立て続けにパソコン(HDD)が壊れた;;
何でだ?!
二か月で新品がパーだよ?!
海門(シーゲート)、熱に弱すぎ;;
東芝、ショックに弱すぎ;;
今のシステムだったら東芝かなあ…
どの道、メーカー製を改造するのは、やっぱりムリがあるわ。
出たばっかりのi7にしようかな?と画策したけど…
…またお金がかかるじゃん(涙)。過程もちはツラいね(笑)。
→結局、相性保証をつけてもらって、追い金でウエスタンの赤箱を購入~。どうなることやら(笑)。
安定した東芝の1TBにシステムを組んで、2TB+2TBの外付けHDDにしようと思っています。
さて。
小保方氏の問題。
数日前、こんな
意見書を提出したと聞いた。
…ああ、やっぱり。
このような問題で、弁護士さんを入れた時点で、小保方さんは道がどんどん狭くなってしまうと感じていたが、やはり思った通りになってしまった。
いえね?弁護士さんがいけないのではない。
今回の問題、特に科学の真実性に関わる問題が扱われている場合、法律(の世界)は、実は小保方氏が求めているものにはほとんど合わない、噛み合うことは無い、というのがワタクシの本音だったからだ。
国会も同じ。委員会で相も変わらず「STAP細胞はあるんですかないんですか?!」とか「若手潰しではないんですか?!」などと、自分が何を言っているのか、場合によっては憲法に背く行為だとも知らずに偉そうに言っている某(政治的には『元』になっても惜しくはないと個人的には思っている)議員もいた。
…だから、あんたは「はやぶさ」で政治生命が終わらされたんだよ。
でも、懲りずにやっぱり分かっていないわ。今度は選挙では二番では済まないかもよ?(笑)
元々、国会や行政も、このような「学術的問題」の真偽を扱うことは相応しくないし、憲法上控えるべきと思われる。学問上の真偽を国家権力が決定し、後押しすることになり、学問の自由が侵害されかねない行為だからだ。
前にも書いたことがあるけれど、裁判所もそうなのです。故に、司法権の限界が問題となる。
弁護士さん等法律家に依頼するというのは、どういうことなのだろうか?
皆さんはご経験がおありでしょうか?
この件は、まず一点。
①そもそも法律(裁判所)で問題解決?勘違いしていない?
そしてもう二点。
②ぢゃ、裁判って『何』?
③ぢゃ、弁護士さんに頼むと、問題は解決するのん?
これらの視点が欠けていると、後で痛い目に遭うことも少なくない。
①法律(裁判所)に対する大きな誤解
一般の方は、特に最近は、何かと言うと、やれ法律的には請求できる筈だ!とか何とかして下さい!と安易に相談を持ち込んでくる。はっきり言って、枚挙に暇がない…状態に近づいているので憂慮している。
確かに、観念的には請求が考えられるけれど、請求額や請求内容を訊くと、実に過大なものを期待していることが分かる。
「こんだけ『嫌な目』に遭ったんじゃ!高い慰謝料が『当たり前』!!」とか、「きっと懲らしめてくれる!」とか、そんな本音がどこかに多かれ少なかれ抱えているような感触がある。
ハッキリ言って勘違いだ。
…法律ってですね。
昔から言うのですよ。
「最低限の道徳」
…だからと言うわけでもないけれど、判例で蓄積された「相場」を見ると、一般人が思うよりも少額、短め、という感じがする。
だって、「最低限の道徳」だからね(笑)。
つまり、法律上「解決」される範囲は、一般人が思うよりもずっと狭い、ということだ。
だから、問題解決!と言っても、それが「法律上の解決」であれば、一般社会での解決とは程遠い結果になることの方が多いかもしれない。
逆に言えば、シロクロつけたらい!もお裁判やっ!って言う場合、それはもう相当なギリギリのところまで追い込まれている状態、ということもできる。
ところが、法律家の頭というのは、法律論は全てあまねく世界に通用する、と頭のどこか思っているフシがある。アメリカの弁護士が、日本に来て「人種差別だ!」と言い、親が気絶(したフリ)して見せる…これが通用しないのに、日本でも通用すると思い込む、正にアレと同じ構造だ。
でも…やっぱり万能ではない。所詮、人が作ったルールだから、自縄自縛に陥ることがある。
今回の場合は、二つ。
一つ目は、小保方氏が守られるのは、せいぜい研究員としての地位があったことを確認することと、給与だけ、という狭さの問題。
二つ目は、科学上の論点は、小保方氏自身が何とかしないと解決できない問題であることを彼女が勘違いしている事だ。
まず一つ。
今回の場合、小保方氏の弁護士の目指すところは、所詮、「解雇の防止」またはその代償としての金銭の確保程度しかない。法律上争うとすれば、今のところ想定される処分の不当性の程度しかなく、最悪の場合は解雇となるため、その地位保全がまず最初の目的となる。
しかし、ね。
そもそも、地位保全を狙っても、小保方さんを守ることになる?それで、彼女の科学者としての人生を全うさせる手立てになるの?
