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2025年12月01日 イイね!

巨大廃墟がそびえる…「千里中央」駅

巨大廃墟がそびえる…「千里中央」駅新大阪駅から15分なのに巨大廃墟がそびえる…
「消えた終着駅」が映し出す昭和のニュータウンの栄枯盛衰
プレジデントオンライン / 2025年8月21日 18時15
廃墟状態のセルシー。数々のアイドルが立った伝説のステージのいま - ©鼠入昌史
電車の「終着駅」には一体何があるのか。ライター・鼠入昌史さんの新刊『ナゾの終着駅』(文春新書)より、2024年まで大阪メトロ御堂筋線の終着駅として多くの新幹線ユーザーが目にしてきた千里中央駅の様子を紹介する――。
■新幹線ユーザーにとってナゾの駅
 以前、千里中央駅にやってきたときは、終着駅だった。
 新大阪駅で新幹線を降りて、地下鉄の御堂筋線に乗り継ぐ。だいたいの場合は大阪の中心部、梅田やなんば、天王寺方面に向かう電車に乗るのだが、千里中央駅はそれとは反対の終着の駅。だから、大阪の人はもとより新幹線でたまに大阪にくるような人にとっても、千里中央という駅は気になる駅のひとつとしてすり込まれているに違いない。
 千里中央駅、近くに住まいや職場があるわけでもない限り、まず訪れる機会はないだろう。全新幹線ユーザーにとってのナゾの駅。千里中央駅は、そう位置づけられる駅だった。
 ここでいくらか細かい話をしておくと、地下鉄御堂筋線は江坂~なかもず間を結ぶ。途中には新大阪や梅田はもちろん、淀屋橋に心斎橋、なんば、天王寺といった大阪を代表する町が目白押しという、押しも押されもせぬ市内交通の大動脈だ。
■1970年の大阪万博に合わせて開設した路線
 そんな御堂筋線が北に伸びて、江坂駅以北は北大阪急行という別路線になる。1970年に千里丘陵で開かれた大阪万博に合わせ、来場者輸送のために建設されたのがはじまりだ。当時から御堂筋線の電車はすべて北大阪急行に直通しているから、実質的には御堂筋線の一部といっていい。万博終了後に現在の位置に千里中央駅が開業して以来、半世紀以上にわたって御堂筋線の終着駅であり続けてきた、というわけだ。
 ところが、2024年の春に北大阪急行が箕面萱野駅まで延伸。それまで千里中央駅発着だった電車はすべて箕面萱野行きになって、新大阪駅で千里中央駅の名を見ることはなくなってしまった。
 だから、「ナゾの終着駅」という本稿の趣旨からすれば行くべき駅は箕面萱野駅、ということになる。ただ、箕面萱野駅は新しすぎる。終着駅に期待しがちな寂しさや郷愁といった要素はまだ持ち合わせていない。
 御堂筋線ユーザーにとって、まだ千里中央駅が終着駅のような感覚なのではなかろうか。だから、まずは千里中央駅からはじめようと思う。それにいちおう、大阪モノレールの彩都線、朝夕は千里中央駅を終着とする列車が走っていますしね。
■上品な雰囲気漂う吹き抜けのターミナル
 千里中央駅は新大阪駅からたったの15分。新御堂筋をまっすぐ北に向かって走る。
 ずっと新御堂筋を行き交うクルマと仲良く並んで走って、千里中央駅の手前で地下に潜り、大阪中央環状線・中国自動車道と新御堂筋が交差するインターチェンジの下を抜けると駅に着く。地下のホームの真上は改札フロアまでどーんと吹き抜け。ホームを見下ろすように通路があって、どことなくおしゃれな雰囲気だ。これが大阪、北摂のターミナルということか。
 千里中央駅は「せんちゅうパル」という商業施設に包まれている。改札口を出て上っていくと、南北に細長いせんちゅうパルのだいたい真ん中に出る。吹き抜けのエスカレーターまであって、外のペデストリアンデッキに出てみると正面には阪急百貨店が鎮座していた。
 せんちゅうパル自体もまるで神殿のようなデザインで、やはり千里中央は上品さを感じさせる駅なのである。
■2分も歩けばのどかな住宅地が広がる
 ペデストリアンデッキから駅の周りを見上げてみると、背の高いビルがいくつも取り囲んでいる。タワマンなのか、それともオフィスビルなのか。駅のすぐ北にはヤマダデンキ。その周りは緑の多い住宅地だ。
 一見するといかにも古い昭和の団地があったり、比較的真新しく見えるマンションがあったり。小さな子どもを連れたお母さんが歩いていたり、お年寄りが集まって歩いていたり、商業施設と背の高いビルに囲まれた駅から2分も歩けばのどかな住宅地が広がっている。
