
一昨日から、テレビのニュースや報道バラエティでは「
知床遊覧船事故」のニュースが報じられ続けている。本来であれば、休日のよい思い出になったであろうに、遭難して命を落とした人、未だに行方不明のままの人、そしてその家族の皆さんにはかける言葉が見つからない。
ヤフーニュースを見ると、多くのコメントが書き込まれている。ただ、自分も含めてだが、書き込んでいる人間のほとんどは部外者だろう。今回の事故で家族や知人を失ったわけでもないし、観光船運航会社の社員でもない。より大きな事件・事故が起これば、この遭難事故のことなど忘れてしまうような人間も少なくあるまい。それなのに、おそらくは正義感から(のつもり)なのだろうが、色々な人を非難する攻撃的なコメントを書く人が多いのだ。非難された人間から、決して反駁されることのない場所から…。
一番多いのは運航会社を責める声だ。曰く「波風が高いのに何故出航させたんだ
?!」「どうして途中で引き返さなかった
?!」「船の管理や修繕がいい加減だったのではないか
?!」等々、どれもこれも尤もな指摘だ。でも、糾弾者はその答えを既に自分の中で出しているはずだ、
「金儲けのため」ってね。抜け駆けして他社より早く運航を始めたのは
利益を上げたかったから。波風が高い中でも欠航したり引き返したりしなかったのは
払い戻しをしたくなかったから。船の管理や修繕がいい加減だったのは少しでも
経費を削減したかったから。実にシンプルな答えだ。ただ、会社としてはそんな本音を軽々と吐けるはずもなく、自然と口が重くなる。すると「情報が少ない
!!」「誠意が感じられない
!!」「真相を告げよ
!!」と更に叩かれる。なかなかに苦しい立場だろうとは思う。もちろん自らの営業判断の誤りによるものであり、謂わば自業自得である。運航会社を擁護するつもりなど毛頭ない。ただ、社長命令で出航を強要されたのだとすれば、船長や甲板員には同情の余地がなくはないが。
ただ、中には「自分で天候判断してキャンセルすべきだった。」と乗客を責めたり、「通報から現場到着まで時間がかかりすぎだ。」と海保や自衛隊を責めたり、挙げ句の果てには「亀裂に気付いていたのなら出航を止めるべきだった。」などと
他社の社員を責めたりする輩もいるんだよね。誰かを非難しなきゃ気が済まないんだろうか。遭難した人がせめて家族の元に戻れますように…と静かに祈っていることはできないのだろうか。「ただ祈ったって意味がない」という人もいるだろうが、同様に「ただ誰かを責めたって意味がない」と思う。確かに、責任の所在を追及し、原因を究明することは同種の事故を防ぐために必要だとは思う。しかし、今はまだ行方不明のままの人が大勢いるし、船体すら発見されていない状況である。ここで誰かを責め立てて正義ごっこしていても仕方ないんじゃなかろうか。しかも、全くの部外者&門外漢が…。
閑話休題。この手の事故の際、私たち部外者は犠牲者を「○人という数値」で捉えがちだが、実際には犠牲者は数値ではなく一個の人間である。一人一人の人生があって、様々なドラマを背負っていたはずである。そのことに思いを馳せるのは大切なことかも知れない。ただ…何でもかんでもほじくり返すのはどうかと思う。もちろん、犠牲者、行方不明者の家族が自ら進んで語ったのであればいいのだが、
プロポーズ云々といった個人的なことを全国に垂れ流す必要はあるのかな…と思ってしまうのだ。生存者もいない、船も見つかっていないという状況では報じる内容が限られてしまうのは分かる。営利企業であるメディア各社は視聴者や購読者の気持ちを引きつけるため、こういったドラマをほじくり返してこなければならないのも分かる。奇跡が起こって二人とも生還すれば感動的なドラマ(サバイバーズギルト的な問題は背負うだろうが)になるかもしれないが、どちらかが、あるいは両方が還らなかった場合は、ただただ切ないだけではないか。
とにかく、まずは行方不明者の発見が第一。その次に事故原因の究明と再発防止、次は補償問題。「悲しみという名の感動」を強要するドラマ的な報道?については、少なくとも私は必要としていない。自分が当事者であれば、後悔や絶望と共に墓の中までもっていきたいと考えるだろうから。
Posted at 2022/04/25 14:16:00 | |
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