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2024年10月18日 イイね!

皇室用客車

皇室用客車(上)お召し専用機EF58 61が牽引する御料車1号編成(1984年)
(下)3代目1号御料車を組み込んだ「1号編成」先代の一号編成。写真は最終運用となった2002年の陸羽西線お召しの返却回送。原宿にて :2002年6月1日

 皇室用客車(こうしつようきゃくしゃ)とは、日本の皇族が鉄道で旅行をする時に使用する皇室専用の鉄道車両(客車)のことである。皇室用客車には、皇族が乗車する御料車(ごりょうしゃ)、随伴員が乗車する供奉車(ぐぶしゃ)、天皇、皇后の霊柩を輸送する霊柩車(れいきゅうしゃ)およびご神体である賢所を輸送するための賢所乗御車(かしこどころじょうぎょしゃ)の4種がある。
 かつては東日本旅客鉄道(JR東日本)の東京総合車両センター(旧・大井工場)内の御料車庫において厳重に保管されていた。 2023年、御料車庫の解体が始まる前に保管車両は移動したが、保安上の理由から新たな保管場所は公表されていない[1]。
 お召し列車を運行する際には、入念な事前整備を施した上で用いられる。
01.御料車
 御料車は、歴代の皇族が乗る車両で、「御料」とは、高貴な人の所有物・利用物の意である。
 御料車は、その時代における最高の車両製造技術と工芸美術の粋を結集して製造されており、工芸品としても貴重なものである。また、明治・大正期の一般用客車がほとんど残存していないため、当時の車両製造技術を今に伝えるものとして、鉄道技術史の面でも貴重な資料である。
 御料車に番号が付与されたのは、1911年(明治44年)の鉄道院の車両称号規程制定時で、それまでは、単に玉車(ぎょくしゃ)、鳳車(ほうしゃ)と呼ばれていた。この規程により6両が御料車として番号を付与されたが、それ以後12両が製造あるいは入籍されており、計18両の御料車が存在したことになる。しかしそれ以前に、1872年(明治5年)の鉄道開業式で明治天皇の御乗用に供された客車など、番号を付与されなかった複数の御料車、あるいは貴賓車が存在していたのは確実であるが、その詳細はよくわかっていない。
 かつては、天皇用とは別に皇后用など複数の御料車が使用されていたこともあったが、1号御料車(3代)の落成後は、同車がもっぱら使用された。しかし、2007年(平成19年)にE655系電車が代替車として落成したことにより、使用可能な御料客車は存在しない。1号の他にも、2号(2代)、3号(3代。旧1号(2代))、及び14号が、御料車として2010年現在もJR東日本に車籍を有するが、全く使用されておらず、検査が行われていないため、いずれも予備車としても使用できる状態にない。
 この他に、電車であるクロ157-1やE655-1も同様の用途に供される車両であるが、過去に私鉄に存在した同等の車両、もしくは外国の同種の車両と同様に、貴賓車(きひんしゃ)または特別車両という呼称が用いられる。
 日本国有鉄道(国鉄)時代は全国で1号御料車の運転が見られたが、1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化後は、皇室用客車がJR東日本に継承されたこともあって、ほぼJR東日本管内での運転に限られている。
●番号付与以前
 1872年(明治5年)の京浜間鉄道開業式で明治天皇の御乗用となったのは、鉄道開業時にイギリスから輸入された上等車10両のうちのサロン車と称される「形式A」と推定されている。この客車は、全長25ft、車体長22ft5in、自重約5tで、車内は3室に分かれている。この車両は、新御料車(形式D)の製造にともなって御料車の任を解かれて皇后および皇太后用のお召し車としても使用できる御料車の予備車的存在となり、後に英照皇太后の霊柩車として改造されている。
 1893年(明治26年)にまとめられた形式図集「明治26年略図」には、上記の形式Aの外に、形式Dおよび形式AJの2両の「サロン車」が掲載されている。形式Aおよび形式Dは新橋所属、形式AJは神戸の所属で、形式AJは後に1号御料車となった車両である。形式Dの正確な製造時期を知る資料は見当たらないが、1889年(明治22年)10月の文書に、形式Dの製作指示が推測される文言が残っている。この車両は1890年(明治23年)に完成して明治天皇の京都行幸用に使用されており、長距離の移動に備えて厠が設置された。構造的には形式AJとほぼ同一で、御座所を車体中央部に、その前後に侍従室、女官室が設けられており、形式AJのような大型の側面窓は設けられていない。
 1880年(明治13年)11月に官営幌内鉄道の手宮 - 幌内間が全通、翌1881年(明治14年)8月に明治天皇が北海道へ行幸した際、8月30日にお召列車が運転された。このときに御料車となったのは、1880年にアメリカのハーラン・アンド・ホリングスワース社で製造された「開拓使号」で、同時に導入された8両中最上級の客車であった。同車は1961年(昭和36年)に鉄道記念物に指定され、交通博物館に保存された。交通博物館閉館後は、2007年(平成19年)10月14日にさいたま市大宮区に開館した鉄道博物館で展示されている。
