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ディーゼルオート店のブログ一覧

2025年06月18日 イイね!

『ロパートカ岬』

『ロパートカ岬』[写真・画像] ロパートカ岬の衛星写真
カムチャツカ地方, ロシア連邦
座標 北緯50度51分53秒 東経156度39分54秒
 ロパートカ岬(ロパートカみさき、ロシア語: Мыс Лопатка、英語: Cape Lopatka)は、カムチャツカ半島最南端の岬。ロパトカ岬[1]、ロパッカ岬とも表記されることもある。
1.地理
 ロパートカ岬の西側の海がオホーツク海、東側の海が太平洋である。幅11キロメートルの占守海峡を挟んで千島列島最東端の占守島と対峙している。
 地形は低地ツンドラである。
 岬には国境検問所と気象観測所がある。以前に集落が建てられたことがあるものの、現在は放棄されている。 また、ロパートカ岬はアイヌ民族の居住地としては最北端の地域とされることもある。 かつては千島アイヌ(カムチャツカ半島に居住する者はカムチャツカ・アイヌとも呼ばれた)が生活を営んでいた。
 行政区画ではロシア連邦の極東連邦管区に属するカムチャツカ地方内となる。また、ロパートカ岬はカムチャッカ半島の南端全体とその海岸とともに、連邦国立自然保護区「ユジノ・カムチャツキー」の一部でもある。岬の浅い沿岸水域は、ラッコの生息地になる褐藻の広大な生息地で覆われており、渡りのピーク時には最大11万羽の鳥が通過する[2]
2.歴史
 17世紀にロシア帝国がカムチャツカ半島の領有を宣言して以来、ロパートカ岬はロシア帝国、及びその後継国家であるソビエト連邦(ソ連)やロシア連邦が領有している。樺太・千島交換条約(1875年)において、本岬と占守島との間の占守海峡に日本(大日本帝国)とロシアとの国境線が引かれ、1945年に第二次世界大戦で日本がソ連に降伏するまで維持された。降伏に先立つ同年8月には、第二次世界大戦の末期の戦闘として占守島の戦いが行われ、本岬に設置された赤軍(後のソ連軍)の砲台4門から占守島の日本軍守備隊に向けて海峡越え砲撃が実行された。その際に日本側が占守島四嶺山に1門だけ配置した砲台からの反撃を受け、4門とも制圧されている。
 1737年にマグニチュード9.0~9.3の地震により、高さ64メートルの津波がカムチャツカ半島を襲い、ロパートカ岬で史上最大の津波を記録した[3] 。
3.気候
 ケッペンの気候区分では亜寒帯気候(Dfc)に属する。
 緯度的には温帯であるにもかかわらず、アリューシャン低気圧の西側を流れる強力な親潮の影響で、ロパートカ岬は寒く非常に湿潤な極地気候となっており、亜寒帯(ケッペンのDfc/ET)に極めて近い気候である。8月の平均気温は9.9°C(49.8°F)で、亜寒帯気候の条件にかろうじて適合するが、低地では緯度約20°、つまり2,200キロメートル(1,370マイル)北でのみ予想される気温である。しかし、典型的な極地気候と異なり、冬は中程度の厳しさで、年間平均気温が約2.0°C(35.6°F)であるため永久凍土はなく、気温が−21.0°C(−6 °F)を下回ったことはない。しかし、強風のため体感気温は極めて低い。夏の天気は穏やかだが非常に曇天であることが多く、年間日照時間は 1,050 時間ほどで、レイキャヴィークや極度に霧の多い四川盆地と同程度である。実際、9月と 10月という最も雨の多い月に日照時間が最も多く、この時期には大雨が低層の霧を取り去るが、晴れの日は年間を通して極めて稀である。2019 年現在、このため気温が 20 °C (68 °F) を超える日は観測史上未だに存在しない。
4.脚注
[1]^ 大泰司紀之、本間浩昭『知床・北方四島 カラー版 流氷が育む自然遺産』岩波書店、2008年、76頁。ISBN 978-4-00-431135-5。
[2]^ “Южно-Камчатский федеральный заказник назван именем Тихона Шпиленка” (ロシア語). Камчатка Инфо (2016年12月30日). 2022年7月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月1日閲覧。
[3]^ Oracle Think Quest tsunamis : case studies Archived October 20, 2012, at the Wayback Machine. Collected 3-Jul-2010.
[4]^ “Moyennes 1981-2010 Russie (Asie)” (フランス語). 2019年11月1日閲覧。
[5]^ “Météo Climat stats for Cape Lopatka”. Météo Climat. 2019年11月8日閲覧。
5.関連項目
カムチャツカ半島
チェリュスキン岬
千島列島
占守海峡(シュムシュ海峡)
占守島(シュムシュ島)
継右衛門
6.外部リンク
外邦図デジタルアーカイブ(東北大学附属図書館 / 理学部地理学教室)[リンク切れ] - ロパートカ岬・占守海峡・占守島・幌筵海峡・幌筵島・磐城海峡・阿頼度島・志林規海峡・志林規島・温禰古丹海峡
最終更新 2025年5月15日 (木) 07:50 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 このカムチャツカ半島最南端の岬 『ロパートカ岬』から南方が
"千島アイヌ"居住地あり、ロシア帝国が
1706年頃にはカムチャツカ半島を占領したときは、
「アイヌ語地名」が付いていた・・。
 連邦国立自然保護区「ユジノ・カムチャツキー」の一部でもあるから、"アイヌ語地名"が残りやすい・記録しやすい環境だったことが大きい。
Posted at 2025/06/18 08:38:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | 都道府県区市町村 | 旅行/地域
2025年06月14日 イイね!