 千里中央駅には御堂筋線(北大阪急行)に加えて大阪モノレールも乗り入れている。モノレールの千里中央駅に向かっては、せんちゅうパルの中を抜けて南に歩いていけばいいと案内されている。
 言われたとおりに歩くと、ほどなくせんちゅうパルの外に出て、広々としたデッキの上を進むことになる……のだが、そこで目に入ったのは巨大にして存在感はバツグンなのに、まったくひとけがなくて閉鎖されている廃墟状態の建物であった。
 千里中央の駅前に広がるこの建物、2019年まで営業していた千里セルシーという商業施設だ。開業したのは千里中央駅から遅れること2年後の1972年。以来、半世紀にわたって千里中央の町のシンボルのひとつだった。
■かつての新人アイドルの聖地は廃墟となった
 ピーク時には120ものテナントが入っていて、他にもボウリング場にプール、サウナ、映画館。中央のセルシー広場ではアイドルなどのコンサートイベントもたびたび行われていたという。
 千里セルシーでイベントをやったアイドルや歌手はまさに錚々たる面々で、古くは堀ちえみ、光GENJI、比較的新しいところではモーニング娘。、三代目 J SOUL BROTHERSも千里セルシーでパフォーマンスを披露している。
 2011年2月にAKB48のユニット・渡り廊下走り隊7がやってきたときには7000人が集まり、2013年にはEXILEが1日1万枚ものCDを売り上げた。何でもこの千里セルシーのステージでイベントをすると“売れる”というちょっとした都市伝説のようなものもあったというから、駆け出しのアーティストやアイドルにとっての聖地だったのだろう。
 しかし、いまの千里セルシーはすっかり廃墟になった。閉鎖されたのだから当たり前なのだが、せんちゅうパルのデッキから見下ろすひとけのないステージはなかなかに切ない。120もあったテナントは末期には60店舗にまで減り、最後は老朽化を理由に閉鎖されてしまった。
■大阪市の人口が100万人増加した1950年代
 千里中央には他にもせんちゅうパルに阪急百貨店があり、加えていまや廃墟と化した千里セルシー。北摂のターミナルらしく、いくつもの商業施設が駅を取り囲む。これはいったいなぜなのだろうか。
 古い航空写真や地図を見れば一目瞭然、1960年代はじめごろの千里中央駅付近はほとんど何もない丘陵地であった。雑木林がほとんどで、筍や果樹が特産だったという。開発がはじまるまでは、大阪府のモデル果樹筍産地に指定されているくらいだった。
 だが、1958年に千里ニュータウンの開発が決定する。
 戦争直後の混乱期を抜けて、朝鮮戦争の特需景気がはじまると大阪の人口が爆増。大阪市は1950年代の10年間で約100万人も人口が増えている。とうぜん住宅不足が社会問題化し、戦前までは田園地帯だった周辺都市が続々と都市化してゆく。
 しかし、10年で100万人も増えた人口を吸収するのにはとうてい間に合わない。そこで雑木林に覆われていた千里丘陵を大規模なニュータウンに改造することが決まった。開発当初の計画では千里ニュータウンは1150ヘクタールの敷地に15万人が暮らす町。もちろん交通機関の整備も重要なテーマで、そのひとつが地下鉄御堂筋線の延伸であった。
■ニュータウンの中心として開業した駅
 ただし、千里ニュータウンが1962年にまちびらきをした時点では御堂筋線の延伸は果たせておらず、まず先行して阪急千里線が延伸、加えて路線バスによってニュータウンの交通を担っていた。
 そうして開発が進む最中の1965年に千里丘陵は万博の開催場所に決定。御堂筋線の延伸は、1970年の万博開催に合わせて進められることになったのだ。
 かくして1970年、千里ニュータウンの中心として千里中央駅が開業する。北大阪急行は万博へのアクセスを最初の役割にしていたから、千里中央駅は仮の駅舎。大阪中央環状線に沿って万博会場(いまの万博記念公園)まで線路を延ばしていた。
 万博期間中、北大阪急行は実に4148万1175人もの来場客輸送をしたという。とりわけ閉幕間際の9月5日には、終電出発後にも駅周辺や会場内に約15万人のお客が残ってしまうほどの混雑ぶりだったとか。とにかく北大阪急行は、開業するやいなや万博によって大いに面目を施したのである。
■最盛期には13万人が住んでいた
 万博閉幕後、千里中央駅は現在の場所に移って本格的に終着駅となり、現在のせんちゅうパルや阪急百貨店なども開業。遅れて1972年には千里セルシーも誕生し、名実ともに千里ニュータウンの中核になっていく。
