
門司港ネオクラシックカーフェスティバルの後は、北九州市にある日本海軍の駆逐艦を埋め立てて造られた防波堤と、B29に体当たりして散華した日本陸軍航空隊パイロットの慰霊碑を見に行きました。
まず、北九州市若松区にある軍艦防波堤へ行きました。

この防波堤は、大戦を生き延びた日本海軍駆逐艦「冬月」「涼月」「柳」を、戦後昭和23年に防波堤として埋め立てて造られました。

最近作られたらしい説明版がありました。

3艦の内、柳は大東亜戦争開戦前に現役を退いていましたが、冬月と涼月は激戦に投入され、戦艦大和の沖縄出撃の際は護衛駆逐艦として活躍しました。

写真の手前が冬月で遠景が大和です。

坊ノ岬沖海戦の際、冬月は比較的軽い損傷で済みましたが、涼月は艦首部分が大破し、前進では水圧で隔壁が圧潰する可能性があったので、後進で戦闘海域から佐世保基地へ奇跡の生還を果たしました。写真は涼月の戦後の姿です。

冬月と涼月は完全に護岸の部分に埋没していて確認出来ませんが、防波堤にある柳は船体にコンクリを充填して防波堤とした構造が良く解ります。

冬月や涼月が埋まっているのはこのあたりの筈ですが、今は全く解りません。

また、港近くにある高塔山公園には3艦の慰霊碑がありました。

慰霊碑の手前には柳の繋柱が置いてありました。戦艦大和の沖縄出撃の記録を調べた者として一度訪れなければと思っていたので、冬月と涼月の慰霊碑に手を合わせられて心の荷が一つ下りました。

次に昭和19年8月20日アメリカ軍B29による八幡空襲の際、陸軍双発戦闘機屠龍でB29に体当たりして散華した野辺重夫軍曹と高木伝蔵兵長の慰霊碑を探しましたが、なかなか見つからず、線路際にようやく案内標識を見つけました。

この戦闘の模様はオスプレイ軍用機シリーズの「B29対日本陸軍戦闘機」に詳細が載っています。

野辺機はB29先頭機に体当たりして撃墜し、さらに飛び散った破片で後続機をもう一機撃墜しましたが、野辺軍曹と高木兵長も戦死されました。日本本土防空戦におけるB29に対して初めての体当たり攻撃であり、一度の体当たりで2機落とした稀有の例でした。防弾に優れたB29は複数の日本戦闘機が体当たりしても生還した例が多数あります。

思っていたより立派な慰霊碑が建っていました。

碑文は野辺機が所属していた第4戦隊の飛行長で後のB29要撃戦で有名となる樫出勇大尉による物でした。こちらにも手を合わせる事が出来ました。
Posted at 2013/05/21 23:01:22 | |
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