リンク廃止を決定

リンク廃止を決定ふくちアイスアリーナ廃止決定
南部町、イベント活用検討
2025年6月14日 6:21
[写真・画像]
スケート場としての廃止が決まった
「ふくちアイスアリーナ」
= 13日、南部町(ちょう)
デーリー東北

【速報】「ふくちアイスアリーナ」廃止
機器の故障で休館続く 青森県南部町
6/13(金) 15:47配信 RAB青森放送
 機器の故障で休館している南部町のふくちアイスアリーナについて、町と町議会はスケートリンクとしての廃止を決めました。
 13日の町議会本会議で施設の名称から「アイス」をとり、「ふくちアリーナ」に変更する条例改正案が可決されました。
YAHOO JAPAN ニュース より

「残念ですね」改修費用や利用見込みなどを“総合的に判断” 
休館続く『ふくちアイスアリーナ』は改修せず「リンク廃止」へ 青森県南部町
2025.06.13 20:27
 設備故障で休館が続いていた南部町のふくちアイスアリーナは、きょうリンク部分の廃止が正式に決まりました。
 南部町の工藤祐直町長は、きょうの町議会本会議に「ふくちアイスアリーナ」のリンクを廃止する条例改正案を提案しました。
起立採決の結果賛成12、反対3の賛成多数で可決されました。
 ふくちアイスアリーナは去年4月に冷凍機が故障して以来休館していて、再開には10億円にも上る改修が必要とされています。
 工藤町長は改修費用が大きいことや、今後の利用見込みなどを総合的に判断して決断したということです。
 地元のジュニアアイスホッケークラブは身近な練習場所がなくなるとして、存続を願う署名を提出していました。
★地元住民
「ここにくれば試合やっていれば音が聞こえるんですよ」
「残念ですね」
 南部町はリンク部分以外を今後スポーツやイベントで活用する方向で検討します。
RAB青森放送


≪くだめぎ?≫
 全国大会には必ず使用するリンクの"廃止"が決まった。
 五戸町や三戸町などスケート"授業・教室"でも使われた。
 「少子化」の最たる事象であるが・・。
Posted at 2025/06/14 08:23:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | 地域 | ニュース
2025年06月12日 イイね!

