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2026年03月28日 イイね!

東京府北多摩郡狛江村(こまえ)

東京府北多摩郡狛江村(こまえ)“日本で2番目に小さい市”にある
ナゾの駅「狛江」には何がある? 鼠入 昌史
[写真・画像] 今回の路線図。東京と神奈川のはざま、小田急線の途中に“ナゾの駅”が……
 東京と神奈川の都県境は多摩川……なんて思っている人は多いのではないかと思う。
 確かにその通りで、羽田空港のある河口付近からアザラシのタマちゃんが出没した丸子橋付近までは、多摩川を挟んで大田区と神奈川県川崎市が向かい合う。それより上流は、世田谷区と川崎市だ。
 実はさらに上流にさかのぼると、多摩川の南側まで東京都内がせり出してくる(稲城市や多摩市、町田市だ)。なので多摩地域の人にしてみれば、多摩川は都県境でも何でもないのだが、少なくとも区部にあっては川の向こうは神奈川県だ。
■いかにもな世田谷エリアを抜けた先に…
 だから、東京都心から神奈川方面に延びてゆく私鉄のほとんどは、多摩川で都県境を跨ぐ。中でも今回は、小田急線だ。
 下北沢、経堂、成城学園前。いかにもザ・世田谷といった印象の駅をいくつも連ね、多摩川を渡って南武線と交差する登戸駅へ……。
ん……? いや、それで本当にいいんでしょうか。何か忘れていませんか。
 そう、世田谷区を抜けて多摩川を渡るその直前、小田急線は小さな町を通り抜けている。
東京都狛江市――。区ではなく市、つまり多摩地域の町なのに、なぜか市外局番が042ではなく03という、なんとも特殊なポジションにありそうな町である。
写真を見る
■“日本で二番目に小さい市”にあるナゾの駅「狛江」には何がある?
 狛江市は、人口約8万4000人、面積はわずか6.39平方キロメートル。なんたって、東京都内では最も狭い市で、それどころか日本全体でも蕨市に次ぐ“狭い市”ナンバー2。
 だから……というわけでもないのでしょうが、その玄関口の狛江駅は小田急線の中でも小さな部類の駅に属する。
■各駅停車しか停まらない駅
 具体的にいえば、朝・夕などにわずかに準急が停まるほかは、狛江駅には各駅停車しか停まらない。急行も快速急行も、もちろんロマンスカーだって。小田急線を代表するような看板列車は、どれもこれも狛江駅を素通りしてしまうのだ。
 人口8万都市のターミナルだというのに、なんだかあんまりではないか。世田谷区内、快速急行こそ下北沢だけだが、急行は経堂にも成城学園前にも停まるのに……。
  おかげで、この狛江という町は、そこに暮らしている人でもなければ存在すらも忘れてしまうような、そんなポジションに甘んじてしまっているのではないか。少なくとも、快速急行ばかり使っているような人には、この町の存在は目にも留まらない。
■いささか不便…と思いきや?
 このあたりの小田急線は、複々線の高架だ。だから狛江駅も高架駅。ホームは下りと上りそれぞれが向き合っている構造だ。複々線と言っても、ここには快速急行もロマンスカーも停まらないのだから、中央にはホームを持たない線路が2本。
 各駅停車しか停まらないとなると、いささか不便なのではないでしょうか。そう思ってみたところで、実は新宿駅まで30分足らず。シモキタあたりで快速急行に乗り継げばもうちょっと早く行けるのだろう。
 朝のラッシュアワーも各停ならばそれほど混んではいまい。昼間だって10分間隔だ。だからさして不便ということもないのだろう。
 そして、駅舎もなかなかに立派、堂々たる神殿のようなデザインをしている。
 高架下の改札を抜けた先には、「小田急マルシェ」という商業施設。コンビニに  本屋、ファーストフードと、まあよくあるラインナップだ。
■まるで渋谷の109みたいな…
 改札前から北口に出ると、バス乗り場などのあるロータリー。その脇に、「狛江エコルマホール」という複合施設が建っている。駅に近い正面入口は円形のタワーになっていて、なんだか渋谷の109みたいだ。
 で、その中にはスーパーマーケットや家電量販店のノジマ、そしてドトールコーヒー。とどのつまり、狛江駅は駅とその目の前の小さなエリアだけで、これさえあればなんとかなるよね、といった施設がピシッとまとまっているのだ。
 さらに言えば、駅前には銀行、もう少し(といっても5分ほど)足を伸ばせば市役所もあるし、ラーメン屋もあるし。面積が日本で2番目に小さいからなのかどうなのか、実にコンパクトにまとまっている町である。
 こういうタイプの駅前に共通していることは、賑やかな駅前やメインストリート(狛江の場合は「狛江通り」がそれにあたるのだろう)から少し脇道に入れば、うってかわって静かな住宅地になるということだ。
 狛江もまさにそういう町だった。市役所沿い、また市民センターなどのある狛江通りから本町通りの角を曲がり、さらに脇道に入るとまったく大通りの喧噪も聞こえない。
 ラーメン屋どころかコンビニひとつなさそうな、静かな静かな住宅地。道が細く曲がりくねっているのは、昔からのこの地域の地形にあわせた古い道だからなのだろう。
