
東京五輪が閉幕した。元々スポーツにはあまり興味がないので、中継も一切見なかった。意地になっていたのではなく、他にやるべきこと、見るべきものがあっただけなのだ。ただ、ニュース番組や新聞紙上が五輪の話題であふれていたのには少々閉口していた。この五輪の陰で報じられることなく葬られた記事も多いだろうなと感じたし、何より「感動すること」を強要されるような感じが煩わしかった。そこに来て、メダリストが「感動を
与えられるようなプレーをしたい云々」言っているのを見聞きすると、「感動ってのは自発的にするものであって、他から与えられるものではないよね。」と文句も言いたくなった。そもそも「与える」ってのは上位者から下位者に授けるというニュアンスが強い言葉だと思う。受信者が「与えられた」というのは問題ないが、発信者が「与える」っていうのは何か違う気がするのだ。
もちろん、この大舞台に向かって努力を重ねてきたアスリートを軽視するつもりは毛頭ない。私には決して出来ないことを成し遂げているのだから、本当に大したものだと思う。ただ、私には「自分もそうなりたい」というような思いも「なれなくて悔しい」という思いもないから「感動」という言葉を使うほど心は動かない。スポーツが好きな同僚などは、色々な競技の結果について興奮気味に語っていたが、他人の努力とその成果に対して、どうしてそこまで感情移入できるのか分からなかった。おまけに「見ていない」などと言おうものなら「何で見ないの?」「応援しようよ。」などと言われる。ちょっと前に「鬼滅の刃」が流行った頃、見ていない人や知らない人を馬鹿にする「キメハラ」なんてのがあったそうだが、これはまさに「オリハラ」だよね。
昨日の閉会式に関するニュースを3つほど貼ってみる。
(1)
国立競技場周辺に多くの人 選手の姿に「感激」
(2)
国立競技場周辺 あまりの密に急きょ人流規制で地元住民怒り
(3)
東京五輪閉会式、あの人混みは何だった…一夜明けても非難相次ぐ
五輪という国際的な大イベントだ。気分が高揚する人がいるのは当然だが、それによって実害を被っている人もいるんだよね。五輪開催中はお祭りムードに水を差すような報道は随分トーンダウンしていたようだが、これからは「コロナの感染増」と結び付けたり、「これまでに失われた経費、これから失われる経費」を憂えたりするような報道が激増するのではなかろうか。再び掌が返される様子、生温かく見守りたいと思う。
そうそう、リンク記事に突っ込みを入れておこう。
(1)
変なカツラを被ってインタビューに答えている人以外にぼかしが入っている。つまり、
出歩いている人に対して批判が集まる可能性が少なからずあるということを、取材者は重々承知しているんだろうね。インタビューに答えたお二人さん、顔出ししたことを後悔する日が来ないといいね(棒)。
(2)「なんで俺らがこんな目に
合わなきゃならねーんだよ!(原文ママ)」ってあるけれど、警察官がそんな目に
遭わせているのではなく、
外出すんなって言われているのにお祭り騒ぎをしたくて集まった連中、そして自分の主義主張をしたくて集結したデモグループのせいだよ。文句を言うならそちらへどうぞ。
(3)「この密が許されるなら小学校の運動会やって
欲しい(原文ママ)」って、
許されてるわけではないよね。お願いベースで効力はないと言われつつも、
緊急事態宣言は発出されているし、外出自粛要請も出ているんだから。そういうものに従わない連中への憤り(羨望?)を、行政や学校に向けるのは何か違う気がするんだよな…。
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日々の徒然 | 日記
Posted at
2021/08/09 13:41:42