鉄道雑誌の御三家

鉄道雑誌の御三家鉄道雑誌の老舗「鉄道ジャーナル」休刊へ 
通巻700号も 「近年の出版めぐる環境」
2025/1/23 11:11 [産経新聞]
休刊を発表した鉄道ジャーナルの令和7年3月号(奥原慎平撮影)
 鉄道情報の月刊誌「鉄道ジャーナル」(発刊・鉄道ジャーナル社)は令和7年6月号(4月21日発売予定)を最終号として休刊する。1月21日発売の3月号で明らかにした。鉄道ジャーナルは昭和42年に創刊し、今回の3月号で通巻701号を数え、「鉄道ファン」(同・交友社)「鉄道ピクトリアル」(同・電気車研究会)と合わせて鉄道雑誌の御三家と称されていた。
 同誌は休刊の理由について「近年の雑誌出版をめぐる環境および本誌を取り巻く諸般の事情」と触れるにとどめた。休刊に伴うウェブ版の移行は検討していないという。
 3月号では、巻頭で「長年にわたり支えてくださった読者の皆さま、寄稿いただいた執筆者の皆さま、制作に協力いただいた関係の方々に御礼申し上げるとともに、今後も購読を予定されていた読者の皆さまには心よりお詫び申し上げます」とつづった。
 3月号は津軽半島(青森県)を走る津軽鉄道や、川部駅(同県田舎館村)と東能代駅(秋田県能代市)を結ぶJR五能線など寒冷地を走る列車などを特集している。
2025年01月23日 16時09分 公開 IT mediaビジネスonline

老舗鉄道誌「鉄道ジャーナル」休刊へ! 
編集長にその理由を聞いた 
1月21日発売の3月号で告知…
鉄道乗蔵(鉄道ライター) 1/21(火) 20:01
 鉄道雑誌「鉄道ジャーナル」が2025年4月21日発売の6月号をもって休刊することがわかった。これは、1月21日発売の3月号の誌面表紙裏で発表されたものだったが、発売前の1月19日夜にこの誌面を見た方が、SNS上に投稿したことをきっかけに鉄道ジャーナル休刊の知らせは、一気にネット上を駆け巡った。
 鉄道ジャーナルは、鉄道総合誌として1967年に創刊し、創刊後58年で700号余りを世に送り続けてきた。「鉄道の将来を考える専門情報誌」を標榜し、交通政策そのものを含めた社会事情や経済的・政治的な視点から鉄道を客観的にみる記事が特徴であった。公式発表によると休刊の理由については、「近年の雑誌出版をめぐる環境および本誌を取り巻く諸般の事情に鑑み、雑誌制作・発行を取りやめ、休刊とすることになった」としている。「以後、WEB版移行、リニューアルなどによる発行再開の予定はない」という。
 鉄道ジャーナルの定期購読者や、これまで執筆を担当した著者のもとには発売の前日となる1月20日から「休刊のご連絡」と題した手紙が届き始め、その手紙もSNS上にアップされている。さらに、「鉄道ジャーナル休刊は本当に残念だ」「小学生のときから読んできた雑誌なので、改めて休刊の告知を目の当たりにするとツラい」など、休刊を惜しむ声が上がっている一方で、「毎年、背表紙の発行月の部分の色が変わっていたのに、2024~2025年の色が変わらずグレーのままだったのはその布石だったのかな」「書店の減少やネットメディアの普及により売上が厳しくなっていたのかな」など、さまざまな声がSNS上で飛び交っている。
 鉄道ジャーナルの宮原正和編集長は筆者の取材に対して、「雑誌の休刊というと、売れ行き不振を理由に挙げることが多いですが、鉄道ジャーナルに関してはそういったことではなく、端的に説明することは難しいと感じています」「近年の鉄道ジャーナルは、ほかの媒体ではなかなか扱わないようなテーマや、ほかでは読めないような記事を載せていきたいと考えてきたのですが、伝統的な鉄道記事を愛する読者が想像以上に多かったということかもしれません」と、売れ行き不振が理由であることは否定した。
(了)
鉄道乗蔵(鉄道ライター)
鉄道に乗りすぎて頭の中が時刻表になりました。日本の鉄道全路線の乗りつぶしに挑戦中です。学生時代はお金がなかったので青春18きっぷで日本列島縦断修行をしてましたが、社会人になってからは新幹線で日本列島縦断修行ができるようになりました。ステッカーやTシャツなど鉄道乗蔵グッズを作りました。
YAHOO! JAPAN ニュース より