 すでに1964年に開業していた東海道新幹線の新大阪駅と15分という利便性もまた、千里中央にとって大きな強みだったのだろう。計画の15万人には及ばなかったが、1975年にはニュータウンの住民が約13万人に達する。その中心の千里中央、いくつ商業施設があっても、余ることはない。千里セルシーも、そうした中で歴史を刻んできたのだ。
■50年でニュータウンは「オールドタウン」に
 千里ニュータウンに入居したひとたちは、多くがいわゆる核家族であった。ニュータウンというと近所づきあいに乏しい無機質な町というイメージを抱く人もいるかもしれないが、時代は昭和。団地の中で同じ階段を共有する人たち同士で旅行に行くほど親密な関係性を築いていたという。
最初はフロなし住宅も多かったが、1970年代以降増改築が行われてフロもできた。全戸水洗トイレも特徴のひとつで、家の近くには日常利用に便利なスーパーもあって、千里中央に行けばレジャータウン。緑地も多く、当時の住環境としては実に恵まれていた。
 ただ、それが祟った……というと言葉が悪いが、住環境の良さは住民が長く定着する結果をもたらした。住民の入れ替わりがほとんどなく、新陳代謝が進まなかったということだ。そうして1980年代から住民の高齢化という課題が浮上し、いつしか“オールドタウン”などと呼ばれるようになってしまう。
 千里中央駅の周りを歩いていると、実に古めかしい昔ながらの団地群があるかと思えば、すっかり装いを改めた真新しいマンションのような建物も見える。うまく建て替えに踏み切れたところと、そうでないところ。日本中の団地が抱えているコントラストを、千里中央も抱えている。
 そうした時代の変化は、駅を取り囲む商業施設にも影響を及ぼす。かつて万博の会場で、2009年までエキスポランドとして営業していた一帯が再開発。2015年にららぽーとEXPOCITYとしてオープンした(2022年にリニューアル)。
 ららぽーとという家族でクルマで遊びに行ける施設ができれば、そちらに人が流れるのもとうぜんのこと。50年の歴史を刻む千里中央と比べれば、若い人たちにとってもEXPOCITYのほうがいいにきまっている。
 こういった事情もあって、千里セルシーが“新しい町のレジャーセンター”だった時代は過去のものになった。老朽化なりなんなり、閉鎖された理由は別にあろうが、いまの千里中央駅前の千里セルシーは、そういったニュータウンの栄枯盛衰を象徴しているのかもしれない。
 千里中央は、いわば“落日のターミナル”といっていい。2024年、北大阪急行が延伸して終着駅ではなくなったのも、まるでそうした状況を象徴しているかのようなできごとでもあった。
■対照的に賑わう“本当の終着駅”
 では、新しく生まれた終着駅、箕面萱野駅はどうなのか。
 箕面萱野駅は、「みのおキューズモール」という大型商業施設に直結している高架の終着駅だ。すぐ北には北摂の山々が迫って見えて、箕面の中心市街地(阪急箕面線箕面駅付近)をはじめとする各方面への路線バスも分かれている。
 みのおキューズモールは、千里セルシーの廃墟化とは裏腹に、まったく多くの客で賑わっている。実は開業は2003年とちょっと古いのだが、駅の開業によってさらに集客力をアップさせた。映画館も入っているような、北摂一帯でも最大規模の商業施設だ。
 箕面萱野駅まで足を延ばし、みのおキューズモールの賑わいの中に身を置くと、どうしても考えずにはいられない。千里セルシーも、1972年の開業時、千里ニュータウンが最も活気に満ちていた時期には、いまのみのおキューズモールに勝るとも劣らない賑わいだったのではないか、と。
 時代の変化は、ときに残酷である。いつしか箕面萱野駅も大きく姿を変える日がやってくるのかどうか。それはまだ、遠い未来の物語である。
----------
鼠入 昌史(そいり・まさし) ライター
1981年、東京都生まれ。文春オンラインの「ナゾの駅」シリーズはじめ、週刊誌・月刊誌・ニュースサイトなどに様々なジャンルの記事を書きつつ、鉄道関係の取材・執筆も行っている。阪神タイガースファンだが好きな私鉄は西武鉄道。著書に『トイレと鉄道』(交通新聞社)、『それからどうなった? あのころ輝いた場所の「今」を歩く』(理工図書)、『鉄道の歴史を変えた街45』(イカロス出版)など。
----------(ライター 鼠入 昌史)


