一昨年、新潟の県立工業高校の生徒がいじめを苦に自殺した。
第三者委員会の調査の末、学校が適切な対応を取らなかったことが原因という結論が出されたのだとか。テレビニュースでは、頭を下げている学校関係者、教育長に対して声を荒げる父親の姿が映し出された。「私にじゃなく、まず息子に謝ってくれ。」「寄り添うってのは近くにいればいいということなのか。」など、言っていることは分かる。私も親の端くれだ。最愛の子どもを失った怒り、そして自分が助けてやれなかった後悔と無念をどこかにぶつけたいという気持ちも痛いほど分かる。しかし、真にそれを受け止める義務と責任をもつ人間は決して表に出てこない。
普通に考えれば、いじめによる自殺であれば、いじめたヤツが一番悪いはずだ。学校関係者が率先していじめたわけではないのだ。しかし、少年法だの加害者の人権だのが立ちはだかり、一番悪いヤツが糾弾されることもなくのうのうと生き続けることになる。もちろん、学校に責任がないとは言わない。しかし、学校関係者が頭を下げ、遺族の怒りの言葉を甘んじて受け止めているとき、加害者達は真摯に反省をしているだろうか。遺族の前で頭を下げるでもなく、テレビカメラの前でさらし者になるわけでもなく、安全な場所で嵐の過ぎるのを待っているだけである。加害者である自分の代わりに学校関係者が責められ、平身低頭で謝罪をしてくれるのだ。それでは、加害者もその保護者も、真に反省などするわけがない。反省をしないのだから、場所と対象を変えて同じことを繰り返すだろう。
市内の文化施設で、いじめについて考える県民集会が行われていた。興味をもったので参加してみたが、やはり最も大切な視点が欠けているように思えた。恐らく参加者は「いじめを受けたことのある人、理解者、支援者、教育関係者」であろう。それも休日を返上して、いじめや人権について考えようという前向きな意思をもつ人間達である。翻って、他人をいじめ殺すような人間達は決してそんな会合に参加することはない。結局のところ、「いじめられる側が心を強くもち、周囲の理解者や支援者でいじめられている人を守ってあげよう。」ってことでしかない。そんな結論では、加害者側の心にはちっとも響きはしないだろう。ヤツらは努力することも、負担することも、痛痒を感じることすらないだろう。
子どもだろうが何だろうが、自分が犯したことに対しては相応の責任を負うべきだ。自称人権派はすぐに「加害者にも未来がある」だの「更生の機会を与えよ」だのと言うが、被害者から未来や生きる機会を奪っておいて、何の権利を主張できるというのだ。相手の気持ちになって…などというきれい事では解決できない。他者をいじめ殺すような人間が、いじめ殺される人間の気持ちなど理解するはずがない。理解するときがくるとすれば、それは自分が同じ目に遭ったときだけなのだ。
Posted at 2018/09/16 22:19:24 | |
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