ホヤ5015の形式図
 1911年(明治44年)8月、皇太子(当時。後の大正天皇)が北海道へ行啓することとなり、同年3月、札幌工場で御乗用客車が製造された。この客車は後年ホトク5015となったものであるが、当時の写真によれば、同車には記号番号とも標記されておらず、実質的には御料車として扱われていたようである。全長は14,732mm、幅は2,737mm、高さは3,842mm、屋根は、全長にわたってモニター屋根、定員は21人であった。車体中央に御座所が設けられており、両側には供奉員室が設けられている。御座所の床は絨毯敷きで、大椅子1個、肘掛椅子2個、テーブル1脚が置かれていた。供奉員室は、長手椅子で肘掛が設けられていた。この「御料車」が皇族の御乗用とされたのはこの1度きりで、その後一般用の特別車に転用された際に、形式番号が与えられたものと推定される。同車は1917年(大正6年)に苗穂工場で職用車に改造されホヤ5015となったが、1928年(昭和3年)の形式称号規程改正ではコヤ6610とされ、1951年(昭和26年)12月まで在籍した。
●1号御料車(3代)
 現在の1号御料車は、昭和天皇の御乗用として、1960年(昭和35年)に国鉄大井工場で製造されたもので、1876年(明治9年)に製造された2軸客車の初代、1932年(昭和7年)に製造された2代目(現・3号)に次ぐ、3代目の1号御料車である。
 車体は、当時の最新鋭客車である20系客車をベースに、鋼体を厚くする、窓を防弾ガラスに換える等の保安対策を施した構造となっており、旧形客車とは違う平滑でシンプルな外観が特徴である。台車もこれまでの御料車に使用されていた三軸台車から空気バネ使用の二軸台車・TR65を使用している。
 車内は、次室・御座所(皇族が乗る箇所)・御休憩室・御化粧室・御厠(トイレ)・配電室が配置され、出入台(デッキ)は観音開き式とし一個所に集約。御剣璽室・御剣璽奉安所は省略された。内装は出入台・御厠を除き総絹張りとし、御座所・御休憩室・御化粧室はそれぞれ異なる時代様式としている。御座所の天井は平天井とし、20Wの蛍光灯を80本使用した光源を白いアクリル板を透かして照明とする光天井としている。側窓は複層ガラスによる固定窓としているが、御座所については他より大きな窓が3枚ずつあり、このうち中央の1枚は電動で上下し、開閉することができる。御座所内には豪華なソファの他、テレビとラジオがあり、冷暖房も完備されている。
 御座所の天井以外の内装には、和風調度品をふんだんに用いており、その時代における日本の最高級の車両製造技術と美術工芸の粋を駆使して製造されている[7]。
 御料車の外装は、それまでの漆に代わり深紅色の合成樹脂ラッカー塗装で、さらにワックスで磨き上げている。また側面の上下には2本の金線が入っているが、これは本物の金箔を貼りつけている。窓枠は金メッキとしていたが後に金箔の貼りつけに改めた。
 御座所の外側、開閉可能な窓の下には、紋章取付座がある。ここには、天皇が乗車する場合に限り金色の天皇家の御紋章(十六弁八重表菊紋)が取り付けられる。車両限界に対する御紋章の厚みを考慮し、20系客車同様の広幅車体は採用せず、車体下部の裾絞りのない垂直な側板形状となっている。
 なお、御料車としては初めて製造所銘板が取付けられている。前位端梁には青銅鋳物に金メッキされた通常より小型サイズのものが、配電室には黄銅板にエッチングを施し、さらに金メッキをしたものが取付けられた。
 本車は、供奉車の460号・340号・330号・461号と固定編成を組んでおり、一般に「1号編成」と呼ばれている。これらの供奉車は、1931年(昭和6年)から翌年にかけて1号御料車(2代。現・3号)との編成用に製造されたものであるが、本車の落成とともに改装され、460号にディーゼル発電機を設置して20系客車に準じた交流600V/60Hzを供給する給電システムに改めている。
 JR東日本は、2007年(平成19年)に1号編成に代わる貴賓用電車E655系と特別車両E655-1を新製し、現在はこれらの車両を用いている。それにともない、供奉車4両を含む1号編成は保留車となっており、東京総合車両センター内の専用車庫に厳重に保管されている。なお、検査も行われていないことから1号編成の出番は今後はないものと思われる[8]。
02.供奉車
 供奉車(ぐぶしゃ)とは、お召列車が運転される際、随伴員(宮内庁関係者や警備関係者、鉄道職員など)が乗車する車両のことで、皇室用客車の一種である。
 鉄道が開業した当初は、一般営業用客車の中から適宜選定して編成していたが、6号御料車が完成した1910年(明治43年)以降専用の客車が製造されるようになり、宮廷列車編成用車と呼ばれた。また形式称号は、一般用客車のものが付されていた。
 供奉車が現在のような番号を付されるようになったのは、1928年(昭和3年)10月の鉄道省の車両形式称号規程改正の際で、11両が供奉車となっている。木造車のうち2軸ボギー車は100番台及び200番台、3軸ボギー車は700番台が付与されている。それ以降に製造された鋼製車は、300番台及び400番台が与えられている。
