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2023年04月20日 イイね!

BSにまつわるエトセトラ その⑤;1970年代のBS RDシリーズについて(前編)


*この記事は、過去記事;
 https://minkara.carview.co.jp/userid/549571/blog/22655378/
 の続編となろうかと思います。



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 1970年代の国産ラジアルタイヤの進化は主に、①70タイヤの出現 ②スチールラジアルの普及、の2点が主だといってよいかと思います。そして70年代末に、③アドバン、ポテンザ等のスポーツタイヤ登場(*アスペック、レグノ等のコンフォートタイヤの展開は1980年以降) ④スーパーフィラー等の新技術の展開、などがみられ1980年代へと繋がっていく訳ですが、ここはRDシリーズの話ですので③は割愛いたします。




<1971-72年のうごき>

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 (「ブリヂストンタイヤ五十年史」より)

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 https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=4095&query=&class=&d=all&page=32
に記載されているように、1971年は ①1月に輸出用スチールラジアルタイヤとして「RD-170V」発売(1972年に国内販売開始。詳細後述) ②3月に「RD-101」「RD-201」「RD-301」を同時発売 ③7月に初の70シリーズラジアルタイヤ「RD-102 WIDE70」発売という、かなり目まぐるしい展開でした。


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 RD-170Vについては主に欧米市場で、ミシュラン等のスチールラジアルがその走行性能、耐摩耗性、耐パンク性などの利点から支持が広まってきたため、これに対応したものと思われます。特に当時のミシュランはZXやXAS〜XZXやXWXといった、今でもクラシックタイヤ界での流通が続く名作を次々と世に問い、一頭地を抜く勢いでしたからね・・・



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 RD-101とRD-201はどちらも扁平率82% のテキスタイルラジアルであり、なぜ作り分けを行ったのか現時点では調査不足でよく分りませんが、おそらくRD-101はチューブ対応製品と思われ、急速に進行したチューブレス化の波の中で比較的短命に終わった(1973年には終売か。1974年カタログには記載なし)ようです。



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 (画像は過去オク画像より拝借)

 なおRD-301はスノータイヤのようですので今回は割愛いたします。


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 (画像は1980年のタイヤカタログより)

 一方でRD-201は「ボクシンググリップ」と呼称される独特なトレッドパターンで有名であり、1970年代を通じBSラジアルタイヤのボトムレンジ商品として長期にわたり販売されることになります。以前のRD-10/11の欠点として「耐摩耗性」「ウエットグリップ」「硬い乗り心地」等がCGテストなどでは挙げられており、RD-101/201のブロックタイプのトレッドパターンは、おそらくウエットグリップなどの向上を狙ったものでしょう。



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 また以前の拙ブログに記した通り、ヨコハマは1969年、国産初の扁平率70 %タイヤである「G.T. スペシャル スーパーモデル70」を発売して好評を博し、BSはしばらくその後塵を拝していましたが、BSも2年近く遅れながら1971年7月に「RD-102 WIDE70」を発売、70タイヤ市場に参戦しました。

 ただしこのタイヤが「謎」であるのは、BS初の70タイヤ=(たぶん)高級タイヤとしての位置づけ、であるにもかかわらず、RD-200番台ではなく100番台なことです。
 当時のBSラジアルタイヤの番号付けは素人目によくわからないのですが、ざっくりした印象では「100番台=普及型、200番台=高級型」のようにみえますし、「ではRD-101の発展形・70バージョンとしてRD-102があるのかな?」と思いトレッドパターンを見ても、

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 全然違うパターンです・・・
 なんだかよく分かりませんが、ともあれこの「RD-102 WIDE70」、市場でも、また新車装着タイヤとしても一定の評価を得(例えば、当時セリカ1600GTV等に新車装着タイヤとして採用されているようです)、BSはヨコハマに追いついたように思われました・・・


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 追記;それでもまだまだ、とくにウエットグリップなどは十分な性能ではなかったようです(写真はCG 1976-1号、レオーネRXのテスト記事より)。




