遥かなる汽車旅」など多数。74年には読者の会「種村直樹レイルウェイ・ライター友の会」が結成された。2014年、78歳で死去。
広報ごしょがわら1月号


飯詰を元気にする会のホームページです。
青森県五所川原市飯詰という人口1500人ほどの集落ですが昔は城下町として栄えたという歴史があり、大きな自然と温かな人情があふれた、いいところです。そんな飯詰で、2012年、みんなで元気になろうという仲間が集まりました。いろいろイベントを開催していますので飯詰の方もそうでない方もどうぞ
ご参加ください。
【新着情報】
ゴールデンウィーク中の開館日決定!
津軽鉄道津軽飯詰駅博物館&レイルウェイライター種村直樹の汽車旅文庫開けます
4月29日・5月1日・5月3日~5日 時間10時~14時
飯詰を元気にする会の会員・種村直樹さんの友の会の有志の方が留守番しています。
 地元の方々も、観光でみえられた方もどうぞ一度ご覧ください。(マンガもありますよ)

2021年11月13日(土)
 レイルウェイライター種村直樹「汽車旅文庫」開館します。
 知る人ぞ知る「種村直樹」さんは汽車旅をしてそれを本にしたり、鉄道雑誌に記事を書き、その蔵書は7000冊もありました。
 その蔵書を多くの方に見ていただきたいということで、各地に置いているそうです。その中の3200冊が飯詰駅駅務室に来るのです(今までで一番種村さんの本の数が多い場所になるそうです)
 種村さんの本に「津軽飯詰駅」が出てくるのです。本当にこのホームに降り立ったんだ・・・とちょっと
 ウルウルしそうになりました。その方の文庫がここに・・・。
 それに種村さんが使っていたデスクもやってきます。

11月13日(土)は10時より津軽飯詰駅ホームにて「汽車旅文庫」の開館スタート式典をいたします。
興味のある方は是非いらしてください。
 2022.0507(土)閲覧


 お知らせ
津軽鉄道津軽飯詰駅に、「レイルウェイ・ライター種村直樹 汽車旅文庫」が開館しました。
足立区竹の塚のレイルウェイ・ライター事務所にあった蔵書のうち、3000冊余りが、津軽鉄道津軽飯詰駅に引っ越しました。駅舎内の展示スペースに収められ、自由に閲覧できます。ホームを見渡す窓辺には、原稿を執筆していたデスクや椅子も展示されています。
全線開業90+1周年を迎えた津軽鉄道とともに、新しい歩みを始めます。
毎月第3日曜にオープン予定で、臨時開館や休館もございます。詳しくは、「飯詰を元気にする会」のHPをお訪ねください。開所式典の様子などもご覧いただけます。
https://iidume.jimdofree.com/
また、各方面でご紹介いただいております。
東奥日報(なびたび北東北)
陸奥新報
河北新報(動画あり)
毎友会(毎日新聞OB交流サイト)HP
広報ごしょがわら1月号[PDF]
東北鉄道協会HP
日本民営鉄道協会HP
関東民鉄協会 かんとうみんてつ公式Twitter
津軽半島観光アテンダントHP、飯詰を元気にする会HPで、現地の様子をご覧いただけます。
併せてお楽しみください。
津軽半島観光アテンダント
飯詰を元気にする会
種村直樹公式ホームページ より


≪くだめぎ?≫
 日時限定とは言え、種村直樹『汽車旅文庫』開館が定期的に行われる。現在40代なら読者だったから分かるはず、私の父親とほぼ同年齢。鉄道ジャーナル誌・旅と鉄道に連載されていた。
Posted at 2022/05/07 16:14:17 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道 | 旅行/地域
2022年05月07日 イイね!

『埼玉県新座郡上保谷村(かみほうやむら)』

『埼玉県新座郡上保谷村(かみほうやむら)』◇東伏見駅
 東伏見駅(ひがしふしみえき)は、東京都西東京市東伏見二丁目にある、西武鉄道新宿線の駅。駅番号はSS15。
ひがしふしみ Higashi-Fushimi
◄SS14 武蔵関 (1.2 km)
(1.0 km) 西武柳沢 SS16►
所在地 東京都西東京市東伏見二丁目5-1
北緯35度43分43.3秒 東経139度33分51.3秒
所属事業者 西武鉄道所属路線 ■新宿線 駅番号 SS15
キロ程 15.3 km(西武新宿起点)
駅構造 地上駅(橋上駅) ホーム 2面4線
乗降人員-統計年度- 17,179人/日-2020年-
開業年月日 1927年(昭和2年)4月16日
備考 ホーム有効長は10両編成分。

1 歴史
 西武鉄道の上保谷の開発計画は早稲田大学の誘致運動に始まる。まだ鉄道も開通していない1925年(大正14年)、西武鉄道(旧)は早稲田大学に対して上保谷に所有していた土地約2,500坪の寄付の申し出をし、その土地を大学は総合運動場として各体育部に利用させることに成功した。
 さらに1927年(昭和2年)に上保谷(東伏見)駅が開業すると同時に分譲地の販売を開始した。分譲地は1区画100坪から300坪の間で3年 - 10年の月賦払いで販売し、入居してから1年間は鉄道の無料パスを進呈したという。なお、ここは長者園と呼ばれていた。
 そして次に行ったのが伏見稲荷神社の勧請である。東伏見稲荷神社には西武鉄道所有の約7,000坪の土地の無償貸与と移転にかかる費用のうち3万円を提供し、御祭神には貴賓車を仕立てた特別列車を運行した。
 西隣の西武柳沢駅と比較してみると、1928年(昭和3年)度は18,840人と28,335人で西武柳沢駅の方が多かったが、1929年(昭和4年)度以降は東伏見駅が逆転し、1933年(昭和8年)度には113,860人と22,631人になっている。

1.1 年表
・1927年(昭和2年)4月16日 - 上保谷駅として開業。
・1929年(昭和4年)11月20日 - 東伏見稲荷神社の設立により、東伏見駅に駅名を変更。
・1983年(昭和58年)3月24日 - 島式ホーム2面3線を島式ホーム2面4線に変更。同日、橋上駅舎使用開始[1]。
・1993年(平成5年)6月11日 - 自動改札機の使用を開始。
・2003年(平成15年)9月30日 - バリアフリー化完成[2]。
・2012年(平成24年)6月30日 - ダイヤ改正による見直しで昼間時間帯の準急廃止に伴い、優等列車はデータイム通過駅となる