 2018年4月現在、1号御料車と編成を組む4両が、いずれもJR東日本に車籍を有するが、保留車となっている。
●鋼製車
 鋼製の1号御料車(2代)及び2号御料車(2代)製造の際に計画されたもので、1931年(昭和6年)から1933年(昭和8年)にかけて11両が鉄道省の工場で製作された。
 車体は鋼製の丸屋根で、同時期に製造された一般用客車(スハ32系)と異なり、妻部の形状は御料車と同じ切妻状となっている。組み立てに皿鋲を使用して外板を平滑化した御料車に対し、通常の丸鋲を使用しており、印象は異なる。外板塗色は、本グループより御料車と同様の深紅色となっている。全長は20m、幅は2.900m、高さは3.83m、車体の両端に出入り台を有し、台車は3軸ボギーのTR73またはTR73Aである。
 太平洋戦争後は、お召列車への軍人の乗車がなくなったこともあって所要数が減少し、一部が一般用あるいは事業用に転用された。現1号御料車落成後は2号御料車の使用がほとんどなくなったこともあり、2号編成用の供奉車も国鉄分割民営化直前に廃車され、344号車以外は大船工場で解体された。
 2018年4月現在、以下の4両がJR東日本に在籍しており、460 - 340 - 1号御料車 - 330 - 461 の順で連結して使用された。
460号 - 電源車。2基のディーゼル発電機のほか、技術員室、荷物室、給仕室を持つ。3軸ボギー台車を装着している。
340号 - 供奉員の乗車用。1等回転座席16、2等固定座席30を持つ。
330号 - 主要な供奉員の乗車用。1等回転座席25と、供進所を持つ。
461号 - 鉄道関係者の乗車用。固定座席28(2等席12・3等席16)と、荷物室などを持つ。3軸ボギー台車を装着している。
 ●330形(330)
 一等車で、1号編成用として1931年12月に大井工場で製造された。前位側に供進所(調理室)、後位側にトイレと洗面所を有する。定員は27人、1人掛の回転椅子を備えている。自重は38.7t。
 1960年(昭和35年)、1号御料車(3代)の落成にともなって固定編成方式に改造され、その際に床下に冷房装置を搭載し、風道を客室内に立ち上げたことから定員が2名減少し25人となるとともに、外観上も窓が1個埋められている。台車も1号御料車と同じ2軸ボギーのTR65に交換され、自重は38.4tに減少した。
 ●340形(340)
 一・二等合造車で、1号編成用として1931年12月に大宮工場で製造された。前位寄りに一等室、後位寄りに二等室があり、その中間にトイレ・洗面所がある。定員は一等16人、二等30人で、一等席には1人掛の回転椅子、二等室には固定式のボックスシートを備えている。自重は39.0t。
 1960年(昭和35年)、1号御料車(3代)の落成にともなって固定編成方式に改造され、その際に床下に冷房装置を搭載した。台車も1号御料車と同じ2軸ボギーのTR65に交換され、自重は38.1tに減少した。
 ●460形(460 - 463)
二・三等荷物合造車で、1号編成用として1932年3月に2両(460, 461)、2号編成用として1933年3月に2両(462, 463)が、いずれも小倉工場で製造された。前位から二等室、給仕室・湯沸所、荷物室、トイレ、三等室に区分されている。定員は二等12人、三等18人で、いずれも固定式のボックスシートを備えており、荷物室の荷重は3t、自重は38.8tである。
 460と461は、1960年(昭和35年)、1号御料車(3代)の落成にともなって固定編成方式に改造され、461は二等室(旧三等室)の定員が16人に減少した程度で大きな改造はなかったが、460はディーゼル発電機を搭載して編成全体の電源をまかなう電源車に改造され、大きく外観が変わった。車内は、前位から給仕室・湯沸室、荷物室、技術員室・トイレ、機械室、車掌室となり、自重は51.6tとなっている。
 2号編成用だった462, 463は、長らく大船工場に放置されていたが、国鉄分割民営化直前の1986年に除籍、解体された。
03.霊柩車
 皇室用の霊柩車としては、英照皇太后(孝明天皇の皇后)、明治天皇及び大正天皇の大喪の礼の際にそれぞれ新製された3両が存在する。これらには、形式、記号、番号のいずれもが付与されておらず、「霊柩車」が名称であるが、ここでは便宜的に、それぞれ初代、2代、3代と称することとする。
 これらの他に、葉山御用邸で崩御した大正天皇の遺体を東京の宮城(皇居の旧称)に還幸させるために、3号御料車(初代)が霊柩車に改造のうえ使用されたが、名称、番号等の変更はなかった。同車は、1951年(昭和26年)の貞明皇后の大葬の際にも13号御料車と改称のうえ、霊柩車として使用されている。
●3代
 1926年(大正15年)12月25日に崩御した大正天皇の大葬の際に、製造中の客車を大井工場で改造して製作されたもので、形態的には大型客車(22000系)に属する。