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 しかしながら敵もさるもの。ヨコハマは1972年6月頃に、国内メーカー初の一般乗用車用スチールラジアルチューブレスタイヤ「G.T.スペシャル・スチール」を市販、動的性能の高さや耐摩耗性、耐パンク性能の高さなどを謳い人気を得ることになります。
 その後のアドバンやアスペックを含め、少なくとも1980年代初めまではヨコハマが国産ラジアルタイヤの主導的地位であったといえるでしょう。



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 そこでBSは新型スチールラジアルタイヤの開発を加速させるとともに、ひとまず前述の輸出用スチールラジアルタイヤ「RD-170V」を急遽9月頃に国内販売開始し、当面これに対抗することになります。

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 (「ブリヂストンタイヤ五十年史」より引用)

 当時のBSの「日本国内には乗り心地その他からテキスタイルラジアルの方が向いている」との市場判断、および「170V」という飛び番号からしても、当初このタイヤを国内投入する予定はなかったものでしょう。
 ただしトレッドパターンなどからみてもやや古い設計年次のタイヤであり、当時スチールラジアルタイヤを好んだような若者・スポーティ派への訴求力はあまり高くなかったものと思われます(1976年頃終売)。





 2024年追記;たまたま読んだ1972年のCG誌で、240Zの標準装着タイヤとして「RD-150」という銘柄が存在することを知り検索したらeBayに出品あり。トレッドパターンは先に紹介したどのタイヤとも異なっています。まだまだ知らない事だらけですね・・・




<1973-74年のうごき>
 ここでは、①新型70・テキスタイルラジアルである「RD-105 WIDE70」の発売(73年初頭)、および前述のRD-170V の国内投入により当面の状況をしのぎつつ、②待望の新型スチールラジアルタイヤである「RD-202 STEEL WIDE70」(70タイプ。1973年後半発売)、および「RD-203 STEEL」(82タイプ。1974年初頭発売)をセールス、といううごきがみられました。


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 ①については当時のCG誌の製品紹介、およびカタログによると「リブ・パターンの採用によるロードノイズ低減」「サイプを数多く入れウェット時のブレーキ性能向上」「耐摩耗性の向上(RD-201比10~20%アップ)」等が謳われておりますが、裏を返せば既存製品においてロードノイズやウエットグリップ、耐摩耗性に対する満足度がまだ十分でなかったことが窺われます。なおRD-105はのちに扁平率82%のタイプも併売され、1980年頃終売となったようです。




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 そしてBSファン待望の②の発売。ちなみにこの「RD-202 STEEL WIDE70」というのが・・・



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 先日「何シテル?」に投稿したクイズの答えでございます(笑)。
 ♡ を連ねたようなトレッドパターンが特徴的ですね。


<追記&画像追加>




 この新商品紹介号と手持ちカタログから推測すると、RD-202は1973年7-8月頃、RD-203は1974年2月頃の発売であったと思われます。



 いずれにせよ、ようやくここで他社のスチールラジアルタイヤと同等の商品を提供できるようになり、懸案であった動的性能や耐摩耗性の改善を得られた・・・と思われたBSでしたが、スチールラジアルには別の欠点がありました。

 それが「重くて硬く、乗り心地がハードである」との評判です。特にあの当時、国産スポーティーカーに後付けラジアルタイヤを履かせるような御仁は、



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「スチールホイールより重いんじゃね?」といった、ごっつい社外アルミとの組み合わせが多かったですし、国産車の足回りも多くが固定軸やら板バネ、ラジアルタイヤに適合したコンプライアンスも取られていないサス設計で、ボディ剛性も低く、ダンパーも低性能・製造公差大、さらに道路舗装状況も今ほど良くない、といった時代なだけに、ドタドタガタガタな乗り味に不満が多かったものと予想されます。ここみんカラでも、

https://minkara.carview.co.jp/userid/1993078/car/1499826/profile.aspx

といった回顧談が検索されました。


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 追記;RD-203 についてはCG 1975-5号、GTOのテスト車に履いていた記事を見つけました。こちらも初期のスチールラジアル+基本が1970年登場の車という、スチールラジアルの装着を前提としていないサスセッティングの相乗効果によってか、相当に硬い乗り味であった模様です。