2 駅構造
 島式ホーム2面4線の地上駅で橋上駅舎を有している。外側2線(1番・4番ホーム)が待避線となっている。元々は田無駅と同様に、上下線の間に待避線1線を設けた2面3線の形態であった。待避線では各停・準急・回送が上位優等列車の通過を待避し、緩急接続はしない。
 各ホームと改札内コンコース、南口・北口地上部と改札外コンコースをそれぞれ連絡するエスカレーター・エレベーターが設置されている。トイレは改札内コンコース部にあり、多機能トイレを併設する。
 構内店舗としてコンコース部にTOMONY[3]、ゆうちょ銀行ATM[4]があり、南口地上部にはクリーニング店がある[5]。
 駅の高架化計画があり、高架化後も島式ホーム2面4線となる予定[6]。
2.1 のりば
ホーム 路線 方向 行先
1・2 新宿線 下り 所沢・本川越・拝島方面
3・4 〃 上り 高田馬場・西武新宿方面

3 利用状況
 2020年(令和2年)度の1日平均乗降人員は17,179人であり、西武鉄道全92駅中46位[7]。練馬区と西東京市の市区境付近に立地するために、練馬区側からの利用もある。

4 駅周辺
「東伏見」および「関町北」も参照
 駅周辺はおおむね閑静な住宅街である。大規模なマンションは立地していないが、2000年代以降はITなどのインフラを整備した学生向けアパートの建設も進んでいる。また、かつてのSEIBUプリンス ラビッツの本拠地として、地元商店街はのぼりなどで応援している。
4.1 北口
4.2 南口
4.3 バス路線
4.3.1 北口
西東京市東伏見ふれあいプラザ
保谷富士町郵便局
新青梅街道(東京都道245号杉並田無線)
富士街道(東京都道8号千代田練馬田無線)
きらぼし銀行 東伏見・保谷支店
東京三協信用金庫 東伏見支店
4.3.2 南口
東伏見稲荷神社 - 京都府の伏見稲荷大社の分祀。
ダイドードリンコアイスアリーナ(東伏見アイスアリーナ)
武蔵関公園
都立東伏見公園
下野谷遺跡公園
石神井川
早稲田大学 東伏見キャンパス・東伏見グラウンド・東伏見スポーツホール
NTT武蔵野研究開発センタ(通称:電気通信研究所)
青梅街道(東京都道4号東京所沢線・東京都道5号新宿青梅線)
田無警察署 東伏見交番
保谷東伏見郵便局

バス路線
 西武バス(上石神井営業所、滝山営業所)と関東バス(武蔵野営業所)により運行される以下の路線が発着する。
かつては南口に武蔵境駅行きのバス(境01:西武バス)が朝夕に数本発着するのみだった。
 北口
1番のりば
吉66:武蔵関駅入口経由 吉祥寺駅行き ※ 西武バス
保02:西武車庫行き ※ 西武バス
吉66・保02:保谷駅南口行き ※ 西武バス
西東京市はなバス第2ルート:保谷庁舎行き / 保谷庁舎経由 ひばりが丘駅行き ※西武バスが受託運行
2番のりば
鷹15:武蔵野営業所経由 三鷹駅行き(休日運休) ※ 関東バス
南口 西東京市はなバス第3ルート:田無駅行き ※ 西武バスが受託運行

5 隣の駅
西武鉄道 SS 新宿線
 通過 ■拝島ライナー・■快速急行・■通勤急行・■急行
■準急・■各駅停車
武蔵関駅 (SS14) - 東伏見駅 (SS15) - 西武柳沢駅 (SS16)

6 脚注
[1]^ 『写真で見る西武鉄道100年』(ネコ・パブリッシング)97ページ
[2]^ “9月30日(火)東伏見駅のバリアフリー化完成 ◎エレベーター4基、エスカレーター4基、多機能トイレ1ヵ所を備えた“人にやさしい駅”となります。” (日本語) (PDF) (プレスリリース), 西武鉄道, (2003年9月29日), オリジナルの2005年2月12日時点におけるアーカイブ。 2022年3月26日閲覧。
[3]^ 販売店一覧 - 西武鉄道
[4]^ 本店 西武新宿線東伏見駅出張所 - 日本郵政「郵便局・ATMをさがす」
[5]^ 東伏見駅の店舗情報[リンク切れ] - 西武プロパティーズ
[6]^ 西武鉄道新宿線(井荻駅 - 西武柳沢駅間)連続立体交差化計画および関連する道路計画について (PDF) - 東京都都市整備局、p.5、2019年3月21日閲覧。
[7]^ 駅別乗降人員(2020年度1日平均) (PDF) - 西武鉄道
[8]^ 練馬区統計書 - 練馬区
[9]^ 統計書 - 西東京市
[10]^ レポート - 関東交通広告協議会
[11]^ 東京都統計年鑑 - 東京都

7 出典
東京都統計年鑑(平成2年~平成31年・令和元年)
8 参考文献
『保谷市史 通史編3 近現代』1989年、941-952頁
『保谷市史 史料編4 近現代2』1987年、510-514頁
9 関連項目
東伏見稲荷神社
都立東伏見公園
10 外部リンク 東伏見駅(駅情報) - 西武鉄道
最終更新 2022年3月26日 (土) 04:20 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


◇東伏見
 東伏見(ひがしふしみ)は、東京都西東京市の町名。現行行政地名は東伏見一丁目から東伏見六丁目。住居表示実施済み区域である。郵便番号は202-0021[3]。
都道府県 東京都
市町村 西東京市、地域 保谷地域
設置年月日 2001年1月21日
住居表示実施年月日 1966年5月1日
面積[1]• 合計 0.66 km2
人口(2018年(平成30年)1月1日現在)[2]
• 合計 5,187人、• 密度 7,900人/km2
郵便番号 202-0021[3]、市外局番 042[4]

1 地理
 西東京市の南東部に位置する。北は西武新宿線を挟んで富士町、東は練馬区関町北、南は武蔵野市緑町、西は柳沢に隣接する。北西から時計回りに東伏見一~六丁目が設置されている

1.1 河川・・石神井川
1.4 地価
 住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、東伏見3-2-19の地点で35万1000円/m2となっている。西東京市で最も地価が高い[6]。

2 歴史
 明治以前には、武蔵国新座郡上保谷村に属していた。旧保谷市地域である。
2.1 地名の由来
 町内にある東伏見稲荷神社にちなむ[7]。なお、町名の案として、東伏見の他に「伏見町」「稲荷町」「伏見南町」が挙がっていた[8]。
2.2 沿革
・1966年(昭和41年)5月1日 保谷町が町名整理を実施。
 大字上保谷の小字下柳沢(一部)、千駄山(一部)、下野谷、坂上、上柳沢(一部)に大字上保谷新田の小字坂上(一部)を合わせて東伏見が設置される。
・2001年(平成13年)1月21日 保谷市と田無市が合併して西東京市発足。西東京市東伏見となる。