彼女の研究者としての立場を守るという観点からは、別に地位保全をしてみても、問題解決としては目の前を何とかしただけ、という状態になる。
つまり、弁護士さんたちが守れるのは、所詮、地位と給与しかないのよ。その後の科学者としての人生の足掛かりにすらならない可能性があるのです。
そして、今回の問題解決ためには結局のところ、法律論上、科学上の真実性を争わざるを得ない、というめちゃめちゃシビア~なところに踏み込まざるを得ないし、後に述べるように、これは相当不向きな方法だ。
仮に百歩譲って地位保全が可能になっても、今回の場合はその後の研究人生が守られる可能性は今のところ低く、それどころか、法律上はタブーとされる、科学上の真実性の証明しか、彼女を救う手立てはないということだけが、極めて明白になるだけなのだ。もしも、科学上不可能であることだけがはっきりと解明された場合、それが常識となって争いようもなくなれば、だましたとして研究費の返還問題にまで発展する可能性がある(逆に言えば、今のところ科学上の決着がついていない状態だし、本人も虚偽だと認めていないので、返還までは請求できるがビミョーだろうなあ)。
だから、代理人は、論文の捏造や適正手続という論点に絞ってああでもないこうでもないと、一般人には分かりにくい、しかし法律上の論文としては、ある程度の技巧を凝らしたものを作成して、そこに絞って書いているけれど、今のところ、そうすることで法律で彼女を守れるかと言えば、ある程度のところ、最低限のところまでしか効果は及ばない、と思う。
二つ目。
弁護士さんと小保方氏の誤算は、科学界で、法律界の論理・価値観をもってしても意味がない、という事態を全く想定していなかったことだ。
特に弁護士さんらの弱みは、「科学界の価値観(尺度)」というものを全く理解していない事だといえる。
その証拠が、彼女が博士論文の写真を導入してそのままにしてしまった、という理由の下り。
今回の場合、論文上、写真の捏造等の問題になっている。弁護士さんの出してきた意見書を見ると、結構苦しい立場であることが分かる。
…「うふふ♪『ついうっかり』昔の写真を入れといて、代えるの忘れちゃったのよん♪うふふん♪」程度の軽さで、科学の世界にいてもいなくても、常識的には考えられないでしょ?という理由を平気で書いている。
例えば、訴訟代理人が、同様の論点を争う訴訟を幾つか並行・同時に進行させていた場合、その決定的証拠を確認もしないで訴状や準備書面を書くだろうか?ということに照らせば、いかにおかしいことを書いているかが分かる。
普通、訴訟で決定的証拠をこれから出そうとする場合、同じ論点とはいっても違う人の事件の証拠が入っていないかを何度も確認して資料を整理し直し、確認する筈だ。そういうミスが起きる整理具合だと、そもそも訴訟代理人として不都合が多すぎる人、ということにもなる。
これが小保方氏の論文となると、事態は一層深刻になる。
彼女が問題視されている写真は、遡ること数年前の博士論文の写真であり、それをあたかも今回の実験で得られました!と載せていることが最大の問題点だったわけだが、彼らは、捏造とは真実そのものの証拠がないのに作ったこと、という定義をした上で、本来載せるべき写真は別に存在しており、今回ちゃんと後で提出した、ということは捏造ではない、悪意あるものではない、ということを盛んに強調している。
…でもなあ。フツーやるかね?自分だったら?というところだ。
どんな人でも、「これを出したらイチコロぢゃ~!」という「最終兵器」は、頬擦りしたくなるほど愛おしい筈。
…そんなものを間違えるかね?