 3号御料車の改造計画とほぼ同時に計画されたもので、車両の性格上、車体中央部に大きな開口部を設ける必要があることから、床下にトラスロッドを有する旧設計の未成郵便荷物緩急車の台枠と台車を流用することとして製作期間の短縮を図っており、翌1927年(昭和2年)1月20日になり落成した。 あくまでも大喪の礼に合わせて製作されたもので、崩御直後の1926年(昭和元年)12月27日、逗子駅から原宿駅間で運行された「御霊柩列車」[10]には使用されていない。
 車体は木製で、全長16.86m、大正14年式の2軸ボギー台車を装着し、車体の中央部の片側に幅3200mmの扉を設けた。 奉安室内はヒノキの白木造りで、床面には霊柩安置の際に使用するガイドレールを設置した。四方のカーテンは羽二重で金具類は全て銀製。釘隠しも菊の銀細工が用いられた。床は草色の絨毯が使用されている[11]。 外板塗色は、御料車と同様の深紫色の漆塗りで、羽目板は継ぎ目を見せない平滑な横張りとしている。
 1927年2月7日に挙行された大正天皇の大葬後は、2月13日から4月4日までの48日間、東浅川駅に据え置いて一般の拝観に供した。その間の拝観者数は、63万9千人に達したという。
 1933年(昭和8年)、一等病客車オイヘ26900に改造された。定員16人、自重34.86t。同車は、1949年(昭和24年)10月に鋼体化改造され、オハ60 5となった。
04.賢所乗御車
 1915年(大正4年)に行われた大正天皇の御大礼(即位式)の際に、賢所(御神体)の輸送用に製作された車両である。この車両には霊柩車同様、形式、記号、番号のいずれもが付与されていない。1928年(昭和3年)の昭和天皇の御大礼の際にも使用された。
「賢所乗御車」を参照
05.旧外地皇室用客車
詳細は「台鉄花車」を参照
●台湾鉄路管理局SA4101
 1912年に台湾総督府鉄道トク2として製造された木造ボギー車である。元々皇太子嘉仁親王の台湾視察に供するため製作されたものだが、明治天皇の崩御により、10年後の皇太子裕仁親王の台湾視察の際に、ようやくお召し列車として運用された。皇太子専用車両であり、朝鮮皇太子李垠も乗車したことがある。戦後は内装の一部改装が行われ、蔣介石専用の「花車」SA4101となり、蔣介石の福隆への行楽などに何度か使用された。1968年、新しい空調付き特別車が完成したことにより、この車両は予備車となるが、今までも特殊車両として大切に保管されている。
●台湾鉄路管理局SA4102
 1904年にトク1として製造された。皇族用車両ではなく、台湾総督など要人用の特別車両である。戦後はトク2同様に一部改装が行われ、宋美齢専用の「花車」SA4102となった。
06.記念切符
・1976年、国鉄は天皇ご在位五十年を記念した記念切符を発売。1号御料車(初代)、12号御料車、3号御料車(3代)、1号御料車(3代)を印刷した急行券4枚で、全国主要46駅で約30万枚が用意された[12]。
・1986年、近畿日本鉄道は天皇在位六十年を記念した記念切符を発売。1932年(昭和7年)に、お召し電車として使用された300形電車の外観と車内の写真が配されたデザインであった[13]。
07.脚注
[1]^ “大正時代のれんが造り「御料車庫」の解体が始まる 失われる東京・品川の鉄道遺構 JR東日本が再開発”. 東京新聞 (2023年4月2日). 2023年5月11日閲覧。
[7]^ 星晃『回想の旅客車 特ロ・ハネ・こだまの時代』上(学習研究社、2008年) 御料車と貴賓電車 p143~p146
[8]^ 東日本旅客鉄道鉄道事業本部運輸車両部車両運用計画グループ 白土裕之「3月15日ダイヤ改正 JR東日本 客車・機関車の動き さようならEF58 61、夢空間、ゆとり…」『Rail Magazine』2008年4月号(通巻295号)、ネコ・パブリッシング。
[10]^ 弔砲四十八発、葉山から東京に還御『東京日日新聞』昭和元年12月28日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p363 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
[12]^ 記念切符を発売『朝日新聞』1976年(昭和51年)10月13日朝刊、13版、22面
[13]^ 原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、71頁。ISBN 978-4-10-320523-4。
08.参考文献
・星山一男「お召列車百年」1973年 鉄道図書刊行会刊
・「皇室用客車図面集」1986年 鉄道史資料保存会刊 ISBN 4-88540-049-X
・鉄道院「客車形式図 下」
09.関連項目
お召し列車
国鉄32系電車#クロ49形
国鉄157系電車#貴賓車クロ157形
JR東日本E655系電車
樺太鉄道局#中型木製二軸ボギー車
木曽森林鉄道#客車
10.外部リンク
御召列車博物館(鉄道車両)
最終更新 2024年5月6日 (月) 13:12 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