3 交通
3.1 鉄道・・二丁目に西武新宿線東伏見駅がある。
3.2 バス・・地域内を西武バス・関東バス、及び西東京市コミュニティバス「はなバス」が通る。
3.3 道路
東京都道4号東京所沢線(青梅街道)
東京都道7号杉並あきる野線(五日市街道)
多摩南北道路1号線(調布保谷線)(伏見通り)

4 施設
教育
早稲田大学東伏見キャンパス
早稲田大学東伏見運動場
西東京市立東伏見小学校
その他
東伏見稲荷神社
東伏見アイスアリーナ
東伏見公園

5 史跡・・下野谷遺跡
6 関連項目
西東京市
上保谷村

7 参考文献
『角川日本地名大辞典 13.東京都』角川書店、1978年
『新旧対照町名 - 東京市町名沿革史 -』明治文献、1974年

8 脚注
[1]^ a b “平成22年 東京都区市町村町丁別報告”. 東京都 (2014年12月25日). 2018年1月22日閲覧。
[2]^ a b “人口・世帯数”. 西東京市 (2018年1月10日). 2018年1月15日閲覧。
[3]^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2018年1月15日閲覧。
[4]^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2018年1月15日閲覧。
[5]^ “市立小・中学校通学区域”. 西東京市 (2017年9月7日). 2018年1月15日閲覧。
[6]^ 国土交通省地価公示・都道府県地価調査
[7]^ 角川日本地名大辞典 13.東京都 P1133
[8]^ 保谷町広報第62号 1964年7月30日
9 外部リンク・・西東京市
最終更新 2022年4月26日 (火) 08:21 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


◇上保谷村
 上保谷村(かみほうやむら)は、かつて埼玉県新座郡に存在した村。1889年(明治22年)、町村制施行に際して廃された。その後、旧村域は北足立郡を経て、東京府北多摩郡に編入されている。
 現在の東京都西東京市東南部(住吉町、泉町、中町、富士町、保谷町、東伏見、柳沢、およびひばりが丘北、栄町の一部)に相当する。

1 地理
 上保谷村は新川沿いに開けた集落である。新川の水量は少ないため、水田は少なく畑が多かった。

2 歴史
 「保谷市」も参照
 村の起源は明らかでないが、伝承では、1081年(永保元年)に新倉の住人板倉四郎左衛門のもと保谷・下田・岩崎・中村・野口・桜井の六氏(保谷六苗)により開発されたとされている[1]。初期の村域は現在の住吉町・泉町地域だったと考えられ、村の惣鎮守の尉殿権現(現尉殿神社)や保谷四軒寺と呼ばれる寺院もこの地域に集中している。
 その後、享保期(1716年 - 1735年)以降に現在の新町の地域が開墾され、後に上保谷新田村として独立した。なお、江戸期、村は3つの組に分かれ、それぞれに名主と組頭を置き、村内の有力農民が交代でこれらの役に就いていた[2]。
2.1 年表
・1884年(明治17年)4月1日 - 連合戸長制施行。
上保谷村、下保谷村、上保谷新田村、小榑村、橋戸村の5箇村で保谷村連合となる。
・1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、明治の大合併が起こる。
上保谷村、下保谷村、上保谷新田村の3箇村が合併し、埼玉県新座郡保谷村が成立、上保谷村は消滅する。
小榑村と橋戸村の2箇村も合併し埼玉県新座郡榑橋村となる。
・1896年(明治29年)3月29日- 新座郡が北足立郡へ編入、保谷村も北足立郡の所属となる。
・1907年(明治40年)4月1日- 埼玉県北足立郡より東京府北多摩郡に移る。
・2001年(平成13年)1月21日- 保谷市と田無市が合併し、西東京市が発足する。

3 寺院・神社
尉殿神社 (上保谷村の惣鎮守、尉殿権現)
寳晃院
寶樹院
如意輪寺
東禅寺

4 史跡
下野谷遺跡 (旧石器時代、縄文時代の遺跡)
東伏見稲荷神社遺跡 (旧石器時代、縄文時代の遺跡)

5 脚注
[1]^ 東京都の地名 P1002
[2]^ 東京都の地名 P1005

6 参考文献
片桐譲『保谷の昔と村人たち』 1999年
下田五郎『田無・保谷の歴史』 2013年
『東京都の地名』平凡社、2002年
最終更新 2022年2月19日 (土) 08:51 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

以上 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


≪くだめぎ?≫
 「消えた市町村名の謎」 八幡和郎著 2017年7月20日 イースト新書P135より
 西武池袋線の保谷市と西武新宿線の田無市の合併は、保谷市が田無市を囲むように不自然な形状だったことがきっかけです。歴史的にこの地域を指す名称はなく、東京23区に隣接していることからついた名称です。保谷市は明治時代に埼玉県新座郡(にいくらぐん)から東京府に編入されたもので、歴史的に見ると「西東京」では無理があります。・・

 本来"保谷市"は「上保谷」「下保谷」の両ムラであるから新川流域であるが、上保谷村の石神井川流域が、天保6年(1835年)に上保谷村から分村され「上保谷新田」ムラとなった、比較的新しい。
1966年(昭和41年)5月1日 保谷町が町名整理を実施、"東伏見"、
1967年(昭和42年)1月1日 - 保谷町が市制を施行し保谷市となると同時に、町名整理を実施。上保谷新田の一部に上保谷の一部を合わせて柳沢が設置される(住居表示実施は同年5月1日)。
 ・上保谷新田の残存部をもって新町が設置され、同時に住居表示実施。

 新町地区が玉川上水に接していることから、埼玉県が東京に突き刺さり、「大東京市」と「多摩地区」を分けている存在だった、興味深い。
Posted at 2022/05/07 09:10:58 | コメント(0) | トラックバック(0) | 都道府県区市町村 | 旅行/地域
2022年05月05日 イイね!