 さらに追記;当時の雑誌広告をみると、BSじしん・・・





 スチールラジアルは「NVHを若干犠牲にして」「耐摩耗性・耐パンク性」を主に追及したタイヤであり、また(世間で思われているほどの差はないけれども)テキスタイルラジアルよりはやや重い(=バネ下重量の増加によるドタドタした乗り心地になりやすい)ですよ、と正直に解説はしており、他社との競合の絡みもあって新商品を発売したものの、この欠点に関する問題意識は早期からもっていたことが窺われます。




<1975年;RD-108の誕生(7月)>

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 上記の不満の多くを軽量構造により改善させ、非常に長い生命を保った傑作タイヤ「RD-108 STEEL」についてはBS自身による解説;

https://www.bridgestone.co.jp/corporate/history/story/06_02.html

をご参照下さい。本当に、あの当時の国産車の多くに標準装着タイヤとして履かせてありましたね・・・



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 ただし一方で70スチールラジアルについては1975~77年頃の短期間に、
・RD-106
・ドリーバード(RD-205?)
・そして「黄色いゴムがタイヤを変えた」として宣伝されるも、あまり売れずに数年間で終売となったマクシール

といった複数の製品が登場、既存のRD-202と併売されるなど、やや混沌とした状況が見うけられますが、これらについてはまだ発売年次や性格づけなどに関する調査が進んでいないので、ここらで話を一旦打ち切り、後日「後編」として発表させて頂きます m(_ _)m 。


Posted at 2023/04/20 20:13:00 | BS関係 | 日記
2023年04月15日 イイね!

石橋幹一郎氏を偲んで;大正浪漫と海軍と戦争と


 (皆様、くれぐれも「イイね」付けはなさらぬようお願い申し上げます)



 しごく当たり前の話ですが、わたしは生前の石橋幹一郎氏との面識など、あろう筈もありません。
 しかしながらBSのホームタウンであるK市で生まれ育ち、親戚にもかつてのBS関係者を有し、またはじめて定期購読したCG誌であった1984-7号に、




氏のインタビュー記事が掲載され興味深く拝読した事などもあり、以前より氏のことは気になる存在でした。

 とはいえ当時は10代~20代の若造の事、氏の様々な企業・社会活動については「創業者一家の2代目として堅実に事業を発展させたけれども、あまり目立つことを好まれない地道な経営者」という印象であり、1997年の氏のご逝去後はそのお名前を耳にする事も少なくなっていったように思われます。著書・伝記の類も殆どありませんし・・・







 しかしながら、既述のように先日この本を大変面白く読了した事で、わたしは(既に歴史的大人物として揺るぎない評価と情報量を有する)石橋正二郎よりむしろ、幹一郎氏のことをもっとよく知りたいと思いました。
 とくに本書には書かれていない部分、すなわち大正生まれの氏が避けては通れなかった先の戦争との関わりに、氏の戦後の生き方・あり方を規定するものがあるのではないかと想像して・・・





 そこで氏に関する書物を調べたところ、某所にてこの追悼集を見つけ、一気に読了いたしました。



 ・・・ざっくりまとめますと、氏は「育ちの良さ」「もって生まれた多方面の才能(学力のみならず文芸・音楽・写真・美術など)」「大正生まれの上流階級の方が体現する、モダンで自由でロマンティックな感性」を有しながらも、戦前・戦中の重苦しい時代の中、「昔風の宿命を背負うて」「お国のために命を捨てる覚悟で」東大卒業後に海軍経理学校(「短現」)~海軍へと進み、戦後は父親の事業の後継者、戦後の郷里や日本の復興をめざす者としての責務・使命を全うしつつ、海軍の仲間との厚誼や、戦没者への鎮魂の思いを終生絶やす事がなかった、といえますでしょう。

 そしてあの時代を生きた方々に特有の「多くの仲間が死に、自分はこうして生き残ってしまっている」事に対するある種の羞恥心と「それを体験していない若い人々には、畢竟、そのことについて伝えるのは不可能であろう」との諦観からか、みずからの戦争体験を若い世代に広言するようなふるまいについては抑制的であったものと想像されます。




