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2014年12月31日 イイね!

啄木鳥戦法は無かった?

啄木鳥戦法は無かった?年末年始のお休みに入り、時間が出来ましたので、秋に実施したものの、未整理のままだった『川中島の戦い現地確認』のデータを整理しました。

川中島の現地確認は10月でしたので、日本海蟹食いツアーとは前後しますが、せっかくなので紹介します。

今回はコウカプにしては珍しい戦国ネタです。

最初は武田軍の陣地であった海津城へ。



お城と言うと、熊本城や姫路城のような大きなお城を連想しがちですが、海津城はそれ程大きな城ではありません。戦国期の城は全国で5万か所程あり、現在の日本で言えば、コンビニと同じくらいの数でした。従って、大規模の物は少なく、大半が小さな城か、砦に毛の生えたくらいの規模でした。



無論現在の松代城(旧海津城)は当時の城と陣容は異なるでしょうが、規模はそれ程変わっていないでしょう。



海津城の城内を見て思ったのは「本当にこの程度の城で、武田軍2万の全軍を収容出来たのかな?」という疑問でした。

海津城は武田家の重鎮であった高坂弾正の居城です。高坂氏直属の手勢はせいぜい2,000名くらいでしょう。2千人用の城に槍で武装し、甲冑姿の武田全軍2万名が押し寄せたわけですから、全員収容出来たとしても、寿司詰め状態だったのではないでしょうか?



海津城から妻女山を見るとこんな感じです。



続いて、上杉軍の陣地であった妻女山へ。予想以上に険しい山でした。



展望台には合戦図が設置されていますが、かなり劣化しています。展望台からは川中島周辺が一望出来ます。上杉謙信がこの場所に陣を敷いた理由が良くわかりました。武田軍が昼間動きを見せたら、すぐに察知できたでしょう。



残念ながら、展望台からは雑木が茂っていて、海津城が見えません。海津城から上がる炊事の煙を見て、謙信は今宵武田軍が動くことを見破ったとされますが、同じ光景が見れなくて残念でした。大河ドラマで風林火山を放送していた頃は長野市も力を入れていたのかも知れませんが、ひび割れた合戦図や、伸び放題の雑木を見ると、せっかくの観光名所なのに残念な感じがします。



実際に妻女山に登ってみて分かったのは、かなり険しい山であり、ここを武田の大軍が夜間移動して奇襲をかけるのは不可能だということです。一般的に1561年の第4次川中島の戦いで流布しているのが、海津城にこもる武田軍と妻女山に布陣する上杉軍とでにらみ合いが続く中、武田の軍師山本勘助は武田軍2万を12,000の別動隊と8,000の本体に分け、別働隊が妻女山へ奇襲をかけ、上杉軍を八幡原へ追い落として、本隊と挟撃する作戦を立案しました。啄木鳥が穴にこもる虫を穴と反対側をつついて、驚いて穴から出てきた虫を食べる姿と似ていることから、啄木鳥戦法と言われています。山にこもる敵を、山の麓から攻めては、敵は山の陣地にこもって防戦するだけです。山から追い落とすには山の稜線を進んで、敵と同じ高さから攻める必要があります。武田軍は海津城に一番近い山の部分から山に入り、妻女山方面へ向かっています。



ちなみに、第4次川中島の戦いがあった1561年9月10日は旧暦ですので、新暦では1561年10月28日です。10月28日の月齢は、満月後5日目で半月よりいくらか大きい程度でした。天候が晴れならば、ギリギリ松明無しで、大軍が移動できる状況であったと思われます。川中島の戦いの朝は霧が立ち込めたと言われています。霧が出たと言う事は、前の日に晴天で温められた地表の水分が、朝の冷気に接して水蒸気状になったと言う事ですので、前日の天候は良好だったのでしょう。ただし、移動が出来たとしても、大軍が山の稜線を夜間移動する場合、稜線の細いルートを通るしかありません。傾斜が緩やかな山なら、頂上から中腹に広がって一挙に攻める事が出来るかも知れませんが、妻女山程険しい山では、山中で12,000名の大軍が広がって攻めるのは無理でしょう。例えばコウカプが育った小学校はクラス40人程で3クラス6学年720人程でしたが。それでも校庭に全学年集合したら、それなりにスペースを取りました。それが、武装した12,000名の大軍となれば、かなりの規模です。
山中に広がって一斉に攻撃するのは不可能ですし、稜線沿いに進んで、細い列で少人数ずつ攻撃しても、上杉軍を追い落とす事は出来ません。現地調査をする限り、武田軍の啄木鳥戦法は無かったのではないか?と判断します。啄木鳥戦法や軍師山本勘助は武田の軍記物語「甲陽軍鑑」が元ネタですので、軍記物の創作なのでしょうね。



妻女山からスイスポ号で八幡原古戦場へ。



八幡原には社や史跡公園があります。



入り口にも合戦配置図があります。



公園内には、風林火山の旗や、



有名な銅像があります。



信玄に切りかかる、



謙信が僧形ですが、謙信が出家したのは1574年なので、第4次川中島の戦いのあった1561年は普通の甲冑姿であった筈です。信玄・謙信一騎打ちは創作とも言われていますが、一騎打ち自体は事実かフィクションか、確認は取れていません。特保のお茶のCFではありませんが、謙信は高血圧でかっとなる性格であったと言われているのと、激戦で謙信自ら太刀を抜いて戦った記録はのこっていますので、あながちフィクションとも言えません。

結局川中島の戦いは、啄木鳥戦法は無く、越後方面へ撤退しようとした上杉軍が霧の中で武田軍と出会った遭遇戦だったのでしょうね。山本勘助が啄木鳥戦法を提案したとするのは江戸時代に出版された甲陽軍鑑だけであり、軍記物だけに資料性は低く、最近までは山本勘助の存在自体が疑われていました。最近発見された文書によって、どうやら山本勘助の存在自体はあったようですが、武田家の軍師であったかどうかははっきりしていません。少なくとも、現地の地形を見る限りは、妻女山に対する啄木鳥戦法は不可能です。



八幡原の古戦場公園から少し離れた千曲川河川敷には、山本勘助のお墓があります。



これも勘助の本当のお墓ではないのでしょうね。川中島合戦の直後に造られた、本当の勘助のお墓なら、こんな洪水の時に水に流されそうな河川敷には作らないでしょう。江戸時代に甲陽軍鑑が評判になってから、山本勘助の人気を受けて作られた物なのでしょうね。



川中島の検証が終わった後、せっかくここまで来たので、善光寺へお参りしました。川中島の戦いの際は、善光寺に荷駄隊を中心とした上杉軍の後衛部隊が駐留していたので、あながち川中島の戦いと無関係と言う訳でも無い。



ちなみに、善光寺のシンボルでもある正面の門って上に登れるのですね。知りませんでした。参道が一望出来ます。

いずれにしても、かねてから行いたかった、川中島の現地調査が出来て良かったです。



関係ありませんが、この調査中、ふとスイスポ号の走行計を見たら、11111のぞろ目でした。

今年も残すところ、3時間弱です。今年一年、コウカプのくだらないブログをご覧下さった全ての皆様へ、深甚の謝意を表しますと伴に、来年もよろしくお願い致します。

コウカプ
Posted at 2014/12/31 21:17:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行/地域

プロフィール

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何シテル?   03/25 21:50
180SXとカプチーノを愛する独身男です。ブログは車と関係ないコアな航空や戦史・美術関係の話も多いです。釣りや家庭菜園もやります。犬も大好きです。
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