石神井川(しゃくじいがわ)

石神井川(しゃくじいがわ)[写真・画像] 石神井川上流端 - 公園北側に石神井川上流端の標示がある[1]。石神井川はここから東京都北部を経て隅田川に合流する。
[1]google.mapより
小金井公園
 小金井公園(こがねいこうえん)は、東京都小金井市と一部が小平市・西東京市・武蔵野市にまたがる東京都立の都市公園(広域公園)である。正式名称は東京都立小金井公園(とうきょうとりつこがねいこうえん)。
1 概要
 面積約80haの広大な敷地は都立公園の中でも最大規模で、日比谷公園の4.8倍、上野公園の1.4倍に相当する。なお、東京都にはさらに広い国営昭和記念公園があり、その面積は小金井公園の2倍近い。
 公園西側には南北に小金井街道(東京都道15号府中清瀬線)が、南側には東西に五日市街道(東京都道7号杉並あきる野線)が通っている。また、五日市街道に沿って玉川上水が流れている。公園の北側には隣接してゴルフ場小金井カントリー倶楽部(敷地はすべて小平市)が広がっている。
 東京緑地計画を元に紀元二千六百年記念事業として計画された「小金井大緑地」が原形で、1954年(昭和29年)1月に「小金井公園」として開園した。基本テーマは「花と緑のひろびろ空間」。園内には雑木林と芝生が広がり、1,800本の桜が植えられた花見の名所としても人気があり、日本さくら名所100選に選定されている。正月時期には凧揚げの名所ともなる。また、公園内の「いこいの広場」では定期的にフリーマーケットも開催されている。
 江戸東京たてもの園以外は、入園無料。


石神井川
 石神井川(しゃくじいがわ)は、東京都を流れる一級河川である。荒川水系の支流の一つ。流路延長25.2 km、流域面積61.6 km2[1]。
水系 一級水系 荒川
種別 一級河川
延長 25.2 km
流域面積 61.6 km²
水源 小金井ゴルフ場(小平市花小金井南町)
河口・合流先 隅田川(北区堀船)
流域 東京都

1 地理
 東京都小平市花小金井南町に源を発し、東京都北部を東へ流れて北区堀船三丁目で隅田川に合流する。東京都小平市、西東京市、練馬区、板橋区、北区を経る。
1.1 上流域
 小平市花小金井南町にある小金井カントリー倶楽部敷地内の湧水を水源とし、一級河川起点は「左岸:小平市花小金井南町三丁目1218番地先、右岸:同市同町三丁目1217番地先」[2](住居表示では「小平市花小金井南町三丁目2番地先」[1])で、小金井公園北端の公園北橋に上流端標識がある。河川としての流路はさらに西に遡り、嘉悦大学敷地内に伸びている。また、小平市公共下水道の雨水管路が、後述するかつての水源地一帯からの雨水を上流端に排除している[3]。
 同ゴルフ場から西東京市の南を流れる。小平市・西東京市を通る上流部は湧水のみによって涵養される小河川であり、梅雨時や大雨のときを除いて、全く水がないか水溜りになっていることが多く、練馬区に入るまで大部分は暗渠や柵渠となっている。西東京市では、1980年度に芝久保調整池および南町調整池、1983年度に向台調整池が設けられ、増水時に川の水を貯留する[4]。
 東伏見稲荷神社に近い東伏見橋から武蔵関公園までは緩傾斜護岸化され、開放的な遊歩道になっている。東伏見橋と弥生橋(東伏見駅、早大東伏見キャンパス近く)の近くは川に入って遊べる「石神井川親水広場」(東伏見公園区域内)として整備されており、梅雨時などは水鳥が泳ぐのも確認できる。
1.2 中流域
 練馬区に入ると、武蔵関公園辺りから同公園の富士見池、石神井公園の三宝寺池と石神井池、豊島園池などの湧水や河床からの湧水が合わさるため、涸れ川は見られなくなる。武蔵関公園では駅前の市街地のため、狭隘な流路が続く。富士見池では湧水が減少し、地下水の揚水などによって池の水が維持されており、わずかな溢水が石神井川に流入している。富士見池はまた調整池の役割も果たし[5]、水害防止のため、富士見池調整池(練馬区関町北三丁目)が1973年度に建設された[4]。また城北中央公園にも城北中央公園調節池が整備されている。
 三宝寺池は井の頭池や善福寺池とならぶ武蔵野台地の3大湧水池として知られ、かつては石神井川の主水源で、現在の和田前歩道橋(南田中団地前)の近くで合流していた。三宝寺池は湧水が減少したため、1971年に190mの深井戸が掘られ地下水をポンプで揚水して補給している[要出典]。
 石神井池は元は三宝寺池からの流れが石神井川に合流する、三宝寺川の途中の低地で水田などになっていたが、流量の減少で1933年に途中で堰き止め池とした。1959年、二つの池を中心に石神井公園として整備した。三宝寺池からの湧水がほとんど期待できなくなった1958年には石神井池も深井戸を掘り揚水している。下流の水路も湧水の枯渇で消失していたが、1982年に地上を和田堀緑地として公園化して、川だった記憶を留めるためにミニ橋なども整備されている。夏季のみ石神井池の水をろ過して流し、最後は下水道に流入している[要出典]。
 玉川上水からの分水である千川上水は水量が常に不足していたため、この対策として、石神井川の西早宮橋付近で揚水し、豊島園通りの下を通り、練馬駅大踏切(当時)西側を経て、千川上水に揚水弁を設け流入させていた(千川上水への揚水)。水路は、1942年-1943年ころに暗渠となった。

2 変遷
2.1 上流域(小平市・小金井市・西東京市)
 戦後間もない時期の空中写真では、現在の小平市鈴木町一丁目[4]の鈴木小学校体育館付近の谷頭部(周囲標高はおよそ73 m)の湧水を水源とする流路が東へ延びていた[6]。現在でも正門前からゴルフ場へ至る周囲との高低差が3 - 4 mほど、距離が400 mほどの小さな谷地形が東へ延び、これは国土地理院などの地形図でも確認できる。途中でゴルフ場「小金井カントリークラブ」の中を通るが、ゴルフ場の一部で川が地上に露出していた。しかし2000年代初頭頃に埋め立てられた。
2.2 中流域(練馬区)
 練馬区内での石神井川は、区の中央部やや南寄りを東西へ貫くよう流れている。現在は河川改修により、練馬区内をほぼ一直線に流れているが、元々は大きく蛇行して流れており、そのためこの流域は幅広の氾濫原となっていた[7]。
 かつて中流域には関の溜井と呼ばれる池があった。この池は現在残っていないが、武蔵関公園内にある富士見池がほぼ同じ位置に存在する。