 さかしらな分析はこのくらいにして・・・わたしが齢をとったせいでしょうか、故人となって四半世紀にもなろうという方、全く面識のない方でありますのに、とくに「素顔」にみられる、学生時代のクラスメートや海軍における「同期の桜」の方々、お世話係の方々、そしてご家族の方々などによる追悼の文章に、何度となく涙腺が緩まざるを得ませんでした。

 わたしごときが書中の文章を勝手に引用するなど、誠にもって不敬の至りであるとは重々承知しておりますが・・・・



















 しかしながら氏の、戦争体験について語った文章、そして経理学校同期の方による追悼の辞について計3編、これだけはどうしても、限られた人々の間でこのまま埋もれさせてしまうには誠に忍びないと考え、この場に紹介させて頂くこと、関係者の方におかれましてはどうぞお目こぼし願いますとともに、カネと欲に明け暮れるわれわれ現代人が忘れ去ってしまった、人間の「生」と「価値」、そして「戦争」について、わたしも終生考え続けていきたいと思っております。



 「散る桜、残る桜も 散る桜」 か・・・


Posted at 2023/04/15 12:17:34 | BS関係 | 日記
2023年04月13日 イイね!

BSにまつわるエトセトラ その④;S小学校 石橋記念講堂(現存せず)について



 菊竹建築にいったん話を戻します・・・

 わたしが以前より気になっていた、今は無きK市内の菊竹建築、それが先日の拙ブログ;
 https://minkara.carview.co.jp/userid/549571/blog/46863548/

でも簡単に紹介した、
 
 
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 この建物です。

 石橋正二郎は創立150年以上を誇る同校の卒業生であり、1959年にこの講堂を新築寄贈したとのこと。この写真をみる限り、本建築の完成式典には正二郎その人も参加していたようにも見えます。

 建物の詳細写真については、

 https://gengo-matsui.musalab.co.jp/pdf/works004.pdf

にも掲載されていますが、菊竹清訓氏設計、松井源吾氏構造解析、施工工務店も大手ゼネコン等ではないものの大正時代創業で現在も存在する老舗であり、決して安普請の建物であったようには到底思えません。しかしながら・・・
によると、1990年には築31年で早くも取り壊されてしまったようです。


 ところで、一体この建物が小学校のどこにあったのか、例によって国交省の空中写真を交えて検索してみると、

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 (写真上;現在のgoogle map. 写真下;国交省空中写真1981)

 どうも写真矢印部のところであったもよう。現在、かつて講堂やプールが存在した場所にプールは90°向きを変えて作り直され、また更衣室などが建てられているようです。


 ・・・それにしても、母校の名士・歴史的偉人たる石橋正二郎が寄贈し、同じく地元出身の世界的建築家である菊竹清訓が設計したこの講堂、わたしが当時の校長やら教育委員会なら、たかだか30年ほどで跡形もなく取り壊すなんて「畏れ多くて」とてもできませんが、一体なにがそうさせたのでしょうか? 上記リンク先にはただ「老朽化」とありますが、特殊な構造ゆえの雨漏りの問題でもあったのか? 体育館兼用として使うにはサイズやつくりの問題で使い勝手が悪かったのか?  下衆の勘繰りは尽きません・・・

 おそらく当時の関係者も幹一郎氏に事前に「お伺い」くらいはたて、幹一郎氏は聖人君子(かつ多分、菊竹氏への思い入れもあまりない)な方ですので「古くなって使い勝手が悪いのであれば、どうぞ建て直して頂いて構いません」とでも仰られたのであろうと勝手に推測しますけれども、後世の者からみるといかにも「勿体ない!」と感じてしまいます・・・


 知人・遠戚に同校の卒業生がおりますので、そのうち当時の話など聞いてみたいと思います。ではでは。


Posted at 2023/04/12 19:00:47 | BS関係 | 日記
2023年04月11日 イイね!