≪くだめぎ?≫
 「460号にディーゼル発電機を設置して20系客車に準じた交流600V/60Hzを供給する給電システムに改めている。」
そのため、『1号編成』2002年6月1日の最終運用となった陸羽西線お召しの返却回送以降、
使われなくなった様である。
Posted at 2024/10/18 09:58:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | 新系列旅客車 | 旅行/地域
2024年10月18日 イイね!

れんが造り「御料車庫」

れんが造り「御料車庫」大正時代のれんが造り「御料車庫」の解体が始まる
失われる東京・品川の鉄道遺構 JR東日本が再開発
2023年4月2日 06時00分
[写真・画像]
(上)解体が始まったJR東日本・東京総合車両センターの御料車庫=東京都品川区で
(下段左)解体工事が始まった「御料車庫」(中央)。手前では再開発の工事が進む。御料車庫に隣接する建物は品川区役所=本社ヘリ「おおづる」から(由木直子撮影)
(下段右上)略図
(下段右下)日の丸を掲げて走るお召し列車=1999年

 天皇、皇后両陛下らが利用する「お召し列車」を大正期から保管してきた、JR東日本の東京総合車両センター内の「御料車庫」(東京都品川区)の解体が始まった。隣接する品川区役所の新築移転を含めた再開発に伴い撤去される。歴史を感じさせる赤れんがの建物だけに、区民からは保存を求める声が今も上がっている。(梅野光春)
◆お召し列車保管100年余りでも「構造に特殊性ない」
 JR東日本が関わる鉄道遺構では、鉄道開業時に造られた「高輪築堤」(東京都港区)が再開発のため、一部保存にとどまった。これに続き、JR東の再開発で鉄道の歴史を示す建造物が解体されることになる。
 関係者によると御料車庫は1914(大正3)年ごろ、当時の鉄道院が建設。鉄道の起点だった旧新橋停車場に併設された車両整備工場の移転に合わせ建てられた。関東大震災(23年)を経て、太平洋戦争で空襲も受けたが焼け残った。
 計2棟のうち1棟は既に壊されて品川区役所の敷地となり、最近は残る1棟にお召し列車が保管されていた。長さ約90メートル、幅約15メートルの細長い形。壁面は赤れんがを積んで造り、上部は鉄骨で支える構造。計3線の線路が敷かれていた。
 JR東によると、保管していた車両は既に別施設に移したが、保安上の理由から場所は公表していない。車庫は3月から解体に着手し、並行して調査し記録を残す。れんがの一部は、再開発でJR・東急の大井町駅前に整備するバス・タクシー乗り場の壁面に活用するという。
 再開発は大井町駅西側の約7.1ヘクタールを対象に、JR東は住宅や宿泊施設が入る26階建てビルなど計2棟を建設。品川区は新区役所庁舎の建設を2025年度に始め、27年度中の移転を目指している。
 区によると、御料車庫は再開発で新設する道路ルート上にあるため、解体を検討。JR東が専門家から意見聴取し、構造に特殊性がないことなどから撤去を決めたという。JR東は「区と連携し、有識者を交えて方針を検討した結果、調査記録の保存と、建物の一部の移設・保存を行うことにした」としている。
 区が昨年実施したパブリックコメントでは「れんが造りの建物を活用し、大井町のシンボルに」などと保存を求める声も上がった。意見を寄せた一人は「JR東が発足する前からの建物で、もともと国民の財産。歴史を語るきっかけになるのに、なぜ大切にしないのか」と憤る。
◆識者「貴重な建造物。解体判断の根拠を説明すべき」
 老川慶喜・立教大名誉教授(鉄道史)の話 JR東日本の東京総合車両センターは、国内の鉄道発祥の地・旧新橋停車場の整備工場の系譜を引く施設で、御料車庫はそうした歴史を示す貴重な建造物。JR東は、解体すると判断した根拠を説明すべきだ。高輪築堤も一部保存にとどまった。JR東は、鉄道にまつわる文化財を再開発後の街づくりに積極的に取り込むよう、姿勢を改めるべきだ。
東京新聞


≪くだめぎ?≫
 「E655-1」が"特別車両"とされたのは、『御料車庫』の扱いに支障なくするためではなかったのか・・。
Posted at 2024/10/18 08:26:35 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道 | 旅行/地域
2024年10月18日 イイね!

特別車両:E655-1 (TR)

特別車両:E655-1 (TR)E655系電車 (E655けいでんしゃ)は、
2007年(平成19年)に登場した、東日本旅客鉄道(JR東日本)の交直流特急形電車。
[写真・画像]
(上左)特別車両(菊花紋章を取り付けた状態)E655系の御料車。令和元年9月28日撮影。
(上右)JR東日本E655系電車 特別車両:E655-1 (TR) 新習志野駅で撮影 作成: 2010年9月27日
(下左)E655系によるお召し列車 (2012年10月6日 武蔵境駅)
(下右)E657系に組み込まれ試運転を実施したE655-1 (2011年9月28日 大崎駅)
●特別車両:E655-1(TR)
特別車両として皇室又は同時に国賓が利用する際のみ、3号車と4号車の間に連結される付随車。「サイ」「サロ」などの記号は付されていない。
3号車寄り車端に出入台があり、次室、特別室<御座所>、休憩室<御休憩室>、トイレ<御厠>と続く(<>内は1号御料車の名称)。特別室は、壁・天井とテーブルに大分県産の高級杉材を用いた内装に菊柄の絹織物を張ったソファを設け、床には9種類の伝統文様を配した手織りの絨毯を敷いている。特別室の窓の天地寸法は950 mmと他の箇所より大きく、中央部の窓は幅2,200 mmの電動昇降式となっている。1号御料車に設けられていた御化粧室の機能は休憩室に統合され、ベッドにもなるソファと三面鏡付き化粧台を設置している。外装は特別室の窓下に金帯がなく、広幅窓下中央に菊の御紋を取り付けるための窪みがある。空調装置は床下集中式[11]のAU303形で、屋根上には休憩室付近のアンテナ2本(用途非公表)以外に何もない。車両番号は妻面に標記されている。付随車ながら空車重量は40.5 tある。
E257系、E653系、E657系に組み込んで走行することも可能な構造になっており、各車両を使用した試運転も行われている。

皇室用客車
1号御料車(3代)
 現在の1号御料車は、昭和天皇の御乗用として、1960年(昭和35年)に国鉄大井工場で製造されたもので、1876年(明治9年)に製造された2軸客車の初代、1932年(昭和7年)に製造された2代目(現・3号)に次ぐ、3代目の1号御料車である。
 本車は、供奉車の460号・340号・330号・461号と固定編成を組んでおり、一般に「1号編成」と呼ばれている。これらの供奉車は、1931年(昭和6年)から翌年にかけて1号御料車(2代。現・3号)との編成用に製造されたものであるが、本車の落成とともに改装され、460号にディーゼル発電機を設置して20系客車に準じた交流600V/60Hzを供給する給電システムに改めている。
 JR東日本は、2007年(平成19年)に1号編成に代わる貴賓用電車E655系と特別車両E655-1を新製し、現在はこれらの車両を用いている。それにともない、供奉車4両を含む1号編成は保留車となっており、東京総合車両センター内の専用車庫に厳重に保管されている。なお、検査も行われていないことから1号編成の出番は今後はないものと思われる[8]。
[8]^ 東日本旅客鉄道鉄道事業本部運輸車両部車両運用計画グループ 白土裕之「3月15日ダイヤ改正 JR東日本 客車・機関車の動き さようならEF58 61、夢空間、ゆとり…」『Rail Magazine』2008年4月号(通巻295号)、ネコ・パブリッシング。
以上 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


≪くだめぎ?≫
 特別車両"E655-1"は「1号御料車(3代)」(1960年(昭和35年)国鉄大井工場製)の後継として2007(平成19)年に投入された。現在「1号御料車(3代)」を含めた"「1号編成」"自体が検査も行われていないことから、
"お召し列車"専用車 E655系電車+特別車両E655-1
で運行される。ここでも"電車"時代、専用機関車は過去になった。

「センチュリーロイヤル」の鉄道車両版だ。
Posted at 2024/10/18 07:35:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | 新系列旅客車 | 旅行/地域
2024年10月12日 イイね!