3 古石神井川とかつての河道
 最終氷期の海退期にも石神井川は存在し、これを「古石神井川」と呼んでいる。ボーリング調査によって、かつての河道は不忍池からほぼまっすぐ南下し、日本橋台(江戸前島)の東側をなおも南下し、西側を並走していた丸の内谷(日比谷入江)を刻んだ平川(現・神田川)と芝浦沖あたりで合流している[17]。これは昭和通り谷と呼ばれている[18]。縄文海進期、海岸線は現在のJR王子駅付近まで迫っていたと考えられ、このときまでに昭和通り谷は海底谷となって隅田川などからの砂礫が埋め、再び海退していくとともに一帯は三角州が形成されたと考えられる。
 武蔵野台地を流れる河川は概ね縄文海進後の埋没谷上の沖積低地をゆったり流れることが多い。しかし石神井川は例外的に音無渓谷のような峡谷を形成して周囲からいくつもの滝を落としていた。武蔵野台地上では近世の人為的な掘削による神田川 (お茶の水渓谷)を除き、峡谷を形成しているのは谷沢川(等々力渓谷)のみしか知られていない。その成因と時期については議論があり、谷沢川と同様にいくつかの仮説が出されている(前述)。
 峡谷を形成するとともに、石神井川は王子から東へ流れたため、飛鳥山の西側を南下するかつての河道は無能谷となった。

4 主な支流
三宝寺川 - 現在は廃止され、和田堀緑道となっている。
貫井川 - 全区間暗渠化。一部緑道となっている。
田柄川 - 全区間暗渠化。秋の陽公園より下流は田柄川緑道となっている。
エンガ堀
稲付川 - 廃止。

5 名称
 ごく最近まで石神井川の本流は三宝寺池[注 5]から流れ出す川とされ、小金井からの流れは大川と呼ばれる支流であった[要出典]。しかし、徐々に流域の都市化が進行し三宝寺池の湧水が減ると、池から合流点(山下橋)までの流れは三宝寺川と呼ばれるようになり、大川が石神井川本流となる[要出典]。
 石神井川の名称は、石神井村を貫流する川だったために村の名前にちなんで呼ばれたと言われている。石神井村の名前は、東日本に多いミシャクジ信仰に類する「石神」[注 6]に由来し、村内に昔からあったこの「石神」は三宝寺池から出たとも、井を掘っていたら土中から出たとも伝えられる[1]。
 石神井川は、小平市・西東京市では「悪水」、西東京市・練馬区の一部では「大川」、練馬区・板橋区では「石神井川」、北区で「音無川」「王子川」「滝野川」と呼ばれていた[1]。「滝野川」という別称は北区滝野川の地名にも残っており、近藤勇の墓所がある。かつて、この地域の石神井川が「滝のように勢いよく川の流れが激しかった」ことに由来する。

9 註釈
9.1 注
[注 5]^ 古称は弁天池といった。三宝寺池にある現・厳島神社はもともと、近くにある三宝寺の擁する弁天社だったことに由来する。池から流れる川も弁天川といった。明治期の神仏分離令で厳島神社となり、池の名も変わった
[注 6]^ イシガミではなくシャクジと読む、石棒を神体として祭ったもの
9.2 出典
[1]^ a b c d e 石神井川流域環境協議会 (編) (1999). ふれあい石神井川―うるおいとやすらぎの水辺を求めて―. 石神井川流域環境協議会. pp. 36p
[2]^ 1965年(昭和40年)政令第43号「河川法第四条第一項の水系及び一級河川を指定する政令」(1971年(昭和46年)3月20日政令第29号にて一部改正)
[3]^ 公共下水道台帳施設平面図について 小金井カントリー倶楽部内を蛇行する雨水管が判る
[4]^ a b c d 菅原健二『川の地図辞典』之潮、2007年、ISBN 9784902695045
[5]^ 石神井川流域環境協議会 (2006). 平成17年度 事業報告書. 石神井川流域環境協議会. pp. 24p
[6]^ 1947/11/14撮影 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
[7]^ 八巻孝夫「豊島氏の城郭についての覚書」『中世城郭研究』第23号、中世城郭研究会、2009年、 78頁、 ISSN 0914-3203。
[17]^ 関東地質調査業協会. “大地の解体新書”. 2017年10月3日閲覧。
[18]^ 中央区立 京橋図書館「郷土室だより」第70号、平成2年12月27日発行。

10 関連項目
・石神井用水 ・北区飛鳥山博物館
11 参考文献
杉本苑子『東京の中の江戸名所図会』北洋社刊の復刻版、文藝春秋、1991年(原著1975年)、73頁。ISBN 4-16-722422-4。
12 外部リンク
・石神井川流域連絡会 - 東京都建設局
・王子七滝考(北区教育委員会) - ウェイバックマシン(2010年1月1日アーカイブ分)
・鎌田橋付近の様子(1960年) - 練馬区役所
最終更新 2022年3月10日 (木) 16:20 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

以上 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


≪くだめぎ?≫
 練馬区大泉地区が白子川流域、練馬区石神井地区が石神井川流域である。
 そもそも、石神井川上流端の小金井公園は玉川上水の北側に広がる森である。
 対して、南側には仙川(多摩川水系)が流れている。新町6丁目のすぐ横を流れているのだ・・。
Posted at 2022/05/05 19:55:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | 河川改修の実例 | 旅行/地域
2022年05月05日 イイね!

『東京府(とうきょうふ)』

『東京府(とうきょうふ)』東京府庁
東京府勢概要(昭和12年(1937年)、東京府総務部調査課)
東京府庁及び東京市庁(合同庁舎)。1945年5月25日の空襲で焼失した東京府庁舎(大正時代)。妻木頼黄設計で1894年完工。

■東京府
 東京府(とうきょうふ)は、かつて存在した日本の府。府庁所在地は東京市・有楽町。
 1868年(明治元年)に武蔵国江戸に江戸府が設置され、ほどなくして東京府に改称されたが、1871年(明治4年)の廃藩置県に伴っていったん廃止され、周辺地域を含める形で、改めて東京府が設置された。
 1880年(明治13年)に伊豆諸島・小笠原諸島が編入され、1889年(明治22年)に15区から成る東京市が設置された。さらに、1893年(明治26年)には神奈川県から三多摩郡が移管された。1932年(昭和7年)に周辺町村の合併で東京市は35区になった[1]。
 1943年(昭和18年)に東京都制が施行されて東京府と東京市は統合され、東京都へ改組された[2][1]。
最終更新 2022年3月6日 (日) 23:21 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


■府 (行政区画)
 府(ふ)は、漢字文化圏の行政区画単位の一つ。

1 中国
 唐代に、道の下、州と同級の行政単位として置かれた。一般に京師・陪都などの重要都市に置かれ、雍州に京兆府、洛州に河南府、并州に太原府、益州に成都府が設けられた。また、都督府とは別のものである。宋代に府の設置は多くなり、路に属し、元代以降は省に属したが、多くの州は府に変えられた。中華民国によって廃止され、県または市に変えられた。