≪くだめぎ?≫
 鉄道雑誌の御三家
「鉄道ファン」(交友社発刊1961年~月刊)、
「鉄道ピクトリアル」(電気車研究会1951年~月刊)、
「鉄道ジャーナル」(鉄道ジャーナル社1967年~2025/6・月刊)

確かに表紙の"タイトル"など、2誌とは印象が違うかもしれない・。

手元に、鉄道ジャーナル2019年9月・No.635
特集「筑豊各線を歩く」
 特に気にした記事は
"九州の周波数統一と鉄道電化"

後に、「国鉄時代 2024・5月号 SPRING 特集・九州」(ネコ・パブリッシング刊)
"ED73 1000番台先頭のブルートレイン" 表紙を手にする・・・。
Posted at 2025/06/12 16:06:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道 | 旅行/地域
2025年06月06日 イイね!

勘察加 (かむさすか)

勘察加 (かむさすか)[写真・画像]
クリュチェフスカヤ山(Klyuchevskaya Sopka、露: Ключевская сопка)は、
カムチャツカ半島の最高峰で、ユーラシア大陸最高峰の活火山でもある。
見る方向によっては富士山によく似ていることからカムチャツカ富士ともよばれる。標高は4750 mである。

 カムチャツカ半島(カムチャツカはんとう、ロシア語: Полуостров Камчатка パルオーストラフ・カムチャートカ、あるいはカムチャッカ)は、ユーラシア大陸の北東部にある半島である[1 a]。南南西方向に伸びた半島であり、面積は37万平方キロメートル、長さ約1200キロメートル、最大幅は約480キロメートルある[1 b]。気候は亜寒帯気候からツンドラ気候。日本では、古くは勘察加 (かむさすか)と呼んでいた。現在、全域がロシア連邦の領土であり、以前は南部がカムチャツカ州、北部がコリャーク自治管区に属していたが、2007年7月に両地域が合併してカムチャツカ地方となった。
座標 : 北緯57度 東経160度
面積 27万 km2
最高標高 4835 m
最高峰 クリュチェフスカヤ山
最大都市 ペトロパブロフスク・カムチャツキー
所在海域 太平洋、オホーツク海、ベーリング海
所属大陸・島 ユーラシア大陸
所属国・地域 ロシア
1.地勢
 南は千島列島の占守島と千島海峡(占守海峡、ロシア名:第1クリル海峡)を隔てて向かい合うロパトカ岬、中央部では東西に約450キロメートルあり、北端のパラポリスキー地峡で100キロメートルほどの幅に狭まった、南北に長い紡錘形をしている。半島の東側はベーリング海と北太平洋、西側はオホーツク海に面するが、アバチャ湾にある州都のペトロパブロフスク・カムチャツキーを初め主要港は東岸に集中している。
 半島の東側には、コマンドルスキー諸島を含むアリューシャン列島が北アメリカ大陸北部にかけて連なる。
 中央山脈(スレジンヌイ山脈)と東山脈(Eastern Range)が並行して南北に走り、環太平洋造山帯の一部を成す。ここ300年で50回もの大爆発をしている半島最高峰のクリュチェフスカヤ山(4835メートル)など、多くの火山を抱えている。
 東岸には北から順に、オリュトルスキー湾、アナプカ湾(ロシア語版)、カラギンスキー湾(ロシア語版)とカラギンスキー島、カムチャツカ川河口、カムチャツカ湾(ロシア語版)、アバチャ湾が位置する。
2.歴史
2-1.ロシアの領有まで
 当地は、古代から中世にかけ、唐の記録に残り夜叉国に比定される北部の古コリャーク文化(6 - 17世紀)や東岸から南部にかけてのタリヤ文化の時代[2]を経て、近世以降、北部のコリャーク人や中部から南部にかけてのカムチャダールのほか半島中央内陸部に住むエヴェン人などが主な住民である。また、南端部に千島アイヌが古来より定着し、漂着した和人も居住。日本では安東氏や松前藩の領有地として認識されていた。カムチャツカ半島について、西洋人に詳細な情報がもたらされ始めたのは17世紀のことである。後に地名の語源となったイワン・カムチャートゥイ(ロシア語版)やセミョン・デジニョフなどのロシア帝国の探検家によって、この地域の情報が集められた。17世紀末には毛皮がとれるクロテンを求めて進出し、入植が開始されている。