プリンス店の「最高峰」

プリンス店の「最高峰」国産車「最大排気量」モデル!
6400ccの「V型8気筒エンジン」搭載!
全長6mオーバーの「超高級ニッサン車」が凄すぎる!
開発した理由とは
2024.06.04 大西トタン@dcp
[写真・画像] 日産「プリンス・ロイヤル」
(写真提供:日産自動車)
 現在、国産乗用車が搭載するエンジンの排気量は大きくても5リッター級となっていますが、歴史を遡ると、6リッターを軽く上回る巨大なエンジンを搭載した乗用車も存在していました。一体どのようなモデルなのでしょうか。
●国産最強の「超大型エンジン車」とは
 現在、国産新車において乗用車が搭載するエンジンの中で大きな排気量といえば、トヨタ「センチュリー」やレクサス「LC」などの搭載する5リッターV型8気筒エンジンが最大となっており、つまり大排気量といえば5リッターや4リッター級のクルマが国内モデルでは当てはまります。
 しかし、実は日本車の歴史において乗用車に搭載された最大の排気量は6リッターを軽く上回るもので、まさに規格外の巨大なエンジンでした。
 そのとてつもなく大きなエンジンが搭載されたクルマとは、「プリンスロイヤル」。1967年(昭和42年)に宮内庁に納入されたリムジンです。
 同車の開発・製造をおこなったのは、日産自動車と合併する前のプリンス自動車で、「プリンス・セダン」などを宮内庁に納入していた実績が高く評価され、宮内庁専用の超高級リムジン(御料車)を開発する役目に抜擢されました。
 1965年には納入に先んじてプリンスロイヤルという車名が発表されますが、翌1966年4月にプリンスは日産に合併吸収され消滅。
 そのため同車は“日産のプリンスロイヤル”という、メーカー名が重なる呼ばれ方となりました。
 4ドアリムジンタイプのボディは全長6155mm×全幅2100mm×全高1770mm、ホイールベースは3880mmと、国産車の乗用車としては飛び抜けて大きなサイズを誇ります。
 また車体自体が大きなことに加え、さまざまな装備や入念な防弾対策が施されており、重量は3200kgにも上りました。
 フロントにはデュアルランプと格子状の大型グリルが鎮座しており、当時自動車先進国であったアメリカやヨーロッパの高級車にも引けを取らない、押し出しの強いデザインを採用。
 全席にわたる革張りの内装はほとんどが手作りで、貴賓席である後部座席には最高級の毛織物が用いられています。
 また、侍従用の補助席が設けられていたり、運転席に指示が出せるようにインターホンまで装備されているのも巨大な御料車ならではの特徴です。
 キャビンを囲むガラスはすべて密封合わせガラスになっているため、静音性にも優れています。
 このプリンスロイヤルに搭載されるエンジンは、同車専用開発された特別なV型8気筒OHVエンジンで、その排気量はなんと6.4リッター(6373cc)。
 これは先述のように、国産の乗用車用エンジンとしては最大排気量となり、最高出力260馬力を発揮。これに3速ATのトランスミッションを組み合わせて後輪を駆動します。
 そのほかブレーキ配管を二重構造化、燃料ポンプを2組搭載、電気系統も2系統備えるなど、可能な限りトラブルが起きないよう設計されているのも御料車ならではの特徴のひとつ。
 さらにボディフレームに亜鉛メッキを用いて腐食を防ぐという工夫も取り入れられていました。
 そんなプリンスロイヤルは計7台が製造され、このうち5台が宮内庁に納入。残り2台は大阪万博での来賓送迎用などに用いられたとされています。
 また、宮内庁に納められた中の1台は、後に寝台仕様に改造され、1989年2月の大喪の礼で用いられました。
 1967年の納入以降、メンテナンスを行いながら40年以上使用されたプリンスロイヤルですが、長い年月によって品質の維持と安全性の保証が難しくなり、2008年をもって勇退。
 日産が次期御料車の納入を辞退したため、現在その役割はトヨタが開発した「センチュリーロイヤル」へと引き継がれています。
※ ※ ※
 プリンスロイヤルは、御料車としてわずか7台しか製造されず、また市販化もされなかったことから、一般人にはめったに見ることができない珍しいクルマでした。
 引退後の現在は、昭和天皇記念館で1台のみ展示されています。
 機会があれば、国産乗用車最大のエンジンを搭載する大型リムジンを見に行ってみてはいかがでしょうか。
「くるまのニュース」(mediavague メディア・ヴァーグ)


≪くだめぎ?≫
 「センチュリーロイヤル」の先代車種である。
"宮内庁へ納入するために開発された御料車専用車種"
日産自動車と合併する前のプリンス自動車が開発・製造を行い、
合併後の1967(昭和42)年に宮内庁に納入されたリムジン。
"プリンス店"系列が残っているのが名残。
2006年にトヨタが後継を納入した、当時の2代目センチュリーをベースだ。
当然、一般への販売・納入は一切行わない。
Posted at 2024/10/12 06:03:06 | コメント(0) | トラックバック(0) | 車全般 | クルマ
2024年10月11日 イイね!