2 朝鮮
 朝鮮時代には、全土が八つの道に分けられ(朝鮮八道)、道の下には府・大都護府・牧・都護府・郡・県など、派遣されるべき長官(総称して守令)の官位、ひいては重要度によって異なる名称を持つ行政区画が置かれていた。府はこの中で最重要の格を持つ。
 朝鮮王朝の基本法典である『経国大典』の規定では、首都である漢城府、旧首都である開城府には、特に中央官職(京官)の長官が置かれ、漢城府は判尹(はんいん/正二品相当)、開城府は留守(従二品相当)と称された。
 17世紀頃には開城府に加え江華府・水原府・広州府に留守職が置かれ、「四都」と呼ばれた。平壌府・慶州府・全州府・永興府などには地方官職(外官)である府尹(ふいん)が置かれた。府尹は従二品相当とされ、守令の中で最高位である。このほか、大都護府・都護府や、それらの長官である大都護府使・都護府使も、しばしば「府」「府使」と略された(例:東萊府)。
 1895年、甲午改革にともなって地方行政制度が再編され、府・牧・県など多様な第二級行政区画の名称は一律「郡」にあらためられた。また、第一級行政区画として「道」に代わり23の「府」(長官:観察使)が置かれた(二十三府制)。しかしこの制度は翌1896年に廃止され、第一級行政区画として13の「道」が置かれることとなった(十三道制)。また、郡のうち9つを特別府(漢城府)、府(光州府・開城府・江華府・仁川府・東萊府・徳源府・慶興府)、牧(済州牧)とした。
 詳細は「日本統治時代の朝鮮の行政区画#府」を参照
 日本統治時代の朝鮮では「府」の名前は引き継がれたが、日本人集住地区(旧居留地など)を中心とした市街地を府とし、その他を郡部に編入した。これにより「府」は、市街地のみから構成される、日本内地の「市」に相当する単位となった。1914年に府制が施行された時点で、朝鮮全土に12の府が存在した(京城府・仁川府・群山府・木浦府・大邱府・釜山府・馬山府・平壌府・鎮南浦府・新義州府・元山府・清津府)。1930年以降、開城や咸興などが府に昇格していき、1945年8月の日本の敗戦時点で22府が存在した。

3 日本
 1868年(明治元年)頃から置かれた府藩県三治制の行政単位。箱館府・東京府・神奈川府・越後府・甲斐府・京都府・大阪府・奈良府・度会府・長崎府が置かれた。1872年の廃藩置県により東京府・京都府・大阪府のみが府として残り他は県に改められた。1943年の東京都制により東京府は東京都に改められ、現在は京都府と大阪府のみが都道府県として残る。
最終更新 2022年1月9日 (日) 08:22 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


■府藩県三治制
 府藩県三治制(ふはんけんさんちせい)は、明治初年の地方行政制度。

1 概要
 1868年6月11日(慶応4年閏4月21日)、政体書(法令第331号)公布に伴い、維新後の徳川幕府の直轄地に置かれていた裁判所を廃止し、そのうち城代・京都所司代・奉行の支配地を府、それ以外を県として、府に知府事、県に知県事を置いたが、藩は従来どおり大名が支配した。また旗本領、寺社領、および大名・旗本の御預所などの管轄までは定められていなかったが、1868年7月13日(慶応4年5月24日)旗本采地の府県管轄指令(法令418号)により、旗本領(万石以下之領地)と寺社領が最寄の府県の管轄となることが定められた。ただし全国一斉に旗本領・寺社領が府県の管轄となったわけではなかった。
 1869年7月25日(明治2年6月17日)の版籍奉還によって三治制が確立して藩も国の行政区画となり、旧藩主(大名)は知藩事に任命された。知藩事は中央政府から任命される地方官であり、藩の領域も藩主に支配権が安堵された「所領」ではなく、地方官である知藩事が中央政府から統治を命じられた「管轄地」とされた。
 1870年1月3日(明治2年12月2日)旗本領の上知が決定され、府・藩・県のいずれかに所属することが定められた。これにより全国の旗本領が消滅した。
 1870年10月14日(明治3年9月10日)に「藩制」が制定されて藩組織の全国的な統一が強制されるなど、中央政府による各藩に対する統制が強められる一方、多くの藩で財政の逼迫が深刻化し、廃藩を申し出る藩が相次いだ。
 明治3年12月末頃、内示により藩御預所の管轄が府・藩・県のいずれかに移管され、各地に残っていた藩御預所が形式上消滅した。実際の引き渡しは翌年までずれる地域もあり、伊予国内の高知藩御預所のように所属の曖昧なまま廃藩置県を迎えた地域もあった。1871年2月23日(明治4年1月5日)寺社領の上知が決定され、府・藩・県のいずれかに所属することが定められた。これにより全国の寺社領が消滅した。
 1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県により藩は廃止され、府県制となった。
最終更新 2022年3月8日 (火) 15:59 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