これがね、過失というなら、「悪意に等しい」過失=重過失に感じない?
確かに法律家の論理だと通る…かもしれない。しかし、科学の世界の価値観を踏まえずに書いても、それは、やっぱり通らないんだよねぇ。
何故なら、科学論文の価値観は、ただ真実性と再現性の担保しかないからなのだ。
上記のように考えると、やはり科学上の問題として争う手だてとしては、法律・裁判は、むしろ邪魔だ。
本当は、この論文が科学的に何らかの真実性が内包されている場合、小保方さんが実質的に科学者として助かる公算が大きくなるのは、一般人の感覚として、法律の素人の方々にも分かるだろう。
反対に、法律の問題とした場合、科学的真実性が処分の正当不当の決め手となる争いだとすれば、問題解決の前提となる部分がこのような学術的な問題ということになってしまい、そもそも司法の対象外とされてしまうのだ。弁護士の出る幕じゃなくなる。
つまり、法律そのもので、小保方氏が望むところまで解決するのは、大変難しいか、そもそもできない、最も向いていない方法である可能性も高いのだ。
だから、代理人らは、大がかりな記者会見まで開き、写真が捏造かどうかと言う酷く散文的なところの解釈論に終始し、自説を展開して論じている…つもり。そこが論点であれば、法律論の対象になるからだ。
ところがね、あの会見や反対意見書は、訴訟戦術に長け、法律論はお手の物だし、議論は得意で、一般には何だか頭良さそうな議論に見えるけれども、ワタクシには今回の問題の本質を逸脱したものに見える。
この根底がそもそも科学上の価値観に基づくという特殊性がある雇用問題で、一般の企業相手と同じようにしては、ほとんど意味がないことが分かっていない。
元々科学の世界で何が重要視、絶対視されているかも全く分かっていないから、一般企業の「成果」の問題と、科学者の「成果」の問題とは、根底的にほぼ全く相容れない、という出発点の違いに気が付いていたかどうか危なっかしいなあ、と感じていた。
それは、ホテルで、華々しく記者会見をした時に感じた疑問だった。
彼らが記者会見をしたのは、これを通常の労働紛争として捉えている側面があったから。一般企業なら、世間に派手にアピールすることは、勝利への手っ取り早い道。派手にすることで、世論を味方につけられる、という公算はあった筈だ。
一般企業なら、それで良い場合が多いだろう。企業イメージに打撃を与えることができるからだ。しかし、科学界となるとどうだろう?