BSにまつわるエトセトラ その③;「幻の」ラジアルタイヤ RD-20


 *以前の「予告」と一部順番を入れ替えました。


 素人が建築ネタばかり続けるのも疲れたので、みんカラらしくタイヤネタを・・・

 以前の拙ブログ;
 https://minkara.carview.co.jp/userid/549571/blog/22655378/
 に追記したように、ブリヂストンには「RD-20(ラジアル20)」というラジアルタイヤがかつて存在しました。某CG誌1970-12号、1971-1号などに、


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 インプレを行ったセリカ1600GTの装着タイヤとして、また、


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 長期テスト車のカペラに標準装着されていたRD-11のパフォーマンスや耐摩耗性が不満であったことから「ブリヂストンタイア設計部と相談して、近く発売される新製品」として提供されたリプレースタイヤとして、紹介されています。


 しかしながらこのタイヤ、「1970年末以降に発売される新製品」としては、RD-11 よりむしろ古いデザイン=RD-10の手直しレベル・チンチュラートの模倣レベルのトレッドパターンですし、

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操安性やウエットグリップ、ステアリングレスポンスなどについてもCGでの評価はあまり高くなかったようです。さらには、

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  (本写真のみネット検索にて拝借いたしました)

同時期の国内のパンフレットなどをみても、あるいは、

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「五十年史」の本文をみても、国内市販された様子がありません・・・


「ひょっとしてこれは、試作レベル or 少数生産タイヤだったのかな?」とも思いましたが、そんなタイヤが(いくらトヨタとBSとのつながりが深いからといって)メーカー広報車両にまで装着されているのはおかしいですし、なにより、

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https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=4095&query=&class=&d=all&page=29

には、「昭和44年1月発売」とあります。ということで・・・・




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 英語で検索してみますと、なんと当時のデッドストック品が海外サイトで掲載されていました! すなわちRD-20は、1969年~70年代初めにかけて存在した輸出用タイヤ(+セリカなど若干のみ、国内新車装着タイヤとしても流通?)であったようです。おそらくはRD-10 の設計をベースに耐荷重性などを強化したものでしょう。


<追記>





 同時期のCGインプレッションを見ると、他にもRD-20を履いた国産車があったようです。すなわち、同時期の国内新車装着タイヤとしても流通があった事は間違いないものと思われます。



 ただし(コーナリングフォース自体はRD-11より若干高かったそうですが)前述のようにそのパフォーマンスについて高い評価を得るには至らず、また「1970年代に入ったのに、まだこんな古くさいトレッドパターンなのかい」という今更感もあり、それでおそらく国内発売は「お蔵入り」となったのではないでしょうか?




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(石橋幹一郎氏の追悼集「想い出」より引用。幹一郎氏の経営者としての先見の明に頭が下がるとともに、当時の副社長かつ幹一郎氏の義弟としてBSの品質管理向上に尽力され、将来の社長職を嘱望されながら1976年1月に早逝された、成毛收一氏の功績も大きかったものと推察いたします)


 当時の2代目社長であった幹一郎氏は「ヨーロッパのどのメーカーも技術提携はしてくれませんでしたから」「独学でラジアルをマスターしたのです・・・技術には苦労しました。それだけに、ラジアルには思い出が深いのです。」と後年述懐されており、ひょっとするとRD-20 が国内で一般発売にならなかったのは、幹一郎氏からの発売承認が下りなかったからなのかもしれません。  



 一般的にはとうに忘れ去られたこのタイヤ、日本国内にも1本くらい残ってはいないでしょうか? ダルマセリカの最初期型・1600GTのトヨタ博物館所有車、あるいは個人所有車でもスペアタイヤなどに残ってやしないか、ちょっぴり気になるところですので、どなたか追加情報を期待しております・・・ではでは。

Posted at 2023/04/11 17:55:01 | BS関係 | 日記
2023年04月08日 イイね!

