村上春樹氏がなにやら語っておられる模様。私は大学時代に現代小説のゼミに所属していたが、正直、彼の作品はあまり好きになれなかった。私のように古い感性しかもたない人間の心には、あまり響いてこなかった。誤解しないでほしいのだが、私には彼の作品を理解する能力がなかったということであり、彼の作品の巧拙を云々するつもりは毛頭ない。
リンク記事中で、村上氏は「日本の政治家、首相は『謝らない』『自分の言葉で語らない』から最低」という趣旨の発言をしていた。まあ、前者については理解できる。大人だろうが子供だろうが、自分の非や失敗は素直に認めるべきだとは思う。ただ、最近の与野党の足の引っ張り合いを見ていると、非を認めて謝罪をしたところで終わりにはならなそうだ。責任を取れ!責任を取れ!(要は辞めろってこと)とがなり立て続けるんだもん。そうやって声高に責め立てているやつに限って、自分たちの失敗には実に寛大なんだよな。金銭授受疑惑から最終的に辞任した与党議員に対して「秘書のやったことについて本人の責任が免れるわけではない!」と責め立てていたくせに、自分の秘書がやらかしたときは「監督は不十分だったが、国民の期待に応えたい。」と職に居座り続けたやつとかね。
閑話休題。後者についてはちょっと納得しがたい部分がある。小説家であれば、紙に書くということの意味はよく分かっているだろうに、彼の言い分を聞いていると、紙に書くことの負の部分にのみスポットを当てているように思える。「紙に書かれたことをただ読み上げている」と受け取れば、確かに事務的で、心がこもっていないように感じられる。しかし、紙に書くということには違う側面もあるはずだ。自分の思いだけで話をすることで、誤解を生じさせてしまったり、漏れ落ちが出てきたりすることを防ぐということである。伝えるべきことを列挙し、内容や字句が吟味されたモノを用意しておく。それは手抜きだとか心がこもらないなどと言い切れる行為ではないと思う。別な視点からも考えてみよう。首相、或いは組織の長が、私見を述べたとする。本人が「あくまで一個人の考え」という認識であり、そう断って発言したとしても、それは政府、組織の意志として受け取られてしまうのだ。「稚拙であってもいい。木訥であってもいい。自分の言葉で語ってほしい。」などと言う人がいるが、それは立場上できないことだと思うのだ。日本は独裁国家ではないのだから…。
まあ、現在の日本はいい国だなって思う。元首に類する立場の人間達を公然と批判しても罪に問われることがないのだから。ただ、偉そうに批判したり文句を言ったりするだけで、選挙にも行かないような無責任な成人も少なくない。そして、そういう人たちが口にする批判や文句は、他人の受け売りであることがほとんどだ。生来の文句こきの私だが、きちんと選挙に行って意思表示をした上で、自分自身で考え、判断して文句を言うようにしたい。そんなことを考えさせられた。
Posted at 2020/12/27 12:28:54 | |
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