科学界の成果は、ただ一つの真実性と再現性のみ。企業の世界の成果とは、求められている世界の狭さと真実性担保の深さが桁違いなのだ。
ゆえに、論文の真実性担保の必要性は、法律界で使われるそれとは別物だということに気が付かないといけないが、彼らはあくまで自分たち法律家の価値観で物を見ている事には気づいていないなあと感じていた。
それと、何よりも問題になっているのが、「再現不可能」であるということ。科学の論文は、それこそ真実性(もっと言えば再現可能レシピ)を前提としているものでなければ、ほとんど意味がない。それこそが、「科学の価値観」だからだ。
今回の場合、これは、今回の問題とは一応切り離されて話されてはいるけれど、それは弁護士側が戦えない世界なので切り離そうとしているだけで、科学界は、これが最大の価値観なので、わざとここで勝負をされると、弁護士さんたちは手も足も出ないまま、訴訟に持ち込んでも話にならないことになりうる。
というのは、司法の場では議論することは許されないから、科学上明らかにするしかなくなり、弁護士の出る幕は本当になくなるのだ。相手が科学的に「(その時点までの確認で)存在又は不存在」ということが明らかにしよう!と出てきて、何らかの形で不存在が明らかにすると、真実性担保の方法論を自己主張して定義しまくっても、何も意味がなくなる。企業の雇用問題とは違い、その時点で研究成果として本物のアウトだ。
こうなると、司法の場は、小保方氏の期待には全く添えないばかりか、むしろ邪魔になってしまう。
弁護士の発言は、かなりのインパクトがあるから、これに口出しするとかえって小保方氏本人を追い詰めたり行動の自由が狭まったりするから、なんだよね。
だから、科学上の問題では、最早、小保方氏本人が動いて何らかの成果を勝ち取らなければならない。弁護士さんに期待しても、土台ムリなのだ。
おかしいのは、小保方氏は、何故か依頼してあのような挙に出た。なぜか?
法律や弁護士、裁判所に、要らぬ誤解と過大な期待をしていたからだろうなあ。そして、彼女自身、あまり科学上の守るべきルールにルーズだから、このあたりの事が全く分からないか、人に頼り過ぎて生きてきたからなのか…どれも理由の一つになっているように思える。
とにかく、誰かに頼り過ぎな印象がある。本当にSTAP細胞とやらが存在するのであれば、彼女が動かなければハシナにならないところまできているのに、彼女は未だにポワ~んとしている印象だ。
小出しにしている情報を見ると、小保方氏に参加させようとしているのは、理研側としては、既に何らかの確証を得ていると見る方が近いと思える。
彼女自身が、自分の身を守る、明らかに不利なリングで相手方のルールで戦わなくてはならなくなる。それも、既に結論に近いものをデータとして得てしまっているところへ、だ。
彼女自身は何とも思っておらず、反対に研究の場を再度与えてもらった!とウキウキしているのかもしれないが、本当はそうではなく、誤魔化しがきかない場で彼女が作成できない事を明らかにさせることで、むしろ庭先で切腹させられそうになっている、というのが、ワタクシの正直な感想だ。
法律家らしい言葉遊びの議論をしていても、最早ほとんど意味がない。法律用語上の解釈論をしても、ああいう科学の価値観を分かっていないところから、逆に笑い者にしてしまう恐れのあるものしか書けないんだなあ、と感じた。
結局のところ、小保方氏が論文所やその後の行動で、科学上の真実性の担保にどれだけ相応しい行為をしたか?という観点になると…自ずと答えは不利な方向に働く。だから、定義づけから丁寧に自説で論じている訳だが、それは科学者としての守るべき根底のルールをどれだけ踏まえているか?ということが、結局大切にされる。
おそらく、あの弁護士さん(知り合いから大変ご高名な方ということは聞いて知っていた)は、研究者の世界や生き方、価値観を全く知らないんだろうね。だから平気であの会見や意見書、あのノートなどを公開してしまっている。それが、まかり間違うと逆に小保方氏自身を短期間に追い詰めることになるだろう、と想像できなかったと思えた。
このように、法律家さんに依頼することで、法律や裁判で身を守れるか?といえば、かなりぶっちゃけて言うと、「金に換算してナンボ」ということもでき、それ以上は土台ムリなのだ。科学上の争いや立場を守ることは、実際は不可能だ。
