
千羽鶴…願いを込めて折られたものであり、私たち日本人にはなじみ深いものである。特に、広島の原爆による原爆症で亡くなった佐々木禎子さんの話を知っている人にとっては、特別な意味を持つアイテムである。しかし、それは私たち日本人にとってのものであり、外国の人にその思いが十分伝わるかどうかについては疑問がある。海外で自然災害などがあった際、市民団体や小中学校の児童会、生徒会などが中心になって千羽鶴を贈った例も少なくないと聞くが、支援物資かと思って開けたら食べられない折り紙だったためガッカリされたとか、場所を取って邪魔になったとか、「頑張ってください」の意味で「Fight!」と書かれた鶴が届いた先では救援物資を巡る暴動が起こっていたとか、いろいろ残念な話も聞く。
そんな背景があるためだろうか、
ウクライナ大使館に千羽鶴を送ろうと考えた人に、千羽鶴は迷惑になるのではないかというメッセージが相次ぎ、断念するに至ったというニュースが報じられた。発起人は純粋に停戦と平和を願っているのだろう。そこに横槍を入れるなんて了見が狭いヤツらだと思う人も少なくないだろう。実際、戦地になっているウクライナに送るのではなく、日本国内にあるウクライナ大使館に送るのだから迷惑にはならないと考える人もいるだろう。マスコミが美談チックに取り上げたりせず、発起人と周囲の数人が折った鶴を届けに行く形に留まっていれば、問題にはならなかっただろうに…と私も思う。
ただ、支援というものは受け取る側が求めているものを提供して初めて意味を持つのだ。自分自身が「いいことをしたぜ!」という満足感を味わえたとしても、その行為が結果的に相手に負担をかけるのだとすれば、せっかくの善意も意味を失ってしまう。所謂「ありがた迷惑」「小さな親切大きなお世話」ってやつである。
別の話題になるが、先日、
三重県伊勢市の川に鯉の稚魚を放流したというニュースがあった。子どもが遊べるような美しい川に戻したい…という善意からの行動であろう。しかし、その翌日には
鯉の大半は外来種で生態系を乱す虞があるという声が上がっているというニュースが報じられた。これも同じような話なのかも知れない。
頭の中で理屈を捏ねるだけでなく、行動に移そうという志は尊いものだ。そのことに対して異論はない。しかし、その志が仇にならないよう、十分思慮を巡らす必要があるのかも知れない。…ん? 理屈を捏ねるだけでなく行動するために思慮を巡らすって、無限ループみたいだなあ。
Posted at 2022/03/20 22:07:18 | |
トラックバック(1) |
爺放談 | ニュース