2024年01月05日
先日の羽田事故での乗客証言が記事になっていました。
生々しい感じがしました。
以下記事引用。
実家の札幌に家族で帰省していた筆者は、妻と3歳の長男、9カ月の次男に義母、兄夫妻の7人で516便に搭乗した。
私の席は28列のB席。兄が窓側のA席に座っていた。窓から左側のジェットエンジンが真横に見える席だ。
着陸態勢に入ったので何気なく窓の外を眺めていると、17時50分頃、着陸すると同時に「ドン!!!」という鈍い音とともにエンジンが爆発、火の手があがった。その瞬間はなぜか悲鳴はさほどあがらなかった。私を含め一瞬、何が起こったのかわからなかったのだと思う。しかし、直後に窓の外のエンジンが異常な燃え方をしていることに気づく。「これはすぐに逃げないと死ぬ」と直感した。
「皆さん、頭を下げて!!!」
すぐにキャビンアテンダント(CA)の叫び声が機内に響いた。筆者も他の乗客たちも頭を下げたが、すでに飛行機は完全に停止。瞬く間に焦げくさい臭いが充満してきた。「いまさら頭を下げても意味があるのか」という空気になり、多くの乗客が頭を上げて逃げる準備を始めた。
それからはほとんどアナウンスは聞こえなくなった。「キャプテン! キャプテン!」とマイクに向かって叫ぶCA。しかし、もう機内放送は機能していなかった。炎はどんどん大きくなり、機内に煙が流れ込んできた。
「大丈夫です! 大丈夫です! 席を移動しないでください!」と呼びかける声に、「早く出して!」「扉を開けろ‼」などと叫ぶ乗客。しかし、意外にも混乱は広がらなかった。乗客たちはほとんどが冷静で、扉が開くのを自席で待っていた。
■脱出後も寒空の下で1時間「待機」
扉が開くとすぐに、「荷物を持たないで外に出て!」と言われ、扉に近い順から次々に脱出シューターで滑り降りる。筆者も3歳の長男を抱えてシューターを滑り、機体から距離を置いた。少し離れたところで妻と9カ月の次男、義母、兄夫妻と合流。
「生きてた……」
家族と泣きながら抱き合い、燃え盛る飛行機を呆然と眺めていた。
しばらくするとCAから「もう少し機体に近づいて、10人単位になって座ってください」との指示。しかし、「爆発したらどうするんだ!」と乗客たちは近づくのを拒み、それぞれが散り散りの状態が続いた。
18時30分頃、「消防車のあとについて来てください」と言われ、ゾロゾロと消防車のあとをついて歩く。が、特にどこに到着するでもなく、なんとなく機体から離れた場所で待機の時間が続く。寒空の下で約1時間「待機」の状態が続いた。そこで、近くにいた女性が私の長男にタマゴボーロをくれた。長男は大喜び。また9カ月の次男にも別の女性が毛布を貸してくれようとしてくれるなど、乗客同士の優しさが身に沁みた。
外に出て1時間以上が経過。さすがに寒さの限界を迎えた18時56分にバスが到着し、バスに乗り込む。バスで人数確認などがおこなわれ、待機の時間が続いた。19時17分にバスがターミナルへ出発。しかし、ターミナル付近でまたも「待機」の指示。トイレに行きたい子どもなど緊急の人だけが先に降車してトイレへ。私と家族は19時45分にひとりひとりに配られた番号札を持ってターミナルの中へ入ったものの、ターミナル内は大混乱。何をすれば良いのかわからず、ウロウロするしかなかった。しばらくすると個人情報を書く紙が配られ、記入しながらまた待機の時間が続く。
ようやく21時半頃に番号が呼ばれ、6階のギャラクシーホールへ移動したが、こちらも大混乱ですし詰め状態。日本航空の職員から「説明がある」と言われていたが詳細の説明はないまま、22時過ぎに「今日中に帰りたい人は受付をして列に並んでください」とアナウンス。列に並び、手続きを終えたのは22時25分だった。事故発生から約5時間で帰路へつけたことを考えると、スタッフ皆さんの努力の賜物だと思う。
翌日の1月3日、日本航空から連絡があり、機内の荷物、預けた荷物のどちらも返ってこないことが告げられた。家の鍵や子どもたち2人の急病に備えて持っていた母子手帳、妻の財布などほとんどものがなくなってしまった。会社支給のパソコンも恐らく溶けて消えただろう。だが、生きていただけ良しと思うようにしなければ。
(文・撮影=中西直樹/日刊ゲンダイ)
Posted at 2024/01/05 05:31:27 | |
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