≪くだめぎ?≫
 当地から、大阪・関西・近畿は遠い、すぐに実感しない。
 しかし、
「大阪市は1950年代の10年間で約100万人も人口が増えている。」
とくれば、当時の人口集中ぶりに驚くばかりである。
 千里中央駅・「千里セルシー」は"聖地"になるのは当然だろう。
現終着駅「箕面萱野」駅"みのおキューズモール"(2003年開業)、により風向きが変わり、落ちてきたようである・・。
Posted at 2025/12/01 15:06:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道 | 旅行/地域
2025年11月21日 イイね!

『九戸城跡』

『九戸城跡』[写真・画像]
(上)九戸城跡俯瞰図
(下)九戸城航空写真
 市の中心部にある九戸城跡は昭和10年に国の指定を受けた史跡です。この城は九戸政実の4代前の光政が築いたとも言われ、豊臣秀吉天下統一の最後の合戦場となりました。城跡には、東北最古とみられる石垣遺構が残っています。

【九戸城跡に関するQ&A】
 1.
Q:なぜ二戸市にあるのに九戸城なのでしょう?
A:九戸氏の居城=九戸城です。もとは現在の九戸郡を治めた南部氏の一族が九戸氏を名乗り、その後九戸の地と福岡地方を同時に統治するようになりました。
 2.
Q:なぜ史跡の名称は福岡城ではなく九戸城なのでしょう?
A:地元の九戸氏への強い思い入れです。百年以上治めた九戸氏に対し、南部公は短期間で盛岡へ移った事や、九戸方の悲壮な最期を目の当たりにした人々の思いは、謀反人であっても密かに弔い続けた事を記す古碑にも現れており、あえて「九戸城」と呼び続けたのです。
 3.
Q:九戸城に天守閣はあったの?天守閣の復元はするの?
A:現在復元の予定はありません。今の姿は福岡城ですが、発掘調査では瓦の出土も無く、天守や櫓があったか不明です。それより前の九戸城にはおそらく板葺きの櫓がありましたが、絵図等も無く場所が不明です。建物の復元は確実な考証が必要で、確実な建物は礎石を残す本丸の門と橋で、こちらが復元される可能性はあります。
 4.
Q:石垣のある堀には水はあったのでしょうか?
A:空堀です。本丸と二ノ丸の間の堀は、豪雨があっても地盤の水はけがよく、水はたまりません。
 5.
Q:上方軍の謀略撫で斬りは本当ですか?
A:二ノ丸跡の発掘調査で首を刎ねられて無数の刀傷を負った女性を含む複数の人骨が出土しており、実際に撫で斬りにされたと思われます。