■古代の昔から使われた「品川道」
 地図を見てみると、この道は「品川道」というらしい。古代の昔、武蔵国の国府が置かれた府中から海の玄関口だった品川湊(目黒川河口付近)までを結んでいた。つまり、相当に重要な道だったのだ。きっと、物資や朝廷の役人が行ったり来たりしていたに違いない。
 が、いまの品川道にはその面影はない。人通りの多いメインストリートは直線で通る狛江通りに譲り、家路につく人たちが行き交う生活道路。妙に人通りが多いのは、駅前から続く近道になっているからなのだろう。
 そんな人の流れに逆らうようにして、駅前に戻る。
■ところどころに畑と古墳
 途中にはところどころに畑があったりして、かつてこのあたりは農村だったのだろうと思わせてくれる。
 また、六郷さくら通りというやや広い道沿いには、こんもりとした木々の茂る「経塚古墳」。説明書きを読めば、5世紀後半の円墳だとか。
 他にもこのあたりにはいくつかの古墳が点在している。どれもこれも、きっと遠い昔にこの地域を治めていたエラい人のお墓だ。品川道もそうだし、古くから人の営みがあったということだ。
■かつては田園地帯の農村だった
 六郷さくら通りには、もともと多摩川から引いた農業用水・六郷用水が流れていた。これは江戸時代初期に開削されたものだが、つまりはかつての狛江は多摩川沿いの田園地帯、農村だったのである。
 そんな古の面影を感じながら、泉龍寺という立派なお寺の脇を抜けて駅前に戻ってきた。
 駅前ロータリーの脇から広がる泉龍寺の境内を中心とした広大な緑地は、狛江弁財天池特別緑地保全地区という。駅前の超一等地ながら、自然のままの緑地が残る。市民の手で維持されていて、野鳥なども見られるという。
 泉龍寺は、奈良時代の創建で江戸時代に復興、以来この地の中心に鎮座してきた。きっと、町としての狛江は泉龍寺の周辺に広がった門前町。そこに農業用水が流れ、田畑を耕して狛江の人々は生活を繋いできたのである。
 なんでも、狛江は高句麗からの渡来人、“高麗人”が開拓したのがはじまりだとか。高麗が転じて狛江。そんな地名の由来が伝わっている。
 もちろん遥か古代の物語。それから一貫して、ほとんど変わらぬ農村地帯であり続けてきた。明治に入ってもすぐには変わらず、ようやく都市化がはじまったのは1927年に小田急線が通ってからだ。
 別に小田急が狛江を舐めていたワケではないだろう。が、当初狛江駅の設置は予定されていなかった。
 ところが、それでは困ると地元の人たちが立ち上がる。皆からお金を集め、地主さんから駅のための土地を買い上げて小田急に寄贈したのだとか。
■いくつもの軍需工場が進出
 こうして開業した狛江駅をきっかけに、少しずつ市街地が開けてゆく。ただ、本質的には農村であったことは変わらない。古い空中写真を見ると、戦後も昭和40年頃まではそうした風景が広がっている。
 ただ、そうした中でも昭和初期には狛江通り沿いなどを中心に、いくつか工場が進出している。東京航空計器に代表されるように、軍需工場の性質が強いものが多かったようだ。
 工場ができればそこで働く人もいる。さらに戦後、工場跡地や町外れの多摩川沿い田園地帯などに、都営住宅や大型団地などが建設される。昭和40年代には相次ぐ洪水に対処すべく、町中を流れて六郷用水と合流していた野川の付け替えも行われた。
■調布派と世田谷派に分かれた過去
 こうして着々と都市化が進んでいった狛江には、隣接する調布市や世田谷区との合併の話が絶えなかったという
 ホンネを言えば、市よりは区のほうが気持ちがいい。だから調布市ではなく世田谷区。が、東京都としては区部を拡大する意向ナシ。市民は調布派と世田谷派に分かれて云々、などという話も残っている。
 が、結局狛江はどちらとも合併せず、1970年に狛江町から狛江市に昇格した。当時の人口は5万人台で、それからもどんどん増えて1985年には7万人を突破。この年には、市内最後の田んぼも姿を消した。
 どことも合併せずに単独で市になったのが良かったのかどうなのか。それを決めることができるのは、筆者のような部外者ではなく市民だけである。
 1995年には、狛江駅がそれまでの地上駅から高架駅になった。あわせて学校があった駅の北側も再開発。そうしていまのバス乗り場のある北口駅前広場が生まれた。
■区部と多摩のいいとこ取り
 南口には、いまも地上駅時代のロータリーが残っている。その周りには、古い居酒屋などがいくつか軒を連ねていた。昔ながらの狛江の駅前だ。
 駅前の、ほんの小さなエリアに集まる狛江の商業ゾーン。その周囲には住宅地が連綿と広がっている。大きなマンションも目立つが、中には保全地区のように緑地もあって。さすが、ベッドタウンとして発展してきた都境の町。なかなか優れた住環境といっていい。
 実質的には区部に属してもいいような、でもどことなく武蔵野らしさも残る町。東京にあって、区部と多摩のいいとこ取りをしている、そんな町が狛江なのである。
文春オンライン