BSにまつわるエトセトラ その② ;BS/石橋家の「後援」こそが、菊竹清訓氏を世界的建築家ならしめた(後編)


 (前回の続きです)


 <その他の建築物件について>

・久留米医大基礎学教室(1956. 現存せず)

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 https://minkara.carview.co.jp/userid/549571/blog/45597097/
 にて紹介済みのため詳細は割愛いたします。




・母子寮(1953?1956-57? 現存せず)

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 写真引用先の資料によると、母子寮は今でいうシングルマザーとその子供の保養施設であり、元々瀬下町にあったものが火災に遭ったため昭和28年野中町(現在の文化センター共同ホールの地)に移転、昭和55年国分町に再移転するまで使用されたとのこと。ここに石橋正二郎は2回にわたり建・増築資金を寄贈したとされています。
 写真の建物を菊竹氏がデザインしたかどうかは不明ですが、いわゆる「ローコスト住宅」やそのリフォームなどを手がけたという事なのかもしれません。


<追記>

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 どうやら、1957年に増築された建物が菊竹氏設計のようです。それが上掲の写真のものか否かは現時点では情報不足でわかりません・・・なお本建築については後年の、

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SD誌にて紹介されているようですが現時点では入手/閲覧できておりません。
また母子寮自体は上述のようにBSと直接関連はない施設のようです。


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 さらに追記;1966年の「35周年 会社概況」に石橋文化センターの空撮写真がありました。黄色で囲った建物が、もしかしたら「それ」なのかもしれません。「五戸」という建物数も合致しているようですし・・・




・久留米商業高校講堂(1956年. 現存せず)

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 これも事務所に設計図が残っていたようです。
 ちなみに久商は石橋正二郎の出身校で、この建物も正二郎の寄贈によるもの。

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 わたしは久商の沿革に疎く今まで知りませんでしたが、上に紹介したものと同じ書籍によると、久商は明治~昭和24年までは東櫛原に、次いで昭和24~47年まで「現 えーるピア久留米」のある諏訪野町に存在し(=本建築は同所に存在したもの)、47年に久商が現在地に移転の後は、

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 元 陸軍偕行社の建物を利用していた久留米市公民館が、久留米学園の同地への移転に伴い取り壊されたこともあり、

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昭和48年~平成13年まで、元 久商の建物を利用する形で久留米市中央公民館として利用されていたのだそうです。国交省の空中写真でみると、少なくとも体育館は後年まで再利用されていたようですが、勿論現在では跡形もありません・・・・。なお、
 https://cocomi.cotton-time.jp/features/40.html
によると、昭和46年建設の現在の久商の体育館も「正二郎氏を中心とした有志が建設・寄付したもの」なのだそうですが、菊竹建築とは無関係のようなので今回は割愛させて頂きます。


<写真追加&解説追記>

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 「25周年」と「30周年」を見比べると、両者とも同じ写真にもかかわらず、前者では「大」が講堂、「小」が武道場との説明ですが、後者では逆になっています。中央公民館に関する引用文献まで含め考えれば、「大」が講堂(兼 体育館)、「小」が武道場という事(=「25周年」の方が正しい)なのだろうと思います。



・石橋社長軽井沢別荘、およびBS軽井沢3人の家(年式不詳)

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 写真もなく詳細不明ではありますが、少なくとも前者については新築物件というよりリフォームの類と思われます(石橋正二郎は戦前より軽井沢に別荘を構え、とくに戦時中は軍の横槍を嫌って軽井沢に引きこもりがちであったという史実もあります)。後者については「30周年 会社概況」に掲載されていた「軽井沢山荘」というのが、正二郎自身の別荘にしては簡素な印象、かつ写真でみるに複数の建物からなるようであり、これに該当するように思われますが確証はありません・・・




・BS旭町商店街(城南マーケット ? or 生協マーケット?)

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 詳細不明にて菊竹建築との確証もないため写真のみ掲載しておきます。


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 追伸;上掲の生協マーケットは「社宅地区内マーケット=城南マーケット(現在は”グリーンフィールズ” として上屋は残存)」とは異なり、工場敷地内に存在していたもののようです。デザイン的に「生協マーケット」の方は旧軍 or 進駐軍のカマボコ兵舎の転用物件のような趣であり、まだ「城南マーケット」の方がモダンではありますが、前者が菊竹初期の「木造リフォーム物件」だと言われれば否定もできず、真偽のほどは不明です。



<未調査物件>


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・U邸(1956-58):比較的珍しい苗字からすると、BSの幹部であった方の私邸でしょうか?