【九戸城(福岡城)の特色・構造】
 九戸城には、東北地方の中世の城と近畿地方の近世の城の特色が見られます。地形を活かし曲線的な九戸城の中に直線的に改修された福岡城の部分があります。
 三方を川に囲まれた平山城で、約36万m2(指定地21万m2)、東京ドームの約10倍です。
 九戸城旧来の姿を留めるのは若狭舘・外舘等で、本丸は改築された福岡城であることが解っています。本丸は二ノ丸より一段高く土を盛って築かれており、この盛り土から焼けた生活用品や火縄銃の弾丸が出土し、明らかに合戦後の整地です。堀沿いに土塁と石垣が巡り、土塁の高く広い部分は隅櫓跡です。東の追手門は、門と木橋があったところで、南にも二ノ丸と地続きの虎口があります。二ノ丸は、本丸の東と南を囲む形で築かれ、周囲に土塁、南に大手門、北には搦手(からめて)門があります。本丸の西側下は三ノ丸で今は市街地です。松ノ丸は、人工の堀で囲まれ、土塁の一部が残り、南東には武家屋敷の在府小路に面して大手門があります。
 以上 岩手県二戸市より

≪くだめぎ?≫
 「二戸駅」=「北福岡駅」であり、
「福岡町」と言ったら『九戸城』である。
 九戸郡を治めた南部氏の一族が九戸氏を名乗り、
九戸氏の居城=九戸城を築いた。
 南部氏の一族であるけれど・・。
Posted at 2025/11/21 10:34:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | 地域 | 旅行/地域
2025年10月26日 イイね!

日本海沿いで活躍する電気機関車「EF510形」

日本海沿いで活躍する電気機関車「EF510形」日本海沿いで活躍する電気機関車「EF510形」
赤・青・銀の3色がある理由は?
2024年6月25日(火) 鉄道コムスタッフ 西中悠基
(上)「日本海縦貫線」を中心に活躍するEF510形0番台
(中)寝台特急「北斗星」のけん引機として活躍していた頃のEF510形
(下)R貨物に譲渡され、流星が消された後のEF510形500番台。画像は、JR東日本時代には入ることの無かったおおさか東線での運用シーンです

 関西圏と東北・北海道方面を結ぶ、通称「日本海縦貫線」(北陸本線(第三セクターへ移管された区間を含む)、羽越本線など)では、近畿地方と北陸、信越、東北地方、そして青函トンネルを超えて北海道を結ぶ貨物列車が、日夜運転されています。その先頭に立つのは、JR貨物のEF510形電気機関車。国鉄時代に製造された車両を置き換えるため、2001年に登場した車両です。
 ところでこのEF510形、赤色の車両と、青色の車両、そして銀色の車両の、3つの色が存在します。なぜカラーリングが複数あるのでしょうか。
 赤色の車両は、当初からJR貨物で活躍する0番台。一方、青色と銀色(日本海縦貫線で活躍する車両のみ)は、もとはJR東日本が導入した500番台です。500番台の製造目的は、寝台特急「北斗星」「カシオペア」のけん引用。老朽化したEF81形を置き換えるため、2009年から2010年にかけて、15両が製造されました。カラーリングは、「北斗星」カラーの青色と、「カシオペア」カラーの銀色の2種類。いずれも側面に流星を描いていました。
 JR東日本のEF510形は、2010年に特急列車のけん引を開始。当時はJR東日本が受託していた貨物列車の運用もあり、旅客列車用に製造された機関車が貨物列車をけん引する姿が見られました。この運用開始により、EF510形はEF81形の定期運用を置き換えた……はずでした。
 しかし、2013年には貨物列車の受託が終了し、EF510形は早くも一部が余剰に。これらはJR貨物に売却され、貨物けん引用機関車に役割を改めました。さらに2015年の「北斗星」廃止、2016年の「カシオペア」定期運用終了によって、JR東日本のEF510形は定期運用を喪失。最終的に、全15機がJR貨物に譲渡されたのです。同形式の導入時点で、北海道新幹線開業時の寝台特急廃止は想定されていたはずで、EF510形の売却も、当初から織り込み済みだったと考えられます。
 そうしてJR貨物に譲渡された元JR東日本の車両は、側面の流星マークは撤去されたものの、青や銀といったベースの色はそのままに、JR貨物仕様に改修されました。現在では、生え抜き車も譲渡車も区別なく運用に就いており、JR東日本時代には入線することのなかった中京圏や関西圏にも、日常的に乗り入れています。カラーバリエーション豊かなEF510形ですが、複数の塗装があると管理上のコストが掛かります。今後の大規模検査などで塗装が塗り直される際、500番台の独自塗装は消滅してしまうかもしれません。
 ちなみに、2023年にはもう一つの「銀色のEF510形」として、300番台がデビューしています。こちらは主に九州で活躍するグループで、車両の色は「銀釜」ことEF81形300番台をイメージしたもの。今後、EF81形、ED76形の置き換えのため、導入が進められます。

