ずーっとスポーツカー好きだった僕が、40代半ばでランドローバーに目覚めたのか?
それにはちゃんと流れがありました。
本日は、購入を考え始めるキッカケ迄を、思い出し記録したいと思います。
僕が最初にランドローバーに興味を持ったのは、5歳の叔父の家での事。
早くに亡くなった札幌に住む叔父が、僕に乗り物趣味の芽を植え付けた最初の人でした。
彼は、輸入ミニチュアカーとレールゲージのコレクターでした。
彼は幼い僕に、フェラーリやランボルギーニやロータス等を刷り込んだ犯人です。(笑)
そんな叔父が、洋書を開いて「これ凄いんだぞ欲しいんだ」ってしきりに言っていたのが、白いレンジローバーでした。
その刷り込みは、『三つ子の魂』ってヤツで、今でも僕の心に残っているんです。
そんな叔父の他に、競技に出ていた叔父もいまして、キャブ調整やチューニングなんかも身近な事でした。
そして家業の一つが今で言う「温泉スパ」みたいな温泉ホテル業でしたので、当時の風呂なしアパートな若者が自慢のスポーツカーで風呂に入りに来てました。
学校から帰ると、夕方くらいから当時のスポーツカーが展示会の様に並ぶのです。
気になるクルマ在れば、持ち主のお兄さんが風呂から上がって来るのを待つだけです。
「お兄さんのイチバン格好いいよ、乗せて」って言えば、みんなホイホイ乗せてぶっ飛ばしてくれました。
だから、昭和の40・50年代の代表的なスポーツカーの乗り味は、身体に染み込んでいるんです。 ^^v
そして自分がクルマの免許が許される年齢になる頃には、スポーツカーに夢中でとりあえず「フェアレディZ(S30)」を愛車に選び大学出るまでに3台乗り継ぎました。
クルマに関しての青春は、S30Zとチューニングでしたね。
でもね、大学生活を過ごした街にも何台かのレンジローバーは在りまして、たまに見掛けると「何時かは」って考えていたものです。
その後暫くは、身分不相応な洋モノのスポーツカーにハマリまして、車高の高い系とは縁遠く年齢を重ねました...
たまたまMini屋の修行に、丁稚奉公で勝手に住み込んだ『ガレージミニ』さんで、シリーズ物の整備に触れる事になりました。
ただ、レンジ(金持ちクルマ)は好きでない社長でしたので、触れるのはシリーズ物かディフェンダーばかりです。
Miniの作業の合間に、手の空いた者が、ランドローバーの作業をするのです。
そうそう初めてフォワードコントロールを見たのも、ここの在庫車でした。
とにかく躊躇せずに何でもガンガンバラシちゃうのが、このお店の芸風です。
色んな作業をしながら感じたのは、シンプルで作業し易い考えられたクルマだと言う事。
それと英国物は、錆び落としが大変という事を学びました。
実は、「ガレミニ」のK社長の所に「ランドローバー・マガジン(日本物)」のKプロデューサーさんが出入りされていた縁で、創刊間もない「LR誌」の記事に携わる機会もありました。
それは、創刊2号での記事で「北海道で朽ち果てたシリーズ2を発見!なんと再生計画が進められるという...」のを、お手伝い。

これは実家の近所のスクラップ屋に並んでいた、自分が欲しくて狙っていたブツでした。
当時、丁稚でお世話になったガレミニのK社長から、「何でもいいからネタ協力すれ」との事で記事になったものです。
写真の隅に、ワンカット写っていたりします。
その後、ガレミニでこの取材車のS2ピックを、バラす作業を手伝う事になりました。
この時に、古いランドローバーの品質の高さと設計の面白さを、うかがい知る出来事に遭遇したのです。
その①は、全く腐れていないアルミのボディパネルです。
それまで乗り継いだ数十台の古い欧州のクルマ達は、どれも金属腐食との戦いでした。
そんな経験から、海岸の牧場で潮風に吹きさらしで使われていたS2ピックの腐食の殆ど無いボディに、驚きと興味が湧いたのです。
だって、古いイタリア車やフランス車のレーシングモデルのアルミボディでさえも、腐っているのを何台も見ていましたから...
そしてその②は、紙細工なのか?と感じる程の軽いボディーパネル。
ドアAssyを取り外した時に一本指でぶら下げれれるその軽さは、江戸川区某所の工場で持たせてもらったパリダカ用のパジェロ用カーボンドアパネルと変わらぬ重さだったのです。
そしてその③は、キャビンのルーフパネルを取り外す時の出来事です。
8mmか6mm程度のボルトナットで固定されているのですが、その痩せ細った古いボルトが丈夫な事!