*2025年追記;

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 この作品集によりますと、U邸の建築主はやはり、当時BSの幹部であった方で間違いなさそうに思われます。屋根の形状などは後のスカイハウスや「京都信用金庫」の支店群を髣髴とさせますし、何より今更ながら気づいたのですが・・・

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 この作品紹介には「家具 井上猛」と(わざわざ)特筆されています。

 んん? 「家具 井上猛」+「BS」といえば・・・・アッ!!!


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  (写真は https://response.jp/article/2023/10/08/375696.html よりキャプチャーしました)

 プリンスの名車、スカイライン・スポーツや1900スプリントで有名な、あのお方ではありますまいか!!
 本建築を印象付ける雨戸など、もしかしたら井上氏の手によるものかもしれませんね。しかもしかも、

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 この斎藤らの論文によれば、本作品は現存している可能性がありますし、もしそうであるとすれば、これはもう是非、藤森大先生あたりに探訪して頂きたいものです・・・



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・水戸BSビル(1958)、東京・市ヶ谷にあったらしいBSセールスビル(1959)、BS埼玉エバーソフト(1960)などは、現時点で写真を確認できておりません。


 *追記;市ヶ谷のBS社屋については、Google Map で検索すると、

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数年前まで外堀通り沿い・新見附橋付近に存在していたようです。ただし写真の建物はどうみても1980年代以降のもの。普通ならここで諦めるところでしょうが、「市ヶ谷 昭和」をキーワードとして画像や動画を執念深く(苦笑)検索したところ・・・

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 https://www.youtube.com/watch?v=JDB4ZE-hIgs

 この動画の2分55秒〜3分5秒あたりに、それらしい建物を見つけました!

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 この当時は、右側に縦書きで「ブリヂストン」、左上にBSマーク、真ん中にタイヤの広告が書いてあったようですね。別にどうということもない建築ではありますが、ひとつスッキリしました(笑)。



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・その他、1958年に竣工した久留米保健所(かつて合川町に存在)も、菊竹建築であったようにどこかで聞いたような気がするのですが、ソースがはっきりせず確認がとれておりません。

*2025年追記:さきに紹介した
 https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/88/804/88_707/_pdf
の論文によれば、

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やはり旧・久留米保健所は菊竹建築で間違いなさそうです。

 さらに追記;偶然発見した、

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 この書籍によれば、「福岡県建築部営繕課」の設計となっております・・・
 基本設計を菊竹事務所で行った後、図面等を県に引き継ぎ、細部設計や施工監督を県で行ったという事なのでしょうか? もう少しリサーチできれば良いのですが。。。




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・K医大 看護婦宿舎というのは、わたしの大昔のうろ覚えな記憶では、〇で囲んだこの建物であったような気がするのですが、全く自信はありません・・・そのうちリサーチしてみます。

*2025年追記;どうにもしつこい性分ですので(苦笑)色々検索したところ、

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 このような書籍を発見・確認しました。やはりあの建物(写真⑬)が当時の看護婦宿舎であり、後年になり(看護学生寮として増築されていた)屋上(4階)部分の木造プレハブを撤去、看護婦宿舎としての機能は隣に建設された(写真⑭)建物に移され、建物全体を看護学生寮に転用された後、1990年代のはじめに取り壊されたようです。
 さらに言えば、この建物全体が「菊竹デザイン」であるとは到底思いがたく(当時のうろ覚えですが、とても古典的なデザインであったような記憶があります)、「菊竹デザイン」はむしろこの・・・

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建物全体のデザインとはかなり異質な、4階の木造プレハブ部分(のみ)ではなかったかとも思われます。初期の菊竹ワークスはBS関連の木造・リフォーム物件が中心であったことは有名ですし、石橋正二郎は当時のK大学理事長でもありましたので、話の整合性は十分ありそうですが、いかがでしょうか・・・