■江戸
 江戸(えど) [1]は、東京の旧称であり、1603年(慶長8年)から1868年(慶応4年)まで江戸幕府が置かれていた都市である。
 現在の東京都区部の中央部に位置し、その前身及び原型に当たる。
2 歴史
2.1 徳川氏以前の江戸
 「江戸」という地名は、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』が史料上の初見で、おおよそ平安時代後半に発生した地名であると考えられている。
 平安時代中期(930年代頃)に成立した『和名類聚抄』にはまだ江戸と言う地名は登場せず、豊島郡に「湯島郷」「日頭郷」、荏原郡に「桜田郷」が存在したと記されている。湯島郷は現在の文京区湯島、日頭郷は同区小日向、桜田郷は千代田区霞が関の旧称である桜田であったと推定されている。江戸は元々は湯島郷もしくは日頭郷に属する小地名であったと考えられている[4]。後述の江戸氏は、他の武士の名乗りと同様に江戸を所領としていたために「江戸」と称したと考えられるため、江戸氏が歴史上登場する平安時代末期には既に江戸という地名が存在したと言える[4]。
 地名の由来は諸説あるが、江は川あるいは入江とすると、戸は入口を意味するから「江の入り口」に由来したと考える説が有力である。また、「戸」は港町の名称に用いられる例が多いことから、「江の港」とする説[注 2][5]もある。あるいは、江戸の近郊にあったとされる今津・亀津・奥津という地名が、現在では今戸・亀戸・奥戸と称されている事から、「江の津」とする説[4]もある。当時の江戸は、武蔵国と下総国の国境である隅田川の河口の西に位置し、日比谷入江と呼ばれる入江が、後の江戸城の間近に入り込んでいた。
 江戸の開発は、平安時代後期に武蔵国の秩父地方から出て河越から入間川(現荒川)沿いに平野部へと進出してきた桓武平氏を称する秩父党の一族によって始められた。12世紀に秩父氏から出た江戸重継は、江戸の地を領して桜田の高台に城館を構え(のちの江戸城)[6]、江戸の地名をとって江戸太郎を称し、江戸氏を興す。重継の子である江戸重長は1180年に源頼朝が挙兵した時には、当初は平家方として頼朝方の三浦氏と戦ったが、後に和解して鎌倉幕府の御家人となった。弘長元年10月3日(1261年)、江戸氏の一族の一人であった地頭江戸長重が正嘉の飢饉による荒廃で経営ができなくなった江戸郷前島村(現在の東京駅周辺)を北条氏得宗家に寄進してその被官となり、1315年までに得宗家から円覚寺に再寄進されていることが記録として残されている。ここにおいて、『和名類聚抄』の段階では存在しなかった「江戸郷」という地名を見ることが出来る。また、弘安4年4月15日(1281年)に長重と同族とみられる平重政が作成した譲状[7]には「ゑとのかう(江戸郷)」にある「しハさきのむら」にある在家と田畠の譲渡に関する記述が出てくる。この江戸郷芝崎村(もしくは柴崎村)は前島村の北側、今の神田付近と推定されている[4]。この頃の鎌倉からの奥州への街道は、日比谷入江に注ぐ平川にかかる高橋を渡り、鳥越(現・鳥越神社付近)、浅草へ通っていた。この平川沿いには早くから村ができていたようである[8]。なお過去、平川は当初から日本橋川を流れたとされたが、現在は江戸城三ノ丸の堀付近を日比谷入江へ注いだと認識されている[9]。芝崎村の西側にある平川の河口部には平川村が存在していたが、後には平川村及び平川流域も江戸郷の一部として認識されるようになっていった。
 鎌倉幕府が滅びると、江戸氏一族は南北朝の騒乱において新田義貞に従って南朝方についたりしたが、室町時代に次第に衰え、戦国末期には多摩郡喜多見で活動している。また、応永27年(1420年)紀州熊野神社の御師が書き留めた「江戸の苗字書立」によれば、さらに多摩川下流の大田区蒲田・六郷・原・鵜の木・丸子や隅田川下流域の金杉・石浜・牛島、江戸郷の国府方、柴崎、古川沿いの飯倉、小石川沿いの小日向、渋谷川沿いの渋谷、善福寺川沿いの中野、阿佐谷にも江戸氏一族が展開した。
 代わって江戸の地には、関東管領上杉氏の一族扇谷上杉家の有力な武将であり家老であった太田資長(のちの太田道灌)が入り、江戸氏の居館跡に江戸城を築く。江戸城は、一説には康正2年(1456年)に建設を始め、翌年完成したという(『鎌倉大草紙』)。太田資長は文明10年(1478年)に剃髪し道灌と号し、文明18年(1486年)に謀殺されるまで江戸城を中心に南関東一円で活躍した。道灌の時代も平川は日比谷入江へ注いでおり、江戸前島を挟んで西に日比谷入江、東に江戸湊(ただし『東京市史稿』は日比谷入江を江戸湊としている)があり、浅草湊や品川湊と並ぶ中世武蔵国の代表的な湊であった。江戸や品川は利根川(現在の古利根川・中川)や荒川などの河口に近く、北関東の内陸部から水運を用いて鎌倉・小田原・西国方面に出る際の中継地点となった。
 太田道灌の時代、長く続いた応仁の乱により荒廃した京都を離れ、権勢の良かった道灌を頼りに下向する学者や僧侶も多かったと見られ、平川の村を中心に城下町が形成された[10]。吉祥寺は当時の城下町のはずれにあたる現在の大手町付近にあり、江戸時代初期に移転を命じられるまで同寺の周辺には墓地が広がっていた(現在の「東京駅八重洲北口遺跡」)。平河山を号する法恩寺や浄土寺も縁起からかつては城の北側の平川沿いの城下町にあったとみられている。また、戦国時代には「大橋宿」と呼ばれる宿場町が形成された。更に江戸城と河越城を結ぶ川越街道や小田原方面と結ぶ矢倉沢往還もこの時期に整備されたと考えられ、万里集九・宗祇・宗牧など多くの文化人が東国の旅の途中に江戸を訪れたことが知られている[11]。
 道灌の死後、扇谷上杉氏の当主である上杉朝良が長享の乱の結果、隠居を余儀なくされて江戸城に閉居することになった。ところが、その後朝良は実権を取り戻して江戸で政務を行い、後を継いだ朝興も江戸城を河越城と並ぶ扇谷上杉氏・武蔵国支配の拠点と位置付けた。だが、扇谷上杉氏は高輪原の戦いで後北条氏に敗れ、江戸城も後北条氏の支配下に移った。既に相模国・伊豆国を支配していた後北条氏の江戸支配によって東京湾(江戸湾)の西半分を完全に支配下に置き、これに衝撃を受けた東半分の房総半島の諸勢力(小弓公方・里見氏)に後北条氏との対決を決意させたと言われている[12]。後北条氏末期には北条氏政が直接支配して太田氏や千葉氏を統率していた。支城の支配域としては、東京23区の隅田川以西・以南及び墨田区・川崎市・多摩地区の各々一部まで含まれている。
 従来、徳川家康入城当時の江戸はあたかも全域が寒村のようであったとされてきた。だが近年になって、太田道灌及びその後の扇谷上杉氏・後北条氏の記録や古文書から、徳川氏入部以前より江戸は交通の要衝としてある程度発展しており、こうした伝承は徳川家康・江戸幕府の業績を強調するために作られたものとする見方[5]が登場するようになった。また、『吾妻鑑』における源頼朝入城当時の鎌倉に関する描写(治承4年10月12日条)がそのまま家康の江戸入城時の描写に引用されている可能性を指摘する研究者もいる[13]。その一方で、太田道灌時代の記録にも道灌を称える要素が含まれているため、家康以前の記録についてもその全てを史実として受け取ることに懐疑的な意見もある[14]。とはいえ、現在では中世に達成した一定の成果の上に徳川家康以後の江戸の発展があったと考えられており、中世期文書の研究に加えて歴史考古学による調査の進展によって家康以前の江戸の歴史に関する研究が進展することが期待されている[11]。