≪くだめぎ?≫
 1889年4月 神奈川県における町村制の施行
"7か村組合"が廃され和泉村・岩戸村・駒井村・小足立村・覚東村の6村が合併し、狛江村、古代の地域一帯の呼び名であった狛江郷から採用されたと考えられている。
 1893年4月 いわゆる三多摩が東京府に移管。
 1927年4月1日、小田急小田原線が全線開通、
同日に和泉多摩川駅、5月27日、住民による請願駅として狛江駅が開業した。
 1943(昭和18)年7月 東京府→東京都、
 1952(昭和27)年11月に町制が施行され、狛江町、
 1970(昭和45)年10月に市制を施行し、狛江市。
現在、世田谷区である、千歳村・砧村に遅れ?を取ったのは否めないが、
すぐの隣村であり、小田急線沿線であり、“日本で二番目に小さい市”であることが、
市外局番が「03」を手に入れたのでないか・・。
Posted at 2026/03/28 18:51:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | 都道府県区市町村 | 旅行/地域
2026年03月28日 イイね!

『国鉄EF59形電気機関車』

『国鉄EF59形電気機関車』[写真・画像] EF59 1の東京側連結器回り。
空気管付き連結器と自動開放装置を確認できる。(2007年4月撮影)
 EF59形は、1963年(昭和38年)に登場した日本国有鉄道(国鉄)の直流用電気機関車である。
 山陽本線の瀬野駅 - 八本松駅間の、「瀬野八」と呼ばれる22.6‰が連続する勾配区間の補助機関車(補機)として使用するためにEF53形とEF56形から改造された。
 ■基本情報
運用者 日本国有鉄道
種車 EF53形・EF56形
製造年 1932年 - 1940年(種車)
改造年 1963年 - 1972年
改造数 24両
引退 1986年
投入先 山陽本線(瀬野八)
 ■主要諸元
軸配置 2C+C2
軌間 1,067 mm(狭軌)
電気方式 直流1500 V
全長 19,920 mm
全幅 2,810 mm
全高 3,940 mm
運転整備重量 106.60 t
動輪上重量 85.62 t
台車 動力台車:HT53、HT59[注 1]
従台車:LT214、LT215[注 2]
軸重 14.27 t
動力伝達方式 歯車1段減速、吊り掛け式
主電動機 MT17 × 6基(1- 12)
MT17A × 6基(13 - 24)
歯車比 21:77=1:3.67
制御方式 重連、抵抗制御、3段組合せ制御、弱め界磁制御
制御装置 電磁空気単位スイッチ式
制動装置 EL14A空気ブレーキ、手ブレーキ
最高運転速度 95 km/h
定格速度 51 km/h(1時間定格)
定格出力 1,350 kW(1時間定格)
定格引張力 11,700 kg(1時間定格)
1.登場の経緯
 山陽本線の瀬野駅 - 八本松駅間では、1962年に電化が実施されたあとも貨物列車用の補機としては従来のD52形蒸気機関車を使用していたが、1963年(昭和38年)度中に岡山駅 - 広島駅間の貨物列車を電気機関車に置き換える際、瀬野八の補機も全面的に電気機関車にすることが決定された。
 計画段階では、EF60形をベースに新形式機関車を製造する案や、EH10形を改造する案、ED60形を増備して使用する案なども出されたが、置き換えにかかる経費を考慮し、信越本線電化および東北本線・高崎線の客車列車の電車化により余剰となるEF53形を改造して補機とする案が1962年末に決定[1]、1963年3月から4月にかけて2両の改造工事を実施した。
 当初、最高運転速度は85 km/h以下で、形式はEF20形となる計画だったが、特急列車が広島駅で補機を連結して広島駅 - 瀬野駅間で90 km/hでの運転を行うことから、最高運転速度85 km/h以上を意味するEF59形という形式になった。
2.改造
主な改造内容は以下のようなものである。
・歯車比の変更(2.63 → 3.67)
・重連総括制御装置[注 3]の取り付け
・両車端部に総括制御用ジャンパ栓、釣合い管と元空気溜め管連結ホースを取り付け
1エンド側(東京方)に、D52・EF61形と同様に連結器の自動解錠装置を取り付け
 改造当初は車体色をぶどう色(茶色)一色としていた[2]が、八本松駅や西条駅からの機関車回送時には保線作業員からの視認性が問題となったため2エンド側(下関方)に警戒色を施すこととなり、1966年(昭和41年)に前面窓下と端梁を黄色一色に塗るものと黄色と黒をV字型に塗ったトラ模様が実際の車両で比較され[3]、トラ模様の警戒色が採用された(EF59 24のみ逆V字で塗装)。
 昭和40年代前半には瀬野八を越える貨物列車の補機運用は西条駅停車での解放が基本となった一方、同時期に登場した10000系貨車のみで組成された特急貨物列車(後の高速貨物列車)に対しては例外的に走行解放を続けていたものの[4]保安上の問題から連結器の接続と同時に10000系貨車へ電気連結器とブレーキ管を接続、走行解放時には連結器・電気連結器とブレーキ管の解放だけでなく補機のブレーキも自動で作動させる電空式密着自動連結器を取り付けることとなり、1968年(昭和43年)以降の改造車は当初より、それ以前の改造車は連結器の追加改造を行って1970年(昭和45年)から本格的に使用を開始した[5][6]。その結果東京方の連結器周りは、非常にいかめしい構えとなった。尾灯は大部分は外付け式のままであったが、11、17 - 19号機は車体組み込み式に改造されている。
 EF53形は1968年までに19両全機がEF59形に改造された。のちにEF56形から5両が追加改造され、EF59形は計24両が在籍していた。
3.グループ別概説
3-1.EF59 1 - 19
 1963年から1968年にかけてEF53形から改造されたグループである。番号の新旧対照は、次の通りである。 EF59-EF53
(1-8)、(2-9)、(3-3)、(4-11)、(5-12)、(6-5)、(7-6)、(8-7)、
(9-4)、(10-1)、(11-2)、(12-10)、(13-19)、(14-16)、(15-18)、(16-17)、
(17-14)、(18-15)、(19-13)
