
※このブログは70年前、沖縄のアメリカ海軍艦船へ向かって、飛び立った日本陸海軍のパイロットの冥福を祈って書きました。
執筆が止まっていた岩本記録の検証ですが、沖縄編の最後として、沖縄特攻作戦の真実を掲載します。本社勤務の忙しさによって岩本記録の執筆が止まっていたのですが、特攻作戦という重い現実の前に筆が重くなっていたのも事実です。
コウカプが尊敬するノンフィクション作家澤地久枝さんが「滄海よ眠れ」を執筆された際、ミッドウェー海戦の日米全戦死者の確認(日本3,057名、アメリカ362名)という偉業をされましたが、その時のご苦労が、少しだけ解るような気がします。
また、九州勤務時代に、横浜‐福岡の2重生活や母の入院で金が無く、金が掛からない趣味として始めた岩本記録の検証ですが、調べを進めるうちに、専門書を何冊も買い込んだので、結構金もかかりました。せっかく調べた沖縄特攻作戦の真実ですし、日本陸海軍の操縦士が沖縄へ向けて飛び立ったのが、ちょうど70年前の今の時期です。鎮魂の意味込めて、いくつかの項目を紹介します。量が多いので2回に分けて紹介します。
・アメリカ海軍機動部隊の戦力
まず、アメリカ海軍側の記録について、昭和20年4月1日~30日の一ヶ月間で、アメリカ海軍の艦載機の損失が記録された空母は、正規空母9隻、軽空母7隻、護衛空母24隻の計40隻でした。空母は戦闘航海となると、艦載機に戦闘消耗だけでなく運用消耗(事故・故障による喪失)も続出するのが常です。オン・ステージにありながら、全く艦載機に損失を出さなかった空母も存在したかもしれませんが、あったとしても極少数でしょう。戦闘に参加していた空母の数として、40隻は実態と大きな隔たりは無いと思います。大戦時のアメリカ海軍機動部隊と言えば、エセックス級の大型空母を連想しがちですが、沖縄戦に関しては、24隻も参加していた商船改造の護衛空母が果たした役割も大きいと思います。アメリカ側の記録を見ると「シャムロック・ベイ」「ルティヤード・ベイ」だの「ウィンダム・ベイ」だの、聞いたことの無い空母の名前が(お前が不勉強なだけや!)いくつも出てきました。
正規空母の搭載されていた戦闘機はF6FやF4Uですが、商船改造の護衛空母は大型の新型機を搭載する事が出来ず、旧式で小型のF4F(正確にはGMで生産されたFM-2)を搭載していました。
F4Fでは、流石に新型の紫電改や四式戦疾風と戦うのは厳しいでしょうが、重い爆弾を抱えた旧式の特攻機の迎撃であれば、F4Fでも十分戦力となったのでしょう。標準的な護衛空母(カサブランカ級7,800㌧)はF4Fですが、護衛空母の中で、大型タンカーを改造して建造されたサンガモン級のみ排水量が11,400㌧と軽空母並みでしたので、正規空母と同じF6Fを搭載していました。
また、アメリカ海軍艦載機の数を推測すると、搭載機数を正規空母90機、軽空母45機、護衛空母28機で計算した結果、正規空母810機、軽空母315機、護衛空母672機、合計1,797機でした。大戦末期のアメリカ海軍機動部隊は特攻機対策のため、爆撃機や雷撃機の比率を減らし、戦闘機を増やしていたので、戦闘機が6割だとすると、戦闘機の数は1,078機となります。沖縄特攻作戦中、日本陸海軍航空隊が最大限の航空機を出撃させたのは、4月16日の特攻・直援合わせて520機でした。一見すると520機に対して2倍の1,078機の戦闘機と、アメリカ海軍が有利に見えますが、1,078機を一度に全機上空に上げられる訳ではありません。また、日本軍の特攻機は九州の基地からだけでは無く、台湾の基地からも来襲しますので、アメリカ海軍機動部隊指揮官としては、艦載機は何機あっても足りないという心境であったのでしょう。もっとも、第32軍が水際戦を行わず、4月1日の沖縄戦米軍上陸初日に早くも飛行場を占領されてしまったため、4月8日には米軍機が沖縄の飛行場に進出し、特攻機の迎撃に加わっています。大本営は上陸初日に飛行場を奪取された事に不満だったようですが、現地部隊の作戦指揮は現地軍司令部に任せていたので、どうしようもありませんでした。特攻機の直援機は米海軍機動部隊の戦闘機だけでなく、沖縄の飛行場から出撃する敵戦闘機の迎撃を排除しなければならず、直掩隊の隊長の苦労がしのばれます。
・250㎏と500㎏
レイテ海戦の時、最初の特攻隊として出撃した神風特別攻撃隊敷島隊は、零戦に250kg爆弾を搭載して出撃した事は有名です。
それに対して、沖縄戦の時に特攻機として出撃した零戦は250㎏爆弾装備と500kg爆弾装備が混在しています。
同じ零戦なのにどうして爆弾の大きさ異なるのか不思議でした。搭乗員の立場からすれば、文字通り命と引き換えに敵空母の甲板に叩きつける爆弾なので、少しでも威力が大きい方を望んだと思います。
記録を詳細に確認したところ、21型が25番(250㎏爆弾)を装備し、52型が50番(500㎏)を装備した例が多いようです。22型や32型は昭和18年に生産が中止となっていましたが、航続力の長い21型は使い勝手が良かったのか、中島飛行機で昭和19年2月まで生産が続けられていました。