 1697年、カムチャツカのはるか北部チュクチ半島近くにあるアナディリ(チュクチ名:カギリン)のアナディール城から、ウラジーミル・アトラソフ率いる約120人の軍勢がカムチャツカ西岸を南進し、カムチャダールとの戦闘が起こった。1706年頃にはカムチャツカはロシア帝国によって占領される。1713年頃には約500名のコサックが居住していた。
2-2. ロシア帝国支配の定着と対日関係
2-3.ソ連時代から新生ロシアへ
 1917年(大正6年)、ロシア革命によってロシア帝国が滅亡してソビエト政権が成立すると、日本やアメリカ合衆国はシベリア出兵によってロシア極東部を占領した。これに対し、日本との直接対決を避けたいソビエト政権の指導者ウラジーミル・レーニンはアメリカ合衆国から戻ったアレクサンドル・クラスノシチョーコフを大統領とする緩衝国家「極東共和国」の樹立を認め、1920年(大正9年)3月の建国時にカムチャツカ半島も極東共和国の領土とした。しかし、カムチャツカ半島には日本軍は侵入せず、同年12月にはカムチャツカ半島はソビエト社会主義ロシア共和国に返還され、1922年には極東共和国自体も消滅してソビエト連邦(ソビエト社会主義共和国連邦、ソ連)に吸収された。日本は1925年(大正14年)に日ソ基本条約を締結してソ連を承認し、ソ連側はポーツマス条約による日本の漁業利権を承認した。ただし、その翌年である1926年(大正15年)8月10日には、カムチャツカ半島西岸沖合の公海上にて宝来丸略奪事件が発生している。その後もカムチャツカ半島にはソ連領内に日本人が住む状態が続いたが、1930年代以降に日本の戦争が拡大して北洋漁業が縮小すると日本の漁業活動は自然消滅した。1945年(昭和20年)8月、第二次世界大戦の最末期に起きたソ連対日参戦ではペトロパブロフスク・カムチャツキーが出撃拠点になったほか、占守島の戦いでは半島南端のロパートカ岬から占守島の日本軍守備部隊に向けて海峡越えの砲撃が赤軍により実施された。
 冷戦期にはアメリカ合衆国に最も近いソ連領として軍事地帯に指定され、1990年まで外国人の入域は禁止されていた。不凍港で、北西太平洋に直接出られるペトロパブロフスク・カムチャツキーはソ連太平洋艦隊の重要な軍港となり、周辺には軍事基地が配置された。カムチャツカ半島は、ソ連(ロシア)西部から発射される長距離ミサイル(ICBMや極超音速ミサイル)試験の着弾目標としても使われている[4]。
 一方、カムチャツカ半島の東側に設定された国際航空路は日本、およびソ連とは国交のなかった韓国からアメリカ合衆国の東海岸、あるいはアラスカを経由して西ヨーロッパ諸国へ向かうには事実上、当時の最短ルートとなる極圏航路の一部で[注 1]、利便性と緊張を併せ持つルートであった。この中で、1983年9月には航路設定ミスが原因とされる韓国の大韓航空旅客機がカムチャツカ半島上空でソ連領空を侵犯し、最終的にはサハリン沖でソ連防空軍に撃墜される大韓航空機撃墜事件が発生した。
 しかし、冷戦終結に伴う米ソ関係の改善に伴い1990年に外国人の入域が解禁され、アメリカや日本からの国際チャーター便が飛ぶようになると、漁業開発や火山・自然観光などの経済開放が進むようになった。軍港機能の中心は改めて閉鎖都市とされたアバチャ湾内のヴィリュチンスクに整備され、ペトロパブロフスク・カムチャツキー市への外国人訪問が可能となった。
 この政策にもかかわらず、首都モスクワからは6000キロメートル以上離れたソ連やロシアの最東部地域という行政上の理由に加え、1952年のカムチャツカ地震を例として半島東岸に沿った千島・カムチャツカ海溝が引き起こす巨大地震や大津波の頻発という同半島特有の自然条件も重なって、1991年のソビエト連邦の崩壊や新生ロシア連邦の混乱に伴う人口流出は続いた。2001年に就任したウラジーミル・プーチン大統領によって地域振興が図られるようになった。それに先立つ1996年にはカムチャツカの火山群が世界遺産(自然遺産)に登録され、2007年には人口が特に少ない半島北部のコリャーク自治管区がカムチャツカ州に統合される行政再編が実施され、半島全域がカムチャツカ地方に属することとなった。
 カムチャツカ地方政府は、この火山群を観光資源として生かしたリゾート施設「3つの火山」を、ペトロパブロフスク・カムチャツキー南西に整備する計画を進めている[5]。
3.気候