3-2.EF59 20 - 24
 増備のために1969年と1972年にEF56形から改造されたグループである。EF56形前期型から改造されたEF59 20 - 23は丸みを帯びた車体をしているが、後期型から改造されたEF59 24のみ角張った車体をしている。EF53形への改造内容に加えて暖房用ボイラー(SG)の撤去が行われた。しかし、元々SGを搭載していたために車体の腐食が激しく、また比較的少数派のために、EF59 21を除いて比較的早く運用離脱した。番号の新旧対照は、次の通りである。 EF59-EF56
(20-1)、(21-2)、(22-3)、(23-5)、(24-12)
4.後補機運用
 1963年から瀬野機関区に配置され、蒸気機関車に代わり瀬野八の後補機運用に使用されたが、運用区間や連結両数は列車によって異なっていた。基本的に貨物列車は重連で補機運用を行い、一部の荷の軽い(600トン以下)貨物列車と、旅客列車(荷物列車も含む)については単機で補機運用が行われた。また、貨物列車・旅客列車問わず補機使用列車は瀬野駅に停車して後部に補機を連結するのが基本としていたが、速達性を要求されることから瀬野駅が通過設定となっている10000系貨車を使用した高速貨物列車については広島操車場から、同じく瀬野駅を通過する寝台特急列車[注 4][注 5]などの旅客列車は広島駅から補機が連結された。
 瀬野駅から八本松駅にかけての勾配区間での後押しの任を終えたEF59形は、八本松駅手前で走行解放を行っていたが、貨物列車については1965年以降高速貨物列車を除いて走行解放を行わず連結したまま西条まで走行し、そこで停車後列車より解放されていた。瀬野八は上り方向への片勾配であるため、後補機の勤めを終えたEF59形は下り列車に連結されず、回送列車で瀬野駅に戻っていたが、列車密度の高い山陽本線ゆえに単機で回送されることはなく、最低でも重連、最高で六重連を組成して回送を行っていた[7]。
5.廃車
 老朽化が進んだことから1977年に後継機としてEF61形200番台が開発されたが、重連使用時に不具合があることが判明したため8両を投入した時点で置き換えは中止され、EF59形重連を必要とした1200t列車を中心に老朽化を押して引き続き使用されたが、1979年までに貨物列車の本数削減や山陽本線の寝台特急牽引機をEF65形へ統一したことによる補機運用縮小もあって11両が廃車となり、1980年10月以降は13両配置の8両使用となっていた[8]。
 後継機の開発が遅れたため、EF53形よりも後に登場したEF56形およびEF57形と比べて長期間使用されたが、1982年からEF67形が開発・増備されたため、残った車両の廃車が進み、1986年10月12日の運行をもって全車が運用離脱した[9]。EF59 10は保存を目的に西日本旅客鉄道(JR西日本)に承継され、下関地域鉄道部下関車両管理室で保管されていたが、2006年7月に除籍され解体された。この車両の廃車により、本形式は2006年度に廃形式となった。
6.保存機
 現役時代は補機専用という地味な存在だったが、長期間使用されたために保存機が多い。
7.脚注
7-1.注釈
[注 1]^ 1 - 12, 20 - 23はHT53、13 - 19は混合、24はHT59
[注 2]^ 1 - 12は混合、13 - 19はLT215、20 - 23はLT218、24はLT218A
[注 3]^ 関門トンネルで使用されていたEF10形の総括制御装置を元にしたものである。
[注 4]^ 1972年10月ダイヤ改正で関西発着の寝台特急については規格ダイヤによる速度低下が実施され、牽引機がEF65形からEF58形に変更されたため、上り列車についてはEF59形の補機が必要となった。
[注 5]^ 寝台特急列車も山陽新幹線全通前の在来線優等列車が多く運転された時期には運用の都合一部が瀬野駅に運転停車して補機を連結した。
7-2.出典
[1]^ 久保田博「山陽線瀬野・八本松間の補機用電機形式の選定」『JREA』 6巻、3号、日本鉄道技術協会、1963年3月、37-39頁。doi:10.11501/3255810。 一部に"EF10形も検討対象だった"という言説があるようだが、EF10形の余剰車がないため検討されなかったと明記されている
[2]^ 長船友則「EF59補機として運転開始」交友社『鉄道ファン』1963年8月号 No.26 p64
[3]^ 鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』2022年7月号 No.1000 p136掲載写真
[4]^ 平川洋一「列車追跡シリーズ9 シェルパ・EF59の一日」鉄道記録映画社『鉄道ジャーナル』1969年5月号 No.21 p4-13
[5]^ 庄田秀「山陽本線 瀬野越え補機の回送と現況」交友社『鉄道ファン』1974年8月号 No.160 p24-25
[6]^ 藤本勝久「EL版 ヨン・サン・トオの回顧」 交友社『鉄道ファン』1993年10月号、No.390 p76
[7]^ 庄田秀「山陽本線 瀬野越え補機の回送と現況」交友社『鉄道ファン』1974年8月号 No.160 p24-30
[8]^ 村上勉「セノ=ハチのEF59のあゆみと現状」電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1982年4月号 No.402 p51-53
[9]^ 『鉄道ジャーナル』第20巻第13号、鉄道ジャーナル社、1986年12月、116頁。
8.参考文献
・電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1963年5月号(通巻144号) H.K.生 EF53形式電気機関車、西の函嶺へ転用きまる
・交友社『鉄道ファン』 1974年8月号 No.160 特集:瀬野八の回想と現況
9.関連項目
特急さくら殺人事件 - 西村京太郎の推理小説。本電気機関車を用いたトリックがある。
最終更新 2026年1月21日 (水) 07:27 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