≪くだめぎ?≫
 「八菜館」の後ろに"赤色"のEF510形0番台が見えた。EF510形500番台も入ってくるが、銀色の車両「カシオペア」色は実は見たことはない・・、実は貴重だ。青森信号場を経由して大阪から八戸貨物駅にやってくる。
 逆に当地での主流EH500が秋田貨物駅まで奥羽本線を南下する。

個人的には、交流区間の片方上昇パンタグラフ姿が
馴染んでいるし、その姿の画像がもっと多くてもよいと思うが・・。
Posted at 2025/10/26 08:06:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道貨物 | 旅行/地域
2025年10月20日 イイね!

東京モノレール「東京パノラマライン」

東京モノレール「東京パノラマライン」東京モノレール、路線愛称「東京パノラマライン」導入 11月1日から
2025年10月10日 14:15:57 Traicy
 東京モノレールは、路線愛称「東京パノラマライン」を11月1日に導入する。
 車窓から街や海、空を望む体験を広く伝える狙いとした。導入路線は東京モノレール羽田空港線で、各駅の案内表示や路線図、運賃表、車内の表示や放送、パンフレットやウェブサイトに順次反映する。接客型の制服も刷新し、切り替えは2026年11月を予定する。
 同社は、駅・車両空間を日本の芸術や文化を発信する場にする「TOKYO ART&CULTURE」を展開している。ヘラルボニーと共創した「HERALBONY Art Prize 2025」の作品をまとった列車を8月から運行しており、12月にはホガリーのデザイン車両の運行を予定する。
 愛称導入の記念キャンペーンは、詳細が決まり次第ウェブサイトやSNSで告知する。
Start Home より


≪くだめぎ?≫
 "浜松町-羽田空港第2ターミナル"
「浜松町」の乗り換えが意外とスムーズだったので、
使いやすい印象であった。
・東京モノレール羽田空港線「東京パノラマライン」・・・
Posted at 2025/10/20 17:06:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道 | 旅行/地域
2025年10月15日 イイね!

『田代』と『門馬田代』

『田代』と『門馬田代』[写真・画像] 佐羽根駅(さばね SABANE) ホーム (2009年10月)
 佐羽根駅は、岩手県宮古市田代にある三陸鉄道リアス線の駅である。
 駅の愛称は「神楽の里」。当地が黒森神楽の伝承の地であることに由来する。
◄一の渡 (2.9 km) (3.6 km) 田老►
所在地 岩手県宮古市田代
: 北緯39度42分40.24秒 東経141度56分8.96秒
所属事業者 三陸鉄道
所属路線 ■リアス線(正式には北リアス線)
キロ程 9.1 km(宮古起点)盛から101.1 km
電報略号 サネ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
乗車人員-統計年度- 2人/日(降車客含まず)-2021年-
開業年月日 1972年(昭和47年)2月27日[1 a]
備考 無人駅
1.歴史
・1972(昭和47)年2月27日:日本国有鉄道宮古線の駅として開業[1 b]。無人駅[2]。
・1984(昭和59)年4月1日:三陸鉄道に転換[3][4 a]。北リアス線の所属となる[4 b]。
・2011年(平成23年)
3月11日:東日本大震災により北リアス線が全線不通に。
3月20日:宮古駅 - 田老駅間の運行再開に伴い営業再開。
2.駅構造
 単式ホーム1面1線を有する地上駅であり、ホーム上に待合室がある。
3.駅周辺
山間の駅で、近隣の黒森山への登山口である。
・田代川
4.隣の駅
三陸鉄道 ■リアス線
一の渡駅 - 佐羽根駅 - 田老駅
5.脚注 出典
5-1.記事本文
5-1-1.[1]^ a b “日本国有鉄道公示第597号”. 官報. (1972年3月22日)
5-1-2.[2]^ 「通報 ●宮古線宮古・田老間の開業について(旅客局)」『鉄道公報』日本国有鉄道総裁室文書課、1972年3月22日、2面。
[3]^ 石野哲 編『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』 II(初版)、JTB、1998年10月1日、502頁。ISBN 978-4-533-02980-6。
[4]^ a b 「私鉄年表」『私鉄車両編成表 -全国版- '84年版』ジェー・アール・アール、1984年8月1日、141頁。
6.外部リンク
佐羽根駅:三陸鉄道
最終更新 2025年2月16日 (日) 15:23 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