昭和20年4月からの沖縄戦の頃も、まだ多数の21型が残っていたのでしょう。零戦は胴体下に懸吊装置があり、通常はそこに330㍑入りの増槽を装着します。ガソリンの比重は0.75なので、330㍑のガソリンの重量は247.5㎏となり、増槽本体はそれ程重量があるものではないので、増槽と25番を装着した状態はそれ程変わらないと思います。それに対して、50番装備だと250㎏のオーバーで、かなりの過積載という事になります。21型のエンジンは栄12型940馬力、52型のエンジンは栄21型1,130馬力と52型の方が200馬力近く出力が多いので、52型は50番の搭載が可能だったのでしょう。そう思って、敷島隊の出撃時の写真を改めて見てみると、確かに使用機は21型でした。(21型は機首部分が52型に比べ短く、機銃穴が溝状になっています。また52型であれば、エンジンカウルから排気管が後方に向けて出ています)21型は25番、52型は50番が基本であったようです。ただ、21型も一部50番装備で出撃した例もありましたので、21型でも後期に生産された型は、比較的まだ新しく調子の良い機体は50番装備が可能だったのかもしれません。
ちなみに、陸軍機は両翼に懸吊装置があり、200㍑の増槽を2個装着する形でしたので、特攻時には片翼を増槽、もう1方を250㎏爆弾を装備した例が多いようです。これだと、離陸時は良いですが、沖縄方面まで飛行した際は増槽内の燃料が無くなって、左右のバランスが崩れて、操縦し辛くなっていたのではないでしょうか。
・エセックス級空母のタフネスさの理由
特攻作戦が始まったフィリピン戦や硫黄島戦では護衛空母と言えど、アメリカ海軍の空母撃沈が記録されていますが、沖縄戦ではアメリカ海軍の特攻機対策が充実した事により、アメリカ海軍空母の撃沈はありませんでした。しかし、沖縄戦の前哨戦たる昭和20年3月19日の呉空襲の際に、アメリカ海軍空母エセックス級空母フランクリンは日本海軍機の攻撃により大破しています。また、昭和20年5月11日には、アメリカ海軍機動部隊旗艦であった空母バンカーヒルが、特攻機の攻撃により大破炎上しています。
両艦供艦載機が誘爆して大きな被害を被り、戦後空母として現役に復帰することなく廃艦になっています。修理不能となる程の損害を受けても、沈まずにアメリカ本土まで帰還できたのは、ダメージコントロールの優秀さもさることながら、飛行甲板や格納庫が炎上しても、その被害が缶室や機関室まで及ばず、自力航行が可能だった事が大きいと思います。その点、同じように被弾して艦載機が誘爆し、缶が消えて動力を失い、消火ポンプも動かなくなり、火災が手に付けられなくなって、撃沈されたミッドウェーの日本空母と異なります。

写真はミッドウェー海戦で炎上する空母飛龍です。
では、何故フランクリンやバンカーヒルは、大火災を起こしても缶室や機関室が無事だったのか?それはエセックス級空母は格納庫の床でもある第1甲板に64㎜、その下層の第4甲板に38㎜の装甲を入れていた事が要因です。
空母の設計者にとってみれば、飛行甲板を装甲化するのが理想であったでしょう。イギリス海軍のイラストリアス級や日本海軍の大鳳級は飛行甲板を装甲化しています。但し、飛行甲板を装甲化すると重心が高くなり、その分格納庫スペースを低くしなければならず、艦載機の数が減少してしまうという、致命的な欠陥があります。大鳳は前級の翔鶴級が84機搭載しましたが、大鳳は53機しか積めませんでした。
イギリス海軍のイラストリアスに至っては搭載機数33機と軽空母並みでした。
これに対し、エセックス級空母は、飛行甲板は木製のままとして、第1甲板と第4甲板に2重で装甲を入れています。
つまり、エセックス級は飛行甲板から格納庫までの防御は諦めて、格納甲板から下の缶室や機関室を防御すれば、空母を守れるという、割り切った設計であったのでした。第1甲板と第4甲板の装甲はフランクリンやバンカーヒルは爆発した爆弾の被害の防止だけでなく、艦内の気密性を保つ事にも有効だったようです。
消火のために格納庫に入れた大量の海水を、片舷へ注水して艦を傾けさせて、海水を抜いている様子が写真に残されています。こんなことが出来るのは、格納庫に入れた海水が缶室や機関室に流れ込まないよう、気密性が保たれていた事の証明だと思います。艦載機の爆弾の連続誘爆という同じ状況ながら、日本海軍空母とアメリカ海軍空母の設計思想の差が見て取れます。ちなみに、空母バンカーヒルが神風特別攻撃隊第七昭和隊の安則盛三中尉と小川清少尉の突入により大破炎上したのは、今から70年前の今日です。
その2に続きます。
追伸 最近日本海軍の軍艦の写真をネットで検索すると、軍艦の写真より女の子のイラストの方が多く出てきます。
数年前は、こんな状況は考えられませんでしたが。別に、ゲームであろうが、アニメであろうが、人様の趣味にとやかく言う気はありませんが、日本海軍の艦に乗って、艦と伴に死んでいった多くの男たちがいた事は忘れないでいて下さい。