
岩本徹三氏の回想録によれば、昭和20年3月末からの九州・沖縄方面の戦闘について、B29単独撃墜以外にも、3/26 F4U×1機、4/6 F6F×3機、4/7 F4U×3機、4/15 F6F×4機、4/16 F6F×1機4/28 F4U×1機、合計13機(機数が明確に表記されていない日もありますので、文中からの推測を含みます)の撃墜を記録しています。一方、インターネットで公開されているアメリカ海軍航空隊の記録について、この時期の喪失機の墜落地点表記は九州方面の場合は「KYUSHU」としか記載されていない場合が多く、具体的地名が解らないので、照合は困難と思われました。ところが、4/16の記録には空母イントレピッド所属の艦載機が「KOKUBO」で大量に喪失したとあります。数えてみると、F6F×8機、F4U×10機、FG-1D(グッドイヤー社で生産されたF4U)×4機、TBM×10機、SB2C×9機の計41機にも及びました。当然このKOKUBOとは鹿屋と並んで海軍特攻隊の主力出撃基地であった国分の誤記と思われます。そこで、岩本記録を確認してみると、4/16の記述では鹿児島基地・国分基地周辺の戦闘でF6Fを撃墜しています。また、この日は鹿児島湾上空で味方の紫電と供に戦い、紫電が敵機を撃墜するのを目撃したとあります。この時期に鹿児島方面に配属されていた紫電と言えば、当然鹿屋の343空の紫電改隊です。343空の公式記録は防衛研究所には残されていません。そこで横浜実家の書庫から引っ張り出してきた、碇義朗氏の「紫電改」という本に343空の行動記録が載っていたので確認してみると、この日32機で喜界島へ進攻しF6F及びF4Uと交戦、20機撃墜、未帰還10機とあります。喜界島からの帰還途中に鹿児島湾上空で空戦となったのであれば辻褄が合います。紫電改の未帰還10機とはかなりの損害ですが、343空は前日の4/15に撃墜70機の杉田庄一上飛曹が戦死していますので、343空の搭乗員は杉田上飛曹の弔い戦のつもりで奮戦したのでしょう。(それにしても同じラバウルで活躍してた日本海軍第二位と第三位の撃墜王が鹿児島基地と鹿屋基地で同じ時期に同じ空で戦っていた事は興味深いです)米軍の記録の墜落地点国分は、当日の攻撃目標を表しているので、国分基地を中心として鹿児島湾上空で空戦が行われたのであれば、岩本記録・米軍記録・343空記録が一致します。「この時期敗北続きの日本海軍航空隊も、この日だけは日本側の勝利は間違いなく、岩本氏のF6F撃墜も可能性が高い」と最初は結論付しようかと思いました。しかし、どうもしっくりしないのです。エセックス級空母の搭載機数は最大100機程で、イントレピッドは3/18~4/13の期間で既に49機を喪失しています。空母艦載機という物は全機出撃させる事は無く、攻撃を受けた時の迎撃用に戦闘機は必ず何機か残す筈です。イントレピッドの国分で41機喪失とは、出撃した飛行隊を全滅させた事になり、いくら新鋭機紫電改も参加したとは言え、落日の日本海軍航空隊にそんな力があったとは思えません。そんな思いを抱いていたのですが、ふと「そう言えば空母イントレピッドって、沖縄戦の時に特攻機の直撃を受けていたよな。あれっていつだっけ?」と思い立ち、実家書庫から時事通信社「ドキュメント神風」を福岡へ持って来て調べた所、やはり4/16でした。根本的な事を調べていませんでした。米海軍の記録は特攻機の攻撃で炎上した艦載機は「DECK LOSS-KAMIKAZE」と記されていたので(例えば5/11の空母バンカーヒル等)、作戦で出撃して喪失した機体とはきちんと区別されていると思っていました。米海軍の記録が怪しくなってきたので、特攻機の攻撃を飛行甲板に受けて、艦載機の炎上が確認出来る空母で、米海軍記録にデッキロスの記述が無い空母があるか調べてみました。すると、昭和20年2月から5月の硫黄島・沖縄戦の間だけでも、2/21空母サラトガ5/4護衛空母サンガモン、5/14空母エンタープライズ等複数出てきました。これらの空母はいずれも飛行甲板上で炎上した艦載機の姿が写真で確認出来ます。イントレピッドの41機喪失は、特攻機によるデッキロスを含めた数字である可能性が高くなりました。イントレピッドの写真は飛行甲板を修理中の姿や炎上する姿を遠景で撮影した物はありましたが、4/16の攻撃で失われたと確認できる艦載機の写真は見つかりませんでした。(撮影日不明の写真では焼かれたSB2Cが写っていましたが。)米海軍の記録担当官が出撃による損失と、デッキロスの機体を全て国分にて損失として記録してしまったようです。米海軍の記録も結構ええかげんです。その後相当調べましたが、イントレピッドは4/16の特攻機突入により戦死8負傷21の人的被害を受けた事。被弾後3時間で応急修理が完了し、艦載機の着艦が出来るようになった事。イントレピッドはこの日以降沖縄戦の戦列を離れ、サンフランシスコで5/19~6/29の間修理を行ったこと。8/6にウェーキ島に対日戦最後の攻撃を行い終戦を迎えた事などが解りましたが、4/16にデッキロスで失った機数は確認出来ませんでした。4/16に失った41機中、デッキロス数を引いた機数が鹿児島上空の日本海軍の戦果となりますが、デッキロス分の機数が解らない以上、結果的には不明のままです。米海軍の戦闘詳報は1件10㌦払えばメールで戦闘詳報の写しを送ってくれるそうですが、アメリカのクレジット払いなので躊躇しています。ただ、4/16の岩本氏のグラマンF6F撃墜の戦果は米海軍の記録が無いわけではないので、誤認とも言えないと思います。岩本氏の記録を照合する作業は、例えるなら、ピースの大半が失われたジグソーパズルを、拾う事の出来るピースをひとつひとつ繋いで画の一部でも解るようにする作業に似ています。昔モデルグラフィックス誌で宮崎駿氏が「雑草ノート」を連載していた時に『この記事には資料的価値はありません、従ってプラモの参考にもなりません』と記していましたが、その気持ちが今の自分には良く解ります。推測の上に推測を重ねていくと、何が真実か見えなくなりそうです。と言う訳で、昭和20年4月16日の岩本氏のグラマンF6Fの撃墜の可能性は現時点では5分5分としておきます。引き続き他の記録を検証していきます。写真は旧日本海軍国分基地、現在の陸上自衛隊国分駐屯地の写真です。
Posted at 2011/11/30 19:40:52 | |
トラックバック(0) | 趣味