 さらに追記;さきに紹介した、
 https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/88/804/88_707/_pdf
の論文によれば、

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わたしの推測は間違っていなかったようです♪。





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・その他K市内の物件では、H内科医院、K邸などが詳細不明のままです。前者については当時の建築雑誌に掲載されていたようですので、そのうち発掘できれば・・・と考えております。

*2025年追記;

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 この作品集によれば、久留米市内に建てられた菊竹氏の個人向け住宅というのは(おそらくご親族のための)赤枠の物件のみのようであり、「K邸」とはこれを指しているものと思われます。かなり後年の作品だけに、ひょっとしたら現存の可能性もあるかもしれません。そのうちリサーチしてみようと思います。




 <追記>

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 BS関連ではありませんが、1960年代の菊竹建築の名作・代表作の1つともいえるT寺納骨堂。物件が物件なのでかなりの画像処理をしたため見にくい写真で恐縮ですが、現状はかなり老朽化が進行しており、またほぼ一般非公開のようです(写真は敷地外より撮影)。市が助成金を出してでも補修・保存する価値のある建築だと個人的には思っておりますが、色々難しいのかもしれません・・・



 <2024年追記>

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 この「BSタイヤゴルフクラブ」、おそらくは鳥栖の現・ブリヂストンカンツリー倶楽部」を指しているものと思われますが、


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 1957年完成の初代クラブハウスなのか・・・


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 1965年竣工の2代目なのか、私には分かりません。時期&デザインテイスト的には初代の方が菊竹建築、2代目は他社のように思われますが・・・




 <推察>「もしかしたら・・・」な物件について

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 1967年、石橋正二郎の寄贈により竣工したK大学医学図書館(氏は当時の大学理事長でもあったそうです)。昭和38年に氏がBS会長職となり、社長の座を息子の幹一郎氏に譲って以降、菊竹-BSのつながりは急速になくなっていきます(その理由は色々と考えられますが「下衆の勘繰り」となりそうですのでここでは省略)が、正二郎氏個人の寄贈によるこの建物は、
・柱による垂直性の強調
・張り出された談話室
・段差や階段による高低感の表現
などの点が、当時の館林市庁舎や(菊竹事務所出身の建築家による)北九州ユースホステルなどとの関連を(個人的な印象ですが)感じられ、また、
・一方で、1階部分のレンガ風タイル張りにより「正二郎好み」をさりげなく取り入れるなどした「手練れ」さ
・当時は、菊竹建築である上述の基礎学教室と渡り廊下でつながっていたこと
などとあわせると、これが菊竹建築である可能性はないでしょうか・・・

 専門の方にご調査・ご教唆頂けると幸いですm(_ _)m 。  

 
 <追記> 同時代の建築物に、

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というものがあり、なんとなく雰囲気は似ています。この設計者は丹下研出身、当時KS大学工学部建築学科の助教授だった方とのことで、F県の大学つながりという事も含め、もしかしたらこの方の設計かもしれませんし、菊竹スクールの若手のどなたか、あるいは単純に企業系(例;松田平田など)によるものかもしれません。もう少し調査してみたいと思います・・・



 <結語>
 以上、BS・石橋家・K市関連の初期の菊竹建築について私見を添えてまとめてみました。
 これらの建築物の中には、石橋文化センター美術館や国立青年会館、殿ヶ谷アパートに代表される、作家性を表現したもの=「表・菊竹建築」も若干数存在するものの、千栄禅寺や久留米教育会館などに代表されるように、石橋正二郎/BSの意向に沿って己のカラーを消した建築=「裏・菊竹建築」が大半を占めます。このような建築物件を数多くこなしていくことについては当時の菊竹氏自身、

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といった葛藤もあったようですが、しかしながらそれら多数の物件をこなしていくことにより、氏のスキルアップ(と安定した収入・生活)につながり、氏が世界的建築家に飛躍する一助となったのかもしれない・・・と考えると、それもまた興味深いものがあります(終)。

Posted at 2023/04/08 08:28:32 | BS関係 | 日記

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何シテル?   05/14 19:43
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