これでは、訴訟上では問題にできない。しても無駄だ。
実際、理研は、弁護士さんたちが出てきたことに驚きはしていたものの、あちらにも弁護士さんはいるので、得意の科学分野で全てを明らかにする、という方向を打ち出し、進め始めた。こんなことは容易に想像がつくべきで、小保方側は、断然不利になる。
写真のみならず、そもそも論文全体が捏造、という事実を科学的に証明する手に出てきたワケだ。こうなると、定義づけがどうとかいう問題ではなくなる。仮に訴訟で勝って地位を認めてもらっても、小保方さんは科学者としての根本的なところで敗北しているので、最早どうにもならない状況に陥ることが確実になるからだ。
このように地位保全と給与を守っても、事態の解決にはほとんど結びつかないという事態は、世の中よく起きる。そもそも法律で身を守れるのはギリギリのところだけ、ということが往々にしてある、ということだけは知っておくべきではないかな、と思う。
②裁判(所)に対する勝手な誤解
一般人の思う「裁判所」とか法律家というものに対するイメージって、どこか「大岡越前」とか「遠山の金さん」とかと大して変わらないんだよね。
こういう人たちは、カクジツにこう思っている。
「自分たち『正しい者』の言うことが、必ず認定されるし、証拠だって最終的には裁判所がきっと調べてくれる!!」
実際に相談を受けた事案だと、どこの事務所でも断られた、だから本人訴訟をしたい、でも裁判所に訴状を提出したら受付で断られた、書き直してほしい、なんてのもある。よくよく見れば、医療過誤裁判で、何だかワサワサした資料や訴状しかない。それなのに、なぜか得意満面「医師法違反でしょ」とさらっと言うわ、証拠は「こんなもんでええでしょ?」なんて言うわ…
こういう人たちの本音は、「よ~やった!アンタ、素人やのにすんごいなあ!これが分からん裁判所の方がおかしいわ!!」といつ言ってもらえるか?と、手ぐすね引いて待っている訳です。
…そんな訳ないやん;;;;;;;;;;;
腹立ってきて、言ってしまう。
「じゃ、医師法何条の何項のどこの要件に違反してるの?」
ツンと澄まして得意満面に言うんだわ。
「何で私が言わないといけないんですか?『裁判所の仕事』でしょう?」
…もっというと、証拠がないといけないと自分で言いながら、よくよくよくよく聞くと、結局自分が出廷するんだから、そんなものはこんなもんでええ、なんて思い込んでいる…こんな人が、世の中ゴマンといる。
ええ、あなたは程良い以上の勘違いをなさっていますよ。
うちではハッキリと言っている。
「訴訟は『プレゼンテーション』です。」
…分かってる!と怒る人ほど、全く分かっていない。
裁判官は、当事者の事も、事件の事も全く知らない。それでも、裁判所は、判断を求められ、受け付けたら最後、最終的には判断する責任を負わねばならない。
だから、
①請求以上の事は認定しない(処分権主義)
②訴訟資料の提出は、当事者が全面的に責任を負う(弁論主義)
③裁判所が勝手に証拠調べを行わない(職権証拠調べの禁止)
という三つの基本法則がある。
だから、認定してほしい事実関係に基づいて請求内容を自分で定めなければならないし、証拠だって自分で全て用意しなきゃいけない※1
つまり、これらの法則で戦う以上、裁判官に「あ、こっちの方が『正しい』な」と思わせる「プレゼン」をした方が、それなりの結果を得ることができる訳だ※2
※1用意した訴訟資料については、自分が良いと思って出しても裁判所はそうは思う必要はない。全資料を裁判所(裁判官)の良心に従って自由に判断することになっており(自由心証主義)、場合によっては出した方にとって大変不利に判断されることもある。相手方から出された資料をひねり返して反論し、むしろ矛盾を突いたりすると、こちらの証拠のように裁判官の心証を得ることも結構あるので、訴訟上では最大の効果がある。ここでも孫子はとても有効。準備は怠らず、証拠も準備しておいて相手には微塵も見せず、相手方の「形」が形成されたら、その「形」に合わせて相手方の資料を切り刻む。裁判官の心証は一発で形成されてしまう。ワタクシたちも、相手方から出された資料を逆手にとって窮地に陥れ、完膚なきまでに薙ぎ払う判決をもらうことも時々ある。一番気持ちいい勝ち方なので、「『正義』(なかんずくワタクシ)が勝つに決まっているのよ!オーッホッホッホッ!」などと相手方の前で口に出してやってしまい、大喧嘩になりそうになったことがある(汗)。数年前は、血の気が多い若者だったと理解されたい。必要な通過儀礼かもしれぬ…必要ないな(笑)。認めたくないものだな、若さゆえの過ちというものを(笑)。