≪くだめぎ?≫
 「セノハチ」の本当の"ヌシ"、と個人的には思っている。
当地が電化してから、間があって1963(昭和38)年に改造・投入された。
東北本線のEF57形も人気だったが、
先頭部の「デッキ」が迫力度ではEF59(EF53形・EF56形)も負けない、
というか実に実用的だと思うが。
 "落ち葉対策"でも有効だと・・。
Posted at 2026/03/28 17:20:08 | コメント(0) | トラックバック(0) | 直流電気機関車史 | 旅行/地域
2026年03月28日 イイね!

蛍光灯(けいこうとう)

蛍光灯(けいこうとう)[写真・画像] JLMA 一般社団法人日本照明工業会 より

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 蛍光灯(けいこうとう)または蛍光ランプ(fluorescent lamp)、蛍光管(けいこうかん)は、放電により飛び出した電子が、ガラス管内に封入された水銀の原子に衝突することで発生した紫外線を、ガラス管内面に塗布した蛍光体に当てて可視光線に変換する光源である。
 方式は熱陰極管 (HCFL; hot cathode fluorescent lamp) 方式と冷陰極管 (CCFL; cold cathode fluorescent lamp) 方式とに大別される。一般照明用に使用される蛍光灯は一部の例外を除いてほとんどが熱陰極管方式である。冷陰極管方式はノートパソコンや液晶モニターのバックライト用途として1990年代に開発が進み、2000年代には液晶テレビの普及に伴い大規模に使用されたが、非常灯や自動車の丸型ヘッドライト(いわゆる「イカリング」)など他用途への応用を模索し始めた2000年代後半にちょうどLED照明の普及期に入ったため、一般照明用としてはほとんど利用されないまま淘汰された。
 ■概要
 最も広く使われている方式は、電極をガラス管内に置き(内部電極型)、低圧水銀蒸気中のアーク放電による253.7 nm線を使うものである。ガラス管内面に蛍光物質を塗布せず、紫外線を通す石英ガラスを使用して紫外線をそのまま放出すると殺菌用蛍光灯(殺菌灯)になる。
 水銀含有製品ながら、2010年代までは白熱電球などとともに家庭用・オフィス・商業施設・公共施設・工場など多くの場所で代表的な光源として広く使われていた。他の方式の光源ともども、2010年代以後に次第にLEDに置き替えられているが、蛍光灯はあまりに普及していることから、日本では、LEDへの置き換えが完了していない。2020年時点で、国内に18.1億台と推定される一般照明器具のうち、蛍光灯は約7億台と推定されている[1]。
 水銀含有製品であることから、リサイクルできる施設が限られ、「資源ごみ」として回収している自治体は少なかった。「資源ごみ」として回収された蛍光灯は水銀・ガラス・鉄・などにリサイクルされ、回収された場合のリサイクル率は高いが、そもそも回収率が低く、日本で回収されリサイクルされている蛍光灯は、2003年時点で7.5%に過ぎなかった[2]。ほとんどの蛍光灯は「埋め立てごみ」として破砕して埋め立てられた。水銀含有製品であることから、埋め立てる場合は遮断型もしくは管理型処分場が望ましいが、日本でそのような処分場は不足しており、多くがそのまま埋め立てられた。2000年代前半には液晶テレビの普及に伴い蛍光管の販売量が急拡大し、リサイクルの確立が急務となったが[3]、2000年代後半よりLEDの普及期に入り、蛍光管は次第に販売量が少なくなった。LEDの普及および蛍光灯の減少に伴い、2024年に蛍光灯リサイクル業界2位のJ&T環境が撤退し、2024年現在、北海道北見市留辺蘂町にある野村興産イトムカ鉱業所(旧・イトムカ鉱山)が日本唯一のリサイクル施設となっている。
 水銀含有製品であることから、RoHS指令および水銀に関する水俣条約(水俣条約)において早期の廃止が議論されたものの、事業所や家庭などに多くの蛍光灯が残る日本などの反対により、例外的に生産が許可されてきた[4]。しかし、2023年に開催された水俣条約の第5回締約国会議の合意に基づき、世界における一般照明用の蛍光灯について、30Wを超えない電球形蛍光灯は2025年末、30Wを超える電球形蛍光灯およびコンパクト形蛍光灯は2026年末、残りの直管形蛍光灯・非直管形(環形)蛍光灯は2027年末までにそれぞれ製造禁止とすることが決定され、日本もそれに従うものと想定されている(ただし、2028年以後も蛍光灯の使用の継続、および輸出入を伴わない国内在庫品の販売は可能であるほか、一部の特殊用途のものは禁止の対象外[5])[6][7]。
[1]^ 「蛍光灯」が照らした時代は過去になりゆく…パナソニックが生産終了へ LED照明に切り替える際の注意点は :東京新聞 TOKYO Web
[2] 蛍光管リサイクルによる CO2・健康リスク及び資源消費削減効果の推計 北九州市立大学
[3]^ 水銀添加製品処理の現状と今後の課題 京都大学環境科学センター
[4]^ 社説:蛍光灯製造の全面禁止 脱水銀へLEDの拡大 毎日新聞 (2023年11月10日)
[5]^ “ランプの「一般照明用」及び「特殊用途」の定義並びにその具体的な用途又は製品例について”. 一般社団法人 日本照明工業会. 2025年3月16日閲覧。
[6]^ “全ての一般照明用蛍光ランプ(蛍光灯)について製造・輸出入の禁止が決定”. 一般社団法人 日本照明工業会. 2025年3月16日閲覧。
[7]^ 一般照明用の蛍光ランプの規制について - 環境省、2025年10月15日閲覧。
最終更新 2026年1月30日 (金) 03:09 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

