大阪の高校で、体罰によってバスケ部の選手が自殺した、という事件が起きましたね。
さてさて?
体罰、というのをするヤツはどうのこうの、というけれど、まあ
愛情の裏打ちがないものは、全て単なる支配欲ということができるのではないでしょうかね?
この顧問の教師は、
自分が勝ちたい、勝って結果を残し、「勝てるクラブの顧問・名監督」の名を失いたくないって動機がいつもあったのは、ほぼ間違いない。
というか、幾ら自分を弁護して言い訳しても、本当はそこにしか興味は無かった筈。
何で10年以上も転勤を断れるんよ?地方公務員で。
周囲も、
勝てるクラブが欲しいだけなのも間違いないでしょう。
何故なら。
スポーツのゲームは、基本的に”プレーヤー”のものだから。
ゲームはプレーヤーがするもの。
極当たり前の基本が忘れられている。
特に、学校におけるアマチュア・スポーツは、幾ら何を言っても、たとえ「プロの高校生野球選手」であっても、所詮、
学校の3年間しかできないというバカバカしい基本を考えたら、
学生時代という人生の一時期を駆け抜けるものであって、それを「仕事」にしている訳ではないの自明の理。
野球で学校へ行っている、一種のプロなんて言っても、歳取りゃ分かるよ。
そんなのは『仕事』でも『プロ』でもない。ちゃんちゃらおかしいぜ。社会に出て、本当に稼ぐために働くようになりゃね。
プロってのはね、
それが家族生活まで成り立たせ、他の人の生活まで彩ることができるものだから。
お金を貰って生活がずっと成り立つ『生業』(なりわい)になっていることでしょう。
3年経ったら高校生じゃなくなるもんね(笑)。
卒業したら『高校野球選手』で守ってくれるものは何もないんだから。
こう考えてくると、すぐに分かる。
高校のアマチュア・スポーツで、文字通り『飯を食っている』人らがいる。
そう。
そうなのです。
アマチュア・スポーツの指導者は、文字通り『勝たせるプロ』な訳ですよ。
この人たちにとっては、
そのアマチュア・スポーツでの自分の存在意義=評価(=成績)=飯のため=金という構図がそのまま当てはまる。
つまり、彼らにとっては、
文字通り『職業』な訳ですよ。
今回の体罰教師は、ただ単純に
生徒=自分の評価の対象である『作品』であるチームのコマと考えていただけに過ぎない。
そうやな。
一番近いのは、
会社で毎年新人が入ってきて教育し、使えるようにするという感覚に近いよね、間違いなく。
熱血と言っても、それは通じない。
何故なら、
彼は、顧問であることを理由に転勤を簡単に断り続けていたから。
かのクラブは、彼にとって、もはや
所有物と考えていたことの、明確な証拠です。
何度も言いますけど。
人の行動、なかんずく言葉は、その人の心の鏡。
もし、彼の目的が指導そのものと生徒の成長だったら、
むしろ弱いチームへ進んで行ったに違いないから。
彼にとっては、既にあのクラブは、
自分のものという意識があったのは間違いない。
でも、ここでいつも問題になる。
学生スポーツは教育か?勝負事か?
ここでまた、物事は
心象風景でしかないことを思い知ります。
だってそうでしょう。
野球(ベース・ボール)そのものは、ルールがあって、その中で勝ち負けが決まるスポーツ、というだけ。
それが
教育か?勝負事か?ってのは、所詮日本人が勝手に思い込んだ自分の了見の鏡にすぎない。
ただ。
単なるアマチュアと、学生が学生生活の一部として行うアマチュア・スポーツとは、少し異なる意味合いを付け加えやすいかもしれない。
それが、
学生という立場や境遇の一部であるならば、どうしても
教育の一部としての側面は失われないような気がする。
というのは、どのような形であれ、学生として行う時間は、後で考えれば、全て
学びの場だったからねぇ~。
…中年になったら、特に思うな。
さてさて。
松井選手が引退しましたね。
松井選手と言えば、何と言っても、
5打席連続敬遠が有名です←リアルタイムで見たんですわ(笑)。
当時、ワタクシは、直感的に
この選択をした、またさせた監督に激怒しました。
ジジイ(父)は高知生まれなので、その高校を擁護しました。
「作戦として許されるやろ?ルールでは」という訳です。
しかしね。
ワタクシは、当時彼らとそう離れている世代ではないけれども、監督に対してこう怒った。
「そういう理由で『逃げて』勝つのは大人になってからでええ!後々、こいつらは全て逃げてしまうぞ!!」
…ちなみに。
ジジイは、何かにつけて尤もらしい理由を付けては逃げ、家族を不幸に陥れた。
ワタクシ?