道の駅北川はゆま

道の駅北川はゆま道の駅北川はゆま
(みちのえき きたがわはゆま)は、
宮崎県延岡市北川町長井の国道10号沿いに設置されている道の駅。東九州自動車道(延岡道路)の北川ICに隣接している。
所在地 〒889-0102
宮崎県延岡市北川町長井5751-1
座標 北緯32度39分58秒 東経131度42分16秒
登録路線 国道10号
登録回 第5回 (45002)
登録日 1994年(平成6年)4月26日
開駅日 1996年(平成8年)4月
営業時間 8:30 - 18:00(平日)
8:30 - 20:00(土・日)
外部リンク
・国土交通省案内ページ
・全国道の駅連絡会ページ
・公式ウェブサイト
道の駅北川はゆま
所属路線 E10 東九州自動車道(延岡道路)
本線標識の表記 国道10号 北川
【補助標識】道の駅北川はゆま
起点からの距離 202.2 km(北九州JCT起点)
◄須美江IC (5.6 km) (12.8 km) 延岡JCT/IC►
接続する一般道 国道10号
供用開始日 2012年(平成27年)12月15日
通行台数 x台/日
所在地 〒889-0102
宮崎県延岡市北川町長井5751-1
備考 上下線集約 北川ICに併設
1.概要
 「はゆま」は古代の駅制度のなごりで駅馬の古い呼び名(早馬から転じたもの)に由来する[1]。
 当初は一般道路(国道10号など)からのみ利用可能な駅であったが、2012年(平成24年)12月15日に開通した東九州自動車道(延岡道路)北川ICと接続され、高速道路からも利用が可能となった。また、北川ICの前後が無料区間であることから、本線への進入および退出に料金が発生しないため、東九州道の実質的なサービスエリア (SA) として機能している。実際に、東九州道(有料区間)の管理者である西日本高速道路(NEXCO西日本)は佐伯弥生パーキングエリア開業時の報道発表などにおいて、道の駅北川はゆまを東九州道の休憩施設と位置付けている[2]。
 2014年(平成26年)3月8日には店内の改装リニューアルが完了し、同年3月9日には東九州道北浦IC - 須美江IC間の開通と合わせて記念行事が行われた。
 2015年1月に重点道の駅候補に選定され[3]、2016年1月に重点道の駅に選定された。
2.歴史
2011年(平成23年)9月: 東九州自動車道のサービスエリアとしての利用者増加を見越して、トイレ増改築と駐車場の拡張工事、九州の道の駅では初となるコインシャワーの設置が行われる[4][5]。
2012年(平成24年)12月15日: 当駅に隣接する、東九州自動車道北川ICが開通。
2013年(平成25年)
5月: 道の駅の最寄りにある延岡学園高校と主に同校調理科生徒の実践型職業体験を目的とした業務提携を開始。
7月: レシピ開発〜マーケティング〜パッケージ制作を道の駅と高校生とで行った第1号商品として「のべがくプリン」の発売を開始[6]。
8月: 宮崎の産物「へべす」を使った「のべがくヘベスケーキ」の販売を開始。高校生が一泊2食のサービス企画・実践を行う「高校生オーベルジュ」を開催。
2014年(平成26年)3月8日: 増築工事が竣工し、販売面積増と共にテイクアウトコーナーを新設。また、店舗内の一部が改装リニューアルされる。
2015年(平成27年)
1月30日 - 国土交通省が道の駅 重点候補に選定する[3]。
4月1日: 高速バス「パシフィックライナー」(宮崎交通・JR九州バス・大分バス・大分交通・亀の井バスの共同運行)が運行開始[7][8]。休憩施設として当道の駅を利用。
2016年(平成28年)
1月27日 - 国土交通省が重点「道の駅」に選定する[3]。
2020年(令和2年)
3月31日 - 第3駐車場(大型車専用)が利用開始[9]。
2021年(令和3年)
4月29日 - 新女性用トイレの供用開始[10][11]。
5月5日 - 第1駐車場トイレ棟の改修工事に伴い、男性用トイレ・多目的トイレ・コインシャワー室・身障者用駐車場の利用が出来なくなる。男性用トイレについては仮設トイレを設置[10][12]。
8月5日 - コインシャワー室の仮営業再開[13]。
10月15日 - 第1駐車場トイレ棟が仮オープン[14][15]。
3.施設
第1駐車場
小型車:92台
身障者用:3台
バス専用:2台
トイレ棟
第2駐車場
小型車:15台
二輪車:10台
第3駐車場(大型専用)
大型車:23台
トイレ棟
コインシャワー室
公衆電話
公衆FAX
インフォメーションセンター
道路交通情報センター
レストランはゆま(土曜・日曜・連休9:00 - 19:00オーダーストップ)(平日9:00 - 17:30オーダーストップ)
売店* 延岡・宮崎の魅力満載「はゆまお土産館」(土曜・日曜・連休8:30 - 19:00)(平日9:00 - 19:00)
農林水畜産物直売所「はゆま物産館」(土曜・日曜・連休8:30 - 19:00)(平日9:00 - 19:00)
テイクアウトコーナー(土曜・日曜・連休9:00 - 19:00オーダーストップ)(平日9:00 - 17:30オーダーストップ)
体験コーナー「北川はゆま木工室」(9:00 - 17:00、土日のみ予約のみ受付)
4.休館日 物産館
年中無休(年末・年始は時間を変えて営業)[16][17]
5.アクセス
国道10号 - 登録路線
E10 東九州自動車道(延岡道路)
JR日豊本線日向長井駅から徒歩15 - 20分
6.隣
E10 東九州自動車道( 延岡道路の区間含む)
(20-1) 須美江IC - (21) 北川IC/道の駅北川はゆま - (22) 延岡JCT/IC
7.脚注