≪くだめぎ?≫
 JR『長苗代』駅の照明が劇的に明るくなった。
 "東日本大震災"時に少数派だった「LED」が、
"水銀"含有製品である「蛍光灯」を生産終了する目処が付きそうである。
「水銀」が使われているのを知らない人もいるはずだ。
Posted at 2026/03/28 16:19:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | ニュース
2026年03月21日 イイね!

津軽「新田地方」

津軽「新田地方」津軽の街と風景
江戸前期に新田開発=10
三新田神社(つがる市木造)4代藩主津軽信政が新田開発の成就を祈り、延宝年間(1673~81年)に現在地に移転させたもの。代官所のすぐ北側にある(筆者撮影)
 現在の五所川原市・つがる市地方は「新田地方」とも呼ばれる。この地方は江戸時代前期、新田開発が進展した地域である。現在のような青々とした水田が広がる光景は、この時期にかたち作られたものであった。
 戦国時代が終わり、武力による領土拡張が出来なくなると、全国の諸藩は新田開発による年貢増強を盛んに行ったが、弘前藩はその中でももっとも新田開発が進んだ藩の一つであった。弘前藩の新田開発は、いわゆる「小知行派(こちぎょうはだち)」と呼ばれる在地の有力者による小規模な開発から始まった(派とは新田を示す津軽地方独特の用語)。
 しかし、大がかりな水利工事を伴う開発は個人では限界があるため、17世紀後半には藩が直接指揮する大規模新田開発が積極的に行われるようになった。その成果として17世紀末には米の収穫量は、幕府から公認された表高4万7千石の5倍以上に達している。
 開発の中心は、広大な低湿地が広がっていた岩木川下流域であった。岩木川右岸では五所川原新田(15ケ村 開発時期1665~76年)・金木新田(18ケ村 1698~1705年)・俵元(たわらもと)新田(8ケ村 1704~27年)、左岸では広須(ひろす)新田・木造新田(123ヶ村 1681~1727年)などの新田が開かれた。おおむね現在の五所川原市・つがる市両市にまたがる(村数は「平山日記」による)。
 このうち五所川原新田は、1665(寛文5)年から藩士鳴海勘兵衛が派立頭(はだちがしら=開発の責任者)となって開発が始められた。湊(現五所川原市)で十川をせき止め、そこに取水口を付けて取水していたが、十分な用水の確保が出来なかったためさらに約20キロ上流の現藤崎町白子から五所川原堰を掘削し、1691(元禄4)年に完成した。移住民は領内はもちろん、秋田・山形方面まで募り、家屋の建築材料を与え、3カ年間の食糧や農具を給与して便宜を図った(『青森県土地改良史』)。
 このような開発にあたっては、在地の有力農民が「人寄役(ひとよせやく)」や「堰役」に任命され、彼らの協力が不可欠だった。一方、広須・木造新田は1681(天和元)年から開発に当たらせた。水利はこれ以前から開削が進められていた土淵堰(どえんせき)を利用し、同年には末流である砂堰が完成している。1691~92(元禄4~5)年には広須新田から木造新田が分立したという(「平山日記」)。
 開発の進展に伴い、天和年間(1681~84年)には五所川原や木造(江戸時代には木造を木作とも表記)に代官所が置かれた。木造代官所には水利関係を管理する「土淵奉行」や、藩主が滞在する施設である御仮屋(おかりや)も設けられ、新田地方の拠点として機能した。代官所跡は1972(昭和47)年まで木造高校の敷地であったが、現在は公園になっている。
(青森県史編さんグループ主幹 中野渡一耕) 陸奥新報

≪くだめぎ?≫
 『津軽』地方を象徴する所だ。ザックリ言うと、
"五所川原新田"=五所川原市
"木造新田"=つがる市
 弘前城があり、それ以外の地域は"寒村"だったのを一変させる事業となった。
津軽地方=「津軽郡」だったのはそのため。
明治時代に入って「北・西・中・南・東」と、ようやく分割された次第。
 もちろん、岩木川流域の治水事業と一体となっている事業だ。
Posted at 2026/03/21 07:08:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | 都道府県区市町村 | 旅行/地域
2026年03月15日 イイね!