それこそ、
この一戦、何が何でも勝たなアカン時には、全身全霊の力を使って家族を守ったよ。
要はね。
苦難が来た時に、立ち向かう経験が無いと、『クレバー』とか言って恰好は付けているけど、それが逃げなのか知恵なのか、本当の違いが分からない人間になってしまうのです。
こんなのは、武道を本気で実践から考えて研究し倒し、その後の人生でどれだけ役に立ったやろか…
大体、そう言って誤魔化す人は、表向きの「負け」と「諦め」を自分で見たくないだけ。
バカになって、真正面から取り組む勇気が必要な時は、人生に何度も来る。
こうして挑戦し、そして打ち勝った経験が
成功体験となり、それがいずれは、いわゆる
勝ち癖という核になる。
では、負けてもええのか?というと、皆が皆
諦めという言葉が脳内を占める。
あのね…
この言葉の語源を間違えているんですよ。
元々、
断念の意味じゃない。
お釈迦様が泣いているかもよ。
元々、諦めるという言葉は、仏教用語で
明らめる(明らむる)という、真実追及の意味なんです。
つまり、やるだけやって、そこで見えてきて、これではないと感じ取る時に使う言葉。
やりきってもいないどころか、何もしていないのに単に断念している人が使う言葉ではないのです。
仮にやりつくして負けたら、もしそこで勝てていたら-
自分の才能に気付いて極めようとする。反対に、自分はどうあがいてもここまでだな、と思い知る-
どちらにしても、素直に次のステージに邁進していけます。そのスポーツを離れても。
この監督は、
「勝ったんだから」「勝てて良かった」などと言っていました。
自分が勝ちたかっただけちゃうん。
その後の選手の人生、本気で責任を負っているのか?負うつもりがあったのか?
答えは、
ぜ~~~んぜん?
もう十数年前になるかな。
松井選手と敬遠した投手とが対談したことがありました。
ワタクシは、自分の直観がやはり当たっていたと愕然としました。
それから、今は特に、自分が本気で取り組むときは、
逃げか?勝負か?そして卒業か?と自分に問い直します。
↓たった数分ですけど、
同い年の筈の二人の態度の違いに注目して欲しい。
これが、逃げと知恵の違いを知らないで、その後成長の差が出てしまった、二人の違いです。
何度も言いますけど、
人の行動、なかんずく言葉は、その人の心の鏡。
もしも、彼がその後何度も言っていた
「間違いない作戦だった」「後悔していない」という想いであれば…自分に恥じるところが本当に無い、本当にやり尽くした人ならば…皆さんだったらどういう態度を取りますか?
彼らは、当時
23、4だったと思います。
こんな態度を取りますか?
当時、彼はまだ夢の中にいたのでしょう。何故なんでしょうね?
真実を明らかにする力を付けるチャンスを失ったからではないでしょうか?
ついでに。
あの高校の監督は、去年もまた5連続敬遠して甲子園に行きました。
でもね。
松井選手に対しての敬遠について、こんなことを言っていました。
人を敬うからこそ敬遠
皆さんも、一度ネットで結構ですので、
敬遠と入れて意味と語源を調べて下さい。
こんな失礼な言葉をこんな綺麗に使おうなんて。
バカバカしい。
まさに浅慮。
ワタクシが親ならば、絶対預けたくない人。
今回の体罰も、この手の人に五十歩百歩の精神世界の人のような気がする。
Posted at 2013/01/15 23:32:24 | |
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