 門馬村(かどまむら)は、昭和30(1955)年まで岩手県下閉伊郡にあった村。現在の宮古市門馬・田代・平津戸・区界にあたる。
廃止日 1955年7月1日
廃止理由 新設合併
門馬村、川井村、小国村 → 川井村
現在の自治体 宮古市
 廃止時点のデータ
地方 東北地方
都道府県 岩手県
郡 下閉伊郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
面積 170.72 km2.
総人口 1,687人(『岩手県町村合併誌』、1955年5月)
隣接自治体 下閉伊郡:大川村、川井村、小国村
稗貫郡:大迫町 、遠野市、盛岡市
門馬村役場 所在地
岩手県下閉伊郡川井村箱石第5地割17-2(川井村と合同)
座標 : 北緯39度38分02秒 東経141度26分15秒
特記事項 川井・門馬組合村(1889〜1955)
1.地理
・山:早池峰山、青松葉山
・河川:閉伊川
2.沿革
・明治22年(1889年)4月1日 - 町村制施行にともない、門馬村・田代村・平津戸村の計3か村が合併して中閉伊郡門馬村が発足。川井村と組合村を形成。
・1897年(明治30年)4月1日 - 郡の統合により中閉伊郡・東閉伊郡・北閉伊郡が合併して下閉伊郡が発足[1]。下閉伊郡門馬村となる。
・昭和30年(1955年)7月1日 - 川井村・小国村と合併し、新制の川井村となる。
3.行政
歴代村長・・川井・門馬組合村長
川井村の項を参照のこと
4.交通
鉄道 国鉄山田線:区界駅 - 松草駅 - 平津戸駅
5.脚注
[1]^ 『官報』第3822号、明治29年3月30日。
6.参考文献
『岩手県町村合併誌』(岩手県総務部地方課、1957)
7.外部リンク
岩手県下閉伊郡門馬村 (03B0020023)| 歴史的行政区域データセットβ版 - Geoshapeリポジトリ
最終更新 2025年5月13日 (火) 02:17 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
以上 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


岩手県宮古市
土地の名称変更おしらせ
更新日:2024年12月23日
・平成23年1月24日から「門馬田代」を「区界」に名称変更しました。
 川井地域「門馬田代」の字の名称を「区界」に変更しました。
 これに伴い、土地の所在、住所・本籍の表記も変更となりました。
・次のとおり、字の名称、土地の所在、住所・本籍の表記が変更となりました。
宮古市門馬田代第*地割 ⇒ 宮古市区界第*地割 (注意:地番の変更はありません)
・お問い合わせ 市民生活部総合窓口課


≪くだめぎ?≫
 岩手県下閉伊郡門馬村は現在、
宮古市「区界」「門馬」「平津戸」である。
昭和30(1955)年7月1日 - 門馬村・川井村・小国村と合併し、新制の川井村となる。
 2010(平成22年)1月1日、下閉伊郡川井村が宮古市に編入。1年後に宮古市により
旧・門馬村の方が「田代」→「区界」に変更した、と思えるが・・。
 もっとも、旧来の宮古市側にも"黒森山"が2つあるようである。
Posted at 2025/10/15 04:45:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | 都道府県区市町村 | 旅行/地域

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「「Yamato」体重計 ♫〜」
何シテル?   04/02 16:02
 「昔々、有ったとさ、 『トヨタディーゼル店』、『トヨタパブリカ店』、『トヨタオート店』、『トヨタビスタ店』・・・」。      身長165cm・体重6...
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