六戸(ろくのへ)

六戸(ろくのへ) [写真・画像]
可憐なピンク色の花びらが特徴の山桜で有名な館野公園。春には1,000本余りの山桜が咲き誇り、ゆったり散策しながら美しい桜を愛でられる人気のお花見スポットです。
 起伏にとんだ自然豊かな公園内には遊歩道もあり、ウォーキングや犬の散歩を楽しむ人々がたくさんいます。園内にあるさつき沼では、コイ、フナ釣りも楽しめ、無料のキャンプ場も併設。冬には白鳥が飛来し、幻想的な風景も見られます。
 水辺のきらめきと緑の美しさ、ゆったりと流れる時間が心を癒してくれる舘野公園で自然を満喫してみてはいかがですか。
住所 : 青森県上北郡六戸町大字犬落瀬字柴山174-1235
Amazing AOMORI 青森県観光情報サイト より

2006年(平成18年)3月1日 - 上北郡下田町・百石町が合併し発足[1]。2町は当初、六戸町を含む3町で法定合併協議会を設けて協議し、新市名を「おいらせ市」に決めていた。しかし、六戸町が財政計画案などに難色を示して合併協議から離脱し、市昇格を断念して2町合併による「おいらせ町」が誕生することとなった。青森県の町村の中では最多の人口を擁する。
[1]^ 2005年(平成17年)7月21日総務省告示第824号「町の廃置分合」
最終更新 2025年3月18日 (火) 01:34 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

