
「
なぜ残る ミスキャン50年の歴史」という記事が目に留まった。昭和の時代や平成初期にはあちこちの学校や団体でミスコンが花盛りだった覚えがある。私が住む上越市でも「ミスさくらコンテスト」なんてものがあった。まあ、高校時代の同級生(タバコ吸って停学を食らい、その後退学しちゃった女の子)がエントリーして、準ミスになったときにはちょっと醒めてしまったが…。
最近のジェンダー思想の中では、外見の美を競うミスコンは女性差別、性の商品化、ルッキズム…つまり悪ということになるのだろう。主張したいことを理解できなくはないが、些か騒ぎ過ぎというか目くじら立て過ぎじゃないかなとも思う。確かに、外見というのは先天的な要素が大きいことは認める。私だって顔が不自由な方だから、美形の友人と一緒に歩くのを苦痛に感じたり、整った造形をやっかんだりしたことはある。しかし、使い古されたフレーズだが「玉磨かざれば光なし」という言葉がある。整った造形、謂わば素材に恵まれたとしても、それを磨く努力をしなければ群を抜いて光り輝きはしないのではないか。昭和時代のフジカラーのCM風に言えば、努力すれば「美しい人はより美しく、そうでない方はそれなりに」なれるのだ、多分。
「努力」という言葉を好む人は多い。私は出来ることなら無理と努力と我慢はしない人生を歩みたいと思っている。ま、思いつつもせざるを得ない状況に追い込まれているのだがw 話を戻そう。世の中で持て囃される人と言えば、学歴社会(お勉強)で勝ち上がった人、スポーツ界や芸能界(芸No人は除く)で勝ち上がった人などが想起される。いずれも「努力」の結果であろう。中には真の天才も確かにいるが、ほとんどは天性の素質を「努力」で磨き上げた秀才だ。彼らの努力は認めるのに、ミスコン参加者の「自らの美を磨く努力」を認めないってのは、
参加者を見下しているからだよね、きっと。
差別はいけないと主張する人たちが、まんまと差別しちゃっているわけだ。見事なダブスタである。
そもそも、ミスコン参加者たちは、主催者から強要されて出ているのだろうか。もしそうであれば、重大な人権侵害である。無理矢理参加させられて、人前で美醜の優劣をつけられるなんて許すべきではない。しかし、ミス○○という称号を得るために、食事や美容に気を配り、映える化粧や衣装、美しく見えるポーズなどを研究している人が自発的に参加しているのだとすれば、反対派の主張って…余計なお世話なんじゃないだろうか。それどころか、努力の結果を表現する場を奪う暴挙とも言えるだろう。
ミスコン反対派の人は、よく「外見の美だけではなく、内面の美も評価すべき」的なことを口にする。でも、人間の内面なんて簡単に分かるものではない。自分自身がどんな人間かを100%理解している人、自分の内面を100%表現できる人などいやしない。割と有名な「メラビアンの法則」では、人の第一印象の55%は視覚情報、38%が聴覚情報、残り7%が言語情報とされている。つまり、見た目と声で93%なのである。内面の美…いわば知性は7%に過ぎない。それに、その知性を量る場面はミスコン以外にもたくさんあるのだから、敢えて引っ張り出してくる必要性を感じない。
※「メラビアンの法則」だが、正しくは「人は矛盾した情報を与えられた場合、何を基準にして判断しようとするか」というものだったそうで、見た目が大事だというのは誤った解釈だとする意見(メラビアン自身も誤解されていると主張していたらしい)がある。念のため。
長々と書いたけれど、別に「ミスコン万歳! 復活させよ!」なんて言う気はない。ミスコンに出るような若い子を見て「うほっ」なんて思う時期は疾うに過ぎた。私はひねくれ者なので、何でもかんでも文句をつけて、自分に不都合なことはすぐ差別問題にすり替えてしまう昨今の風潮が嫌いなだけなのだ。
Posted at 2022/05/07 12:46:27 | |
トラックバック(0) |
爺放談 | ニュース