2.2 徳川時代の江戸
 ありきたりの地方の城下町から巨大都市への大改造を実現した人物は、徳川家康であった。
 1590年、後北条氏が小田原征伐で豊臣秀吉に滅ぼされると、後北条氏の旧領に封ぜられ、関東・奥羽方面の押さえを期待された徳川家康は、関東地方の中心となるべき居城を江戸に定めた[15]。同年の旧暦8月1日(八朔)[16]、家康は駿府から居を移すが、当時の江戸城は老朽化した粗末な城であったという。家康は江戸城本城の拡張は一定程度に留める代わりに城下町の建設を進め、神田山を削り、日比谷入江を盛んに埋め立てて町を広げ、家臣と町民の家屋敷を配置した。突貫工事であったために、埋め立て当初は地面が固まっておらず、乾燥して風が吹くと、もの凄い埃が舞い上がるという有様だったと言われる。この時期の江戸城はこれまでの本丸・二ノ丸に、西丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸があり、また道三堀の開削や平川の江戸前島中央部への移設、それに伴う埋め立てにより、現在の西丸下の半分以上が埋め立られている(この時期の本城といえるのはこの内、本丸・二ノ丸と家康の隠居所として造られた西丸である)。
 家康が1600年の関ヶ原の戦いに勝利して天下人となり、1603年に征夷大将軍に任ぜられると、幕府の所在地として江戸の政治的重要性は一気に高まり、徳川家に服する諸大名の屋敷が設けられた。江戸に居住する大名の家臣・家族や、徳川氏の旗本・御家人などの武士が数多く居住するようになるとともに、町人を呼び寄せて、町が急速に拡大した。江戸城とその堀は幕府から諸大名に課せられた手伝普請によって整備され、江戸城は巨大な堅城に生まれ変わり、城と武家屋敷を取り巻く広大な惣構が構築された。(都市開発の歴史については後の都市の章で述べる。)
 1657年の明暦の大火の後、再建事業によって市域は隅田川を超え、東へと拡大した。その人口は絶えず拡大を続け、18世紀初頭には人口が百万人を超え、大江戸八百八町といわれる世界有数(一説によると当時世界一)の大都市へと発展を遂げた。人口の増大は、江戸を東日本における大消費地とし、日本各地の農村と結ばれた大市場、経済的先進地方である上方(近畿地方)と関東地方を結ぶ中継市場として、経済的な重要性も増した。当時の江戸は、『東都歳時記』、『富嶽三十六景』にみる葛飾北斎の両国(現在の墨田区)からの作品などからも見られるように、漢風に「東都」とも呼ばれる大都市となっていた。18世紀末から19世紀初めには、上方にかわる文化的な中心地ともなり、経済活動や参勤交代を通じた江戸を中心とする人の往来は江戸から地方へ、地方から江戸へ盛んな文化の伝播をもたらした。一方で、膨大な人口が農村から江戸に流入して、様々な都市問題を引き起こすことにもなった。
最終更新 2022年3月27日 (日) 01:58 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

以上、出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


≪くだめぎ?≫
 いつもの様に、テキストは既に出ている
「消えた市町村名の謎」 八幡和郎著 2017年7月20日 イースト新書
である。
P155 東京23区域の消えた区町村名(M22.4.1)では府県境は、ほぼ東京23区域を囲んでいる。後に埼玉県新座郡榑橋村(にいくらぐん・くれはし)と神奈川県北多摩郡千歳村・砧村を加えた。最初の東京府は現在の23区域しかなかったのだ。
 東京市も旧江戸市中で発足し、1932(昭和7)年に残りの"郡部"も加わって「大東京市」が成立した。
 1893(M26)年4月にに神奈川県から三多摩郡が移管され、ほぼ現在の東京都が完成した。
 そもそも、18世紀初頭には人口が百万人を超え、「東都」とも呼ばれる大都市となっていたことから、一旦「江戸府」になったがすぐに「東京府」、戦時中に「東京都」になったのは自然な流れか。
Posted at 2022/05/05 17:10:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | 都道府県区市町村 | 旅行/地域
2022年05月05日 イイね!

レールバス展示会

レールバス展示会47NEWS
懐かしの車両、撮影楽しむ レールバス展示会、七戸で5日まで
2022/5/5 08:00 (JST)
[写真・画像] レールバスのデモ走行を写真に収める愛好家

 七戸町笊田の南部縦貫鉄道旧七戸駅構内で4日、レールバスの特別展示会が始まった。新型コロナウイルス感染拡大の影響で開催は3年ぶり。家族連れや愛好家が車両の観賞や撮影を楽しんだ。5日まで。
 イベントは町と、車両の保存活動などを担う南部縦貫レールバス愛好会(同町)が主催。レールバスはかつて七戸―野辺地間を運行した同鉄道の車両で、廃線後も全国の鉄道ファンらの人気を集める。
 4日は町内外から約140人の愛好家らが訪れ、熱心に車両を撮影したり、車内を見たりした。同会の星野正博代表は「コロナ禍でほとんど宣伝しなかったが、車両を出庫する際、既に30人ほどが来てくれてうれしかった。今後は状況を見ながら、少しずつイベントも開催したい」と話した。
 5日は午前10時から午後4時まで、レールバスの車両展示と車内公開を行う。午後1時10~30分、同3時半ごろにはデモ走行を実施する。入場無料。
【全文】デーリー東北


≪くだめぎ?≫
 今年も「レールバス」が"動いて"、素直にうれしい。我がブログのトップ写真にも使っているのが、動いてうれしい。
 昭和55年の夏は盛んに営業していて、路盤状態と併せて乗り心地は良くなく心配するほどだったが、構内とはいえデモ走行できるとはうれしい。
Posted at 2022/05/05 15:36:36 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道 | 旅行/地域

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都道府県タクシー協会 
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2011/01/06 11:50:45
 

愛車一覧

ダイハツ ハイゼットカーゴ ダイハツ ハイゼットカーゴ
"MT車"、9.8万キロ走行、である。 前車ハイエースを年末に買取りしてもらう。 ほぼ、 ...
トヨタ ルーミー 「タンク」顔の"ルーミー" (トヨタ ルーミー)
[写真・画像] 6/25(日)10:37 青森トヨタ・ネッツトヨタ青森 TwiN pla ...
スバル サンバー スバル サンバー
母の嫁入り道具、父は車持ってなかった。後に事故廃車。
トヨタ マークIIバン トヨタ マークIIバン
事故廃車したため、購入。コロナバンがなかった・・。
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