※2杓子定規に言えば、訴えた方が大変不利で、負けても仕方がない状況下の訴訟でも、互いの状況や利益を考慮すると、相手方の言い分を全部認めれば、あまり褒められた結果が出ない場合もある(極端な例が公序良俗違反)。こんな場合は、あれこれと理由を考えて何とか勝たせてくれようとすることもある。和解に持ち込める場合も含まれる。
だから、訴訟で勝てるかどうかというのは、証拠や能力など、「勝てる『材料』がどれだけあって、どう『料理』するか」ということに尽きる。
それが無い場合は、ホンマに泣き寝入りとなってしまう。
特に今回は、問題の根本に科学上の問題「STAP細胞の存否」に繋がる可能性がある。そうなると、裁判所は司法権の限界から問題解決不能として司法判断を控える可能性大。
小保方氏は、裁判になっても何とかしてくれると思い込んでいるかもしれない。それは妄想にすぎないけれどね。
③「弁護士に依頼した」という重み
別に弁護士さんだけではなく、士業と呼ばれる人たちの通弊がある。
それは…
「依頼された『問題』を乗り越えたら『全て解決』!と、どうしても多かれ少なかれ勘違いし易い事」。
致し方が無い。依頼された問題解決(場合によっては事務作業に近い手続き)が、士業さんの使命なのだから。
しかし、今回の場合、本当は「小保方さんの研究人生を守るためにはどうすれば良いか?」という目的から逆算すると、弁護士さんのやり方は、あまり好ましいものではないのではないかなあ…と感じていた。
このあたりがよく分かっている弁護士さんだと、あのようにド派手な記者会見などを最初に行うことは考えないだろう。
内容証明一発ですら、代理人弁護士の名前を出すこと、出すとしても時期は何時か?ということに気を配る人もいるのですよ。
何故なら。
弁護士が出てくると、既に訴訟リスクと相手は評価し切ってしまうから。
穏便にことが済まない可能性も大きくなる傾向があるのだ。
これは、弁護士さんの人格的な”タイプ”も関係するので、一概には言えないが、少なくとも最初からどデカく動きたがる人には注意が必要だな。
今回の場合、事態の流れをかなり早めたのは、間違いなく弁護士さんが出てきたことと、あの会見を行ったことだ。
理研側は、最初こそ驚いただろうけれど、ある意味では腹をくくれるチャンスとなった。
かなりまずい拙速なやり方に終始してきたものの、特に今回の事態をどのように収めるか?が、今後の事にも影響するので、事これに関しては、小保方側が科学上言い逃れできない方向に持って行こうとしているように思える。
この方法を取る限り、弁護士の言うことは、本当に限られるようになる。
だから、代理人を立てるなら、「テッポ撃つで!」という覚悟を持って動くこと。ギリギリのところで戦うのだ、という覚悟を持っておくことだ。
決して、他人任せだったり、頼り過ぎてはいけない。
期待していることが、そもそも無理だったりもするのに、勝手に弁護士さんなら大丈夫!などと思い込んだら、その人の主観では「裏切られた!」となるよ。
弁護士さんに限らず、士業さんなんてのは、自分の専門分野以外の「世間」のことは、一般の方と同様、知らないことも多いワケよ。当たり前の事だ。
しかし、人間、ある程度の実力を持つと、万能感を持ちがち。特に法律家たちはその傾向は顕著だ。だからこそ、代理人さん達にもよく勉強してもらわないと、ね。
小保方氏のノートを見て、何であんなモン公開しようと思ったのか、未だにワタクシには分からない。
士業さんは、問題解決の手法を提供できるだけ。
依頼する側が、自分が求める「目的地」を明確に持ち、ビジョンとして士業のセンセイ方に見せる事。
これが、センセイ方をよりよく利用するコツだと思うのですよ。
ふう。
長くなってしまったけれど、見ていて思ったことを書いてみました。