 カムチャツカ半島の気候は亜寒帯気候からツンドラ気候。西側にあるオホーツク海では冬に流氷が漂着して常時凍結状態となるが、東側の太平洋では流氷の出現は比較的少なく、温暖となる。両岸の気温差は特に冬に顕著となり、北緯59度にある西岸のパラナは12月から翌年2月にかけての平均最低気温が氷点下20度を下回るのに対し、北緯53度にある東岸のペトロパブロフスク・カムチャツキーでは氷点下10度を上回り、1日の平均気温でもパラナより約10度暖かい。これは北緯43度にある日本海沿岸の沿海地方州都のウラジオストクよりも高い。
4.植物と動物
 かつては固有種であるカムチャッカオオヒグマが生息していたが、毛皮を目的に大量に捕獲され、1920年までに絶滅している[6]。
5.民族
●先住民族
チュクチ・カムチャツカ語族
コリャーク人(北部)
イテリメン人(カムチャダールとも。中部~南部)
エヴェン人(中部内陸)
アイヌ人(南端部に千島アイヌ)
●主に周辺地域に住む民族
チュクチ・カムチャツカ語族
チュクチ人
ユカギール人
アレウト人
●主に都市部に居住
スラヴ語派
ロシア人
ウクライナ人
ベラルーシ人
ロシア帝国による一連の入植活動、ソビエト連邦による軍事基地の強化などを通じ、ロシアから、あるいは当時のソ連構成国だったウクライナ(ウクライナ・ソビエト社会主義共和国)からの移住が進み、20世紀に先住民族の人口比は急速に低下した。2010年のロシア国勢調査の結果によると、カムチャツカ地方の民族構成比はロシア人が85.9%、スラヴ系全体では9割以上を占め、先住民族では最多のコリャーク人が2.3%、イテリメン人が0.8%にとどまるとされている[7]。
6.その他
 日本語訳において、かつては「カムチャッカ」と書かれることも多かった。「Камчатка」を現代の片仮名転写の一般例に照らせば「カムチャートカ」または「カムチャトカ」という表記になるが、日本語では慣習的な「カムチャツカ」や「カムチャッカ」の定着度が高いので現在でもそのような表記が用いられることは少ない。古くは「カムサツカ」(勘察加)と書かれたこともあった。
7.脚注
7-1.注釈
[注 1]^ 東西冷戦期、ソ連は自国領空を西側諸国の民間航空機通過には開放しておらず(モスクワ経由便のみの飛行を限定的に許可)、国交のない韓国との便に至っては経由すら不可能だった。そのため、東アジアと西ヨーロッパを結ぶ大圏コースに近いシベリア上空通過ルートは使えず、カムチャツカ半島東方沖からアラスカに向かい、ここから北極点付近を通過する極地ルートか、これ以上に距離は長くても東南アジアや中東を経由する南回りルートしか利用できなかった。
7-2.出典
[1]^ a b kotobank-カムチャツカ半島.
[2]^ 菊池俊彦『オホーツクの古代史』平凡社新社
[4]^ 「中国・ロシアが開発する極超音速機──アメリカは衛星探知網を実現できるか?」ニューズウィーク日本版サイト(2020年1月21日)2020年12月12日閲覧
[5]^ カムチャッカ半島に「自然リゾート」地元政府、コロナ後にらむ『日経産業新聞』2020年12月7日(グローバル面)
[6]^ 下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p341 河出書房新社 2003年11月30日刊 全国書誌番号:20522067
[7]^ “Всероссийская перепись населения 2010 года(全ロシア2010年国勢調査)(ロシア語)”. ロシア連邦政府統計局. 2019年10月6日閲覧。
8.参考文献
「カムチャツカ半島」。コトバンクより2022年12月29日閲覧。
9.関連項目
カムチャツカ海流
カムチャツカの火山群
カリムスキー山
蟹工船
宝来丸略奪事件
極東ロシア
カムチャツカ地方
10.外部リンク
写真:カムチャツカ川と火山群 - カムチャツカ
グレートネイチャー 大接近!火を噴く大地!巨大火山の密集地 | ロシア NHK
カムチャツカ半島にクマの楽園 ロシア極東開発の目玉に 朝日新聞社
最終更新 2025年5月25日 (日) 07:27 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 "北方領土"~カムチャツカ半島南端部
千島アイヌが古来より定着し、漂着した和人も居住。日本では安東氏や松前藩の領有地として認識されていた。
 1706年頃にはカムチャツカはロシア帝国によって占領される。
半島南端部には"アイヌ語地名"がいくつか残っており、
千島アイヌの人々にとっても「居住圏」であった。