六戸町(ろくのへまち)は、青森県上北郡の東南部に位置する町。十和田市や三沢市などとともに上北地域に属する[2]。一面が平坦な地形にて形成されており、目立った高山・湖沼はない。十和田湖を源流とする奥入瀬川が東西を流れ、流域には農地が広がる。積雪は多くなく年間を通して穏やかな気候である。
都道府県 青森県
郡 上北郡
市町村コード 02405-8
法人番号 4000020024058
面積 83.89km2
総人口 9,910人 [編集](推計人口、2026年2月1日)
人口密度 118人/km2
隣接自治体 十和田市、三沢市、上北郡東北町、おいらせ町、三戸郡五戸町
町の木 カエデ
町の花 山桜
町の鳥 ヒバリ
1.地理
 上北郡の東南部に位置する。町の南部の東西を十和田湖を源流とする奥入瀬川が流れる。
 中北部は、三本木原と呼ばれる台地であり、奥入瀬川から十和田市法量にて分岐した人工河川・稲生川(三本木原用水路)が、東流している。
 北部の三沢市との境界付近には、姉沼川の支流も流れている。
2.歴史
 古来、「六戸」という地名は、単独の村の呼称ではなく、現六戸町域以外のおいらせ町や三沢市南部も含めた、奥入瀬川(旧称・相坂川)流域一帯を指した呼称であったという説がある。
・1889年(明治22年)4月1日:町村制施行に伴い、折茂村、柳町村、小平村、鶴喰村、犬落瀬村、上吉田村、下吉田村の7箇村合併により上北郡六戸村成立。
(各村名は、大字として存続。)
・1948年(昭和23年)2月11日 - 上北郡三沢村へ村域の一部(大字犬落瀬字古間木など)を移管。
・1957年(昭和32年)10月1日:町制施行により六戸町となる。
・2004年(平成16年):平成の大合併において、下田町・百石町(現・おいらせ町)との合併を目指して協議会を設立したが、特例債の運用方針を巡って対立し、離脱した
・2007年(平成19年):町制施行50周年を迎える。
・2017年(平成29年):町制施行60周年を迎える。
3.行政-町議会選挙
 日本全国的に自署式の投票は誤字、脱字の問題が発生する(相模原市議会選挙の2015年、2019年など)[4]。
 六戸町町議会選挙では、平成19年、23年、27年の町議会選挙で電子パネル方式を採用した[4]。電子パネル方式は好評ではあったが、経費等の諸事情から、平成31年の選挙では、自署式に戻っており、電子パネル方式を採用する自治体は2019年時点では日本に存在しなくなった[4]。
4.産業
■農業
おいらせ農業協同組合六戸支店がある。
(十和田市に本店を置き、2008年4月に発足した「十和田おいらせ農業協同組合」とは別である)。
コメ
ナガイモ
ニンジン
ニンニク:「日本一の大玉ニンニク」
ニワトリ
■工業-金矢工業団地
青森フジクラ金矢
ファーストプライウッド
■観光
星野リゾート青森屋(古牧温泉)
舘野公園
県南地方随一の桜の名所として有名。主にヤマザクラが植栽されている。
■郵便
六戸郵便局 (84094)
七百簡易郵便局 (84779)
■その他
近年では、太陽光発電サイト(いわゆるメガソーラー施設)の建設・設置が相次いでいる。
5.姉妹都市・提携都市
戸の兄弟のまち(1994年宣言): 一戸町、二戸市、三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、八戸市、九戸村
6.地域-大字・町丁
大字犬落瀬(いぬおとせ)
大字折茂(おりも)
大字上吉田(かみよしだ)
大字下吉田(しもよしだ)
大字小平(こだいら)
大字鶴喰(つるばみ)
大字柳町(やなぎまち)
金矢(かなや)一~三丁目
小松ケ丘(こまつがおか)一~六丁目 
令和2年国勢調査における前回調査からの人口増減率は0.2%の増加だった。県内40市町村で増加となったのは当町とおいらせ町のみである[5]。
■所轄警察署-十和田警察署管内-六戸駐在所
■所轄消防署-十和田地域広域事務組合六戸消防署
■教育-義務教育学校
六戸町立義務教育学校六戸学園[6][7]。
■過去にあった学校
・高等学校-青森県立六戸高等学校
2023年4月に当校と青森県立三本木農業高等学校、青森県立十和田西高等学校と統合し閉校。後身校は青森県立三本木農業恵拓高等学校。
・中学校
六戸町立六戸中学校
六戸町立七百中学校
・小学校
六戸町立六戸小学校
六戸町立大曲小学校
六戸町立開知小学校
六戸町立開知小学校〈旧〉(1997年・開知小学校を統合新設)
六戸町立七百小学校(同上)
六戸町立昭陽小学校(同上)
六戸町立長谷小学校(2001年・六戸小学校へ統合)
六戸町立柳町小学校(同上)
六戸町立折茂小学校(2009年・六戸小学校に統合)
■幼稚園・保育園
さつき保育園
ひのでこども園  (旧)第一日の出保育園
こども園おひさま  (旧)第二日の出保育園
こども園えがお
小松ヶ丘幼稚園
■医療機関
町内に病院は無いが、診療所が4箇所(うち町立1カ所)、歯科医院が3箇所、調剤薬局が2箇所ある。
■金融機関
青い森信用金庫六戸支店
おいらせ農業協同組合六戸支店
7.隣接する自治体
十和田市
三沢市
上北郡:東北町、おいらせ町
三戸郡:五戸町
8.交通
■鉄道
・青い森鉄道青い森鉄道線
町の北東部・三沢市やおいらせ町との境界を通っているが停車駅はない。最寄の停車駅は三沢駅か向山駅である。
(現在の三沢駅周辺の古間木地区は旧六戸村から移管されており、三沢駅所在地は六戸町と同じ「大字犬落瀬」となっている)。
・東北新幹線
八戸駅 - 七戸十和田駅間のうち、町内は主にトンネルで通過する。最寄の新幹線駅は八戸駅または七戸十和田駅となる。なお、以上の経緯から、六戸町も東北新幹線開業に伴う並行在来線問題の協議には参加していた。
・廃止した鉄道路線・駅-十和田観光電鉄
十和田観光電鉄線: - 大曲駅 - 柳沢駅 - 七百駅 - 古里駅 - 三農校前駅
■バス
六戸町民バス
十和田観光電鉄
つばめ交通
ジェイアールバス東北:おいらせ号
シリウス号 (高速バス)
■道路
・自動車専用道路
E4A 第二みちのく有料道路:六戸ジャンクション
八戸自動車道経由で三沢市の古牧温泉への最寄出入り口である。
E4A 上北自動車道:六戸三沢インターチェンジ
・一般国道
国道4号(十和田バイパス)
国道45号
・県道
主要地方道
青森県道8号八戸野辺地線
青森県道10号三沢十和田線
青森県道20号八戸三沢線
青森県道22号三沢七戸線
一般県道
青森県道113号五戸六戸線
青森県道119号五戸下田停車場線
青森県道171号向山停車場六戸線
青森県道211号折茂上北町停車場線
青森県道212号米田六戸線
青森県道213号柳町下田停車場線
道の駅
ろくのへ
9.名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
星野リゾート青森屋(古牧温泉):敷地の約半分は当町に属する。
熊野神社:文室綿麻呂の家臣笹野尚盛により844年創建。
郷土資料館〔犬落瀬字柴山〕
今熊神楽:350年の歴史がある。
上吉田南部駒踊り:上吉田地区に古くから伝わる踊り。騎馬武者による野馬取りになぞらえて舞踊化。
鶴喰鶏舞:鶴喰地区に伝わる舞踊。
舘野公園春祭り
六戸秋まつり(9月第1金・土・日曜日)
メイプルタウンフェスタ(11月第1土・日曜日)
サテライト六戸(青森競輪場場外車券売場)
六戸町総合運動公園
六戸町総合運動公園野球場(メイプルスタジアム)
福聚山海傳寺(海伝寺) – 上吉田字前田。曹洞宗。
若宮山光昌寺 – 犬落瀬字若宮
明光山月窓寺 – 鶴喰字明堂
10.特産品-青森シャモロック
11.出身著名人
37代木村庄之助:大相撲立行司
洗平竜也:元プロ野球、社会人野球「硬式野球クラブ東海REX」選手
寺山修司:劇作家、歌人(本籍地が旧六戸村。記念館などは三沢市内に所在)
苫米地司:建築・雪氷工学者、北海道科学大学理事長
金渕光希:プロ野球選手。2024年育成ドラフトで横浜DeNAベイスターズから3位指名され、洗平竜也以来24年ぶりの六戸町出身のプロ野球選手となった[8]。
12.脚注
13.関連項目
■糠部郡
一戸町
二戸市
三戸町
五戸町(五戸町志戸岸(四戸))
六戸町
七戸町
八戸市
九戸村
14.外部リンク
最終更新 2026年1月2日 (金) 15:45 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
以上2つ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

≪くだめぎ?≫
 五戸、七戸とあるので、1191年(建久2年)、甲斐国の南部氏が進出した時、
既に一戸~九戸の呼び名はあったとされる。事実上、"郡"と同格とだったとされる。
明治の大合併で『六戸』村と地名となった。
 「戸」のまちサミット開催地、「戸」と「北」"郡"中心地を自称する所だ。
Posted at 2026/03/15 07:19:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | 都道府県区市町村 | 旅行/地域

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