8.外部リンク
道の駅北川はゆま
九州「道の駅」ガイド(国土交通省九州地方整備局)
最終更新 2023年12月9日 (土) 05:39 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

北川町(きたがわちょう)は、かつて宮崎県東臼杵郡におかれていた町。
2007年3月31日、延岡市に編入された。
 現在は旧町域に延岡市の地域自治区「北川町」(きたがわまち)が設置されている。
廃止日 2007年3月31日
廃止理由 編入合併 北川町 → 延岡市
現在の自治体 延岡市
 廃止時点のデータ
地方 九州地方
都道府県 宮崎県
郡 東臼杵郡
市町村コード 45427-3
面積 279.91 km2
総人口 4,374人(推計人口、2007年3月1日)
隣接自治体 延岡市、西臼杵郡日之影町、大分県佐伯市
町の木 カシ
町の花 ツツジ
町の鳥 ウグイス
北川町役場
所在地 〒889-0101
宮崎県東臼杵郡北川町大字川内名7250番地
1.地理
 宮崎県の北部に位置し、大分県と接する。日向灘に近い位置にあるが、日向灘沿岸地域は延岡市の市域となっており、北川町自体は日向灘に面していない。
山:鏡山・大崩山(おおくえやま)・可愛岳(えのだけ)
川:北川・祝子川(ほうりがわ)
ダム:祝子川ダム
2.歴史
 1877年の西南戦争では、町内が戦場になり、薩摩軍、野戦病院・西郷隆盛宿営地跡が存在する。
2-1.近現代
1889年(明治12年)5月1日 - 町村制施行により、北川村が発足。
1958年(昭和33年)5月21日 - 大崩山に大阪から鹿児島に向かう途中の単発航空機(デ・ハビランド・カナダ DHC-2)が墜落。乗員4人全員死亡[1]。
1972年(昭和47年)11月1日 - 単独町制施行。北川町となる。
2007年(平成19年)3月31日 - 延岡市に編入した。
3.防災
台風が東シナ海から九州地方に上陸する進路をとると(熊本県水俣市付近→大分県大分市付近通過コース)町内は大きな被害を受ける。平成9年・16年・17年と水害に遭っている。
北川町消防団音楽隊(ラッパ隊)
ラッパ隊の吹奏技術は、県内トップクラスで、宮崎県消防大会では、3位・2位と入賞を果たしている。隊員は、役場職員・町内団員で構成されている。
4.産業 特産品
アユ
イノシシ肉
シイタケ
牛肉(北川牛)
備長炭
5.教育
5-1.中学校
北川町立北川中学校
5-2.小学校
北川町立北川小学校
北川町立下赤小学校 (閉校)
北川町立瀬口小学校 (閉校)
北川町立松葉小学校 (閉校)
6.交通
最寄り空港は大分空港または宮崎空港。
6-1.鉄道 九州旅客鉄道(JR九州)
日豊本線 市棚駅 - 北川駅 - 日向長井駅
中心駅は北川駅。しかし、列車は一日数本のみの運行である。
6-2.バス路線 一般路線バス
宮崎交通
延岡市 - 北川町
特急わかあゆ号:大分市 - 豊後大野市 - 宇目(佐伯市) - 北川町 - 延岡市
6-3. 道路
6-3-1.高速道路
東九州自動車道(延岡道路):北川IC
ICの出入口に道の駅北川はゆまが併設されている。
6-3-2.一般国道
国道10号 道の駅北川はゆま
国道326号
国道388号
川島トンネル - 浦城トンネル間が僅かに介入している
6-3-3.県道
●主要地方道 宮崎県道43号北川北浦線
●一般県道
宮崎県道207号岩戸延岡線
宮崎県道219号日向長井停車場線
宮崎県道240号日豊海岸北川線
7.名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
祝子川温泉・祝子川渓谷
ホタルの館・川舟の館
森谷観音滝
香花谷観音滝
黒内滝
和田越戦場跡
ホタルまつり(6月)
ふるさとまつり(8月)
8.脚注
[1]^ 日外アソシエーツ編集部編 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年、129頁。ISBN 9784816922749。
9.外部リンク
北川町
延岡市・北川町合併協議会
最終更新 2023年12月23日 (土) 00:44 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
以上 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


≪くだめぎ?≫
 「通称:宗太郎越え」
"重岡 - 宗太郎 - (県境) - 市棚"の
重岡駅が峠で、宗太郎・市棚へ20‰の下り勾配と
30を超えるトンネルが続く、
鐙川(あぶみかわ)沿いの谷間である。
 「宗太郎駅」南側に県境があり、
付近の旧国道跡に"白看板"の「北川村」が朽ちていると、
今回のテキスト鉄道ジャーナル2018.7(No.621)
特集「県境を越える」に掲載されている。
"北川村"→「北川町」の時が一番の勢いだったのか。

 宮崎県東臼杵郡北川町(ひがしうすきぐん・きたがわちょう)
といえば、大崩山(おおくえやま)であるが、西側の
祝子川(ほうりがわ)流域であり、
 今回の舞台は東側の北川流域である。
『道の駅北川はゆま』は
・メイン宗太郎越え・日豊本線・国道10号
・道の駅宇目・みえ・国道326号(旧日向街道)
・海側の東九州自動車道・国道388号
の三方から集まる場所で、至近に日向長井駅(徒歩15 - 20分)
があるが、現在は高速幹線バスも設定されていない。
 いかにも車社会の県境である、象徴的な場所だ。
Posted at 2024/10/11 18:24:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | ふしぎな酷道 | 旅行/地域

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