いつもの調子で折ってしまおうとしても全く折れず、潤滑スプレーを吹きかけながらスパナ2本で力任せにまわし続けるしかないのです。
キーキーではなくギーギーと音を発しながら、煙を上げて最後までボルトナットの仕事を果たすそのクオリティには、涙さえ出るほどでした。
結局は、数十本の痩せ細ったボルトは殆ど折れる事無く、ただ体力と時間を僕から奪ったのです。
もちろん、他の箇所のネジ類も同じく素晴らしいクオリティで、皆をテコズラシテくれたのは言うまでもありません。(笑)
それらの経験は、子供の頃の亡き叔父の言葉と相乗効果で、ランドローバーを更に強く意識させてくれるのでした。
ただし、その丁稚の頃のメインの作業は、毎日のクイック作業に3日に一台くらいのペースで成約される『全バラシのフルオーダーミニ』の製作です。
1100cc、1275cc、1380ccなどのチューニングMiniがウジャウジャ組まれる環境でしたから、意識はやはりMiniです。
横目でオリジナルクーパーやジェムやマーコスを眺め、自分も何か「ゲテミニを手に入れよう」なんて毎日思っていました。
当時、工場の二階には広い事務所と仮眠室があり、社長のKさんも単身赴任で住んでいました。
そこの隅の小部屋に勝手に寝具と荷物を持ち込み、丁稚奉公と言う居候をしていました。
毎晩の夕食時には、社長と工場長と3人での、ミニ・ランドローバー談義です。
社長は根っからの英国車修理屋気質で、工場長はツインカム・マーコスや数台のLRシリーズモノを乗り継ぎ現在はフォワードコントロールを楽しむ超マニア。
そんな中に置かれた僕は、どんどんとLRの魅力に染められていきました。
そして丁稚住み込みも中途の頃、一台の注文・完成車のS3の90を小樽のフェリーふ頭にドライブする事になったのです。
この短なドライブが、ランドローバーに目覚めるキッカケとなりました。
実はこの日はトンでもない冬の嵐の日、昼間に雨が降り夜に風雪が強まり鏡の様に磨かれた路面にサラサラのパウダースノーが10cm程積もったのです。
あまりの悪天候に、札幌の主要幹線道路もガラガラの一日です。
そんな状況の中、札幌市内の工場から小樽のフェリーふ頭まで、納車のドライブです。
搬送トラックでは、辿り着けないだろうとの判断で自走に決まりました。
もしものエンジンストップに対応出来るように、ハイラックスサーフとパジェロが部品と工具とロープを積んで同行です。
インターチェンジまでの道もツルツルで、加速も出来なきゃブレーキも効きません、そんな状況でした。
新雪の積もったゲレンデの様な高速道路に3台で乗り込み、雪煙を巻き上げながらの走行です。
真っ直ぐ走るのもオッカナビックリのツルツル路面にサラサラ新雪です、もうオットット運転でした。
1分後には、サポートの2台は後方の遠い雪煙の中です。
それでもS3は、ほぼ全開に近い90km/h位で新雪ゲレンデと化した高速・札樽道を走ります。
車内では、社長のKさんと「もっと重い車重だと、スタッドレスが食い付くんだろうね」なんてランドローバー談義で盛り上がっておりました。
しばらく走り、後方のサポート2台の事が気になり、SAでトイレタイム。
しかし数分待っても現れないんです、心配になって電話を掛けようとしている所にとても高速道路では許されない様な速度で2台は現れたのです。
因みに2台を待つ間、一台もクルマは通りませんでした。(ほぼ僕らの貸切状態の高速です)
やっとSAで追いついた2台のドライバーは、「真っ直ぐにも走れない、何度も駒の様に回りました。社長の走りは狂っている!」と... (笑)
確かにツルツルで走り難い路面状況でしたが、我々のS3はいちをほぼ最高速で走れたのです。
フェリーの時間の件もアリ、2台には事故らぬ様にフェリーふ頭で合流と約束して別れたのです。
その後は、また快調にツルツルを感じながらも、順調にクルマを走らせました。
合流後に、夜食を食べながら「ライトウエイトと設計バランスの凄さ」で盛り上がったのです。
その時の体感が、「ランドローバー凄い!」「ランドローバー欲しい!」に段々となって行く事になるんです。
現実的に、その後ショップを開いた自分は自分のクルマ趣味の時間は無くなり、暫くはまた頭から消える事になるんです。
しかし、ガレミニで感染したウイルスは、ジッと潜伏しているのでした。
②へ、つづく