
零戦の有名な撃墜王であった坂井三郎氏はかつてインタビューでこう答えています。「空戦の戦果とは、その大半が誤認です」大戦中ドイツ空軍の戦果認定は自己申告を認めず、必ず僚機の確認が必要とされ、味方占領地域の撃墜であれば地上部隊による確認も出来ました。厳格な国民性もあってか、ドイツ空軍の戦果報告は比較的信頼出来ますが、日本やアメリカの空戦戦果報告は過大である場合が多いです。実戦果の4倍~6倍が多く、ひどい時には10倍以上の誤認戦果を報告しています。今回は日本海軍撃墜第二位の岩本徹三氏の回顧録の検証を行いますが、大東亜戦争における同氏の戦った主だった戦域はインド洋、珊瑚海海戦、ラバウル要撃戦、トラック要撃戦、関東地区要撃戦、九州特攻直援・要撃戦等多岐に及びます。本来であれば時系列で報告すべきですが、全てを確認するのは困難ですの確認が取れた物から順次紹介していきます。今回は九州地区要撃戦より、志布志湾におけるB29単独撃墜を紹介します。大戦中の空中戦はそのほとんどが編隊空戦であり、岩本氏もその大半を味方機供に出撃しています。単独で出撃したのは昭和20年3月24日の夜間偵察等僅かな例しかありませんが、昭和20年4月28日に単独で鹿児島基地を出撃してB29を撃墜しています。これには理由があって、敵大編隊接近の報を受けて岩本氏が真っ先に出撃したのですが、誤報であるとの連絡があり、他の機は出撃を取りやめたのですが、岩本機の無線にはその連絡が届かなかったそうです。ところが、結局B29の大編隊がやって来て、岩本氏の零戦はたった一機で突入しました。上空から垂直背面攻撃で真っ逆さまで敵の編隊へ突っ込み、あまりに近すぎたため、右翼の一部が接触して無くなったそうである。一時的に操縦不能となりましたが、2000m付近で機体を立て直し、敵機を見るとすでに高度を失っており、黒煙を吹きながらよたよた飛んでおり、ついには志布志湾の海面へ不時着したとあります。着水した機体から乗員が脱出し、哨戒艇が全力で墜落地点へ向うのが見えたとあります。ここまではっきり描写されているので、これが誤認とは考えにくいと思います。そこでアメリカ側の記録を見ると、前日の4月27日に志布志湾にてB29(機体番号44-69888、第314航空団39爆撃群所属)が墜落。機長のBenjamin L.POWELL中尉など8人が死亡。とあります。日付は一日早いですが、アメリカ陸軍航空隊がアメリカ時間で記録を取っていたのであれば、一日時間が早くなりますので状況はぴたりと一致します。気になるのは米軍の記録よれば3名はアメリカ海軍の潜水艦に救助されるとありますので、日本の哨戒艇より早くアメリカの潜水艦の方が早く着いたのでしょうか?いずれにせよ岩本氏の記録の中で、自分が初めて確認出来た戦果です。日本の戦闘機が複数で体当たりしても落ちなかった例もある難攻不落のB29を一撃で落とす所は、やはり岩本氏は凄腕のパイロットであったといえるでしょう。写真は鹿屋基地資料館の零式戦です。
Posted at 2011/10/20 22:30:31 | |
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