
この文章はコウカプの雑草ノートであり、推測や妄想によって成り立っています。従って、資料的価値はありません。
今回は量が多くなったので、2回に分けます。
岩本徹三中尉の記録を調べていますが、昭和20年4月7日の記録には「この日の特攻出撃は爆装戦闘機30機、彗星艦爆10機、銀河5機計45機を303飛行隊、311飛行隊の各戦闘隊60機の直掩で出撃、総指揮官は311の田淵大尉であった」とあります。時事通信社ドキュメント神風によれば、この日の海軍特攻隊出撃記録では爆戦30機、彗星11機、銀河12機の計53機、陸軍特攻隊は1式戦4機、99式襲撃機16機、100式司偵2機の計22機とされています。出撃した時間の記載はありませんが、時系列を検証してみますと、4月7日の日出は5:59です。夜明けと共に出撃したのであれば、鹿児島から沖縄までは約650㎞。この日の特攻機は爆戦(爆装零戦)彗星・銀河ですので、97艦攻、99艦爆等速度の遅い旧式機が含まれていなかったので、巡航300㎞で飛んだとして片道2時間余り。空戦や集合の時間も含めればおよそ往復6時間~7時間です。岩本中尉が鹿児島基地に帰還したのは12時過ぎであると思われます。岩本記録にはこの日の特攻直援は「援護するので手一杯で、特攻機の戦果を確認する事はできなかった。特攻搭乗員に申し訳なかった」とされています。戦果も僅か4機で303飛行隊は26機帰還、2機は種子島に不時着、2機行方不明とあります。
「攻撃から帰って、一服する間もなく大和からの敵艦載機40・50機来襲の報に接し、直ちに出撃したが、坊の岬260度100㌔付近に駆けつけたが既に大和の姿は無く、F4Uが40・50機旋回していた。大和の供養にF4U3機撃墜した」とあります。この日大和以下第二艦隊が沖縄目指して出撃していました。米海軍機に捕捉され攻撃が始まったのが12:40頃、大和沈没が14:23です。岩本記録には時間が書かれていないので、この先は自分の推測ですが、大和から鹿児島基地への救援要請が13:00過ぎに届いて、補給・搭乗員を集合・離陸に30分。鹿児島基地から大和沈没地点までは200㎞くらいですので、時速400㎞で飛んだとして30分。ちょうど岩本中尉の零戦隊が到着したのは大和が沈没した直後であったと思います。この日は天候が悪く、2000mから1000mくらいまでに雲があり、視界不良であった事が記されています。
実際、米軍から撮影された写真を見ると、雲が低く立ち込めている事が分かります。大和の対空射撃が振るわなかった理由の一つは、この日の天候にあると思います。米軍機にはレーダーが装備されていますので、雲に遮られても日本艦隊の位置は把握出来ますが、対空射撃用レーダーの無い日本艦は目視による射撃しか出来ません。1000m付近まで雲が立ち込めていたのであれば、米軍機は雲を隠れ蓑にして思い思いに日本艦を攻撃出来た事でしょう。
物理的に考えてみても、1000mの雲から飛び出してきた米軍の急降下爆撃機を爆弾投下前に撃墜するには、急降下角度60度、投下が300mと仮定した場合、三平方の定理(懐かしい!)により飛行距離は1118m、距離が急降下速度が600㎞であれば、一秒間に166m進むので、300m到達までは4.9秒。3連装25㎜機銃で撃墜しようとすれば、25㎜機銃の発射速度は1秒間に3発なので、2.9秒で完全に照準を合わせ、2秒間に3発×3門×2秒の18発の弾丸で落とさなければならないことになります。ちなみに96式25㎜3連装機銃の重量は1800㎏であり、高級車一台分くらいあります。いくら対空用とはいえ、ハンドルで操作するのに2・3秒では間に合わなかったでしょう。25㎜機銃は3連装より単装の方が命中率が良かったと言うのが、理論的にも分かったような気がします。実際に大和の機銃員であった人の回想録を読んでも、「敵機の数が多すぎて、照準を合わせる余裕が無く、ただ、発射ペダルを押していただけだった」と記されています。
また、回避運動の観点からもこの日の天候は不利であったと思います。光人社から出版されている「艦長たちの太平洋戦争」という本には、大和元艦長松田千秋少将、長門元艦長兄部勇次少将、伊勢元艦長中瀬泝少将、日向元艦長野村留吉少将のインタビューが記載されています。いずれも昭和50年代に各艦長が存命中に記録された物ですが、各戦艦艦長がレイテ海戦における爆撃回避運動について語っています。共通しているのは「鍵の効きが悪い戦艦であっても、対空見張りを厳重にして、敵機が急降下に入ったタイミングを見計らって舵を切れば攻撃を回避出来る」としている点です。また、防衛省防衛研究所にはレイテ海戦時の戦艦伊勢の戦闘詳報が残されています。(沈んだ大和の戦闘詳報は13ページでしたが、生還した伊勢の戦闘詳報は当たり前ですが記述が多く、100ページを越えます)直撃弾無で撃墜44機を記録しています。無論戦果には誤認があるでしょうか、戦果3機の大和とは10倍以上の開きがあります。また、意外な事に撃墜戦果44機中主砲で撃墜したのが12機もあります。実際日本ニュースの映像を見ても主砲をぶっ放す伊勢の映像が記録されていますが(第232号の3:02付近)戦闘詳報にも「今回の成果に鑑み、実撃の効果に加え、敵に与うる精神的の脅威大なるのみならず、味方に対しても発砲音が艦内各配置に於いてしく心強く感じたりと一様に言う点を見て、士気振作上精神的効果大にしてその価値大なるものと認む」とあります。
やはり戦艦は主砲を発射して何ぼなのだなと改めて思います。雲に遮られて敵機の姿が視認できず、3式弾が発射出来なかったのも大和の戦果が上がらなかった一因と思われます。
岩本徹三撃墜記録その⑤ 昭和20年4月7日戦艦大和仇討その2に続きます。
Posted at 2012/06/29 21:07:00 | |
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