まぁ、"千島アイヌ"は北海道アイヌとは付き合っても、
日本だ、ロシアだ、という感覚ではなかったのかな・・。
Posted at 2025/06/06 20:02:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | 都道府県区市町村 | 旅行/地域
2025年06月06日 イイね!

「ハイゼットトラック」 3代目

「ハイゼットトラック」 3代目HIJET Truck 3代目
[写真・画像] ハイゼットキャブ 低床一方開
1968年5月
 ユニークな水冷2サイクルエンジンを採用し、フルモデルチェンジ。斬新な「アクティブキュービックスタイル」のデザインやワイド設計による快適な居住性を実現。最大出力・トルクも向上しました。
全長:2,990mm 全幅:1,290mm 全高:1,575mm
ホイールベース:1,680mm トレッド:前1,110mm 後1,100mm
エンジン:水冷2サイクル直列2気筒
排気量:356㏄
最高出力:23PS/5,000rpm
最大トルク:3.5kg•m/4,000rpm
(スペックは代表例です)

●1960年代の世の中は・・・
 高度経済成長がさらに進み、1964年には東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催。1966年には日本の総人口が1億人を突破する。1960年代からモータリゼーションが加速し、一家に一台のマイカー時代を迎える。この時代の新三種の神器は、カラーテレビ、クーラー、マイカー(3C)。自動車は本格的に四輪自動車に移行し、軽自動車もマイカーの主役の一つとして、モータリゼーションを支える存在に。
【ハイゼット60周年記念サイト】


≪くだめぎ?≫
 なんと私が生まれた年に、
日本の総人口が"1億人"を突破する。
そりゃ、"モータリゼーション"を押し上げる訳だ。
Posted at 2025/06/06 16:55:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | 軽自動車 | クルマ

プロフィール

「「Yamato」体重計 ♫〜」
何シテル?   04/02 16:02
 「昔々、有ったとさ、 『トヨタディーゼル店』、『トヨタパブリカ店』、『トヨタオート店』、『トヨタビスタ店』・・・」。      身長165cm・体重6...
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新明和工業・特装車事業部 
カテゴリ:鉄道・バス
2016/09/29 08:29:33
 
マイナビ ニュース 
カテゴリ:マスコミ
2013/02/20 15:01:45
 
都道府県タクシー協会 
カテゴリ:鉄道・バス
2011/01/06 11:50:45
 

愛車一覧

ダイハツ ハイゼットカーゴ ダイハツ ハイゼットカーゴ
"MT車"、9.8万キロ走行、である。 前車ハイエースを年末に買取りしてもらう。 ほぼ、 ...
トヨタ ルーミー 「タンク」顔の"ルーミー" (トヨタ ルーミー)
[写真・画像] 6/25(日)10:37 青森トヨタ・ネッツトヨタ青森 TwiN pla ...
スバル サンバー スバル サンバー
母の嫁入り道具、父は車持ってなかった。後に事故廃車。
トヨタ マークIIバン トヨタ マークIIバン
事故廃車したため、購入。コロナバンがなかった・・。
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