
この文章はコウカプの雑草ノートであり、推測や妄想によって成り立っています。従って、資料的価値はありません。
その1の続きです。
この日、米海軍の記録では、米海軍艦載機の損害はF4U×8機、FG-1D×3機、F6F×17機、SB2C×5機、TBM×7機 合計40機です。艦載機の損失が記録されている米海軍空母の数は10隻で、各空母の損害は1機から5機程度ですが、空母ハンコックのみF6F×15機、F4U×3機、FG-1D×1機の計19機と1隻だけ損害が異常に多いです。これは怪しいと思い、時事通信社ドキュメント神風の記録と照合すると、やはり空母ハンコックに特攻機の直撃の記録がありました。空母ハンコックの損害の大半は特攻機によるデッキロスと思われます。岩本記録によればF4U3機撃墜との事なので、米海軍損害のF4Uの8機とFG1-Dの3機計11機のうちのどれかと言うことになります。ただ、この日午前中に行われた特攻機の直援機との交戦で撃墜された可能性もありますし、第二艦隊の対空砲火に撃墜された可能性もあります。日本海軍機は艦船攻撃の場合、艦爆・艦攻が担当し、艦上戦闘機が参加する事はありませんが、(艦爆・艦攻が攻撃するのを見て、堪らず、機銃掃射した例はありますが)この頃の米軍海軍艦載機の艦船攻撃方法は
①戦闘機が機銃掃射・ロケット弾により対空銃座の機銃員をなぎ倒す。

②爆撃機による爆撃により対空銃座を完全に破壊。

③雷撃機による魚雷攻撃で止めを刺す。

という物でしたので、戦闘機が第二艦隊攻撃に参加し、対空砲火によって返り討ちにあった可能性も否定できません。正直岩本機の戦果として断定は出来ませんが、当時米軍機は日本海軍艦艇を撃沈した際に、撃沈後海に漂う生存者に対して機銃掃射するのが常套手段でした。「大和が沈んだと思われる付近には40・50機のF4Uがアブがたかるように低く飛んでいた」と岩本記録には記載されているのは、まさしく海に漂う第二艦隊の生存者に対して機銃掃射していたF4Uと思われます。生存者に対する機銃掃射をしていたF4Uを撃墜したならば、岩本中尉は同胞を救った事になります。

無論この日も多数の戦闘機が戦闘に参加していますので、岩本機の戦果と確定できませんが。
それにしても調べれば調べるほど、この作戦は第二艦隊司令部や第二水雷戦隊の無念さが目に見えるようです。以前防衛省防衛研究所に残されている大和の戦闘詳報を紹介しましたが、大和の護衛にあたった第二水雷戦隊の戦闘詳報も防衛研究所に残されている事が分かりました。第二水雷戦隊旗艦矢矧も撃沈されましたが、司令官古村啓蔵少将、矢矧艦長原為一大佐は供に生還していますので、第二水雷戦隊戦闘詳報は92ページにも及びます。
写真は攻撃を受ける矢矧

それによれば、「今次突入作戦に於いては、整備不十分のみならず、訓練を殆ど実施することなく出撃するの已むなきに至れり」「水雷戦隊の工事は緩急工事順位第5位とさだめられあり、工事進捗せず配員も交代し、駆逐艦砲術長にして射撃を実施せざる者数名あり」レイテ海戦以降、日本本土に帰還した損傷艦は修理された筈ですが、駆逐艦の優先順位が5番目だとは知りませんでした。戦艦や巡洋艦の修理や空母の建造の方が優先されたのでしょう。また、燃料不足により訓練も殆ど行われていなかったようです。砲術長でありながら、射撃を実施した事のない者がいた事は、呆れるほどです。従来の「歴戦の雪風や優秀な防空駆逐艦である冬月や涼月によって編成された大和護衛の精鋭駆逐戦隊」といった従来のイメージが覆され、実際には傷つき、疲れ切った艦隊であった事が伺えます。駆逐艦朝霜が機関故障により艦隊から落伍し、単艦となった所を攻撃されて沈んだのも、修理・整備不足が理由であったように思えます。
本隊と離れて沈んだので、朝霜の乗員326名中、生存者は皆無でした。

また、人事上にも疑問が残ります。第二艦隊の司令長官、司令官、司令、艦長、の全15名中10名がレイテ海戦以後の昭和19年11月以降に着任しています。せっかくレイテ海戦において、貴重な対空戦闘を経験した指揮官が異動してしまっていて、その経験を生かす事が出来なかったようです。
話が岩本記録から第二艦隊の方へそれてしまったので、岩本記録の検証へ戻しますと、岩本記録には大和爆沈時の煙を見たとは記されていません。大和弾薬庫の爆発なので、かなり大きなものであった筈ですが、目撃されていないとすれば、この日の雲量はかなり多く、少し離れると雲に隠れる状態だったのでしょうね。事実残された写真では爆煙は雲に届いています。

大和戦闘詳報の戦訓には「戦況の逼迫せる場合には兎角焦燥感にかられ計画準備に余裕無きを常とするも特攻兵器は別として今後残存駆逐艦等を以って此の種の特攻作戦に成功を期せんが為には慎重に計画を進め事前の準備を可及的綿密に行う要あり。『思い付き』作戦は精鋭部隊(艦船)をみすみす徒死せしむるに過ぎず」とあります。
写真は沈没直前の矢矧

また、第二水雷戦隊の戦闘詳報には「特攻部隊の使用においては、如何に九死に一生の作戦にありても目的の完遂に於いては最も合理的にして且つ自主的なる如く細密なる計画の下に極力成算ある作戦を実施する要あり。思い付き的作戦或いは政略的作戦に堕し、貴重なる作戦部隊を犬死せさしめざる事特に肝要なり」とあります。戦闘部隊の戦闘詳報に「思い付き作戦」や「徒死」「犬死」という言葉が使われるのは前代未聞です。海軍高官もいわば官僚です。能村副長も古村司令官も大和副長や第二水雷戦隊司令官に任じられる程の人ですので、決して出世コースから外れていたとは思えません。大きな海戦の戦闘詳報は当然海軍上層部の目に触れます。上部組織の連合艦隊司令部が立てた作戦を罵倒すれば、出世は無くなります。出世を投げ打っても罵倒せざるをえなかった能村副長や古村司令官の無念が記録の裏に見えるようです。

いかん、岩本記録の検証と言いながら、結局戦艦大和と第二艦隊の検証となってしまった。どうも日本海軍を調べる者にとって、大和は特別な思い入れを想起するようです。
このブログを見て、戦闘詳報原文に興味を持たれた方(いないか)はご参考までにアクセス先を載せておきます。
関連URL「国立公文書館アジア資料センターHP」にアクセス。
軍艦大和戦闘詳報 レファンスコード「C08030566400」を入力。
第二水雷戦隊戦闘詳報 レファンスコード「C08030103200」を入力。
次は、残りの昭和20年4月から5月までの沖縄特攻直援の岩本記録の検証します。
Posted at 2012/09/10 21:46:51 | |
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