
[写真・画像]
(上)九戸城跡俯瞰図
(下)九戸城航空写真
市の中心部にある九戸城跡は昭和10年に国の指定を受けた史跡です。この城は九戸政実の4代前の光政が築いたとも言われ、豊臣秀吉天下統一の最後の合戦場となりました。城跡には、東北最古とみられる石垣遺構が残っています。
【九戸城跡に関するQ&A】
1.
Q:なぜ二戸市にあるのに九戸城なのでしょう?
A:九戸氏の居城=九戸城です。もとは現在の九戸郡を治めた南部氏の一族が九戸氏を名乗り、その後九戸の地と福岡地方を同時に統治するようになりました。
2.
Q:なぜ史跡の名称は福岡城ではなく九戸城なのでしょう?
A:地元の九戸氏への強い思い入れです。百年以上治めた九戸氏に対し、南部公は短期間で盛岡へ移った事や、九戸方の悲壮な最期を目の当たりにした人々の思いは、謀反人であっても密かに弔い続けた事を記す古碑にも現れており、あえて「九戸城」と呼び続けたのです。
3.
Q:九戸城に天守閣はあったの?天守閣の復元はするの?
A:現在復元の予定はありません。今の姿は福岡城ですが、発掘調査では瓦の出土も無く、天守や櫓があったか不明です。それより前の九戸城にはおそらく板葺きの櫓がありましたが、絵図等も無く場所が不明です。建物の復元は確実な考証が必要で、確実な建物は礎石を残す本丸の門と橋で、こちらが復元される可能性はあります。
4.
Q:石垣のある堀には水はあったのでしょうか?
A:空堀です。本丸と二ノ丸の間の堀は、豪雨があっても地盤の水はけがよく、水はたまりません。
5.
Q:上方軍の謀略撫で斬りは本当ですか?
A:二ノ丸跡の発掘調査で首を刎ねられて無数の刀傷を負った女性を含む複数の人骨が出土しており、実際に撫で斬りにされたと思われます。
【九戸城(福岡城)の特色・構造】
九戸城には、東北地方の中世の城と近畿地方の近世の城の特色が見られます。地形を活かし曲線的な九戸城の中に直線的に改修された福岡城の部分があります。
三方を川に囲まれた平山城で、約36万m2(指定地21万m2)、東京ドームの約10倍です。
九戸城旧来の姿を留めるのは若狭舘・外舘等で、本丸は改築された福岡城であることが解っています。本丸は二ノ丸より一段高く土を盛って築かれており、この盛り土から焼けた生活用品や火縄銃の弾丸が出土し、明らかに合戦後の整地です。堀沿いに土塁と石垣が巡り、土塁の高く広い部分は隅櫓跡です。東の追手門は、門と木橋があったところで、南にも二ノ丸と地続きの虎口があります。二ノ丸は、本丸の東と南を囲む形で築かれ、周囲に土塁、南に大手門、北には搦手(からめて)門があります。本丸の西側下は三ノ丸で今は市街地です。松ノ丸は、人工の堀で囲まれ、土塁の一部が残り、南東には武家屋敷の在府小路に面して大手門があります。
以上 岩手県二戸市より
≪くだめぎ?≫
「二戸駅」=「北福岡駅」であり、
「福岡町」と言ったら『九戸城』である。
九戸郡を治めた南部氏の一族が九戸氏を名乗り、
九戸氏の居城=九戸城を築いた。
南部氏の一族であるけれど・・。
Posted at 2025/11/21 10:34:07 | |
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